7/2(日) シベリウス交響曲第6番・第7番・「タピオラ」(ピアノ独奏版)


by ooi_piano
承前

c0050810_6424469.gif 最も本質的な「先駆者」は、その音楽に触れた途端に後継者たちの音楽が一変し、一流の作曲家が誕生するような存在だろう。20世紀においてドビュッシーはまさにそのような位置にあり、今回のPOCシリーズは、アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを通じてそれを確認する場でもある。そのような奇跡が、存命中にほぼリアルタイムで相次いで起こったのは凄まじい。これは機能和声の限界が露わになった時代に、音組織の革新がただちに啓示を与えたということだが、死後半世紀近くを経て総音列技法の限界が露わになった時代に、今度は音色の漸進的変化を推進力にした形式の自由という側面が注目され、トーン・クラスターに基づく直観的構成という新たな潮流を生んだ。

 バルトークの影響はそこまで即時的ではなく、広範な影響は専ら彼の死後に現れたが、これは彼が作曲家として活躍した時期は戦間期の享楽主義がファシズムの台頭で一変した(両者はコインの裏表であり、世界大恐慌を契機に反転したに過ぎない)時期だったという時代背景も大きい。第二次世界大戦終結までは、新たな音楽的探求が行われる余裕はなかった。また、揺籃期には新しい動きは即座に注目されるが、安定期にはわかりやすい看板がないと認知には時間がかかる。ドビュッシーの場合も、彼のより本質的な特徴が周知されるまでには半世紀近い時間を必要とした。

c0050810_64401.gif バルトークの音楽は普遍性志向で特徴付けられるが、普遍的なものはパーツを取り替えれば幅広く応用できる。バルトークが作曲の素材にした民謡はハンガリー周辺のものに限られるが、その方法論は普遍的なので影響は世界各地に広がった。日本民謡を素材にした間宮芳生《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は国際的にもその代表であり、狭義の民謡に留まらない間宮の関心は、同時期にベリオらが始めた前衛的な声の技法探求の中でも色褪せない強度を持っていた。また、他の方法論との組み合わせも応用の一種であり、柴田南雄は同じく日本民謡を素材にしながら、シアターピースの手法と組み合わせることで、《追分節考》(1973) に始まる代表作群に至った。

 このような面でバルトークの遺産を最も巧みに利用した作曲家が、同国人リゲティに他ならない。ハンガリー時代の《ムジカ・リチェルカータ》(1951-53) と《ミクロコスモス》、弦楽四重奏曲第1番(1953-54) とバルトークの第2番の関連は既に明らかだが、西側亡命後は置き換えと組み合わせの妙を駆使して、バルトークの音楽を前衛の最前線に生まれ変わらせた。《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の第1楽章を半音階堆積に圧縮したのが、リゲティ流トーン・クラスターの「ミクロポリフォニー」書法であり、バルトークの弦楽四重奏曲第4番をミニマル音楽などの同時代の語法を導入して換骨奪胎したのが、リゲティの第2番(1968) である(全5楽章の性格まで対応している)。後期バルトークは民謡分析を精密化する過程で、自作でも微分音程を使うようになったが、《マジャール・エチュード》(1983) 以降のリゲティも、米国実験音楽の純正律探求も横目に見ながら音律探求を深めていった。

c0050810_64533.gif 総音列技法が特権的な地位を占めていた戦後前衛前半には、弦楽四重奏のような「因襲的な編成」は忌避されたが、トーン・クラスター様式の台頭とともにこの傾向も見直され、この様式を主導したポーランド楽派の作曲家たち=ペンデレツキ(1960, 1968) やルトスワフスキ(1964) が弦楽四重奏曲でモデルにしたのもバルトークだった。またポール・グリフィスがバルトーク伝で指摘する通り、一見バルトークと縁遠そうな総音列技法を代表する作曲家たちも例外ではない。シュトックハウゼンの前期代表作《コンタクテ》(1959-60) のピアノと打楽器を伴う版の楽器法は、学位論文で分析した《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》の記憶の賜物であり、ブーレーズが活動の中心を作曲から指揮に移した後の《エクラ/ミュルティプル》(1965/70) や《レポン》(1981-84) の楽器法は、指揮者ブーレーズの重要レパートリー《中国の不思議な役人》や《弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽》の子孫である。

 ここまでは、特定の曲を参照した事例だが、クラシック音楽の伝統の根幹に直結したバルトークの場合には、別種の影響関係もある。前衛の時代が終わり、伝統の参照が禁忌ではなくなった時代に、それでも前向きに作曲を進める中から時代を代表する作品は生まれてくるが、その発想の原型は既にバルトーク作品に見られる、という事例が増えてくる。弦楽四重奏曲では特に顕著で、クセナキス《テトラス》(1983)、ラッヘンマン第2番(1989)、グロボカール《ディスクールVI》(1981-82)、シュニトケ第4番(1989) という、80年代を代表する作風が全く異なる4曲は、各々バルトーク第3・4・5・6番のヴァリアントとみなせる。あるいは、80年代を代表する弦楽四重奏曲でバルトークへの紐付けが難しいのは、フェルドマン第2番(1983) とW.リーム第6番(1984) 程度である。

c0050810_6455854.gif この種の議論はアナロジーの罠にすぎないかもしれないが、前衛の時代を代表するピアノ曲であるブーレーズの第2ソナタをベートーヴェンのソナタ第29番に、バラケのソナタを第32番に結びつける議論が可能ならば、バルトークの弦楽四重奏曲でも同様の議論は可能だろう。人間が想像し得る類型には限りがあり、それをほぼ尽くした創造者には、ジャンルによらずこのようなことは起こり得る。この側面からも、バルトークを「3大B」のひとりに数えることには本質的な意味がある。




クルターグ+リゲティ/バルトーク:三人の作曲家の生地を巡る(注1)───伊東信宏

c0050810_6251269.jpg  最初に、タイトルに挙げた三人の作曲家の生没年を確認してみよう。クルターグ・ジェルジ Kurtág Györgyは一九二六年生まれで現在フランス在住、リゲティ・ジェルジLigeti Györgyは一九二三年生まれで二〇〇六年にウィーンで亡くなり、そして一世代上のバルトーク・ベーラBartók Bélaは一八八一年生まれで一九四五年にアメリカで亡くなっている。三人とも各々の世代において世界的に見ても十本の指に入るくらい重要な作曲家であった、と言ってよい。クルターグとリゲティは第二次世界大戦後、バルトークに師事したくてブダペストのリスト音楽院の作曲科を目指したのだが、ちょうど彼らの入学試験の日にバルトークがアメリカで亡くなったという報せがハンガリーに届き、音楽院には弔旗が掲げられていた、というから、この三人が一堂に会したことはない。ただしバルトークが、この二人の作曲家に与えた影響は計り知れない。それはたとえばリゲティが学生時代に書いた「行進曲」という連弾曲を一瞥するだけでも明らかだろう。この曲は、バルトークの『ミクロコスモス』第六巻第一四七番「行進曲」に不気味なほど(注2)似ている。クルターグも事情は似たようなもので、彼の初期の大作、ヴィオラ協奏曲などは、バルトークの管弦楽曲そっくりの響きがする。パーソナリティの点では、あるいはクルターグの方こそバルトークにより親和性があり、より決定的な影響を受けたと言えるかもしれない。しかもクルターグとリゲティは、学生時代以来、無二の親友だった。彼ら相互の影響も大きい(注3)。この三人の音楽的影響関係というのは、一冊の本のテーマにもなるような問題であり、今ここで深く立ち入ることはできない。ただ三人ともハンガリー語を母語とし、同じブダペストの音楽院出身であり、二〇世紀ハンガリーを代表する作曲家ということになっているのに、その生地はハンガリーではなく、現在の地図で言えばルーマニアにある。ここで述べようとしているのは、その三つの生地を巡った旅(二〇一〇年の夏)に関する雑記である。
  三カ所ともルーマニアの北西部にあり、それほど離れていない。まずは筆者にとってもなじみのあるハンガリーのブダペストに入り、東駅発のECで国境を超えてトランシルヴァニアの中心都市、クルージ・ナポカへ。そこで案内をお願いしたT君(彼は当時ブカレスト大学の学生だった)の車で、東からトゥルナヴェニ(リゲティの生地)、ルゴジ(クルターグの生地)、そしてサンニコラウマレ(バルトークの生地)と回って、オラデアでまたブダペスト行きの列車を捕まえる、という旅である。


1 リゲティの生地:トゥルナヴェニ(ディチョーセントマールトン)

  リゲティの生地トゥルナヴェニは、クルージから見ると南東の方向に約百キロほど。リゲティが生まれる数年前まではハンガリー王国(正確に言うと、オーストリー=ハンガリー二重帝国の中のハンガリー王国側)の領土であり、ハンガリー語ではディチョーセントマールトンと呼ばれていた。街と言っても人口2万6千人。メインストリート1本とそれに交差する何本かの道で終わってしまう、小さな町だ。
  実は、リゲティの生まれた家が正確にどこにあるかについては、あまり情報がなかった。ほとんど唯一の手がかりは、以前に見た「ジェルジ・リゲティ・ポートレート」(M・フォラン監督、一九九三年)という映画である。この映画の中で、リゲティが自分の生まれた場所を撮ってきた映像を見入る、というシーンがある。そこに、たしかシナゴーグらしき建物が写っていたのだが、とりあえずそれだけをたよりに町を探ってみよう、というのが出発前のいい加減な方針だった。クルージからは、車で行けば1時間ほどで着いてしまう。
c0050810_452433.jpg  さて、町に着いたが、どうしよう?実は、リゲティほどの世界的人物なのだから、いくらユダヤ系でハンガリー語が母語であった(つまりルーマニア側ではなくハンガリー側の人間だった)とはいえ、この町が生んだ人物として、記念館とは言わないまでも多少は顕彰したりしているか、と思っていたら、これはほとんど見込みがなさそうだ。町行く人に尋ねてみるが、反応が悪い。現代音楽の作曲家のことなんて知るわけないじゃないか、という顔をされる。やはり手がかりはシナゴーグしかない。と思って、今度はかつてこの町にシナゴーグがあった場所を知らないか、と聞いてみる。何人目かのおばさんが、ああ古い教会ならその建物の陰にあるわよ、と車を停めたすぐ向かい側のビルを指す。通りに面して建っているのは殺風景なアパートみたいな建物だが、その開口部から向こう側を見ると、確かになにやらそれらしき建物がある。だが、偶然車を停めた場所のすぐ前だなんて、トランシルヴァニアでそんなに調子の良く話が進むはずがない、と思って半信半疑でそのいわくありげな建物の方に近寄って行くと、今まさにその門を閉めて、そこから帰ろうとしているおじさんがいる。そのおじさんに、この建物は昔のシナゴーグか、と聞くと「イエス」。それではこの近くにリゲティという作曲家が生まれた家があるのではないか、というと、ちょっと目の色が変わってきて「そのとおり」。実は日本から、そのリゲティの生家を見たいと思って来たのだ、というと、おおそれならこの建物の中に少し資料があるから一度入って見て行きなさい、と言っておじさんは改めて鍵を開けてくれた。おじさんは、この建物の管理者で、草刈りをすませて、今まさに帰ろうとしていたところだった。幸運だった。
c0050810_4533087.jpg  さて、そのおじさんにしたがって、薄暗い建物に入れてもらい、二階のバルコニーのようなところに登ると、壁一面に古びた新聞記事や写真が貼ってあり、そして民族衣装や古い道具などが置いてある。それから祭壇らしきものが一揃いあって、これはこの建物がかつて教会として使われていたときには一階にしつらえてあった、とのこと。今は文化会館のようなものとして使われているので、祭壇は今のところここに置いてあるらしい。いつかちゃんと復元したいと思って置いてあるのだそうだが、このうらぶれた建物を見ていると、そういう日が来るのかどうか、ちょっと心もとない。
  しばらくおじさんの演説を聞く。すぐそばに居て聞いているのに、おじさんは建物中に響き渡る大声で説明してくれる。が、ルーマニア語なので、T君が小さな声で英語に訳してくれる。T君が訳し終わるのを待ちきれずに、おじさんはますます大きな声で大汗をかきながら説明してくれる。そのやりとりの方が面白くて話はあんまり頭に入ってこない。
  町には、世紀転換期には八〇〇ものユダヤ人の家族が住んでいたらしい。一九一〇年当時のこの町の人口は4千4百人程度、というから、そこから考えるとかなりの比率である。先にも述べたように、その頃、トランシルヴァニアは、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー側に属していたから、人口はハンガリー系、ルーマニア系、ゲルマン系、ユダヤ系などの人々から成っていたはずだが、町の中心部の商店はほとんどすべてユダヤ人たちが経営していた。リゲティのお父さんは、銀行の支店長だったのだから、こういう商人たちを相手にしていた、ということになる。
  その後、第一次大戦を境に町はルーマニア領となり、その後のユダヤ人迫害で町のユダヤ人社会もほぼ壊滅し、一九八五年、ついに最後の四人のユダヤ人達が町を去って、この町のユダヤ人人口はゼロとなった。おじさんは、そのことを伝える新聞記事を見せてくれる。だからおじさん本人はユダヤ教徒ではない。この建物の前に建っている殺風景なビルは、社会主義時代のもので、シナゴーグを大通りから見えなくするために建てられた、とのことだ。ちなみにリゲティ自身は、六歳までこの街に暮らし、その後クルージに引っ越している。
c0050810_4544066.jpg  リゲティの生家は、このシナゴーグの隣の隣。今は別の人が住んでいるらしい。それが分かったからといって、どうというわけではないのだが、ただ彼自身の主張を鵜呑みにして、彼の幼年時代がユダヤ教やユダヤ文化と全く無縁だった、と言って良いのかどうか、ちょっと疑わしくなった。
  帰り道、この町のかつての住人だったユダヤ人たちのお墓がある、というので町の墓地を探してみる。人口数万の町の墓地にしてはやけに広大である。いろんな人にたずねて、T君と汗だくになって、墓地を駆け回るが見つからない。あまり手入れする人もないらしく、道もついていないし、やけに高低差がある。墓石を踏み台にして(バチ当たりなことだけれど)、ほとんど道なき道をよじ登ったが、ついにユダヤ教徒の墓地は見つからなかった。



2 クルターグの生地:ルゴジ

  続いてクルターグの生地ルゴジ。ここもかつてのハンガリー領で、その頃の名はルゴシュ。クルージから、今度は西の方向に約二七〇キロ。車で4時間以上かかる。ちなみにドラキュラを演じて有名になったベラ・ルゴシは、この街に生まれたハンガリー系の俳優で、苗字ルゴシは街の名から取られた芸名である。
c0050810_4554545.jpg  今回は、降矢美彌子さんの紹介で、案内してくれるコンスタンティン・スタンさんが居るので、生家を探したりする必要はない。街の中心部で、スタンさんと落ち合う。会った途端、まずは街の歴史的建物を案内しよう、とスタンさんは先に立って歩き出す。エネスクが客演したという劇場、由緒正しいホテル・ダキアなど。街の中央にティミシュ川が流れていて、かつてその右岸はルーマニア側ルゴジ、左岸はドイツ側ルゴジと呼ばれた。二〇世紀はじめには街の人口はルーマニア系、ハンガリー系、ゲルマン系がほぼ三分していたが、第一次大戦後はルーマニア領となって、ルーマニア系が優勢になり(クルターグが生まれたのはこの頃である)、現在では3万8千人の人口の9割近くをルーマニア系が占めている。川にかかる橋の両側には綺麗に花が植えられており、なかなか瀟酒な街だ。街並は、前述のトゥルナヴェニに比べるとずっとしっかりしており、十八、十九世紀頃の建物に混ざって、世紀末のアールヌーヴォー風の建物も見える。
c0050810_457712.jpg  次に向かったのが、クルターグの生家。今は人手に渡っていて中は見られなかったが、門の上には扇型の模様が彫られており、メノーラー(七枝燭台)を表しているようだ。つまり、この家がかつて、ユダヤ教徒の手によって建てられたものであることははっきりしている。後でクルターク家の墓も見せてもらったが、この墓地は門にダビデの星が描いてあるかなり本格的なユダヤ人墓地であり、墓にもヘブライ文字が彫られていた。ちなみにクルターグ本人は、子供の頃に将来を慮った両親によってキリスト教に改宗しており、ユダヤ教徒ではない。
  その後、クルターグ家が移り住んだ家も見せてもらった。こちらも人手に渡っているのだが、スタンさんがあらかじめ連絡してくれていたので、中にも入れてもらえた。中庭のある立派な家で、なかなかの資産家だったようにも思われる。
c0050810_4575728.jpg  この街でとりわけ美しい邸宅(日本で言えば、最近流行のゲストハウス式の結婚式場のような華美な建物)は、最近ロマの所有になった、とのこと。ロマの中には経済的に成功して、こういう邸宅を購入する人たちがいるらしい。またこの街に来る途中の街道沿いに、突然大阪城のような不思議な大建造物が現れて驚いたのだが、これもロマの持ち家なのだ、とか。これは一部では有名で、ネットで調べてみると中に入れてもらった日本人のレポートなども見ることができる。ただ、こういう建物について説明するルーマニア人たちは極めて冷淡で、奴らは何で稼いだかわからないような金であんな綺麗な建物を買って、裏にテントを張って暮らしてるんだ、というようなことを平気で言う。ルーマニアのロマ問題は、今も深刻である。


3 バルトークの生家:スンニコラウマーレ

  そしてバルトークの生地、スンニコラウマーレ。バルトークが生まれた一八八一年当時には、ハンガリー領で、ナジセントミクローシュという名だった。このハンガリー名も、そして当時人口の4割を占めていたゲルマン系によるグロス・ザンクト・ニコラウスという名も、現在のルーマニア名も聖ニコラウス、つまりサンタクロースを指している(この街で見つかった聖ニコラウスの秘宝に由来するらしい)。ゲルマン系というのは、いわゆるドナウシュヴァーベンと呼ばれた人々で、十八世紀末にハプスブルク宮廷が奨励して、この地域に移動させた農民たちの末裔である。第一次大戦までの人口構成はゲルマン系4割、ルーマニア系3割、ハンガリー系1割といった比率だったが、上記二つの都市と同じく、ルーマニア領になってからはルーマニア系が漸増し、現在では1万2千人ほどの人口のうち、ルーマニア系が8割近くを占めるようになり、ゲルマン系はほとんど居なくなった(ハンガリー系は変わらず1割程度)。今回巡った三つの街の中では一番人口が少ないのだが、インフラはずいぶん大掛かりで、少なくとも最初のトゥルナヴェニよりは大きな街、という印象がある。人口推移からすると、先ほども述べたように、トゥルナヴェニの一九一二年における人口が4千4百人だったのに対し、ルゴジは一九二〇年で2万1千人、スンニコラウマーレは同年で1万2千人と古くから今とあまり変わらない人口を持っていた。トゥルナヴェニはこれらの中では新興都市だということがよくわかる。
c0050810_4583852.jpg  さすがにバルトークともなると、ハンガリー系であるとはいっても、いくつか記念碑めいたものがある。まず町外れにある塑像。抽象的な造形の上に、バルトークの頭部が載っており、足下にはルーマニア語、ハンガリー語、ドイツ語でバルトークの生没年などが記されている。
  また生家の建っていた場所には、プレートがあって、これはルーマニア語とハンガリー語でバルトークの生家がこの場所に建っていたことが記されている。そして街の博物館には、バルトーク記念室という常設展示があって、一応彼の事蹟を辿ることができる。彼の両親の写真からはじまり、生家の写真、学校の成績表などが掲げられている。少し面白かったのは、この地域でバルトークが行った民謡調査に関する資料で、どの村で調査を行なった、とか、どんなノートをとったか、といったことが紹介されている。しかし、概してあまり徹底性はない。ブダペストのバルトーク資料館(科学アカデミー音楽学研究所に付設されている)や記念館(彼が最後に住んでいた家)における、最先端の研究を反映したやる気満々の展示には比べるべくもない。この温度差は、もちろんこれ自体研究に値する問題だろう。
c0050810_4593668.jpg  ちなみにバルトークの父親は、この地の農業学校の校長だったのだが、バルトークが八歳の頃に若くしてなくなり、以後はやはり教師だった母親が一家の収入を支えた。彼女は条件の良い職場を求めて、当時のハンガリー王国の周辺部を点々としており、幼いバルトークも(そして彼の母親代わりとなった祖母や叔母たちも)これに伴って様々な地方都市に移り住んだ。バルトークがここに住んだのは、だから九歳の頃までのことである。
*   *   *
  これら三人の作曲家が、こういう土地で生まれ、こういう家に育った、という背景は直接何かを明らかにしてくれるわけではないけれど、彼らの創作の跡を辿っているときに彼らが「やりそうなこと」と「やりそうもないこと」との区別を判断する材料にはなってくれそうな気がする。筆者が旅しているときにアテにしていたのは、それくらいのたよりないメリットだ。彼らの作品同士の相互作用については、いつかまた稿を改めて。〔初出/『アリーナ』第16号、2013年、中部大学/風媒社、pp.302-308〕 (脚注
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# by ooi_piano | 2016-12-12 17:48 | POC2016 | Comments(0)
承前


c0050810_832549.jpg (注1)この文章は小島亮さんがいよいよ『アリーナ』編集からも引退される、と聞いて、一も二もなくお引き受けし、準備したものである。筆者が小島さんに出会ったのは、ハンガリー留学中の二十年前のことだ。その日以来、小島さんがブダペストを離れるまでの数ヶ月間、三日と空けずどこかでお会いし、強烈な印象を持った。あまりに強烈すぎて、小島さんが去った後、ブダペストが空っぽになったような気がして淋しくて仕方なかった。筆者が留学から帰ってからも、奈良で、あるいは一時小島さんが住んでいた東京の不思議なアパートで、あるいは学会で、そして予期せぬところで偶然に、お会いして、その度に硬直した日常を粉々に打ち砕くような話を聞き、心の底から楽しんだ。思えば筆者が初めて出した著作も小島さんが単身(半ズボンで)出版社に乗り込んで、話を付けて来てくれたものだった。小島さんの著作はもちろん読むたびに刺激を与えてくれた。とりわけ「セント・ラースロー病院の日々」(『ハンガリー知識史の風景』風媒社、二〇〇〇年に所収)は、一種の闘病記なのだが、それを超えてなぜかあのブダペストの空や風を思い出させてくれて、おもわずハンガリーに帰りたくなる。稀代の名エッセイだと思う。書きたいことが溢れてきて、文脈が乱れているが、それほど筆者は小島さんに魅せられ、影響を受けたのだ、と思っていただきたい。そしてそういう経緯があるにも関わらず、このような小論しか準備できなかったことを恥じるばかりである。小島さんが、今後もますます縦横無尽に活躍されますように。
 なおこの雑記のうち、リゲティに関する部分については、すでに雑誌『奏』や『コンフリクトのなかの芸術と表現:文化的ダイナミズムの地平』(大阪大学出版会、2012年)に発表した文章と重複していることをお断りしておく。

 (注2) 「不気味なほど」というのは、リゲティがバルトークの作品を知らずに書いた、と述べているからである。つまり、若い頃のリゲティはあまりにもバルトークの書法を自らのものとしていたので、自分の作品として書いたはずのものが、バルトークの未知の曲そっくりだった、ということを後から知って驚いた、というのだ。György Ligeti, Gesammelte Schriften, Band 2(Veröffentlichungen der Paul Sacher Stiftung Band 10,2) , hrsg. Monika Lichtenfeld, Schott, 2007, S.141.

 (注3)この事情については、クルターグがリゲティとの思い出について書いた次の小文が絶好の案内となろう。György Kurtág, ”Mementos of a Friendship: György Kurtág on György Ligeti”, in György Kurtág: three interviews and Ligeti homages, ed. by Bálint A. Várga, University of Rochester Press, 2009, pp.89-114.

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# by ooi_piano | 2016-12-10 16:48 | POC2016 | Comments(0)
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c0050810_723323.jpg大井浩明 POC[Portraits of Composers] 第27回~第31回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs》
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
チラシ表側(pdf)  チラシ裏側(pdf)


【ポック[POC]#28】 2016年11月23日(水・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン

■チャールズ・アイヴズ(1874-1954): スリーページ・ソナタ(1905) 約8分
  Allegro moderato - Andante - Adagio - Allegro / March time

■チャールズ・アイヴズ:ピアノソナタ第1番(1902/09)  約45分
  第1楽章 Adagio con moto - Andante con moto
  第2楽章 Allegro moderato (第1節 [IIa]) - Allegro 「宿の中で」(第2節 [IIb])
  第3楽章 Largo - Allegro
  第4楽章 (Allegro) [IVa] - Allegro/Presto [IVb]
  第5楽章 Andante maestoso - Allegro
  
 (休憩15分)

■藤井健介(1979- ):《セレ Sèlèh》 (2016)(委嘱新作・世界初演)  約4分

■チャールズ・アイヴズ:ピアノソナタ第2番《マサチューセッツ州コンコード 1840~1860年》(1909-15) 約45分
  第1楽章 〈エマスン〉
  第2楽章 〈ホーソーン〉
  第3楽章 〈オルコット親娘〉
  第4楽章 〈ソロー〉


藤井健介:《セレ Sèlèh》 (2016)
c0050810_12121846.jpg  アンサンブルのための近作で私は、自律的に動く複数の線をまずは同居させ、それから衝突を調整し、全体の辻褄が合う道を探るという作曲方法を試している。具体的には、独奏曲のように1つの声部を始めから終わりまで作り、終われば次の声部を別個に作り、重ね、調整する、という方法である。ある声部を作る際にはコンピュータでループレコーディングを行いながら、実際のテンポで鍵盤を弾き、「納得のいく動きが作れるまで」MIDIデータの録音を行う。これは、ある“調子”や“節”を共有する人々による架空の民族音楽をトレースするような作曲方法かもしれない。
  本作もその作曲の延長線上にあるが、「トレース」に、より重きが置かれている。特に本作では、記譜されることのない民族音楽的なリズムの揺れを五線上の音価として定量的に記譜することで、そのグルーヴに再現性を与えることを試みた。曲中の各フレーズのリズムは、ジャワガムランのなかでも形式が同じ数曲の音源をコンピュータで解析して音のアタックを検出し、得られた特徴的な連なりを抽出・再構成することで作られている。つまり本作はガムランにおけるある奏法の「訛り」の標本化でもある。西洋式記譜のグラフ上にマッピングされたそれらは視認し難く、演奏困難だが、正確であればあるほど、Tempo rubato や Senza tempo よりも複雑かつ自然な揺れとズレが聴こえてくるだろう。
  セレ Sèlèh とはガムランにおいて、4拍ごとに形成される小節のような時間単位の最終拍(4拍目)の音を意味する用語だが、今回は「辻褄合わせ」を象徴する語句として題に戴いた。ヘテロフォニーとされるガムランの音響は、1本の線から分岐した変奏の集合にも聴こえるが、実際のところ、もともと自律した異なる線がそれぞれセレへの方向感をもつことによって、最大公約数のような太い線が現れる様子に近い。(藤井健介)

藤井健介 Kensuke FUJII, composer
c0050810_12124165.jpg  1979年生。器楽の作曲、音源制作、ラップトップによる電子音即興、ジャワガムラン演奏を行う。東京音楽大学作曲科卒業、作曲を伊左治直に、ジャワガムランを佐藤まり子に師事。近作に、《Dubbing Dance Steps》(2010, vn/va/vc)、《Daphne and Violet》(2012、va/viola da gamba/cb/pf)、《Apple Symbols ttf CPY》(2015、ラップトップ即興のためのプログラム)等。演出家・小池博史とパパ・タラフマラ以来これまで長く協働し、そのパフォーミング・アーツ作品に多数参加。近年では《注文の多い料理店》《銀河鉄道》《マハーバーラタ Part 1〜3》等で作曲を担当。エレクトロ・アコースティック作品《Varfix》がジョグジャカルタ現代音楽祭の招聘作品となる。映像作家・田中廣太郎との協働によるミュージック・ヴィデオ『Varfix』でDOTMOV2010入選。「Contemporary Conversations 04」「電力音楽奉納演奏会」などでラップトップ演奏を行う。ガムラングループ「ランバンサリ」所属。邪伝説バンド「平和ボケ」ラップトップ担当。




アイヴズは、どの「戦後前衛」の先駆者だったのか ───野々村 禎彦

c0050810_12172068.jpg チャールズ・アイヴズ(1874-1954) が正式な音楽教育を受けたのは、1894年にイェール大学に入学してからだが、基礎的な教育は同年に逝去した父親のジョージ・アイヴズから受けていた。南北戦争で北軍軍楽隊の隊長を務めた父は、その後もアマチュア吹奏楽団を率い、彼は父の楽団の打楽器奏者として音楽を始めた。13歳から教会のオルガン奏者を務め、最初の作品はオルガン独奏のための《アメリカ変奏曲》(1891) である。当時の米国国歌(英国国歌《女王陛下万歳》に独自歌詞を付けたもの)に基づく変奏曲であり、賛美歌・フォスターなどの民衆歌・クラシックの泰西名曲の旋律を素材とする、彼のその後の創作の出発点でもある。

 賛美歌の伴奏がオルガン奏者の仕事、民衆歌や泰西名曲は父の趣味ということだが、,彼が父から受けた影響は大きかった。近所の吹奏楽団を集め、調もテンポも違う曲を広場のあちこちで演奏して複調・ポリテンポ・音響の空間配置等を試みていたことは名高いが、これに限らず「前衛的」とされるアイヴズの試みはすべて父譲りだという。大学で和声規則を学んで困惑する息子に「気に入らなければ守る必要はない」とすら教えた。こんな父のもとで育った彼にはアカデミズムは保守的すぎた。交響曲第1番(1898-1901) は大学卒業作品に手を加えたものだが、この程度の穏健な曲でも悪ガキ扱いされる現実を前に、「不協和音で飢えるのはご免だ」と、保険業界を生業に選んだ。

c0050810_12174287.jpg ファイ・ベータ・カッパに属する優秀なアイビーリーガーだった彼は、生業でも才能を発揮した。1907年に後輩と起業した保険会社では、1930年に引退するまで副社長を務めた。生命保険特約のセット販売相続税節税計画の設計という、現在でも保険会社のドル箱の商品を開発し、1918年には業界の古典とされる指南書も書いている。社長は後輩に任せて表舞台には立たなかったのは、起業前に心臓発作を起こした健康上の理由もあるが、天職である作曲に時間を割くためだろう。安息日の仕事である教会オルガン奏者も続け、東部諸州から呼ばれる腕前になっていたが、起業翌年に結婚(パートナーの名前はハーモニー)すると生活のリズムは一変し、オルガン奏者は引退した。

 弦楽四重奏曲第1番(1901-02) の終楽章では初めてポリテンポを試み、交響曲第2番(1897-1902) は盛大な不協和音で終結するが、それ以外の部分は大学時代の作風を引きずった後期ロマン派的なもので、これら初期作品は父の域にも達しているとは言えない、交響曲第3番(1901-04) は賛美歌に基づくオルガン曲のオーケストラ版であり、室内管弦楽のための3楽章20分程度の規模も手伝って4曲の交響曲の中では最初に初演され(それでも1946年)、翌年にピュリツァー賞を受賞したが、本領を発揮した曲ではないため演奏には立ち会わず、賞金も初演の実現に尽力し指揮も行ったルー・ハリソン(西海岸時代のケージの盟友)に手渡した。交響曲第2番は1951年にバーンスタイン/NYPが初演したが、この時も隣家でラジオ中継を聴いただけだという。

c0050810_1219283.jpg 《スリー・ページ・ソナタ》(1905) は、自ら「甘やかされた坊やを閉じこもった箱から引きずり出し、軟弱な耳を叩き出すためのジョーク」と述べており、アイヴズがアイヴズになった最初の作品と言えるだろう。旋律素材こそ初期作品と共通するが、不協和音やポリリズムの大胆さが桁違いだ。彼の作品は管弦楽曲から知られていったが、譜面の細部は矛盾の山だった。文字通りの日曜作曲家が演奏を前提とせずに書き溜めた譜面なので当然とも言えるが、全体像をソルフェージュして書いたのではなく、ピアノで一音一音探りながら書き進められたのは明らかだ(このような素人っぽさは必ずしも欠点ではなく、演奏してみなければわからないような後期作品のカオスが結果的に実現した)。その意味でも、ピアノ独奏曲にこそ彼の音楽の本質は純粋な形で表現されているはずだ。

 ブレイクスルーの後は、《宵闇のセントラルパーク》(1906)、《答えのない質問》(1908) など、彼らしい曲が次々と生まれ始める。この時期の作品では、タイトルから連想される出来事やコンセプトが極めて直接的に音楽に変換されるが、あまりに直接的であるが故に音楽的コンテクストすら剥ぎ取られ、賛美歌や民衆歌を素材にした描写音楽のはずなのに、最終結果はむしろ後期ヴェーベルンに近いような、奇妙な音楽的平衡状態が得られる。ピアノソナタ第1番(1902-09) は、この時期の特徴を煮詰めた作品。楽章ごとにひとつのコンセプトが繰り返し提示され、旋律素材は純粋な素材にすぎない(クラシックのような動機としての関連も、前衛音楽における引用のような意味付けもない)。

c0050810_1219462.jpg ピアノソナタ第1番に代表される時期と第2番(1904-15) に代表される時期(組織的・体系的な作曲を行わなかったアイヴズの場合、音楽の特徴は概ね作曲終了年代で決まる)の過渡的な性格を持つ(彼自身がそのように位置付けている)作品が、《ロバート・ブラウニング序曲》(1908-12) である。ブラウニングの他、エマーソンやホイットマンらの名を冠した序曲が並ぶ《文学者たち》という大作を構想したが、結局完成したのはこの曲だけだった。文学者の肖像を音楽で描く意図と、素材の意味性に頼らず単一コンセプトで押し通す姿勢は折り合いが悪く、強烈な不協和音があてどなく積み重なる、表現主義期シェーンベルクが錯乱したような、奇怪極まりない音楽が果てしなく続く。作曲年代は次の大作《交響曲:ニューイングランドの祝日》(1887-1904/09-13) と重なっており、新たな様式を固めて行く中で、かつての無意識の選択を意識的に振り返って完成に漕ぎ着けた。

 《ニューイングランドの祝日》は、〈ワシントン誕生日〉(1909-13)、〈戦没将兵追悼記念日〉(1909-12)、〈独立記念日〉(1911-12)、〈感謝祭と清教徒上陸記念日〉(1887-1904) の4曲からなる。幼年時代の祝日の思い出を描いた3曲に、賛美歌による若書きオルガン曲(教会オルガン奏者を始めた時期の曲)を管弦楽化した初期作品を付け加えた構成だが、各曲が伝統的な意味でのストーリーを持っているのが前の時期との大きな違いで、それに沿った形で素材の意味性を活用し、素材を変形して象徴的な意味を持たせたりしている。結果的に音楽の成り行きは伝統的なあり方に近づき、初期作品を組み込んで対比を強調することも可能になった。

c0050810_12203382.jpg この特徴は、《ニューイングランドの3つの場所》(1903-14/29)、ピアノソナタ第2番、交響曲第4番(1910-24) など、他の同時期の作品にも当てはまる。アイヴズ最晩年の再評価は初期作品に留まっていたが、大指揮者ストコフスキーは交響曲第4番こそが「アイヴズ問題の核心」であると見抜き、演奏譜の準備と練習に多くの時間と費用をかけて1965年に初演と録音を実現し、アイヴズ像を一新した。結果的に、初演がこの年までずれ込んだことが、この作品にとってはプラスになった。戦後前衛が最初の曲がり角を通過し、B.A.ツィンマーマン《軍人たち》(1957-64) やベリオ《迷宮II》(1963-65) など、重層的な引用で特徴付けられる作品が最先端とされる時期に初演されたことで、「ヨーロッパの最先端を半世紀前に先取りしていた前衛作曲家」として見直されることになった。

 当時のアイヴズ受容は、作品を要素に切り分け、トーンクラスターの使用、微分音の使用、ポリテンポやポリリズムの使用、音響の空間配置といった「前衛的な要素」のみを評価し、素朴な調性的旋律が素材の中心だという明白な事実は「時代的な限界」として見ないことにするという、これはこれで歪んだものだった。また、再評価の原点が交響曲第4番だったことで、伝統的構成感こそが音楽的成熟の結果と看做され、専らこの時期の作品が「代表作」として扱われることにもつながった。

c0050810_1221881.jpg この時期の作品でアイヴズ自身がとりわけ重要視していたのが、ピアノソナタ第2番である。超越主義を信奉していた彼だけに、主導者エマーソンを第1楽章、超越主義に強く影響された文学者たちをそれ以降の楽章:第2楽章で純文学代表のホーソーン(『緋文字』)、第3楽章で大衆文学代表のオルコット(『若草物語』)、第4楽章でエッセイ代表のソロー(『森の生活』)の名を掲げ、未完に終わった《エマーソン序曲》の素材を活用し、《文学者たち》の構想も形を変えて実現した。

 この作品の自費出版に先立ち、彼は「あるソナタの前のエッセイ」という長文の自作解説を書いているが、そこでの「エマーソンとソローの印象派風の絵画であり、オルコット家(作家とその父)のスケッチであり、ホーソーンの軽妙な部分を反映したスケルツォである」という言葉が作品の狙いを端的に示している。すなわち、両端楽章はドビュッシーの音楽の強い影響を受けており(作品全体で引用されるベートーヴェンに並ぶ頻度で言及され、意識しているのは明白だ)、第3楽章は初期作品使用枠であり、第2楽章はホーソーンがバイロン『天路歴程』のパロディとして発表した短編『天国列車』に基づくプログラム音楽に他ならない(素材の意味性を利用するこの時期ならではの趣向)。

c0050810_12215217.jpg 1918年に再び心臓発作を起こした後の彼は、初期から最新の歌曲までをまとめた《114の歌曲》を1922年に自費出版するなど、出版を目指して自作を整理する方に重きを置き始める。これ以降の作品で重要なのは《四分音ピアノのための3つの小品》(1923-24) であり、この創作経験に基づいてピアノソナタ第2番の第2楽章を管弦楽化し、四分音パッセージ等をさらに堆積させて副指揮者2人を要する難曲にまとめたのが、交響曲第4番の第2楽章である。1926年に最後の曲を書いた後は、それ以外の方法で自作を世に問おうとした。例えば1929年にスロニムスキー/ボストン室内管から委嘱を受けると、《ニューイングランドの3つの場所》の縮小編曲で応え、国内初演に加えてヨーロッパツアーを提案し、費用は自らの寄付で賄った。この時は初演にも立ち会っており、代表作と初期作品では意気込みが違うが、生前に代表作を音にする機会は限られていた。


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c0050810_12235621.jpg POCシリーズは「戦後前衛に焦点を絞った企画」だとたびたび紹介してきたが、「戦後前衛」が指し示す範囲は通常よりも広く、米国実験主義を代表するケージとその後継者としての近藤譲、及び「ポスト戦後前衛」を代表する作曲家は一通り取り上げられている。だがアイヴズは、彼らの同僚まで範囲を広げても、誰の先駆者でもない。今回のシリーズでは異端に見えるソラブジでも、ピアニストとしての手癖を交えつつ、前衛的でも退嬰的でもないが超絶技巧を駆使した作品を量産する作曲家という意味では、米国実験主義第二世代のジェフスキ(1938-) や、ファーニホウと並ぶ「新しい複雑性」の祖にあたるフィニスィー(1946-) らの先駆者と看做せなくもないのだが。

 一般には、アイヴズは米国実験主義の先駆者だと看做されているが、実際には誰とも異質である。ケージらニューヨーク楽派の本質は、理念を厳格に形にして即興性を排除する(彼らの図形楽譜は、五線譜への慣れを排除する手段である)シェーンベルク譲りの姿勢にあり、アイヴズの経験主義とは相容れない。米国実験主義の反対側を代表し、アイヴズの支援者でもあったカウエルやハリソンは、折衷主義的な姿勢においてアイヴズとは相容れない。彼が賛美歌や民衆歌を終生素材として用いたのは、それを通じて作品に社会的意味を与えるためではなく、純粋に愛していたからだった。唯一接点があるとすればナンカロウだが、アイヴズと同程度に隔絶した存在である。かつてリゲティは20世紀で真に突出した作曲家はアイヴズとヴェーベルンであり、ナンカロウは彼らに匹敵する作曲家だと主張したが、これはもうひとりは自分だと暗示するためのポジショントークに他ならない。

c0050810_12245123.jpg だが「戦後前衛」の範囲をもう少し広げ、フランク・ザッパ(1940-93) やジョン・ゾーン(1953-) のような実験的ポピュラー音楽も含めるならば、アイヴズはまさに彼らの先駆者である。彼らの音楽は多様式の混淆で特徴付けられるが、アイヴズが「前衛的」な諸語法と民衆歌をともに愛したようにザッパはヴァレーズやヴェーベルンとR&Bをともに愛し、ゾーンはカーゲルやウォーリネンとハードバップをともに愛した。彼らはみな折衷主義とは無縁だった。演奏家を通じても、アイヴズの理解者だったスロニムスキーは晩年にザッパと親交を結び、アイヴズ作品に積極的に取り組んでいるアンサンブル・モデルンはザッパ作品にも真摯に取り組んでいる。ピアニストとしてはアイヴズの権威のひとりであるステファン・ドゥルリーは、指揮者としてはゾーンのアンサンブル作品の権威でもある。POCシリーズで彼らが取り上げられていないのは、「一晩を埋める程度の鍵盤作品を書いている」という条件の問題にすぎない。今回のシリーズや芦屋での関連公演の委嘱作曲家に大蔵雅彦や中田粥が含まれているのは、このような背景があるからである。



次回予告─────────────────────────────
【ポック[POC]#29】 2016年12月23日(金・祝) 18時開演(17時半開場) 松涛サロン(渋谷区)
  ●東野珠実:《星筐(ほしがたみ) IV》(2016)(委嘱新作・世界初演)
  ●ベラ・バルトーク(1881-1945): ラプソディ Op.1 Sz.26 (1904)、14のバガテル Op.6 Sz.38 (1908)、アレグロ・バルバロ Sz.49 (1911)、3つの練習曲 Op.18 Sz.72 (1918)、舞踏組曲 Sz.77 (1925)、ピアノ・ソナタ Sz.80 (1926)、戸外にて Sz.81 (1926)、弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 〔全5楽章〕(1928/2016、米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)
  [以上、Péter Bartók(1924- )による最終校訂エディション(1991/2009)使用]
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# by ooi_piano | 2016-11-14 12:04 | POC2016 | Comments(0)