7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano

<   2017年 04月 ( 1 )   > この月の画像一覧

c0050810_04222235.jpg
~二台ピアノによるバルトーク傑作集~
Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake

2017年4月28日(金)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ
公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/
※ご予約はこちらのフォームから https://goo.gl/YkRsny


c0050810_16544963.jpg■バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演) 20分
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演) 30分
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto

  (休憩15分)

■バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演) 40分
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲


浦壁信二 Shinji URAKABE
c0050810_20465920.jpg  1969年生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に入会。’81年のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加、ロストロポーヴィッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と自作曲を共演、その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演した。’85年都立芸術高校音楽科(作曲科)に入学。
  ’87年渡仏しパリ国立高等音楽院に入学、J.リュエフ、B.ド・クレピー、J.ケルネル、M.メルレの各氏に師事。和声・フーガ・伴奏の各科で一等賞、対位法で二等賞を得る。ピアノをT.パラスキヴェスコに師事。その他、V.ゴルノスタエヴァ、J.デームス両氏等のマスタークラスを受講。
  ’94年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで優勝(日本人初)、同時にブランシュ・セルヴァ特別賞受賞。一躍注目を浴び、ヨーロッパ各地でリサイタルを行う。‘96年2月仏SolsticeレーベルよりCD「スクリャービン ピアノ曲集をリリース、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック、チューン各誌で絶賛を博す。
  ‘95~’03年にはヤマハマスタークラスで後進の指導に当たり、数々の国際コンクール入賞・優勝者を輩出。’07年トッパンホールにて「20世紀のスタンダードから」と題してリサイタルを開催。’10年にはEIT(アンサンブル・インタラクティヴ・トキオ)のスロヴェニア、クロアチア公演に参加した。12年4月トッパンホールにてリサイタル「浦壁信二 ラヴェル」を開催。NHK-FMや「名曲アルバム」を始め、TV、ラジオに多数出演。アウローラ・クラシカルよりCD《ストラヴィンスキー作品集》《水の戯れ~ラヴェル:ピアノ作品全集 I》《クープランの墓~ラヴェル:ピアノ作品全集 II》をリリース、「レコード芸術」誌をはじめ高評価を得る。室内楽奏者として、内外のアーティストからの信頼も篤い。 浦壁信二インタビュー



【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 <СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ> http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版



バルトークの創作史を振り返る(管弦楽曲を中心に)──野々村 禎彦

c0050810_05425553.jpg バルトークの伝統的音楽修行の集大成=作品1は《ラプソディ》(1904/05) であり、元々のピアノ独奏曲を協奏曲に編曲してアントン・ルビンシテイン国際コンクール作曲部門に参加した。リスト/ブラームス流の「ジプシー風ハンガリー音楽」を初期R.シュトラウス風に管弦楽化した作品であり、この時点では彼はまだモダニズムにも、本物の「ハンガリー音楽」にも出会っていなかった(ただし保守的なコンクールでは、それでも斬新すぎるとされて奨励賞に留まった)。他方、同コンクールのピアノ部門ではバックハウスと優勝を争い、当代随一の国際コンクール第2位という輝かしい経歴を携えて、1907年に母校ブダペスト音楽院ピアノ科教授に着任した。

 バルトークがバルトークになったのは、終生の盟友コダーイと知り合ってからだった。1906年から彼とハンガリー民謡の収集を始めて「本物の民俗音楽」を発見し、翌年に彼を通じてドビュッシーの音楽と出会った。民謡に見られる機能和声とは相容れない音組織が、ドビュッシー作品にも現れていることは啓示になった。民謡収集は近代化とともに失われてゆく過去を記録する学問的行為に留まらず、未来の音楽へ向かう道標にもなるということだ。

c0050810_05434173.jpg
 オリジナル民謡に極力手を加えない合唱曲や器楽曲への編曲と、民謡から受けた霊感と同時代の音楽を融合した創作が、彼の音楽活動の両輪になった。前者の最初の代表作がピアノのための《子供のために》(1908-09)、後者の出発点がピアノのための《14のバガテル》(1908) と《10のやさしい小品》(1908) である。これらの作品でドビュッシーのピアノ書法を掴むと、今度はドビュッシーの管弦楽書法を研究し、その成果はオペラ《青髯公の城》(1911) に結実した。

 アイヴズ、ストラヴィンスキー、シマノフスキら、ドビュッシーの音楽と出会って一流の作曲家へ飛躍した作曲家は多いが、バルトークは作曲家としても20世紀前半を代表するピアニストのひとりとしても、終生ドビュッシーをリスペクトし続けた。今日では20世紀を代表するオペラのひとつに数えられる《青髯公の城》は作曲の契機になったオペラのコンクールには入賞すらできず、同時期にコダーイと始めた「新ハンガリー音楽協会」も成果は上がらず、彼は作曲への意欲を失って数年間は民謡収集に専念した。第一次世界大戦が本格化するとそれも困難になって作曲に復帰したが、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916) などは尖鋭さでは《青髯公の城》に及ばない。

c0050810_05443486.jpg
 だが、《青髯公の城》初演と同年のピアノのための《3つの練習曲》(1918) は、一転して極めて無調的であり、無調以降のシェーンベルク作品研究を窺わせる。彼は民謡研究と同じスタンスで同時代の音楽も収集・分析し創作に生かした。ハンガリーはヨーロッパの中心からは離れているが、その分同時代の諸潮流を俯瞰的に取り入れることができた。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) も《練習曲》の延長線上にある作品であり、同一編成のシマノフスキ《神話》を参照している。

 両曲の間に作曲された《中国の不思議な役人》(1918-19/24) も《練習曲》の路線に連なり、今度はストラヴィンスキー《春の祭典》の色彩とリズムの実験が参照されている。シェーンベルクとストラヴィンスキーの直接のフォロワーたちは党派的に対立関係にあり、ヨーロッパの中心で両者と等距離で接するにはブーレーズくらい世代が下る必要があったが、これが「周縁」ならではの利点である。管弦楽化には時間を要したが、この間にストラヴィンスキーの新古典主義も取り入れ、さらにディーリアス《人生のミサ》の声楽書法も加え、モダニズムの最良の成果が凝縮されている。

c0050810_05452026.jpg
 彼はストラヴィンスキーのように日課として作曲するタイプではなく、意欲の涌いた時に集中的に行うタイプだった。1920年代前半は作曲は低調だったが、収集した民謡資料を分析した重要な論文は主にこの時期に書かれた。《中国の不思議な役人》の管弦楽化が終わり、第一次世界大戦敗戦後の混乱も収まると、ピアノソナタ(1926)、《戸外にて》(1926)、ピアノ協奏曲第1番(1926) を一気に書き上げた。《ミクロコスモス》(1926/32-39) に着手したのもこの年だ。久々に作曲に集中すると創作意欲も高まり、弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) 、《カンタータ・プロファーナ》(1930)、ピアノ協奏曲第2番(1930-31) と、代表作が矢継ぎ早に生み出されてゆく。

 この時期の作曲の中心はピアノがソロを取る曲だが、いずれもピアニストとしてのレパートリーを増やすことを意図していた。これは彼のピアニストとしての名声が高まり、演奏機会が増えたことを反映している。彼の意識の中では作曲と民謡研究は不可分の芸術行為であり、それと比べたらピアノ演奏や教育は生計を立てる手段にすぎなかった。だが彼は音楽院で作曲を教えたことはなく、同時代の音楽界での位置付けは「民俗音楽研究者としても名高い、作曲もするピアニスト」だった。

c0050810_05462992.jpg
 彼の創作意欲に次に火が点くのは1934年。この年に科学アカデミー研究員として民謡研究に専念する職が提示されると、彼は喜んでピアノ科教授を辞している。ようやく天職が本業になり、弦楽四重奏曲第5番(1934)、《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936)、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) と、再び代表作が作品表に並ぶ。ただしナチスドイツとの関係を深めてゆく政府の真意は、「頽廃音楽を排し、国民音楽を称揚する」という方針に従って、民俗音楽研究を強化する一方で不穏分子を音楽教育から遠ざけることだったのだが… 

 弦楽四重奏曲第3番・第4番でモダニズムの頂点に昇りつめた彼は、それ以降の作品では民俗音楽とモダニズムを統合する方向に向かうが、弦楽四重奏曲第5番と《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の解決方法は対照的だった。前者では、音楽要素の断片化や空間配置など、無調性や特殊奏法とは違う方向のモダニズムが探求されるが、曲の末尾ですべての要素はひとつの素朴な民謡旋律から導かれていたことが明かされる。他方後者では、奇数楽章では半音階的フーガや「夜の音楽」、偶数楽章では民俗音楽的素材による平明な舞曲と、両者は簡単には統合できないことが暗示される。これは彼の心境の変化というよりは、弦楽四重奏と管弦楽というメディアの差異なのだろう。

c0050810_05471871.jpg
 《コントラスツ》(1938)、ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38)、《ディヴェルティメント》(1939)、弦楽四重奏曲第6番(1939) というヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。ナチスドイツに傾斜してゆく政府に彼は早くから絶望していたが、彼の母は祖国を離れることを拒み(弦楽四重奏曲第6番の作曲中に死去)、また収集した民謡資料のうちハンガリー民謡分は出版計画のため亡命前に分析を終える必要があり、亡命は1940年10月までずれ込んだ。ただし、分析の精密化に伴って旋律の微分音程変化にも着目したことは創作へと反映され、総じて全音階的でも一筋縄では行かない陰影が加わった。

 亡命先に米国を選んだ決め手は、コロンビア大学の客員研究員としてハーヴァード大学の民俗音楽資料を分析する職が見つかったことだった。学問的関心を優先して低収入の非常勤職を選んだのは、ヨーロッパ時代のような著作権料収入と演奏活動を想定していたからだが、米国が第二次世界大戦に参戦すると敵国になった祖国からの送金は途絶え、ピアノ演奏の機会も異国からの客人だった時ほどには得られず、生活は困窮してゆく。また自然を愛し孤独を好む彼には米国での生活は水が合わず、渡米直後の《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の協奏曲化以後は、作曲は全く進まなかった。1943年に入ると白血病を発症して療養生活を余儀なくされ、絶望的な状況に向かうかに見えた。

c0050810_05482874.jpg
 だが、この期に及んで米国の音楽家たちが援助の手を差し伸べた。自尊心の高い彼は施しを嫌ったが、ブダペスト音楽院の後輩で米国社会に適応したライナーとシゲティは、ボストン交響楽団常任指揮者クーセヴィツキーを介し、新作委嘱前渡金として当座の生活費を渡すことに成功した。こうして生まれた《管弦楽のための協奏曲》(1943) には、ヨーロッパ時代の代表作のような野心的な試みは見られないが、モダンオケの機能を生かしてバロック時代の合奏協奏曲を軽やかに換骨奪胎した手腕は見事で、今日では顧みられる機会が減った新古典主義後期の祝祭的な作品の中では例外的に、現在でも20世紀音楽トップクラスのポピュラリティを保っている。

 久々に大管弦楽作品を書き上げて自信を取り戻し、メニューインの委嘱で書いた無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) は最後の代表作になった。シャリーノ《6つのカプリース》(1976) をはじめ、20世紀においても無伴奏ヴァイオリン曲の大半はパガニーニやイザイの流れを汲むヴィルトゥオーソ小品だが、この作品はJ.S.バッハ直系の潜在ポリフォニー上に緻密に構築された大曲であり、中期を特徴付ける特殊奏法と後期を特徴付ける微分音が現代的な色彩を添えている。

 弦楽四重奏曲第7番、2台ピアノのための協奏曲(いずれも計画のみ)、ヴィオラ協奏曲(辛うじて補筆完成可能な草稿まで)など彼は多くの委嘱を受けたが、それよりも妻ディッタのためのピアノ協奏曲第3番(1945) を優先し、死の床で17小節のオーケストレーションのみを残すまで仕上げた。彼には珍しいシンプルで透明な音楽は、妻がソリストを務めることを前提にしたためでもあろうが、このような宗教的な簡素さは、《ミクロコスモス》の最良の数曲にも既に現れていた方向性であり、彼にあと数年の時間が残されていれば、この方向での探求をさらに深めていたかもしれない。


c0050810_20480469.jpg




[PR]
by ooi_piano | 2017-04-20 02:14 | POC2016 | Comments(0)