【ポック[POC]#33】 2017年11月4日(土)18時開演(17時半開場) ウストヴォリスカヤ全ピアノソナタ集

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大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html


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●ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975):ピアノ・ソナタ第1番 (1926) 13分
  Allegro -Meno mosso - Allegro - Adagio - Lento - Allegro - Meno mosso - Moderato - Allegro
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919-2006):ピアノ・ソナタ第1番 (1947) 9分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第2番 (1949) 11分
  I. - II.
同:ピアノ・ソナタ第3番 (1952) 17分
  Tempo I. - Tempo II. Meno Mosso - Tempo III.
 (休憩 10分)
●水野みか子:《植物が決める時》(2017、委嘱新作初演) 10分
  I. Arnica - II. トゥーランドットの庭 - III. 土の音
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ:ピアノ・ソナタ第4番 (1957) 11分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第5番 (1986) 16分
  1. Espressivissimo - 2. - 3. Espressivo - 4. Espressivo - 5. Espressivo - 6. Espressivo - 7. - 8. A punto, aspro - 9. - 10. Espressivissimo
同:ピアノ・ソナタ第6番 (1988) 7分



水野みか子:《植物が決める時》
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  大井さんから委嘱のお話をいただいたとき、植物に関係する作品の第三弾を考えた。十年以上前に管弦楽のための《緑の波》を作曲したときには、豊かに実る穀物の畑をイメージしていた。第二弾、昨年作曲した《ピアノとエレクトロニクスのための リポクローム》は人参のカロチノイドにあるような黄色い色素に関係させた。
  本日初演していただく作品のタイトル《植物が決める時 tempus planta》は、 1557年に書かれたとされる「自然哲学」の書にヒントを得て作成したフレーズである。
  植物は行動しない。光、水、土などに反応することはあっても意志をもって次の動きを決めるということはなく、行動せずに根を張っていく。植物の魂によって決定される、底力ある「時間」は、人間意志に左右されずにどっしりした生命力で包んでくれるように思う。本作は、<Arnica>、<トゥーランドットの庭>、<土の音>の三曲で構成される。(水野みか子)

水野みか子 Mikako Mizuno, composer
  東京大学、愛知県立芸術大学卒業。同大学院音楽研究科修了。工学博士。作曲と音楽学の分野で活動を展開。名古屋市立大学芸術工学部芸術工学研究科・情報環境デザイン学科教授。2016年パリ・ソルボンヌ大学招聘研究員。近作に、《尺八、箏とオーケストラのための「レオダマイア」》(2012)、視聴覚同期プログラムIanniXのための《Trace the City 》(2014)、三人の演奏者のための《かげきじゃないかげき》(2015)などがある。2016年5月、伊交流コンサート(ベネチア、トレヴィーソ)にてソプラノとピアノのための《Per acqua chiare》(2016)他を発表。同年9月アジア・コンピュータ音楽会議においてヴァイオリニスト木村まりによって初演された《ヴァイオリンとエレクトロニクスのための「行き交う光束」》はICMC2017において再演された。2016年6月より国際音楽学研究組織IReMusメンバーとして電子音響音楽研究を推進している。先端芸術創作学会JSSA運営委員、日本電子音楽協会 JSEM会長。EMS2017実行委員長。
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ウストヴォリスカヤと旧ソ連の戦後前衛―――野々村 禎彦
(※音源リンク付)

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 ガリーナ・ウストヴォリスカヤは1919年にペトログラード(1924年からソ連崩壊まではレニングラード、現在はサンクトペテルブルク)に生まれ、1939年にレニングラード音楽院に入学してショスタコーヴィチに師事した。レニングラードは独ソ戦における包囲戦の舞台であり、疎開を挟んで卒業は1947年までずれ込んだ。同年に大学院に進んで教鞭を執り始めたが(1977年まで続けた生業)ショスタコーヴィチには師事しなかったのは、文学の世界では1946年に進歩的な作家への批判が始まっており、翌1948年のジダーノフ批判を予期して、優秀な弟子は遠ざけておいたのだろう。彼女も活動初期には体制に順応し、ピアノソナタ第1・2番(1947, 1949) や社会主義リアリズム路線のカンタータ《ステファン・ラージンの夢》(1949) を書いた。この間もショスタコーヴィチは彼女に新作の草稿を見せ、彼女のヴァイオリン・クラリネット・ピアノのための三重奏曲(1949) 終楽章の主題を弦楽四重奏曲第5番(1952) や《ミケランジェロの詩による組曲》(1974) に引用している

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 だが1950年に大学院を修了すると、以後は独自の道を歩み始める。2オーボエ、4ヴァイオリン、ティンパニ、ピアノのための《八重奏曲》(1949-50) を書いた時点で既に一般的ではない編成への指向は明白で、この作品も「思想的に狭量」と批判されて1970年にようやく初演された。ただし、敬虔な正教徒でもある彼女は世俗的な成功や評価は望んでいなかった。ショスタコーヴィチのように激烈な批判を受けることはない代わりに、ひたすら無視された。それでも50年代は比較的多作で、ピアノソナタ第3・4番(1952, 1957)、ピアノ独奏曲《12の前奏曲》(1953)、交響曲第1番(1955) など10曲を書いた。しかし、チェロとピアノのための《大二重奏曲》(1959) から彼女は変わった。もはや師の面影は微塵もなく、彼女だけの強靭な持続が生まれた。この変化は彼女も自覚していたのか、次作はヴァイオリンとピアノのための《二重奏曲》(1964) まで空き、これが彼女の60年代唯一の作品になった。彼女は「生活のために書いた不本意な曲」(例えば《詩曲》第1番(1958)・第2番(1959))は作品表から抹消しているが、それも50年代に限られる。

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 彼女の沈黙の背景には、ソ連の音楽状況の変化もあった。ショスタコーヴィチは《アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲》(1967) から半音階的書法への傾斜を強め、弦楽四重奏曲第12番(1968)・交響曲第14番(1969)・弦楽四重奏曲第13番(1970)・交響曲第15番(1971) では部分的に12音技法も用いているが、その背景にはこの時期に戦後前衛世代の作曲家たちがセリー書法を導入して成果を挙げたことがある(また、自己を確立したウストヴォリスカヤは彼の作風を嫌悪するようになったのとは対照的に、この時期の彼は彼女の旧作を参照して音楽的持続を作っており、その旨を彼女に私信で伝えている)。その急先鋒はエディソン・デニソフ(1929-96) であり、彼がモデルにしたのはブーレーズだった。ソプラノと9楽器のための《インカの太陽》(1964) はブーレーズに献呈され、西側でもたびたび演奏されて彼の国際的名声の出発点になったが、音楽的にはあからさまにブーレーズ《主なき槌》(1952-55/57) を換骨奪胎したものである。

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 この「国際的成功」でデニソフは当局に危険視されたが、ショスタコーヴィチのように教職を追われることもなく、ドミトリ・スミルノフ(1948-) やエレーナ・フィルソワ(1950-) をはじめ、旧ソ連のポスト戦後前衛世代を代表する作曲家たちを門下から輩出した背景には、ノーノの存在が大きい。前衛の時代のイタリア共産党はソ連と友好関係を結び、党員のノーノは文化使節としてソ連をしばしば訪れていた。ナチスドイツに抵抗した共産主義者や、北ベトナムなどのソ連に支援された民族解放闘争を讃える音楽をセリー書法で生み出し続ける彼の手前、ソ連でこの方向性を代表するデニソフを冷遇するわけにもいかない。彼もホリガーと同じく、この書法をブーレーズの枠を超えて柔軟に発展させ、ピアノ三重奏曲(1971) とソプラノと6楽器のための《赤い生活》(1973) で頂点に達した。

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 同世代の作曲家たちも同様の書法から出発したが、その路線ではデニソフに伍することは難しく、独自の道を歩み始めた中で最初に頭角を現したのはアルフレート・シュニトケ(1934-98) だった。彼はアンドレイ・フルジャノフスキー監督(1939-) の実験アニメ『グラスハーモニカ』の音楽を担当したが、監督一人で寓話的な切り絵アニメを制作するのと並行して、先の見えない状況でシークエンスごとに音楽を付けて行くと、おのずと泰西名曲や大衆音楽の断片を表層的に切り貼りした、神経症的なカットアップ音楽になる。この音楽をほぼ転用したヴァイオリンソナタ第2番(1967-68) で独自の書法を確立すると、この路線を過激化させてゆく。チャイコフスキーと自身の映画音楽を混淆してジョン・ゾーンの音楽を予言したような交響曲第1番(1969-72) は画期的な成果だが、強烈な音楽は強烈な批判も招き、結局彼は教職を追われて長らく映画音楽で生計を立てることになる。

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 シュニトケの覚醒は短期的には彼に困難をもたらしたが、西欧の戦後前衛の後追いとは異なる道を示し、同世代への刺激になった。イタリア共産党が1973年にユーロコミュニズムに転換し、ノーノの庇護を失ったデニソフがピアノ協奏曲(1974) でジャズとの混淆に転じたのは象徴的である。ただしデニソフはこの様式に長居はせず、セリー書法と後期ショスタコーヴィチを折衷した(すなわち、間接的にウストヴォリスカヤに影響された)繊細で穏健な様式に落ち着いた。シュニトケは、ピアノ五重奏曲(1972-76) や合奏協奏曲第1番(1977) のような端正な多様式書法で西側に知られるようになったが、彼の本領は様式混淆を極めた合奏協奏曲第2番(1981-82) や宗教的緊張感を極めた交響曲第4番(1984) のような、テンションを振り切った音楽にあることは強調しておきたい。

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 この時期に新たに覚醒したのはアルヴォ・ペルト(1935-) だった。彼は60年代末までは多作で、セリー書法や多様式書法を試みていたが限界を感じ、交響曲第3番(1972) で中世・ルネサンス音楽に鉱脈を見出していったん作曲を中断した。1976年にルネサンス・ポリフォニーと三度和声を融合する新たな発想を得て作曲を再開し、繰り返される三和音と全音階の順次進行をシステマティックに重ねる「鈴鳴らし」様式を提唱した。調性的動機をミニマルに反復する見かけの類似から、70年代以降のヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933-2010) やジョン・タヴナー(1944-2013) らと「聖なるミニマリズム」と総称されることもあるが、新ロマン主義や神秘主義の文脈で調性に向かった彼らと、戦後前衛のシステム思考は保っていたこの時点のペルトの音楽の密度の差は明白である。

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 戦後前衛の後追いから解放されてウストヴォリスカヤも創作力を取り戻し、まず3曲の《コンポジション》(1971/73/75:編成はピッコロ、チューバ、ピアノ / 8コントラバス、ピアノ、巨大な木製ブロックとハンマー / 4フルート、4ファゴット、ピアノ) を書いた。いずれも高音楽器と低音楽器をピアノが結ぶ極端な編成であり、ピアノの役割も両者を和声的に繋ぐのではなく、強烈なクラスターで一拍子を刻むことである。彼女がセリー音楽を受け入れなかったのは「前衛的すぎる」からではなく、近代西洋音楽の残滓を引きずって穏健すぎるからだった。この3曲はミサ通常文に由来する副題「我らに平和を与え給え」「怒りの日」「来たる者を讃えよ」を持つが、このキリスト教的な側面も保守主義と結びつくものではなく、クセナキスのビザンチン音楽理解と共通する、東方正教の汎理性主義と超越指向の音楽(ただしペルトとは対照的に極めて暴力的な)を結びつけている。この路線を継承して声を含むより大きな編成(特定楽器群のみ増強した、ピアノと打楽器を含む室内管弦楽)に拡大したのが交響曲第2番(1979)・第3番(1983) であり、この5曲が彼女の創作の頂点をなす。

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 ただし、彼女の充実は同時代の評価には直結しなかった。1985年にゴルバチョフがソ連書記長に就任して文化開放路線に転じるのと前後して、音楽の世界ではCDが普及し、この機に乗じて一挙に認知されたレーベルが幾つかある。そのひとつスウェーデンBISはシュニトケの全曲録音を現代音楽部門の看板にし(この録音シリーズは穏健な曲目から始まったが、これを受けてソ連国営Melodiyaレーベルがテンションを振り切った作品群の未発表録音をCD化して西側に販売し)、ヨーロッパの静謐なジャズを紹介してきたECMレーベルはクラシック部門開設にあたり、その方向性を象徴する作曲家としてペルトに白羽の矢を立てた。この方向性はペレストロイカ/グラスノスチ以降のロシア文化ブームを受けたものだが、彼らが選ばれたのは1980年にソ連から西側に亡命した世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル(1947-) が彼らを積極的に取り上げていたことが大きい。むしろ、彼らとは比べるべくもないがクレーメルとは親交があった数人の作曲家も、前世紀末には頻繁に取り上げられていたことに、クレーメルの影響力の大きさを見るべきだろう。

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 シュニトケは1985年に脳梗塞で倒れた後も作曲を続けたが、全盛期の振り切ったテンションは戻らなかった。ペルトはクレーメルと同じく1980年に西側に亡命したが代表作は専らそれ以前、名声の高まりと共に新ロマン主義に飲み込まれ、後期ブリテンの音楽に共鳴し「鈴鳴らし様式」に至った時期の純粋さは失われれた。だが、彼らが峠を越えると今度はソフィア・グバイドゥーリナ(1931-) が注目された。敬虔なキリスト教徒の女性作曲家という表面的な部分では彼女とウストヴォリスカヤは被っており、ウストヴォリスカヤへの注目はまたもや遅れた。彼女の特徴は非主題的かつ無時間的な即興演奏に強い関心を持ち、旧ソ連の前衛的な作曲家の中では電子音響に関心が強かったことで、1975年にはヴァチェスラフ・アルチョーモフ(1940-)、ヴィクトル・ススリン(1942-2012) と即興演奏グループ「アストレイヤ」を結成した。この不定形の魅力は70年代の作曲作品にも共通する。

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 ただし彼女は70年代末から、宗教的な作品では内的プログラム(J.S.バッハの数の象徴のような、譜面には明示されない構成原理)を用いるようになり、80年代初頭からはフィボナッチ数列に基づいたセクション分割も行うようになり、局所的には無時間的でも大域的な流れは明確な、幾らか理解されやすい方向に変化した。この時期に、《音楽の捧げ物》の主題を用いた彼女の作品の中でも特にわかりやすいヴァイオリン協奏曲《オッフェルトリウム》(1980/82-86) をクレーメルが初演以降もたびたび取り上げたことで国際的認知も進んだ。《7つの言葉》(1982)、《声…沈黙…》(1986)、弦楽四重奏曲第2番第3番(1987) と代表作も次々と生まれ、民族解放闘争の時代以降の共産主義国に失望して政治性は薄く即興性の強い作風に変化した晩年のノーノに強く支持され(W.リームと並び称され)、クレーメルのためのヴァイオリン曲の録音パート制作を任されたこともあった。

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 彼らもシステム思考に支えられた戦後前衛の末裔ではあり、方法論をアップデートし続けなければ10年程度で古びて行く。デニソフは一度アップデートして《パウル・クレーの3つの絵》(1985) やヴィオラ協奏曲(1986) あたりまで、シュニトケも一度アップデートして弦楽四重奏曲第4番(1989) あたりまでは保たせたが、ペルトは高々80年代末まで、グバイドゥーリナも同じ頃に行き詰まった感がある(ノーノが1990年に亡くなり、ソ連崩壊後の混乱を避けて1992年にドイツに移住したのが分岐点になってしまった)。年下の「先輩」(西側での認知という点において)たちが峠を越え、Sikorski社と全作品の出版契約を結び、いよいよウストヴォリスカヤの時代が訪れたのだが…



c0050810_00313887.jpg 交響曲第3番以降の作品でまず注目すべきは、ピアノソナタ第5番(1986)・第6番(1988) である。クラスター絨毯爆撃の苛烈さは全盛期の諸作品すら凌ぐが、そこにアンバランスな楽器群を重ねて得た多様性はもはや見られない。彼女は編成に応じて書法を柔軟に変える器用な作曲家ではなかった。交響曲第4番(1985-87)・第5番(1989-90) も書いたが、実態は声と3-5楽器のための室内楽小品であり、極限的なテンションを広いキャンバスで持続させる、全盛期の筆力は既に残っていなかった。むしろ彼女の非凡さは、ここで筆を置いた(宣言したわけではなく、結果的にではあるが)ことだ。3大Bのように死の直前まで創作を続け、それが傑作に数えられる人生は幸福だが、政治力は得ても霊感は失い、晩節を汚す大作を量産してしまう大家は多い(戦後前衛世代では、Bで始まる作曲家に多いのは皮肉だ)。旧ソ連の戦後前衛世代は全盛期に当局に抑圧された反動なのか、霊感を失っても創作にしがみつく作曲家が多いだけに、彼女の潔い引き際はひときわ鮮やかだった。

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 しかし彼女は隠遁生活を続けたわけではなく、国際的な評価の高まりに応じて彼女の作品を特集する音楽祭やワークショップが増えると積極的に立ち会い、自作をあるべき姿で後世に残そうとした。特に、旧ソ連時代から彼女の作品に献身的に取り組んだ地元サンクトペテルブルクのピアニスト=指揮者オレグ・マーロフと、彼女の国際的認知に大きな役割を果たした指揮者=ピアニストのラインベルト・デ=レーウとは関係が深い(ただしマーロフへの評価は微妙だが、終生デ=レーウを高く評価し、実験主義ベースの解釈も支持)。彼女の作品でまず知られたのは編成的にも扱いやすいピアノ独奏曲であり、90年代にはマーロフ盤をはじめソナタの全曲録音が5種類リリースされたが、その演奏者の中にはシェルシ作品やフェルドマン作品も数多く録音しているマリアンヌ・シュレーダーとマルクス・ヒンターホイザーが含まれるのは、今年度のPOCの作曲家選択の裏付けにもなっている。

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# by ooi_piano | 2017-10-18 19:32 | POC2017 | Comments(0)

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Portraits of Composers(POC) 第32~第36回公演

大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
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【ポック[POC]#33】 2017年11月4日(土)18時開演(17時半開場) ウストヴォリスカヤ全ピアノソナタ集
●水野みか子:《植物が決める時》(2017、委嘱新作初演)
●ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975):ピアノ・ソナタ第1番 (1926)
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919-2006):ピアノ・ソナタ第1番 (1947)、ピアノ・ソナタ第2番 (1949)、ピアノ・ソナタ第3番 (1952)、ピアノ・ソナタ第4番 (1957)、ピアノ・ソナタ第5番 (1986)、ピアノ・ソナタ第6番 (1988)



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【ポック[POC]#34】 2017年12月22日(金)18時開演(17時半開場) フェルドマン主要ピアノ作品
●由雄正恒(1972- ):《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作初演)
●シュテファン・ヴォルペ(1902-1972):《闘争曲(バトル・ピース) I~VII》 (1942/47、日本初演)
●モートン・フェルドマン (1926-1987):《天然曲(ネイチャー・ピース) I~V》(1951)、《変奏曲》(1951)、《交点 2》(1951)、《ピアノ曲》(1952)、《外延 3》(1952)、《合間 1~6》(1950/53)、《交点 3》(1953)、《三つの小曲》(1954)、《ピアノ曲》(1955)、《ピアノ曲A(シンシアに)/B》(1956)、《当近曲(ラスト・ピース) I~IV》(1959)、《ピアノ曲(フィリップ・ガストンに)》(1963)、《垂直の思考 4》(1963)、《ピアノ曲》(1964)、《ピアノ》(1977)、《マリの宮殿》(1986)



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【ポック[POC]#35】 2018年1月27日(土)18時開演(17時半開場) フィニッシー自選ピアノ代表作集
●木山光(1983- ):《ピアノ・ソナタ》(2017、委嘱新作初演)
●マイケル・フィニッシー(1946- ):《英吉利俚謡(イングリッシュ・カントリー・チューンズ)》(1977/1985)〔全8楽章 /I.緑なす草場 II.夏の盛りの朝ぼらけ III.花飾を君に贈ろう IV.5月と12月 V.嘘と奇蹟 VI.シーズ・オブ・ラヴ VII.愛おしい人 VIII.打てよ太鼓、吹けよ横笛〕、《ヴェルディ編曲集》(1972-2005)より「合唱付き七重唱: 見よ、この殿方はいかにして [エルナーニ]」 「ロマンツァ: 私はさまよい歩くみなしごに [運命の力]」、《音で辿る写真の歴史》(1995–2001)より終曲「陽光の食刻」(日本初演)、《「テレーズ・ラカン」から五つの断章》(1993/2005、日本初演)、《第三の政策課題(イギリスのEU離脱に抗して)》(2016、日本初演)、《献呈新作》(2017、世界初演)



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【ポック[POC]#36】 2018年2月24日(土)18時開演(17時半開場) 知命作曲家特集
●山口恭子(1969- ):《zwölf》(2001、日本初演)
●望月京(1969-):《メビウス・リング》(2003)
●原田敬子(1968- ):《NACH BACH》(2004)より抜粋
●田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011、委嘱作・東京初演)
●山路敦司(1968- ):《通俗歌曲と舞曲 第一集》(2011、委嘱作・東京初演)
●木下正道(1969- ):《「すべて」の執拗さのなかで、ついに再び「無」になること II 》(2011)
●西風満紀子(1968- ):《wander-piano II (harmony go!) 》(2015、日本初演)
●夏田昌和(1968- ):《ガムラフォニー II》(2009)、《センターポジション》(2018、委嘱新作初演)
●伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018、委嘱新作初演)


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2017年9月20日(水)19時開演 東音ホール(巣鴨) 浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)

●ストラヴィンスキー(1882-1971):《結婚(儀礼)》(1917)
●一柳慧(1933- ):《二つの存在》(1981)
●西村朗(1953- ):《波うつ鏡》(1985)
●篠原眞(1931- ):《波状 B》(1997)
●南聡(1955- ):《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10)
●湯浅譲二(1929- ):《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
●西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III》(2014/15、世界初演)
(終了)






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●川島素晴(1972- ):《アクション・ミュージック》(2017、委嘱新作初演)
●アレッシオ・シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、世界初演)
●ジャチント・シェルシ(1905-1988):《組曲第8番「ボト=バ」》(1952、東京初演)〔全6楽章〕、《アクション・ミュージック》(1955、東京初演)〔全9楽章〕、《組曲第11番》(1956、東京初演)〔全9楽章〕
(終了)


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POC2017:戦後前衛の裏側に踏み込む────野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で7期目。前年度は19世紀生誕のモダニスト特集だったこともあり、もう「現代音楽」には戻ってこないのではないか? と不安だった方も少なくないだろうが、そんなことはない。ただし、何から何まで元通りではなく、若手・中堅作曲家への委嘱と組み合わせるスタイルは前年度を踏襲している。そして特集作曲家も戦後前衛の落ち穂拾いではなく、その枠組みを引っくり返した異能者揃い。戦後前衛の全貌をその前史も含めて辿ってきたのは、〈歓喜の歌〉よろしく、今年度のためだったのだ! 逆に、戦後前衛に物申せるのはこのレベルのアウトサイダーに限られ、チンケな折衷主義者の出る幕ではない、ということでもある。



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 まずはシェルシ。ダッラピッコラやペトラッシと同世代のイタリアの作曲家であり、マリピエロやカゼッラらとノーノやベリオらとの狭間の世代の存在と見る向きもありそうだが、とんでもない! 彼の音楽が広く知られるようになったのは1980年代に入ってからだが、微分音程のうなりに焦点を絞った誰にも似ていない音楽はその後数年で爆発的に演奏されてゆき、1988年に死を迎えた時点で「いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」と評価されるまでになっていた。「メディチ荘で過ごしていると、変な老人が寄ってくるから気をつけろ」というローマ賞の先輩たちの忠告を守らなかったグリゼーとミュライユは、彼の音楽に導かれてスペクトル楽派の活動を始め、楽屋を訪れた「変な老人」の音楽に心酔して80年代の「シェルシ・ルネサンス」を牽引したのは、アンサンブル2e2mの主宰者メファーノ、アルディッティ弦楽四重奏団、チェロのウィッティ、コントラバスのレアンドル、ピアノのミカショフとシュレーダーら、錚々たる顔ぶれだった。

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 彼の死後程なく「ジャチント・シェルシ、それは私だ」と題するインタビューが音楽学雑誌に掲載され、1940年代半ば以降の彼の「作曲」は、即興演奏(の録音)を助手が譜面化したものだったと明かされたが、シェルシ名義の作品の評価が揺らぐことはなかった。その核心は微分音オルガンによる即興の録音を素材とする《1音に基づく4つの小品》(1959) 以降の作品であり、ピアノ独奏曲はその前史に位置付けられるが、これまで日本で主に取り上げられていたのは後期スクリャービンの面影が強い中庸を行く作品だった。ピアノのひとつの音を何時間も弾き続けて倍音構造に聴き入ることを通じて精神の平衡を取り戻した、というエピソードそのものの作曲復帰作《ピアノ組曲第8番》と、暴力性と瞑想性の両極を体現してピアノ独奏曲の時代を締め括る2曲《アクション・ミュージック》《ピアノ組曲第11番》という選曲は、彼の凄味をこの編成で体験するには最もふさわしい。

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 続くはウストヴォリスカヤ。ショスタコーヴィチが高く評価していた弟子の女流作曲家という扱いだったが、彼女の真価が知られるようになったのはシェルシよりも遅く、1990年代に入ってからである。シェルシの音楽の評価ポイントは、戦後前衛の音群音楽の抜本的アップグレードという、クセナキスの音楽と対をなすものだったが、ウストヴォリスカヤの根幹はあくまで調性音楽だった。だがそれは師の再生産に留まるものではなく、調性音楽の始源――後期モンテヴェルディがルネサンス音楽から訣別した瞬間に匹敵する暴力性を体現していた。旧ソ連の崩壊過程でグバイドゥーリナ、シュニトケ、ペルトらの演奏機会は増えたが、程なく新ロマン主義に飲み込まれて牙を抜かれていった。その中で、真のラスボスである「ハンマーを持った聖女」への関心が徐々に高まっていった。

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 シェルシのピークは1950年代末から1970年代初頭まで、戦後前衛の音群音楽のピークと時期は同じで、今回取り上げられるピアノ曲はその直前の姿を伝える。他方、ウストヴォリスカヤのピークは《コンポジション》3曲(1971, 1973, 1975) と交響曲第2番(1979)・第3番(1983) に絞られる。いずれもポスト前衛時代に書かれた特異な編成(例えば《コンポジション》第2番は、コントラバス8挺、ピアノ、巨大な木材とハンマー)のアンサンブル曲であり、「私の音楽は、生死を問わず誰の影響も受けていない」という言葉通りの音楽である。だが、彼女のピアノソナタ6曲が書かれたのは1947-57年と1986-88年、習作期を脱した直後と最晩年(交響曲第5番(1989-90) が彼女の最後の作品)であり、彼女のピークを想像するには少々物足りない。そこで、師ショスタコーヴィチが最も尖っていた時期のピアノソナタ第1番(1926) と並べて、彼女の異才を照らし出す形を取った。

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 そしてフェルドマン。ケージと並ぶニューヨーク楽派を代表する作曲家だが、「ケージは窓を開けた、私は少し閉めた」という言葉が、彼のスタンスを象徴している。ケージが易経に基づく偶然性の音楽を始めた1951年は、彼が図形楽譜に基づく作曲を始めた年でもあり、このふたつの手法が楽派の基本的語彙になった、ただし「偶然性」の理念は楽派で共有されても、ケージの音選択手法を採用したのはケージ自身のみで、他メンバーは専ら図形楽譜を採用した。ブラウンはジャズ畑出身、ウォルフも即興が得意なピアニストで、一音ごとに易を立てる家事労働のような地味な作業に耐えられたのはケージだけだった。フェルドマン以外は図形楽譜の自由度を高め続け、後にケージも可動プラスティック板に図形を描く「天才的発明家」らしい発想で参戦した。だがフェルドマンは1960年代まで、自由度を上げ下げする試行を地道に続けた。チューダーのような「図形楽譜解釈の専門家」以外にも弾いてほしかったからだが、この歩みを全曲演奏で追体験するのがPOC流である。

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 だが1970年代に入ると、彼は図形楽譜に限界を感じて五線譜に回帰する。ただしこれは米国実験主義からの「転向」ではなく、彼がイメージする音世界を図形楽譜を用いずに実現する書法を見つけた、と捉えるべきだろう。編成=タイトルで統一されているこの時期は、自ら「ベケットの時代」と呼ぶあたりからも想像される通り、無時間的な持続の微妙なテクスチャーの変化に的を絞った、極めて内省的な作風の時期である。この時期の中心は独奏楽器とアンサンブル(しばしばオーケストラ、彼に言わせれば「ペダルのないピアノ」)のための作品群だが、多くのピアノ曲を自ら初演してきた彼の出発点は引き続きピアノであり、アンサンブルを用いる意味は色彩を豊かにすることではなく、アタックの立ち上がりを消して滑らかな音表面を得ることだった。この時期を締め括る《ピアノ》は、いよいよ満を持して出発点に帰ってきた、このプログラムのクライマックスである。

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 ここで彼は作風を再び転換し、今度はペルシャ絨毯のような、少数の素材を果てしなく繰り返すが細部はその都度微妙に変化する、「記憶と忘却の対位法」の時期を迎える。数時間に及ぶ長大な作品も珍しくなくなり、編成は総じて小さくなる。記憶への引っかかりを重視すると、必然的に調性的な素材が用いられる。ピアノ曲にも《三和音の記憶》と《バニータ・マーカスのために》という大曲があり、近年は演奏機会も増えているが、今回取り上げられるのは《マリの宮殿》、長時間化から再び凝縮に向かい始めた最晩年の境地である。これで彼の全人生を辿った…ことにはならない。ケージと出会って図形楽譜を使い始める以前、ウォルペに師事していた時期が抜けている。今回はこの時期の素朴な調性音楽の代わりに、ウォルペの代表作《バトル・ピース》を日本初演する。12音技法による濃密な大曲であり、チューダーがブーレーズの第2ソナタやシュトックハウゼンの前衛時代の鍵盤曲を軒並み米国初演できたのは、このウォルペ作品で鍛えられていたからだった。

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 20世紀後半を代表する3人の次はフィニッシー。英国でファーニホウとともに「新しい複雑性」を始めた作曲家と紹介されがちだが、二人のスタンスは大きく異なる。ファーニホウが目指したのは、英国には存在しなかった戦後前衛第一世代の音楽を蘇らせることで、英国の保守性を早々に見限ってドイツで一時代を築いた。「新しい複雑性」の次世代を代表するバレットも英国を離れ、独自の活動をオランダで続けている。しかしフィニッシーは英国に残り、その保守性と折り合いながら活動を続ける道を選んだ。それが可能だったのは、彼が優れたピアニストだったことが大きい。保守的な同僚たちとは演奏家として関わり、創作では馴れ合わなかった。ピアノ曲を創作の中心に据えれば自分で演奏すれば良いので、演奏会企画でも馴れ合わずに済む。「新しい複雑性」とは言ってもピアニストらしくヴルトゥオーゾ志向が強いが、「英国音楽」の悪弊には染まらずに筋を通してきた。

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 今回は彼の自選プログラムだが、まず大井がプログラム案を送り、その改良案として選曲された。彼には全曲演奏すれば2時間ないし6時間という大曲がいくつもあり、昨年度のソラブジ回のようにそれ1曲という選択も有り得た。だが大井が求めたのは、代表作の《英国田舎唄》を中心に創作史を俯瞰するプログラムだった。彼のピアノ曲の一つの軸である「編曲もの」の代表として《ヴェルディ編曲集》抜粋、民衆音楽を素材にした最初の曲《テレーズ・ラカン》抜粋、全6時間の集大成的大作《音で辿る写真の歴史》の終曲、彼の知られざる軸である、政治参加の側面を代表する《政策課題》シリーズの最新作、この日のための新作。彼の全貌を体験できるまたとない機会である。

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 そして最後は大井の同年代アンソロジー。そもそもPOCの第1期は、戦後前衛世代と同世代の日本の作曲家を組み合わせるコンセプトだったが、この回はさらに細かく、同学年(1968年4月~1969年3月生)に限定した。当初は内外半々程度を想定していたが、曲を比較検討するうちに日本国内に絞った方が稔りが多いという結論に達した。現代音楽界において、日本が依然アウトサイダーなのは否めない。録音や委嘱に至るまで欧米の楽譜出版社中心に回っているこの業界で、この構造に組み込まれている日本の作曲家は一握りである。だがそれは、新自由主義の進行に伴う地盤沈下に巻き込まれずに済むということでもあった。今期のテーマは、形を変えながらどの回にも通底している。



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# by ooi_piano | 2017-10-08 13:47 | POC2017 | Comments(0)

【ポック[POC]#32】 2017年10月6日(金)19時開演(18時半開場)
シェルシ中期傑作集

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大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html



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●A.シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、世界初演) 3分
●G.シェルシ(1905-1988):組曲第8番《ボト=バ》(1952、東京初演) 〔全6楽章〕 30分
 I. Agitato - II. Non troppo sostenuto - III. - IV. Lento - V. Lento - VI. Lento
●G.シェルシ: 《アクション・ミュージック》(1955) (東京初演) 〔全9楽章〕 16分
 I. - II. Iniziando - III. Lento dolce - IV. Martellato - V. Violento - VI. Brillante - VII. Pesante - VIII. Veloce - IX. Con fuoco

 (休憩10分)

●川島素晴(1972- ): 《アクション・ミュージック》(2017、世界初演) 〔全9楽章〕 30分
 I.隣接する5本指 - II.少音程12音和音によるアルペジョ - III.各音域での両手和音 - IV.影のあるグリッサンド - V.複数弦によるホケット - VI.手移り - VII.ジャンプ - VIII.ポリル - IX.マルシュ・リュネール
●G.シェルシ: 組曲第11番(1956、東京初演) 〔全9楽章〕 35分
  I. - II. Lento - III. Intenso e animato - IV. Barbaro - V. Velato - VI. Feroce - VII. Sostenuto - VIII. - IX.



アレッシオ・シルヴェストリン:《凍れる音楽》(2015)
  ピアノ独奏のための《凍れる音楽》は、法隆寺東塔の建築設計上の比率に想を得て作曲された。塔の高さ122尺(34メートル)、そして裳階を伴う三重の屋根に基づき、曲の速度は56、84、112と加速する。34メートルの高さ、10メートルの相輪(先端部)、1から始まり34に至るフィボナッチ数列(パスカルの三角形)などに関連付けられつつ、ピアノ全音域を3分割する音群、リズム・拍節構造が操作される。Audible Cities作曲コンクール(サンフランシスコ)第1位受賞作品。

アレッシオ・シルヴェストリン Alessio Silvestrin, composer
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  1973年イタリア生まれ。モンテカルロ市グレース王妃ダンスクラシック・アカデミーを卒業後、スイス・ローザンヌのルードラ・ベジャール学校にて学ぶ。その後ベジャール・バレエ・ローザンヌ、リヨンオペラ座バレエ団にてダンサーおよび振付家として活躍。1999 年よりウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルトバレエ団に所属。退団後もフォーサイスカンパニーのゲストアーティストとして活躍。建築家 安藤忠雄氏が手がけた「21_21 Design Sight」のオープニングプログラムにて、ウィリアム・ フォーサイスのインスタレーション作品「Additive Inverse」でパフォーマンスを披露。その他にも、コロンブスのウェクスナー・芸術センター、バーゼルのバイエラー美術館、ロンドンのサドラーズウェルズやテートモダン等にて、ウィリアム・フォーサイスの作品でパフォーマンスを披露。
  2003 年より日本を拠点にフリーランスアーティストとして活動を始め、日本国内および海外の国々で様々な活動に関わる。愛知芸術文化センターによるダンスオペラ「青ひげ城の扉」にて、演出・振付・映像・美術を担当し、自身も出演。Noism05「Triple Bill」委嘱による「DOOR INDOOR」を発表。新国立劇場コンテンポラリーダンス「ダンスプラネット No. 18」では、音楽をトム・ヴィレムが担当した作品「noon afternoon」をマイケル・シューマッハと共演。山口情報芸術センターによる「混舞(Dance mix)」プロジェクトにて振付を担当、また、自作のビジュアル・アートを展示。ブラジルのダンス・カンパニー “Sao Paulo Conpanhia de Danca” から委託を受け、「Poligono」の振付・演出を担当する。当作品はJ.S. バッハの「音楽の捧げものの」に基づき、カンパニーのオープニング・プログラムのために創作されたもので、ブリュッセルの室内楽グループ “Het Collectief” によって再演された。新国立劇場にて、ベートーヴェンの弦楽四重奏第14番に基づく「Opus 131」を発表。
  また、ヴィチェンツァ市の音楽学校およびモンテカルロ市のアカデミー音楽学校ラニエール III にて音楽も学ぶ。作曲家フランチェスコ・ヴァルダンブリーニの指導のもと、トリコルダーレ (Tricordale) 音楽という新楽派に加わり、フィボナッチ数列等を用いて拡張されたセリー体系に基づく音楽は自身の振付作品にも使用している。イタリア・ヴェネチア・ダンスビエンナーレからの招聘で、能楽師・ 津村禮次郎とともに「Ritrovare/Derivare」を自作の曲を使用し上演。セルリアンタワー能楽堂にて、プラトンの対話篇「パイドン」に基づく「かけことば」を自作のヴァージナル曲の自演とともに上演。Noism「OTHERLAND」では、日本の伝統文化に対する独自の切り口で「折り目の上」を発表し、ピアノ、フルートそれぞれのためのソロ作品を同作品のために、能楽に着想を得て作曲。イタリア文化会館で上演されたソロパフォーマンス「星座と星群」では、デル・ブオーノ(16~17世紀)、シュトックハウゼン、コデクス・ファエンツァ117(15世紀)、自作「17の俳句」をチェンバロやトイピアノ、日本の伝統打楽器で演奏し、自作の映像も駆使して、時代や文化、芸術領域を横断する世界を表現。ロワイヨモン財団の委嘱で、モデュラ計算や魔法陣を用いて作曲された「三つの渦」を発表。アンサンブル室町の委嘱で、魔法陣・トリコルド・素数配列等によって短歌の韻律を拡張した「31の短歌」を発表。 http://alessiosilvestrin.com/



川島素晴:ピアノ独奏のための《アクション・ミュージック》(2017)

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 大井浩明とは、1992年の「秋吉台国際作曲セミナー&フェスティバル」のときに同室者の一人だった。そこで出会って以来、ピアノ曲《静寂なる癈癲の淵へ》(1992)、四重奏曲《ポリプロソポス I 》(1995)、《クセナキス「シナファイ」のためのカデンツァ》(1996)、《ピアノのためのポリエチュード「ポリスマン/トランポリン」》(2001)、ピアノ編曲《シェーンベルク「黄金の仔牛の踊り」》(2007)、《ピアノのためのポリエチュード「ポリポリフォニー」》(2007)、といった作品を初演して頂いた。出会って15年の間にしては比較的多くの作品を協働してきたが、気付けばそれ以来はご無沙汰しており、今回は10年ぶりの初演機会となる。

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 私は普段、自作品の創作姿勢として「演じる音楽」(演奏行為の連接から音楽を構築する)という理念を掲げている。1994年から言い始めたこの語は、師である近藤譲の「線の音楽」の影響から、独自の音楽論を導くにあたり採った「◯◯音楽」という標語で、「Action Music」なる英訳は2000年に作品集CDを制作した際に後付であてがったものである。この英訳を考えるにあたり、当然、ジャクソン・ポロックらが1940年代から行いハロルド・ローゼンバーグが1952年に用い始めた「Action Painting」なる絵画技法の名称を意識したわけだが、シェルシに《Action Music》(1955)なる同名作品があることも、松平頼暁の1980年代の著作に「アクション・ミュージック」なる語が登場することも、当時はあまり意識していなかったと思う。特に、1990年代はシェルシ再評価と研究がようやく進みつつある時代で、当該作品の2001年の録音音源が発売されたのが2004年であるため、2000年時点ではシェルシの《Action Music》は知る人ぞ知る存在だったはずである。私自身はもちろん、シェルシにせよ松平頼暁にせよ、「Action Msuic」なる語は「Action Painting」の音楽方面への転用ではないかと思うが、シェルシのそれが1955年のピアノ作品として極めて独創的で且つ完成度の高いものであること(たとえそれが彼自身の即興演奏に基づく書き起こしであろうとも)を踏まえると、シェルシの評価が生前から正当になされ、本作が周知のものとなっていたら、私自身が、少なくとも英語で「Action Music」なる語を標榜することはやりにくかったであろう。

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 今回、10年ぶりの協働に際し大井浩明が私に課したお題は、《Action Music》という題名でのピアノ新作、つまり、シェルシの名曲《Action Music》への文字通りの対峙であった。それは、シェルシが62年前に成し遂げていた「ピアノ音楽の新しい可能性」をいかに乗り越えるか、そして今日、私自身が「ピアノ音楽の新しい可能性」をいかに提示可能か、という命題に他ならない。シェルシに同名作品があることを知ったのは確かヴァンバッハの録音がリリースされた2004年当時だったはずだが、それ以来、まさかこのような題名で、それもピアノ曲を書こうとは思いもよらなかった。しかし、今回は敢えてその命題に応えることとした。
 シェルシのそれが9章から成るため、私も9曲の連作を構想した。そのうち何曲が完成し、何曲が初演されることになるかは現時点では不明であるが、ここにその構想を示しておく。


◆第1曲「隣接する5本指」
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 シェルシの《Action Music》は、ほぼ全面的にクラスターの使用が見られる。従って本作ではクラスターの使用は控えるべき、との考えと同時に、その事実へのリスペクトを示すことを両立させることを考えた結果、5本指を隣接させることで弾ける白鍵クラスターの5種の形態、即ち、「ドレミファソ」「レミファソラ」「ミファソラシ」「ファソラシド」「シドレミファ」(「ソラシドレ」「ラシドレミ」はそれぞれ同じ音程のものがあるので除かれる)を用い、これら5種の音程に紐付けたキャクターを維持しつつ、その音程を踏襲する移高型をも駆使する作品となった。例えば、「ドレミファソ」と「シドレミファ」は、同じ白鍵クラスターであっても、全く異なる表情を持つ。本作は、そのような、白鍵クラスターの表情の差異を聴くことを出発点としている。

◆第2曲「少音程12音和音によるアルペジョ」
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 ここでは、「アクション・ミュージック」という語を1980年代より定義していた松平頼暁へのオマージュを構想した。松平頼暁と言えば、1980年代から全音程和音を用いた「ピッチ・インターヴァル技法」を実践していることで知られる。全音程和音とは、短2度から長7度まで、全ての音程を含む12音音列(全音程音列)を、低音から高音に積み上げることによって得られる和音である。それをそのまま踏襲するわけにはいかないので、ここでは、逆に「なるべく少ない種類の音程によって得られる12音音列」を下から積み上げることによって得られる和音(例えば完全5度を重ねていく響きも12音を重複なく重ねることが可能である)、即ち「少音程12音和音」を用い、そのアルペジョによって構成している。

◆第3曲「各音域での両手和音」
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 ここでは、私の作品におけるピアノ書法としてしばしば用いている、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番冒頭における、低音域、中音域、高音域のそれぞれで、両手で和音を弾く型を用いている。私は、2台ピアノ協奏曲《Manic-Depressive III》(1999)にて初めてこの型を用いたが、そこではチャイコフスキーそのもの(変ニ長調のコード)を奏でる瞬間もある。しかし今回、大井浩明によるお題の中に、「クラシック名曲の引用禁止」という条項もあったため、ここではチャイコフスキーの当該作に登場する和音そのものは用いられていない。(それにしても、このような型で和音を奏でるだけで、充分にチャイコフスキーのそれと認知し得てしまうとは、この大胆なアイデアの威力には感服する他はない。)

◆第4曲「影のあるグリッサンド」
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 ソステヌート・ペダルによるピアノの残響効果については、ラッヘンマンの諸作品など、先行例は多数ある。ここでは、無音で押さえた和音をソステヌート・ペダルで用意した上でグリッサンドを行う奏法による残響効果を探求している。(この効果自体は、私自身《ピアノのためのポリエチュード「トランポリン」》他で実践しているものである。)そしてそれを、内部弦のグリッサンドでも行う効果へと転用している。これについては、カウエル《エオリアン・ハープ》における効果そのものであるが、本作ではこれらの効果をシームレスに接続する試みがなされている。

◆第5曲「複数弦によるホケット」
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 ピアノの弦に触れ倍音を出す効果は、さして目新しいものではないが、ここでは、複数弦によって異なる倍音を出しつつ一つの旋律を奏でる。ホケットとは、中世の技法で複数声部が一つの旋律を交互に奏でる効果であるが、ここでは複数の弦がホケットを実践する。シュパーリンガーの作品など、倍音奏法の究極的な実践例は枚挙にいとまがないが、ここでは旋律線を実行するために、想定される音をはずせないというハードルが課せられる。大井浩明のお題にあった「クラシック名曲の引用禁止」は、クラシック音楽以外には適用されていないため、ここではリトアニア民謡(といっても、それを引用して有名になってしまったクラシックの名曲があるが)を引用している。

◆第6曲「手移り」
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 大井浩明は、笙も演奏する。笙も演奏するピアニストのための作品として、笙の合竹(和音)の移行に伴う「手移り」のかたちを、ピアノの和音に適用したらどうなるか、ということを構想した。そのような実践を行っていけば、必然的に雅楽の構造を参照することになる。時折きかれる腕のクラスターは、雅楽において打ち込まれる楽太鼓の役割と近似する。
 一方で大井浩明は、オルガンも演奏する。オルガン独特の効果として「スウェルボックス」の開閉がある。ここでは、その効果に相当する効果をピアニズムとしても要求している。


◆第7曲「ジャンプ」
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 ピアノの全音域にわたる演奏は、ときにハードな全身運動となる。「演じる音楽」の理念としては、そのような「演奏行為の共有体験化」を引き起こし易い演奏内容こそ、最も求められる種類のものである。だから、一般的な意味でのヴィルトゥオーゾの演奏は、それ自体が「演じる音楽」なのであり、事実、私自身はそのような演奏を好む。しかし一方で、それをそのまま実践するのであれば、既成のヴィルトゥオーゾ作品には叶わないであろう。そこでここでは、聴覚的な印象と、実際の演奏行為との間に齟齬があるような内容を探求することとした。第3曲「各音域での両手和音」におけるような、聴覚的な印象がそのまま身体的な状況と合致するタイプの作品とは真逆の効果を生む方法として、極めて激しい跳躍運動を行わなければ演奏不可能な楽想だが、そのような激しさを伴う聴覚的な印象にはならないような奏法となっている。

◆第8曲「ポリル」
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 前述のように、大井浩明のために作曲した作品の系譜に《ポリエチュード》というものがあり、現在「ポリスマン」「トランポリン」「ポリポリフォニー」「ノンポリ」の4曲が作曲されているが、そのうち最初の3曲は大井浩明により初演されている。本作の中に包括されつつも、《ポリエチュード》の第5曲としても位置付けられる作品を、と検討した結果、様々なトリル奏法をパラレルに演奏するアイデアを得た。層状のトリルという意味を示す「ポリトリル(Poli Trill)」、略して「ポリル(Porill)」である。


◆第9曲「マルシュ・リュネール」
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 本年(2017年)6月、ラッヘンマンのピアノ新作《マルシュ・ファタル》が初演された。満を持しての新作、しかも日本での世界初演ということで、現代音楽業界最注目の作品であったが、一聴するとロマン派スタイルのキッチュなマーチそのものである本作は、賛否両論を巻き起こした。私には、ピアノのアコースティックの可能性に関する新しい註釈を見いだせたため、やはりラッヘンマンは常に新しい表現の可能性を探求している、と理解した。しかし一方で、同じマーチをテーマにしても、更に新しい可能性があり得るのではないか、との夢想も捨て難かった。そこで、「魔性のマーチ」に対抗して「月に憑かれたマーチ」とし、ラッヘンマンとは異なる視点でマーチに新しい光をあてたいと考えた。(川島素晴)




川島素晴 Motoharu Kawashima, composer
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 1972年東京生れ。東京芸術大学および同大学院修了。1992年秋吉台国際作曲賞、1996年ダルムシュタット・クラーニヒシュタイン音楽賞、1997年芥川作曲賞、2009年中島健蔵音楽賞、2017年一柳慧コンテンポラリー賞等を受賞。1999年ハノーファービエンナーレ、2006年ニューヨーク「Music From Japan」等、作品は国内外で演奏されている。1994年以来「そもそも音楽とは『音』の連接である前に『演奏行為』の連接である」との観点から「演じる音楽(Action Music)」を基本コンセプトとして作曲活動を展開。自作の演奏を中心に、指揮やパフォーマンス等の演奏活動も行う。いずみシンフォニエッタ大阪プログラムアドバイザー等、現代音楽の企画・解説に数多く携わり、2016年9月にはテレビ朝日「タモリ倶楽部」の現代音楽特集にて解説者として登壇、タモリとシュネーベル作品で共演した。また執筆活動も多く、自作論、現代音楽、新ウィーン楽派、トリスタン和音等、多岐にわたる論考のほか、曲目解説、コラム、エッセイ等も多数発表している。日本作曲家協議会理事。国立音楽大学准教授、東京音楽大学および尚美学園大学講師。



ジャチント・シェルシ覚え書き────野々村 禎彦
(*筆者による推薦音源リンク付)

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 シェルシは北イタリア沿岸の小都市ラ・スペツィアの貴族の家に生まれ、教育は専ら個人教授で身に着けた。一家でローマに移った後、彼はまず文学に興味を持って詩作に没頭し、ヨーロッパ各地を旅してジャン・コクトー、ヴァージニア・ウルフらと親交を結んだ。その後作曲も行うようになり、1930年頃から作品を発表し始める。当初は未来派の影響が強かったが、やがてスクリャービン流の作曲法を学び、30年代半ばから末にかけて、後期スクリャービン風の膨大なピアノ独奏曲を残した。この時期の作品から戦後の独自の作風の萌芽を探すのも興味深いが、本日は時間的制約の関係で取り上げない。これと並行してベルクの弟子から12音技法を学び、イタリア最初のセリー主義者になる。またペトラッシらと共同でドイツ、フランス、ソ連等のモダニズムの最先端を積極的に紹介するが、元々は未来派などの前衛的な音楽を支持していたファシスト政権がナチスとの関係を深めるうちにユダヤ系作曲家排斥などを通じて前衛的な音楽を抑圧し始めたため、彼の心はイタリア音楽界から離れ、第二次世界大戦勃発を機にスイスに移住した。

 スイス時代の彼はイギリス人女性と幸福な結婚生活を送ったが、作曲ペースは落ちた。祖国を離れて自らの創作を客観的に眺めると、後期スクリャービン風の即興的な素材に、音列操作で無調の衣をまとわせた程度の曲では満足できなくなったのだろう。ムッソリーニ政権は1943年7月の連合国軍侵攻でたちまち瓦解したが、今度はドイツ軍が侵攻してムッソリーニを奪還し、傀儡政権は北部山岳地帯でヒトラー自殺直前まで抵抗を続けた。ローマは1944年6月に解放され、シェルシも帰国して作曲活動を再開したが、この時彼は貴族の趣味にふさわしい決断を下した。自分ひとりで書き上げる作品に限界があるならば、自ら選ぶのは素材やイメージに留めて緻密な構成はプロに任せればよい。腕利きの演奏家を雇って試演させ、仕上がりを確認して手を入れれば、「代筆」ではなく「共同作曲」だ——このようにして作られた最初の作品が《弦楽四重奏曲第1番》(1944) であり、確かにこの曲から突然、バルトーク1番を無調にしたような密度の高い音楽に変貌している。1947年から作曲アシスタントはヴィエリ・トサッティ(1920-99) に交替し、ふたりの共同作業は20年近く続いた。

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 これが単なる「趣味の作曲」ならば何の問題もないが、イタリア作曲界を超えて注目される存在になるとそうもいかない。トサッティとの最初の代表作、カンタータ《言葉の誕生》(1948) はISCM大会で初演され、ブーレーズとケージの往復書簡集がこの作品への論評で始まるほど、国際的にも注目されていた。ただし彼らの評価は手厳しく、録音を聴いた限りでは筆者も同意見だ。12音技法自体は珍しいものではなく、共同作曲のメリットは乏しい。合唱とオーケストラという大編成になると、試演によるチェックにも限界があり、そもそもトサッティ自身の作風は極めて保守的(Youtube上の音源を聴く限り、マリピエロ(1882-1973) やカゼッラ(1883-1947) の方がまだ進歩的に思えてしまう)である。もちろん共同作曲の事実は公にはされなかったが、イタリア作曲界では既に「公然の秘密」であり、初演を指揮したデゾルミエールは《言葉の誕生》を称賛したが、業界では嘲笑されていたという。彼はこの初演から程なく、「12音技法と自らの作風が相容れない」ために精神の平衡を崩し、精神病院で療養に入ったとされるが、主な要因はそれよりも、共同作曲に対する業界の態度と、スイス時代の妻がイタリア帰国に同意せず別れたことに由来する心労の方ではないか。

 50年代初頭、療養中のシェルシはピアノのひとつの音を何時間も弾き続け、響きの世界に分け入ることを通じて精神の平衡を取り戻したという。禅やヨガなどの東洋思想に傾倒したのもこの時期で、その影響は音楽の素材にも及んだ。作曲活動復帰第1作が《組曲第8番》(1952) であり、本日のプログラムは病気療養からのリハビリを思わせる執拗な同音反復のシンプルな音楽から始まる。彼のこの時期の「作曲」とは、ピアノの即興演奏を録音し、採譜のプロが細かく譜面に起こし、最後にトサッティがまとめたもの。その後のピアノ独奏曲ではピアニスティックなフレーズが増え、自ら譜面を書いていた30年代を思わせる瞬間もしばしば。即興演奏の記憶に基づいた作曲は鍵盤楽器の歴史とともに始まるが、シェルシ作品の特徴は即興演奏をまず録音し、記憶を介した抽象化では削ぎ落とされてしまうニュアンスまで取り込んだところにある。また膨大な同工異曲を書いた30年代とは違って、ピアノ独奏曲の作曲が安定すると、今度は管楽器弦楽器の独奏曲も同じ方法論で作り始めた。もちろん楽器が違えばピアノの手癖は通用せず、音響特性を踏まえて慎重に素材を準備する必要がある。この変化はピアノ独奏曲にもフィードバックされ、作曲作品らしい構築性が加わってくる。シェルシにとっては自分で手を動かしていないから、トサッティにとっては自分が書きたい音楽とは全く違うからこそ、素材の可能性を引き出すことに集中し、汲み尽くすたびに作曲の難度を上げて新たな可能性に挑んでゆく、客観的でシステマティックなアプローチが実現したのだろう。本日、「シェルシらしいシェルシ」が始まる曲の次に取り上げるのは、断片的でダイナミックな方向性の頂点《アクション・ミュージック》(1955) と、《組曲第8番》以降の総括を意図し、特に旋律的で瞑想的な方向性が光る《組曲第11番》(1956) であり、彼はこの2曲でピアノ独奏曲はひとまず打ち止めにした。

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 さらにチェロ独奏曲《トリフォーン》(1956)・《ディトーメ》(1957) やピッコロとオーボエのための《リュック・ディ・グック》(1957) などを経て、ピアノ即興を素材とする作曲の可能性は極めたと見ると、彼は即興演奏の楽器をオンディオーラ微分音を出せる電気オルガン)に切り替えた。《弦楽三重奏曲》(1958)、9金管楽器と打楽器のための《前兆》(1958)、クラリネットと7楽器のための《キャ》(1959) と、1音の微分音的なゆらぎを顕微鏡的に拡大する革新的なコンセプトを編成を拡大しながら深化させてゆく。このコンセプトを純化した、室内オーケストラのための《1音に基づく4つの小品》(1959) の豊かさの前では、同時代に一世を風靡したペンデレツキ、リゲティ、ツェルハらの音群音楽すら、児戯に思えてくる。オネゲルとマルティヌーの網羅的研究の他、スペクトル楽派(特にラドゥレスク、ドゥミトレスクら「裏楽派」)の研究でも名高いベルギーの音楽学者ハリー・ハルブライヒが「現代音楽の歴史はすべて書き直さなければならない:いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられないとまで主張したのは、まさにこの時期の作品に由来する。

 特に、後述する平山美智子(1923-) のための声楽曲の作曲が軌道に乗ってから数年間の作品群:《弦楽四重奏曲第3番》(1963)、大オーケストラのための《ヒュムノス》(1963)、ヴァイオリン独奏曲《クノイビス》(1964)、《弦楽四重奏曲第4番》(1964)、女声合唱のための《イリアム》(1964)、チェロ独奏曲《イグール》(1965)、ヴァイオリンと18楽器のための《アナイ(1965)、4人の独唱、オンド・マルトノ、混声合唱、オーケストラのための《ウアクサクタム》(1966) は、各々20世紀の該当編成を代表する傑作だ。例えば《クノイビス》は、当たり前のように1弦1段の3段譜で書かれ、ある弦の持続音に別な弦が微分音で上下行してまとわりつくような、楽器の常識を超えた難度の場面が続く。しかもそれは技巧のための技巧には終わらず、緊張感に満ちた音空間を生み出す不可欠な要素として鳴り響く。この水準の奏法を全楽器に要求して譜面は最大13段に達する《弦楽四重奏曲第4番》は、彼の特異な弦楽器書法の集大成である。これらに匹敵するヴァイオリン独奏に牽引されたアンサンブルが、彗星の尾のようにゆらめく《アナイ》は、それまでの緊張の塊のような音世界に深い瞑想性も加わった、一段上のステージの作品。また合唱曲は彼にしては比較的穏当な作品が多かったが、《イリアム》はこの時期の作品の中でも見劣りしないラディカルな書法を持つ。

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 以上の要素がすべて注ぎ込まれたのが、彼の終生の代表作《ウアクサクタム》である。《アナイ》のアンサンブル書法と《イリアム》の合唱書法の上でオンド・マルトノが弦楽器ソロの役割を果たす(元々の素材は微分音電気オルガンである)、と図式的にはまとめられるが、マヤ文明の伝説という格好のモティーフのもと、過剰なはずの諸要素のバランスが奇跡的に取れて本作は生まれた。編成的にもモティーフ的にも、ヴァレーズ終生の代表作《エクアトリアル》(1932-34) の現代版という位置付けがふさわしい。シェルシ作品の素材になった即興の録音は、現在はある程度公開されているが、私的録音の限界はあるにせよ、その即興と最終的な作品の密度や情報量の落差は大きいこの録音を渡されてあの編成を思いつくことはまず不可能で、たとえ自分で譜面を書くことはなくても、編成を含む音楽のイメージはシェルシのものに違いない。また、いくら編成やイメージは指定されていたとしても、この素材からあの音響を引き出すことは誰にでもできることではなく、20年近く共同作業を積み重ねたトサッティならではの仕事である。実際、トサッティの作品表を眺めると、シェルシのピークにあたる時期は如実に創作ペースが落ちている(数年かけてコツコツ書く類の大作はあるが、霊感に任せて一気に書き上げる類の作品がパタッと途絶えている)。《ウアクサクタム》の達成は、トサッティにとってもひとつの区切りになり、この曲をもってアシスタントを退任した。

 この時期のシェルシには、もうひとつの大きな出来事があった。声楽家・平山との出会いである。イタリアに移住し《蝶々夫人》役で生計を立てていた彼女は、1957年にはシェルシと面識があったというが、管楽器ソロ曲を声楽用に編曲した、ひたすら持続音が続く譜面を渡されて途方に暮れていた。だが、彼の音楽の秘密は微分音オルガンによる即興だと耳にして、好奇心旺盛な彼女はそれを聴いて判断しようと思い立つ。共同作曲の秘密が漏れることを怖れていたシェルシは、周囲が寝静まった深夜に即興を録音していたが、彼女は真冬のアパートの玄関先で毛布にくるまって徹夜で聴き、彼の音楽は本物だと確信した。彼女は次の面会の機会に、あの日の即興を思い出して譜面に囚われずに歌った。自分の音楽の最初の理解者を前にして彼の創作意欲は燃え上がり、彼女の歌唱を前提にした《ホー》(1960) に始まる声楽曲群を書き始めた。ソプラノ、ホルン、弦楽四重奏、打楽器のための《クーム》(1962)、ソプラノと12楽器のための《プラーナムI》(1972)、そしてもうひとつの終生の代表作である、1時間近い連作《山羊座の歌》(1962-72)。
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 彼女は作曲上の秘密をある程度(まず素材は即興の録音だということを、後には彼が譜面を書いていないことまで)知っている協力者なので作曲の方法論も変わり、打ち合せに基づいた彼女の即興をシェルシが録音し、それを素材に譜面化が行われた。特に《山羊座の歌》では大半の曲が彼女のソロなので、やがて彼は精密な譜面化にも拘らなくなり、彼女が譜面を修正し自由に解釈するところまで認めるようになった。さまざまな特殊唱法を駆使した声のための作品は、まさに《山羊座の歌》の作曲時期でもある前衛後期に多く書かれた。バーベリアンの歌唱を前提にしたベリオの作品群はその代表であるが、唸り声や叫び声を含む地声の魅力を追求し、音楽が制度化される以前の呪術性を強く持った、平山の歌唱を前提にしたシェルシの作品群は、その中でも特異な位置を占めている。シェルシ終生の代表作に本質的に貢献した、ふたりの協力者は対照的だ。トサッティは彼の音楽には全く共感していなかったおかげで、中途半端な思い込みで彼の意図を歪めることなく、特異な音楽をそのまま譜面化することができた。平山は彼の音楽に深く共感し、通常の演奏家の領分を超えて、即興で素材を生み出し試演時に譜面に手を入れる、他の曲ではシェルシが果たした役割まで担った。

 トサッティ退任後は彼の弟子数人が作曲アシスタントを引き継いだが、誰も彼の代わりにはなれなかった。《ウアクサクタム》の次にあたる作品が即興の録音ほぼそのままのギター独奏曲《コ・》(1967) なのは象徴的だが、トサッティ後期には大編成作品が並んでいたシェルシの作品表は、突然小編成作品中心になる。混声合唱と大オーケストラのための《コンクス・オム・パクス》(1968) や《プファット》(1974) のような曲もあるが、楽章ごとに使用楽器を一変させ、クライマックスで突如大量の楽器を投入したりと、平板な曲想に物量攻撃で辛うじてコントラストを付けているに過ぎず、微分音のゆらぎを積み重ねたトサッティ時代の精緻な音楽はもはやない。ただし、トサッティ時代の作風は同時代の音群音楽の上位互換版に過ぎず、この時期の「誰もやらなかったバカな音楽」こそが代表作という見方もある。軽妙でユーモラスな男声合唱曲《TKRDG》(1968) やハープ、タムタム、コントラバスという編成が命の《オカナゴン》(1968)、戦前にも書かなかったような素朴な調性的声楽曲《3つのラテン語の祈り》(1970)・《応唱》(1970) など、従来とは異質な傾向がこの時期に一挙に現れるのは、中の人が頻繁に入れ替わっていたからだと捉えるのが自然である。
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 ただし、9楽器のための《プラーナムII》(1973)、チェロとコントラバスのための《さあ、今度はあなたの番です》(1974)、電気オルガン独奏曲《イン・ノミネ・ルーキス》(1974) など、病気療養直後の作品群を思わせるシンプルな持続音に最小限のゆらをまとわせた創作末期の作品群は、ヨーロッパ戦後前衛とは別系統の米国実験音楽に通じる深みを持っている。イタリア作曲界では孤立していた彼の音楽を理解して発表の場を与えたのは、〈新しい響き Nuova Consonanza〉音楽祭を主催し同名の集団即興グループ主宰したフランコ・エヴァンジェリスティ(1926-80) だけだったが、この音楽祭や最晩年の作風を通じて、ケージ、フェルドマン、アール・ブラウン、ジェフスキ、アルヴィン・カランら米国実験音楽の作曲家たちと親交を結んだ。

 彼の旺盛な創作は、演奏時間10分に満たないが全作品中最大の編成を持つ《プファット》(1974) で一段落し、以後は自作のプロモーションが活動の中心になった。ローマの現代音楽の演奏会に足を運び、目をつけた演奏家を自宅に招いて、録音を流して譜面を見せる地道な活動だが、そうして密接な協力者になったのは、アンサンブル2e2mを主宰するメファーノ、アルディッティ弦楽四重奏団、チェロのウィッティ、コントラバスのレアンドル、ピアノのミカショフとシュレーダーら、錚々たる顔ぶれだった(目鼻立ちの整った女性奏者が多いのは、古稀を迎えた程度ではイタリア人男性の脂は抜けないのだろう)。イタリア在住のアルヴィン・カランと協力して自作録音のLP化も70年代末から80年代初頭にかけて行い、平山による声楽作品集を2枚、ウィッティによるチェロ独奏《三部作》全曲、アルディッティ弦楽四重奏団による最初の全集(当時は第4番まで)をリリースした。
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 この流れの中で、パフ/アンサンブル2e2mによる作品集(曲目は《キャ》《1音に基づく4つの小品》《オカナゴン》《プラーナムII》)が1982年にリリースされたのを契機に、「シェルシ・ルネサンス」が始まった。良き理解者による、アンサンブル編成の作曲家紹介としてベストの選曲だが、時代的条件も揃っていた。ミュライユ&グリゼーとシェルシの出会いから始まったスペクトル楽派がIRCAMの研究プログラムに選ばれ、彼らのルーツに位置する謎の作曲家への関心も高まっていた。コアな現代音楽の探求者ならば、ポスト戦後前衛の諸潮流(スペクトル楽派、新しい複雑性、ドイツ音響作曲など)が曲がり角を迎え、ラディカルな初期衝動から伝統との折り合いを付ける段階に入ったこと、米国実験主義はオリヴェロス(1932-)、テニー(1934-2006) らよりも下の世代には受け継がれず、頼みの綱のミニマル音楽も、和声進行を利用する「ポストミニマル」の段階に入って変わってしまったことなどに気付いており、閉塞感が溜まっていた。ポストモダンの潮流の中で、東洋思想の影響を標榜する即興的な音楽もブームになっていたが、戦後前衛と米国実験音楽双方の本質を踏まえた上で、「私は作曲家ではなく仲介者だ」と語るシェルシには、彼らと一線を画する圧倒的な「本物感」が漂っていた。ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習での二度の特集(1982, 84)の間にドイツの音楽学論文集Musik-Konzepteでも、現代作曲家としてはシュネーベル、ノーノ、メシアンに次いで取り上げられた(1983)。彼が地道に築いてきた協力者のネットワークを通じて網羅的な演奏が行われ、最後に残った合唱とオーケストラのための3作品の初演(ISCMケルン大会, 1987)は本公演もゲネプロも完売し、終演後はスタンディングオベーションが果てしなく続く伝説的な成功を収めた。この3作品を含むオーケストラ曲全集はヨーロッパの数あるレコード賞を独占した。

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 人生の最後に最大級の賞賛に包まれて、彼は1988年に亡くなった。「シェルシ・ルネサンス」の中心地はドイツやフランスで、イタリア作曲界での「公然の秘密」は伝わっていなかった。彼の死の直後に「ジャチント・シェルシ、それは私だ」と題するトサッティへのインタビューが音楽学雑誌に掲載され、共同作曲の秘密は公になったが、佐村河内守の一件のようなスキャンダルに発展することはなく、シェルシ作品の演奏や研究は現在でも続いている。むしろ、シェルシ作品の受容を通じて、「芸術音楽」側の意識は変わった。譜面化を経ない「録音メディア上での作曲」と共同作曲が、芸術音楽とポピュラー音楽を長年分かってきたが、電子音楽とシェルシ作品の受容を通じてこの溝は乗り越えられ、今日では現代音楽と実験的ポピュラー音楽の最前線に本質的な区別はない。ハルブライヒの意図すら超えて、「いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」。

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# by ooi_piano | 2017-09-28 04:33 | POC2017 | Comments(0)