c0050810_1211216.jpg

c0050810_723323.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)


【ポック[POC]#28】 2016年11月23日(水・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン

■チャールズ・アイヴズ(1874-1954): スリーページ・ソナタ(1905) 約8分
  Allegro moderato - Andante - Adagio - Allegro / March time

■チャールズ・アイヴズ:ピアノソナタ第1番(1902/09)  約45分
  第1楽章 Adagio con moto - Andante con moto
  第2楽章 Allegro moderato (第1節 [IIa]) - Allegro 「宿の中で」(第2節 [IIb])
  第3楽章 Largo - Allegro
  第4楽章 (Allegro) [IVa] - Allegro/Presto [IVb]
  第5楽章 Andante maestoso - Allegro
  
 (休憩15分)

■藤井健介(1979- ):《セレ Sèlèh》 (2016)(委嘱新作・世界初演)  約4分

■チャールズ・アイヴズ:ピアノソナタ第2番《マサチューセッツ州コンコード 1840~1860年》(1909-15) 約45分
  第1楽章 〈エマスン〉
  第2楽章 〈ホーソーン〉
  第3楽章 〈オルコット親娘〉
  第4楽章 〈ソロー〉


藤井健介:《セレ Sèlèh》 (2016)
c0050810_12121846.jpg  アンサンブルのための近作で私は、自律的に動く複数の線をまずは同居させ、それから衝突を調整し、全体の辻褄が合う道を探るという作曲方法を試している。具体的には、独奏曲のように1つの声部を始めから終わりまで作り、終われば次の声部を別個に作り、重ね、調整する、という方法である。ある声部を作る際にはコンピュータでループレコーディングを行いながら、実際のテンポで鍵盤を弾き、「納得のいく動きが作れるまで」MIDIデータの録音を行う。これは、ある“調子”や“節”を共有する人々による架空の民族音楽をトレースするような作曲方法かもしれない。
  本作もその作曲の延長線上にあるが、「トレース」に、より重きが置かれている。特に本作では、記譜されることのない民族音楽的なリズムの揺れを五線上の音価として定量的に記譜することで、そのグルーヴに再現性を与えることを試みた。曲中の各フレーズのリズムは、ジャワガムランのなかでも形式が同じ数曲の音源をコンピュータで解析して音のアタックを検出し、得られた特徴的な連なりを抽出・再構成することで作られている。つまり本作はガムランにおけるある奏法の「訛り」の標本化でもある。西洋式記譜のグラフ上にマッピングされたそれらは視認し難く、演奏困難だが、正確であればあるほど、Tempo rubato や Senza tempo よりも複雑かつ自然な揺れとズレが聴こえてくるだろう。
  セレ Sèlèh とはガムランにおいて、4拍ごとに形成される小節のような時間単位の最終拍(4拍目)の音を意味する用語だが、今回は「辻褄合わせ」を象徴する語句として題に戴いた。ヘテロフォニーとされるガムランの音響は、1本の線から分岐した変奏の集合にも聴こえるが、実際のところ、もともと自律した異なる線がそれぞれセレへの方向感をもつことによって、最大公約数のような太い線が現れる様子に近い。(藤井健介)

藤井健介 Kensuke FUJII, composer
c0050810_12124165.jpg  1979年生。器楽の作曲、音源制作、ラップトップによる電子音即興、ジャワガムラン演奏を行う。東京音楽大学作曲科卒業、作曲を伊左治直に、ジャワガムランを佐藤まり子に師事。近作に、《Dubbing Dance Steps》(2010, vn/va/vc)、《Daphne and Violet》(2012、va/viola da gamba/cb/pf)、《Apple Symbols ttf CPY》(2015、ラップトップ即興のためのプログラム)等。演出家・小池博史とパパ・タラフマラ以来これまで長く協働し、そのパフォーミング・アーツ作品に多数参加。近年では《注文の多い料理店》《銀河鉄道》《マハーバーラタ Part 1〜3》等で作曲を担当。エレクトロ・アコースティック作品《Varfix》がジョグジャカルタ現代音楽祭の招聘作品となる。映像作家・田中廣太郎との協働によるミュージック・ヴィデオ『Varfix』でDOTMOV2010入選。「Contemporary Conversations 04」「電力音楽奉納演奏会」などでラップトップ演奏を行う。ガムラングループ「ランバンサリ」所属。邪伝説バンド「平和ボケ」ラップトップ担当。




アイヴズは、どの「戦後前衛」の先駆者だったのか ───野々村 禎彦

c0050810_12172068.jpg チャールズ・アイヴズ(1874-1954) が正式な音楽教育を受けたのは、1894年にイェール大学に入学してからだが、基礎的な教育は同年に逝去した父親のジョージ・アイヴズから受けていた。南北戦争で北軍軍楽隊の隊長を務めた父は、その後もアマチュア吹奏楽団を率い、彼は父の楽団の打楽器奏者として音楽を始めた。13歳から教会のオルガン奏者を務め、最初の作品はオルガン独奏のための《アメリカ変奏曲》(1891) である。当時の米国国歌(英国国歌《女王陛下万歳》に独自歌詞を付けたもの)に基づく変奏曲であり、賛美歌・フォスターなどの民衆歌・クラシックの泰西名曲の旋律を素材とする、彼のその後の創作の出発点でもある。

 賛美歌の伴奏がオルガン奏者の仕事、民衆歌や泰西名曲は父の趣味ということだが、,彼が父から受けた影響は大きかった。近所の吹奏楽団を集め、調もテンポも違う曲を広場のあちこちで演奏して複調・ポリテンポ・音響の空間配置等を試みていたことは名高いが、これに限らず「前衛的」とされるアイヴズの試みはすべて父譲りだという。大学で和声規則を学んで困惑する息子に「気に入らなければ守る必要はない」とすら教えた。こんな父のもとで育った彼にはアカデミズムは保守的すぎた。交響曲第1番(1898-1901) は大学卒業作品に手を加えたものだが、この程度の穏健な曲でも悪ガキ扱いされる現実を前に、「不協和音で飢えるのはご免だ」と、保険業界を生業に選んだ。

c0050810_12174287.jpg ファイ・ベータ・カッパに属する優秀なアイビーリーガーだった彼は、生業でも才能を発揮した。1907年に後輩と起業した保険会社では、1930年に引退するまで副社長を務めた。生命保険特約のセット販売相続税節税計画の設計という、現在でも保険会社のドル箱の商品を開発し、1918年には業界の古典とされる指南書も書いている。社長は後輩に任せて表舞台には立たなかったのは、起業前に心臓発作を起こした健康上の理由もあるが、天職である作曲に時間を割くためだろう。安息日の仕事である教会オルガン奏者も続け、東部諸州から呼ばれる腕前になっていたが、起業翌年に結婚(パートナーの名前はハーモニー)すると生活のリズムは一変し、オルガン奏者は引退した。

 弦楽四重奏曲第1番(1901-02) の終楽章では初めてポリテンポを試み、交響曲第2番(1897-1902) は盛大な不協和音で終結するが、それ以外の部分は大学時代の作風を引きずった後期ロマン派的なもので、これら初期作品は父の域にも達しているとは言えない、交響曲第3番(1901-04) は賛美歌に基づくオルガン曲のオーケストラ版であり、室内管弦楽のための3楽章20分程度の規模も手伝って4曲の交響曲の中では最初に初演され(それでも1946年)、翌年にピュリツァー賞を受賞したが、本領を発揮した曲ではないため演奏には立ち会わず、賞金も初演の実現に尽力し指揮も行ったルー・ハリソン(西海岸時代のケージの盟友)に手渡した。交響曲第2番は1951年にバーンスタイン/NYPが初演したが、この時も隣家でラジオ中継を聴いただけだという。

c0050810_1219283.jpg 《スリー・ページ・ソナタ》(1905) は、自ら「甘やかされた坊やを閉じこもった箱から引きずり出し、軟弱な耳を叩き出すためのジョーク」と述べており、アイヴズがアイヴズになった最初の作品と言えるだろう。旋律素材こそ初期作品と共通するが、不協和音やポリリズムの大胆さが桁違いだ。彼の作品は管弦楽曲から知られていったが、譜面の細部は矛盾の山だった。文字通りの日曜作曲家が演奏を前提とせずに書き溜めた譜面なので当然とも言えるが、全体像をソルフェージュして書いたのではなく、ピアノで一音一音探りながら書き進められたのは明らかだ(このような素人っぽさは必ずしも欠点ではなく、演奏してみなければわからないような後期作品のカオスが結果的に実現した)。その意味でも、ピアノ独奏曲にこそ彼の音楽の本質は純粋な形で表現されているはずだ。

 ブレイクスルーの後は、《宵闇のセントラルパーク》(1906)、《答えのない質問》(1908) など、彼らしい曲が次々と生まれ始める。この時期の作品では、タイトルから連想される出来事やコンセプトが極めて直接的に音楽に変換されるが、あまりに直接的であるが故に音楽的コンテクストすら剥ぎ取られ、賛美歌や民衆歌を素材にした描写音楽のはずなのに、最終結果はむしろ後期ヴェーベルンに近いような、奇妙な音楽的平衡状態が得られる。ピアノソナタ第1番(1902-09) は、この時期の特徴を煮詰めた作品。楽章ごとにひとつのコンセプトが繰り返し提示され、旋律素材は純粋な素材にすぎない(クラシックのような動機としての関連も、前衛音楽における引用のような意味付けもない)。

c0050810_1219462.jpg ピアノソナタ第1番に代表される時期と第2番(1904-15) に代表される時期(組織的・体系的な作曲を行わなかったアイヴズの場合、音楽の特徴は概ね作曲終了年代で決まる)の過渡的な性格を持つ(彼自身がそのように位置付けている)作品が、《ロバート・ブラウニング序曲》(1908-12) である。ブラウニングの他、エマーソンやホイットマンらの名を冠した序曲が並ぶ《文学者たち》という大作を構想したが、結局完成したのはこの曲だけだった。文学者の肖像を音楽で描く意図と、素材の意味性に頼らず単一コンセプトで押し通す姿勢は折り合いが悪く、強烈な不協和音があてどなく積み重なる、表現主義期シェーンベルクが錯乱したような、奇怪極まりない音楽が果てしなく続く。作曲年代は次の大作《交響曲:ニューイングランドの祝日》(1887-1904/09-13) と重なっており、新たな様式を固めて行く中で、かつての無意識の選択を意識的に振り返って完成に漕ぎ着けた。

 《ニューイングランドの祝日》は、〈ワシントン誕生日〉(1909-13)、〈戦没将兵追悼記念日〉(1909-12)、〈独立記念日〉(1911-12)、〈感謝祭と清教徒上陸記念日〉(1887-1904) の4曲からなる。幼年時代の祝日の思い出を描いた3曲に、賛美歌による若書きオルガン曲(教会オルガン奏者を始めた時期の曲)を管弦楽化した初期作品を付け加えた構成だが、各曲が伝統的な意味でのストーリーを持っているのが前の時期との大きな違いで、それに沿った形で素材の意味性を活用し、素材を変形して象徴的な意味を持たせたりしている。結果的に音楽の成り行きは伝統的なあり方に近づき、初期作品を組み込んで対比を強調することも可能になった。

c0050810_12203382.jpg この特徴は、《ニューイングランドの3つの場所》(1903-14/29)、ピアノソナタ第2番、交響曲第4番(1910-24) など、他の同時期の作品にも当てはまる。アイヴズ最晩年の再評価は初期作品に留まっていたが、大指揮者ストコフスキーは交響曲第4番こそが「アイヴズ問題の核心」であると見抜き、演奏譜の準備と練習に多くの時間と費用をかけて1965年に初演と録音を実現し、アイヴズ像を一新した。結果的に、初演がこの年までずれ込んだことが、この作品にとってはプラスになった。戦後前衛が最初の曲がり角を通過し、B.A.ツィンマーマン《軍人たち》(1957-64) やベリオ《迷宮II》(1963-65) など、重層的な引用で特徴付けられる作品が最先端とされる時期に初演されたことで、「ヨーロッパの最先端を半世紀前に先取りしていた前衛作曲家」として見直されることになった。

 当時のアイヴズ受容は、作品を要素に切り分け、トーンクラスターの使用、微分音の使用、ポリテンポやポリリズムの使用、音響の空間配置といった「前衛的な要素」のみを評価し、素朴な調性的旋律が素材の中心だという明白な事実は「時代的な限界」として見ないことにするという、これはこれで歪んだものだった。また、再評価の原点が交響曲第4番だったことで、伝統的構成感こそが音楽的成熟の結果と看做され、専らこの時期の作品が「代表作」として扱われることにもつながった。

c0050810_1221881.jpg この時期の作品でアイヴズ自身がとりわけ重要視していたのが、ピアノソナタ第2番である。超越主義を信奉していた彼だけに、主導者エマーソンを第1楽章、超越主義に強く影響された文学者たちをそれ以降の楽章:第2楽章で純文学代表のホーソーン(『緋文字』)、第3楽章で大衆文学代表のオルコット(『若草物語』)、第4楽章でエッセイ代表のソロー(『森の生活』)の名を掲げ、未完に終わった《エマーソン序曲》の素材を活用し、《文学者たち》の構想も形を変えて実現した。

 この作品の自費出版に先立ち、彼は「あるソナタの前のエッセイ」という長文の自作解説を書いているが、そこでの「エマーソンとソローの印象派風の絵画であり、オルコット家(作家とその父)のスケッチであり、ホーソーンの軽妙な部分を反映したスケルツォである」という言葉が作品の狙いを端的に示している。すなわち、両端楽章はドビュッシーの音楽の強い影響を受けており(作品全体で引用されるベートーヴェンに並ぶ頻度で言及され、意識しているのは明白だ)、第3楽章は初期作品使用枠であり、第2楽章はホーソーンがバイロン『天路歴程』のパロディとして発表した短編『天国列車』に基づくプログラム音楽に他ならない(素材の意味性を利用するこの時期ならではの趣向)。

c0050810_12215217.jpg 1918年に再び心臓発作を起こした後の彼は、初期から最新の歌曲までをまとめた《114の歌曲》を1922年に自費出版するなど、出版を目指して自作を整理する方に重きを置き始める。これ以降の作品で重要なのは《四分音ピアノのための3つの小品》(1923-24) であり、この創作経験に基づいてピアノソナタ第2番の第2楽章を管弦楽化し、四分音パッセージ等をさらに堆積させて副指揮者2人を要する難曲にまとめたのが、交響曲第4番の第2楽章である。1926年に最後の曲を書いた後は、それ以外の方法で自作を世に問おうとした。例えば1929年にスロニムスキー/ボストン室内管から委嘱を受けると、《ニューイングランドの3つの場所》の縮小編曲で応え、国内初演に加えてヨーロッパツアーを提案し、費用は自らの寄付で賄った。この時は初演にも立ち会っており、代表作と初期作品では意気込みが違うが、生前に代表作を音にする機会は限られていた。


                ***********

c0050810_12235621.jpg POCシリーズは「戦後前衛に焦点を絞った企画」だとたびたび紹介してきたが、「戦後前衛」が指し示す範囲は通常よりも広く、米国実験主義を代表するケージとその後継者としての近藤譲、及び「ポスト戦後前衛」を代表する作曲家は一通り取り上げられている。だがアイヴズは、彼らの同僚まで範囲を広げても、誰の先駆者でもない。今回のシリーズでは異端に見えるソラブジでも、ピアニストとしての手癖を交えつつ、前衛的でも退嬰的でもないが超絶技巧を駆使した作品を量産する作曲家という意味では、米国実験主義第二世代のジェフスキ(1938-) や、ファーニホウと並ぶ「新しい複雑性」の祖にあたるフィニスィー(1946-) らの先駆者と看做せなくもないのだが。

 一般には、アイヴズは米国実験主義の先駆者だと看做されているが、実際には誰とも異質である。ケージらニューヨーク楽派の本質は、理念を厳格に形にして即興性を排除する(彼らの図形楽譜は、五線譜への慣れを排除する手段である)シェーンベルク譲りの姿勢にあり、アイヴズの経験主義とは相容れない。米国実験主義の反対側を代表し、アイヴズの支援者でもあったカウエルやハリソンは、折衷主義的な姿勢においてアイヴズとは相容れない。彼が賛美歌や民衆歌を終生素材として用いたのは、それを通じて作品に社会的意味を与えるためではなく、純粋に愛していたからだった。唯一接点があるとすればナンカロウだが、アイヴズと同程度に隔絶した存在である。かつてリゲティは20世紀で真に突出した作曲家はアイヴズとヴェーベルンであり、ナンカロウは彼らに匹敵する作曲家だと主張したが、これはもうひとりは自分だと暗示するためのポジショントークに他ならない。

c0050810_12245123.jpg だが「戦後前衛」の範囲をもう少し広げ、フランク・ザッパ(1940-93) やジョン・ゾーン(1953-) のような実験的ポピュラー音楽も含めるならば、アイヴズはまさに彼らの先駆者である。彼らの音楽は多様式の混淆で特徴付けられるが、アイヴズが「前衛的」な諸語法と民衆歌をともに愛したようにザッパはヴァレーズやヴェーベルンとR&Bをともに愛し、ゾーンはカーゲルやウォーリネンとハードバップをともに愛した。彼らはみな折衷主義とは無縁だった。演奏家を通じても、アイヴズの理解者だったスロニムスキーは晩年にザッパと親交を結び、アイヴズ作品に積極的に取り組んでいるアンサンブル・モデルンはザッパ作品にも真摯に取り組んでいる。ピアニストとしてはアイヴズの権威のひとりであるステファン・ドゥルリーは、指揮者としてはゾーンのアンサンブル作品の権威でもある。POCシリーズで彼らが取り上げられていないのは、「一晩を埋める程度の鍵盤作品を書いている」という条件の問題にすぎない。今回のシリーズや芦屋での関連公演の委嘱作曲家に大蔵雅彦や中田粥が含まれているのは、このような背景があるからである。



次回予告─────────────────────────────
【ポック[POC]#29】 2016年12月23日(金・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
  ●東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
  ●ベラ・バルトーク(1881-1945): ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904)、14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908)、アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911)、3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918)、舞踏組曲 Sz.77 (1925)、ピアノ・ソナタ Sz.80 (1926)、戸外にて Sz.81 (1926)、弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章〕(1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)
  [以上、Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]
[PR]
by ooi_piano | 2016-11-14 12:04 | POC2016 | Comments(0)

c0050810_13182859.jpg

コンコード散策の記───武田将明

  (・・・)昨日(2016年2月29日)はボストンから少し足を伸ばしてコンコードに行ってきた。ごく簡単に覚書を残しておく。

  ボストンからコンコードには鉄道で比較的簡単にアクセスできる。Harvard Squareから一駅のPorter SquareまでRed Lineに乗り、そこからFitchburg行きのcommuter railに乗り換れば、およそ30分でConcord駅に着く。commuter railの切符は片道8.5ドル。駅から町の中心部までは徒歩で10分〜15分くらい。最初に目に入るのはthe Concord Free Public Libraryという立派で趣きのある図書館(写真001)。そこから少し進んで左に入るとVisitor Centerがあるが、冬は閉まっている。ただし公衆トイレは利用できるので、サイクリストたちが休憩をしていた。町の中心部には景観を配慮した瀟洒な店舗や宿屋が並ぶ(写真002)。スターバックスやダンキンドーナッツまで、観光地仕様の色調になっていた。南北戦争の戦没者を追悼するモニュメントが大通りの中心にあり、ここが観光の基点となる。
c0050810_12455183.jpg
c0050810_12464038.jpg

(※写真はクリックすると拡大表示されます。)

  今回の主要な目的はソロー関係の場所を訪ねることなので、まずはあのウォールデン湖(英語だとWalden Pondなのでウォールデン池とも訳せるが、やはり湖でないと気分が出ない)に向かう。途中、ソローの盟友(というか世話人?)のエマソンの旧家があり、いまは記念館となっているのだがやはり冬場はお休み(写真003)。ちなみに徒歩では遠いので行かなかったソローの生家跡もこの季節は中に入れない(もっともメールや電話で連絡すれば開けてくれるようだ)。それに対し、『若草物語』のオルコットの旧家は年中無休(写真004)。これは時間の関係で外から見学するに留めたが、周りには車が多く停まっていた。さすがの人気ぶり。
c0050810_12473250.jpgc0050810_1247563.jpg

  話を戻すとエマソンの家のあたりからウォールデン湖まではEmerson-Thoreau Ambleと名づけられた森の中の小道をたどって行くことができる。この道でなければ、交通量が多く、歩道もないような道路を歩かねばならないので、徒歩でウォールデン湖に向かう場合にはお勧めする。ただし、水辺は板や橋で整備しているとはいえ、途中にはぬかるんだ道もあるので濡れても大丈夫な靴で行くべき。このEmerson-Thoreau Amble、実際にこのふたりが通っていた道を再現したものらしく、気持ちのよい自然を満喫できる。きっと草木生い茂る夏場であれば、さらに愉快だろう。まあ、こんな季節にわざわざ徒歩で観光する人間はわたしくらいだったようで、ロマン派的寂寥感を味わうには最高の時期だったのかもしれない。特に往路では、時間が比較的早かったこともあり、1.6マイルほどをそぞろ歩くあいだほとんど人に会わなかった。

  (写真005-017)はAmbleの途中の写真。(写真5)Emerson Houseの裏手にある入口(空地の奥なので少し分かりにくい)。(写真009)途中、フェアリーランド池と呼ばれる場所があるが、これはウォールデン湖ではない。このあたりはソローがオルコット家の娘たちとベリー摘みを楽しんだ場所だという。(写真010)この近くに住んでいた解放奴隷の名にちなんで「ブリスターの湧き水」と呼ばれている場所。地下から水が湧いているらしいが、観察してもよく分からなかった。なお、この標識はとても小さくて分かりにくい。わたしは一度素通りしてしまった。(写真011)途中、「ソローの小路」なる別の散歩道の案内もあった。1マイルくらいの丘をのぼる道らしいが、ウォールデン湖まであと少しなので寄り道はしない。(写真012)途中、車道を渡ることもある。(写真013)しかしすぐにまた森に入る。車の音に包まれながら森林散策するのは不思議な感覚だ。(写真014)『ウォールデン』にも登場するソローの豆畑の跡。豆は一粒もなかった。(写真015)いよいよ湖が見えてきたが、いったん向きを変えてソローの小屋の跡地をみる。(写真016, 017)ソローが自給自足の生活を試みた小屋の跡。もっとも町から歩いて行ける場所なので、よくエマソンなどの友人と会ってはいたようだ。
c0050810_12515661.jpgc0050810_12521588.jpgc0050810_12522913.jpgc0050810_12524336.jpgc0050810_1253099.jpgc0050810_12531542.jpgc0050810_12533047.jpgc0050810_1253448.jpgc0050810_125422100.jpgc0050810_12543553.jpgc0050810_12545476.jpgc0050810_12551813.jpgc0050810_12553593.jpg


  (写真018-028)はウォールデン湖とその周辺。『ウォールデン』にも書いてある通り、湖面の色は場所によって緑や青に変化する。湖岸は細かい白砂か砂利に覆われている。砂浜のような場所もあり、夏には湖水浴を楽しむ人もいるようだ。小屋の跡地から湖をはさんだ対岸には鉄道の線路が敷かれている。脱文明の「聖地」には似つかわしくないが、実はソローがウォールデン湖に住む前年から同じ場所を鉄道が走っていた。そしてこの線路を通ってわたしもコンコードに来たことになる。湖岸を散歩していると、ときおり通過する電車によって静寂が破られた。ソローの小屋のレプリカは、湖から道路をわたった駐車場のとなりにあるので、徒歩で湖を訪ねる人はうっかりすると行きそびれるかもしれない。再現された小屋の近くにはvisitor centerがあるのだが、いまは改修中。近々"Thoreau"ly renewedされるというダジャレが湖岸の空気をさらに寒くしていたが、きっと夏にはにぎわうだろう。
c0050810_12592952.jpgc0050810_12594289.jpgc0050810_12595675.jpgc0050810_1301234.jpgc0050810_1302916.jpgc0050810_1304219.jpgc0050810_1305659.jpgc0050810_131845.jpgc0050810_1312751.jpgc0050810_131452.jpgc0050810_13205.jpg


  空腹になったが、プレハブ小屋の売店にあった食べ物は3ドル50セントのチョコレートのみ。しかし徒歩圏内で売っている食べ物はこれしかなさそうだったので購入し、湖面を眺めながらハックルベリー風味のチョコという、なぜかマーク・トウェイン風?の貧しい食事をすます。

  帰路もEmerson-Thoreau Ambleを通る。Fairyland Pondで往路とは違う岸辺をたどったほかは、基本的に同じ行程。ただ、湧き水の名前の由来となった解放奴隷のブリスターが住んでいた家の跡を示す碑に立ち寄った。ウォールデン湖を出て車道をわたり、Ambleの道に入ってすぐ、左に折れる小路がある。そこを入ると間もなく、素朴な石の碑が立っていた。
  この時点で午後2時くらい。5時45分の電車で帰る予定なので、まだまだ観光できそうだ。

  Emerson-Thoreau Ambleを名前の通りのんびり歩き、またEmerson Houseの前に戻った。そこからLexington Roadを町外れの方に歩いて行くとLouisa May Alcott's Orchard House(写真101, 102)。季節外れでもここだけは車が何台も停まっているのですぐに分かる。ガイドつきツアーで中を見学できるが今回はパス。この季節に唯一開いている記念館をわざわざ外したのは、別に『若草物語』に含むところがあるわけではなく(まあ、特別好きとは言えないけれども──『ガラスの仮面』で北島マヤが演じた場面は脳裏に焼き付いているが──なんて言うとファンの方から顰蹙を買いそう)、他にいくつも回りたいところがあるからだ。
c0050810_1342377.jpgc0050810_134383.jpg


  Orchard Houseの隣家を見学する人は当然のように誰もいないが、実はこのThe Waysideという建物も文学愛好者には見逃せない場所だ(写真103, 104)。Orchard Houseより前にオルコット家が住んでいただけでなく(そのころはHillsideと呼ばれていた)、オルコット家が一時期コンコードを去ると今度はThe Scarlet Letter(『緋文字』)の著者ナサニエル・ホーソーンも居住した家なのだ。ここは現在改修中。そもそも冬場は閉館だったはずだが。きっと観光シーズンまでには工事も終わるだろう。
c0050810_134546.jpgc0050810_135792.jpg


  ちなみにLexington Roadという名前からアメリカ独立戦争を連想した人は正しくて、まさにここコンコードとその近隣のレキシントンにおいて、アメリカ植民地軍とイギリス軍とが最初の戦火を交えている。1775年4月19日の出来事だった。
  それはさておき、Lexington Roadを引き返して三たび閉館中のEmerson Houseの横をすぎ(近所の人からは時代を超えたエマソンのストーカーと疑われたかも知れないが)、その道路の向かいにあるコンコード美術館に立ち寄った。大人は10ドル。小さいながらも煉瓦作りの建物も美しく(いい写真がなくて残念)、館内の説明も丁寧で、時間があればぜひ訪問すべき場所である。私の目当てはエマソンとソローの書斎を実際の調度品を用いて復元した展示だが、それ以外にも18世紀と19世紀を中心にしたアメリカの市民生活に関する展示や、先述のレキシントン・コンコードの戦いでイギリス軍の接近を警告するのに使われた伝説のランプなど、興味深いものを見ることができる。それから、この美術館の外にもソローの小屋のレプリカが作られていた(写真105)。ウォールデン湖のものと変わらないが、こっちの方が少し年代を感じさせた。
c0050810_135334.jpg


  さて、目当てのエマソンとソローの書斎だが、自分としてはこれを見るだけで10ドルの価値は十分すぎるほどにあったと思う。エマソンの書斎は家族や友人との交流を感じさせ、彼の著作がまさに活発な議論から吹き出すようにあふれたものだと想像させる(写真106)。彼はいつも揺り椅子に座りながら膝の上で原稿を書き、子どもたちが周りで遊んでいても気にしなかったという。これに対してソローの「書斎」として展示してあるのは緑色の小さな机と椅子だけ(写真107)。さすがにある程度本は持っていただろうが、例のウォールデン湖の小屋にもこの机と椅子を運んで執筆していたらしい。また、家には鍵をかけないのに、この机の鍵だけはかならず閉め、他人に書き物を見られないように注意していたようだ(鍵穴の周りの塗装が剥げているのがその証拠ということだ)。この二人が無二の友人だったというのだから、ワーズワースとコールリッジの組み合わせにも匹敵する、最高の二人組ではなかろうか。そしてアメリカ文化の素人として無責任に言わせてもらうならば、このふたつの書斎の対比のうちに、アメリカ文化の美質が凝縮されているように思える。家庭と社交を重視し、親密な対話のなかから新しいものを創造する気持ちのよい自由と、余計なものを省き、独力で生の本質を摑もうとする厳しくも激しい探究心(これが本を積み上げた「書斎」で思索に耽溺するものとは異なり、外界との風通しが意外によい──家に鍵をかけない──のも重要だろう。ソローの偏屈さにはスティーヴ・ジョブズを思わせるところがある)。明らかに矛盾するようだが、これが両立できたことによって、アメリカという「交通」と「自然」(ただしこれは文明と未開の対比とは似て非なるものだ。ソローの著作には、ネイティブ・アメリカンや解放奴隷に対する共感が率直に示されている)を空前の規模で抱え持つ人工国家はひとつの新しい文明を築くことができたのだ。

  といったあやしげな文明論を妄想しながら美術館を後にして、エマソン、ソロー、ホーソーン(ちなみに彼は立ったまま執筆していたらしい)、オルコットの眠るスリーピー・ホロウ墓地へと向かう。時刻は午後4時。帰りの電車が気になりはじめるが、いったん町の中心に向かってLexington Roadをさらに引き返し、別の通りに入ると間もなく「スリーピー・ホロウ墓地」と書かれた看板が目に入った(写真108)。実は墓地に到着する前、iPadで地図を見ながら歩いている私を見た地元の人が「Authors' Ridgeは墓地の奥だよ」と声をかけてくれていたので、「奥」を目指して進む。ところがこの墓地、あまりに広すぎてどこが本当の「奥」なのかよく分からない。間違えてまだまだ手前のところで丘を上がったりしながら、ようやくAuthors' Ridgeの標識を発見した(写真109)。「作家の丘」とでも訳せるこの言葉から分かるように、上記の文筆家たちの墓はすべて小高い丘にある。
c0050810_1361226.jpgc0050810_1362565.jpg


  丘を上がってすぐ目に入るのが、向かい合ったソローとホーソーンの墓。ソローの墓は、比較的大きな家族の墓標のまわりに、それこそiPadくらいの大きさしかない個人の墓標が並んでいる(写真110, 111)。それも"Father"と"Mother"という個人名のないものまで。ホーソーンの墓も家族と一緒だが、(私の確認不足でなければ)Nathanielと明記された墓標はなかった(写真112)。また、(これもいつできたのかは知らないが)なぜかホーソーン家の墓には鎖がめぐらされていて、足を踏み入れるのがためらわれた(写真113)。謎めいた『緋文字』の作者らしい墓地と言えばそうなのだが。ソロー家の墓からひとつふたつ隔てたとなりにオルコット家の墓がある。こちらも大きな墓標のまわりに個人の墓標が並び、あのルイーザ・M・オルコットの墓標はこれもなぜか二種類あり、いずれも大作家らしからぬ慎ましさだった(写真114-116)。一輪の花の周りに何本もの鉛筆が供えられているのが微笑ましい。エマソン家の墓はすこし先、Ridgeのなかでも一等地にあり、ここはいまでも子孫の墓標が増え続けている様子で、墓場でさえも賑やかな印象を受けた(写真117, 118)。エマソン個人の墓はひときわ大きく、また特別な石を使ったもので、実は裏手に回らないと墓標と分からなかった(写真119)。
c0050810_136472.jpgc0050810_137552.jpgc0050810_1372035.jpgc0050810_1373149.jpgc0050810_138374.jpgc0050810_1381752.jpgc0050810_1383219.jpgc0050810_1384580.jpgc0050810_139725.jpgc0050810_1392018.jpg


  迷ったこともあり、時刻は午後4時45分。帰りの電車までちょうど1時間。これまでチョコレートだけでさんざん歩き回ったことを思うとそろそろ駅前にもどってコーヒーでも(あるいはビールでも)飲みながら電車を待つのが賢明かと思ったが、コンコードといえば見なければならないものがもうひとつあるので、早足でそこに向かう。また一度町の方面に戻り、そこからMonument Streetを北上すると、15分くらいで(かなり急いだので、普通の徒歩だと20分くらいか)The Old Manseという建物に到着する(写真120)。ここはエマソンの祖父の代からエマソン家が住んでいた場所で、後にはホーソーンも住むことになる(先述のThe Waysideよりも前である)。当然のごとくここも休館なのだが、入口には"Closed"という看板の下に"Welcome!"と書かれた黒板があった(写真121)。これはニューイングランド風のアイロニーだろうか。どこかホーソーンっぽい感じがする。さて、このOld Manse、とてもよさそうな建物だったので、観光シーズンにコンコードを訪ねる人は、少し足を伸ばしてぜひ見学すべきだろう(写真122)。近くには川が流れており、ボートを出すための小屋もいい感じで保存されている(写真123)。ちょうど夕暮れを迎え、うらぶれたボート小屋の向こうから差す夕陽が川べりを彩りはじめた(写真124)。
c0050810_1394786.jpgc0050810_1310183.jpgc0050810_13101577.jpgc0050810_13102678.jpgc0050810_13103783.jpg


  このボート小屋のとなりにある桟橋からはOld North Bridgeが見える(写真125, 126; 写真127は逆にOld North Bridgeからボート小屋を見たもの)。この橋こそ、件のレキシントン・コンコードの戦いで植民地軍がイギリス軍に発砲し、撤退に追い込んだ場所である(写真128-131)。ここで放たれた数発の銃声が、結果的には世界史を変えたことになる。エマソンの祖父と父は、Old Manseからその戦闘を目撃したという。だから、先ほどエマソンとソローの書斎を見て、アメリカ文明の縮図のようだと妄想したが、それは歴史的に見てまったく無根拠な話でもないらしい。ここコンコードはTranscendentalismの文化的中心となる前に、アメリカ独立の発端ともなっていたし、このふたつはOld ManseとNorth Bridgeという形で物理的に隣接さえしていたのである。エマソンを賢者と呼び、ソローを隠者と呼ぶのは必ずしも間違いではないが、その呼称によって彼らの活動の背景に広がっていた歴史のうねりが見えなくなってはいけないだろう。
c0050810_13104816.jpg
c0050810_13123922.jpgc0050810_13125341.jpgc0050810_1313540.jpgc0050810_13131851.jpgc0050810_13134219.jpgc0050810_13135398.jpgc0050810_1314347.jpg


  これでざっくりとしたコンコードの報告を終える。どうにか早足で駅に戻り、ほとんど待たずに帰宅の電車に乗った。どうしてもビールが飲みたくなり、ケンブリッジ(もちろんイギリスではなくマサチューセッツ州の方)に戻ってから入ったパブの名前がなぜかPeople’s Republic(写真132)。オーナーが共産主義者というわけでもなさそうだが(ちなみにカード不可)、これがジョークとして受け容れられるのは、ここがアメリカでも特にリベラルな町だからだろう(そういえばコンコードにはバーニー・サンダースを応援する看板がちらほら見られた──と書いてから、今日(2016年3月1日)の大統領選挙の候補者争いの結果をみたら、マサチューセッツ州で共和党はトランプが圧勝。。。民主党はクリントンとサンダースがかなり熾烈な争いを繰り広げた末に、前者が勝利した)。現金の持ち合わせがなく、ATMで下ろすのも面倒(もう歩きたくない)だったので、一番安いフレンチフライとギネスを注文(しかしすごい食生活だな)。黙々と食べはじめたらとなりに座っていた人から「ポテトだけ食べるの!?」と驚かれた。それからなぜか1時間ほど話したが、南部の高校を出て学年でひとりだけ地元を離れてMITに入り、いまはここでスピーカーを作っている人だという。ギネスが好きなようで、私を同好の士と認めてくれたらしい。いろいろと楽しい話を聞いたが、それはまた何かの機会に。「ここは俺が持つから好きなだけ飲んでくれ」と言ってくれて、ギネスを3杯飲むことになった。私のグラスが空くと、こちらが何を言わずとも「彼にギネスを」と注文してくれた。おかげで大量のフライドポテトとギネスという、おそらく今後経験できないようなジャンクなディナーを楽しませていただいた。もっとも、彼自身は2杯目からバーボンと水の組み合わせに移行していたのが少し解せなかったけれども。(たけだ・まさあき、英文学)
c0050810_13184857.jpg

c0050810_1319461.jpg

[PR]
by ooi_piano | 2016-11-14 11:57 | POC2016 | Comments(0)

c0050810_11314916.jpg2016年11月16日(水)18時20分開演(17時50分開場)《美術と音楽の西洋史》
静岡文化芸術大学・講堂(浜松市) 入場無料 /申込不要(直接会場にお越しください)
[レクチャー講師]立入正之(芸術文化学科准教授)、上山典子(芸術文化学科講師)
http://www.suac.ac.jp/news/event/2016/01040/
http://www.suac.ac.jp/news/event/2016/01040/file/8331/bijutuonngakuseiyoushi.pdf


〈演奏曲目〉
●アルノルト・シェーンベルク=米沢典剛:《映画の一場面のための伴奏音楽 Op.34》(1930/2016、ピアノ独奏版・世界初演) 約9分
  〈迫り来る危険 Drohende Gefahr〉 - 〈不安 Angst〉 - 〈破局 Katastrophe〉
●アントン・ウェーベルン=米沢典剛:《交響曲 Op.21(1928/2016、ピアノ独奏版・世界初演)   約8分
  I. 穏やかに、歩むように - II. 主題と7つの変奏
●アルバン・ベルク=米沢典剛:《抒情組曲〔全6楽章〕(1926/2016、ピアノ独奏版・世界初演)   約30分
  I.Allegretto gioviale - II. Andante amoroso - III. Allegro misterioso / Trio estatico - IV. Adagio appassionato - V. Presto delirando / Tenebroso - VI. Largo desolato
  

  ヨーロッパの芸術文化の歴史において文化運動や様式などを特徴づける「ルネサンス」、「バロック」などの用語は美術、音楽、建築などの領域に幅広く使われていますが、分野により地域や年代に差異が認められます。 2016年度は、「後編」として全3回にわたりヨーロッパの美術と音楽について「ロマン主義」、「印象派」、「現代」という3つのキーワードにより解説します。また、各回のセミナー後半では各様式の音楽作品を鑑賞していただきます。

【お問合せ先】 静岡文化芸術大学 地域連携室(担当 冨田) TEL:053-457-6105 E-mail:acrc@suac.ac.jp
【交通アクセス】 駐車場はございませんので、車での来場はご遠慮ください。(公共交通機関又は他の駐車場をご利用ください。) http://www.suac.ac.jp/access.html


--------
音楽学者の白井史人氏(早稲田大学助手)から、雑誌『音楽学』第61巻(2015)に掲載された論文の転載御許諾を頂きました。
(全文pdf) http://ci.nii.ac.jp/naid/110010050854

【題名】シェーンベルク《映画の一場面のための伴奏音楽》の作曲過程とその背景 ――未発表の構想メモと 1920 年代の映画の伴奏音楽との関連――
【著者】白井史人(早稲田大学演劇博物館演劇映像学連携研究拠点・研究助手)
【要旨】
 アルノルト・シェーンベルク《映画の一場面のための伴奏音楽 Begleitungsmusik zu einer Lichtspielszene》作品 34 は,1929 年秋から 1930 年 2 月にかけて作曲された。全曲が 12 音技法に基づき,「迫りくる危険」「不安」「破局」という 3つの副題が添えられているが,特定の映画のための伴奏音楽ではなく,演奏会用作品として作曲された。
  先行研究では,シェーンベルクは副題間の場面展開を考慮していないとされてきた。しかし,2011年出版のシェーンベルク著作目録で,副題と深い関連を持つ「構想メモ」の存在が発表された。本論文は,この構想メモの記述を手掛かりに,《映画の一場面のための伴奏音楽》と 1920 年代の映画伴奏の言説・実践との関連を明確化することを目的とする。
  第1 節では,ラオホ(Rauch. Die Arbeitsweise Arnold Schönbergs, 2010)の分析方法を参照し,草稿に基づく作曲過程の分析を行った。「構想メモ」の検討を通じてシェーンベルクが 3つの副題の間に場面展開を構想していたことを示し,その場面展開を強調していく推敲過程を明らかにした。第 2 節では、シェーンベルク自身や後妻・ゲルトルートのスケジュール帳,トーキー映画技術者であるグィド・バーギエの遺稿の調査を通じて,1920 年代のシェーンベルクと映画産業との人的交流を示した。無声映画からトーキー映画への移行期に,シェーンベルクがトーキー映画へ高い関心を示した点が明らかになった。第 3 節では,本作の成立の背景となる同時代の映画館での伴奏音楽の実践・言説を,映画音楽専門誌『フィルム・トーン・クンスト』を中心に検討した。同時代の実践・言説が,伴奏項目の恣意的な羅列に対する批判や映画作品全体に即した劇的展開を重視するなど,本作と共通する傾向を持つ点を明らかにした上で,音楽語法や楽曲の抜粋法の面で大きな齟齬がある点も指摘した。



(※クリックすると拡大表示されます。)
c0050810_1151398.jpg c0050810_1152745.jpg c0050810_1153571.jpg c0050810_11533524.jpg c0050810_11535659.jpg c0050810_11542659.jpg c0050810_11544863.jpg c0050810_1155896.jpg c0050810_11552824.jpg c0050810_1155532.jpg c0050810_2042257.jpg c0050810_20422415.jpg c0050810_2043587.jpg c0050810_20433341.jpg c0050810_2044794.jpg
[PR]
by ooi_piano | 2016-11-12 11:24 | POC2016 | Comments(0)