6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

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(《ハラウィ》の一節が刻まれたメシアンの墓碑銘)


渋谷・公演通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5、東京山手教会B1F) 全自由席3000円
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp http://goo.gl/FaEVmk


〈Messiaen en peine 煉獄のメシアン〉第三回公演
2016年6月26日(日) 午後6時開演(午後5時半開場)

伊藤晴(ソプラノ)+大井浩明(ピアノ)

O.メシアン:《前奏曲集》(全8曲、1929) 約34分
 I.鳩 II.悲しい風景のなかの恍惚の歌 III.軽快な数 IV.過ぎ去った時 V.夢のなかのかすかな音 VI.苦悩の鐘と告別の涙 VII.静かな嘆き VIII.風のなかの反映

O.メシアン:《天と地の歌》(全6曲、1938) 約28分
 I.ミとの時間(私の妻のために) - II.沈黙の先唱句(守護天使の日のために) - III.人形ピリュールの踊り(私の幼いパスカルのために) - IV.穢れなき虹(私の幼いパスカルのために) - V.真夜中の裏表(死のために) - VI.復活(復活祭の日のために)

  (休憩15分)

O.メシアン:《ハラウィ - 愛と死の歌》(全12曲、1945) 約57分
 I.お前、眠っていた街よ II.こんにちは、お前、緑の鳩よ III.山々 IV.ドゥンドゥ・チル V.ピルーチャの愛 VI.惑星の反復 VII.さようなら VIII.音節 IX.階段は繰り返し言う、太陽の身振り X.愛の星鳥 XI.星のカチカチ XII.闇のなかに


伊藤晴 (ソプラノ) Hare ITO, soprano
c0050810_199358.jpg  武蔵野音楽大学大学院修了。(公財)日本オペラ振興会オペラ歌手育成部第25期修了。第9回藤沢オペラコンクール第2位、第82回日本音楽コンクール入選。パリ地方国立音楽院(CRR)コンサーティスト・ディプロマ課程修了。日本オペラ連盟文化庁新人育成公演《修道女アンジェリカ》アンジェリカ、 武蔵野音楽大学本公演《コジ・ファン・トゥッテ》フィオルディリージ、 文化庁次代を担う子供の文化芸術体験事業《魔笛》パミーナ、山形交響楽団《ヘンゼルとグレーテル》グレーテル、藤原歌劇団創立80周年記念公演《ラ・ボエーム》ムゼッタ、小澤征爾音楽塾IIIV子どものためのオペラ《子供と魔法》安楽椅子&こうもり、トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ《フィガロの結婚》スザンナ、コンヴィチュニー・演出アカデミーinびわ湖《ラ・ボエーム》ムゼッタ等の他、現代オペラでは丹波明《白峯》待賢門院、石黒晶《みすゞ》タイトルロール、水野修孝《天守物語》亀姫等に出演。昨年(2015年)はセイジ・オザワ松本フェスティバル子どものための音楽会《第九》ソリストに抜擢され、ロームシアター京都竣工式において同ソリストを小澤征爾指揮の下務める。藤原歌劇団団員。公式サイト http://www.hareito.com/





メシアンの三人のミューズ ~ソヴァージュ/デルボス/ロリオ ──甲斐貴也


「聖母」セシル・ソヴァージュ

  c0050810_9561587.jpg私はあなたの周りにいる
  乳色の実を覆う緑のアーモンドのように
  絹のような幼い種を包む
  綿毛のある柔らかい鞘のように
    (セシル・ソヴァージュ「私の子、蒼い胎児…」より)



c0050810_9571858.gif  メシアンは1908年12月10日、シェイクスピア作品の仏訳で知られる英語教師の父ピエール・メシアンと、詩人の母セシル・ソヴァージュの間に生まれた。セシルが懐妊中から出産後にかけて書いた全20篇の詩集『芽ばえる魂』には、胎児と肉体的につながっている一体感の幸福と、出産による別れの悲しみ、荒んだ外界に送り出すことへの罪の意識、生を受けた者にやがて必ず訪れる死の予感など、様々な母の思いが詠われている。その中で胎児が男子であると直感し、音楽、自然、東洋、鳥といった後のメシアンが関心を向けるものが詩句のなかに見られることを、メシアンは予言的と受け取り、自らを音楽家の道に導いたのは母セシルであると考えていた。「母は私にとって聖なるものである。それは聖マリアへの敬愛に似ている。」
  はたして幼少から音楽の才を現したメシアンは11歳でパリ音楽院に入学する。だがあまりに繊細な心を蝕まれたのか次第に鬱状態が募っていった最愛の母は、メシアン19歳の1927年8月26日に突然病没してしまう。その悲しみの大きさは想像するに余りあるが、メシアンは母の愛に報いるために発奮し、音楽院で多数の一等を受賞し、聖トリニテ教会の主任オルガニストに就任するなど、一人前の音楽家としての道を歩み始める。「私にとって母の死は、私のキャリアの一つの出発点ともなった」と語るメシアンは、どのようにしてそれを乗り越えたのだろうか。両親は信仰者でなかったにもかかわらず、「生まれながらの信仰者」を自任していたメシアンが、実際に聖書を読んだのは20歳前後であることが近年知られるようになったが、それが母の死の時期に重なることは注目されるだろう。亡き母の霊魂の不滅を信じることで深い喪失感から立ち直ることができたのならば、メシアンの最大のテーマである信仰も、母セシルが自らの命と引き換えに与えたと言えるかもしれない。


前奏曲集 Préludes (1929)

c0050810_9581232.jpg  母の死の2年後、パリ音楽院在学末期の1929年に作曲されたピアノ曲『前奏曲集』は、メシアンの実質的な処女作品と言える。各曲につけられた詩的なタイトルはもちろん、印象派風の色彩には、ドビュッシーの影響を作曲家自身も認めているが、ドビュッシーが目立って使っておらず、その後メシアン自身が「移調の限られた旋法第2番」と名付けた8音音階を効果的に用い、独自性を主張している。
 メシアンはこの曲の色彩が、教会のステンドグラスの青を基調とするとし、「私はこれらの曲を青い和音の刺しゅう、青い和音のペダル音、青い和音の房や軽快な滝のような心づもりで扱った」、と語った。1930年初演のピアニスト、アンリエット・ピュイグ=ロジェは、メシアンに「白やバラ色のドレスは着ないで欲しい。明るいブルーか青緑色のドレスにして欲しい。それは水の色、葉の色、空の色のイメージだから。」と言われたと証言している。
  ところが、後年にメシアン自身が執筆した同曲のレコード解説には、作品全体を支配する色を紫色、オレンジ色、緋色とし、各曲個別の色彩を列挙している。メシアンは前奏曲集作曲後の1931年、スイスの画家ブラン・ガッティの影響により、「音と色との間に存在する調性とニュアンスとの交感を設定し」ていたが、その時もこの関係にさほどの重要性を認めておらず、1941年の「寒さと飢えに苦しんだ捕虜生活中に「視覚連想」(色彩と聴音との内的同時性)を獲得したとされるので、この色彩設定は後付けということになる。
  「当時私は20歳だった。私はまだ、私の人生を変えてしまうことになるリズムの研究には手をつけていなかった。私は鳥を熱愛していたが、まだ鳥の歌声をどのように記譜したらよいのかわからなかった。けれども私はすでに音 ― 色彩の音楽家だった。(中略)『前奏曲』の標題の裏には色彩の研究が秘められている。」

c0050810_9592716.jpg1. 鳩 / "La colombe"
(すみれ色の木目模様のついたオレンジ色)
2. 悲しい風景のなかの恍惚の歌 / "Chant d'extase dans un paysage triste"
 (冒頭と末尾はねずみ色、薄紫色、プロシャ・ブルー。中間部はダイアモンドのようにきらめき、銀色。)
3. 軽快な数 / "Le nombre léger"
 (紫色の木目模様のついたオレンジ色。)
4. 過ぎ去った時 / "Instants défunts"
 (ビロードの光沢をもったねずみ色。薄紫と緑色の反射光。)
5. 夢のなかのかすかな音 / "Les sons impalpables du rêve"
 (和音を連続させるブルー・オレンジの旋法が、紫、緋色の旋法と重なり合う。)
6. 苦悩の鐘と告別の涙 / "Cloches d'angoissse et larmes d'adeu"
 (鐘の部分では多数の旋法が混じり合い、 いくつもの鐘の「ウーン」という結合音とすべての上方倍音がきらめく振動と化す。別れは緋色、オレンジ色、紫色である。)
7. 静かな嘆き / "Plainte calme"
 (ビロードの光沢をもったねずみ色。薄紫色と緑色の反射光。)
8. 風のなかの反映 / "Un reflet dans le vent"
 (緑色の木目模様のついたオレンジ色といくつかの黒い斑紋とが交互に現れる。第2主題は最初の提示でブルー・オレンジ、2回目の提示ではグリーン・オレンジの色を帯びる。


「ミ」の女 ~クレール・デルボスとの神聖な結婚生活

c0050810_103511.jpg  母セシルの没後ほどなく、父ピエールは、母を失ったメシアン家の面倒を何くれなく見てくれていた元学友のマルグリットと再婚し、1930年にはその子、シャルル=マリーが新たな弟として生まれた。この父に対してどのような思いがあったのか、メシアンはほとんど語っていない。そして腹違いの弟の誕生とほぼ時を同じくして、メシアンの前に新たなるミューズが現れることになる。
  『前奏曲集』と1930年音楽院卒業作品の『3つの歌曲』(自作の詩2編と母セシルの詩1編による、失った母に寄せた内容)、管弦楽曲『忘れられた捧げもの』という初期の傑作をものして、作曲家としての道を歩み始めたメシアンは、スコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディに師事した作曲家でヴァイオリニストのクレール・デルボスと出会う。彼女のヴァイオリン演奏に魅せられ、意気投合したメシアンは、クレールのヴァイオリンと自身のピアノによる演奏活動を始め、クレール、ジョリヴェ、ミゴー、レジュールらと、フランスに限らない各国の現代音楽作品を紹介する室内楽演奏会を主催する音楽グループ「スピラール(螺旋)」を結成する。新作の初演と共に、重要な作品を繰り返し上演することを重視する趣旨がその名に込められているという。翌年にはジョリヴェらと、新作の管弦楽作品を上演するための作曲家グループ「若きフランス」も結成している。 
  1932年に二人は結婚し、メシアンはヴァイオリンとピアノのための『主題と変奏』を作曲し、結婚の贈り物として彼女に献呈した。
c0050810_103581.jpg  休日に二人でオーベルニュ地方の小村ヌサルグ=モワサックにクレールの家族が所有する館で過ごした折の写真が残されているが、この「シャトー・ブノワ」という旧館でメシアンは管弦楽曲『昇天 L’Ascension』(1933)を作曲した。今も当時のまま残るこの館は眼前に小さなカトリック教会があり、往時の愛と信仰と音楽に満たされた結婚生活が偲ばれる。そして1935年の全9曲からなるオルガン曲の大作『主の降誕 La Nativité du Seigneur』は、インド、ギリシャなどの多様なリズム技法が用いられ、メシアン創作活動の第2期の始まりとされる。
  同年にクレールは、メシアンの亡き母セシルの『芽ばえる魂』からの5編に歌曲を作曲している。長男パスカルを身ごもった時には、再度『芽ばえる魂』から8編を選んだ歌曲集『芽ばえる魂』を作曲した。メシアンはクレールとの結婚生活と信仰を歌う自作詩9編による歌曲集『ミのための詩』(同じ曲数の『主の降誕』の第1曲と同じモチーフが、同じく第1曲に用いられている)を作曲してクレールに捧げ、この2つの歌曲集は1937年4月28日に「スピラール」主催の演奏会で、ドラマティック・ソプラノのマルセル・ビュンレとメシアンのピアノにより同時に初演され、両曲共に出版された。そして3か月後の7月14日、待望の第一子が誕生し、「過越(パスク)の祝日」にちなみパスカルと命名される。
  『ミのための詩 Poem pur Mi』の「ミ」とは、メシアンがクレールにつけた愛称で、ヴァイオリンの第1弦(E線)のことであり、艶やかな美音を奏でるものの隠喩であるという。夫妻は作曲にあたりお互いに意見を出し合ったと言うが、当時の二人は、ロベルトとクララのシューマン夫妻以来とも言える、幸福で優れた音楽夫妻であったと言えるだろう。
  『ミのための詩』初演におけるビュンレの歌唱に感銘を受けたメシアンは、翌年に完成したその管弦楽版の出版譜に「ドラマティック・ソプラノのための」と但し書きをつけた。ビュンレはバイロイトでイゾルデとクンドリーを歌い、ブリュンヒルデ、エレクトラも得意とした当時フランス随一のワーグナー歌手である。少年時代より『ニーベルングの指輪』四部作を熱愛し、『トリスタンとイゾルデ』『パルシファル』を愛好していたメシアンが、広大な声域と長いブレスを必要とする『ミのための詩』を書いたのは、当初よりワーグナー的歌唱を想定していたと考えられる。
c0050810_105763.jpg  メシアンの歌曲はメシアン自身によれば「しばしばその規模や性格からいって、劇場的場面の縮図のおもむきを呈することさえある」のであり、こうしたワーグナー風のオペラティックな性格と、ブリュンヒルデの「ワルキューレの騎行」でのそれを思わせるオノマトペの多用に加え、グレゴリオ聖歌のメリスマに影響を受けた母音唱法、詩篇の朗誦風のレシタティーフ、メシアンが独自性を自負ずる「移調の限られた旋法」の使用、第2期の特徴となるエキゾティックなリズムの導入など、他のフランス歌曲には類を見ない様式となっており、ここにも作曲家としての独自性を確保しようとする強い意思が感じられる。
  ワーグナー楽劇とグレゴリオ聖歌の混淆という、メシアン歌曲の一種異様な性格はまた、敬虔な信仰への過剰なまでの希求と、相反するようにも思われるエロティシズムが読み取れる、メシアン自作の歌詞に見事に適合している。男性の、夫が妻に対して歌う詩を女声に託すのもまたユニークであると言えるだろう。

 行け、聖霊が君を導くところへ!
 神が結んだものを誰も引き離せない
 行け、聖霊が君を導くところへ!
 妻は夫の延長
 行け、聖霊が君を導くところへ!
 教会がキリストの延長であるように
  (『ミのための詩』~「妻」)

 朝の冷気と結ばれる湾曲した風景
 ああ僕の首飾り! ああ僕の首飾り!
 君の両腕が僕の首に絡みつくこの朝
  (『ミのための詩』~「首飾り」)

 
  著書『わが音楽語法』(1944)でメシアンは歌曲を自らの最重要ジャンルと位置付けており、その時点で完成していたメシアンの作品中で、歌曲は実に3分の1を占めている。クレールとの結婚生活の間、メシアンは歌曲作家であった。そしてクレールの作品もまた、メシアンの母セシルの詩による歌曲の他は、メシアンの主要な楽器であるオルガン曲がほとんどであり、夫メシアンへの献身的な愛情が伺われる。その夫妻の幸福な生活の頂点となる作品が、妻と、わが子パスカルへの愛を歌った歌曲集『天と地の歌』(1938)である。


歌曲集『天と地の歌』 Chants de Terre et de Ciel

c0050810_106855.jpg 1937年の内に『ミのための詩』の管弦楽版を完成したメシアンは、翌1938年、『ミのための詩』の続編とも言うべき、クレールとの結婚生活に加えてパスカルへの愛を歌う歌曲集『プリズム』(全6曲)を完成する。作風としては前作の延長線上にあるが、母音唱法の拡大とオノマトペ(擬音語)の導入がなされ、ピアノパートもより充実したものになっている。前作同様自作の歌詞には聖書の言葉が引用される。同年3月マルセル・ビュンレの歌唱と作曲者のピアノによって初演され、出版時に『天と地の歌』に改題された。

1. ミとの契り
  直訳すると「ミとの賃貸借契約」となるのが奇妙なためか、原題から離れた邦訳も見られるが、キリスト教における「結婚は神からの信頼を得て貸し出された状態、という理解による」。二人が神によって土から造られたことが繰り返される。

2. 沈黙の讃美歌
  グレゴリオ聖歌風の長大なメリスマによる讃歌が輝かしく歌われる。

3. 可愛いピリュールの踊り
  第3曲と第4曲はパスカルに捧げられている。この曲は遊んでいるパスカルが描かれ、赤子に呼びかけるオノマトペとしてメシアンが創作した「マロンランレンヌ」が多用される。

4. 無邪気な虹
  第4曲では眠るパスカルへの父の思いを描く。

5. 真夜中の表裏
  無垢な乳児に比した大人の罪深さに父親はおののく。エリュアール、ルヴェルディらの詩を模したシュールレアリズム風。

6. 復活
  キリストの復活を高らかに歌う。

c0050810_1072860.jpg  非リート的にドラマティックな歌唱による全6曲の歌曲集であることと、題名の類似からマーラーの『大地の歌』を連想もさせるが、仮に関連があるとしたら、それはマーラーへのオマージュではなくアンチテーゼとしてであろう。信仰を失った「神の死んだ世界」に生きる現代人のペシミスティックな死生観を歌う『大地の歌』に比べて、メシアンの『天と地の歌』は、まるで中世の宗教原理主義の時代に逆戻りしたかのような、天国と復活を信じる楽天的な確信に満ちている。それが、メシアン作品の音楽的魅力は認めつつも、今日より多くの人に強い共感を持たせることを困難にしているのだろう。

  こうして幸福の頂点にあったメシアン夫妻だが、いたましくもその直後から大きな不幸が忍び寄ってくる。クレールが出産後に体調を崩し始め、ついには記憶障害など脳に変調を来して、正常な家庭生活が営めなくなってしまうのである。病の妻に代わって男手一つでパスカルを育てるメシアンに、さらに戦火の暗雲が迫る。1939年の第2次世界大戦勃発である。 (つづく
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by ooi_piano | 2016-06-22 08:55 | コンサート情報 | Comments(0)
つづき

鳥の名の女 イヴォンヌ・ロリオの献身

c0050810_10114411.jpg  ドイツの宣戦布告に伴い招集されたメシアンは、強度の近視のため衛生兵として従軍することになった。1940年6月、ドイツ軍の電撃作戦によりフランス軍は潰走するが、自転車で逃げようとしたメシアンはパンクしてドイツ軍の捕虜になってしまう。その捕虜収容所で同年、食糧難に苦しみながらも作曲し、捕虜の音楽家によるアンサンブルで初演したのが名高い『時の終わりのための四重奏曲』である。
  ドイツに降伏したフランスはペタン元帥が首相となり、かろうじて国家の存続が決まって、安堵した国民はペタンを熱狂的に支持した。占領下でドイツに協力的であった人々の中には、著名なピアニストでエコールド・ノルマルの院長アルフレッド・コルトーがおり、捕虜となった音楽家の釈放に尽力したとされるが、そうしたこともあってか、メシアンの捕虜生活は翌年には終わり、パリに戻ってパリ音楽院の和声クラス教授に就任する。1941年5月7日のメシアン最初の講義を受けた学生のひとりイヴォンヌ・ロリオは深い感銘を受け、メシアンを「天から降りてきた先生」と形容したという。
  14歳でバッハの平均律と、ベートーヴェンの全ソナタを弾きこなしたというロリオをメシアンは「単にピアノ書法のみならず、様式、世界の見方、思考方式をも変えた、唯一の、気高い、天才的な演奏者」とまで賛美する。以後ロリオの協力により、『前奏曲集』以来、クレールとの家庭生活時代に本格的には絶えていたピアノ音楽が、管弦楽作品と共にメシアンの主要な創作ジャンルに浮上することとなる。1943年から1944年にかけての『アーメンの幻影』、『幼児イエスへの二十の眼差し』という大作は、メシアン曰く、イヴォンヌの「前代未聞の超絶的名人技」を想定して書かれ、彼女に献呈されており、上演時の騒動が話題になった、ピアノ、オンドマルトノ、合唱と管弦楽のための『神の現存のための三つの小典礼』でもピアノが大きな役割を果たしている。
  代わってメシアンの創作から後退したのが、クレールの楽器であったヴァイオリンの独奏曲と、メシアンの自作、バッハ、クレールの作品というプログラムを組むこともあったオルガン作品、そして歌曲であった。ヴァイオリン独奏曲は全く姿を消し、オルガン作品も主要なものはクレール時代に集中しており、歌曲は1945年の歌曲集『ハラウィ』が最後で最新の作品となったのである。
 
c0050810_10151429.jpg  『ミのための詩』、『天と地の歌』と『ハラウィ』はメシアンの三大歌曲作品と呼ばれるが、これまで見てきたように前二者がクレールとの「神聖な結婚生活」を描いていたのに対し、『ハラウィ』では全く様相を異にする異教徒のしかも不倫の愛が主題になっており、全二作であれほど希求された厳格な信仰と罪の恐れは影もなく、そこで控え目に描かれていた男女の愛と、その行き着く先の死が中心主題となっている。
  メシアンは『ハラウィ』を、続く超大作『トゥーランガリラ交響曲』と無伴奏合唱曲『5つのルシャン』とあわせて「トリスタンとイゾルデの三部作」と称し、『ハラウィ』はその1曲目だと繰り返し発言している。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』、さらにはそれに連なり独自の世界を築いたドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』は、メシアンが早くから熱愛していた作品であったが、その愛は音楽のみならず、死もモラルも超えた大恋愛という主題にも向けられていたようである。メシアンはアルバン・ベルクの『ヴォツェック』も高く評価していたが、ベルクの作品で一番好きなのは『抒情組曲』であるとし、その理由に、近年明らかにされた、ベルクが自分と愛人ハンナのイニシャル(A.B.とH.F.)を曲中に散りばめていた事実を挙げているのに至っては、いささか無邪気な印象さえ受ける。こうしたことは、「生まれながらの信仰者」を標榜するメシアンにしては奇妙な嗜好に思えるが、そうした指摘に対してメシアンは、大恋愛とは真実の愛、つまり神の愛の反映なのだと反論している。
c0050810_1016287.gif  キリスト教の信仰を持たないものにとって、この議論はさほど興味をひかないものだが、現代における信仰者の作曲家としてメシアンを位置づける者には大きな問題のようである。カトリック信者であるパトリック・カヴァノー:『大作曲家の信仰と音楽』という、バッハに始まり現代に至る大作曲家たちの信仰について書かれた本のメシアンの項は驚くべきものだ。そこではクレール・デルボスとの結婚と、『ミのための詩』と『天と地の歌』を紹介しながら、イヴォンヌ・ロリオの名が一切出てこないのである。さらに『ハラウイ』はもちろん高名な『トゥランガリラ交響曲』の名も省かれ、ひたすら敬虔なカトリック信仰者としての作曲家の姿が美化されて描かれている。不倫の愛もまた神の愛の反映だ、などという強弁は、ここに採用しかねたということであろう。
  こうした歌曲の作風の変化は、作品発表当時も様々な憶測を招いたようで、音楽評論家アントワーヌ・ゴレアは、1957年(クレール存命時)のメシアンへのインタビューからまとめた著書『オリヴィエ・メシアンとの出会い』において、「トリスタンとイゾルデの伝説を思わせる、強く、深い恋愛、ワーグナーとマチルデ・ヴェーゼンドンクの情熱を語っているような恋愛に動揺しながらも、メシアンは彼の情熱を長い間ひたすら音楽に傾けたのであった」などと、メシアンとロリオの恋愛関係を示唆する記述をしている。
c0050810_10163620.jpg  これにロリオは相当遺恨を持っていたようで、メシアン死去の直前、1992年のインタビューでゴレアを名指しで批判しているが、自らの存在がメシアンの『ハラウィ』に何らかの影響を与えたかという質問への答えは『確かに(certainement)』であるとし、こう述べている。
  「私は『ハラウィ』を地上的な愛を表現した曲、それ以前の歌曲集を神に捧げた崇高な愛という様には分けたくない。なぜならメシアンは生涯を通じていつでもカトリック信仰に満ちた人であったからである。私は愛には様々な形、姿があり、どちらが上であるとか高低をつける必要はないと思う。」
  ロリオは『ハラウィ』のどこに影響を与えたのか明確に答えてはいないが、ピアノ書法にロリオの存在が影響していることは間違いない。そしてロリオが第11曲「星の愛鳥"Amour oiseau d'etoile"」の自筆譜から「あらゆる星の鳥たち"Tous les oiseaux des etoiles,"」の箇所を、ピアノパートごとメシアンの墓石に刻ませたのは、その公式的な言葉とは裏腹に、作曲家メシアンの半生を支えた最大の功労者であり妻であるロリオの、大切な愛の思い出であった故ではないだろうか。


 
歌曲集『ハラウィ』 Harawi

c0050810_10173849.jpg  前作に比べ、オノマトペの使用が飛躍的に増大して歌詞の主要部分を占める曲すらあり、エキゾティックなリズムの多用に加えてペルー民謡の導入もなされ、異教的、土俗的様相を呈する。『アーメンの幻影』『幼児イエスへの二十の眼差し』で培われたピアノ書法の高度化も生かされ、ピアノパートは前2作に比べて飛躍的に複雑化し、独立性を高めている。
  メシアンは、ベラクール・ダルクール夫妻によるアンデス地方の民謡集を読み、ペルー民謡の美しさに夢中になり、『ハラウィ』に取り入れたが、単に旋律を取っただけで、旋法は原曲の五音階を「移調の限られた旋法」に変え、リズムも独自のものを用いている。
  歌詞はペルーの古詩に使われているクチョワ語のオノマトペを交えたものを、当時メシアンが愛好していたピエール・ルヴェルディ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトンらのシュールレアリズム詩のスタイルで書いた。メシアン自身によれば、「題名の『ハラウィ』という言葉は、クチョワ語であり(中略)、ペルーの民謡の中にたくさん出てくる「愛と死の歌」を意味している。つまり不幸な、抵抗しがたい恋愛を指しており、2人の恋人たちは死に至る。トリスタンとイゾルデの物語とほぼ同一のものである。ここではイゾルデはピルーチャという名である」。
  歌は前作までと同じく、マルセル・ビュンレの歌唱を想定して書かれ、ピアノパートは「大変難しく、オーケストラ以上にオーケストラ的、つまり多種多様な色彩を持っていると言える」と語っている。

c0050810_10185393.jpg1. 眠っていた街 おまえ
  歌曲集の序の性格を持つ。眠りからの目覚め、愛の目覚めが歌われる。

2. こんにちは、お前、緑の鳩よ
  ペルーで恋人を象徴する緑の鳩に向けて歌う。第7曲、第11曲で再び現れる息の長い主旋律はペルー民謡のものである。ピアノパートには鳥の歌が現れる。

3. 山
  低い音に当てられる「黒」の語は死を象徴する。

4. ドゥンドゥ チル
  「ドゥンドゥ チル」はペルーの愛の儀式舞踊において、踊り手の足首につける鈴の音の擬声語であるという説と、『アメリカインディアンの民謡集』所収のエクアドル民謡の囃子言葉だという説がある。ペルーとエクアドルは隣国であるから両説に矛盾はないかもしれない。 

5. ピルーチャの恋
  若い娘の歌う「トゥング」はおそらく鳩の鳴き声の擬声語。若い男は早くも「僕の首を切り取ってくれ」「愛、そして死」などと濃厚な愛の死の予感に高揚しているようだ。

6. 惑星の反復
  オノマトペが多用され、シュールレアリズム風の奇抜な空想的詩句を用いる。

c0050810_10192868.jpg7. さらば
  第2曲の旋律が循環主題として再び現れる。第2曲が「こんにちは」であったのに対し、第7曲は「別れAdieu」、つまり永遠の別れが歌われる。

8. シラブル
  緑の鳩が再び現れ、オノマトペが多用される。これは猿の声の擬声語であり、猿の声の警告によって危機を脱したインカの王子を記念する「猿の踊り」を模したものと云う。

9. 階段が復唱する、太陽の仕草
  歌詞にトリスタンとイゾルデの「媚薬」のモチーフが現れ、愛による死後の世界がシュールレアリズム的に描かれる。

10. 星の愛鳥
  シュールレアリズムのイギリス人画家、ロラン・ペンローズの絵画から発想したとされる。星空から下向きに突き出た巨大な女の頭から垂れる髪に、下から男の手が伸びるという、『ぺレアスとメリザンド』の一場面を思わせなくもないが奇妙な絵である。メシアンはこの絵を『ハラウィ』全体を象徴するものとしている。

11. カチカチ 星たち
  再びオノマトペが多用され、ピアノに鳥の歌が現れる。

12. 暗闇のなかに
  暗闇の死の世界で再び冒頭の「眠っている街」が現れ、円環構造を示唆するが、そこに「おまえ」はもういない。そして自らも闇の中に消え去ってゆく。

c0050810_10203469.gif  「ミ」のための2部作とも言える『ミのための詩』と『天と地の歌』の、神を敬い罪を恐れる歌詞とはあまりにも違う『ハラウィ』を、病床のクレールはどのように受け取ったのだろうか。その後、「トリスタンとイゾルデ3部作」の第二部に当たる、ボストン交響楽団から委嘱された異形の大作『トゥーランガリラ交響曲』が初演される頃には、クレールの病状は更に悪化していったという。最後の作曲は1951年。その後サナトリウムに収容される。
  同じころロリオは運転免許を取得し、運転のできないメシアンを乗せてクレールの見舞いに連れて行ったり、鳥の鳴き声の採譜のために郊外へ共に行くのが常となったという。そして1959年、クレール・デルボスはサナトリウムでこの世を去る。死後2日目に執り行われた葬儀に、演奏旅行先から駆け付けたロリオをメシアンは駅で出迎え、結婚を申し込んだ。そして3年後の1962年に二人は結婚する。「20年間、2人はこの時を待っていたと言える」。
  その後のロリオのメシアンへの、その没後にまで及ぶ献身ぶりは広く知られている。晩年の大作オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』に至る多くの作品の創作も、20世紀の大作曲家として確固たる名声の確立も、ロリオの尽力なくしては考えられない。
  ロリオの名Loriodは、メシアンがロリオの協力のもとに書きあげた高名なピアノ曲集『鳥のカタログ』の第2曲「ニシコウライウグイス Loriot」と一字違いであり、発音が全く同じ同じである。メシアンは、ロリオ夫人の名前について特に言及を残していないと言うが、自称鳥類学者のメシアンが何事か思わぬはずもないだろう。この鳥は鮮やかな黄色をしているが、面白いことに色彩への強いこだわりのあるメシアンは、黄色は好きでないという。にもかかわらず、『鳥のカタログ』のロリオによる世界初録音のLPジャケットには、Loriotの絵が飾られている。これは鳥の名と演奏者の名をかけたデザインにまず違いなく、おそらくはメシアンの意向によるものと思われる。
 
c0050810_03415431.jpg  ロリオと結婚後、メシアンは公式にはクレール・デルボスについてほとんど言及しておらず、『天と地の歌』で歌われたパスカルについても、その後高校のロシア語教師になったということ以外のことはあまり知られていない。そうしたメシアンに対し人柄を冷淡と見る向きもあったが、おそらくは献身的な後妻ロリオへの遠慮もあったのだろう。近年明らかになったところでは、ロリオと結婚後も、メシアンの仕事場の机上にはクレールの写真が飾られ続けていたといい、パスカルとはその妻ジョゼットと共にしばしば食事をしていたそうである。





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by ooi_piano | 2016-06-22 07:55 | コンサート情報 | Comments(0)
連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016 《先駆者たち Les prédécesseurs》

山村サロン (JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階) 芦屋市船戸町4-1-301 http://www.y-salon.com/
チケット:全自由席 前売り¥2500 当日¥3000 3回通しパスポート¥7000
予約/問い合わせ: 山村サロン 0797-38-2585 yamamura[at]y-salon.com


【第一回】 2016年6月18日(土)午後6時開演 (午後5時半開場)

●クロード・ドビュッシー(1862-1918):2つのアラベスク(1888/91) 8分
  第1番ホ長調 - 第2番ト長調
:シュタイヤーマルク風タランテラ(舞曲)(1890) 5分
:ベルガモ組曲(1890/1901) 16分
  I.前奏曲 - II.メヌエット - III.月の光 - IV.パスピエ
:ピアノのために(1896) 12分
  I.前奏曲 - II.サラバンド - III.トッカータ
:版画(1903) 14分
  I.塔 - II.グラナダの夕べ・・・ - III.雨の庭
●橋本晋哉(1971- ):ピアノ独奏のための《ゆたにたゆたに》(2016、委嘱新作初演)  4分

 (休憩10分)

●クロード・ドビュッシー:仮面(1904) 5分
:喜びの島(1904) 5分
:映像 第1集(1905) 15分
  I.水の反映 - II.ラモーを讃えて - III.運動
:映像 第2集(1907) 14分
  I.葉ずえを渡る鐘の音 - II.そして月は廃寺に落ちる - III.金色の魚
:子供の領分(1906/08) 16分
  I.グラドゥス・アド・パルナッスム博士 - II.象の子守唄 - III.人形のセレナード - IV.雪は踊っている - V.小さな羊飼い - VI.ゴリウォーグのケークウォーク

(休憩10分)

●クロード・ドビュッシー:舞踊詩「遊戯」(1912/13)(作曲者による独奏版/日本初演) 17分
:12のエチュード集(1913/15)   45分
  I.五本の指のために(チェルニー氏による) - II.三度のために - III.四度のために - IV.六度のために - V.八度のために - VI.八本の指のために - VII.半音階のために - VIII.装飾音のために - IX.反復音のために - X.対比された響きのために - XI.組み合わされたアルペジオのために - XII.和音のために


使用エディション/デュラン社新全集版(2004/07)




●橋本晋哉:ピアノのための《ゆたにたゆたに》(2016)
  大井浩明さんの委嘱により作曲。タイトルの「ゆたにたゆたに」とは、ゆらゆらと漂い動くさまの意。万葉集に詠まれた、《我が情(こころ) ゆたにたゆたに 浮蓴(うきぬなは) 辺(へ)にも奥(おき)にも 寄りかつましじ》(作者未詳 万葉集 巻7-1352)に依っている(最初は「うきぬな」=「じゅんさい」が詠まれていることに興味を持ったのだが......)。曲はギヨーム・ド・マショー(1300-1377)のバラード《ご婦人よ、見つめないで下さい(Dame, ne regardes pas)》が基になっており、全体を通じてその構造は保ちつつも、多くの変形したモチーフによって修飾され、それらは原曲との間を行きつ戻りつする。(橋本晋哉)

●橋本晋哉 Shinya HASHIMOTO, composer
c0050810_7185841.jpg  1971年生まれ。エリザベト音大博士課程を経てパリ国立高等音楽院修了。2002年アヴァン・セーヌ(フランス)第1位、日本現代音楽協会演奏コンクール第2位、2003年ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール特別賞、「東京現音計画」のメンバーとして第13回佐治敬三賞受賞。アンサンブル・イクトゥス、ミュージック・ファブリック、アンサンブル・アンテルコンタンポラン等での演奏、アゴラ音楽祭、レゾナンス音楽祭(IRCAM)への出演等。秋山和慶指揮東響とのB.シュテルンのテューバ協奏曲《生贄》日本初演、飯森範親指揮東響とのH.ラッヘンマンのテューバ協奏曲《ハルモニカ》日本初演、杉山洋一指揮都響とのM.スモルカのテューバ協奏曲《テューバのある静物画》日本初演など、テューバの超絶的ヴィルトゥオーソとして確固たる評価を得ている。16世紀フランス由来の古楽器「セルパン」を用いての古楽分野での活動も多い。作曲作品に、独唱のための《夜想曲》(2006)、フルート四重奏とセルパンのための《グリモワール》(2007)、バリトンとチューバのための《海峡》(2010)等。公式サイト: http://shinyahashimoto.net




ディアギレフと三人の作曲家たち(1) ───────山村雅治
<ドビュッシーをめぐって> 不在の牧神のための頌歌



Je tiens la reine !         われは女神を抱く。
…O sûr châtiment...          おお 重き罪科……
(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳) 
  

1

  ニジンスキーは悲しい。彼の手記を読みはじめると冒頭の「人々は、ニジンスキーが悪いことをして気狂いの真似をしているといっている」から鷲掴みにされ、「私はニーチェが好きだ。彼ならば私を理解しただろう」を経て「私は神である、私は神なのだ。神なのだ。……」に至ると、訳もなく涙があふれだした。口絵に見る彼の姿が映された写真も、舞台衣装であれ日常の服装であれ、どれもたまらなく悲しい。

  1971年初版の『ニジンスキーの手記』(市川雅訳。現代思潮社刊)を手にしたとき、私は18歳だった。頭の中には『ツァラトゥストラ』のニーチェの言葉と、『地獄の季節』のランボオの詩だけが渦巻いていた。ニジンスキーとニーチェは精神に変調をきたした。超越は尋常ならざる代償を伴う。習慣と常識に覆われた日常の表皮は分厚く、飛翔すればたちまち空気が薄くなってしまう。そして、ランボオとニジンスキーはともに年長の男性と交わり「感覚の錯乱」を体験した。行為において性別が破壊され、日常に規範も意味もなくなった。母音に色が見えたランボオは「酔いどれ船」に乗り詩を旅した。存在とは何かを、もはや問わない。存在そのものになったとき、人間が人間でなくなる。神になり気が狂う。脱け出すことができたランボオは21歳で筆を折り商人になった。ニジンスキーの手記は1918年から1919年にかけて、舞台から降りざるを得なくなった失意と絶望のなかで書かれた。いや、書かれたというよりは、言葉の槌で刻み付けられ、生命の火花が飛び散るようだ。29歳の1919年に幻覚がはじまり、以後60歳の1950年に死を迎えるまで、30年間を狂気のままに生きていた。

  ニジンスキーの「手記」の完全版なるものが世に出されたのは後年のこと。私の読んだ「手記」は1936年に未亡人のロモラ・ニジンスキーが出したもので、彼女が1978年に世を去ったのちに1995年、「無削除版」の仏語訳が突如出版された。ロモラが出したものは「抜粋版」で、「完全版」は1998年に邦訳された。(『ニジンスキーの手記 完全版』 ヴァーツラフ・ニジンスキー著 鈴木晶訳 新書館刊。英訳は The Diary of Vaslav Nijinsky  by Vaslav Nijinsky (Author), Joan Acocella (Editor)  University of Illinois Press; Unexpurgated ed. Edition)。
  ロモラが編んだ「抜粋版」には「完全版」に記されていた、性に関することや卑猥な表現が削られていた。ロモラへの悪口、フレンケル医師に関する記述もなかった。ニジンスキーが書き刻んだ言葉の全貌には再び圧倒された。全体は『セルゲイ・ディアギレフへの手紙 男に』で結ばれる。「男から男に ヴァーツラフ・ニジンスキー」が最後の一行だった。別れてもなお、心身を喪失しつつあってもなお、ニジンスキーはディアギレフへ言葉を書かなければならなかった。ディアギレフは「残酷な神」のようにニジンスキーを支配し続けたのか。



2

  ニジンスキーが踊る姿は記録されていない。しかし、現代のパリのバレエの関係者たちが総力を挙げて「バレエ・リュス 100年」に当時の舞台を蘇らせた映像がある。2010年2月19日(金) NHK教育テレビ「芸術劇場」で放映されたものだ。作品と人名の表記は当時のNHKにしたがう。

パリ・オペラ座バレエ『バレエ・リュス・プログラム』
・バレエ「ばらの精」Le Spectre de la Rose (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:ウェーバー作曲/ベルリオーズ編曲
 美術:レオン・バクスト
 主演:マチアス・エイマン、イザベル・シアラヴォラ

・バレエ「牧神の午後」L'Apres du Midi d'un Faune  (1912初演)
 振付:ワツラフ・ニジンスキー
 音楽:クロード・ドビュッシー
 美術:レオン・バクスト
 主演:ニコラ・ル・リッシュ、エミリー・コゼット

・バレエ「三角帽子」Le Tricone  (1919初演)
 振付:レオニード・マシーン
 音楽:マヌエル・デ・ファリャ
 美術:パブロ・ピカソ
 主演:ジョゼ・マルティネズ、マリ・アニエス・ジロ

・バレエ「ペトルーシカ」Petroushka  (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
 美術:アレクサンドル・ブノワ
 主演:バンジャマン・ペッシュ、クレールマリ・オスタ、ヤン・ブリダール、ステファン・ファヴォラン

<出演>パリ・オペラ座バレエ団
<指揮>ヴェロ・パーン
<管弦楽>パリ・オペラ座管弦楽団
<収録>2009年12月 パリ・オペラ座 ガルニエ宮

  100年祭に選ばれたプログラムは「三角帽子」のほかは、すべてニジンスキーが踊ったものだ。なかでも「牧神の午後への前奏曲」は彼の振付師としての第一作。もちろん主役の牧神として踊った。ディアギレフの発案だった。美術はバクストで、彼とニジンスキーはギリシアのレリーフに心酔していた。バレエ・リュスは、いままで人が見たことがない作品を創造しなければならない。はたして1912年5月29日の初演後、熱狂した喝采と野次と怒号が同時に耳をつんざいた。もちろんドビュッシーの音楽に対してではない。ニジンスキーの振付と踊りに対しての反応だった。終わりの部分でニジンスキーはニンフから奪ったヴェールの上に腹ばいになって腰を上下に動かし、性行為を暗示していたのだ。

  翌朝の新聞で「フィガロ」紙はガストン・カルメット編集長が、あしざまにこきおろす。――あれは美しい田園詩でも、深遠な意味をもった作品でもない。あの好色な牧神のエロティックな動きは猥褻かつ下品で、その身振りは露骨で淫らである。――
  絶賛したのは「ル・マタン」紙だ。――ニジンスキーの最近の役柄のなかで、これほど傑出したものは他にない。もはや跳躍はなく(…)、彼の肉体はその内の精神を余すことなく表現している。(…)クライマックスで、彼はニンフから奪ったヴェールの上にうずくまり、接吻し、抱きしめ、熱情的な忘我に至る。この衝動ほど印象的なものがあろうか。――
  この絶賛は彫刻家オーギュスト・ロダンの署名記事だったが、ロダンは一行も書かなかった。そのことが問題になった後でも、ロダンは「記事の一言一句も」取り下げるつもりはないと言い切った。(このあたりはDiaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照している)。
  真っ二つに割れた評価のなかで、2回目の公演が5月31日に開かれた。「牧神はヴェールのなかに股を挿入することはなく、跪いたまま終わる。この改訂版がは喝采と『アンコール』の声に迎えられる」。(前掲書)。

  2009年のパリ・オペラ座公演での「牧神」は、ニコラ・ル・リッシュが踊った。細身とはいえない筋肉質な体型はニジンスキーを髣髴とさせた。秀逸なバクストの美術を背にして、舞踊家の能力を誇らしげに展示する跳躍は封じられ、この上なく優雅にダンサーたちが横切っていく。初演の振付が再現された。あれから100年の歳月が経ちなんの違和感もなく、すばらしいものを見た。この作品こそが旧来のバレエに対する革命だった。バレエ・リュスの新しい時代がここに始まったのだ。



3

  ヴァーツラフ・ニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)は、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)が創設したロシア・バレエ団(バレエ・リュス Ballets Russes 1909-1929)でヨーロッパを震撼させた男性バレエ・ダンサーだ。
  ディアギレフはリムスキー=コルサコフに「作曲の才能がない」と指摘され、芸術家になることをあきらめた青年だった。彼の才能は芸術を紹介することに向けられ、1897年、手始めに帝政ロシア国内で絵の展覧会を企画した。以降6回の展覧会を経て、1905年にサンクトペテルブルクのタヴリーダ宮殿で開かれた「ロシア歴史肖像画展」を開き、それが最後の彼の国内での活動になった。1905年は「血の日曜日」「ロシア第一革命」の年だ。日露戦争の戦況もかんばしくない。「西欧にロシア芸術を紹介する」ことに舵を切ったのは、そこにしか行く道がなかったからだ。
  1906年、パリのプチ・パレでロシア画家の展覧会を成功させたのを皮切りに、1907年にはパリ・オペラ座で5日間にわたるロシア音楽の演奏会を開いた。ラフマニノフ、スクリャービン、リムスキー=コルサコフ、グラズノフらが自作を演奏し、シャリアピンがボロディンの『イーゴリ公』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』のアリアを歌った。さらにはニキシュがチャイコフスキーを指揮した。これで大成功しないわけがない。歩みは続く。翌1908年、シャリアピンを主役にパリ・オペラ座で『ボリス・ゴドゥノフ』を全幕上演。大成功だ。

  1909年。彼の興業に、オペラに加えてようやくバレエが発案される。しかし企画段階のさなかにディアギレフの最大の資金援助者だったヴラジーミル大公が亡くなった。海外で成功すれば国内では誹謗中傷に巻き込まれる。帝室からの援助はない。帝室劇場の道具を貸し出してもらえない。リハーサル会場さえ使うことができなくなった。莫大な経費がかかるオペラをあきらめてバレエだけにした。
  成果はパリ・シャトレ座、1909年5月19日に開かれた「セゾン・リュス」(ロシアの季節)は、

『アルミードの館』(音楽:チェレプニン)
『韃靼人の踊り』(音楽:ボロディン)
『レ・シルフィード』(音楽:ショパン作曲/ストラヴィンスキー、グラズノフ、タネーエフ、リャードフ、ソコロフ編曲)
『クレオパトラ』(ロシア音楽メドレー:アレンスキー、タネーエフ、ムソルグスキー、チェレプニン、グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ)
『饗宴』(ロシア・バレエ音楽メドレー:グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー)

  これらの作品が演目に上がった。振付師ミハイル・フォーキン、ダンサーにアンナ・パヴロワやヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサヴィナらがいて、これを事実上の「バレエ・リュス」旗揚げと見なすこともできるだろう。ディアギレフの舞台へのニジンスキーのデビュー公演でもあった。

 ニジンスキーはディアギレフに出会う前からバレエ界では知られていた。17歳の頃、彼を採り上げた最初の批 評から「静止しているような跳躍」が絶賛され「稀に見る天才」が出現したと書かれている。ディアギレフに近かった批評家、ワレリアン・スヴェトロフは「彼のダンスの芸術的な特質は並外れているが、同時に、天才的な役者であることを示した」、と。
  『ディアギレフ』(シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房)にはダンサーとパトロンについての記述がある。要約して引用する。
  ――1907年、17歳当時、ニジンスキーにはパーヴェル・リヴォフ公爵という後援者がいた。当時、男性女性にかかわらず、バレエ・ダンサーがパトロンの「世話になる」ことはきわめて自然で、パトロンは、性的関係と引き換えに、ダンサーたちを経済的に援助し、上流階級に紹介した。暗黙の階級制があり、しばしば仲介業者を通じて、最も優れた、あるいは最も美しいダンサーは最も裕福なパトロンに囲われた。――
  1907年から1908年にかけての冬に、ディアギレフはニジンスキー、リヴォフと青年時代からの友であるヌーヴェリと三度食卓を囲んでいる。ニジンスキーの方がディアギレフに熱心だったという。そして1908年秋、彼ら二人は親密になった。以後5年にわたり、ディアギレフのバレエ団はニジンスキーを軸に恐ろしいほどの勢いで回転していく。

  1909年の公演を見たハリー・ケスラー公爵は、ホフマンスタールに手紙を書いた。ニジンスキーは蝶のようだが、同時に男らしさや若さの象徴でもある。バレリーナも劣らず美しいが、彼が登場すれば霞んでしまう、と。そして翌日再び
  ――これほど美しく、これほど洗練され、劇場で上演されてきたありとあらゆるものをはるかに超越した「模倣芸術」がこの世にあるとは、夢にも思いませんでした。不思議ですが、本当です。女性たちも、ニジンスキーと何人かの男たち、というより少年たちも、生きた若い神と女神として、もっと高い、より美しい別世界から降りてきたようでした。私たちはまさに新しい芸術の誕生を目撃しているのです。――(前掲書)。
  このときまでに用いられた音楽は、まだ新しい響きがする音楽はなかった。翌1910年、『火の鳥』でストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)がバレエ・リュスにデビューするまでは。



4

  ディアギレフは1909年公演が終わると、翌年以降の方向について二つの決定をした。ひとつは毎年必ず新作を複数上演すること。もうひとつは、ロシア人以外の才能を発掘することで、フランス人の作曲家のクロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)とモーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)に近づいていった。
  ドビュッシーは、バレエ・リュスの1910年6月23日のパリ・オペラ座公演の『火の鳥』初演を見ていた。作曲はイーゴリ・ストラヴィンスキーというロシアの若い作曲家。ニジンスキーは主役ではなく「金の奴隷」を踊っていた。ドビュッシーはジャック・デュランに書き送っている。――『火の鳥』は完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。(…)なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です。――
  1911年6月13日、パリ・シャトレ座で『ペトルーシュカ』が初演された。ニジンスキーが主役を踊った。ドビュッシーはロベール・ゴデに書いた。――ストラヴィンスキーは、色彩とリズムに関して本能的な才能をもっています。子供っぽいと同時に、野性的です。それでいて、全体の構成はじつに繊細です。――
  その後、ストラヴィンスキーから『ペトルーシュカ』の楽譜を贈られたドビュッシーは「どうもありがとう」と礼状を書く。――この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。(…)きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です。――

  ドビュッシーはこれらのバレエ・リュスとニジンスキーの踊りを見たあと、1912年5月29日の自作『牧神の午後への前奏曲』のニジンスキー振付デビュー作にして主役を踊る舞台を目の当たりにする。
  1911年10月26日、ディアギレフからこの曲をバレエに使いたいと打診を受け、ドビュッシーは許可した。10分あまりの作品の振付の稽古の数は100回を超えたという。
  ドビュッシーは、しかしニジンスキーの振付を批判した。――ニジンスキーが私の作品にどのような類の振付を考えたか、私にはまったく想像もつきませんでした。悪い予感がしていたのは本当です。(…)舞台の上で、ニンフや牧神たちが、まるで操り人形ででもあるかのように、あるいはむしろダンボール製の人形ででもあるかのように、しかも、つねに横向きで、いかつく、角ばって、また古風かつグロテスクに様式化された身振りで動くのを見て感じた恐怖については、お話するのをあきらめますよ!――
  「カーブした旋律線に溢れ、揺れ動く、揺りかごのような動きの音楽」と、ニジンスキーの振付が「耐え難い不調和」だと嘆く。(Claude Debussy: Biographie Critique by Francois Lesure , Klincksieck 『伝記 クロード・ドビュッシー』フランソワ・ルシュール著 笠羽映子訳 音楽之友社刊)。
  一方、ニジンスキーはニジンスキーで、この音楽が必ずしも彼の理想のものではなかったという資料もある。色彩を評価しつつも「自分の構想した動きのためには、あまりにもぼんやりとし、あまりにも甘美だ」と考えていて、「耳障りなところがないという点を除いて、あらゆる点で満足していたのだ」。(前掲書)。

  このように作曲家と振付・舞踊家は互いに違和を感じあっていた。にもかかわらず、ドビュッシーはバレエ作品『遊戯』の契約をディアギレフと1912年6月8日に結んだ。テーマは当時の「未来派」というべきか、1920年の近未来に設定され、飛行機あるいは飛行船ツェッペリンが空に浮かぶという背景に、登場人物はテニスウェアを着た三人の踊り手だけ、というのが草案だった。

  ニジンスキーは「手記」のなかで書いている。
  ――私がこのバレエを作った当時、私はディアギレフとの「生活」の感化を受けていた(…)。『牧神』は私であり、『遊戯』はディアギレフが夢想した生活である。彼は恋人として二人の少年を所有していたかったのだ。彼はよくそう話したが、私は拒否した。ディアギレフは同時に二人の少年と寝たかった。そして、少年達に愛撫してもらいたかった。バレエの中では、二人の少女が二人の少年のかわりをしていて、若者はディアギレフである。三人の男の恋愛関係は舞台上では表現できないので、役柄を変えた。私はこの邪悪な愛の着想を嫌悪していたが、観客にも嫌悪してもらいたかった。だが、私はこのバレエを完成し得なかったのだ。ドビュッシーもまた、この物語を好んでいなかった(…)――(『ニジンスキーの手記』市川雅訳 現代思潮社刊)。

  『遊戯』の初演は1913年5月15日、パリ・シャンゼリゼ劇場。失敗だった。ただし、不成功はバレエに関してのことであり、音楽に関してではない。ディアギレフは『遊戯』をドビュッシーの最高傑作のひとつであると認めていた。ニジンスキーはバクストが作った衣装を着けたが「黒いベルベットで縁取られ、緑のズボン吊りのついた、白いショートパンツ」は、かなり女性的だった。ディアギレフは三人の男女ができるだけ同一に見えるような化粧をすることと、男であるニジンスキーが女性ダンサーしかしない爪先立ちで踊ることを要求した。性別の認識をぼかす、ということだ。これもまた、100年後の現代を先取りしたものだったといえる。



5

  先取りといえば、当時のバレエ界では男性ダンサーが主役を務めるのはニジンスキーが初めてだった。近年ではモーリス・ベジャールが率いた20世紀バレエ団がその伝統を受け継いでいた。また1910年、ニジンスキーは帝室マリインスキー劇場から解雇されたが、その理由は『ジゼル』(音楽:アダン)を踊るのに6月18日にディアギレフのバレエ団でのパリ公演で使った衣装を着けたからだ。それまでの伝統的な衣装は上着が長く、膝あたりまでが隠された。美術家ブノワが作った衣装はタイツが肌にぴったりで、上着はベルト付きの短いチュニック。腰回りの体の線がはっきりと見えた。この衣装が「猥褻」という理由で帝室劇場から解雇され、めでたくニジンスキーはディアギレフ・バレエ団のダンサーに専念できることになった。現代の男性バレエ・ダンサーの舞台衣装の「常識」はニジンスキーが切り拓いたものだった。

いな、されど
言葉の空なる霊も 重く疲れし肉体も、
真昼の驕れる深閑に 終に 打負け臥転ぶ。
そのまま寐ねよ 冒瀆の癡言を忘れ、喉は乾き、
真砂の上に仆れ伏して、葡萄の美酒にあらかたの
あまづたふ日に、口をひらくは われのこよなき逸楽ぞ。

さらばよ、水波女、移り変りしなが幻影をわれは眺めむ。

(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳)

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by ooi_piano | 2016-06-10 18:17 | コンサート情報 | Comments(0)
c0050810_15372819.jpg平成28年度京都大学創立記念行事音楽会

飯田みち代ソプラノ・リサイタル
Michiyo Iida Soprano Recital

2016年6月17日(金)午後7時開演(午後6時15分開場)
京都コンサートホール 大ホール (京都市左京区下鴨半木町1-26) 

入場無料

飯田みち代(ソプラノ)/大井浩明(ピアノ)
Michiyo IIDA, soprano Hiroaki OOI, piano

※京都大学学生証または職員証・認証ICカードをお持ちでない、学外の方で入場を希望される場合は、前日(6月16日(木))午後9時までに、こちらのメールフォーム(http://ws.formzu.net/fgen/S6407487/)から氏名をお知らせ下さい。

※その他のお問い合わせ: 京都大学教育推進・学生支援部厚生課 課外活動掛 075-753-2511, 075-753-2504, 075-753-2514
840kagai[at]mail2.adm.kyoto-u.ac.jp

http://www.med.kyoto-u.ac.jp/blog/japan/kyoumu-news/ongakukai/




【演奏曲目】

c0050810_15403580.jpg■グスタフ・マーラー(1860-1911):《リュッケルトの詩による5つの歌曲》(1901/02) 19分
  I. わたしはほのかな香りを吸い込む - II.わたしの歌をのぞかないでください - III.美しさ故に愛するなら - IV.真夜中に - V.わたしは世間から忘れ去られた
Gustav Mahler: Fünf Lieder nach Rückert (1901/02)
Ich atmet' einen linden Duft - Blicke mir nicht in die Lieder! - Liebst du um Schönheit - Um Mitternacht - Ich bin der Welt abhanden gekommen

■リヒャルト・シュトラウス(1864-1949):《4つの最期の歌 TrV 296》(1948/49)  約22分
  I.春 - II. 9月 - III. 眠りにつくとき - IV. 夕映え
Richard Strauss: Vier letzte Lieder (1948/49)
Frühling - September - Beim Schlafengehen - Im Abendrot


(休憩15分)

c0050810_1542736.jpg■カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(1892-1988):《R.シュトラウスの歌劇「サロメ」(1905)より最終場面 KSS70》(1947、日本初演) 約13分 [ピアノ独奏]
~〈おう、ヨカナーンや、お前はこの口に接吻をさせなかったのね〉~〈お前の娘は化物だ〉
Kaikhosru Shapurji Sorabji: "Schlußszene aus Salome von Richard Strauss KSS70" für Klavier (1905/1947, japanese premiere)

■アルバン・ベルク(1885-1935):歌劇《ルル》より「ルルのうた」(1935)  約3分
Alban Berg: "Lied der Lulu" aus der Oper "Lulu" (1935)

■ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-1835):歌劇《ノルマ》第1幕より「清らかな女神」(1831) 約5分
Vincenzo Bellini: "Casta Diva" aus der Oper "Norma" (1831)

■ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901):歌劇《椿姫》第1幕より「ああ、そは彼の人か」(1853) 約7分
Giuseppe Verdi: "E' strano" aus der Oper "La Traviata" (1853)



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飯田みち代(ソプラノ)
c0050810_15442827.jpg  愛知県出身。京都大学教育学部教育心理学科卒業。声楽を故引田リエコ、M.ランティエリ、S.ギオーネ、C.スタニシェフに師事。1990年日本イタリア声楽コンコルソ金賞受賞以来、飯塚新人コンクール大賞、日伊声楽コンコルソ第2位受賞。朝日ABCコンサート優秀賞受賞。NHK新人オーディション合格。平成17年度愛知県芸術文化選奨受賞。
  『ヘンゼルとグレーテル』グレーテルでオペラデビュー。『椿姫』ヴィオレッタ、『リゴレット』ジルダ、『ランメルモールのルチア』ルチア、『愛の妙薬』アディーナ、『セヴィリアの理髪師』ロジーナ、『こうもり』ロザリンデ、ヴォルフ=フェラーリ『スザンナの秘密』スザンナ、『ねじの回転』家庭教師、『ラ・ボエーム』ミミ、『夕鶴』つう、『魔笛』夜の女王、等で出演。02年二期会『椿姫』フローラで出演。
  「第9」や「メサイア」、「天地創造」など交響曲、宗教曲などのソリストを務め、日本だけでなくイタリア、ドイツ、オーストリアにおいてもコンサートやリサイタルなどに出演。幅広く活躍している。2003年11月日生劇場・二期会共催公演『ルル』タイトルロールでの好演は魅惑のディーバへの期待に十二分に応えた(『ルル』は2003年度 ミュージック・ペンクラブ賞受賞)。2004年7月 王子ホール委嘱作品ギリシャ劇「エレクトラ3部作」<アトレウス家の破壊と再生>のタイトルロール、2005年7月<弟オレステスの放浪と帰還>での活躍はセンセーションを放った。
  2005年3月東京二期会オペラ公演『魔笛』夜の女王、2006年2月同公演『ラ・ボエーム』ムゼッタで出演し、いずれも高い評価を得る。2008年7月東京室内歌劇場『夜長姫と耳男』(坂口安吾原作/間宮芳生作曲)の夜長姫役、2010年3月サントリー音楽財団創設40周年記念オペラ『パン屋大襲撃』(望月京作曲、村上春樹原作)ミヤでも好評を博した。 2010年5月、ラ・フォル・ジュルネ ショパンの宇宙(東京国際フォーラム)に出演。2012年11月、日生劇場開場50周年記念特別公演『メデア』に主演。2014年11月、日生劇場『アイナダマール』(日本初演)マルガリータ・シルグ等でも存在感を示した。「声の陰陽を使い分け、人物像を描き出す驚くべき才能」(『音楽現代』誌批評)と絶賛され、2015年音楽之友社によるアンケートでは、世界のディーヴァベスト100のひとりに選ばれた。
  CD「飯田みち代愛を歌う」「Michiyo Iida singt Richart Strauss und Alban Berg」「前田佳世子歌曲集」などがリリースされている。二期会会員。


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by ooi_piano | 2016-06-09 15:19 | コンサート情報 | Comments(0)