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Blog | Hiroaki Ooi

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【ポック[POC]#29】
2016年12月23日(金・祝)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) 
[三公演パスポート8000円] 12/23(バルトーク)+1/22(ストラヴィンスキー)+2/19(ソラブジ)


【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)



ベラ・バルトーク(1881-1945):
ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904) 21分
  Mesto/Adagio - Piùvivo - Presto
14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908) 24分
  I.Molto sostenuto - II.Allegro giocoso - III.Andante - IV.Grave 〈俺が駆け出しの牛飼いだった頃...〉 - V.Vivo 〈ああ、家の前で...〉 - VI.Lento - VII.Allegretto molto capriccioso - VIII.Andante sostenuto - IX.Allegretto grazioso - X.Allegro - XI.Allegretto molto rubato - XII.Rubato - XIII.Lento funebre 〈彼女は死んだ...〉 - XIV.Valse, Presto 〈恋人が踊っている...〉

 (休憩10分)

東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
ベラ・バルトーク:アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911) 3分
3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918) 8分
  I.Allegro molto - II.Andante sostenuto - III.Rubato/Tempo giusto
舞踏組曲 Sz.77 (1925) 17分
  I.Moderato - II.Allegro molto - III.Allegro vivace - IV.Molto tranquillo - V.Comodo - VI.Finale; Allegro

 (休憩10分)

c0050810_6203012.jpgピアノ・ソナタ Sz.80 (1926) 13分
  I.Allegro moderato - II.Sostenuto e pesante - III.Allegro molto
戸外にて Sz.81 (1926) 15分
  I.笛と太鼓で - II.舟歌 - III.ミュゼット - IV.夜の音楽 - V.狩
弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章〕(1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)  23分
  I.Allegro - II.Prestissimo, con sordino - III.Non troppo lento - IV.Allegretto pizzicato - V.Allegro molto

 [Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]




東野珠実:《星筐IV Hoshigatami IV –Tokyo 2016.12.21.19:44 for Piano》 (2016、委嘱新作初演)
c0050810_4315165.jpg 音楽の楽しみは、響きの宇宙に星座を見いだす歓びではないか、と私は考えます。『星筐』(ほしがたみ)は、このコンセプトをもとに創作した雅楽合奏のための作品にはじまり(平成十三年度国立劇場作曲コンクール第一位・文化庁舞台芸術創作奨励特別賞受賞)、以後、連作として様々な形態の表現を模索しています。
 今回、大井浩明氏のピアノソロコンサートプロジェクト”POC”の第29回公演タイトルにちなんで、「先駆的」という創作のリクエストをいただき、古今東西の楽譜というメディアについて思考を巡らし、私なりに当代のアプローチを行うこととしました。
 さて、先に“響の星座”という言葉を用いましたが、奈良で発掘されたキトラ古墳に記される星宿のように、古来、人々は無数の星々に意図的な縁を読み取り、天と人とのつながりに特別な思いを抱いています。かく言う私は古代より宇宙を表す音楽である雅楽の世界におりますが、本作のアイデアは、雅楽に出会うずっと以前、幼少期の記憶にさかのぼります。それは、まだ文字も書けない頃に初めて覚えた五線譜という記号の世界、そして、父の運転する自動車の窓から仰ぎ見る星空にいつも掛かっていた電線です。(身長100cmの視線は車窓を仰いで常に天空に向かっているのです (^_^)。すなわち、星空に向かって初めて覚えた“見立て”の技と、思考のフィルターを重ねて物事を観る楽しさ、喜びの感覚です。こんなことは皆が経験する些細な遊びですが、本作では、その遊びを当代のメディアに載せ替えて楽しんでみようという趣向です。
c0050810_4325525.jpg そこで、本年の冬至にあたる日時の星図に五線譜を重ね、大小の星々が音符として浮かぶよう作譜をし、《星座譜》と名付けました。複数の五線譜を重ね、透過して重なる音符の影をもって音の空間的な奥行きを表記する試みは笙と竽フためのMobius Link 1.1(1992年)という作品ですでに行っており、雅楽の文字譜に従って五線譜を縦に進行するルールなども指示しておりますが、当時、トレーシングペーパーなどを用いた透過表記の手法も、今や、コンピュータの画像処理によって簡単に実現することができます。もちろん、スタンダードな白黒の紙媒体の楽譜に落とし込むことを念頭にしつつも、現実の星々が夜空に色彩をもって大小に輝く姿も重要な演奏情報として取り入れることを意図し、CG画像表示メディア(iPad等)の併用を試み、表現方法の異なるレイヤーを行き来しながら演奏解釈のテーマ性、自由度を拡張させることを考えました。また、今回の星座譜においては、あえて譜表やテンポの指示もせず、多様な“見立て”が可能なよう、最低限のルールを配することとしました。
 演奏とは、一種、奏者による音響情報処理の結果です。しかし、それは客観的に数値化された事象を処理する機械的な作業とはまるで異なり、奏者の技量や経験、思考によって常に新たに生み出される時間の造形です。一般に楽譜という時系列に基づいたスクロール系の表記法に対して、一面の地図を広げて冒険に乗り出すような、さらには宇宙のように、図上にまだ表されていないような発見のチャンスを期待させるような楽譜があったらとの思いを巡らせます。
 さて、星図で設定した冬至は、天文学上は太陽黄経が270度になる瞬間を表し、いうまでもなく古代より様々な民族が重要視する暦の起点です。奏者が見出す音の星座を聴覚で観察し、時を満たす音の宇宙のなかで、おのおの“こころの筐(かたみ)に星をあつめて”いただければ幸いです。(東野珠実)



東野珠実 Tamami TONO, composer
c0050810_4333350.jpg  国立音楽大学作曲学科首席卒業。慶應義塾大学大学院政策メディア研究科修了・義塾長賞受賞。ISCM、ICMC、国立劇場作曲コンクール第一位/文化庁舞台芸術創作奨励特別賞等受賞。雅楽を芝 祐靖、豊 英秋、宮田まゆみらに師事し、90年より笙奏者として国立劇場公演はじめ、タングルウッド音楽祭、ウィーンモデルン等、国内外の公演に参加。 Yo-Yo MA、坂本龍一らに招聘されるなど、創作・演奏を通じ国内外で多彩な活動を展開。雅楽演奏団体伶楽舎、現代邦楽作曲家連盟所属。
  代表作:雅楽のための『星筺(ほしがたみ)』、国立劇場委嘱『月香楽』、JAXA宇宙文化プロジェクト『飛天』、東京国際フォーラム開館記念創作ミュージカル『モモ』、石川県白山市立白嶺小中学校校歌『水と光と大地』、浄土真宗本願寺派伝灯奉告法要音楽等。
  CD『祝賀の雅楽』、『Breathing Media ~調子~』、雅楽古典曲笙調子全曲録音(平成23年度文化庁芸術祭参加作品)、John Cage『Two3,Two4』世界初全曲録音ほか。





音楽史の中のバルトーク ~後世への影響を中心に ───野々村 禎彦

c0050810_639874.gif バルトーク・ベーラ(1881-1945) は農業学校校長で音楽愛好家の父とピアノ教師の母の間に生まれ、幼時から音楽に親しんだ。父は32歳で早逝したが、母はピアノの才能に恵まれた息子を「天才少年」として売り出して生計を立てようなどとはせず、通常の教育を受けさせた。バランスの取れた教養を身に着けたことで、彼は多面的な人生を歩むことになった。

 今日の視点からは、彼はまず作曲家である。ドイツ圏では「3大B」はJ.S.バッハ、ベートーヴェンとブラームスないしブルックナーだが、普遍的視点に立てば3人目はむしろバルトークが相応しい、と通俗的にも言われる。鍵盤楽器のための練習曲に注力した点ではバッハ、弦楽四重奏曲に注力した点ではベートーヴェンの後継者であり、姓がBで始まる(ハンガリー語の姓名の順は日本語と同じ)有名な作曲家というだけの19世紀後半のふたりとは格が違う、ということだ。ただし、「3大B」という発想自体がドイツ音楽影響圏に特有のものであり、このような見方は、米国や日本のようなこの文化圏の周縁諸国が、彼に「周縁代表」を仮託した結果なのだろう。

c0050810_640769.gif だが、同時代におけるバルトークは、まずハンガリーを代表するピアニスト=ピアノ教師であり、次いで民謡研究で名高い音楽学者であり、知る人ぞ知る作曲家だった。本日最初の曲《ラプソディ》(1904) は、彼の伝統的な作曲修行の集大成=作品1であり、そのピアノ協奏曲版(1905) を携えて同年のアントン・ルビンシテイン国際コンクールに参加した。作曲部門は奨励賞に留まったが(この曲ですら斬新すぎるとされる、19世紀後半を代表するヴィルトゥオーゾが始めたコンクールらしい基準)、ピアノ部門ではバックハウスと優勝を争った。当代随一の国際コンクール2位という輝かしい経歴を携えて、彼は1907年に母校ブダペスト音楽院ピアノ科教授に着任し、リリー・クラウス、シャーンドル・ジェルジ、アンダ・ゲーザ、フリッツ・ライナー、アンタル・ドラティらを輩出した。自作演奏とシゲティの伴奏を中心とするCD数枚分の録音を聴いても、「作曲家としては」という但し書きを全く必要としない、ラフマニノフに匹敵する20世紀前半を代表するピアニストだったことがわかる。

 ただし、彼の意識の中では作曲と民謡研究は不可分の芸術行為であり、それと比べたらピアノ演奏や教育は生計を立てる手段にすぎなかった。1934年に科学アカデミー研究員として民謡研究に専念する職が提示されると、彼は喜んでピアノ科教授を辞している。その真意は、ナチスドイツの「頽廃音楽を排し国民音楽を称揚する」という方針に従って、民俗音楽研究を強化する一方で、不穏分子を音楽教育から遠ざけることだったのだが… 彼は祖国とナチスドイツとの関係が強まるにつれて亡命を考え始め、1939年に母を看取ってから亡命先に米国を選ぶ決め手になったのは、コロンビア大学の客員研究員としてハーヴァード大学の民俗音楽資料を分析する職が見つかったことだった。

                  *********

c0050810_6405938.gif 彼が独自性の高い作曲を始める契機になったのは、1906年からコダーイ・ゾルタン(1882-1967) と民謡収集を本格的に始めたことだった。翌年にコダーイ経由でドビュッシーの音楽を知り、民謡に見られる機能和声とは相容れない音組織が、ドビュッシー作品にも現れていることは啓示になった。民謡収集は近代化とともに失われてゆく過去を記録する学問的行為に留まらず、未来の音楽へ向かう道標にもなるということだ。オリジナル民謡に極力手を加えずに合唱曲や器楽曲に編曲することと、民謡から受けた霊感と同時代の音楽を融合した創作が、彼の音楽活動の両輪になった。前者の最初の代表作がピアノのための《子供のために》(1908-09)、後者の出発点が《14のバガテル》(1908) である。後者の作曲時点で彼が参照できたのは《版画》《映像》までのはずだが、この曲集には《子供の領分》《前奏曲集》を思わせる曲も含まれており、「その後のドビュッシー」をシミュレーションできるほど彼の理解は深かった。この曲集と《10のやさしい小品》(1908) でピアノ書法を掴むと、素材は民謡だが「ベートーヴェン第17番」のように響く弦楽四重奏曲第1番(1908-09) を挟んで、今度はドビュッシーの管弦楽書法を研究した。その成果が結実したオペラ《青髯公の城》(1911) の直後に書いた《アレグロ・バルバロ》(1911) は、音楽上の親殺しに他ならない。彼はドビュッシーを終生リスペクトし、《前奏曲集》全曲はピアニストとしてのレパートリーだった。米国議会図書館でのシゲティとのリサイタルでも、自作とともにドビュッシーのソナタを取り上げている。

 今日では20世紀を代表するオペラのひとつに数えられる《青髯公の城》は、作曲の動機となったオペラのコンクールには入賞すらできず、コダーイと始めた新ハンガリー音楽協会のコンサートも、演奏水準も聴衆の反応も惨憺たるもので、早々に活動を休止した。失意の連続に作曲への意欲は失われ、ピアノ演奏と教授以外の時間は民謡収集と分析に専念する日々が続く。民謡研究を進めるうち、ハンガリー周縁部に残るルーマニア民謡やスロヴァキア民謡の方が、学問的にも音楽的にも興味深いことに気付き、あくまでハンガリー民謡に研究対象を絞ろうとするコダーイとの違いが鮮明になってきた。多地域の民謡の比較を進める中で,、1913年にはアルジェリアまで足を伸ばしている。だが、このような調査は第一次世界大戦が始まると困難になり(さらに大戦が終わると、ハンガリーは周縁部の領土の大半を失ったためより困難になり)、彼は作曲に復帰する。

 《青髯公の城》は彼の創作史では突出して尖鋭的な作品のひとつで、《かかし王子》(1914-17)、《ピアノ組曲》(1916)、弦楽四重奏曲第2番(1915-17) 等よりも後の作品にすら聴こえる。だが、《青髯公の城》初演と同年の《3つの練習曲》(1918) は一転して極めて無調的であり、無調以降のシェーンベルク作品研究を窺わせる。彼は民謡研究と同じスタンスで同時代の音楽も収集・分析し、創作に生かした。《中国の不思議な役人》(1918-19/24) は《練習曲》の延長線上にストラヴィンスキー《春の祭典》の色彩とリズムの実験、さらにディーリアス《人生のミサ》の声楽書法も加え、この時期のモダニズムの最良の成果が凝縮されている。2曲のヴァイオリンソナタ(1921, 1922) も《練習曲》に連なる作品だが、今度は同一編成のシマノフスキ《神話》を参照している。このソナタ第1番のパリ初演にはラヴェル、シマノフスキ、ストラヴィンスキー、ミヨー、オネゲル、プーランクらが顔を揃え、バルトークも彼らと並ぶヨーロッパを代表する作曲家のひとりだと認知された。

c0050810_6415421.gif 《舞踏組曲》(1923/25) はブダペスト市制50周年記念式典の祝典曲であり、この時期には異質な民謡素材を素で用いた平明な組曲だが、彼が研究してきたハンガリー、ルーマニア、スロヴァキア、アラブの民謡を対等に並べ、右派ナショナリズムを掲げる当時の政権に異を唱えている。難航していた《中国の不思議な役人》の管弦楽化も済ませると(この際にストラヴィンスキーの新古典主義を研究した)ピアノ曲に集中的に取り組み、ピアノソナタ(1926)、《戸外にて》(1926)、ピアノ協奏曲第1番(1926) を一気に書き上げた。《ミクロコスモス》(1926/32-39) に着手したのもこの年だ。久々に作曲に集中すると創作意欲も高まり、弦楽四重奏曲第3番(1927)・第4番(1928) と、代表作が矢継ぎ早に生み出されてゆく。それまでの作品は、民謡素材と同時代の音楽語法を融合する手腕が聴き所だったが、この時期からは「バルトークがどのような語法を生み出したか」が聴き所になっている。また、弦楽四重奏曲第4番は抽象性では彼の頂点と看做される作品でもあり、ピアノ編曲は特に興味深い。

 続けてヴァイオリンとピアノのための《ラプソディ》2曲(1928)、《カンタータ・プロファーナ》(1930)、ピアノ協奏曲第2番(1930-31) を書いたが、長年構想を暖めていた《カンタータ》以外はいずれもピアニストとしてのレパートリーを増やすことを意図していた(2曲のヴァイオリンソナタは技術的にも内容的にも高度で演奏者もプログラムも選ぶため、アンコールでも取り上げられる程度の曲が必要だった)。これは彼のピアニスト=作曲家としての名声が高まり、演奏機会が増えたことを反映している(ピアノ協奏曲の初演はいずれもフランクフルトで、第1番はフルトヴェングラー指揮、第2番はロスバウト指揮)。また民謡編曲によるヴァイオリン二重奏練習曲集《44の二重奏曲》(1931) もこの時期に書かれ、《ミクロコスモス》の作曲も1932年から再開した、

 彼はストラヴィンスキーのように日課として作曲するタイプではなく、意欲の涌いた時に集中的に行うタイプだが、だからこそコツコツ積み上げる民謡分析の作業とは相補的で相性が良かった。彼の創作意欲に次に火が点くのは1934年、晴れてピアノ科教授を辞して民謡分析が本業になった時だ。弦楽四重奏曲第5番(1934)、《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》(1936)、《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937) と、再び代表作が並ぶ。特に後2作を(後に《ディヴェルティメント》(1939) も)委嘱したパウル・ザッハーは、この時期の彼の創作を支えた人物である。ただしこの背景には、ナチスドイツが「頽廃音楽」の排斥を進めたため、中立国スイスでバーゼル室内管弦楽団を率いるザッハーからの委嘱の比重が相対的に高まったことがある。

c0050810_703453.gif 《コントラスツ》(1938)、ヴァイオリン協奏曲第2番(1937-38)、《ディヴェルティメント》、弦楽四重奏曲第6番(1939) というヨーロッパ時代末期の作品が軒並み全音階的で穏健なのは、意識の上では既に「亡命モード」に入っていたからだろう。彼の母はハンガリーを離れることを拒み(弦楽四重奏曲第6番の作曲中に死去)、また収集した民謡資料のうちハンガリー民謡分は出版計画のため亡命前に分析を終える必要があり、亡命は1940年10月までずれ込んだ。彼には米国での生活は水が合わず、渡米直後に《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の協奏曲化を行った他は、作曲は全く進まなかった。ヨーロッパ時代のような著作権料収入と演奏活動を想定して、学問的関心を優先して低収入の非常勤職を選んだものの、米国が第二次世界大戦に参戦すると敵国になった祖国からの送金は途絶え、ピアノ演奏の機会も異国からの客人であった時ほどには得られず、生活は困窮してゆく。1943年に入ると白血病を発症して療養生活を余儀なくされ、絶望的な状況に向かうかに見えた。

 だが、この期に及んで米国の音楽家たちが援助の手を差し伸べた。自尊心の高い彼は施しを嫌ったが、ブダペスト音楽院の後輩で米国社会に適応したライナーとシゲティは、ボストン交響楽団常任指揮者クーセヴィツキーを介し、新作委嘱の前渡金として当座の資金を渡すことに成功した。こうして生まれた《管弦楽のための協奏曲》(1943) は、顧みられることが減った新古典主義後期の華やかな作品群中では例外的に、今日でも20世紀音楽トップクラスのポピュラリティを保っている。久々に大管弦楽作品を書き上げて自信を取り戻し、メニューインの委嘱で書いた無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944) は最後の代表作になった。シャリーノ《6つのカプリース》(1976) をはじめ、20世紀においても無伴奏ヴァイオリン曲の大半はパガニーニやイザイの流れを汲むヴィルトゥオーソ小品だが、この作品はJ.S.バッハ直系の潜在ポリフォニー上に緻密に構築された大曲であり、中期を特徴付ける特殊奏法と後期を特徴付ける微分音が現代的な色彩を添えている。

c0050810_712328.gif 弦楽四重奏曲第7番、2台ピアノのための協奏曲(いずれも計画のみ)、ヴィオラ協奏曲(辛うじて補筆完成可能な草稿まで)など彼は多くの委嘱を受けたが、それよりも妻ディッタのためのピアノ協奏曲第3番(1945) を優先し、死の床で17小節のオーケストレーションのみを残すまで仕上げた。彼には珍しいシンプルで透明な音楽は、妻がソリストを務めることを前提にしたためでもあろうが、このような宗教的な簡素さは、《ミクロコスモス》の最良の数曲にも既に現れていた方向性であり、彼にあと数年の時間が残されていれば、この方向での探求をさらに深めていたかもしれない。 (つづく)


   
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# by ooi_piano | 2016-12-13 04:13 | POC2016 | Comments(0)

承前

c0050810_6424469.gif 最も本質的な「先駆者」は、その音楽に触れた途端に後継者たちの音楽が一変し、一流の作曲家が誕生するような存在だろう。20世紀においてドビュッシーはまさにそのような位置にあり、今回のPOCシリーズは、アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを通じてそれを確認する場でもある。そのような奇跡が、存命中にほぼリアルタイムで相次いで起こったのは凄まじい。これは機能和声の限界が露わになった時代に、音組織の革新がただちに啓示を与えたということだが、死後半世紀近くを経て総音列技法の限界が露わになった時代に、今度は音色の漸進的変化を推進力にした形式の自由という側面が注目され、トーン・クラスターに基づく直観的構成という新たな潮流を生んだ。

 バルトークの影響はそこまで即時的ではなく、広範な影響は専ら彼の死後に現れたが、これは彼が作曲家として活躍した時期は戦間期の享楽主義がファシズムの台頭で一変した(両者はコインの裏表であり、世界大恐慌を契機に反転したに過ぎない)時期だったという時代背景も大きい。第二次世界大戦終結までは、新たな音楽的探求が行われる余裕はなかった。また、揺籃期には新しい動きは即座に注目されるが、安定期にはわかりやすい看板がないと認知には時間がかかる。ドビュッシーの場合も、彼のより本質的な特徴が周知されるまでには半世紀近い時間を必要とした。

c0050810_64401.gif バルトークの音楽は普遍性志向で特徴付けられるが、普遍的なものはパーツを取り替えれば幅広く応用できる。バルトークが作曲の素材にした民謡はハンガリー周辺のものに限られるが、その方法論は普遍的なので影響は世界各地に広がった。日本民謡を素材にした間宮芳生《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は国際的にもその代表であり、狭義の民謡に留まらない間宮の関心は、同時期にベリオらが始めた前衛的な声の技法探求の中でも色褪せない強度を持っていた。また、他の方法論との組み合わせも応用の一種であり、柴田南雄は同じく日本民謡を素材にしながら、シアターピースの手法と組み合わせることで、《追分節考》(1973) に始まる代表作群に至った。

 このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。ハンガリー時代の《ムジカ・リチェルカータ》(1951-53) と《ミクロコスモス》、弦楽四重奏曲第1番(1953-54) とバルトークの第2番の関連は既に明らかだが、西側亡命後は置き換えと組み合わせの妙を駆使して、バルトークの音楽を前衛の最前線に生まれ変わらせた。《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の第1楽章を半音階堆積に圧縮したのが、リゲティ流トーン・クラスターの「ミクロポリフォニー」書法であり、バルトークの弦楽四重奏曲第4番をミニマル音楽などの同時代の語法を導入して換骨奪胎したのが、リゲティの第2番(1968) である(全5楽章の性格まで対応している)。後期バルトークは民謡分析を精密化する過程で、自作でも微分音程を使うようになったが、《マジャール・エチュード》(1983) 以降のリゲティも、米国実験音楽の純正律探求も横目に見ながら音律探求を深めていった。

c0050810_64533.gif 総音列技法が特権的な地位を占めていた戦後前衛前半には、弦楽四重奏のような「因襲的な編成」は忌避されたが、トーン・クラスター様式の台頭とともにこの傾向も見直され、この様式を主導したポーランド楽派の作曲家たち=ペンデレツキ(1960, 1968) やルトスワフスキ(1964) が弦楽四重奏曲でモデルにしたのもバルトークだった。またポール・グリフィスがバルトーク伝で指摘する通り、一見バルトークと縁遠そうな総音列技法を代表する作曲家たちも例外ではない。シュトックハウゼンの前期代表作《コンタクテ》(1959-60) のピアノと打楽器を伴う版の楽器法は、学位論文で分析した《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の記憶の賜物であり、ブーレーズが活動の中心を作曲から指揮に移した後の《エクラ/ミュルティプル》(1965/70) や《レポン》(1981-84) の楽器法は、指揮者ブーレーズの重要レパートリー《中国の不思議な役人》や《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の子孫である。

 ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3・4・5・6番のヴァリアントとみなせる。あるいは、80年代を代表する弦楽四重奏曲でバルトークへの紐付けが難しいのは、フェルドマン第2番(1983) とW.リーム第6番(1984) 程度である。

c0050810_6455854.gif この種の議論はアナロジーの罠にすぎないかもしれないが、前衛の時代を代表するピアノ曲であるブーレーズの第2ソナタをベートーヴェンのソナタ第29番に、バラケのソナタを第32番に結びつける議論が可能ならば、バルトークの弦楽四重奏曲でも同様の議論は可能だろう。人間が想像し得る類型には限りがあり、それをほぼ尽くした創造者には、ジャンルによらずこのようなことは起こり得る。この側面からも、バルトークを「3大B」のひとりに数えることには本質的な意味がある。




クルターグ+リゲティ/バルトーク:三人の作曲家の生地を巡る(注1)───伊東信宏

c0050810_6251269.jpg  最初に、タイトルに挙げた三人の作曲家の生没年を確認してみよう。クルターグ・ジェルジ Kurtág Györgyは一九二六年生まれで現在フランス在住、リゲティ・ジェルジLigeti Györgyは一九二三年生まれで二〇〇六年にウィーンで亡くなり、そして一世代上のバルトーク・ベーラBartók Bélaは一八八一年生まれで一九四五年にアメリカで亡くなっている。三人とも各々の世代において世界的に見ても十本の指に入るくらい重要な作曲家であった、と言ってよい。クルターグとリゲティは第二次世界大戦後、バルトークに師事したくてブダペストのリスト音楽院の作曲科を目指したのだが、ちょうど彼らの入学試験の日にバルトークがアメリカで亡くなったという報せがハンガリーに届き、音楽院には弔旗が掲げられていた、というから、この三人が一堂に会したことはない。ただしバルトークが、この二人の作曲家に与えた影響は計り知れない。それはたとえばリゲティが学生時代に書いた「行進曲」という連弾曲を一瞥するだけでも明らかだろう。この曲は、バルトークの『ミクロコスモス』第六巻第一四七番「行進曲」に不気味なほど(注2)似ている。クルターグも事情は似たようなもので、彼の初期の大作、ヴィオラ協奏曲などは、バルトークの管弦楽曲そっくりの響きがする。パーソナリティの点では、あるいはクルターグの方こそバルトークにより親和性があり、より決定的な影響を受けたと言えるかもしれない。しかもクルターグとリゲティは、学生時代以来、無二の親友だった。彼ら相互の影響も大きい(注3)。この三人の音楽的影響関係というのは、一冊の本のテーマにもなるような問題であり、今ここで深く立ち入ることはできない。ただ三人ともハンガリー語を母語とし、同じブダペストの音楽院出身であり、二〇世紀ハンガリーを代表する作曲家ということになっているのに、その生地はハンガリーではなく、現在の地図で言えばルーマニアにある。ここで述べようとしているのは、その三つの生地を巡った旅(二〇一〇年の夏)に関する雑記である。
  三カ所ともルーマニアの北西部にあり、それほど離れていない。まずは筆者にとってもなじみのあるハンガリーのブダペストに入り、東駅発のECで国境を超えてトランシルヴァニアの中心都市、クルージ・ナポカへ。そこで案内をお願いしたT君(彼は当時ブカレスト大学の学生だった)の車で、東からトゥルナヴェニ(リゲティの生地)、ルゴジ(クルターグの生地)、そしてサンニコラウマレ(バルトークの生地)と回って、オラデアでまたブダペスト行きの列車を捕まえる、という旅である。


1 リゲティの生地:トゥルナヴェニ(ディチョーセントマールトン)

  リゲティの生地トゥルナヴェニは、クルージから見ると南東の方向に約百キロほど。リゲティが生まれる数年前まではハンガリー王国(正確に言うと、オーストリー=ハンガリー二重帝国の中のハンガリー王国側)の領土であり、ハンガリー語ではディチョーセントマールトンと呼ばれていた。街と言っても人口2万6千人。メインストリート1本とそれに交差する何本かの道で終わってしまう、小さな町だ。
  実は、リゲティの生まれた家が正確にどこにあるかについては、あまり情報がなかった。ほとんど唯一の手がかりは、以前に見た「ジェルジ・リゲティ・ポートレート」(M・フォラン監督、一九九三年)という映画である。この映画の中で、リゲティが自分の生まれた場所を撮ってきた映像を見入る、というシーンがある。そこに、たしかシナゴーグらしき建物が写っていたのだが、とりあえずそれだけをたよりに町を探ってみよう、というのが出発前のいい加減な方針だった。クルージからは、車で行けば1時間ほどで着いてしまう。
c0050810_452433.jpg  さて、町に着いたが、どうしよう?実は、リゲティほどの世界的人物なのだから、いくらユダヤ系でハンガリー語が母語であった(つまりルーマニア側ではなくハンガリー側の人間だった)とはいえ、この町が生んだ人物として、記念館とは言わないまでも多少は顕彰したりしているか、と思っていたら、これはほとんど見込みがなさそうだ。町行く人に尋ねてみるが、反応が悪い。現代音楽の作曲家のことなんて知るわけないじゃないか、という顔をされる。やはり手がかりはシナゴーグしかない。と思って、今度はかつてこの町にシナゴーグがあった場所を知らないか、と聞いてみる。何人目かのおばさんが、ああ古い教会ならその建物の陰にあるわよ、と車を停めたすぐ向かい側のビルを指す。通りに面して建っているのは殺風景なアパートみたいな建物だが、その開口部から向こう側を見ると、確かになにやらそれらしき建物がある。だが、偶然車を停めた場所のすぐ前だなんて、トランシルヴァニアでそんなに調子の良く話が進むはずがない、と思って半信半疑でそのいわくありげな建物の方に近寄って行くと、今まさにその門を閉めて、そこから帰ろうとしているおじさんがいる。そのおじさんに、この建物は昔のシナゴーグか、と聞くと「イエス」。それではこの近くにリゲティという作曲家が生まれた家があるのではないか、というと、ちょっと目の色が変わってきて「そのとおり」。実は日本から、そのリゲティの生家を見たいと思って来たのだ、というと、おおそれならこの建物の中に少し資料があるから一度入って見て行きなさい、と言っておじさんは改めて鍵を開けてくれた。おじさんは、この建物の管理者で、草刈りをすませて、今まさに帰ろうとしていたところだった。幸運だった。
c0050810_4533087.jpg  さて、そのおじさんにしたがって、薄暗い建物に入れてもらい、二階のバルコニーのようなところに登ると、壁一面に古びた新聞記事や写真が貼ってあり、そして民族衣装や古い道具などが置いてある。それから祭壇らしきものが一揃いあって、これはこの建物がかつて教会として使われていたときには一階にしつらえてあった、とのこと。今は文化会館のようなものとして使われているので、祭壇は今のところここに置いてあるらしい。いつかちゃんと復元したいと思って置いてあるのだそうだが、このうらぶれた建物を見ていると、そういう日が来るのかどうか、ちょっと心もとない。
  しばらくおじさんの演説を聞く。すぐそばに居て聞いているのに、おじさんは建物中に響き渡る大声で説明してくれる。が、ルーマニア語なので、T君が小さな声で英語に訳してくれる。T君が訳し終わるのを待ちきれずに、おじさんはますます大きな声で大汗をかきながら説明してくれる。そのやりとりの方が面白くて話はあんまり頭に入ってこない。
  町には、世紀転換期には八〇〇ものユダヤ人の家族が住んでいたらしい。一九一〇年当時のこの町の人口は4千4百人程度、というから、そこから考えるとかなりの比率である。先にも述べたように、その頃、トランシルヴァニアは、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー側に属していたから、人口はハンガリー系、ルーマニア系、ゲルマン系、ユダヤ系などの人々から成っていたはずだが、町の中心部の商店はほとんどすべてユダヤ人たちが経営していた。リゲティのお父さんは、銀行の支店長だったのだから、こういう商人たちを相手にしていた、ということになる。
  その後、第一次大戦を境に町はルーマニア領となり、その後のユダヤ人迫害で町のユダヤ人社会もほぼ壊滅し、一九八五年、ついに最後の四人のユダヤ人達が町を去って、この町のユダヤ人人口はゼロとなった。おじさんは、そのことを伝える新聞記事を見せてくれる。だからおじさん本人はユダヤ教徒ではない。この建物の前に建っている殺風景なビルは、社会主義時代のもので、シナゴーグを大通りから見えなくするために建てられた、とのことだ。ちなみにリゲティ自身は、六歳までこの街に暮らし、その後クルージに引っ越している。
c0050810_4544066.jpg  リゲティの生家は、このシナゴーグの隣の隣。今は別の人が住んでいるらしい。それが分かったからといって、どうというわけではないのだが、ただ彼自身の主張を鵜呑みにして、彼の幼年時代がユダヤ教やユダヤ文化と全く無縁だった、と言って良いのかどうか、ちょっと疑わしくなった。
  帰り道、この町のかつての住人だったユダヤ人たちのお墓がある、というので町の墓地を探してみる。人口数万の町の墓地にしてはやけに広大である。いろんな人にたずねて、T君と汗だくになって、墓地を駆け回るが見つからない。あまり手入れする人もないらしく、道もついていないし、やけに高低差がある。墓石を踏み台にして(バチ当たりなことだけれど)、ほとんど道なき道をよじ登ったが、ついにユダヤ教徒の墓地は見つからなかった。



2 クルターグの生地:ルゴジ

  続いてクルターグの生地ルゴジ。ここもかつてのハンガリー領で、その頃の名はルゴシュ。クルージから、今度は西の方向に約二七〇キロ。車で4時間以上かかる。ちなみにドラキュラを演じて有名になったベラ・ルゴシは、この街に生まれたハンガリー系の俳優で、苗字ルゴシは街の名から取られた芸名である。
c0050810_4554545.jpg  今回は、降矢美彌子さんの紹介で、案内してくれるコンスタンティン・スタンさんが居るので、生家を探したりする必要はない。街の中心部で、スタンさんと落ち合う。会った途端、まずは街の歴史的建物を案内しよう、とスタンさんは先に立って歩き出す。エネスクが客演したという劇場、由緒正しいホテル・ダキアなど。街の中央にティミシュ川が流れていて、かつてその右岸はルーマニア側ルゴジ、左岸はドイツ側ルゴジと呼ばれた。二〇世紀はじめには街の人口はルーマニア系、ハンガリー系、ゲルマン系がほぼ三分していたが、第一次大戦後はルーマニア領となって、ルーマニア系が優勢になり(クルターグが生まれたのはこの頃である)、現在では3万8千人の人口の9割近くをルーマニア系が占めている。川にかかる橋の両側には綺麗に花が植えられており、なかなか瀟酒な街だ。街並は、前述のトゥルナヴェニに比べるとずっとしっかりしており、十八、十九世紀頃の建物に混ざって、世紀末のアールヌーヴォー風の建物も見える。
c0050810_457712.jpg  次に向かったのが、クルターグの生家。今は人手に渡っていて中は見られなかったが、門の上には扇型の模様が彫られており、メノーラー(七枝燭台)を表しているようだ。つまり、この家がかつて、ユダヤ教徒の手によって建てられたものであることははっきりしている。後でクルターク家の墓も見せてもらったが、この墓地は門にダビデの星が描いてあるかなり本格的なユダヤ人墓地であり、墓にもヘブライ文字が彫られていた。ちなみにクルターグ本人は、子供の頃に将来を慮った両親によってキリスト教に改宗しており、ユダヤ教徒ではない。
  その後、クルターグ家が移り住んだ家も見せてもらった。こちらも人手に渡っているのだが、スタンさんがあらかじめ連絡してくれていたので、中にも入れてもらえた。中庭のある立派な家で、なかなかの資産家だったようにも思われる。
c0050810_4575728.jpg  この街でとりわけ美しい邸宅(日本で言えば、最近流行のゲストハウス式の結婚式場のような華美な建物)は、最近ロマの所有になった、とのこと。ロマの中には経済的に成功して、こういう邸宅を購入する人たちがいるらしい。またこの街に来る途中の街道沿いに、突然大阪城のような不思議な大建造物が現れて驚いたのだが、これもロマの持ち家なのだ、とか。これは一部では有名で、ネットで調べてみると中に入れてもらった日本人のレポートなども見ることができる。ただ、こういう建物について説明するルーマニア人たちは極めて冷淡で、奴らは何で稼いだかわからないような金であんな綺麗な建物を買って、裏にテントを張って暮らしてるんだ、というようなことを平気で言う。ルーマニアのロマ問題は、今も深刻である。


3 バルトークの生家:スンニコラウマーレ

  そしてバルトークの生地、スンニコラウマーレ。バルトークが生まれた一八八一年当時には、ハンガリー領で、ナジセントミクローシュという名だった。このハンガリー名も、そして当時人口の4割を占めていたゲルマン系によるグロス・ザンクト・ニコラウスという名も、現在のルーマニア名も聖ニコラウス、つまりサンタクロースを指している(この街で見つかった聖ニコラウスの秘宝に由来するらしい)。ゲルマン系というのは、いわゆるドナウシュヴァーベンと呼ばれた人々で、十八世紀末にハプスブルク宮廷が奨励して、この地域に移動させた農民たちの末裔である。第一次大戦までの人口構成はゲルマン系4割、ルーマニア系3割、ハンガリー系1割といった比率だったが、上記二つの都市と同じく、ルーマニア領になってからはルーマニア系が漸増し、現在では1万2千人ほどの人口のうち、ルーマニア系が8割近くを占めるようになり、ゲルマン系はほとんど居なくなった(ハンガリー系は変わらず1割程度)。今回巡った三つの街の中では一番人口が少ないのだが、インフラはずいぶん大掛かりで、少なくとも最初のトゥルナヴェニよりは大きな街、という印象がある。人口推移からすると、先ほども述べたように、トゥルナヴェニの一九一二年における人口が4千4百人だったのに対し、ルゴジは一九二〇年で2万1千人、スンニコラウマーレは同年で1万2千人と古くから今とあまり変わらない人口を持っていた。トゥルナヴェニはこれらの中では新興都市だということがよくわかる。
c0050810_4583852.jpg  さすがにバルトークともなると、ハンガリー系であるとはいっても、いくつか記念碑めいたものがある。まず町外れにある塑像。抽象的な造形の上に、バルトークの頭部が載っており、足下にはルーマニア語、ハンガリー語、ドイツ語でバルトークの生没年などが記されている。
  また生家の建っていた場所には、プレートがあって、これはルーマニア語とハンガリー語でバルトークの生家がこの場所に建っていたことが記されている。そして街の博物館には、バルトーク記念室という常設展示があって、一応彼の事蹟を辿ることができる。彼の両親の写真からはじまり、生家の写真、学校の成績表などが掲げられている。少し面白かったのは、この地域でバルトークが行った民謡調査に関する資料で、どの村で調査を行なった、とか、どんなノートをとったか、といったことが紹介されている。しかし、概してあまり徹底性はない。ブダペストのバルトーク資料館(科学アカデミー音楽学研究所に付設されている)や記念館(彼が最後に住んでいた家)における、最先端の研究を反映したやる気満々の展示には比べるべくもない。この温度差は、もちろんこれ自体研究に値する問題だろう。
c0050810_4593668.jpg  ちなみにバルトークの父親は、この地の農業学校の校長だったのだが、バルトークが八歳の頃に若くしてなくなり、以後はやはり教師だった母親が一家の収入を支えた。彼女は条件の良い職場を求めて、当時のハンガリー王国の周辺部を点々としており、幼いバルトークも(そして彼の母親代わりとなった祖母や叔母たちも)これに伴って様々な地方都市に移り住んだ。バルトークがここに住んだのは、だから九歳の頃までのことである。
*   *   *
  これら三人の作曲家が、こういう土地で生まれ、こういう家に育った、という背景は直接何かを明らかにしてくれるわけではないけれど、彼らの創作の跡を辿っているときに彼らが「やりそうなこと」と「やりそうもないこと」との区別を判断する材料にはなってくれそうな気がする。筆者が旅しているときにアテにしていたのは、それくらいのたよりないメリットだ。彼らの作品同士の相互作用については、いつかまた稿を改めて。〔初出/『アリーナ』第16号、2013年、中部大学/風媒社、pp.302-308〕 (脚注
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# by ooi_piano | 2016-12-12 17:48 | POC2016 | Comments(0)

承前


c0050810_832549.jpg (注1)この文章は小島亮さんがいよいよ『アリーナ』編集からも引退される、と聞いて、一も二もなくお引き受けし、準備したものである。筆者が小島さんに出会ったのは、ハンガリー留学中の二十年前のことだ。その日以来、小島さんがブダペストを離れるまでの数ヶ月間、三日と空けずどこかでお会いし、強烈な印象を持った。あまりに強烈すぎて、小島さんが去った後、ブダペストが空っぽになったような気がして淋しくて仕方なかった。筆者が留学から帰ってからも、奈良で、あるいは一時小島さんが住んでいた東京の不思議なアパートで、あるいは学会で、そして予期せぬところで偶然に、お会いして、その度に硬直した日常を粉々に打ち砕くような話を聞き、心の底から楽しんだ。思えば筆者が初めて出した著作も小島さんが単身(半ズボンで)出版社に乗り込んで、話を付けて来てくれたものだった。小島さんの著作はもちろん読むたびに刺激を与えてくれた。とりわけ「セント・ラースロー病院の日々」(『ハンガリー知識史の風景』風媒社、二〇〇〇年に所収)は、一種の闘病記なのだが、それを超えてなぜかあのブダペストの空や風を思い出させてくれて、おもわずハンガリーに帰りたくなる。稀代の名エッセイだと思う。書きたいことが溢れてきて、文脈が乱れているが、それほど筆者は小島さんに魅せられ、影響を受けたのだ、と思っていただきたい。そしてそういう経緯があるにも関わらず、このような小論しか準備できなかったことを恥じるばかりである。小島さんが、今後もますます縦横無尽に活躍されますように。
 なおこの雑記のうち、リゲティに関する部分については、すでに雑誌『奏』や『コンフリクトのなかの芸術と表現:文化的ダイナミズムの地平』(大阪大学出版会、2012年)に発表した文章と重複していることをお断りしておく。

 (注2) 「不気味なほど」というのは、リゲティがバルトークの作品を知らずに書いた、と述べているからである。つまり、若い頃のリゲティはあまりにもバルトークの書法を自らのものとしていたので、自分の作品として書いたはずのものが、バルトークの未知の曲そっくりだった、ということを後から知って驚いた、というのだ。György Ligeti, Gesammelte Schriften, Band 2(Veröffentlichungen der Paul Sacher Stiftung Band 10,2) , hrsg. Monika Lichtenfeld, Schott, 2007, S.141.

 (注3)この事情については、クルターグがリゲティとの思い出について書いた次の小文が絶好の案内となろう。György Kurtág, ”Mementos of a Friendship: György Kurtág on György Ligeti”, in György Kurtág: three interviews and Ligeti homages, ed. by Bálint A. Várga, University of Rochester Press, 2009, pp.89-114.

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# by ooi_piano | 2016-12-10 16:48 | POC2016 | Comments(0)