大井浩明 連続ピアノリサイタル
Hiroaki OOI Klavierrezitals
Robert Schumanns Fußspuren
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
![2026年3月22日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第4回公演 [2026/03/06 update]_c0050810_08483717.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/05/10/c0050810_08483717.jpg)
【第4回公演】 〈1853年のロベルト・シューマン〉
2026年3月22日(日)15時開演(14時45分開場)
《プロヴァンス地方の恋唄 Op.139-4/ S570》(1852/1881) [F.リスト編独奏版] 〔ブラームスに献呈〕 3分
《ゲーテのファウストからの情景 WoO 3》序曲 (1853/1882) [R.クラインミヒェル編独奏版] 8分
《7つのフゲッタ形式によるピアノ曲 Op.126》(1853) 15分
1. Nicht schnell, leise vorzutragen - 2. Mässig - 3. Ziemlich bewegt - 4. Lebhaft - 5. Ziemlich langsam, empfindungsvoll vorzutragen - 6. Sehr schnell - 7. Langsam ausdrucksvoll
《朝の歌 Op.133》(1853) 15分
I. Im ruhigen Tempo - II. Belebt, nicht zu rasch - III. Lebhaft - IV. Bewegt - V. Im Anfange ruhiges, im Verlauf bewegtes Tempo
(休憩)
《序奏と協奏的アレグロ Op.134》(1853/2025) [米沢典剛編独奏版/初演] 〔ブラームスに献呈〕 13分
I. Ziemlich langsam - II. Lebhaft
《F.A.E.ソナタ(自由だが孤独に)》より「間奏曲とスケルツォ」(1853/2025) [ブラームスとの共作、米沢典剛編独奏版/初演] 8分
《天使の主題による変奏曲 WoO24》(1854) 11分
Theme – Var.I - Var. II / Canonisch - Var.III / Etwas belebter - Var.IV - Var.V
ブラームス:《シューマンの天使の主題による変奏曲 Op.23》(1861/1878) [T.キルヒナー編独奏版] 16分
Theme. Leise und innig - Var.1 L'istesso Tempo / Andante molto moderato - Var.2 - Var.3 - Var.4 - Var.5 Poco più animato - Var.6 Allegro non troppo - Var.7 Con moto / L'istesso tempo - Var.8 Poco più vivo - Var.9 - Var.10 Molto moderato, alla marcia
〈使用エディション〉 新シューマン全集 (2020)
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Hiroaki OOI Klavierrezitals - Robert Schumanns Fußspuren
March 22, 2026 (Sun) 3:00 PM Start (Doors open at 2:45 PM)
SHŌZAN-AN (20-1 Nishiyamachō, Ashiya City) 3-minute walk from Hankyu “Ashiyagawa” Station [Google Map https://maps.app.goo.gl/3fckoavsb26SVkYM6 ]
¥4,000
[Reservation] tototarari@aol.com (Shōzan-An)
Robert Schumann (1810-1856):
- Provenzalisches Lied Op. Op.139-4 (1852) [dedicated to Brahms] / S570(1881) [arr. Franz Liszt], Overture from "Szenen aus Goethes Faust" WoO 3 (1853/1882) [arr. Richard Kleinmichel (1846–1901)], 7 Klavierstücke in Fughettenform Op.126 (1853), Gesänge der Frühe Op.133 (1853)
- Concert-Allegro mit Introduction Op.134 (1853) [dedicated to Brahms] / (2025) [arr. Noritake Yonezawa], F.A.E.-Sonate / II. Intermezzo (Schumann) + III. Scherzo (Brahms) 」(1853/2025) [arr. Noritake Yonezawa], Thema mit Variationen (Geistervariationen) WoO 24 (1854), Brahms: Variationen über ein Thema von Robert Schumann Op.23 (1861/1878) [arr. Theodor Kirchner (1823–1903)]
<Edition: Neue Schumann-Ausgabe (2020)>
![2026年3月22日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第4回公演 [2026/03/06 update]_c0050810_19124494.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/13/10/c0050810_19124494.jpg)
1
1854年2月、ロベルト・シューマンは重い鬱病を発症した。自殺を試みる27日直前の数日間、ロベルトは何度もクララに自分たちの寝室から出ていってほしいと頼んだ。自分が彼女を傷つけてしまうかもしれないという理由で。浮橋からライン川へ身を投げる瞬間、ロベルトは自分の結婚指輪を水中に投げた。クララはこれを「至福の妄想」と考えた。「これによって、彼の指輪が私の指輪といっしょになれると思ったのだろう」と。ロベルトにとって、ライン川に溺れるという自分の姿は死のモティーフとして、早くも1829年5月13日の「旅の覚書」に現われた。またクララとの婚約期間中、二人の関係が最大の危機を迎えた1837年11月28日付のクララ宛の手紙にも取りあげられている。
「夢を見た。深い水の傍を歩いていると、不意にある思いにとらわれ指輪を水に投げ入れた。はてしない憧れがこみあげてきて、後を追って飛び込みたいと感じたんだ」。
たまたま通りかかった船の船頭に助けられたロベルトは、その船からも飛び込み、助けられた。2度にわたる自殺の試みから、彼は助かることを望んでいなかったことが判る。長女マリーは救助された父が人びとに抱きかかえられて家に連れ戻されたときのことを書いている。
「父の捜索が始められました。私が表に出ると、大勢の一団の人たちが騒ぎながら家のほうに近づいてくるのが見えました。それは二人の男の人に両腕を抱えられて、両手で顔を覆っている父だとわかりました」。
そのときシューマンの頭のなかには"Geistervariationen”が鳴っていただろう。日本語に直訳すれば《亡霊変奏曲》または《幽霊変奏曲》となるところだが、《精霊の変奏曲》、《天使の主題による変奏曲》と呼ばれることが多いようだ。クララの日記によれば、助けられた翌日2月28日、「彼はベッドから出て、再び一日じゅう机に向かって書き物をしていた。医師たちは彼に二人の看護人をつけた。ロベルトは今日ユンゲ嬢を通して、私に浄書した変奏曲を送ってきた」。クララは会えばロベルトがまた興奮する恐れがあるから、会わずに別のところにいた。
"Geistervariationen”は1853年から幻聴に悩まされていたシューマンは、1854年2月になってからは、邪悪な精霊におののき、精霊の声に恍惚となる状態が続く。幻聴は10日から17日までに頂点に達した。クララの日記によれば、「17日金曜日の夜、私たちがベッドに入ってほどなくロベルトは起きあがり、精霊が彼に歌ってくれたといって、ひとつの主題を書きとめた。書き終わると彼は横になり、一晩じゅうずっと目を見開いて点を見つめ、空想を口走った。彼は精霊が彼の周りを漂い、彼にこの世ならぬすばらしい啓示を、すべて音楽のかたちで表してくれているのだと固く信じていた」。「天使が歌う」旋律を聴いたシューマンは変ホ長調の旋律を書き写す。この世のものとは思われないその声は、やがて虎とハイエナの唸り声になって彼を苦しめるが、この幻聴のなかで書きとめた精霊の歌が、この「変奏曲」になった。シューマンが指揮を務めていたオーケストラのベッカーとの会話によればシューマンはこの旋律をシューベルトの霊によるものだと考えていたらしい。この《変奏曲》が最後の作品となり、クララに捧げられた。
2
死の前年、ロベルトとクララのシューマン夫妻は二人の若い才能を知った。1853年に22歳のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムをまず8月30日に聴いて、言語障害をひきおこすほどに感銘を覚えたシューマンはヴァイオリンと管弦楽のための《幻想曲 Op.131》に着手し、9月21日にヴァイオリンのための小品を書きはじめるが、これが《ヴァイオリン協奏曲》に発展していく。そのヨアヒムの紹介状を持って9月30日にもうひとりの若い才能がシューマン家を訪れる。呼び鈴に応えて長女マリーが玄関に出た。ひとりの青年がリュックサックを背にして泥まみれの長靴で、まぶしそうに立っているのを見た。北の港町ハンブルクから来た20歳のヨハネス・ブラームスだった。彼がピアノ曲と歌曲などをシューマン夫妻に弾いてみせると、たちまち作曲家としてもピアニストとしてのブラームスに衝撃を覚えた。
ロベルトは10月8日にヨアヒムに書いた。「ヨアヒムへ。私がもっと若ければ、とつぜん思いがけずアルプスからデュッセルドルフに飛び降りてきたあの若鷲のために、いくつか詩を書いたことでしょう。あるいは彼はナイアガラのような壮大な流れにたとえられるかもしれない。その流れは高みから瀑布となり音を立てて落ちるときに最も美しい。そこでは波の上に虹がかかり、岸には蝶が飛びかい、うぐいすが歌いかわすのです。いま私は思います。ヨハネスは真の預言者です。彼は黙示を記すでしょう。それは何世紀のちにも多くのフィリシテ人が謎解くことができないような黙示なのです」。
翌日シューマンは《新しい道》と題した記事に着手して13日に仕上げる。記事は10月28日付の『音楽新報』に掲載された。
「何年もの歳月が過ぎた。それはほとんど私がこの雑誌に捧げた年月と同じほど、いわば10年ほどのもなる。この豊かな思い出のある領域で、かつては数々の発言をしてきたのだった。この10年、私は緊張した創作活動をおこなってきたのだが、しばしば音楽の新しい力を告げる数多くの才能に刺激を受けることもあった。私は最大の関心を傾けながら、いつか突然、ひとりの人物が現れるだろう、現われるにちがいないと思っていた。
時代の最高の表現を理想的に語るよう召命を受けた人。段階を追いその力を拓いて大家であることを示す人ではなく、ちょうどクロニオンの頭から飛びだしたときから完全武装していたミネルヴァのような人が。そして彼は来た。その揺りかごが優雅の女神と英雄に見守られていた若者が。彼の名はヨハネス・ブラームス。ハンブルクの生まれである。
もし、かれがその魔法の杖を振りおろし、合唱と管弦楽において大きな響きの力が彼に与えられるなら、精神の世界になお驚くべき光景が現れるだろう。
どんな時代にも、近しい精神のひそかな同盟というものが存在する。そこに属する盟友たちは、芸術の真理をますます明るく照らすために、いたるところ歓びと祝福を広げつつ、いっそうその環をしっかりと結べばいい」。
3
1852年12月27日の日記でシューマンは記している。「今年のほぼ半分は、重い神経失調に倒れ病気のうちに過ぎた」。年末にも幻聴やめまい、さらにはリウマチの発作に見舞われた。しかし1853年を迎えた時期にもシューマンの創作意欲に衰えはなかった。元旦から2月までバッハ研究に打ち込み《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》にピアノ伴奏を付け、2月末から《無伴奏チェロ組曲》を研究し、3月中旬には合唱バラード《エーデンハルの幸福》にとりかかる。4月には「ニーダーライン音楽祭」のために祝典序曲《ラインの葡萄酒の歌 Op.123》を書く。
5月後半から6月はじめは、小品に向かう。まず《7つのフゲッタ形式によるピアノ曲 Op.126》を書いた。そして子どもたちのために《少年のための3つのソナタ Op.118》。
夏の終わりと秋にヨアヒムとブラームスに出会ったあとには、デュッセルドルフを訪れるヨアヒムのために、シューマンはブラームス、アルベルト・ディートリッヒと3人で、ヨアヒムのモットーである「Frei 自由に Aber しかし Einsam 孤独に」の頭文字FAEを主題にしたヴァイオリン・ソナタを構想した。ディートリッヒが第1楽章、シューマンが第2楽章と第4楽章、ブラームスが第3楽章を受け持った。シューマンはのちに第1、3楽章も自分で書いて《ヴァイオリン・ソナタ第3番》にした。この間、ブラームスはほぼ毎日シューマン家を訪れて、シューマンの創作意欲を刺激した。高揚感のなかでシューマンは10月中旬にクラリネットとヴィオラとピアノのための《おとぎ話 Op.132》、続いてヘルダーリンの詩に触発された後期ピアノ曲の傑作《朝の歌 Op.133》を書いている。
4
クララは生涯ロベルトに尽くした。しかし、ロベルトとクララの関係には互いに音楽家であることの葛藤が影を射すこともあった。すでに12歳のクララのピアノ演奏によるショパンの作品2の演奏を聴き、ロベルトは彼女の方がピアニストとして自分より優れていることに気づいた。「クララはなんという存在だろう! 僕らのなかでも、彼女の話しぶりがいちばん機知に富んでいた。まだ背丈も1メートルそこそこなのに、成長ぶりは目覚ましく、僕を不安にするほどだ。少女のなかでは気分の変化もめまぐるしく、笑いと涙、死と生があざやかな対照をなして稲妻のように急激に交替するのだ」。
シューマンがクララとの結婚生活が始まったころ、自分が幸福の絶頂にあると感じていたことはたしかだ。長いあいだ待たされ、一時は見通しさえ失ったあとで、生涯の伴侶と定めた女性と結ばれたのだ。彼女の躍進と輝かしい名声を複雑な気持ちで見ていたこともたしかだ。彼女の活躍を心から願う一方で、結婚して一緒に生活を営むという自分のイメージを実現するのが難しくなることを恐れてもいた。結婚後、しばらくしてそうした問題は、予想したよりもさらに強い度合いで浮上し、年とともに増大していく。一方、クララがシューマンの天才を認識したのは出会いの当初からのことではなかった。ピアノ曲ばかりを書いていた最後の年1839年ごろになってはじめて、彼女は自分の恋人が音楽史上の偉人になるかもしれないと悟ったようだ。それ以降、彼女は自分の確信をしっかり握って手放さず、最も絶望的な状況にあっても、けっして迷わず、彼のためにできることをすべてなし、自分自身の芸術家としてのキャリアよりも彼の芸術活動を無条件に優先したのだった。
シューマンは結婚をめぐる法廷での対決にあたり、パリに演奏旅行中のクララに書いた。
「結婚したら、最初の一年は自分が芸術家であることを忘れて、もっぱら君自身と君の家と、君の夫のためにのみ生きてほしい。なんといっても妻という存在は女流芸術家よりも地位が高いのだから。それに君がもはや公共の場ではなしえぬことを、もし僕が代わりになしえたとすれば、それだけで僕の心の奥底の願いは充たされるのだ。ゆえに君はいつまでも今のままの芸術家であり続けることになるだろう。君の父親がこの世の至上の幸福と考えるような、三流紙でのちっぽけな名声など僕は軽蔑する」。
クララは返事をしたためた。自分の心を決める根本条件として、まさにそれを期待していたからだ。
「愛するロベルト、今日私は署名をしました。あなたが書いた手紙を受け取り、心の底からうっとりとして読んだのです。私の抱擁を受けてください。愛するわがよき夫よ。私にとって至高の人、私のすべて!」。
クララは愛によって、シューマンという難しい人間との生活を耐えぬき、経済状態が危なくなれば演奏活動によって家計を破綻から救い、8人の子どもを生み、そのうち7人を育てた。つきあいが下手で無口なシューマンを自分の仲立ちで助けて、彼と外界との関係を維持した。自分がピアノを弾いて練習につきあうことで指揮者としての彼を献身的に支えた。そして家庭内のありとあらゆる物質的、心理的、教育的な問題をほとんどひとりで解決した。作曲家シューマンがこれほど長く生きていくつもの健康障害や職業上の困難な問題を乗り越えてこれたのは、クララの想像を絶する忠実さとたくましさがあったからだろう。最晩年のロベルトの暗く沈んだ気分には苦しめられていたが、にもかかわらずかぎりなく彼を愛していた。
ロベルト没後のクララを支えたのはブラームスだった。ロベルトがブラームスから受けた感動はクララのものでもあり、ブラームスもクララに出会い、ロベルトの死までの二年半を自分の「ヴェルテルの時代」と名づけた。1855年8月12日に22歳のブラームスは、36歳のクララに書き送った。
「あなたがいなければ僕はどんなに不幸だったでしょう。僕は人が書物からではなく、魂からのみ学ぶことが可能な生命力を、たえずあなたから学ぶのです。あなたはいつも僕のそばで僕のよき天使として、いてくださらなければなりません。そうすれば僕がなりうべきものが確実に僕から成就するでしょう」。
ロベルトの死後、ブラームスは《シューマンの天使の主題による変奏曲 Op.23》(1861)を書いた。三女ユーリエに献呈して"Geistervariationen”の主題による4手用の変奏曲だ。翌1862年、ブラームスはヨアヒムにある危惧を手紙に書いた。「この曲の出版は、シューマン夫人はお気に召さないでしょう。もちろん私は夫人のお気持ちを害したくありません。心配はこの曲の出版に反対されはしないかということです」。
クララは夫ロベルトの名声を深く気遣っていた。狂気の人というレッテルは、中世ならば「神の声が聞こえる人」と尊敬さえされたが、近代は狂気が隔離される時代になった。ヴァジェレフスキーによる評伝『ロベルト・シューマン』(1857)によって、それが身近にいたヴァイオリニストの手になる一次資料にちがいはないものの、そこに記されたロベルトがテーブルを浮かせる交霊会に参加したことや、精神の病に投身自殺などから沸き起こる風評としての「つくられた逸話」によって歪められた。
ロベルトの尊厳を守るために、クララはロベルト最晩年の遺作の出版には慎重にならざるを得なかった。
"Geistervariationen”「天使の主題による変奏曲」の主題について、後年の研究で明らかになった事実がある。シューマン自身が書いた《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》(1853年9月から10月4日)の第2楽章にすでに現れていた。また、《少年のための歌のアルバム Op.79》(1849)の第20曲「春の訪れ」にも。1851年11月に、早世したブルグミュラー(弟)の交響曲第2番(遺作)の第3楽章のオーケストレーションを行ったが、その第1楽章が「天使の主題」に似ている。これらの美しい旋律がシューマンの頭のなかに閃くように現れ、旋回していたのだ。(山村雅治)
![2026年3月22日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第4回公演 [2026/03/06 update]_c0050810_19143267.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/13/10/c0050810_19143267.jpg)
![3/28(土)18時 1840年製エラールによる「ヴァイマールの黎明」 [2026/03/06 update]_c0050810_12491775.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/13/10/c0050810_12491775.jpg)
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![3/28(土)18時 1840年製エラールによる「ヴァイマールの黎明」 [2026/03/06 update]_c0050810_02571399.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/27/10/c0050810_02571399.jpg)
![2/21(土)18時 1840年製エラールによる《リストとショパンの連接》 [2026/02/13 update]_c0050810_09075149.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/03/10/c0050810_09075149.jpg)
![2/21(土)18時 1840年製エラールによる《リストとショパンの連接》 [2026/02/13 update]_c0050810_09094614.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/03/10/c0050810_09094614.jpg)
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![2026年1月11日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第3回公演 [2026/01/03 update]_c0050810_19435423.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/23/10/c0050810_19435423.jpg)
![2026年1月11日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第3回公演 [2026/01/03 update]_c0050810_18271113.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/08/10/c0050810_18271113.jpg)
![2026年1月11日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第3回公演 [2026/01/03 update]_c0050810_18273224.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/08/10/c0050810_18273224.jpg)
![2026年1月11日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第3回公演 [2026/01/03 update]_c0050810_18274730.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/08/10/c0050810_18274730.jpg)
![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_01081002.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/13/10/c0050810_01081002.jpg)
![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_01091103.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/13/10/c0050810_01091103.jpg)
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![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_23020613.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/29/10/c0050810_23020613.jpg)
![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_23015417.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/29/10/c0050810_23015417.jpg)
![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_23041571.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/29/10/c0050810_23041571.jpg)
![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_19595821.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202512/14/10/c0050810_19595821.jpg)






















