ポック[POC]#34】 2017年12月22日(金)18時開演(17時半開場) フェルドマン(没後30周年)ピアノ作品集
大井浩明(ピアノ独奏)

JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html
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●シュテファン・ヴォルペ(1902-1972):《闘争曲(バトル・ピース) I~VII》 (1942/47、日本初演) 23分  [シュテファン・ヴォルペ協会版(デヴィッド・テュードア校閲)]
  I. Quasi presto - II. Molto sostenuto - III. Con moto ma non troppo, Risoluto - IV. Vivo - V. Moderato - VI. Con Brio - VII. Allegro non troppo
●モートン・フェルドマン (1926-1987):《天然曲(ネイチャー・ピース) I~V》(1951)  15分
 《変奏曲》(1951)  6分
 《交点 2》(1951)  8分
 《ピアノ曲》(1952)  3分
 《外延 3》(1952)  6分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《合間 1~6》(1950/53)  15分
 《交点 3》(1953)  2分
 《三つの小曲》(1954)  5分
 《ピアノ曲》(1955)  1分
 《ピアノ曲A(シンシアに)/B》(1956)  4分
 《当近曲(ラスト・ピース) I~IV》(1959)  10分
 《ピアノ曲(フィリップ・ガストンに)》(1963)  4分
 《垂直の思考 4》(1963)  2分
 《ピアノ曲》(1964)  7分
●由雄正恒(1972- ):《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作初演) 12分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《ピアノ》(1977)  27分
 《マリの宮殿》(1986)  20分


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【公演予告】
2018年4月15日(日)午後2時半開演(午後2時開場) 
えびらホール (品川区/東急旗の台駅より徒歩6分)
モートン・フェルドマン (1926-1987):《三和音の記憶(トライアディック・メモリーズ)》(1981) 80分
同:《バニタ・マーカスのために》(1985) 70分



由雄正恒:ピアノ独奏のための《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作) 

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東北での大きな地震の影響で、昨年とは違い浮きだった様子もないゴールデンウィークも明けて間もない水曜日。
珍しく仕事が早く終えたこともあり、無意識のまま帰路とは逆の都心に向かうホームに立つ。
とりわけ急ぐ理由もないのだが次に来る特急の空席が目に入り、券売機で特急券を購入してロマンスカーに乗り込んだ。
車内は閑散としていて隣の席に座る者もいない。
悠然と体を広げ、足を伸ばす。
終点まではたった数十分ほどの乗車ではあるが、疲れもあったのかついウトウトと眠りについてしまった。

感覚としてはほんの一瞬の眠りで夢か現実か朦朧としていたかと思う。
耳元で艶かしい声が聞こえる。
駅員は男性であると思い込んでいたためか、意外なサウンドによる短い睡眠からの目覚めは多少気分が良いものだ。
ここからどこに向かうかも決めてはいないが、自然と歓楽街のある東口へと足を進める。
兎角何時に来ても人の多さに翻弄されてしまうが、今日は週の中日で足元も悪くまだ時間も早いのか幾分往来する人は少ないように感じた。
それにしても、まだ夕方の早い時間にもかかわらず、普段より増して調子の良い兄さんからの客引きが目立つものだ。
目的がないまま歩いていると、以前通った時は目に入らなかった店の看板に引き寄せられていく。

“Bar セルゲー -今宵あなた様を生と死の審判に誘います- Dies irae”
この時代に到底つけることはないであろう、胡散臭げなキャッチコピーに釣られる客の顔が見てみたいと自ずと扉を開ける。
カウンターにはナチュラル・マスタッシュが印象的なバーテンと見る限り三十路に入ったばかりかと思われる女の客がいるのみ。
離れて座るにも客は他におらず、せっかくなので声をかけ女の隣に座る。
女の名は“エリコ”、数年前に上京してからというもの毎週通っている常連客だ。
関西訛りがあるので聞いたところ関西でも但馬地方の出身で、同じ兵庫県同郷とあってすぐに意気投合することができた。
彼女からの包容的な空気感が漂うがためか、六甲山から見る夜景、ハチ北高原でのスキー(彼女にはハチ北はダメらしい)など同郷話、日々の喧騒の愚痴からどうでも良いアホな話まで、何故か色々と話が進む。

そんな中、彼女の村にだけにある、習わしやしきたりの不思議な話を聞いた。
一つに、とある年に生まれた者は、男女問わず親族間や村で行われる催事は決められた年の月日で行うこととされ、他の年生まれの者とは別格な扱いをされるそうだ。
例えば誕生日は毎年来るものではなく、限られた年に年齢が一つ進む。
聞くところ、彼女の現年齢は5歳でありそれ以上の歳は取らないという。
また、結婚できる相手の生まれ年も限られていて、僕が後1年遅く生まれていたらエリコの相手候補者になれたらしい。
ただ、生まれ年が合っていても、特別な“愛の言葉 - Los requiebros - ”を共に歌いあって互いに感情を共感して同調させる儀式のようなものを成功させることが必要になるという。

その特別な歌は、数あそびのような歌で、100までの中の特別な数字を選び、選ばれた数字の中からさらに特定された2つの組み、3つの組み、4つの組み、5つの組みとグループを作り、その数字に可能な音域内で音程と緩急の調子をつけ、それらを連結することで一つの歌になるという。
また、求愛の儀式以外においては、この歌の旋律とリズムを混合させて編曲し、いろんな楽器で演奏しても良いとなっているそうだ。
説明を聞いただけでは難解で、どんなものなのか歌って聞かせて欲しいとお願いはしたが、特別な歌のため容易に人前で歌うことは出来ないという。
あっという間に時間は過ぎ、終電の時間も近づき、つい明日の仕事の現実が脳裏によぎり、また会う約束をしてその日は別れた。

それ以来、時間に余裕もない日々が続き、この日のことはすっかり記憶から失われていた。
ここ数年ゴールデンウィークもなく連日出勤が続いていたが、明けた今日は久しぶりに早く仕事を切り上げることができた。
今日は偶然にも同じ日で、ふと、6年前の出来事を想い出し、早々に店があった通りに足を向ける。
都会というものは入れ替わりが激しい。
すでに、あの日訪れたBarは別のものに変わっていた。
そういえば、今度会う時には例の歌のピアノ編曲版を一緒に聴こうと、約束していたのだが。
(由雄正恒)

由雄正恒 Masatsune YOSHIO, composer
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  神戸出身。作曲家、メディアマスターNo.75。コンピュータによる芸術作品の創作を専門とし、アルゴリズミック・コンポジション、音響合成、ライブエレクトロニクス、メディア表現を題材にした創作研究を行っている。電子音響作品は、国内外(ICMC-国際コンピュータ音楽会議、Contemporary Computer Music Concert, FUJI acousmatic music festival, MUSICACOUSTICA-BEIJIN, Festival FUTURA等)において演奏される。
  昭和音楽大学作曲学科、IAMASアートアンドメディア・ラボ科を卒業。三輪眞弘に師事。MOTUS夏期アトリエ・パリ2006にてドゥニ・デュフール氏などからアクースマティック音楽作曲法とアクースモニウム演奏法の指導を受ける。日本作曲家協議会、日本音楽即興学会、情報処理学会音楽情報科学研究会会員、先端芸術音楽創作学会運営委員、日本電子音楽協会理事、昭和音楽大学准教授。 http://masatsu.net




ニューヨーク楽派の中のフェルドマン―――野々村 禎彦

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 モートン・フェルドマン(1926-87) の創作歴は、二つの大きな出来事を境に大きく3つに分かれる。1950年、ケージと出会い抽象表現主義の画家たちと親交を結ぶ中で、音楽史上最初に図形楽譜を提唱し、ケージを中心とする「ニューヨーク楽派」の一員として、広く不確定性を導入した作曲を行う。1970年、抽象表現主義の画家たちとの別れと生活環境の変化を契機に、以後は不確定性を排除した作曲を行った。ただし、譜面の各ページのグリッド(ないし小節線)の数はその中の記号(ないし音符)の数によらず常に一定、という譜面の根本的な構造は、不確定性の採否によらず変わっていない。

 1950-69年の「前期」は専ら図形楽譜の使用で知られるが、このタイプの譜面を用いた曲は実はあまり多くなく、それ以外の曲の作曲様式でさらに二つに分かれる。1956年までの図形楽譜によらない曲は伝統的な確定譜面で書かれ、ピアノ独奏曲で図形楽譜を用いているのは《Intersection 2》(1951)、《Intersection 3》(1953) の2曲のみ、いずれもチューダーの演奏を前提に書かれた。1957年以降は「グリッド内の音符の音高のみ指定する」記譜法が作曲の中心になり、ピアノ独奏曲はすべてこの書法で書かれている。

 1970年以降、確定譜面に戻ってからの時期は、「楽器編成=タイトル」でストイックに統一し、自ら「ベケットの時代」と称する「中期」と、少数の素材を不規則に反復し、規格外の長時間曲が多い「後期」に分かれる。中期は大編成の曲が多く、無調的な音色の精妙な変化に焦点を絞るが、後期は小編成の曲が多く、記憶に引っ掛かりやすい調性的な素材が中心、と特徴を箇条書きにすると対照的に見えるが、変化は連続的で行きつ戻りつしていた。あえて境界を決めるならば、代表作のひとつ《Violin and Orchestra》(1979) は管弦楽は中期、独奏ヴァイオリンは後期の特徴を強く持ち、分水嶺にふさわしい。

 中期のクライマックスはベケットに台本を依頼したオペラ《Neither》(1977) であり、この直後に唯一のピアノ独奏曲《PIano》(1977) を書いた。後期で特に重要な楽器は弦楽四重奏とピアノであり、大半の曲はどちらかを含む編成を持つ。弦楽四重奏はアタックのない平滑な表面を得るために多用され、ピアノを含む曲は高橋アキの解釈を基準に書かれている。ピアノ独奏曲としては長大な《三和音の記憶》(1981) と《バニータ・マーカスのために》(1985) の2曲と、最晩年の境地を伝える《マリの宮殿》(1986) がある。

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 ニューヨークのユダヤ系服職人の家庭に生まれたフェルドマンは、9歳で作曲、12歳でピアノを始めたが、最も関心があるのは読書で、近視の進行も厭わず終生の趣味にした。作曲は学校ではなく個人教授で学び、最初の教師はWallingford Riegger(1885-1961)、シェーンベルクに学んだ米国セリー主義の草分けの一人だが、彼が教わったのは西洋古典音楽の伝統的な書法までだった。大学受験生の雰囲気に嫌気がさして入試は棄権し、父が独立して始めた子供服会社でフルタイム事務員として働いた。1970年に音楽大学で教え始めるまではこれが生業だった。余暇に作曲のレッスンも再開し、シュテファン・ヴォルぺ(1902-72) に師事した。門下生にはフェルドマンやチューダーの他に、米国セリー主義を代表するウォーリネン(1938-)、ジャズ界の理論派ギル・エヴァンズやジョージ・ラッセルもおり、音楽教師としてはフランスにおけるメシアンに相当する重要人物である。

 ベルリン時代のヴォルペは12音技法を身に付ける一方、社会主義者として実用音楽の理念にも共鳴し、大衆音楽を積極的に取り入れてアイスラー(1898-1962) と並び称された。ユダヤ人=左翼=「頽廃音楽家」だけにナチスが権力を掌握すると真っ先に亡命し、まずオーストリアに潜んでヴェーベルンに学び、翌年にはパレスチナのキブツに脱出して実用音楽を実践した。芸術的欲求との齟齬が大きくなると1938年にはニューヨークに渡り、音楽教師として生計を立てながら12音技法による創作を続け、後にダルムシュタット国際現代音楽夏季講習でも教えている。フェルドマンはヴォルペを「どんな書法も受け入れ、どんな書法も押し付けない良い教師」と回想しているが、ヴォルペから見たフェルドマンは「さまざまな書法を試みては否定するばかりで、5年間何の進歩もなかった」。結局この時期で後世に残ったのは、《Only》(1947) のような素朴な旋律を持つ曲だけだった。やがてレッスンは芸術談義の時間になり、ある日フェルドマンが「もうレッスン料はいらないのでは?」と切り出すと、ヴォルペはヴァレーズを紹介した。ただし芸術談義を交わす友人としての関係は、フェルドマンがニューヨークを離れるまで20年以上続いた。

 ヴァレーズは彼を作曲の生徒とは認めなかったが、1949年中は彼をたびたび自宅に招いて作曲家としての心得を伝えた。この経験がなければ私は作曲家にはなっていなかった、と彼は語っている。なかでも強い影響を与えたのは、「音楽は音響現象であり、音が舞台から客席に達し再び舞台に戻るまでに要する時間を織り込んで作曲を行うべき」という教えだった。極端に少ない音数と遅いテンポで特徴付けられる特異な作風は、この教えの彼なりの解釈に他ならない。また、米国の作曲界に絶望していたヴァレーズは、「この国で本物の作曲家になるためには、音楽で生計を立てようとしてはいけない」が持論だった。以後の彼は、家業で暮らすアマチュア作曲家と謗られても意に介さなくなった。

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 翌1950年1月、ミトロプーロス/NYPによるヴェーベルン《交響曲》の米国初演を聴きに行った際に、彼はケージと出会った。当時のケージはブーレーズと文通を始めており、第2ソナタの米国初演を企画していたが適当なピアニストが見当たらなかった。彼は同門のチューダーを紹介し、同じアパートに夫婦で移って親密な関係が始まった。やがてケージは、ピアニストの友人グレート・サルタン(30年近く後に、《南のエチュード》を初演することになる)から、当時16歳のクリスチャン・ウォルフ(1934-) に作曲を教えるよう頼まれ、「ニューヨーク楽派」の創立メンバーが揃った。ユダヤ系出版社の家庭に生まれたウォルフは最初のレッスンで、新刊の『易経』の英訳をケージにプレゼントした。

 この4人は行動を共にすることが多かった。1950年暮れ、チューダーによるブーレーズ第2ソナタの米国初演後にケージのアパートに集まり、ケージの料理を待っていた時に、フェルドマンに図形楽譜のアイディアが降ってきた。紙切れに引いた4本の横線の隙間を高音域・中音域・低音域とみなし、縦線でグリッドに区切ってところどころを塗り潰すと、五線譜を使わず音高も指定しなくても音楽的持続が生まれるではないか! ケージの料理ができるまで3人が代わる代わるピアノで弾いたこのスケッチが、音楽史上最初の図形楽譜作品、チェロ独奏のための《Projection 1》(1950) の原型になった。

 ただし、何から何まで彼の独創というわけではない。後に五線譜化することを前提に、グラフでスケッチを行う手法はシリンガー・システム(後にバークリー音楽大学になる、シリンガー・ハウスで教えられた作曲手法)の一部であり、ケージが楽派に伝えていた。グリッドを切ってリズム構造を決め、そこに音符をはめ込む作曲法はケージが1930年代末に打楽器作品のために開発し、この時期にも魔法陣に基づく作曲で使っていた。だが、旋律楽器でも音高を確定せずに「作曲」が可能だと示したことは彼の独創である。

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 彼がこの発想に至った背景として、ケージに導かれて美術へも関心を広げていたことは見逃せない。翌1951年1月に、ケージは彼を抽象表現主義の画家たちの交流会に誘った。チューダーとウォルフは美術には全く興味を示さず、ケージ自身も社交目的で時々顔を出すだけだったが、フェルドマンはこの会合に欠かさず参加し、特にフィリップ・ガストンと親しくなった。またケージは、彼の図形楽譜では不確定な音高や音価を易経で決めればこの発想を五線譜に引き戻せると気付いて《易の音楽》(1950-51) のスケッチを始めた。ウォルフもこの流れに沿って作曲を行い、チューダーは不確定性を含む譜面を読み解いて演奏譜を作る作業を、作曲を学んだキャリアを演奏に生かす行為として歓迎した。

 1951年秋からウォルフはハーヴァード大学文学部に進み、代わって翌1952年からボストン出身のアール・ブラウン(1926-2002) が加わった。元々は電子回路技師だった彼は第二次世界大戦末期に空軍に召集され、基地のジャズバンドに加わって音楽に目覚めた。除隊後はシリンガー・ハウスでジャズを学び、デンバーでポピュラー音楽理論を教えた。彼は、妻キャロラインがマース・カニンガム舞踏団に入団したのを契機に楽派に加わったが、ケージの興味は彼の音楽歴よりも電子回路技師としての技術にあり、ケージ《ウィリアムズ・ミックス》(1951-53) など、楽派初期の電子音楽は彼に多くを負っている。

 《易の音楽》以降、ケージは専ら「偶然性の音楽」の理念に基づいた作曲を行ったが、フェルドマンにとって図形楽譜はアイデンティティではなくイディオムであり、複数の記譜法を並行して使う姿勢を、絵画と彫刻を並行して制作する美術作家に喩えている。彼の前期前半の図形楽譜作品は、《Projection》シリーズ5曲(1950-51) と《Intersection》シリーズ4+1曲(1951/53) で出版曲は尽くされる。最初のスケッチからの進展は、グリッド内に数字を書き込むようになったこと。《Projection》シリーズではグリッドは発音の最初と最後、数字は同時に鳴らす音の数を示すが、《Intersection》シリーズでは「あるグリッドの時間枠内でこの数の音を出す」というより自由度の高い指定になった。

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 また、グリッドと数字で構成される彼のストイックな図形楽譜は、この記譜法の一般的なイメージ――特徴的な図形を何らかの手続きで読み解き、伝統的な譜面に変換する――とは様相を異にするが、このイメージはブラウンの《Folio》(1952-53) に由来する。シリンガー・システムを学んだ彼はグラフ記譜法も知っており、自ら図形楽譜に到達した。60年代までヨーロッパを訪ねたことがなかったフェルドマンとは対照的に、ブラウンは50年代半ばから度々ヨーロッパに赴き、ダルムシュタットでの講義等を通じて自身の図形楽譜を伝えた。ケージとチューダーのヨーロッパ演奏旅行では「偶然性の音楽」の一種としてブラウンの図形楽譜も注目され、模倣された。ブソッティやロゴスティスらの「即興演奏にインスピレーションを与える絵画」としての図形楽譜も、ここから派生した。

 先に述べた通り、図形楽譜2曲以外の1956年までのピアノ独奏曲は確定譜面で書かれ、自演が前提のこれらの曲の方が彼の素の姿だ。チューダーを想定した《Intersection》2曲は彼には例外的に音数が多い。チューダーの解釈では読譜に基づいて伝統的記譜法による演奏譜を作るが、図形楽譜をリアルタイムで読んで「音高に囚われず自由に動き回る」演奏を望んでいたフェルドマンの理念とは必ずしも相容れない(ただしチューダーの録音ほど「自由に動き回る」演奏はその後も現れていない)。彼の理念と演奏実態の齟齬は、当初から大きかった。なお1956年は、最初の結婚が破綻し、二番目の妻シンシアと再婚した年であり、抽象表現主義最大のスターだったポロックが交通事故死した年でもある。彼の創作史では、私生活の転機と作風の転機がシンクロしていることが多い。

 1957年、彼はピアノ連弾や複数のピアノのための作品に集中的に取り組み、「グリッド内の音符の音高のみ厳密に指定する」新しい書法を試みた。以後60年代末まで、この書法が彼の作曲の中心になった(ピアノ独奏曲も全てこの書法)。同様の書法はヨーロッパの「管理された偶然性」でも見られ、演奏実態にも即していた。クラシック畑の演奏家には音高は特権的で、それが不確定であることは大きなストレスになる。ある者は苦し紛れ、ある者はサボタージュとして既存の旋律の切り貼りで音高選択を処理し、音楽が台無しになる経験を経て、彼は現実的な書法に至った。翌1958年からグリッドと数字の図形楽譜作品も再び書き始めたが、アンサンブルはトゥッティと沈黙が交代する進行、グリッド内の数字は殆ど1にして、「旋律的なソロ」がなるべく生じないように工夫した。緩やかな偶然性で特徴付けられる新しい書法は軌道に乗り、ピアノ独奏曲《Last Pieces》(1959) や《Durations》シリーズ(1960-61) は、彼の最初のピークになった。

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 この時期にニューヨーク楽派の状況は大きく変わった。ケージとチューダーの1958年のヨーロッパ演奏旅行は熱狂的に受け入れられ、米国実験主義のヨーロッパにおける受容は新たな段階を迎えた。ペータース社は1960年からケージ、1962年からフェルドマンとウォルフの作品を網羅的に出版した。だがこの頃からチューダーは、自作電子回路の即興的操作に基づいた活動に軸足を移し、ケージもチューダーに追随して、マルチメディア・パフォーマンスに移行する。ハーヴァード大学で学んでいたウォルフは、西洋古典学で博士号を取得し、1970年までは同大学、以後はダートマス大学という東海岸の名門大学で西洋古典学と文学の教鞭を執り、音楽と無関係に安定した生活を手に入れた。すると彼は音楽では、自身のピアノ即興や政治参加を中心に据えた自由な活動を展開する。

 このようにケージ、チューダー、ウォルフは1960年頃から、クラシックに通じる「現代音楽」の世界から離れる方向で活動を展開した。すると相対的に、この世界ではフェルドマンの存在がクローズアップされることになる。作品集もいくつかリリースされ、管弦楽のための図形楽譜作品《…Out of Last Pieces》(1961) は1964年に、バーンスタイン/NYPの定期演奏会で取り上げられた。だが、彼の上り調子もここまで。新奇なコンセプトの提唱よりも、漸進的な改良で質を高めてゆく彼の姿勢は、「現代音楽」が決して根付いてはいない米国では十分には受け入れられなかった。この頃から服飾業界の寡占化のために家業は傾き、生計も苦しくなっていった。図形楽譜による最後の作品《オーケストレーションを探して》(1967) は自信作だったが、演奏には恵まれなかった。

 生計の悪化とともに二度目の結婚生活も冷え込み、1970年には破綻した。この年は、抽象表現主義の生き残りのマーク・ロスコとバーネット・ニューマンが相次いで逝去し、フィリップ・ガストンとの親交も、毒々しい具象画に作風を急転換したことで終わった。彼にとって、不確定性を内包した作曲と抽象表現主義の絵画は切り離せないもので、この界隈との交流が失われた結果、恣意的な解釈に悩まされながら不確定性を含む作品を書き続ける気力も失われた。楽譜出版社をウニヴェルザール社に変更したタイミングで、彼は再び伝統的な確定譜面に戻ることに決めた。この様式による最初の代表作《The Viola in My Life》シリーズ(1970-71) は、新恋人カレン・フィリップスを独奏者に想定した(従ってViolaには定冠詞が付く)連作である(女性関係はマメな人だ)。ロスコ作品で埋め尽くされた私設美術館の開館記念作として委嘱され、追悼作になった《ロスコ・チャペル》(1970-71) の初演でも、ソリスト的な扱いのヴィオラはフィリップスが担当した。

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 ヴィオラへの偏愛は、フィリップスとの関係とともに終わったが、独奏楽器とアンサンブルという編成への偏愛は、70年代にわたって続いた。トゥッティと沈黙が交代する展開で、トゥッティの音色変化に焦点を絞ったアンサンブル書法は、50年代末に再び図形楽譜を使い始めた時期から受け継いできた方向性だが(不確定性を排除したことで音色のコントロールはより繊細になり、この側面が近藤譲の音楽に最も影響を与えた部分である)、そこに旋律的な独奏楽器が加わったのがこの時期の特徴である。図形楽譜作品では既存の旋律の引用を防ぐため、不確定性を含む作品でも自己顕示欲の強い奏者の暴走を防ぐために、アンサンブル作品では旋律的なソロは極力控えてきたが、確定譜面になればその心配はなく、むしろ不確定性を含む時期との差別化のために積極的に導入したのだろう。

 この時期を代表する作品群は、《Cello and Orchestra》(1972) に始まる、独奏楽器とオーケストラのための連作である。この種の曲の演奏機会が得られるのは米国ではなくヨーロッパ、特に制度的に現代音楽に取り組むドイツの放送オーケストラであり、この連作でもチェロ、ピアノ(1975)、オーボエ(1976)、フルート(1977-78) のための4曲はみなツェンダー/ザールブリュッケン州立放送響が初演している。オーストリアのウニヴェルザール社に出版社を代えたのも、そのあたりの事情を見越していたのだろう。1970年に家業を諦めて教職を探し始めた彼は、ニューヨーク州立大学バッファロー校に常勤職を得て(彼の要望通り「エドガー・ヴァレーズ記念教授」として)同地に移住した。

 読書家としてベケットに親しんできた彼が「ベケットの時代」の総決算としてベケットに台本を依頼してオペラを書くのは、自然な成り行きではある。《Orchestra》(1976)、《初歩的手法》(1976)、《型通りの探求》(1976) という音響プロトタイプ3曲を経て、彼は《Neither》(1977) に臨んだ。彼がこの曲で「出し尽くした」ことは、ハイペースで書いていた声とアンサンブルのための作品を、この曲の後は殆ど書かなくなったことにも表れている。中期のその後は、やり残したことを探すモードに入る。《PIano》(1977) もそのひとつ。ピアノ独奏曲は小品か組曲ばかりだった彼とっては初の大曲であり、素材の多彩さでも表現の振れ幅の大きさでも、期待に違わぬ内容を持っている。

 《Violin and Orchestra》(1979) が中期と後期の分水嶺にあたる理由をもう少し説明すると、この曲は中期を代表する独奏楽器とオーケストラの連作の最後に位置する一方、独奏パートに現れる旋律素材は、以後の曲で使われているものが多いことが挙げられる。中期作品としても後期作品としても「総集編」なのである。この次に書かれたのが弦楽四重奏曲第1番(1979)、少数の素材を不規則に反復して演奏時間は1時間半を超える、後期作品のプロトタイプである。彼の弦楽四重奏曲はもう1曲、5時間を超える第2番(1983) だけだが、それ以外にも独奏楽器と弦楽四重奏という編成で3曲ある。すなわち、中期におけるオーケストラが後期では弦楽四重奏に入れ替わった格好になっている。長時間作品に見合う練習時間をオーケストラに期待するのは非現実的という実際的な理由に加えて、この時期の彼が重視したのは音色の変化よりも旋律断片の記憶の中での変容なので、アタックが目立たない弦楽四重奏の滑らかな音表面は、理想的な表現媒体だった。

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 また後期作品では、ピアノも弦楽四重奏と並ぶ大きな位置を占めている。ピアノは彼が自分で弾ける楽器として、前期作品では大きな役割を担っていたが、中期は独奏曲自体が少ない上、アンサンブル曲の中での役割も限られている。これは前期のチューダーに匹敵するピアニストに出会えなかったことが大きいが、1980年に知り合った高橋アキの真摯なアプローチに接して、《三和音の記憶》(1981) を彼女に献呈した。彼女の「絶対的に静止した」タッチは、後期作品には理想的だと彼は感じ、以後の作曲も彼女の演奏が基準になった。弦楽四重奏を含まない後期アンサンブル作品は、フルート、弦楽四重奏の構成楽器、打楽器のいくつかとピアノという編成を持ち、ピアノは不可欠な存在である。

 既に触れた《三和音の記憶》と《For Bunita Marcus》は、いずれも演奏時間1時間半前後の典型的な後期作品だが、最後のピアノ独奏曲《マリの宮殿》(1986) の演奏時間は30分を切っており、後期としては凝縮された部類の作品。長時間作品では数種類の素材の登場周期を変えて不規則に繰り返すのが基本戦略だったが、この曲では本質的に1種類の素材を、反復ごとに扱い方(どの箇所を切り取るか、和音かアルペジオか)と音価の配分を微妙に変え、モノトーンと多様性を両立させている。このような書法は《コプトの光》(1985) や《For Samuel Beckett》(1987) でも見られ、最晩年の新境地である。

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 作曲家バニータ・マーカス(1952-) は1976年に大学院生として彼の研究室に加わり、彼女が博士号を取得した1981年に彼は結婚を申し込んだ。彼女は拒絶してニューヨークに移ったが、その後も彼との関係は続き、《For Bunita Marcus》を献呈された。《マリの宮殿》を委嘱したのも彼女である。ネット上の彼女の曲を聴く限りは、彼が惚れ込んだのは果たして彼女の才能なのかは疑わしいが、ミニマル音楽第一世代以外の調性的な現代音楽に付きまとう、復古主義的な重苦しさとは確かに無縁で、調性的素材の導入を躊躇していた彼の背中を、彼女の音楽が押したことは想像に難くない。1987年9月、彼は61歳で膵臓癌で亡くなった。同年6月には生徒のバーバラ・モンクと三度目の結婚をしたが、葬儀で弔辞を読んだのは長年親密な関係にあったバニータ・マーカスだった。

 彼の音楽はW.ツィンマーマンらを中心に特にドイツで深く研究され、ヨーロッパでの名声はケージに勝るとも劣らなかった。しかし米国では総じて冷遇され、《コプトの光》のシュラー/NYPによる米国初演の新聞評は、「音楽史上最も退屈な作曲家」という惨憺たる扱いだったという。彼は、ニューヨーク楽派の作曲家の中では最初に亡くなった。現在はウォルフ以外は世を去り、大半のメンバーは晩年に大きく作風を変えることはなかったが、ケージは彼の死に合わせたかのように作風を大きく変え、彼の前期後半の書法によく似た「タイムブラケット書法」を導入した。この最晩年の試みによってケージのヨーロッパでの評価はさらに上がり、ヴァンデルヴァイザー楽派の結成にも結びついたが、「ケージの弟子」と見做されることを嫌ってあえて批判的姿勢を取ることもあった彼にとって、死後にケージに影響を与えたことは大きな誇りだろう。死の直前に病室を訪れたケージに彼は「私たちは良い人生を送った、思い残すことはない」と語ったという。






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# by ooi_piano | 2017-12-03 20:59 | POC2017 | Comments(0)


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ヤニス・クセナキス『形式化された音楽』
野々村禎彦監訳/冨永星訳(筑摩書房
2017年9月25日発売 本体6,500円 A5判上製440頁 ISBN978-4-480-87393-4


 二十世紀を代表するギリシア系作曲家クセナキスの理論的主著、ついに邦訳!
 音楽を「人間の手」から解放するために――。数学的手法を駆使して作曲をおこなったクセナキスの全容が初めて明かされる!
 数式だらけで一見ギョッとする内容ですが、野々村禎彦さんの監訳者解説に各章の概説が書かれています。工藤強勝さん・勝田亜加里さんデザインの装丁もカッコイイです。ぜひ書店で実物をご覧ください。


ヤニス・クセナキス Iannis Xenakis (1922-2001)
 ルーマニア生まれのギリシア系作曲家。アテネ工科大学で建築と数学を学ぶかたわら、ナチスドイツ(第二次世界大戦中)と英国(戦後)の占領軍へのレジスタンス活動を行う。捕縛の危機が及ぶと1947年にパリへ亡命。ル・コルビュジエの建築スタジオに雇われ、ブリュッセル万国博覧会(1958)のフィリップス館の建設などに関わる。一方、メシアンの助言で数学を用いた作曲を始め、代表作として《テルレテクトール》(1965-66)、《ペルセポリス》(1971)、《テトラス》(1983)など。受賞歴は1997年京都賞など多数。

野々村 禎彦 Yoshihiko Nonomura (監訳)
 東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。博士(理学)。現在は国立研究開発法人物質・材料研究機構主幹研究員。一方、第1回柴田南雄音楽評論賞奨励賞を受賞し、音楽批評活動を続ける。川崎弘二編著『日本の電子音楽 増補改訂版』(愛育社)、ユリイカ誌『特集:大友良英』(青土社)などに寄稿。

冨永 星 Hoshi Tominaga (訳)
 京都生まれ。京都大学理学部数理科学系卒業。自由の森学園の教員などを経て、現在は翻訳業。マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』(新潮文庫)、ブライアン・ヘイズ『ベッドルームで群論を』(みすず書房)など訳書多数。


〈目次〉
序文
フランス語原版の序文
英語版(ペンドラゴン版)の序文
第1章 拘束のない推計学的音楽全般について
第2章 マルコフ連鎖を用いた推計学的音楽――その理論
第3章 マルコフ連鎖を用いた推計学的音楽――その応用
第4章 音楽における戦略――戦略、線型計画法、そして作曲
第5章 計算機を用いた拘束のない推計学的音楽
第6章 記号論的音楽
第1章から第6章までの結論と拡張
第7章 メタ音楽に向けて
第8章 音楽の哲学に向けて
第9章 微細音響構造に関する新たな提案
第10章 時間と空間と音楽について
第11章 ふるい
第12章 「ふるい」のユーザーズガイド
第13章 ダイナミックな推計学的合成
第14章 さらに徹底した推計学的音楽
補遺Ⅰ 連続確率の二つの法則
補遺Ⅱ
補遺Ⅲ 新しいUPICシステム
参考文献
監訳者解説
訳者あとがき
索引


 >監訳者解説に本書の書誌情報が詳しく書かれています。「本書は彼〔クセナキス〕自身による作曲技法の解説書だが、元々は独立な論文をほぼ執筆年代順に並べて一冊にまとめたものであり、刊行年代に応じて複数の版が存在する」。以下に、本書の先行する版についての監訳者による解説を図式的に転記しておきます。
 1)仏語版初版『Musiques formelles』(Richard-Masse, 1963)・・・当訳書の底本(英語版増補版)との対応:第1章~第6章(第2章と第3章は分割されていない)、補遺ⅠおよびⅡ、あとがき(底本では「第1章から第6章までの結論と拡張」)。
 2)英語版初版『Formalized Music』(Indiana University Press, 1971)・・・当訳書の底本との対応:第1章~第6章および、第7章と第8章の仏語論文の英訳、そして第9章(書き下ろし)。
 >留意点として、今回の訳書では、英訳の読みにくさのために、仏語原文があるものは仏語から訳したとのことです。なお『音楽と建築』(高橋悠治訳、全音楽譜出版社、1975年;新編新訳版、河出書房新社、2017年7月)との違いについては次のように書かれています。『形式化された音楽』英語版増補版の「第1章から第6章の要約(に相当する短い論文や講演原稿)及び第7章・第8章原文と若干の建築に関するメモ(現行版〔すなわち英語版増補版〕第1章に含まれるフィリップス・パビリオンのプランの説明など)からなり、英語版初版の仏語による簡易版とみなせる。刊行時点では〔・・・〕内容が重複しないように配慮したのだろう」。



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【野々村禎彦・POC寄稿集】


POC2012:


 マウリシオ・カーゲル覚書 (前半後半音源リンク付





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# by ooi_piano | 2017-11-20 08:43 | POC2017 | Comments(0)

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Portraits of Composers(POC) 第32~第36回公演

大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html


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【ポック[POC]#34】 2017年12月22日(金)18時開演(17時半開場) フェルドマン主要ピアノ作品
●由雄正恒(1972- ):《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作初演)
●シュテファン・ヴォルペ(1902-1972):《闘争曲(バトル・ピース) I~VII》 (1942/47、日本初演)
●モートン・フェルドマン (1926-1987):《天然曲(ネイチャー・ピース) I~V》(1951)、《変奏曲》(1951)、《交点 2》(1951)、《ピアノ曲》(1952)、《外延 3》(1952)、《合間 1~6》(1950/53)、《交点 3》(1953)、《三つの小曲》(1954)、《ピアノ曲》(1955)、《ピアノ曲A(シンシアに)/B》(1956)、《当近曲(ラスト・ピース) I~IV》(1959)、《ピアノ曲(フィリップ・ガストンに)》(1963)、《垂直の思考 4》(1963)、《ピアノ曲》(1964)、《ピアノ》(1977)、《マリの宮殿》(1986)



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【ポック[POC]#35】 2018年1月27日(土)18時開演(17時半開場) フィニッシー自選ピアノ代表作集
●木山光(1983- ):《ピアノ・ソナタ》(2017、委嘱新作初演)
●マイケル・フィニッシー(1946- ):《英吉利俚謡(イングリッシュ・カントリー・チューンズ)》(1977/1985)〔全8楽章 /I.緑なす草場 II.夏の盛りの朝ぼらけ III.花飾を君に贈ろう IV.5月と12月 V.嘘と奇蹟 VI.シーズ・オブ・ラヴ VII.愛おしい人 VIII.打てよ太鼓、吹けよ横笛〕、《ヴェルディ編曲集》(1972-2005)より「合唱付き七重唱: 見よ、この殿方はいかにして [エルナーニ]」 「ロマンツァ: 私はさまよい歩くみなしごに [運命の力]」、《音で辿る写真の歴史》(1995–2001)より終曲「陽光の食刻」(日本初演)、《「テレーズ・ラカン」から五つの断章》(1993/2005、日本初演)、《第三の政策課題(イギリスのEU離脱に抗して)》(2016、日本初演)、《ミュコノス》(2017、世界初演)



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【ポック[POC]#36】 2018年2月24日(土)18時開演(17時半開場) 知命作曲家特集
●山口恭子(1969- ):《zwölf》(2001、日本初演)
●望月京(1969-):《メビウス・リング》(2003)
●原田敬子(1968- ):《NACH BACH》(2004)より抜粋
●田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011、委嘱作・東京初演)
●山路敦司(1968- ):《通俗歌曲と舞曲 第一集》(2011、委嘱作・東京初演)
●木下正道(1969- ):《「すべて」の執拗さのなかで、ついに再び「無」になること II 》(2011)
●西風満紀子(1968- ):《wander-piano II (harmony go!) 》(2015、日本初演)
●夏田昌和(1968- ):《ガムラフォニー II》(2009)、《センターポジション》(2018、委嘱新作初演)
●伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018、委嘱新作初演)


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2017年9月20日(水)19時開演 東音ホール(巣鴨) 浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)

●ストラヴィンスキー(1882-1971):《結婚(儀礼)》(1917)
●一柳慧(1933- ):《二つの存在》(1981)
●西村朗(1953- ):《波うつ鏡》(1985)
●篠原眞(1931- ):《波状 B》(1997)
●南聡(1955- ):《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10)
●湯浅譲二(1929- ):《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
●西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III》(2014/15、世界初演)
(終了)




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●川島素晴(1972- ):《アクション・ミュージック》(2017、委嘱新作初演)
●アレッシオ・シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、世界初演)
●ジャチント・シェルシ(1905-1988):《組曲第8番「ボト=バ」》(1952、東京初演)〔全6楽章〕、《アクション・ミュージック》(1955、東京初演)〔全9楽章〕、《組曲第11番》(1956、東京初演)〔全9楽章〕
(終了)


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【ポック[POC]#33】 2017年11月4日(土)18時開演(17時半開場) ウストヴォリスカヤ全ピアノソナタ集
●水野みか子:《植物が決める時》(2017、委嘱新作初演)
●ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975):ピアノ・ソナタ第1番 (1926)
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919-2006):ピアノ・ソナタ第1番 (1947)、ピアノ・ソナタ第2番 (1949)、ピアノ・ソナタ第3番 (1952)、ピアノ・ソナタ第4番 (1957)、ピアノ・ソナタ第5番 (1986)、ピアノ・ソナタ第6番 (1988) (終了)




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POC2017:戦後前衛の裏側に踏み込む────野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で7期目。前年度は19世紀生誕のモダニスト特集だったこともあり、もう「現代音楽」には戻ってこないのではないか? と不安だった方も少なくないだろうが、そんなことはない。ただし、何から何まで元通りではなく、若手・中堅作曲家への委嘱と組み合わせるスタイルは前年度を踏襲している。そして特集作曲家も戦後前衛の落ち穂拾いではなく、その枠組みを引っくり返した異能者揃い。戦後前衛の全貌をその前史も含めて辿ってきたのは、〈歓喜の歌〉よろしく、今年度のためだったのだ! 逆に、戦後前衛に物申せるのはこのレベルのアウトサイダーに限られ、チンケな折衷主義者の出る幕ではない、ということでもある。



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 まずはシェルシ。ダッラピッコラやペトラッシと同世代のイタリアの作曲家であり、マリピエロやカゼッラらとノーノやベリオらとの狭間の世代の存在と見る向きもありそうだが、とんでもない! 彼の音楽が広く知られるようになったのは1980年代に入ってからだが、微分音程のうなりに焦点を絞った誰にも似ていない音楽はその後数年で爆発的に演奏されてゆき、1988年に死を迎えた時点で「いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」と評価されるまでになっていた。「メディチ荘で過ごしていると、変な老人が寄ってくるから気をつけろ」というローマ賞の先輩たちの忠告を守らなかったグリゼーとミュライユは、彼の音楽に導かれてスペクトル楽派の活動を始め、楽屋を訪れた「変な老人」の音楽に心酔して80年代の「シェルシ・ルネサンス」を牽引したのは、アンサンブル2e2mの主宰者メファーノ、アルディッティ弦楽四重奏団、チェロのウィッティ、コントラバスのレアンドル、ピアノのミカショフとシュレーダーら、錚々たる顔ぶれだった。

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 彼の死後程なく「ジャチント・シェルシ、それは私だ」と題するインタビューが音楽学雑誌に掲載され、1940年代半ば以降の彼の「作曲」は、即興演奏(の録音)を助手が譜面化したものだったと明かされたが、シェルシ名義の作品の評価が揺らぐことはなかった。その核心は微分音オルガンによる即興の録音を素材とする《1音に基づく4つの小品》(1959) 以降の作品であり、ピアノ独奏曲はその前史に位置付けられるが、これまで日本で主に取り上げられていたのは後期スクリャービンの面影が強い中庸を行く作品だった。ピアノのひとつの音を何時間も弾き続けて倍音構造に聴き入ることを通じて精神の平衡を取り戻した、というエピソードそのものの作曲復帰作《ピアノ組曲第8番》と、暴力性と瞑想性の両極を体現してピアノ独奏曲の時代を締め括る2曲《アクション・ミュージック》《ピアノ組曲第11番》という選曲は、彼の凄味をこの編成で体験するには最もふさわしい。

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 続くはウストヴォリスカヤ。ショスタコーヴィチが高く評価していた弟子の女流作曲家という扱いだったが、彼女の真価が知られるようになったのはシェルシよりも遅く、1990年代に入ってからである。シェルシの音楽の評価ポイントは、戦後前衛の音群音楽の抜本的アップグレードという、クセナキスの音楽と対をなすものだったが、ウストヴォリスカヤの根幹はあくまで調性音楽だった。だがそれは師の再生産に留まるものではなく、調性音楽の始源――後期モンテヴェルディがルネサンス音楽から訣別した瞬間に匹敵する暴力性を体現していた。旧ソ連の崩壊過程でグバイドゥーリナ、シュニトケ、ペルトらの演奏機会は増えたが、程なく新ロマン主義に飲み込まれて牙を抜かれていった。その中で、真のラスボスである「ハンマーを持った聖女」への関心が徐々に高まっていった。

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 シェルシのピークは1950年代末から1970年代初頭まで、戦後前衛の音群音楽のピークと時期は同じで、今回取り上げられるピアノ曲はその直前の姿を伝える。他方、ウストヴォリスカヤのピークは《コンポジション》3曲(1971, 1973, 1975) と交響曲第2番(1979)・第3番(1983) に絞られる。いずれもポスト前衛時代に書かれた特異な編成(例えば《コンポジション》第2番は、コントラバス8挺、ピアノ、巨大な木材とハンマー)のアンサンブル曲であり、「私の音楽は、生死を問わず誰の影響も受けていない」という言葉通りの音楽である。だが、彼女のピアノソナタ6曲が書かれたのは1947-57年と1986-88年、習作期を脱した直後と最晩年(交響曲第5番(1989-90) が彼女の最後の作品)であり、彼女のピークを想像するには少々物足りない。そこで、師ショスタコーヴィチが最も尖っていた時期のピアノソナタ第1番(1926) と並べて、彼女の異才を照らし出す形を取った。

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 そしてフェルドマン。ケージと並ぶニューヨーク楽派を代表する作曲家だが、「ケージは窓を開けた、私は少し閉めた」という言葉が、彼のスタンスを象徴している。ケージが易経に基づく偶然性の音楽を始めた1951年は、彼が図形楽譜に基づく作曲を始めた年でもあり、このふたつの手法が楽派の基本的語彙になった、ただし「偶然性」の理念は楽派で共有されても、ケージの音選択手法を採用したのはケージ自身のみで、他メンバーは専ら図形楽譜を採用した。ブラウンはジャズ畑出身、ウォルフも即興が得意なピアニストで、一音ごとに易を立てる家事労働のような地味な作業に耐えられたのはケージだけだった。フェルドマン以外は図形楽譜の自由度を高め続け、後にケージも可動プラスティック板に図形を描く「天才的発明家」らしい発想で参戦した。だがフェルドマンは1960年代まで、自由度を上げ下げする試行を地道に続けた。チューダーのような「図形楽譜解釈の専門家」以外にも弾いてほしかったからだが、この歩みを全曲演奏で追体験するのがPOC流である。

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 だが1970年代に入ると、彼は図形楽譜に限界を感じて五線譜に回帰する。ただしこれは米国実験主義からの「転向」ではなく、彼がイメージする音世界を図形楽譜を用いずに実現する書法を見つけた、と捉えるべきだろう。編成=タイトルで統一されているこの時期は、自ら「ベケットの時代」と呼ぶあたりからも想像される通り、無時間的な持続の微妙なテクスチャーの変化に的を絞った、極めて内省的な作風の時期である。この時期の中心は独奏楽器とアンサンブル(しばしばオーケストラ、彼に言わせれば「ペダルのないピアノ」)のための作品群だが、多くのピアノ曲を自ら初演してきた彼の出発点は引き続きピアノであり、アンサンブルを用いる意味は色彩を豊かにすることではなく、アタックの立ち上がりを消して滑らかな音表面を得ることだった。この時期を締め括る《ピアノ》は、いよいよ満を持して出発点に帰ってきた、このプログラムのクライマックスである。

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 ここで彼は作風を再び転換し、今度はペルシャ絨毯のような、少数の素材を果てしなく繰り返すが細部はその都度微妙に変化する、「記憶と忘却の対位法」の時期を迎える。数時間に及ぶ長大な作品も珍しくなくなり、編成は総じて小さくなる。記憶への引っかかりを重視すると、必然的に調性的な素材が用いられる。ピアノ曲にも《三和音の記憶》と《バニータ・マーカスのために》という大曲があり、近年は演奏機会も増えているが、今回取り上げられるのは《マリの宮殿》、長時間化から再び凝縮に向かい始めた最晩年の境地である。これで彼の全人生を辿った…ことにはならない。ケージと出会って図形楽譜を使い始める以前、ウォルペに師事していた時期が抜けている。今回はこの時期の素朴な調性音楽の代わりに、ウォルペの代表作《バトル・ピース》を日本初演する。12音技法による濃密な大曲であり、チューダーがブーレーズの第2ソナタやシュトックハウゼンの前衛時代の鍵盤曲を軒並み米国初演できたのは、このウォルペ作品で鍛えられていたからだった。

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 20世紀後半を代表する3人の次はフィニッシー。英国でファーニホウとともに「新しい複雑性」を始めた作曲家と紹介されがちだが、二人のスタンスは大きく異なる。ファーニホウが目指したのは、英国には存在しなかった戦後前衛第一世代の音楽を蘇らせることで、英国の保守性を早々に見限ってドイツで一時代を築いた。「新しい複雑性」の次世代を代表するバレットも英国を離れ、独自の活動をオランダで続けている。しかしフィニッシーは英国に残り、その保守性と折り合いながら活動を続ける道を選んだ。それが可能だったのは、彼が優れたピアニストだったことが大きい。保守的な同僚たちとは演奏家として関わり、創作では馴れ合わなかった。ピアノ曲を創作の中心に据えれば自分で演奏すれば良いので、演奏会企画でも馴れ合わずに済む。「新しい複雑性」とは言ってもピアニストらしくヴルトゥオーゾ志向が強いが、「英国音楽」の悪弊には染まらずに筋を通してきた。

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 今回は彼の自選プログラムだが、まず大井がプログラム案を送り、その改良案として選曲された。彼には全曲演奏すれば2時間ないし6時間という大曲がいくつもあり、昨年度のソラブジ回のようにそれ1曲という選択も有り得た。だが大井が求めたのは、代表作の《英国田舎唄》を中心に創作史を俯瞰するプログラムだった。彼のピアノ曲の一つの軸である「編曲もの」の代表として《ヴェルディ編曲集》抜粋、民衆音楽を素材にした最初の曲《テレーズ・ラカン》抜粋、全6時間の集大成的大作《音で辿る写真の歴史》の終曲、彼の知られざる軸である、政治参加の側面を代表する《政策課題》シリーズの最新作、この日のための新作。彼の全貌を体験できるまたとない機会である。

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 そして最後は大井の同年代アンソロジー。そもそもPOCの第1期は、戦後前衛世代と同世代の日本の作曲家を組み合わせるコンセプトだったが、この回はさらに細かく、同学年(1968年4月~1969年3月生)に限定した。当初は内外半々程度を想定していたが、曲を比較検討するうちに日本国内に絞った方が稔りが多いという結論に達した。現代音楽界において、日本が依然アウトサイダーなのは否めない。録音や委嘱に至るまで欧米の楽譜出版社中心に回っているこの業界で、この構造に組み込まれている日本の作曲家は一握りである。だがそれは、新自由主義の進行に伴う地盤沈下に巻き込まれずに済むということでもあった。今期のテーマは、形を変えながらどの回にも通底している。



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# by ooi_piano | 2017-11-15 11:49 | POC2017 | Comments(0)