大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》

〔ポック[POC]#31〕2017年2月19日(日)17時開演(16時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席)

【予約/お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) /Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
※お問い合わせ・メールフォーム: http://www.opus55.jp/index.php?questions

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●古川聖(1959- ):《ノベレッテ第1番 「上と下 Oben und Unten」》(2017)(委嘱新作・世界初演) 2分
カイホスルー・ソラブジ(1892-1988):《オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて) Opus Clavicembalisticum》(1930/全曲による日本初演)〔全12楽章〕 ~ 第一部
 I. 入祭唱 3分
 II. コラール前奏曲 13分
 III. 第一フーガ(四声による) 12分
 IV. ファンタジア 4分
 V.第二フーガ(二重フーガ) 16分

 (休憩10分)

●古川聖:《ノベレッテ第2番 「音階 Tonleiter」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第二部
 VI.第一間奏曲(主題と49の変奏) 45分
 VII.第一カデンツァ 5分
 VIII. 第三フーガ(三重フーガ) 35分
   [第一主題 10分 - 第二主題 11分 - 第三主題 12分]

 (休憩10分)

●古川聖:《ノベレッテ第3番 「エッシャーへのオマージュ Hommage für Escher」》(2017) 2分
■ソラブジ:《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ~ 第三部
 IX. 第二間奏曲 56分
   〔トッカータ (5分) - アダージョ (16分) - 81の変奏によるパッサカリア (35分)〕
 X. 第二カデンツァ 3分
 XI. 第四フーガ(四重フーガ) 32分
   [第一主題 8分 - 第二主題 7分 - 第三主題 8分 - 第四主題 10分]
 XII. 終結部(ストレッタ) 8分



古川聖 Kiyoshi FURUKAWA, composer
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  1959年東京生まれ。中学・高校時代に入野義郎氏に師事。高校卒業後渡独、ベルリン、ハンブルクの音楽アカデミーでイサン・ユン、ジェルジ・リゲティのもとで作曲を学ぶ。1991年に米国のスタンフォード大学で客員作曲家。独・カールスルーエのZKM(アート・アンド・メディア・センター)でアーティスト・イン・レジデンス。作品は、新しいメディアと音楽の接点において成立するものが多く、1997年のZKMの新館のオープニングでは委嘱を受け、マルチメディアオペラ『まだ生まれぬ神々へ』を制作・作曲。近年は理化学研究所内で脳波を使った視聴覚表現に関するプロジェクトを行った。社会の中で表現行為が起こる場、新しいアートの形を探して2002年より、新しいメディアを使ったワークショップを世界各国で行っている。東京芸術大学先端芸術表現科教授。 

古川聖:《Novelletten 1、2、3》(2017、委嘱新作初演)
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  私が大井氏から作品の依頼を受けた時、なにか新しい、変わった試みをいくつも並べるような作品構成とノヴェレッテンという言葉がすぐに脳裏にうかんだ。シューマンの8つのノヴェレッテンに限りない憧憬を持ちつつも、私がノヴェレッテという言葉から着想したのは幻想的な物語集ではなく、NOVELという言葉の本来の意味である、新しい種類の、新手の、奇抜な、いままでに無いといったよう作品の特徴である。(そして、もちろん大井氏になら書いても許されるようなピアノ音楽を書ける、何か特別なの機会をいただいたような気がした。)
  Novellettenは全部で7つ書く予定で、7作品分の基本的な着想はあったのだが、諸々の事情で、今回は最初の3曲の初演ということでお許しいただきたい。
  これらの作品は広い意味ではアルゴリズムコンポジション、つまり、音符の形で楽譜が直接書かれるのではなく、楽譜のなかに書かれる音がどのように生成されるのかをまずプログラムで記述し、そのプロセスの後に音符が生成され楽譜として定着されるような種類の音楽である。しかし今回は、私が以前行った複雑系の構造の自己組織化プロセスや現在も行っている脳波からの生理データの音構造へのマッピングなどの手法は使っていない。ノヴェレッテンでは一曲ごとに、7~10個音からなるモティーフを音楽の出発点として準備し、それらを複製し、拡大縮小し、分割し、重ね、移調し、縦に横にひっくり返し組み合わせるという比較的伝統的な音楽の変形手法を、伝統的作曲では行われなかったほど、多重にかさね作品として構築した。その意味で常にモティーフと曲全体は一本の糸で繋がっているといえる。そしてこれらの変形、マニュピュレーション、手法、方法の根底にあるのが、私の興味の中心にある音楽認知プロセスからの音楽生成である。音の認知、グルーピング、階層化と抽象化、記憶と予測、評価とそれらのプロセスから脳内に記憶の糸をたぐり、連想として染み出していく、音楽の内実である情動への共鳴などである。
  Novellette1には “Oben und Unten”「上と下」というドイツ語の副題をつけたが、ここではモティーフが連ねられ形成された、大きく上下する音型が潰され、のばされ、こねくり回される。
  Novellette2は “Tonleiter”「音階」という副題をもつ。音階の順次進行からなるモティーフが組み合わされ、様々な展開をとげる。
  Novellette3の副題は “Hommage für Escher”「エッシャーへのオマージュ」。今までに何度も音楽におけるエッシャー的なものを試みてきたが、今回は二つのモティーフからなるテーマのようなものを協和音程的な制約の中でどのようにうまく組み合わせるかという技法的なソリューションを探した。主要部分ではテーマは調を移され多重に重ねられるが、それらは完全な相似形になっている。
  そしてこれらのマニュピュレーションを可能とする作曲ツールがGESTALT-EDITORというグラフィックプログラミング環境である。現在のVersionは古川聖、藤井晴行、濵野峻行、小林祐貴により開発されている。(古川聖)




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c0050810_11441940.jpg  《オプス・クラウィケンバリスティクム》 ――たった二単語、九音節であるが、最も果敢なピアニストが恐れをなすに充分である。ラテン語でいかめしく見える曲題は、単に「鍵盤作品」という拍子抜けする意味でありながら、まさに前例の無い規模と熱意を備えた、現代のピアノのための巨大な投企である。
  ソラブジの受けた早期音楽教育はいささか異例である。10代後半と20代初期に数回、ロンドンでチャールズ・トルー(1854-1929)に和声・対位法・形式論のレッスンを受講した以外は、アルノルト・シェーンベルクと同様にほぼ独学であった。20世紀の最初の10年間、彼は最先端のヨーロッパとロシアの音楽への熱意を育んだ。このことが、彼の混ざり合った血筋と同様に、多くの同時代者から隔絶させたようである。彼を最も興奮させたのは当時の現代音楽であった。彼の生まれ育ったエドワード朝の英国のいささか退嬰的な風土では、その大半がほぼ知られず演奏されなかった、さまざまな新潮流に共感を寄せた。周囲でほぼ振り返られなかった、バルトーク、スクリャービン、ドビュッシー、ラフマニノフ、レーガー、シェーンベルク、ラヴェル、マーラー等に彼は傾倒した。その興奮を、戸惑う知人たちにも懸命に伝道しようとしたらしい。
c0050810_11441090.jpg  一方、意外にもこれらの活動はソラブジを作曲行為へとは駆り出さなかった。天才少年ではなかったので、現在知られる最初の作品の日付は1915年であり、そのとき彼は既に22歳であった。(もっとも、ベートーヴェンでさえ、幼少時より相当量の作曲を行なっていたにも関わらず、20代前半になるまで出版作品は限られたものだった。)
 20代半ばに至っても、ソラブジは作曲家よりもむしろ音楽評論家として身を立てることを考えていたようである。いったん創造の水門が開放されると、彼の音楽はつづく半世紀のあいだ、雪崩のように溢れ出した。1960年代末に作曲をやめようと一旦決意するも、80歳代には壮大な二つの《ピアノ交響曲》を含む十数の作品を生み出すに至った。
  作曲家として歩みを進めるかたわら、作家・批評家としての活動も併行させ、少なくとも第二次大戦末期までは精力的かつ恒常的に取り組んだ。


c0050810_11434453.jpg  ピアノという楽器には、明らかに初期から変わらぬ愛着を持っていた。ほぼ70年に及ぶ作曲活動において、ほとんど全ての作品がピアノのために書かれた。おおよそ100時間以上に及ぶピアノ音楽は、メシアンと並んで20世紀における最も意義ある貢献の一つとなっている。
  ソラブジはピアニストとしても身を立てる事も目論んだが、自らの不本意な演奏に悩み、その活動は驚くほど限定的なものに終わった。1920年代にロンドン・パリ・ウィーンで行なった数公演は常に自作のみであり、演奏家として最も前向きだった1930年にロンドンBBCでピアノのための詩曲《匂える園》(1923)を放送、4回連続公演の第1回をグラスゴーで行い、1936年のその最終公演の後、演奏活動からは身を引いた。
  《オープス・クラウィケンバリスティクム》、そしてピアニストとしてのソラブジについては、注目すべき作曲家・ピアニスト・オルガニスト・教師・講師・指揮者・作家・あらゆる芸術の博学者であるスコットランド人、エリック・チザム(1904-1965)を措いては語れない。チザムの作品は近年やっと知られるようになった。ソラブジとスコットランドとのかかわりは1920年頃に遡り、まずは作曲家フランシス・ジョージ・スコット(1880-1958)の知遇を得、その後、ほぼ同時期を生きた詩人ヒュー・マクダーミッド(1892-1978、本名クリストファー・マレー・グリーヴ)とも交友した。ソラブジとチザムがどうやって知り合ったかは不明だが、文通は1926年に始まっており、その友情はチザムの61歳の早すぎる他界まで続いた。
c0050810_11432615.jpg  このスコットランドの三人組は、ソラブジの音楽と文章を絶賛したため、ソラブジは新たな創造の高みへと大いに鼓舞された。チザムは三人の中ではぐっと年少が、間違いなくスコットランドが輩出したもっとも野心的な音楽家の一人であった。ソラブジの公開演奏を尻込みさせることなく、1930年代の活動を成功裡に乗り切らせたのは、顕揚に価する。終始忍耐強くまた決然と、現代音楽普及協会を立ち上げ、1929年から1937年まで意義深い連続公演を組織し、ヨーロッパの主要作曲家をグラスゴーに招いて、彼らの作品を演奏し意見を交わした。その中にはバルトーク、シマノフスキ、ヒンデミット、メットネルら名士も含まれた。不思議なことに、ソラブジは他のどの作曲家よりも多く演奏を行い、3作品の初演を含む4公演が特集された。1930年の最初の登場で、ソラブジは2時間以上かかる彼の第4ソナタを弾き、聴衆の耳目を集めた(再演は2002年のジョナサン・パウエルまで無かった)。当時、彼は最も野心的な作品である《オルガン交響曲第二番》に取りかかっていた。ソラブジの演奏家としての活躍を今一度担保し、スコットランドの聴衆にその音楽の真価を知らしめるために、チザムはさらに充実した作品を書くようソラブジを励ました。1929年9月、ソラブジは《オルガン交響曲第二番》をいったん中断し、多楽章のピアノ独奏曲を書き始めた。当初はOpus Sequentialeと呼ばれたその作品は、筆を進めるつれOpus Clavicembalisticum (以下OC)と改題された。わずか9ヶ月で脱稿したにも関わらず、その時点で彼の最長のピアノ曲であり、作曲人生の里程標となった。


c0050810_11433516.jpg  OCの初演計画はただちに実行され、1930年12月、グラスゴーでソラブジは全曲を演奏した。聴衆の反応が賛否両論であったことは避けがたかった。その演奏時間の長さ、付き合いがたさ、語法の難解さは、聴衆の注意をはね付けるものの、確かに一つの偉業であると論評された。ソラブジは自筆譜を見ながら演奏した。浄書出版はその翌年で、爾後OCの全曲あるいは抜粋演奏は、すべてこの1931年の浄書譜によるものである。目下、新しい校訂譜が準備中である。
  2度目の再演は部分的なもので、1936年ロンドンにてジョン・トビン(1891-1980)が第一部のみを取り上げた。衆目の一致するところ、この善意のピアニストは曲に立ち向かうには甚だ力不足だった。演奏はソラブジの許可なく行なわれ、作曲家をいたく失望させた。この出来事は、公開演奏に対するソラブジの態度に影響したと思われる。それは、しばしば言われる全面的な拒絶ではなく、自作を誤解から守りたいという至極真っ当な希望であり、安心して許諾を与えられる奏者にのみ未来の公開演奏を明確に限定するものに他ならなかった。
  この異例で果敢な措置の最も早い一例は、ソラブジが非常に尊敬していたピアニスト、エゴン・ペトリ(1881-1962)との文通で確認出来る。ブゾーニの愛弟子であり、その壮大な協奏曲を師の指揮下で演奏したペトリとの関わりは、1920年代にロンドンでの演奏に対するソラブジの熱のこもった批評記事に発した。彼らの友情は終生続いた。ソラブジはペトリに、いつでもどこでも望む通りにOCを演奏する許諾を与えた。ただ残念ながら、ペトリはそれに立ち向かうことは無かった。準備に専心し、他の仕事を数年犠牲にするのは困難と感じたからに違いない。
c0050810_11440172.jpg  作曲家ピーター・マクスウェル・デイヴィス(1934-2016)は、1955年頃にOCの最初の2つの楽章を管弦楽用に編曲したが、不幸にもその所在は不明である。ピアニスト、ジョン・オグドン(1937-1989)は、1950年代半ばにデイヴィスからOCの存在を知らされ、生涯を通じて魅了され続けた。50年代末にバーゼルでオグドンはエオン・ペトリに師事した。オグドンとペトリがOCについて議論したかどうかはっきりしないのは無念だが、ソラブジが述懐するところでは、ペトリはオグドンがかつて教えた中で最も才能のある弟子であると保証し、できるだけ早く演奏を聴くように促したと云う。1959年、スコットランドの作曲家・ピアニスト、ロナルド・スティーヴンソン(1928-2015)の私邸で、オグドンはOCを試演し、その際の数少ない聴衆にはスティーヴンソンの他、被献呈者ヒュー・マクダーミッドも含まれていた。その翌年、ロンドンでオグドンは初めて、そしてただ一度、ソラブジに会うことになる。
  オグドンは1962年、モスクワのチャイコフスキー・コンクールでウラディーミル・アシュケナージと並んで優勝し、一挙にスターダムに駆け上った。1960年代半ば、見紛うことなくEMIの花形アーチストとなったオグドンは、EMI側に二度、OCの録音を打診したが、丁重に断られた。しかしこのことによって、OCを録音・演奏しようとする彼の熱意は、いささかも減じることは無かった。
  同じ頃、ピアニスト、ロナルド・スミス(1922-2004)はOCの演奏に興味を示し、準備作業を始めていたらしい。ただ彼は視力が悪く、長らく暗譜での演奏を余儀なくされていたため、OCには不向きであった。実のところ、暗譜での全曲演奏は今まで無かったし、これからも無いだろう。オグドンのCDに寄せた、ロナルド・スティーヴンソンのOC概説は、分析の傑作であり傑作の分析であるが、恐らくペトリと同じ理由で、一方ならぬ時間OCを練習しながらも、スティーヴンソンは部分的でさえ公開演奏を行わなかった。


c0050810_11430772.jpg  1980年、オーストラリア人ピアニストのジェフリー・ダグラス・マッジが、移住先のオランダで4公演にわたって最初の2つの楽章を演奏した後、1982年にオランダ・フェスティヴァルの一環としてユトレヒトで全曲を通奏した。初演から半世紀を経た最初の公開上演は、3部の間の休憩を含めてすべてラジオで生放送され(!)、深夜の天気予報を1時間遅延させた。最終番組の代わりに、OCの第二カデンツァ、第四フーガ、終結部 - ストレッタと盛大な拍手を聞かされたリスナーの反応は不詳である。この演奏は、今は無きオランダRCSレーベルから、4枚組LPとして発行された。
  幾つかの抜粋演奏に加え、マッジはボン・シカゴ(1983)、モントリオール(1984)、パリ(1988)、ベルリン(2002)で全曲演奏を行った。シカゴ公演は1999年、スウェーデンBISレーベルから5枚組CDとしてリリースされた。
  1984年、当時英国を拠点としていたAltarusレーベルが、所属アーチストであるロナルド・スティーヴンソンに、OCの録音を打診した。OCは演奏しないことに決めていたスティーヴンソンはこれを残念ながら辞退したが、是非ジョン・オグドンを説得するよう、賢明にもAltarusに勧めた。オグドンは喜んで申し出を受け入れ、ただちに企画を進め、1985年と86年に全曲を録音したのだった。
  1988年、ロンドンのサウス・バンク・センターのクイーン・エリザベス・ホールにて、パークレーン・グループの協賛のもと、オグドンはOC全曲の歴史的なイギリス初演を行なった。96歳で存命だったソラブジは、意識は明晰だったが車椅子から離れることが出来ず、この素晴らしい公演に臨席はかなわなかった。悲しむべきことに、その3ヵ月後、ソラブジはこの世を去った。その直後、オグドンは作曲者を追悼して、ロンドンで再度の全曲演奏を行った。オグドンの録音は、60頁を超えるA5サイズの冊子を合わせた4枚組CDボックスとして1989年にリリースされ、批評家から絶賛を博した(後に、通常の5枚組CDとして再発された)。このとき、パークレーン・グループはオグドンのOC演奏旅行を起案しており、オグドン自身も《100の超絶技巧練習曲集》の録音と演奏を準備し始めていた。これらの計画は、その年の夏、オグドンが享年52で他界することにより頓挫した。
c0050810_11431711.jpg  この作品の全曲演奏に挑んだ4番目のピアニストはジョナサン・パウエル(1969- )である。現在まで4回を数えるその演奏の第1回は、パークレーン・グループに協賛され、サウス・バンクセンターのパーセルルームで行なわれた。パウエルはそれまでに、Altarusレーベルにソラブジの様々なピアノ作品の録音を手がけていた。他の同僚を大きく引き離して、パウエルは多くのソラブジ作品を演奏・録音しており、また彼はその浄書作業にも従事している。
  2009年、ベルギー人ピアニスト、ダーン・ファンデヴァレはOCのスペイン初演を行い、「クラヴィチェンバリスト」の放列に5番目に加わった。彼はベルリンでも再演した。
   ペトリとスティーヴンソンの先例に見られるように、OCを含むソラブジの真に大規模な鍵盤独奏曲は、奏者に過大な負担がかかり、通常の練習日程では準備をこなせないため、畢竟計画を長期化するしか解決法は無い。これはまさに、この作品を演奏した全てのピアニストに降りかかった事である(作曲者自身を除いて!)。ジョン・オグドンは公開演奏する前に30年余りを作品と過ごした。ジェフリー・ダグラス・マッジは初演へ向けて相応の時間を間歇的に費やした。ジョナサン・パウエルは最初の演奏時までの人生の半分以上を、じっくりと準備に向き合っていた。


c0050810_11425523.jpg  《オルガン交響曲第一番》(1923-24)をもって、ソラブジはこの種の多楽章の大規模作品の嚆矢と成し、そのジャンルに半世紀後の《ピアノ交響曲第6番》まで拘り続けた。同曲を完成するまでに、彼は《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》(1923-26)となる作品も併行していた(1940年代後半に書かれ、エゴン・ペトリに献呈された同じく「怒りの日」による、より大規模な《Sequentia Cyclica》とは別作品である)。この変奏曲は、彼のヒーローであるブゾーニに捧げるつもりだったが、作曲中にブゾーニが他界したため、彼を追悼する曲となった。これら二つの作品で、長大な変奏と大胆なフーガ書法へのソラブジの偏愛が初めて表明された。この傾向はほぼ終生変わることなく、彼の代表的な鍵盤作品の多くを特徴付けている。
  ソラブジの巨大な作品は大抵それだけでリサイタル一晩を占めるように意図されているが、多楽章形式を探求する2番目の作品は1928年に完成されたピアノ独創のための《トッカータ第一番》である。75分を所要するものの、彼の最長の作品の一つでは決してなく、2011年ロンドンでジョナサン・パウエルが初演した際はコンサート後半に置かれ、前半はブゾーニ《対位法的幻想曲》が取り上げられた。ある意味、《トッカータ第一番》は、その終結部の嬰ト短調の調性の点を含めて、OCの先駆的作品と言えよう。《トッカータ第一番》と《対位法的幻想曲》と組み合わせるパウエルの発案は、偶然にも《トッカータ》を完成した年のうちに、《対位法的幻想曲》と最も接近し関連付けられるOCの作曲を開始していた事実と、予期せぬ偶合をもたらした。
c0050810_11423093.jpg  ソラブジとブゾーニは1919年ロンドンで出会った。このイタリアの作曲家はソラブジを招いて近作を弾くよう促した。ブゾーニに《ピアノソナタ第一番》(1919)を披露したのは、ソラブジにとって明らかに決定的な体験だった。直後にブゾーニ自身のピアノ演奏を耳にし、そのピアニズムと作品にすっかり釘付けになった(特に印象付けられたのはブゾーニ《トッカータ》だった)。疑いなく、これらの出来事を経てブゾーニの存在が彼の心を占めるようになった。
   特に《オルガン交響曲第一番》《「怒りの日」による変奏曲とフーガ》《トッカータ第一番》《OC》といった作品群は、バッハ自身やレーガー(1873-1916)の作品に加えて、作曲家でありバッハ研究家/編曲家であったブゾーニの影響下にあり、ソラブジの音楽に独特の過剰性をもたらした。
  先述のように、生涯を通じてソラブジはフーガ形式を偏愛したにも関わらず、OCは彼の全作品の中でも特異な位置を占める。この作品は実に、規模・語法・主題数を徐々に増加させる合計4つのフーガによって句読点を付けられている。OCの高度に労作され錯綜した対位法書法と自由なファンタジア楽章の結合は、《対位法的幻想曲》とのもう一つの重要な共通項となっている。


c0050810_11414698.jpg  OC冒頭の《入祭唱》《コラール前奏曲》では見まがうことなくブゾーニ的な雰囲気が漂い、その鍵盤書法のみならず、彼の舞台作品に見られる独特で両義的な和声法をソラブジが吸収していたことが伺える。これらの楽章では、あらかじめ作品全体に関わる幾つかの予告を行なっている。OCの多くの箇所で輝かしく音符がばらまかれるのに対し、冒頭部における硬直した単音の恐るべき下降は、黙示録第11章第5節の第七のラッパを思わせ、「終のラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間に化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦へり、我らは化するなり」(コリント第15章52節)という感覚を示唆するよりむしろ、14世紀初期のダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』の地獄の門口の銘文、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」を想起させる。ソラブジのアルカンへのほとんど狂信的な献身を考えると、OCの一世紀前に書かれたアルカン:ヴァイオリンとピアノのための《協奏的大二重奏曲 Op.21》の中間楽章「地獄」を念頭に置いていたのかもしれない。この楽章は「闇深い深淵の、極めて荒涼とし強靭な音楽的幻視をもたらす」と評されているが、興味深いことに、19世紀末に書かれたブゾーニ:ヴァイオリンソナタ第2番の冒頭部との符合が見られる。
c0050810_12010685.jpg  《入祭唱》はOC最短の楽章である。続く《コラール前奏曲》は、ブゾーニによってピアノ用に編曲されたバッハ風コラール前奏曲に範を取っている。
  《コラール前奏曲》は、続く第一フーガを暗示して締め括られる。4つのフーガのうち最初のものは、単一主題で最も簡潔に書かれ、むしろ《トッカータ第一番》の書法と同種である。
  嬰ト短調で決然と終結した《第一フーガ》は、そのままアルカンとリストを回想するような急速で動的な技巧走句で満たされる《ファンタジア》へ続く。憤怒の抗議の身振りにも似た、破壊的な複調による終止を経て、対照的な二つの主題による《第二フーガ》では、《第一フーガ》を特徴付ける硬直した厳格さの中に、叙情的要素も加味される。この楽章も嬰ト短調で閉じられるが、この調性と嬰ハ長調がこの独自な楽章を土台として支えている。


c0050810_11415968.jpg  かくして第一部は終わり、代わって、第二部はゆったりとした塊状和音による主題により開始され、嬰ハ長調で終止する。ここから極めて対照的な性格を持つ49の変奏が生成される。最後から二番目の変奏(第46変奏)が両手の和音の猛攻で畳み掛けられ、最後の和音が霧散するまで放置された後、優美にさりげなく、豊饒たる繊細さの極みにむせかえる夜想曲(ソラブジが雄弁たるもう一つの側面)へ移行する。温室でまどろむような雰囲気は一転、とぐろを巻いていた蛇が突如鎌首をもたげ毒牙を剥き出すかのように、荒れ狂う結末を迎える。
  続く《第一カデンツァ》は、第一部の《ファンタジア》とは異なった、早口の走句の速射で特色付けられる。この短い楽章の次に来る《第三フーガ》は、《第一フーガ》と《第二フーガ》の性格を合体させ、拡張し、極限の強度へ到達する。この楽章も嬰ハ長調で終止し、かくして第二部は閉じられる。


c0050810_11413052.jpg   巨大な楽章である《第二間奏曲》は、トッカータ、アダージョ、パッサカリアの3つの部分から成っている。トッカータは、お察しの通り、偏執的な走句による金銀線細工の発展形である。意外にもニ短調で終わる。アダージョは、この種のソラブジ作品の中でも際立って静謐な夜想曲であり、全曲の中でも情緒的な核心部と言えよう。もっとも、先行作品の《主題と変奏》のように、その永続的な静穏さは、嬰ハ長調の持続低音上の最弱音に始まり圧倒的な最強音へ至る塊状和音の下降によって打ち切られる。この楽章の最終部分の主動機は、伝統的な3拍子のパッサカリア形式を下敷きにしながらも、それは貫徹されない。(《オルガン交響曲第一番》第1楽章の主部であるパッサカリアと同様で、こちらも81の変奏を含む。)再び、雰囲気・質感・性格のさらなる対比が全編を通して労作され、最終変奏では鍵盤全域に及ぶ激烈で多層的な最強音が噴出し、決然と嬰ハ長調で結論付けられるが、《主題と変奏》や「アダージョ」と異なり、その嵐のような最終和音が徐々に死に絶えてゆくかのような、非常に緩やかな締め口上(Epilogo)が、ppで始まりmpまで至るが最後はほとんど聴こえないppppへ沈むように後書きされる。
   引き続く《第二カデンツァ》は、全曲が持続低音Aの上に展開される。(持続低音はソラブジの大好物である。)《入祭唱》と同じく、非常に短い楽章であり、4分音符の和音の連射ののち、複調へ雪崩れ込む。
  《第四フーガ》の四つのフーガ主題は、先行する二つのフーガに比べてもより互いの対比が図られている。OCの4つのフーガのうちで最長であり、進行するにつれOCのほかの動機を組み合わせつつ、最終楽章《終結部 (ストレッタ)》へ導いてゆく。
c0050810_11411663.jpg  この最終節の目指すところは、前例の無いレベルまで対位法を錯綜させることで表現と質感を引き上げ、全曲を焼け付くような終末へ牽引し、レーガーのオルガン・フーガの最も気宇雄大な終結部のごとく、まさに津波のように破壊的な和音の物量をもって、その嬰ハ長調の決定的な勝利の爆発へ到達する事である。
  しかし全てはまだ終わっていない・・・最後の2ページは嬰ハ長調を含む幾つかの調性を通過しつつ、燃え盛る凱歌をあげるどころか、全曲劈頭《入祭唱》の地獄門へと回帰するのである。稲妻の炸裂が嬰ト短調で完了し、低音部の抗うような雷鳴は右手の房状和音とそれを支える左手の嬰ト短調の和音を包含する。エリック・チザムへの手紙で、ゲーテ《ファウスト》を引用しつつ、「私は常に否定するところの霊である(メフィストフェレス)」と、作曲者はこの箇所を説明している。
  OCはガリアのように3つの領分に分けられ、通常休憩が差し挟まれる。ジョナサン・パウエルの4回の全曲演奏のうち2回目・3回目・4回目では、最初の休憩を省略し、第一部と第二部を連結させた。(私の予想に反して、この方法は非常に効果的であった。もしピアニストがパウエルのように体力があるのならば!) 1930年のソラブジ自身による初演fでは2回の休憩を差し挟んだが、それらは非常に短いもので、集中力の強度が失われるのを恐れるかのように迅速にピアノへ戻り演奏を再開し、それでもなお魅了されていた聴衆の有り得べき身体的不快感を度外視したと云う。


  今夜の上演はOCの16回目の全曲通奏であり、日本初演、そして今夜のピアニストである大井浩明による最初の演奏である。 (アリステア・ヒントン/英ソラブジ・アーカイヴ)



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補足:ソラブジの戦後前衛への影響? ──野々村 禎彦

c0050810_11404974.jpg ソラブジ協会のヒントン氏による詳細な作品/作曲家解説に、「戦後前衛との関連」に関する補足を依頼されたが、ソラブジ作品から戦後前衛への、通常の意味での影響関係は皆無としか言いようがない。氏の解説にもある通り、1936年に《オプス…》の悲惨な演奏を聴いて自作の公開演奏を禁止して以来、この禁止は1976年まで解かれることはなかったのだから、影響などあろうはずがない。

 技術水準のみを問題にするならば、ジョン・オグドンはチャイコフスキー・コンクールで優勝する以前からソラブジ作品に取り組んでおり、彼でも不満はなかったはずだ。彼はヴィルトゥオーゾ志向の作曲家でもあり、ソラブジ作品に強く共感していた。それにもかかわらず、ソラブジが自作の公開演奏を禁止し続けたのは、前衛の時代には自作が正当に評価されないことを見越していたのだろう。実際オグドンはこの時代に、ピアニストとしての評価に比べて作曲家としての評価が低いことに悩むうちに精神の平衡を崩し、1973年には演奏活動を休止して療養生活に入った。

c0050810_11394797.jpg 現代音楽界で「新ロマン主義」が脚光を浴びたのは1974年だった。1976年はこの傾向が一過性の流行ではなく、戦後前衛第一世代の作曲家たちの多くも巻き込んだ潮流になることが見え始めた年であり、結局ソラブジの音楽は戦後前衛とは相容れないものだった…という単純な話でもなかった。彼は自作演奏を再び許可したものの、当時取り組んでいたピアニストに満足していたわけではなく、措置は暫定的なものだった。この措置が永続的なものになるにあたっては、ジョフリー・ダグラス・マッジが《オプス…》に取り組み始めたことが大きな役割を果たした。

 大井はクセナキス《シナファイ》の録音で国際的に注目されたが、この難曲を最初に録音したのが他ならぬマッジである。主にオランダでクセナキス作品など現代弾きとして鳴らした彼は、戦後前衛が曲がり角を迎えるとクシェネック、スカルコッタスら、1900年前後に生まれた忘れられた作曲家たちにレパートリーを広げる中で《オプス…》に出会った。彼の解釈をソラブジは高く評価し、彼は《オプス…》を最初に録音した。すなわち、ソラブジは自作が後期ロマン派の超絶技巧探求の延長線上で解釈されることに満足できず、現代音楽の演奏経験を踏まえたモダンな解釈を望んでいた。

 《オプス…》演奏史で次に大きな位置を占めるのは、マッジにはまだ残っていた後期ロマン派的な身振りを削ぎ落としたジョナサン・パウエルだが、彼もフィニスィー《英国田舎唄》(1977/82-85) 改訂版の全曲演奏でデビューした生粋の現代弾きである。マッジは《オプス…》を繰り返し全曲演奏している以外はソラブジ作品にはあまり深く関わってはいないが、パウエルは中期・後期のより錯綜した作品群までレパートリーにしており、ソラブジの難読手稿譜を浄書して演奏のハードルを下げるプロジェクトの中心人物のひとりでもある(ただし、《オプス…》の作業は担当していない)。

c0050810_03005260.jpg ソラブジの音楽は前衛の時代に評価されるような音楽ではないが、その反動としての後期ロマン派回帰で済まされる音楽でもなかった。その立ち位置は、マイケル・フィニスィー(1946-) の音楽にも通じるものがある。フィニスィーはファーニホウと並ぶ、英国での「新しい複雑性」の創始者だが、英国には存在しなかった戦後前衛第一世代の失地回復を目指したファーニホウとは異なり、J.シュトラウス二世やヴェルディ作品の「編曲」を前衛の時代末期から試み始めた、ヴィルトゥオーゾ志向の持ち主だった。彼もソラブジ同様、作曲家=ピアニストである。ただし原曲の面影を残しているのは輪郭のみで、個々の音符はセリー操作で変換され、「新ロマン主義」とも明白に異質である。

 英国ならではの中庸を行く姿勢はソラブジからフィニスィーに受け継がれ、演奏実践から見ても、パウエル以降のソラブジ演奏はフィニスィー体験が基盤になっている…という傾向はなくもないが、フィニスィーのスタンスはそこまで独特でもない。米国実験音楽第二世代のフレデリック・ジェフスキー(1938-) の立ち位置も、極めて近い。前衛の時代にはシュトックハウゼン作品などの演奏で鳴らした彼は、MEVでの集団即興を経て前衛の時代末期にはミニマル手法を用いた政治参加の音楽に取り組んだ。前衛の時代が終わると民衆歌や抵抗歌を素材に、即興経験を生かして複雑に変奏する作品群で自己を確立した(《「不屈の民」変奏曲》(1975)、《北米バラード》(1978-79) など)。

c0050810_11501842.jpg ただしジェフスキーのこのような方向性は、英国実験音楽を代表する作曲家=ピアニストのコーネリアス・カーデュー(1936-81) の活動をモデルにしている。シュトックハウゼンの助手としてセリー音楽を書き始めたが、ニューヨーク楽派の音楽に接して自由度の高い図形楽譜に移行し、AMMでの集団即興を経てアマチュア音楽家集団スクラッチ・オーケストラを結成し、やがて毛沢東主義に傾倒してそれまでの活動をブルジョア的だと自己批判し、自動車事故による早逝までは民衆歌や抵抗歌を民衆に馴染み深い様式=後期ロマン派風の変奏曲として処理する書法に落ち着いた。ジェフスキーの歩みは、短い生涯を生き急いだカーデューの人生を緩やかに辿り直したものだった。

 もはやソラブジとは何の関係もない話に見えるかもしれないが、彼らのその後に及んでようやく、ソラブジとの糸が繋がってくる。ソラブジ作品の最も特異な点は、常識外れの長大な演奏時間を持ちながら、小品集という伝統的な形態には収まっていないことだが、死後も衰えないソラブジの名声をなぞるかのように、彼らも20世紀末から21世紀初頭にかけて、《オプス…》すら凌ぐ長大なピアノ独奏曲を書いた。フィニスィー《音で辿る写真の歴史》(1995-2001) は6時間、ジェフスキー《道》(1995-2003) は10時間を全曲演奏に要し、彼らの創作史の総括にもなっている。



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# by ooi_piano | 2017-02-08 01:38 | POC2016 | Comments(0)

c0050810_15225432.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約/お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) /Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
※お問い合わせ・メールフォーム: http://www.opus55.jp/index.php?questions

チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)




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c0050810_811861.jpg【ポック[POC]#31】
2017年2月19日(日)17時開演(16時半開場) 松涛サロン(渋谷区)

古川聖(1959- ):《七つのノベレッテン》(2017)(委嘱新作・世界初演)
カイホスルー・ソラブジ(1892-1988):《オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて) Opus Clavicembalisticum》(1930/全曲による日本初演)〔全12楽章〕(約4時間)

 【第一部】 (50分)
I. 入祭唱 3分
II. コラール前奏曲 13分
III. 第一フーガ(四声による) 12分
IV. ファンタジア 4分
V.第二フーガ(二重フーガ) 16分

 (休憩10分)

【第二部】 (1時間半)
VI.第一間奏曲(主題と49の変奏) 45分
VII.第一カデンツァ 5分
VIII. 第三フーガ(三重フーガ) 35分
   [第一主題 10分 - 第二主題 11分 - 第三主題 12分]

 (休憩10分)

【第三部】 (1時間40分)
IX. 第二間奏曲 56分
   [トッカータ 5分 - アダージョ16分 - 81の変奏によるパッサカリア 35分]
X. 第二カデンツァ 3分
XI. 第四フーガ(四重フーガ) 32分
   [第一主題 8分 - 第二主題 7分 - 第三主題 8分 - 第四主題 10分]
XII. 終結部(ストレッタ) 8分




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c0050810_15215530.jpg【ポストイベント】 ~二台ピアノによるバルトーク傑作集~
Bartók Béla zenekari mesterművei
két zongorára átírta Yonezawa Noritake


2017年4月28日(金)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ

公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://koendoriclassics.com/
チラシpdf


■バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
  導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す

■バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
  I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto

■バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲


(終了)÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━÷━
c0050810_855583.jpg【プレイベント】 2016年9月22日(木・祝) 19時開演(18時半開場) 公園通りクラシックス(渋谷区) 
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):《4つのエテュード》(1917)、舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)、舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913) (共演/浦壁信二)


c0050810_863877.jpg【ポック[POC]#27】 2016年10月10日(月・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●見澤ゆかり(1987- ):《Vivo estas ĉiam absurda》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●アルノルト・シェーンベルク(1874-1951):浄められた夜 Op.4 (1899)[M.ゲシュテールによるピアノ独奏版(2001)](日本初演)、室内交響曲第1番ホ長調 Op.9(1906)[E.シュトイアーマンによるピアノ独奏版(1922)]、三つのピアノ曲 Op.11(1909)、六つのピアノ小品 Op.19(1911)、五つのピアノ曲 Op.23(1920/23)、ピアノ組曲 Op.25(1921/23)、ピアノ曲 Op.33a(1928)、ピアノ曲 Op.33b(1931)、室内交響曲第2番変ホ短調 Op.38(1906/40)[米沢典剛によるピアノ独奏版(2016)](世界初演)


c0050810_873735.jpg【関連公演】 2016年11月16日(水)18時20分開演(17時50分開場) 静岡文化芸術大学・講堂(浜松市)
●アルバン・ベルク=米沢典剛:《抒情組曲》〔全6楽章〕(1926/2016、ピアノ独奏版・世界初演)、アルノルト・シェーンベルク=米沢典剛:《映画の一場面のための伴奏音楽 Op.34》(1930/2016、ピアノ独奏版・世界初演)、アントン・ウェーベルン=米沢典剛:《交響曲 Op.21》(1928/2016、ピアノ独奏版・世界初演)


c0050810_883180.jpg【ポック[POC]#28】 2016年11月23日(水・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●藤井健介(1979- ):《セレの物語》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●チャールズ・アイヴズ(1874-1954): スリーページ・ソナタ(1905)、ピアノソナタ第1番(1902/09) 〔全5楽章〕、ピアノソナタ第2番《マサチューセッツ・コンコード》(1909/15) 〔全4楽章〕





c0050810_891668.jpg【ポック[POC]#29】
2016年12月23日(金・祝)18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
●ベラ・バルトーク(1881-1945): ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904)、14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908)、アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911)、3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918)、舞踏組曲 Sz.77 (1925)、ピアノ・ソナタ Sz.80 (1926)、戸外にて Sz.81 (1926)、弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章](1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)[Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]





c0050810_810105.jpg【ポック[POC]#30】 2017年1月22日(日)18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
●大蔵雅彦(1966- ):《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演)
●イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971): ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演)、4つのエチュード Op.7 (1908)、ペトルーシュカからの3楽章(1911/21)、11楽器のラグタイム(1917/18)[作曲者による独奏版]、交響詩《夜鶯の歌》(1917)[作曲者による独奏版]、《兵士の物語》による大組曲(1918)[作曲者による独奏版](日本初演)、ピアノ・ラグ・ミュージック (1919)、管楽器のシンフォニー集(1920)[A.ルリエと作曲者による独奏版]、コンチェルティーノ(1920)[A.ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、八重奏曲(1923)[A.ルリエによるピアノ独奏版](日本初演)、ピアノ・ソナタ(1924)〔全3楽章〕、イ調のセレナード(1925)〔全4楽章〕、タンゴ(1940)、仔象のためのサーカス・ポルカ(1943)







POC2016:戦後前衛の源流を求めて────野々村禎彦

c0050810_21303021.gif POCシリーズも今年度で6期目。今回の特集作曲家はみな19世紀生まれであり、このシリーズでは従来試みられなかった、若手/中堅作曲家(特集作曲家ではない)への新作委嘱も毎回行っている。昨年度のシリーズも、60年代以降に生まれた作曲家の特集ではなく、戦後前衛第一世代の作曲家の補遺であり、いよいよネタ切れ…と思う向きもあるかもしれない。だが、このシリーズは近年の大井の活動の中ではむしろ特異な位置にある。彼の普段の活動の中心は、新作委嘱と古典を組み合わせたプログラムであり、委嘱先も現代音楽業界での常連ではなく、アウトサイダーや境界領域で活動する音楽家(や非音楽家!)が主体。今回のプログラムの方が大井の本来の姿なのである。

 もちろん、19世紀後半に生まれ、主に20世紀前半に活動した作曲家を漫然と並べているわけではない。戦後前衛に焦点を絞ったシリーズにふさわしく、戦後前衛(第一世代に限らない)に直接的な影響を与えた作曲家に限られ、すると1874年生まれのシェーンベルクとアイヴズが最初になる。この戦後前衛の源流にあたる作曲家たちに大きな影響を与えた、「源流の源流」のドビュッシーは対象外である。ストラヴィンスキーの新古典主義とバルトークの「夜の音楽」への影響は言うに及ばず、アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、彼の音楽がなければ有り得なかった。彼の音楽とは無関係でいられたのは、シェーンベルクとソラブジくらいかもしれない。

c0050810_21312484.gif 生年だけ見ればラヴェルは1875年であり、シャリーノを筆頭に、彼の直接的な影響下にある戦後前衛の作曲家も少なくないが、彼もまた「源流の源流」に他ならない。作曲家としては遅咲きだったドビュッシーと早熟なラヴェルは、影響を与え合うライバルだった(《版画》―《鏡》―《映像》―《夜のガスパール》―《前奏曲集》という時系列)。ラヴェルの影から解放されたドビュッシーは、今度はストラヴィンスキーを意識し、《白と黒で》《練習曲集》で彼の進むべき道を示した。

 シェーンベルクを「戦後前衛の源流」のひとりに数えるのは今日では自然だが、前衛の時代には決してそうではなかった。特に戦後前衛第一世代にとっては、新ウィーン楽派でモデルになった作曲家はまずヴェーベルンであり(管理された偶然性以降の時代にベルクも加わった)、シェーンベルクは「12音技法と引き換えに新古典主義に退行した反動」にすぎない。またヴェーベルンベルクは、《浄夜》や《室内交響曲第1番》の後期ロマン派を佃煮にしたような作曲家を、「別な惑星の大気」を感じさせる清々しい無調音楽の作曲家に変貌させた、「源流の源流」とみなすことも可能だ。

c0050810_2132418.gif 紆余曲折を経て、シェーンベルクが「戦後前衛の源流」として見直された背景はふたつある。前衛の時代を代表するドイツの作曲家は、電子音楽の体現者シュトックハウゼンと、視覚的要素を重視しヨーロッパの伝統に疑義を突きつけたカーゲル(及びその縮小再生産版のシュネーベル)程度だったが、前衛の時代以降に頭角を現したラッヘンマンファーニホウ(英国を早々に見限った)は、当初こそ「伝統の異化」を標榜していたものの、しだいに伝統主義者の側面を露わにし、そこでモデルになったのはブラームスマーラーとの連続性が明確なシェーンベルクだったことがひとつ。カーゲルやシュネーベルすら、いつの間にかドイツ音楽の伝統の再利用を創作の中心に移していた。

 もうひとつは、ブーレーズが「怠惰による偶然性」と非難したケージ及びニューヨーク楽派の音楽が、ヴァンデルヴァイザー楽派を経てドイツ音楽の伝統に回収されたこと。彼らの音楽は、実は米国実験音楽としては異端であり、その源流は若き日のケージがシェーンベルクに師事し、終生最も影響を受けた人物のひとりとしてリスペクトしていたことに由来する。即興の可能性を疑い、理念を厳格に形にする姿勢は、師シェーンベルクが体現した精神の深いレベルでの継承に他ならない。ケージらの音楽の性格は、米国実験音楽の多数派の「大らかさ」とは全く異なっている。

c0050810_21334169.gif このようなシェーンベルクの位置付けを前提にすると、なぜアイヴズが今回取り上げられたのかも見えてくる。「米国実験音楽の源流はアイヴズであり、彼は奇しくもシェーンベルクと同年生まれ」という単純な話では決してないのだ。非アカデミックな「アメリカ音楽」(中南米も含む)を包括的に内外で紹介し、文字通りの「日曜作曲家」アイヴズを見出して最初に出版したカウエルこそ「米国実験音楽の源流」にふさわしい。ピアノ独奏曲も一晩に余るくらい書いている。だが彼の「実験」は「戦後前衛」とは接点がないタイプのものであり、POCシリーズにはふさわしくない。

 もちろん、アイヴズの音楽も「戦後前衛」との直接の接点はない。シェーンベルクのテニス仲間であり、ベルクのオペラを参照して《ポーギーとベス》を書き上げたガーシュウィンの方が、まだ近いかもしれない。「トーン・クラスターの使用」「微分音調律」「音楽の空間性の探求」といった要素に切り分けて、アイヴズの音楽の「前衛性」が喧伝された時期もあるが、このような要素への分解を徹底すれば、セリー主義以外の「戦後前衛」の構成要素の大半は19世紀までの音楽に見出せる。

c0050810_21343028.gif アイヴズの音楽の本質的な特徴は、今回の曲目で言えば第2ソナタの第3楽章のような素朴な調性と、第4楽章のような深遠な無調が全く矛盾なく並んでいるところにある。これは戦後前衛における「引用」や「異化」とは性格を異にし、対立する美学を折衷主義に陥らずに受け止める、真の多文化主義と呼べる。これこそが、米国実験音楽の大らかな多数派に欠けている美質であり、ニューヨーク楽派(及びチューダー、オリヴェロス、テニー、初期ミニマル音楽)以降で体現しているのは、フランク・ザッパやジョン・ゾーンをはじめ、実験的ポピュラー音楽の最も先鋭的な音楽家たちである。これがアイヴズを「源流」とみなす意味であり、今回の委嘱作曲家の人選にも反映されている。

 1880年代前半に生まれたストラヴィンスキーとバルトークを「源流」とみなすことは、シェーンベルクとアイヴズの場合よりも議論の余地は少ない。ストラヴィンスキーは、第一次世界大戦後から戦後前衛が歴史的地位を確立するまで、「芸術音楽」のマジョリティであり続けた新古典主義の中心人物であり、アンチ新古典主義は戦後前衛勃興期の活動の原動力だったという意味でも、「源流」とみなせる。そもそも、アンチ意識は似た者同士だからこそ生まれる。新古典主義も戦後前衛も、同じ新即物主義の土壌から生まれた。美学は共有するが素材や技法だけが違うから、内ゲバになる。

c0050810_21354191.gif バルトークは、民謡収集で得られた素材を作曲に持ち込んだ、というレベルではヨーロッパ周縁部(中南米やアジアも含む一般的な概念)の多くの作曲家のひとりに留まるが、それを抽象化・普遍化する姿勢において突出していた。特に、クラシックの伝統における抽象化の頂点である弦楽四重奏においてその美質は発揮された。ペンデレツキやリゲティらの前衛の時代の作例は言うに及ばず、その影響はポスト前衛の時代まで及んでいる。クセナキス《テトラス》、ラッヘンマン《精霊の踊り》、グロボカール《ディスクールVI》、シュニトケ《弦楽四重奏曲第4番》という、80年代のこの編成を代表する多様な作品ですら、各々バルトークの3・4・5・6番のマイナーチェンジとみなせる。

 ただしピアノ独奏曲に限ると、ふたりの独自性は十分に発揮されているとは言い難い。ストラヴィンスキーの新古典主義は、原素材の編成やコンテクストを置き換える過程が面白いが、抽象度の高いこの編成では十分に機能しない。彼は最終的に、戦後前衛の点描書法まで取り扱うようになったが、この編成で扱った対象ははるかに狭いことが傍証になる。バルトークの場合も、ピアノの打楽器書法ではカウエルら、「夜の音楽」ではドビュッシーらとの本質的な差異は見出せない。こちらはストラヴィンスキーの場合とは反対に、元々抽象的な素材では「抽象化力」が発揮されないのだろう。

c0050810_2137586.gif だが、彼らがモダニズムに目覚める以前の最初期の作品から、従来は副次的だと顧みられなかった作品まで、一晩で網羅的かつ年代順に聴き進めることで、新たに見えてくるものがあるのではないだろうか? POCシリーズの全曲演奏主義にはそのような狙いがあり、戦後前衛を代表する作曲家たちの場合には大きな成果を挙げてきた。今回のプログラムでは、ストラヴィンスキーとバルトークに関して、このシリーズならではの発見が特に期待される。

 最後に、誰にとっても意外であろう、ソラブジ《オプス・クラヴィチェンバリスティクム》全曲。前衛の時代が過ぎた後、かつての「前衛弾き」たちが続々と挑んだことも手伝って、アルカン作品やゴドフスキ編曲版など、所謂「体育会系」ピアノ曲愛好家たちの間でカルト的な人気を集めている。ただし、この5時間近い規模ですら、このピアニスト=作曲家の創作歴の中では、「中程度の長さのまとまりの良い曲」なのだが。

c0050810_2138154.gif この作品が、直接的に「戦後前衛の源流」のひとつとみなせるのかどうかは疑わしい面もあるが、ピアニスト=作曲家が、退嬰的とまでは言えないが前衛的とも言えない、演奏家として慣れ親しんだ語法で即興的な手癖を交えて長大かつヴィルトゥオジックな作品を量産することは、戦後前衛を経たポスト前衛の時代の見慣れた風景ではある。ジェフスキしかり、フィニスィーしかり。大井は最近、ジェフスキ《「不屈の民」変奏曲》もレパートリーに加え、「源流」に挑む良い時期ではある。

 ただしソラブジは、ブゾーニの薫陶を受けたJ.S.バッハをリスペクトする作曲家であり、この作品の表題は『チェンバロ風の鍵盤作品』を意味することは、ピアニスト=ソラブジの後期ロマン派的な手癖も手伝って、必要以上に忘れられていたのかもしれない。作曲家=ソラブジがこの作品で意図していたのは、新即物主義を背景にしたモダニズム版《フーガの技法》だったのではないだろうか? POCシリーズの目的は、古楽奏法を通じてクラシックレパートリーの真価を引き出した体験を通じて、作曲家自身も気付いていない現代作品の真価を引き出すことだったのを、いま一度思い出そう。
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# by ooi_piano | 2017-01-29 15:01 | POC2016 | Comments(0)

c0050810_7485570.jpg【ポック[POC]#30】
2017年1月22日(日)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)

【予約/お問合せ】 
合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
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c0050810_3141715.jpgイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):
ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演) 28分
  I.Allegro - II. Scherzo, Vivo - III.Andante - IV.Finale. Allegro
四つのエチュード Op.7 (1908) 8分
  I. Con moto - II. Allegro brillante - III. Andantino - IV. Vivo
ペトルーシュカからの3楽章(1911/21) 15分
  ロシアの踊り - ペトルーシュカの部屋 - 謝肉祭
交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、東京初演) 21分
  故宮の祭礼 - 二羽の夜鶯(本物の夜鶯と機械仕掛けの夜鶯) - 皇帝の病気と快気

 (10分休憩)

大蔵雅彦(1966- ):《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演) 4分
イーゴリ・ストラヴィンスキー:11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版) 4分
《兵士の物語》による大組曲(1918)(作曲者による独奏版、日本初演) 25分
  I.兵士の行進 - II.兵士のヴァイオリン - III.王の行進曲 - IV.小コンセール - V.3つの舞曲(タンゴ/ワルツ/ラグタイム) - VI.悪魔の踊り - VII.コラール - VIII.悪魔の勝利の行進曲
ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) 3分
管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、東京初演) 8分
コンチェルティーノ(1920)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 6分

 (10分休憩)

八重奏曲(1923)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 16分
  I.シンフォニア - II.主題と変奏 - III.終曲
ピアノ・ソナタ(1924) 9分
  I. - II. Adagietto - III.
イ調のセレナード(1925) 12分
  頌歌 - ロマンス - ロンドレット - 終止曲
タンゴ(1940) 3分
仔象のためのサーカス・ポルカ(1943) 4分




大蔵雅彦:《where is my》 (2016、委嘱新作)
  本作はかつて現実に存在した音のみを使って生成された現実に重ねあわせるためのCメジャーペンタトニックスケールとその派生物からなるブルース尺度構造物であり、習慣的動作=手癖を取り除くためにMIDIシーケンサー上でステップ入力により作曲された。いくつかのパートではX軸とY軸の入れ替えと混同の手法が使用されている。(大蔵雅彦)

c0050810_315399.jpg大蔵雅彦  Masahiko OKURA, composer
  リード奏者、作曲家。1966年生まれ。1993年より中里丈人とのテクノイズ/ダブユニットDub Sonic Warriorで都内のクラブ、ライブハウスを中心に演奏活動を開始。以降アルトサックス、クラリネット類、自作楽器での即興演奏の他、Gnu(1998~ Reeds+Bassx2+Drumsx2編成のパズルジャズ/ファンク/ロックバンド)、室内楽コンサート(2006~2011 杉本拓、宇波拓との共同企画による作曲シリーズ)、 石川高、ジャン=リュック・ギオネとの即興トリオ(2007~)、Active Recovering Music (2013~ スライドホイッスルアンサンブル)、They Live(2016~ 宇波拓とのダークアンビエントデュオ)などで活動。USBメモリーレーベルNo Schools Recordings主宰(2015~ )。 https://soundcloud.com/masahiko-okura https://soundcloud.com/no-schools-recordings



ストラヴィンスキーの全体像───野々村 禎彦

c0050810_317031.jpg イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) はサンクトペテルブルクを代表するオペラ歌手を父とし、少年時代からピアノ演奏を中心に音楽に親しみ、同地の芸術サークルに加わった。帝政ロシアはフランス文化圏に属し、アカデミズムはフランス同様保守的だったが、民間芸術サークルを通じてフランクやドビュッシーの小編成作品には触れることができた。在野の運動として始まったロシア五人組もこの時期にはアカデミズムの一翼を担っており、彼はむしろチャイコフスキーを好んだ。ただし、両親は息子が堅実な人生を歩むことを望み、サンクトペテルブルク大学法学部に進ませた。

 だが、彼の音楽への情熱は止まず、独学で作曲を始めると、友人を通じてリムスキー=コルサコフと知り合い、ピアノソナタ(1903-04) から本格的に指導を受けるようになった。師は音楽院の教授だったが、年長で独立心旺盛な(対位法を独学で身に着けるほどの)彼は音楽院には向かないと判断し、1908年に世を去るまで個人指導を続けた。泰西名曲や自作のピアノ草稿を管弦楽化させ、自分の仕上げと比較して玄人芸を学ばせる独特な教授法も水に合い、交響曲第1番(1905-07) を作品1と定めるまでに成長した。《花火》(1908) や《4つの練習曲》(1908) は修業時代を締め括る作品という位置付けになるが、ディアギレフは《花火》の初演に接してこの新進作曲家に注目し、立ち上げたばかりのバレエ・リュスの新作として《火の鳥》(1909) を委嘱した。

c0050810_3182612.jpg 《火の鳥》の成功は、ロシア民謡に取材した素材の新鮮さも理由のひとつだが、彼はバルトークのような組織的・科学的収集を行ったわけではない。この路線を継いで《ペトルーシュカ》(1910-11) を書いたが、両作の間の飛躍は大きい。複調の使用や不協和音の多用といった書法レベルでの変化もあるが、それ以上に持続の作り方が土台から変わっている。この飛躍の契機はドビュッシーとの直接の出会いだった。ロシアはバルトークのハンガリーよりは文化的に進んでおり、彼はドビュッシーの音楽を修業時代から知ってはいたが、《火の鳥》初演の晩にドビュッシーの方から彼を訪れ、新作を最初に見せて作曲の背景や秘密まで共有する、親密な個人的交流が終生続いた。

 《ペトルーシュカ》はドビュッシーにも刺激を与え、バレエ・リュスの委嘱で《遊戯》(1912) が生まれた。この曲の全面的な形式の自由は同時代には理解されず、約50年後に総音列技法が行き詰まり、ヨーロッパ戦後前衛の作曲家たちが打開策を探る中でようやくドビュッシーの真意が理解されたわけだが、同じシリーズの次の演目が《春の祭典》(1910-13) だったために、そのインパクトの陰に埋もれてしまったことも大きい。不協和音を一見不規則なリズムで打楽器的に叩き付ける書法は強烈で、前期ストラヴィンスキーの作風はしばしば「原始主義」と呼ばれてきた。

c0050810_3185887.jpg 彼は《春の祭典》と並行して、ふたつの実験的な作品を書いた。極めて無調的なカンタータ《星の王》(1911-12) を献呈されたドビュッシーは衝撃を受け、「プラトンの言う『永遠なる天体のハルモニア』のような非凡な音楽……我々の住む星ではまだ地の深みに埋まったままだろう」と返信した(実際、初演は1939年)。またシェーンベルク《月に憑かれたピエロ》(1912) の初演を聴いて、《3つの日本の抒情詩》(1912-13) で応えた(この試演を聴いたラヴェルは《マラルメの3つの詩》(1913) を書き、声と小アンサンブルという編成は小ブームになった)。いずれも「原始主義」とは程遠い音楽であり、この呼称の浅薄さは明白だ。なおブーレーズは「ストラヴィンスキーは生きている」という論文(1953) で、《春の祭典》はリズム細胞の精緻な(一見不規則に見えるほど複雑な)操作に基づいて書かれていると解き明かした。実は「原始主義」の対極の音楽だったのである。

 《春の祭典》初演の騒動は、ニジンスキーの振付によるバレエの異様さも大きな要因だったとされる。翌年の演奏会形式による上演は絶賛され、「原始主義」という誤解は長く残ったがオーケストラのレパートリーとして定着した(ただしドビュッシーは初演時点で、自身の《海》や《管弦楽のための映像》における試みを発展させた音楽だと冷静に受け止めた)。初演後程なく、私的な理由でニジンスキーがバレエ・リュスを解雇されたこともあり、バレエの再演は1920年まで行われなかった。第一次世界大戦後の資金難の中、ココ・シャネルの多額の援助で実現したマシーンの振付による上演は大成功を収め、バレエのレパートリーとしても定着した。その後も多くの振付が生まれている。

c0050810_320050.jpg 《春の祭典》を経たストラヴィンスキーは、第一幕を書いた後はバレエ・リュスの委嘱を優先して放置していたオペラ《夜鶯》(1908-09/13-14) をまず仕上げた。第一幕と第二幕の間にストーリー的にも断絶があり、音楽様式が大きく変化しても不自然ではない、という判断だった。後にディアギレフがこのオペラのバレエ化を打診すると、彼は第二幕以降の素材を交響詩《夜鶯の歌》(1917) として再構成し、バレエもそれに基づいて上演された。バレエ・リュスから毎年のように委嘱を受けるようになると、彼は大半の時間をヨーロッパ各地で過ごしていたが、《夜鶯》の初演後に久々にロシアに戻り、《結婚》(1914-17/23) のテキストとして民衆詩集を大量に買い求めたのが、祖国との長い別れになった。スイスの仕事場に戻った2週間後に、第一次世界大戦が勃発した。

 その後数年は、この時買い集めたテキストを用いた小編成アンサンブルを伴う声楽曲が創作の中心になる。その背景には亡命生活を強いられる中での望郷の念があるのは言うまでもない。《プリバウトキ》(1914)、《猫の子守唄》(1915-16)、《狐》(1916) と続く一連の作品は、ヴェーベルンの同時期の声楽曲と比肩し得る凝縮の美学を持つが(《プリバウトキ》と《猫の子守唄》はウィーンで初演され、立ち会ったヴェーベルンは彼の才能に驚嘆した)、大戦中は大編成作品の上演は困難だったという事情も大きい。この時期はバレエ・リュスも開店休業状態で、新作上演はサティ《パラード》(1916-17) のみ。ディアギレフに依頼され《結婚》もピアノ譜までは完成したが、上演の目処は立たなかった。ストラヴィンスキーは個人的な委嘱と祖国からの送金で細々と食い繫「でいたが、1917年にロシア革命が起こると祖国に残した全財産は没収され、経済的苦境に陥った。

c0050810_321591.jpg そこで彼とスイスの仲間たちが発案したのは、楽器を持ち運べる小アンサンブルのための音楽劇を作り、旅芸人のように演奏旅行することだった。ロシア民話に基づく音楽劇《兵士の物語》(1918) は3人の朗読・ヴァイオリン・コントラバス・クラリネット・ファゴット・コルネット・トロンボーン・打楽器という編成で書き上げられ、大戦末期の同年9月に初演されたが、折悪しくスペイン風邪が流行し、音楽家もスタッフもみな感染して巡業は行われなかった。彼は翌年、この企画を援助したスイスの実業家に感謝の印として《クラリネットのための3つの小品》(1919) を献呈したが、このパトロンはこの曲に加えて、《プリバウトキ》、《猫の子守唄》、《兵士の物語》トリオ版(1919) などからなる、スイス時代の彼の仕事を俯瞰する個展をスイス各地で主催することで応えた。

 《兵士の物語》は、旅芸人一座よろしく既成曲の断片の寄せ集めという体裁を持ち、まさにロシア民衆歌の時代と新古典主義の時代を繫ョ作品だが、寄せ集めた素材には当時流行していたラグタイムも含まれる。ロシア民謡を素材にした作品群で名を挙げ、スペインの酒場で耳にしたアラブ風音楽を素材に、自動ピアノのための《マドリッド》(1917) を作った作曲家だけに、黒人音楽の要素が強い新大陸発の民衆音楽には強く惹かれ、まず11楽器のための《ラグタイム》(1917-18) に取りかかり(完成は《兵士の物語》よりも後、《狐》に続くツィンバロムの使用は、ホンキートンク・ピアノの効果を模したのだろう)、アルトゥール・ルビンシュタインから名技的なピアノ曲を委嘱された機会に《ピアノ・ラグ・ミュージック》(1919) を書き、この音楽の王道編成も制覇した。

c0050810_3215012.jpg 《兵士の物語》を新古典主義の始まりと看做すかどうかは意見が分かれる。この潮流の理論的始祖はブゾーニ、音楽的始祖はドビュッシーであり、《白と黒で》(1915)、《練習曲集》(1915)、3つの室内楽ソナタ(1915/1915/1916-17) はストラヴィンスキーも通暁していたはずだ。この潮流がヨーロッパの主流になった背景は、普仏戦争以来の独墺系音楽の優位への、第一次世界大戦を背景にしたラテン諸国の反発であり、後期ロマン派~表現主義の複雑な和声を排した「古典回帰」が旗印になった。ドビュッシーの場合には、ラモーやクープランらフランスのバロック音楽への回帰だった。ドビュッシー追悼曲の拡大版である《管楽器のシンフォニー集》(1920) ではドビュッシー最晩年のこのような傾向は当然意識されている。ラグタイムやジャズのような民衆音楽を含むパッチワーク的構成も新古典主義の特徴である。それにもかかわらず、《兵士の物語》は新古典主義には含めないとする場合には、弦楽四重奏のための《コンチェルティーノ》(1920) が弦楽四重奏のための《3つの小品》(1914) と変わらぬ尖鋭的な書法を保っていることが大きな根拠になる。

 《狐》《兵士の物語》と、大戦中は自分の手の届かないところで仕事を得ていた彼にディアギレフは嫉妬していたが、新作上演が困難な中でもD.スカルラッティ/トマシーニ《上機嫌な夫人たち》、ロッシーニ/レスピーギ《風変わりな店》と、イタリアの有名作曲家の未出版曲を再構成したバレエが当たりを取ったことを踏まえ、ペルゴレージの素材を図書館で集め(ただし夭折の作曲家には偽作も多く、今日の研究ではその少なからぬ部分は同時代の他の作曲家のものだった)、それらを再構成したバレエの作曲を彼に打診した。ロシア民謡を素材にする際も、原曲を尊重するバルトークのスタンスとは対照的な、原曲を切り刻む再構成が身上だった彼にとって、かねてから関心があった後期バロックの作曲家と自由に戯れるのは魅力的な提案で、《プルチネルラ》(1919-20) が生まれた。

c0050810_3224140.jpg ディアギレフの指定通りの大管弦楽ではなく、アンサンブルを独奏者の集合体=合奏協奏曲として扱うスイス時代に慣れ親しんだ編成を用い、単なる編曲の域を超えて不協和音や複調を忍び込ませ、原素材を批評的に再構成する、新古典主義の出発点にふさわしい作品になった。彼はその後30年にわたりこの様式の延長線上で作曲したが、それ以前よりも作品の質にばらつきが出たことは否定できない。例えば、敬愛するチャイコフスキーの音楽を素材にしたオペラ《マヴラ》(1922) やバレエ曲《妖精の口づけ》(1928) は、《プルチネルラ》や盛期バロックの作曲家リュリの音楽を素材にしたバレエ・リュスのための最後のバレエ曲《ミューズを導くアポロ》(1927-28) ほどには成功していない。彼が考えていたよりも、この様式は素材を選ぶように思われる。

 個々の曲の優劣を語るのは総説としては不毛なので止めるが、総じて言えば特定の編成への最初の取り組みが最も成功しており、経験を重ねるほどにマンネリ化する傾向がこの様式では目立つ。積み重ねによる深化が期待できない、マンガで言えばギャグマンガのような様式であり、クラシック音楽の常識は通用しない。《プルチネルラ》の初演直後にフランスに移住した彼は、1939年9月にハーヴァード大学客員教授着任を機に第二次世界大戦勃発直前のヨーロッパを離れ、そのまま米国に亡命した。この際の講義録は『音楽の詩学』としてまとめられており、そこで強調されているのは対位法の重要性とロマン主義(ヴァーグナーに仮託された)の不純さへの非難だが、この理念と彼の新古典主義のあり方には齟齬があるのではないか。彼の新古典主義における対位法は、即興的な機知を発揮する枠組として機能し、ロマン主義的な素材はこの速度に感情の錘を付けるためにそぐわない。

c0050810_3233648.jpg 特に米国亡命後の作品ではこの矛盾が露わになる。大編成の「代表作」ほど音楽は堅苦しくなり、彼の創造性は、《サーカス・ポルカ》(1942)、《オード》(1944)、《エボニー協奏曲》(1945) のような作品表の隙間を埋めているかに見える小品に専ら表れている。ただし、彼の新古典主義の時期を真に代表するのは、フランス時代は《詩篇交響曲》(1930)、米国時代は《ミサ曲》(1944-48) という、同時期の他作品とは隔絶した宗教曲である。これらの作品は、『音楽の詩学』で示された理念との矛盾はないが、新古典主義に拘る必然性も感じさせない。彼の法的な身分ははスイスに亡命した1914年から米国市民権を得た1945年まで、フランス市民権を得た1934年以降数年以外は常に亡命ロシア人であり、著作権法的に不利な立場にあったので当座の生活費が必要だったという理由付けも可能かもしれないが、それだけでは困窮していたスイス時代の作品の質の高さは説明できない。

 新古典主義時代を締め括る大規模なオペラ《蕩児の遍歴》(1948-51) を書き上げると、彼はこの様式ではこれ以上書き続けられないと判断し、『音楽の詩学』の理念をより純粋に実現すべく、ルネサンス音楽の対位法を研究し始めた。程なくシェーンベルクが逝去し、個人的な確執から遠ざかってきた12音技法を忌避する理由もなくなった。1948年から助手を務めた指揮者のロバート・クラフトは、当時の米国における現代音楽の伝道師であり、彼を通じて新ウィーン楽派の作品を多く知った。なかでもヴェーベルンの音楽は、表現主義の身振りを残すシェーンベルクとも後期ロマン派的素材を新古典主義的に処理したベルクとも違い、ルネサンス音楽の対位法に根ざした、彼の理念を体現した音楽だった。当時の米国にはバビットのような独自のセリー主義者が現れ、カーターやセッションズも新古典主義から12音技法に転じ、コープランドまで12音技法を使い始めていた。

c0050810_3263011.jpg ただし彼は、同時代の流行として性急に12音技法を取り入れるのではなく、《ミサ曲》より先に進むための手段として、ゆっくりと身に着けていった。まず《カンタータ》(1951-52) では主題をセリーのように扱い、《ディラン・トマス追悼》(1954) では旋法的5音音列でセリー操作を行い、《カンティクム・サクルム》(1955) でようやく12音音列を用いた。彼が求めたのは厳格な対位法であり、オクターブの12音を均等に扱って調性感を消すことは目的ではなかった。最終的に12音音列に落ち着いたのは、6×2、4×3などのより細かいグループ化が可能で、構造化に都合が良かったからである(この点もヴェーベルンに倣っている)。この意味で、バレエ曲《アゴン》(1953-57) には特に注目したい。作曲年代から想像される通り、新古典主義的な素材と12音音列に基づいた素材が混在しているが、両者は全く矛盾なく一体化しており、12音技法は彼の血肉の一部になった。

 米国実験音楽は彼の眼中にはなく、ブーレーズやシュトックハウゼンとしばしば会って戦後前衛の動向を知ろうとした。ピアノと管弦楽のための《ムーヴメンツ》(1958-59) は、彼のテクスチュアが最も戦後前衛に近づいた瞬間である。同時期の作品表には宗教的作品が並び、静的な対位法構造を着実に築き上げた。だが彼はそれだけでは満足せず、TV用オペラ《洪水》(1961-62) で《アゴン》のダイナミズムを取り戻すと、管弦楽のための《変奏曲》(1963-64) では12声部の対位法の極致と彼らしい運動性が交錯する「20世紀で最も密度の高い音楽」(フェルドマン)を実現した。最後の大曲《レクイエム・カンティクルス》(1965-66) はもう少し落ち着いた調子で、セリー時代の創作を総括している。70歳から新しい語法に取り組み、創作歴の最後がピークになるのは並大抵のことではない。「彼の晩年は、ブラームスのように豊かだった」(シュトックハウゼン)。

c0050810_3272797.jpg 彼の歩みは20世紀音楽の歴史そのものであり、彼の「後世への影響」を議論することには意味がない。彼の後半生の理念を彼以上に体現した作曲家がヴェーベルンであり、戦後前衛の歴史はヴェーベルンの先に続いている。彼が米国実験音楽には全く関心を示さなかったのは、20世紀音楽の歴史を彼とケージに集約する上ではむしろ都合が良い。複数の音楽様式にまたがって活動を続ける中で、50年以上世界の第一線に留まった作曲家は、20世紀ではこのふたりだけである。



【関連公演】
СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ ~二台ピアノによるストラヴィンスキー傑作集~
2016年9月22日(祝・木) 浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ

ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)ストラヴィンスキー:魔王カスチェイの邪悪な踊り
プロコフィエフ:邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り
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# by ooi_piano | 2017-01-05 00:02 | POC2016 | Comments(0)