6/4(日)バルトーク弦楽四重奏曲全6曲(ピアノ独奏版)


by ooi_piano
2-c.  それでも筋肉が動いてくれない場合

c0050810_14113741.gif  2-aの条件下で2-bのエクササイズをやっても、それでも筋肉が動き出してくれない場合の、ありがちな死角・盲点・ブラックボックス、そしてその突破口について考察していきます。
  我々が怒るとき、怒りの科学的成分は90秒以内に血液中から無くなるそうです。すなわち、90秒以上怒りが持続するのは、我々自身が「怒り続けたい」と希望しているからだとか。また、岡田斗司夫氏によれば、デブというのは、デブで居続けるための努力を毎日行っている人々であるらしい。同様に、指が動かない、というのは、指を動かしたくない、と自身が希望し努力しているからに他なりません。指を動かすべく新たな指令を脳から出す必要は無く、余計な指令をやめるだけで良い。ツボに手を入れて、中にある石を握り締め、「ツボから手が抜けなくなった」と泣き叫ぶ前に、まずは石を放せば良いわけです。
   人の脳は覚えるためだけでなく、忘れるために努力もしている。赤ん坊の泣き声が理想の発声法であり、幼児の体の柔軟さが究極の身体であるとすると、我々はその理想から離れるために、日々努力を重ねて来たことになります。前は弾けていたのに、今はなぜか指が回らない、というのも、全く同じプロセスでしょう。痛みや突っ張りが発生した際、無理強いを続けることは、良き回路を忘れていく作業に他なりません。筋肉のバランシングは、いったん忘れると、取り戻すのは相当に難儀です。


●動いていても動かなくても感知不能
 
c0050810_14165689.jpg  出来るときは何も考えなくても出来るし、出来ないときは色々工夫しても動かない、というのが筋肉の厄介なところです。動かない元凶を意識の表層に引き摺りだすことが、この奏法論の当初の課題でしたが、本来は、「意識にのぼらないブラックボックス」の内部に問題点を置いたまま、余計な動作をさせないよう、じんわり変質させてゆくのが理想ではあります。
  肘を普通に曲げたとき、それは何事もなく「折れ曲がる」だけであって、片一方(内側)の筋肉が収縮して反対側(外側)は伸びている、という「実感」はありません。勝手に伸びたり縮んだりしているだけ。意識されない硬直のために筋肉が動かない――ということは、「滑らかにリラックスしている」と体感している部分が、じつは硬直している、ということです。そしてそれは、意外な部位な筈である。無味無臭だからといって、無毒とは限りません。人間は自分の筋肉を、「思い通りに」コントロールしているわけではない。一旦筋肉の一部がわずかに硬くなると、そのことを自覚する以前に、平気で遠回り指令を出す。その積み重ねが、「指が回らない」状態です。筋肉の動きは感知出来ている筈だ、という思い込みをまず捨てなければなりません。収縮している筋肉も、そうでない筋肉も、意識の表層には浮き出していないのです。
c0050810_14174278.jpg  ある動きを行うために、(A)大枠を支える筋肉、(B)その動作のために縮むべき筋肉、(C)そして何もすべきで無い筋肉があります。弾けているときは、その「支え」や「緩め」はほとんど意識されません。(A)がシュッと屹立していなくても指は回りますが、そこへいつしか(C)が余計な介入を始めたときに、指は回らなくなります。筋肉のストレッチとは、(C)を何もしないままで置くための、神経回路の構築(あるいは再構築)のことです。ある動きに対して、どの筋肉が(A)なのか(B)なのか(C)なのかは、ありとあらゆる側面から自分自身で感じ、探り当てていくしかありません。2-aの「首周りのリラックス」で触れた、三面八臂の阿修羅の喩えを御参照下さい。

  ここで一つの解決法が見出されます。盲点は、どうせ逆側にある、ということです。あるアクションを起こす場合、そのアクションと反対側の筋肉は、本来は何も行っていない筈ですし、また何も行っていないように感じられるものですが、そこを敢えて、「何もするな」という指令を差し加えてみる。たとえば、鍵盤中音域から高音域へ右手を移動させる際、小指先端に集中するのではなく、アクションと逆、すなわち右手の内側(右脇や上腕内側など)の「緩め」に一瞬意識を通す。親指をくぐらせるときは、肘の外側、さらには脇の裏側(背中)に意識を向ける。速く指を回したいときには、鍵盤にがっつくのではなく、掌底を暖かく緩める、というような具合です。何も悪事を行っていないように感じられるブラックボックスのような部位に、外側から念入りに「何もするな」と命令を付け加えてみること。見知らぬ側面(例えば背中側)へ向かって力を抜いていく恐怖については、既に述べました。
  初学者よりむしろ上級者が陥る罠として、「緩めてはいけない箇所を意図的に緩めてしまう」ケースが挙げられます。背中が痛い。と、背中を「緩め」たくなる。これは良し悪しです。背中側の筋肉で支えるべきモーションのとき、背中を意図的に緩めるのは、悪循環の開始を告げます。ここで行うべきなのは、いわば「痛い」側へあえてもたれかかって、「痛い」のと反対側を可能な限り緩めることです。するとアラ不思議、痛みが消え去ることがある。痛みや突っ張りなど筋肉の緊張が感知された際、勝手知ったる「脱力法」をすぐさま適用するのではなく、一歩踏みとどまって、そのアクションでどこが支え、どこが伸びているかを、今一度考え直してみましょう。
   ピアノの演奏は、いわば鍵盤との手押し相撲に喩えられます。相手方の変化を受け流すことがコツです。これは生活態度全般にもリンク出来るでしょう。人の言葉をすぐ個人攻撃と受け止めてイジケているようでは、命が幾つあっても足りません。曰く、「ホッチッチ かもてなや おまえの子じゃなし 孫じゃなし 赤の他人じゃ ホッチッチ 親類になったら かもてんか」。 


●筋肉の可動域や組み合わせの再点検

c0050810_14181636.jpg    筋肉のストレッチとは、なにごともなく無抵抗に動く可動域を少しずつ広げていくことです。体の中心線を基準に最短距離で動いていたものが、いつしか奇妙なS字の寄り道を始める。痛み自体は鍼灸や冷却で抑えることが出来るかもしれませんが、「遠回り」癖は自分の脳で矯正するしかない。骨・筋肉・内臓が全てドロドロの液状になったように感じるのは無理にしても、関節をすべてはずして中国雑技団になった「つもりのつもり」を念じるだけでも、存外に変化はあらわれます。因みに、私は生まれてこの方、膝をのばして両手が地面に付いたことが無いほどの体の固さですが、手首の角度と肩甲骨の回転をシンクロさせる程度のことは出来るようになりました。
   出発点としてお勧めなのは、延髄周りのストレッチ、とでも言うべきものです(「首周り」ではありません)。2-aで述べたように、カボチャ(頭部)はホウキの柄(背骨)の上で緩やかにバランスを取っているべきですが、このカボチャとホウキの接点あたりが膠着し易い。接点、すなわちカボチャを球体としたときの中心点で、頭を前後・左右・上下にわずかに回転させてみましょう。全音・半音ほどの幅広さではなく、いわば微分音のグリッサンドです。頭を時計回りに回転する、とは、右眼の位置が僅かに右下へ移動し、アゴの位置が僅かに左上へ移動することです。頭を前へ回転させる、とは、アゴを僅かに引き、正面から見て眼が僅かに伏目になることです。慣れないうちは、ちょっと気持ち悪くなってくる、くらいが正解かもしれません。案外これが難しい。自分の頭の中心点がどこにあるか、を自覚することが、全身のリラックスの起爆剤になると思います。肩甲骨や骨盤の周りのストレッチについては、無料動画も沢山ありますので、ラクに出来るものを試していきましょう。
   上記(A)(B)(C)の諸筋肉の役割分担の下拵えとしては、2-aで触れた相撲の「腰割り」(wide-stance squat)のような、呼吸・肩周り・腰周りを同時に連携させるものが良いでしょう。各部位に分割してチマチマと動かすのは、音高・強弱・ペダリングなどをひとつずつ積み上げていく練習法と同程度に不効率です。全てのものは同時に達成されなければなりません。
c0050810_14193447.jpg   硬直の観測は、空間的あるいは時間的なラグを伴うことがあります。前者は、硬直している部分そのものではなく、その周りの部位の痛みによって異常が推定される現象です。後者は、筋肉を伸ばしていくときに発生した硬直が、伸ばし切ったのちに戻していく際にやっと感知されたり、あるいは、息を吸い込むときに発生していた硬直が、息を吐くときになってやっと観測されるようなケースです。つまり、「戻していくとき」「息を吐くとき」の異常のチェックにも、決して油断をしないこと。
   肩を思い切ってすくめ、それを戻す。その際、すくめた状態(肩が固くなって上にせりあがる)における筋肉の組み合わせを、辞書登録しておきます。練習時に、その硬直の発生を許さないこと。練習が終わったら、いつのまにか上腕が疲れてました、肩が痛くなってました、でも練習したんだから当然、ということでは、進歩はありません。なんとなくの疲れ・痺れは、そのうち(あるいは既に)指周りをブロックします。力が入っている状態と入っていない状態をそれぞれ辞書登録しておくべきなのは、肩以外では、もちろん手首、肘、うなじ、喉元、脇、背中全体、胸、腹、股、膝、膝の裏、脛・・・と多岐に渡ります。
   筋肉のよりよい「導通」は、便意や陣痛のように自然発生するものであり、最初は微(かす)かな曙光かもしれませんが、しかしその「一瞬ラク」な状態を見逃さないようにしましょう。起床直前の、日中の緊張から体がほどよく解放され、自然な呼吸状態が持続し、また意識も活性化する頃合いが、一番チェックに良いように思います。取っ掛かりとして、様々なボディワークや機器を使うも良いでしょう。ただ、最終的には自分がどう筋肉を動かすか、という指令回路に関わっているので、そこを直さずして問題の解決は無いことを一刻も早く覚悟すべきです。


●勘違いを直す/イメージ法の功罪

c0050810_14202121.gif  ピアノのレッスンでは、生徒の自主性を尊重して、あえて曖昧にアドヴァイスを与える場合があります。曰く、「もっと明るく」、「もっと夢見て」、「もっと溌剌と」、「もっと悲しげに」。幼少時からレッスン慣れしている生徒にはこれで十分でしょうが、それでもピンと来ない生徒には、勿論幾つかの具体的なトリックを教えるのが教師側の義務となります。
  ピアノ演奏の表層上のパラメーター操作に比べて、人間の体の機構は遥かに複雑であり、ある筋肉の状態をイメージで伝えようとした際、混乱の度合いも桁違いです。繰り返しになりますが、筋肉の質は人それぞれ、また筋肉の状態は時々刻々変化するものなので、今日有益だったアドヴァイスが、明日は有害となり得ます。人間の体は人間の体でしかない。カボチャの喩えもホウキもタケコプターも阿修羅マンも、余計な硬直を招くようでは要らぬお節介です。「××みたいなイメージで」、といったアドヴァイスは、すぐその通りに筋肉が動き出す人にとっては天啓でしょうが、そうでない人にとっては腹立たしいだけです。しかし、将来あるプロセスで突如役立つことも大いに有り得るので、一応take noteしておきましょう。
c0050810_14211813.jpg  頭の中で描く体の構造と実物との差異を知り、筋肉はこのように動く筈だ、という思い込みを捨て去るために、解剖図解説書に眼を通すのは勿論有益です。いったん手綱を手放すのは不愉快であり恐怖でもありますが、向き合う勇気を持ちましょう。例えば、上腕と前腕が組み合わさっている部分、肘の外側にちょっとした(指半分くらいの)スキマがあることを知れば、もっと小回りに回転出来るようになるかもしれません。肩甲骨を内側に引き付ければ、肩甲骨面(Scapula Plane)は後ろ側に広がる、ということも、いざ鍵盤の白黒模様を目の前にすると忘れがちな点です。肩甲骨が的確な位置さえ取ってくれれば、ピアノ演奏は落下と引き上げの直線運動というよりは、むしろ手首~肘~肩甲骨の連続的な回転運動に感じられて来るでしょう。
   もっとも、骨格図を見て直ちに体が自由に動き出すのなら、世の中イチローだらけです。実のところ、解剖図学習もイメージ論の一例に過ぎませんし、早合点は禁物です。筋肉よりは骨をイメージしたほうが早いか、あるいは皮膚の伸び縮みをイメージしたほうが良いのか、はたまた内臓ドロドロ系か、その都度あらゆる方便を駆使しましょう。砂時計の砂、あるいは傾けたコップの水のように、流体が体内を移動していく感覚。あるいは、伸びるべき側の皮膚が伸び、その皮膚を渡りゆく波動の振幅が端っこ(開端)まで伝わり、そして空中へ消え去るイメージ、等々。30秒で可動域が変化する場合と、そうでない場合があります。脱力セッションにお付き合い頂いた方々の中には、背中で合掌出来る程度に体の柔らかい方が何人もいらっしゃいました。しかし、その柔らかさが、手首と肩甲骨のシンクロにただちに結実するわけでもありませんでした。必要と思っている硬直が不必要であることを悟るには、フラフープをしつつ階段を昇降しながら算盤をはじく程度に、慣れを要するのでしょう。


●バイアス法

c0050810_14214311.jpg  体の関節をストレッチする際、[1]ある部分を完全に緩めることによって支える筋肉を探し出す、あるいは逆に、[2]ある筋肉をビシッと固めて(支えて)おいて、他の部分がどこまで緩められるかを調べる、というニ通りが考えられます。
  第1部の奏法論で述べた手首・足首ブラブラ法は、[1]に他なりません。2-aで述べた準備態勢、あるいは阿修羅マンに背後から両脇を差し入れられ手首を持ち上げられているイメージ等は、[2]に類します。2つの筋肉を同時にコントロール出来ないことから、一つを固めて一つを緩めていく、という[2]の練習は、一歩間違えると小学生向けハイフィンガーの如く、妙な癖の元凶になりうるので注意が必要です。

  [1]としては、手首をブラブラさせる運動を、いつ「支える」筋肉が阻害し出すのか、ポジションを寝る→座る→立つ、の順番に調べていく方法が考えられます。仰臥位(あおむけ)、そして側臥位(横向け)で、手首から先だけを回転、肘をついて回転、肩から先を回転、etc。椅子の背にもたれた場合ともたれない場合で差は生じるか。右足を持ち上げ椅子に乗せて弾いた場合、右肩はラクになるか。立った場合、立って壁にもたれた場合、その違いは、等々。

c0050810_14224494.jpg  [2]としては、いわゆる「丹田に力を入れる」のが、よく言われる方便です。体が一番へっこむポイント、例えば尻の穴を締めてみるのも良いでしょう(すぼめ方も色々)。開いた手から第3・4指を折り曲げた、いわゆる「折れ紅葉」との併用も効果的です。(もちろん、「うらめしや」状態に垂れ下がった「折れ紅葉」。)息を吐き切った状態からのアクション、息を吐き出しながらのアクションとの組み合わせ、体・顔の向きと視線とあえてズラすのも、バイアス法の一種です。息が変になってきたら、肺よりも臍の下、鳩尾(みぞおち)、眉間などを意識してみると良いでしょう。誰かに両人差し指で鉄杭のように脇を下から突き刺してもらい、阿修羅に持ち上げられる筋肉をイメージしながら両腕を動かしてみると、脇のどのあたりをグッと締めれば肩周りが支えられるのか、見当が付け易いと思います。
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# by ooi_piano | 2009-11-07 09:08 | クラヴィコード様への五体投地 | Comments(0)
2-d. 変化のプロセス、抑制と忍耐 


●変化はゆっくり、案ずるな

c0050810_14304086.jpg   変化は、非常にゆっくりであることが普通です。不具合の度合いが大きいほど、一瞬垣間見える光芒は所詮表層的なものだとあらかじめ悟ったほうが、後の落胆は小さいでしょう。「毎日わずか数分間××さえすれば、誰でも簡単にラクラク××出来る」、などという惹句は、まずは疑ってかかるのが社会人のたしなみです。射幸心を煽るような、その場限りのショーに惑わされてはいけません。
   明らかに正論だと分かっているような指針を、ちょっとは真面目に徹底させる程度のことでも、かなり必死で喰い付いてみて、2~3年経って窓の方角が何とか分かれば、まだ儲け物なくらいです。他人の言うことを鵜呑みにすべきではありませんが、踏み台として利用するのも悪くない。ピアノ教師が生徒の日々の進歩を丁寧に指摘・確認してあげることは、生徒のモチヴェーション向上につながるでしょうが、一方、筋肉の質の微細な変化、などというものは本人にしか分からない、あるいは本人でも分からないようなことです。自分で体感出来ないことは中々納得しにくいし、また体が徐々に動き出したとしても、解決に向けて明瞭に道筋が見えるプロセスでもないので、当然紆余曲折がある。積み上がりが感じられない恐怖に怯え、盲滅法に様々な方法を試行錯誤した挙句、どれも継続しないので結果も付いてこない。まさに賽の河原のシジフォス状態です。
c0050810_14315696.jpg   息を整えて冷静になりましょう。ことあるごとに原則に立ち帰るのは、思考停止でも敗走でもありません。自分の体の自浄作用を信じてみるのも非常に大事です。ドラマの結末を知らなかった昨日の自分へは決して戻れないのと同様に、筋肉の状態は日々変化しています。ジャブを打ったら、パッと数歩さがって様子を見、プラトー時の心理を楽しむ余裕(習慣)を持ちたいものです。接近戦で打ち合いになると、事態は膠着します。
   今までの駄目な自分をがむしゃらに全否定するのも、反動で元の木阿弥になる危険を胚胎するようです。長年の慣行に対しては、「今までごくろうさま、でも今はその癖はなくても私はやっていけそうよ。」と言ってあげるつもりくらいが、丁度良いようです。 カットアウトではなくフェイドアウトの方が、後腐れも無いし本卦還りもしなくて済む、ということでしょう。そのくらいのことでさえ、幾許かの勇気と決意を要します。

c0050810_14334438.jpg   ぶっちゃけ、膠着状態の打開プロセスとしては、(1)指が回らない(体のどこかに痛みや突っ張りなどは感じない) ⇔ (2)指が回らない(体のどこかに痛みや突っ張りなどが感じられる) ⇔ (3)指が或る程度は回る(体のどこかに痛みや突っ張りなどが感じられる)  ⇔ (4)指が回る(体に痛みも突っ張りもない)、といったあたりが典型的のように思われます。無理の無い範囲でのエクササイズを、と言われても、筋肉の使い方くらいすぐ変えられる筈、とナメてかかって、どうしても功を急いでしまうからです。
  名人とは、学習時に(1)から直接(4)の状態へと何事も無く進み、その後ずっと(4)の状態を維持出来る方のことでしょう。プロや専門学生でも、騙し騙し(3)に甘んじる人も多い。初学者は(2)と(3)の間のグレーゾーンをウロウロしています。おおよそ(4)を維持している上級者であっても、加齢などにより、(4)から(3)を経て(2)や(1)へ縮退してしまうことは有り得ます。
  (4)から(1)への墜落のプロセスは滑らかである一方、(1)から(4)への悪戦苦闘はランダム・ウォーク(酔歩)になるのが普通で、しかも不要な硬直が体感出来るのは「緩まってから」です。お気軽な解法は無い代わりに、演奏業に付き物の「運」や「人間的魅力」といった要素は介在していない点では、「二足歩行出来るようになる」「言葉で会話するようになる」程度に、誰にでも踏破可能な過程かもしれません。


●自分・他人による言い訳にすがらない

c0050810_1434211.jpg   何かが出来ないとき、壁にぶつかったときに、それを糊塗するためのさまざまな言い訳が用意されているものです。
  曰く、「才能が無いから」、「もうトシだから」、「楽器が良くないから」、「練習時間が足りないから」、「小さい頃からやってないから」、「小さい頃からやってるのに駄目だから」、あるいは、「誰もそんなことしてない」、「出来た人を見たことが無い」、「そんなことしたって誰にも聴き取れない」、「医学的に解明されていない」、はたまた、「聞いてるほうも楽しく無いと思うんだよね」、「音楽は音を楽しむと書くのです」、「昔の楽器ってのは過渡期の未完成品だからね」、「作曲者もそんなことは望んで無かったと思うんだよね」、等々。自分の今いる地点から一歩も動きたくない、という、心と耳の保守反動。それに振り回されないことです。「よそはよそ、うちはうち」を徹底しましょう。あきらめた時点で試合終了です。
c0050810_14351183.jpg   100メートル走の世界新記録を目指すのならともかく、ピアノを快適に楽しむ程度のことに、人体能力の極限は求められていません。インナーマッスルを含む筋肉を「鍛える」ことは、ピアノの上達には直結していません。無負荷で無抵抗の感触を求めるのが基本です。太極拳・ヨガは東洋人向け、ピラティス・アレクサンダーは西洋人向け、などとしたり顔で語るのも、「バッハはドイツ人にしか理解出来ない」「ドビュッシーはパリジャンしか弾けない」、というレベルの戯言です。ガキより大人のほうが遥かに時間の使い方は理性的な筈ですし、指も長く大きくしっかりしているので、ガキに負けているのはせいぜい肩甲骨周りの柔らかさだけです。1800年以前は誰にでも出来ていたことが、現代人に再現不能なわけが無い。空気なんてものはアッという間に変わります。ロバート・レヴィンの名言、「1000人に一人しか分からない平行5度でも、我々は全力で避けなければならない。なぜなら、その一人が残りの999人に喋りまくるからだ」。
   答えの用意された問いに高得点を取り続けてきたエリートは、あっけないほど瀬戸際に脆い。その根拠は他人の言説です。また、世代に関わらず、どこか彼方の夢の国にいつまでもいつまでも縋っていられる料簡は、よほど過去の薬物体験でも疑いたくなります。本を読めば読むほど、人の意見を聞けば聞くほど、「正しさ」に拘ってワンパターンに平べったくなる。これらは全て妙法の敵です。


●自分の体のことは、他人には分からなくて当然

   医者もピアノ教師も理学療法士もボディワーカーも、他人の体のことはよく分からない点では同じです。医学部在籍あるいは卒業者の下手糞など、掃いて捨てるほど見て来ました。体が柔らかいだけでは効率的な打鍵は出来ないことは、子供ならびにピラトゥス熟練者等で目の当たりにしました。アインシュタインの稚拙なヴァイオリンに業を煮やしたシュナーベルの一言、「博士、あなたは数が数えられないんですか」、を引用するまでもなく、知能指数と演奏能力は比例しません。最高のボディ・ワーカーであっても、楽器の奏法については素人に過ぎませんから、なぜその余計な動きが発生するか、筋肉の必要な収縮と不必要な収縮の峻別については、右往左往するだけです。
  この世にお手軽な便法など有り得ないことを悟れば、コールドリーディングの小細工でボッタクられることも無いでしょう。自分の体のことは、自分で調律するしか無い、と再度申し上げて、取り敢えずの結語とさせて頂きます。 (この項終わり)
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# by ooi_piano | 2009-11-07 08:06 | クラヴィコード様への五体投地 | Comments(0)
   
http://www.cagylogic.com/archives/2004/03/04021256.php
   ピアノのレッスンも、こんな感じですよね・・・。

c0050810_17423748.gif

(クリックすると拡大します)


[以下上記サイトより引用]
■「顧客が本当に必要だった物」と「顧客が説明した要件」
顧客が本当に必要なものは、顧客は自分では説明できない。
結局、本当に必要なものって身の回りでは結構少ない。あると便利だから。とかデザイン(見た目)がいいからとかそんな理由で身の回りのものはそろえられていくのだと思う。
んで、買うときは、どうせ買うんだから安くて良いのが欲しいと思うわけである。
実際問題、ここで「顧客が本当に必要だった物」が一発で手に入ったとしても顧客は喜ばないわけである。いつも顧客はプラスアルファの何かを欲しているのだから。

■「顧客が説明した要件」と「営業の表現、約束」
営業としてはできるだけ、顧客からお金をふんだくらなくてはならない。よくも悪くもそれが仕事である。ということは、ファンシーでハッピーなことをいうわけである。
顧客の説明した要件に枝葉をつけて、こんなんつけたら幸せでしょってな感じでオプションを追加していくわけである。
途中で、ゴムタイヤのブランコで十分だということが気が付いたとしてもそれは口には出さない。手が汚れるから、おしりが痛くなるからソファーの方がいいでしょ。ってな具合になるわけである。

■「アナリストのデザイン」
アナリストは顧客に近い立場にいる。アナリストは顧客が何を要求しているのかを考える。しかし、アナリストが「顧客が本当に必要だったもの」を見つけ出すのは難しい。第一、顧客は本当に必要な物は欲しがっていないからである。そこで、何をやりたいのかを悪戦苦闘してあの絵ができてくる。興味深いのは機能としてはちゃんと実現されているところである。

■「プロジェクトリーダーの理解」について
「アナリストのデザイン」ではあきらかに不自然な構造を、自然な構造に修正してある。これは現実的な解である。
しかしこのことにより、機能が満たされなくなっている。修正する際には機能は削減されてはいけない。もし削減される場合はちゃんとアナリストやら顧客やらと相談するべきである。

■「プログラマのコード」
プログラマはできるだけ、楽に実装をしたい。プロジェクトリーダーはその道筋をちゃんと示す義務があると思う。プロジェクトリーダーがその道筋をちゃんと示さない場合は、プログラマは最短経路を進もうとする。ブランコというモジュールがあって、そのモジュールが木にくくりつけられている。という事実からあの絵が出来上がる。

■「実装された運用」
プログラマのコードから使える部分だけを取り出して、顧客が実際に運用している絵があのかたちなのだと思われる。
プログラマが一生懸命働いても、ぜんぜん使われないわけである。

[引用終わり]
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# by ooi_piano | 2009-11-04 17:47 | 雑記 | Comments(0)