ブログトップ

Blog | Hiroaki Ooi

WINDS CAFE 233 【オンドマルトノ・カフェ】

c0050810_632545.gif2016年5月22日(日) 午後3時開演(午後2時半開場)
入場無料(投げ銭形式)
カーサ・モーツァルト http://casamoz.org/ 東京都渋谷区神宮前1-10-23 3階
JR「原宿駅」竹下口 徒歩5分/東京メトロ千代田線・副都心線「明治神宮前駅」5番出口 徒歩2分

※当日は、楽器実演、奏法解説、試奏タイムの他、「Ondomo」(4オクターヴオンドマルトノ)の即売会も行います。5月22日当日ぶんに限り、定価18万5000円のところを特別価格15万円で頒布致します(先着順10台まで)。予約・お問い合わせは浅草電子楽器製作所(mailto: naoyukionlyone[at]aol.com)まで。

FBイベントページ https://www.facebook.com/events/772759959490400/

長谷綾子(オンドマルトノ/ピアノ) 大井浩明(オンドマルトノ/ピアノ) 尾茂なおゆき(レクチャー)


▼プログラム

c0050810_9483721.jpg●D. ミヨー(1892-1974):《オンドマルトノとピアノのための 組曲》(OM長谷 Pf大井) 12分
Darius Milhaud : Suite (1932)
Ⅰ Choral Ⅱ Sérénade Ⅲ Impromptu Ⅳ Etude Ⅴ Elégie

●O. メシアン:《ヴォカリーズ・エチュード》(OM大井 Pf長谷) 4分
Olivier Messiaen:Vocalise-étude (1935)

●O. メシアン(1908-1992):《未刊の音楽帖 オンド・マルトノとピアノのための4つの小品》(OM大井 Pf長谷) 9分
Olivier Messiaen: Feuillets inédits

●E. ミカエル(1921-2006):《2台のオンド・マルトノのためのアラブの歌》(オンド二重奏) 3分
Edward Michael:Chant Arabe pour deux Ondes Martenot (1956)

●長谷綾子:《ラーガ・ビンプラシー》(オンド二重奏) 7分
Ayako Hase:Raaga Bhimplasi pour deux Ondes Martenot (2016、初演)

●一柳慧(1933- ):《月の陶酔》(OM大井) 8分
Toshi Ichiyanagi:Intoxicant Moon (1991) 

●一ノ瀬トニカ:《Electric Trail》(OM長谷) 4分
Tonika Ichinose:Electric Trail (2014)

●T.ミュライユ(1947- ):《ガラスの虎》(OM大井 Pf長谷) 7分
Tristan Murail:Tigres de Verre (1974)8分

●A. ピアソラ(1921-1992):《リベルタンゴ》(OM長谷 Pf大井) 3分
A. Piazzolla:Libertango (1974)4分

 「オンド・マルトノ カフェ」は、私が5年前に浅草で始めたカフェでアートをはじめ音楽を愛するいろいろな方々の集いのサロンで、音楽を聴きながらワインを飲みながら話しの輪、音楽の輪、友達の輪を広げ、そこでオンド・マルトノを紹介する事でもっと多くの方々にオンド・マルトノの魅力を知っていただこうとするものでありました。それを浅草から飛び出し発展させようとする企画がこの度の第1回「オンド・マルトノ カフェ」で、ちょうどタイミングよく新しい楽器Ondomoの量産版が完成し、事実上Ondomoの完成披露パーティーになりました。
 私が1999年に初めてオンド・マルトノに出会い、その魅力にとりつかれ、オンド・マルトノの研究、開発をして来て16年、今回のOndomo完成に至るまでを隠す事なくお話しする中で、オンド・マルトノの魅力、今後の発展を皆さんに理解して頂き広めていきたいと思っています。今まで私がオンド・マルトノを通じて出会った演奏家の中で、今回のOndomo開発にいろいろな助言を頂き協力していただいた大井浩明氏と、私と16年間共にオンド・マルトノの研究と開発に精魂費やして来られた長谷綾子氏お二人をお招きして、最大限にOndomoの魅力を引き出していただこうと思います。
 演奏とレクチャーの後は皆さんにOndomoを実際に試奏していただき、質問があれば演奏家の方々も交えお答えしたいと思っています。もしも気に入っていただいた場合、その場でお持ち帰りができるように、演奏した楽器とは別にOndomoを数台ご用意してお待ちしています。Ondomoは4オクターブのminiキーボードですが、音色はもちろんの事、操作性は全てオリジナルのオンド・マルトノを再現いたしました。
 是非、この機会にOndomoに触れられてオンド・マルトノの魅力を発見していただければ幸いです。(尾茂なおゆき)



▼プロフィール

長谷綾子 Ayako HASE, Ondes Martenot/ Piano
  新潟大学教育学部大学院修了、ロンドン王立音楽院(RAM)で学ぶ。ピアノを佐藤辰夫、フランク・ウィボーに、作曲・音楽理論をロイ・ティード、マシュー・テイラーに、音楽学を横坂康彦に師事。2000年、風呂本佳苗とのピアノドゥオ公演を東京・名古屋・神戸・長岡で開催、翌年、英ジャパン・フェスティヴァルに参加、イギリス4都市にて公演。
  1999年、オンド・マルトノに出会い、原田節に師事。2001年よりオンド独奏・重奏のほか、ピアノや声、サンプラー、ダンス、朗読等との共演を展開し ている。2005年、米良美一が武満徹を歌ったアルバム《ノスタルジア》に参加。2006年~2010年、インド・デリーに滞在し、ガザル歌手サティッシュ・バッバルよりインド古典音楽を学ぶ一方、CD《詩人ミルザ・ガーリブへの我が発現》等の作品では協働作業も行った。近年では、岡田千香子(声)や一ノ瀬トニカ(ピアノ)と共演し、一ノ瀬トニカ《PRANA》(2007)、同:《Electric Trail》(2014)等を演奏している。

尾茂なおゆき Naoyuki OMO, Ondes Martenot Luthier
  東村山市出身。幼少時代プラモデル作りに熱中し、6歳で全輪駆動タイプの自転車を作る。小学校時代は毎日秋葉原に通い、ラジオやテレビ、電気自動車作りに挑戦、絵を描く事も得意で絵描きを目指し、いろいろな展覧会に作品を出品していた時期もあった。中学時代、アメリカンフットボールに目覚め、プライベートチームより多数の試合に挑みプロフットボールプレイヤーを目指すが、本物のプロフットボールプレ イヤーを目の前にし、あまりの体の違いに気づき、そこ頃目覚めた宝石に目がくらみ、自身でジュエリーデザインを始め、高校を卒業後ジュエリー製作会社を設 立し、香港、タイ、インド、アフリカ諸国、南米コロンビアに進出し手を広げる。しかし見た目の美しい宝石と裏のビジネスとしての汚さに、1995年に全てを整理し、ビジネスからは一切手を引いた。それまでビジネスのかたわら趣味で自動車レースにヨーロッパ等で参加していたが、1995年以降、イギリスで本格的にF3レースに関わりながら一念発起してオリジナルレーシングカーの製作を始める。1999年、国内はじめてのカーボンコンポジットによるF3オリジナルシャーシーを発表し、XOレーシングチームを静岡県御殿場に立ち上げ、全日本F3選 手権に参戦する。シャーシーからギアボックス、エンジンまでもオリジナルを作り、立ち上げたXOレーシングチームをレースの最高峰F1チームにのし上げる ために奮起したが、開発時間と資金不足のため、2002年、レース活動に終止符を打った。
  1999年にコンサートで出会ったオンド・マルトノに、断念しかけた物作りの最高峰であるF1の道を感化させ、オンド・マルトノの研究に 入り、2004年、その成果ともいうべき完成した真空管タイプの6octを持ち、オンド・マルトノの創設者モーリス・マルトノの息子ジャンルイ・マルトノ の門を叩いた。その後、ジャンルイからいろいろな事を学び、ヨーロッパのオンディスト達と親交を深め、より現代にマッチした楽器作りを進化させていった。その中で、2007年、オンド・マルトノをもっとたくさんの方々に紹介しようと自らの手で茨城県鹿嶋市にレーシングカーとオンド・マルトノのための「かしまの森美術館」を作る。2011年、同じ目的で東京浅草にオンド・マルトノカフェをオープンさせ今日に至る。
ASADEN 浅草電子楽器製作所 http://www.asaden.net
オンド・マルトノ カフェ http://ondesmartenotcafe.web.fc2.com
かしまの森美術館 http://www.kashimanomoriartcube.com
[PR]
by ooi_piano | 2016-05-19 09:46 | コンサート情報 | Comments(0)

Messiaen en peine 煉獄のメシアン (全3回公演)
c0050810_0534653.jpg

渋谷・公演通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5、東京山手教会B1F) 全自由席3000円
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp http://k-classics.net/


【第二回公演】 2016年5月15日(日) 午後6時開演(午後5時半開場)
  大井浩明(ピアノ)

c0050810_0543818.jpgO.メシアン(1908-1992):《鳥のカタログ》(全13曲、1956/58)
[第1巻] I.黄嘴鴉  約9分
     II.西高麗鶯  約9分
     III.磯鵯  約14分
[第2巻] IV.顔黒砂漠鶲  約15分  
[第3巻] V.森梟  約8分
     VI.森雲雀  約8分

  (休憩10分)

[第4巻] VII.葭切  約29分
[第5巻] VIII.姫告天子 約4分
     IX.欧羅巴鶯  約12分
[第6巻] X.腰白磯鵯  約17分

  (休憩10分)

[第7巻] XI.鵟  約10分
     XII.黒砂漠鶲  約8分
     XIII.大杓鷸  約10分
同:《庭虫喰》(1970)  約28分


c0050810_0561485.jpg  鳥の歌への関心を学術的なレヴェルで最初に示したのは、18世紀フランス百科全書派の博物学だった。博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール別名ビュフォン伯爵(1707-1788)は、『一般と個別の博物誌』の第16巻から第24巻をなす『鳥類博物誌』(1770-1783)で、アトリの歌を次のように説明している。「アトリはとても快活な鳥である。[…]その歌を分析するのは面白い。前奏のあと速くなり、終止音がある」。興味深いことに、メシアンもこれとよく似た言葉でアトリの歌を説明する。「アトリの歌は活気に満ち、だんだん速くなり、それぞれの個体は固有のコデッタをもつ」。フランスで鳥の歌を記譜する試みが学術的なレヴェルで始まったのは、1917年、総合心理学学会によって『音楽との関連における鳥の声と歌の研究への一考察』が公刊されて以降である。ここではズグロムシクイの声のアルファベットによる表記、サヨナキドリの声の記譜が掲載され、これがきっかけとなって「鳥類旋律図示学 ornithomélographie」という研究分野が生まれた。ただ、作曲家がその成果を援用することができる段階まで研究が進展した形跡はない。

c0050810_0571839.jpg  西洋芸術音楽におけるいわゆる「鳥の音楽」の系譜は、14世紀のジャン・ヴァイヤン(1360-90ころ活動)、ジャクマン・ド・サンレーシュ(1382-3ころ活動)によるヴィルレー、16世紀のクレマン・ジャヌカン(1485-1558)らのシャンソンとマドリガルにまでさかのぼる。チェルニーによれば、ベートーヴェン《交響曲第5番「運命」》冒頭の4音はキアオジ(《鳥のカタログ》第7巻第11曲〈ヨーロッパノスリ〉に登場)の歌を下敷きにしている。鳥の歌が単発的に使用された作品は無数に存在するが、メシアンの周辺をたどっていくと、同世代のジョン・ケージにライヴ・エレクトロニクス作品《電話と鳥》(1977)があり、メシアンの教え子ミカエル・レヴィナス(1949-)にはオペラ《鳥の会議》(1985)、同じくメシアンの弟子フランソワ=ベルナール・マーシュ(1935-)の《ソピアナ》(1980)がある。《ソピアナ》はフルート、ピアノ、鳥の歌を録音したテープのための作品で、マーシュはメシアンの関心を受け継ぐかたちで動物音楽学 zoo musicologyを提唱するに至っている。シュトックハウゼンの《クラヴィーア作品第14番「誕生日のフォルメル」》(1984)は、ブーレーズの生誕60年を記念した作品で、《リヒト》でセキセイインコを演じたピエール=ロラン・エマールが初演している。ブーレーズ、エマールの師ロリオはともにメシアンの弟子である。日本の作曲家も鳥を愛用してきた。メシアンに師事した吉田進は、蝉の声を用いた《カナカナ》(1976)と《空蝉》(1979)を発表し、それらを聴いたメシアンは吉田に賛辞を送っている。20世紀の邦人作曲家の作品のタイトルに頻出する語を調査した沼野雄司によれば、「鳥」は「時」に次いでもっとも頻繁に用いられているという。メシアンが鳥をインスピレーションの中心的な源に据えていなかったら、武満徹、吉松隆、西村朗はこれほど「鳥」にこだわっていたであろうか。

自然、鳥の歌! 私はそれらを愛してやみません。それはまた心の糧です。暗い時分、私は突然自分の無能さに気づいてはっとします。古典派、異国、古代、現代、超現代、あらゆる種類の音楽言語は、忍耐強い探究の結果として出てきた立派な成果にすぎないのではないか、と思えてしまうのです。音の背後には、それだけの労苦を正当化してくれるものなど何ひとつありません。森や田園、山々や海辺、鳥たちに囲まれたどこかある場所に、その忘れられた姿を見いだすほかないではありませんか。私にとって、音楽があるのはまさにそこなのです(オリヴィエ・メシアン)



c0050810_112470.jpg  メシアンが20代で作曲した《昇天》(管弦楽版は1932-1933、オルガン版は1933-1934)の第2楽章〈天を希求する魂の穏やかなアレルヤ〉、オルガン曲集《主の降誕》(1935)にはすでに鳥の歌が現れているが、スコアには鳥の種類が記されていない。鳥の名が現れる最初の作品は《時の終わりへの四重奏曲》(1940)で、その第1楽章では「クロウタドリとサヨナキドリが即興で」歌っているとされる。ただしこの時期の作品には、《鳥のカタログ》に見られるようなスコアへの仔細な書き込みがまだ存在しない。イヴォンヌ・ロリオ(1924-2010)との出会いに触発されて書かれた「演奏会用典礼三部作」(《アーメンの幻影》〔1943〕、《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし》〔1944〕、《神の臨在の3つの小典礼曲》〔1943-1944〕)、人間同士の愛を扱った「トリスタン三部作」(《ハラウィ》〔1945〕、《トゥランガリラ交響曲》〔1946-1948〕、《5つのルシャン》〔1948-1949〕)を経て、1940年代の創作を締めくくったのは、かの有名な〈音価と強度のモード〉を含む《4つのリズム・エテュード》(1949-1950)であった。まもなくブーレーズは、〈音価と強度のモード〉に触発された《構造I》(1952)や挑発的な著述を通して、トータル・セリーこそ現代音楽の採るべき唯一の道であると喧伝した。しかしメシアンは、1952年にシェフェールのもとでミュジック・コンクレートを試しはしたものの(《音色‐持続》)、トータル・セリーと録音媒体を使った音楽のいずれにも十全な可能性を見いだせずにいた。
c0050810_122178.jpg  こうした状況下で転機となったのが、ピアノと管弦楽のための《鳥たちの目ざめ》(1953)である。これはメシアンに野鳥観察の手ほどきをした鳥類学者、ジャック・ドラマン(1874-1953)の領地で書き記された38の鳥の歌「のみ」からなる作品であり、初演は失敗に終わったものの、これによってメシアンに新たな分野の開拓を続けることを決意した。メシアンはこの決心に至った過程を詳しく述べていないが、彼を鳥の時代へと導いた要因はひとつではないだろう。むしろその選択は、当時の「前衛」の潮流を背景として理解されねばならない。鳥の歌は、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージ、シェフェールといった現代音楽界の新たな主役のなかで、メシアンがみずからの立ち位置を明確に主張するための強力な切り札として提出された。シュトックハウゼンが電子音楽の創作を通して、トータル・セリーにおけるパラメーターの制御を究極的な精度で実現しようと試みたことは周知の通りである。これと同様にメシアンは、鳥の歌の採譜と加工という作業によって記譜の精緻化を推し進めることができた。パリ音楽院のエクリチュールを知悉するメシアンにとって、頭のなかに鳴り響く音、すなわち内的に聴こえる音を記譜することはきわめてたやすい作業だった。加えてメシアンは、パリ音楽院で彼に学んだ弟子たちが口をそろえて証言する通り、西洋・非西洋を問わずあらゆる音楽伝統のエッセンスを抽き出すことに長けていた。メシアンのまなざしは、こうして人間界には存在しない音響に向けられるようになったのである。この点でメシアンの選択はケージのそれに通じる。「あらゆる音に対して開かれた耳には、すべてが音楽的に聞こえるはずです」。自然界の音の導入はまた、ミュジック・コンクレートの実践とも共通する。メシアンは、パリ音楽院の授業で《鳥のカタログ》第6巻第10曲〈コシジロイソヒヨドリ〉を扱ったとき、クロジョウビタキの鳴き声を「紙をくしゃくしゃとしたときの音」にたとえ、ミュジック・コンクレートにおいてはきわめて効果的な素材となるだろうと述べる。加えて鳥は、予想されるように、「生まれながらにして信仰者」であることを標榜するメシアンにとって、神と作曲家を仲介する一種の使者の役割をも担った。「聖フランチェスコが鳥に説教するように、メシアンは鳥の説教に耳を傾ける」。鳥はまた、1940年代末のメシアン個人の信条を象徴する生物であるともいわれる。メシアンはしばしば戦争や核の使用に対して憂慮を表明しているが、1948年にはフランス初の核連鎖反応が実施され、1949年にはプルトニウムが初めて抽出された。当時の首相ヴァンサン・オリオルは、この進歩がフランスの栄光に寄与するだろうと誇らしげに語っている。このような状況を背景として、フランスでは1940年代にカトリックの復権を唱える書物が多く刊行された。1940年代末に書かれたオルガン曲集《聖霊降臨祭のミサ》(1949-1950)は、全体の24%が鳥の歌で構成されている。メシアンは鳥の歌が自由の象徴であるとしばしば語っており、1940年代末に同じくパリで活動していたピカソとダリも、やはり自由の象徴として鳥を自作に登場させている。メシアンとダリは、シュルレアリスムを高く評価しカトリックを信奉しているという点で共通しており、ダリとピカソはメシアンお気に入りの画家であった。
c0050810_1318100.jpg  ブーレーズ率いるドメーヌ・ミュジカルのために書かれた《異国の鳥たち》(1955-1956)は、北南米を含む世界各地の鳥の寄せ集めであるが、メシアンはこれらの歌を実地で聴いたわけではなく、1942年にコーネル大学が製作したレコードを利用している。またこの作品では「調および旋法の枠に当てはまらない」和音、「色彩‐和音 accords-couleurs」(7-10音からなる音の複合体)が用いられている。こうしてメシアンは、調および旋法に代わりうるものとして「色彩」の概念を導入し、かつて『わが音楽語法』(1941)で定式化した「移調の限られた旋法 modes à transposition limitée」という軛からみずからの和声語法を解放したのである。《鳥のカタログ》の作曲を通してピアノにおける鳥の歌を探究したメシアンは、アルブレイシュが「鳥の10年 décade oiseau」とよぶこの転換期(1953-1963)の締めくくりとして、《クロノクロミー》(1959-1960)、《7つの俳諧》(1962)、《天の都の色彩》(1963)を作曲した。鳥の歌の洗練化と和声語法の深化の末に生み出された《天の都の色彩》は、《神の臨在の3つの小典礼曲》以来約20年ぶりに信仰がテーマとなった作品であり、メシアンはこの時点までに、鳥の歌と信仰の真理を同じ作品のなかで扱うことは矛盾しないという結論に達していた。20余年前の典礼三部作と鳥を結びつける構想が実現されたことで、これまでいくたびかの変転を経てきたメシアンの探究はひとつの円環を閉じるに至ったのである。

  生まれながらの鳥類学者!......オリヴィエ・メシアンの母であり詩人のセシル・ソヴァージュは、1910年春アヴィニョンで、14か月の幼いオリヴィエを乳母車に乗せて歩いていた。オリヴィエはその小さな手で哺乳瓶をしっかりと握って飲んでいた。すると彼は、哺乳瓶を放して目を空のほうへ向けた。セシルも空を見つめたけれど、息子の幸福そうな微笑のほかには何も目に入らなかった。オリヴィエがじっと聴き入っていたのは、一羽の鳥の楽しげな歌だったのだ......彼の最初の先生が何の鳥だったのか、いまでは知る由もないけれど!......(イヴォンヌ・ロリオ)



c0050810_143886.jpg  メシアンが鳥の歌を初めて書き記したのは1927年、パリとバーゼルの中間辺りに位置するオーブ県フュリニーの叔母の家に滞在していたときだった。この年の8月にメシアンは母セシル・ソヴァージュ(1883-1927)を亡くしているが、《鳥のカタログ》の全曲初演が行われてちょうど1週間後の1959年4月22日には、最初の妻クレール・デルボス(1906-1959)がパリ近郊の療養所で亡くなっている。また、《鳥のカタログ》〈コシジロイソヒヨドリ〉の素材となる歌を収集するため、南仏エロー県に滞在していた最中の1957年6月、父ピエールがパリで亡くなった。このような事情を知ると、鳥の発見を通した語法の拡充は、皮肉な偶然によってメシアン個人の苦境と重なっているようにも思える。
  だが、1950年代以降の旺盛な採譜活動は、まもなく(2番目の、そして生涯の)伴侶となるロリオの助けを抜きにしてはあり得なかった。1950年代半ば、車の運転ができなかったメシアンのために、ロリオはルノーの小型車を購入して運転を覚え、デルボスへの見舞いにメシアンを連れて行くようになった。同時にこの慣行は、ヴァカンスを利用してフランス各地で野鳥観察の旅を行うことをも可能にした。鉛筆と五線紙を携え、ベレー帽を被って森のなかにたたずむメシアンの姿は有名だが、その背後にはテープレコーダーを携えたロリオの姿があったのだ。ロリオがメシアンの採譜に忠実に付き添っていたことは、ロリオがインタヴューや著述で採譜旅行のエピソードを好んで引き合いに出すことからも明らかである。「私たちが結婚する前のことです。私はメシアンを小さな車に乗せてよく田舎へ行きました。彼は明け方の合唱を聴くために、干し草の山や納屋のなかで夜を過ごしていたんです」。2人が結婚したのは1961年4月。フランス各地を周遊した採譜旅行を一通り終え、ロリオが《鳥のカタログ》全曲初演を行ってから約2年が経っていた。鳥はメシアンにとって、親族の喪失という痛ましい出来事を想起させる存在である同時に、ロリオというミューズから受け取る新たなインスピレーションの象徴でもあった。メシアンがとりわけ好んだ鳥のひとつ、ニシコウライウグイスのフランス語名がロリオ(Loriod)と一字違いの Loriot であるというのは何という偶然だろうか。

c0050810_15166.gif  メシアンの採譜は基本的に実地で行われたが、屋内で録音を聴きながら丁寧に書き写すこともめずらしくなかった。同時に多数の鳥の声が聞こえるときは、一度にすべての歌を書き留めることは不可能なので、何日かに分けて一種類ずつ書き記したという。メシアンは「科学的で精確な鳥の歌の記譜を行った最初の作曲家」をもって自任していたが、その功績は録音機器によって支えられてもいたのだ。しかし、採譜を始めてまもないころは録音機器を使っていなかったためか、メシアン研究の先鞭を付けたジョンソンやアルブレイシュは、採譜は耳だけをたよりに行われていたと伝えている。ブーレーズでさえ、メシアン生誕100年に際したオマージュのなかで「メシアンの耳の鋭さを考えれば、彼は実地で鳥の歌を採譜したのだろう」と言っている。メシアンは採譜を本格的に開始した当初、素早く書き留めるためのメモ帳と清書用のノートを分けて使っていた。ノートは全部で200余りにおよぶが、現在その一部はフランス国立図書館に所蔵されている。
  メシアンが記譜の「忠実さ」を重視したことは、録音機器を使用していた事実からも明らかであるが、典拠となったレコードが判明している《異国の鳥たち》のような場合を除き、その記譜がオリジナルに果たしてどれほど「忠実」であるのかを疑う人も少なくない。イギリスの作曲家トレヴァー・ホールド(1939-2004)は、早くも1971年にその忠実性に疑問を呈し、録音された鳥の歌のスペクトログラムをメシアンの記譜と対比しながら、メシアンが鳥の声をいかに歪曲しているかを示している。「鳥の歌のモデルに忠実たらんとすれば、ピアノほどその目的に適さない楽器が選ばれるはずはない」、メシアンは「鳥を自由に歌わせるのではなく、籠のなかに閉じ込めることに成功したのだ」。メシアンもその限界は承知していた。「鳥のことをほんとうに知っている人のなかにも、私の音楽を聴いて何の鳥が使われているのかわからないと言う人がいます。ですから私は間違えているのかもしれません。しかしそれでも、そこには真実しかないと断言できます。聴いたのはあくまで私なのです。何か私なりのもの、私自身の歌の聴き方、書き取り方がそこに入り込んでしまっているのでしょう」。 (つづく
[PR]
by ooi_piano | 2016-05-10 00:44 | コンサート情報 | Comments(0)

承前

c0050810_183016.gif  客観性と恣意性とのアンビヴァレンスは、鳥の記譜のみならず、メシアンの大著『リズム、色彩、鳥類学の総説』(1949-1992、7巻8冊〔鳥の歌を扱った5巻は2冊に分かれている〕、全3289ページ)にも現れている。本書の分析と例示がくどいまでに冗長なのは、その目的が紛れもなく読者を啓蒙することにあるからだ。しかし同時に、学術的とよぶにはほど遠い詩的な独白が頻出することも確かである。鳥の歌の扱いについても同様のことがいえる。鳥の歌は1940年代の作品で早くも様式化されているが、この時期の鳥の歌はあくまで「鳥の歌風」のフレーズにすぎず、実地で書き取られた歌はそこには含まれていない。その後、実地踏査する「鳥類学者メシアン」の誕生に伴って、これらの鳥は緻密な分類・整理の対象となったのである。「カタログ化」は、メシアンがみずからの音楽語法を確立するうえでの常套手段だった。実質上の処女作《前奏曲集》(1928-1929)から一貫して用いられてきた「移調の限られた旋法」は、1941年の『わが音楽語法』において初めて定式化された。インスピレーションの導きに従うなかで頻出した要素は、一定の期間を経たあとで言語化、体系化を被る。この手続きによってメシアンは、みずからをドビュッシーら音楽史上重要な作曲家のいわば後継 héritier として位置づけようとした。若いころのメシアンが、あらゆる機会をとらえて自作の解説を披露しようとしたことはよく知られている。これはとりもなおさず、メシアンが20世紀フランスを代表する作曲家として音楽史に名を刻むための戦略だった。
  語法のカタログ化は、しかしながら、鳥の時代以降メシアンが語法をラディカルに刷新することを妨げはしなかっただろうか。『リズム、色彩、鳥類学総説』というタイトルは、メシアンが鳥の時代たる1950年代までに発展させた概念が、死去する1992年まで主要な役割を演じ続けたことを物語っている。1965年、文化相マルローから直々に委嘱を受け、翌年にはパリ音楽院作曲クラス教授に就任、その翌年にはフランス学士院メンバーに選ばれ、パリ音楽院のクラスにミュライユが入学する。『総説』の敢行がもたらした反響が思いのほか小さく、現時点で英語とドイツ語の部分訳しか存在しないのは、メシアンの自閉性、すなわち1960年代までに言語化しえた要素に執拗に立ち返り続ける姿勢のためであり、それは現在メシアンを好む音楽家が必ずしも多くないこととも無関係では無い。

c0050810_19318.gif  メシアンがグレゴリオ聖歌や「デシ・ターラ」(インド音楽のリズム型)に好んで言及したことはよく知られている。これらは彼にとって時代を超越した不変=普遍の要素であり、鳥の歌もまたその一角をなしていた。メシアンは創作、教育、執筆という3つの活動を通して、これらの遺産をたえず言語化、体系化しようと試みた。パリ音楽院での約30年にわたる教育活動(和声、音楽美学および音楽哲学、分析そして作曲の教授として)、40年余りをかけて執筆された『総説』は、終生メシアンがその整理にどれほど情熱を傾けたかを物語っている。ここにみられる網羅性は、まさしく18世紀フランスの百科全書派が目ざしたものである。実際、メシアンはみずからをリズム研究家 rythmicien そして鳥類学者 ornithologue、いうなれば一種の音楽博物学者と定義した。『総説』の冗長な叙述は、メシアンと関心を共有しない者を排除するような秘教性すら具えている。たとえば、日本の鳥には約110ページが割かれているが、ウグイスの鳴き声「ホー、ホケキョ」で「ホケキョ」に当たる部分は、メシアンによれば「トルクルス」というネウマに相当するという。1962年夏に日本を訪れたメシアンは、軽井沢で別宮貞雄を通訳、端山貢明を虫除けスプレー散布係に随えて採譜を行っているが、このときメシアンが聴いたウグイスは「ホケキョ」の部分をヴァリアントで歌っていた。メシアンいわく、トルクルスが「スキャンディクス・フレクスス」および「ポルレクトゥス・フレクスス」になっていたのである。メシアンは鳥一つひとつについて、以上のような分析を丹念に行っている。
c0050810_1101935.gif  メシアンの作品に登場する鳥の種類は全部で357あり、登場する箇所をすべて数えると757になる(《鳥たちの目ざめ》以前の作品に現れる、特定されていない鳥の歌を除く)。メシアンが用いた鳥は、世界中に存在する種全体の3.6%、科では38%、目では47%に相当する。好んで用いられた鳥とその登場回数は、クロウタドリ(28)、ニワムシクイ(22)、サヨナキドリ(20)が挙げられる。鳥類学者は、世界中に存在するおよそ1万の種を、美しく歌う鳥、歌があまり美しくない鳥、歌わない鳥(カモメ、ダチョウ、ワシなど)の3つに大別しているが、メシアンの作品には歌わない鳥も登場する。《鳥のカタログ》第1巻第1曲〈キバシガラス(黄嘴鴉)〉に登場するイヌワシ、《ニワムシクイ》におけるツバメがその例である。前者では、次第に狭くなる音程によって、イヌワシが大空へ飛翔する様子が描写されている。また《鳥のカタログ》第6巻第10曲〈コシジロイソヒヨドリ(腰白磯鵯)〉では、ワシミミズクの雌雄が描き分けられている。雄は下行する和音とグリッサンドで表され、雌は低音の反復音型によって描かれる。先に触れた通り、《鳥のカタログ》は鳥だけでなく、鳥を含む生息地の景観全体を扱っているが、冒頭の〈キバシガラス〉では鳥よりも峻険な山並みが中心となっており、最後の〈ダイシャクシギ〉では同名の鳥が冒頭と末尾にしか登場しない。なお《アッシジの聖フランチェスコ》(1975-1983)には、ウグイス、ホトトギス(第6場でオンド・マルトノ3台によって奏される)、フクロウなど、オペラの題材とは直接関係のない日本の鳥が登場する。メシアンの採譜旅行は、1960年代以後はもはやロリオのルノーを必要としなくなり、その代わりメシアンはフランスを代表する作曲家として、各国で丁重なもてなしを受けるようになった。ヨーロッパ以外では、日本(1962、1978)、アルゼンチン(1963)、アメリカ(1972)、ニューカレドニア(1975)、ギリシャ(1976)、イスラエル(1983、1984)、オーストラリア(1988)で採譜を行った。ニューカレドニアでの採譜は、《アッシジの聖フランチェスコ》で天使を扱う際の歌を探すという目的で行われた。これは、純粋に採譜だけを目的とする訪問という点で例外的な旅であり、それ以外の国では演奏会への臨席、講演や作曲講座、受賞式への出席などを並行して行っている。鳥類学者という肩書があくまで自称にすぎないことは、採譜地の選択がこのように場当たり的なものであること、論文および研究発表という媒体で鳥の歌の研究を発表したことが一度もないことから明らかである。

c0050810_1113973.png  《鳥のカタログ》は、最初から明確な全体像を念頭において構想された作品ではない。フランス各地で採譜旅行を行い、種々の鳥をみずからの音楽に取り込んだ結果、演奏所要時間約2時間45分という過去に例をみない規模の大作が完成した。その意味で、本作はある種の長大な映画ないし紀行文学にたとえられる。採譜地はしかしフランスの辺境に限られない。1952年にドラマンのもとで最初の本格的な採譜を行ってから、メシアンはパリ近郊サン=ジェルマン=アン=レの近くにあるオルジュヴァルの森に通った。1952年と1953年には、ダルムシュタットの講習会の合間に時間を見つけて採譜した。パリ19区の自宅から聴こえる鳥も活用された。1953年10月にバーデン=バーデンの黒い森で行われたスケッチには、「ピアノ用」という見出しのもと、鳥の名が長々と列挙されている。《カタログ》の構想はこのころから徐々に練られていったものと思われる。全13曲が7つの巻 Livre に割り振られるという構成は、メシアンが素数を好んだことと無関係ではない。ひとつの巻に含まれる曲の数は3-1-2-1-2-1-3、すなわち第4巻を中心として対称的に配分されている。第1曲と第13曲が自然の険しさを描くのに対して、第2曲と第12曲はやや開放的で明るい情景を扱うというように、第7曲を軸とする曲のペアは共通の性質を具えている。第1曲、第5曲、第11曲はいずれもフランス南東部ドーフィネ地方を舞台とするが、ドーフィネに近いグルノーブルは、メシアンが4歳のころから5年間過ごした思い出の地である。またメシアンは1936年から最晩年(1991)まで毎年、アルプスの山々を望むドーフィネ地方プティシェの別荘でヴァカンスを過ごした。メシアンとロリオの墓は現在その別荘の近くにある。

c0050810_1121969.jpg  第1巻第1曲〈キバシガラス〉(黄嘴鴉、〔仏〕ル・ショカール・デ・ザルプ(アルプスのチャフ)、〔羅〕ピュッロコラクス・グラクルス(ベニハシガラス=コクマルガラス))は、鳥よりもむしろその生息する山々の険しさを描いており、《まなざし》にも用いられたリズム人物 personnages rythmiques が現れる。
  第1巻第2曲〈ニシコウライウグイス〉(西高麗鶯、〔仏〕ル・ロリオ(コウライウグイス)、〔羅〕オリオルス・オリオルス(黄金色の小さな鳥))は、頭や腹が黄色、羽と尾が黒色の鳥で、その歌は下行9度を2回続けて繰り返す点に特徴がある。
  第1巻第3曲〈イソヒヨドリ〉(磯鵯、〔仏〕ル・メルル・ブル(青いツグミ)、〔羅〕モンティコラ・ソリタリウス(孤独な山の民))は全身がもっぱら青の鳥で、ここでは南仏の地中海の海の青が同時に喚起され、青紫(第2旋法第1転回形)、青と緑(第3旋法第3転回形)などが使われる。地中海に面した丘を舞台とする。
  第2巻第4曲〈カオグロサバクヒタキ〉(顔黒砂漠鶲、〔仏〕ル・トゥラケ・スタパザン(スタパザンのサバクヒタキ)、〔羅〕オエナンテ・ヒスパニカ(スペインのオエナンテ))も地中海に面したワイン畑が舞台である。その歌はごつごつとして乾いた感じであるが、ここではむしろメジロモリムシクイが主役を演じている。
  第3巻第5曲〈モリフクロウ〉(森梟、〔仏〕ル・シュエット・ユロット(鳴くフクロウ)、〔羅〕ストリクス・アルコ(フクロウ=ミミズク)は、メシアンにとって夜の闇の恐ろしさを喚起する鳥であり、その叫びは同音反復と下行3度の組み合わせからなる。この曲集では唯一セリー的な書法に依拠した作品である。
  第3巻第6曲〈モリヒバリ〉(森雲雀、〔仏〕ラルエット・リュリュ(ルルと鳴くヒバリ)、〔羅〕ルッルラ・アルボレア(木のルル鳴き鳥))は、透明感のある高い声で下行音程を繰り返す。フランス語名は、その歌が「ルル、ルル……」と聞こえることに由来する。
c0050810_114430.jpg  30分近い演奏時間を要する第4巻第7曲〈ヨーロッパヨシキリ〉(葭切、〔仏〕ラ・ルスロル・エファルヴァット(ヨシキリ)、〔羅〕アクロケファルス・スキルパケウス(頭蓋骨の出っ張ったスキルパケウス))は、午前0時から翌朝午前3時までの池のほとりを扱っている。メシアンはこの鳥を聴くために、ソローニュ地方の私有地を特別に借り切ったという。
  第5巻第8曲〈ヒメコウテンシ〉(姫告天子、〔仏〕ラルエット・カランドレル(コウテンシヒバリ)、〔羅〕カランドレッラ・ブラキダクティラ(短指のヒバリ))は、プロヴァンスの暑く乾いた砂漠のような土地で、突如として短い歌を聴いたメシアン自身の経験にもとづく。途中、9度の音程を特徴とするカンムリヒバリとの二重唱が聴かれる。
  第5巻第9曲〈ヨーロッパウグイス〉(鶯、〔仏〕ラ・ブスカルル(茂みを好む鳥)、〔羅〕ケッティア・ケッティ)の声は金属的で、時の流れを止めるほどの威力をもつとメシアンは言う。ここには《まなざし》でも用いられたリズム・カノン canon rythmique が出てくる。
  第6巻第10曲〈コシジロイソヒヨドリ〉(腰白磯鵯、〔仏〕ル・メルル・ドゥ・ロシュ(岩のツグミ)、モンティコラ・サクサティリス(岩間の山の民))は切り立った崖の上で歌う青とオレンジの美しい鳥。中央部では、32の半音階の持続を置換した経過的な和音が現れるが、これらは死んだ女性を運ぶ幽霊たちの行列を表しており、メシアンはここでマックス・エルンストの作品を想起している。
c0050810_114579.jpg  第7巻第11曲〈ヨーロッパノスリ〉(鵟、〔仏〕ラ・ビューズ・ヴァリアブル(さまざまな色のノスリ)、〔羅〕ブテオ・ブテオ(ノスリ=ノスリ))はタカの一種で、ドーフィネの山々の上を円を描いて飛ぶ様がレントのピアニシモで表される。
  第7巻第12曲〈クロサバクヒタキ〉(黒砂漠鶲、〔仏〕ル・トゥラケ・リウール(笑うサバクヒタキ)、〔羅〕オエナンテ・レウクラ(白い尾のオエナンテ))は崖の上で輝かしく愉快な歌を聴かせる。歓喜の爆発で曲を終えるというメシアンの慣行はこの作品に現れている。
  曲集を締めくくる第7巻第13曲〈ダイシャクシギ〉(大杓鷸、〔仏〕ル・クルリ・サンドレ(灰白色のダイシャクシギ)、〔羅〕ヌメニウス・アルクアタ(弧形の新月))の舞台はヨーロッパ最西端に位置するブルターニュのウェサン島。半音を主とするグリッサンドのような鳴き声は悲哀に満ちているとメシアンは言う。

c0050810_1155215.jpg  部分初演は1957年3月30日、サル・ガヴォーで開かれたドメーヌ・ミュジカルの演奏会でロリオによって行われた。このとき演奏されたのは、演奏順に第1曲〈キバシガラス〉、第6曲〈モリヒバリ〉、第5曲〈モリフクロウ〉、第2曲〈ニシコウライウグイス〉、第8曲〈ヒメコウテンシ〉、第13曲〈ダイシャクシギ〉である。第7曲〈ヨーロッパヨシキリ〉はこのときすでに完成しており、プログラムにも載っていたが、演奏は行われなかった。当初演奏時間17分だった本作品は、1957年夏に全面的な書き換えが行われ、当初のほぼ2倍におよぶ長さとなった。6月に行われた地中海沿岸での採譜は、第3曲〈イソヒヨドリ〉、第4曲〈カオグロサバクヒタキ〉、第12曲〈クロサバクヒタキ〉の素材を提供した。1958年1月25日には〈ヨーロッパヨシキリ〉第2稿が初演され、1959年4月15日、同じくドメーヌ・ミュジカルのメシアン生誕50周年記念演奏会で、ロリオが全曲初演(休憩1回、合計約3時間)を行った。出版は、それまでメシアンの主要作品を出版してきたデュランではなくルデュックから行われた。デュランは、《鳥たちの目ざめ》の初演が不評に終わったことから、鳥をテーマとする作品の出版に慎重な姿勢をとっていた。1957年、メシアンはついにデュランとの契約を破棄し、以後はもっぱらルデュックに出版を委ねるようになる。 (平野貴俊/音楽学)
[PR]
by ooi_piano | 2016-05-10 00:39 | コンサート情報 | Comments(0)