金喜聖《K-POPガールズ「GOLDEN」によるパラフレーズ》 (2025、委嘱初演)
![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_23515510.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/29/10/c0050810_23515510.jpg)
Netflix映画《K-POPデーモン・ハンターズ》(2025年6月公開)は、K-POPガールズグループ「HUNTR/X」(ハントリックス)がアイドル活動の裏で人々を脅かすデーモンと戦う、ミュージカル要素を取り入れたファンタジーアニメである。主人公たちはその力を結集し、ライバルの悪霊系ボーイズグループ「サジャ・ボーイズ」と、舞台と舞台裏で対決する。クライマックスや重要な絆の場面で繰り返し使用される劇中歌「GOLDEN」は、アイドルソングとしては異例の3オクターヴの音域を駆使し、ビルボードHOT100やイギリスのオフィシャルシングルチャートで1位、韓国国内外の主要音楽チャートでも首位を獲得する異例の大ヒットを記録し、K-POP史上初の「グラミー賞」(2026年2月発表)主要4部門にノミネートされている。
本作では、19世紀ロマン主義が持つお決まりの表現の上に、現代のポピュラーなメロディーを重ねることで、パラフレーズという手法そのものを掘り下げている。もとの曲と、その上に載せられた新しい様式とのあいだには、緊張感がある。ロマン派時代の技巧的な表現―たとえば特有の音の厚みや強弱の身振り―を、ひとつの形式として利用しているのだ。もっともその下には、原曲の構造がちゃんと残っていて、新しいスタイルの中に完全に溶けきってはいない。この作品は、いわば音楽のパリンプセスト(重ね書きされた羊皮紙写本)、ちょっとした時代錯誤のパフォーマンスでもあり、音楽の「格」をめぐる問いかけでもある。現代のメロディーをフランツ・リストの演奏会のような場―1840年製エラールのC1からG7の音域内で―に置くことで、「芸術音楽」と「大衆音楽」の境目を探っている。(金喜聖)
金喜聖 Heui Sung Kim, composer
![12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演 [2025/12/14 update]_c0050810_11491317.png](https://pds.exblog.jp/pds/1/202511/19/10/c0050810_11491317.png)
金喜聖(キム・ヒソン、김희성)は、1996年韓国忠清北道生まれの作曲家・ピアニスト。英バース大学建築学科卒、ソウル藝術大学校に学ぶ。クラシックピアノの技巧と、ジャズ、Jポップ、ドラムンベース、ハイパーポップといった多様なジャンルの和声語法を融合させることに力を入れている。2013年に解説したYouTubeチャンネル(登録者数12,500人)では、現在までに131本の動画を公開。代表的なオリジナル曲に、《ピアノソナタ第4番》(2019)、《The Thingymajig》(2022)、《Pineapple Train》(2023)、《奚琴とピアノのための「前奏曲」》(2024)等。
グランド・オペラとピアノ編曲
上山典子(静岡文化芸術大学教授)
18世紀後半の古典派と19世紀ロマン主義の時代は、音楽史的に類似性(あるいは連続性)が強く、時代を特徴づけるジャンルの多くを共有する。しかし歴史的には啓蒙主義の18世紀と対立するこの新しい世紀、音楽美学や思想、精神性には明らかな変化がみられるようになった。その根幹は理性を徹底した合理主義への反動であり、感情や直感、強烈な表現力と創造力を重視する絶対主観主義の姿勢であった。そして創作には、調和のとれた形式や普遍的規範よりも、強烈なオリジナリティーが求められるようになった。
また、無限の彼方や未知なるものへの憧れを特徴とするロマン的傾向は、あらゆる芸術分野のなかでも、音楽に最も強烈に示された。例えばドイツでは世紀初頭以降、ことばを用いない純粋器楽、特に交響曲のジャンルに高い美的地位が与えられ、器楽優位の思考としていわゆる絶対音楽の理念が生まれた。それは非物質的な音素材で無限なものを表現する芸術であり、天才の所業にふさわしい崇高な創造行為とみなされた。同じくロマン的言語で語るピアノ曲も、無限の憧憬を呼び起こす詩的音楽、無言歌として愛奏された。一方のフランスでは、18世紀を通して確立された音楽最高のジャンルとしてのオペラが依然として不動の地位にあり、1830年頃にはロマン主義時代にふさわしいグランド・オペラが花開いた。
こうしたロマン主義の精神に特徴づけられる19世紀は、近代音楽史の幕開けとみなされる。18世紀までのほとんどの音楽家は宮廷や教会などに雇われる身だったが、フランス革命以降、社会における音楽家の地位と立場は大きく変化した。この変化はやがて、音楽と大衆との関係にも明白に表れるようになり、市民階級の趣味や動向が日々の音楽文化を形成するようになっていった。このような近代的音楽生活の象徴が、都市部を中心に日常的に開かれるようになった公開演奏会である。
芸術音楽が市民階級にも普及するようになったこの時代、入場料を受け取る演奏会には不特定多数の聴衆が集まるようになった。音楽家には時代の流行や人々の嗜好に合わせた工夫が求められ、名人芸的な演奏が絶大な人気を集めた。その先駆的存在が、大衆はもちろんのこと、多くの音楽家たちにも衝撃を与えたヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニである。そしてそのパガニーニに触発されてピアノ界のパガニーニを目指し、彼に勝るとも劣らぬ効果で世間を熱狂の渦に巻き込んだフランツ・リスト、国際的に活動するピアニストの先駆けとなったフリードリヒ・カルクブレンナー、超絶技巧のピアノ演奏でリストと人気、名声を分かち合ったジキスモント・タールベルクなど、高度な技巧で人々を魅了するカリスマ的なヴィルトゥオーソ・ピアニストが相次いで誕生した。
こうしたピアニストたちの活躍により、19世紀前半には近代的リサイタルのシステムが確立したが、演奏会のプログラムは現代とは大きく異なっていた。例えば、1830~40年代にヴィルトゥオーソ・ピアニストとしてヨーロッパ中を駆けめぐったリストの演奏曲目を見てみると、ピアノのためのオリジナル曲はわずかで、およそ8割が編曲で占められていた。人気上位は、いずれもリスト自身が手がけた同時代のオペラ編曲やフランツ・シューベルトの歌曲編曲である。もちろんこの時代には、そのリストをはじめとする天才作曲家が次々と現れ、数々のオリジナル作品を生み出していた。しかし19世紀前半、市民階級が主な聴衆となった会場で人々を熱狂させた演奏曲目は、少なくとも数の上では、オリジナル曲よりも編曲が圧倒していたといえるだろう。
一方、音楽は大規模なコンサート会場だけでなく家庭やサロンなどの空間でも鳴り響き、家族や客人の愉しみのためのピアノ曲や歌曲のジャンルが人気を得た。こうした市民音楽の流行は楽譜出版業の急速な発展をもたらし、ピアノを保有する裕福な家庭の子女や音楽愛好家向けのピアノ曲(性格的小品、練習曲、連弾曲、歌曲編曲など)が大量に出回った。ヨーロッパ音楽文化の発信地から遠隔の地に至るまで、人気作曲家による流行りの音楽が楽譜という媒体を介して、遍く、しかも比較的手ごろな値段で届けられるようになったのである。
また、オペラ劇場や演奏会における最新の動向を人々に伝える音楽雑誌の出版も盛んになり、音楽批評、音楽ジャーナリズムの分野も確立された。ブルジョワ市民が主な読者層となった定期刊行物は、都市によって多少の差はあるものの、演奏会レビューやオペラ関連の記事に多くの紙面を割いた。特にパリにおいては、注目オペラの初演に対して20~30もの個別記事が掲載されるのが常だった。
このように、19世紀の市民音楽文化は新たな市場を次々と生み出し、音楽を介した経済活動を活性化させた。ここで、市民社会に解放された近代音楽生活の特筆すべき現象であるブルジョワ層の台頭、公開演奏会の日常化、ヴィルトゥオーソ・ピアニストの誕生、そして楽譜出版の興隆など、いずれの現象とも密接な関係があるものとして、「編曲」の存在に注目する必要が出てくる。
実際、19世紀は西洋音楽史上、編曲が最も盛んに作られ、流通し、消費された時期である。多種多様な演奏形態の編曲が作られ、楽譜出版業の拡大と共に、市場には無数の編曲譜が出回った。なかでも楽器の改良と普及、ヴィルトゥオーソ・ピアニストの登場、公開演奏会の発達に音楽サロンの興隆といったさまざまな社会文化史的要因を背景に、この黄金期を支えたのは明らかにピアノのための編曲だった。そして、親しみやすい旋律や人気の場面に基づくオペラ編曲(いわゆる原曲に「忠実」な編曲よりも、華麗なパラフレーズ、ファンタジー、変奏曲など)は、その花形だった。
世紀初頭、こうした編曲の第一の大義には、原曲の形で聴くことの出来ない同時代の曲をより多くの人々に届ける作品の普及が挙げられたが、やがてそれは当初の目的とはかならずしも関係なく、ピアニストにとっては演奏会やサロンで欠くことの出来ないレパートリーとなった。また、原曲を上回る勢いと幅広さで社会に供給された編曲の印刷譜は、家庭にピアノを所有する音楽愛好家やブルジョワ階級の楽譜購買意欲に応える市場の人気商品になった。
大衆向けの編曲が大量に生産された結果、編曲者の名前さえ不明の、決して質の高くない楽譜が氾濫したことも事実であった。しかしオペラ編曲は編曲者、楽譜出版業者、そして楽譜購入者、すなわち供給者・流通業者・需要者のすべてに利をもたらす市民社会の一大人気商品であり、当時の音楽家にとって、その作成に従事することは不可避であり、時代の使命でもあった。
七月王政期の記念碑的ジャンル、グランド・オペラは、パリのオペラ座を出発点に、ヨーロッパ中の舞台、音楽、美術を圧倒し、ひいては文化、人々をも支配した。なかでもその典型とみなされる《悪魔のロベール》は驚異的な人気を博し、1831年のオペラ座初演以降、1893年までの60年余りにわたりほとんど休みなく758回も上演され、オペラ上演史上空前の大ブームを巻き起こした。また翌年には早くもロンドン、ベルリン上演を開拓すると、以降は破竹の勢いで、ウィーン、プラハ、フィレンツェ、サンクト・ペテルブルク、ジェノヴァ、マドリードなどヨーロッパ主要都市の舞台を征服し、《悪魔のロベール》とその作曲者ジャコモ・マイヤベーアはあの「ロッシーニ旋風」に匹敵する、そして時期的・地域的広がりの観点からはそれを遥かに凌ぐ成功を収めた。
もちろんマイヤベーアの当時の評判は、この一作に頼るものではない。1836年の初演以降、第二次世界大戦まで定番レパートリーの地位を確保し、オペラ座で800回以上も上演された《ユグノー教徒》は、彼の最高傑作と謳われる。そして《預言者》もまた、1849年の初演以降何十年にもわたり、国内外のあらゆる主要劇場のレパートリーでありつづけた。こうしたグランド・オペラの盛隆は、パリこそがオペラ文化の中心地であることを知らしめるとともに、マイヤベーアをヨーロッパ随一の人気オペラ作曲家に認定するものとなった。プロイセン・アカデミー会員やフランス学士院会員としての栄誉、各国で授与された名誉の数々は、当時の誰をも、マイヤベーアが国際的なオペラ作曲家として不朽の名声を得たものと確信させた。
では、19世紀の音楽文化を牽引したグランド・オペラの主要な観客は、一体どのような人々だったのだろうか。公開演奏会が一般化した1830年代だが、音楽、美術、演劇などの総合芸術として上演に多数の人員を要する豪奢なオペラは、依然として一般市民には縁遠いジャンルであった。この時期、新しい聴衆の開拓と取り込みに熱心だったオペラ座には、確かに半世紀前では考えられなかった市民階級が大量になだれ込むようになっていたが、それでも、観客のほとんどは、「貴族ではないとしても、社会的特権階級であったことは否めない」。彼らは(少なくとも表面上は)18世紀の宮廷文化さながら、貴族風の品位と権力を保持し続けており、パリに限らずオペラ劇場というものは、こうした階級の「社交の場」とほとんど同義語であった。労働者階級はもちろんのこと、中産階級であっても、すべての人々がオペラ劇場に気軽に足を運べるようになったわけではなかった。
加えて、オペラの上演は圧倒的に大都市で行われていた。つまり、贅の限りを尽くした演出でグランド・オペラを上演できるのは豪華絢爛な大劇場に限られており、ヨーロッパ全地域の人々がオペラ座やスカラ座、そのほか各地の宮廷劇場に集ったわけではなかった。大規模で華やかな最新のグランド・オペラを日常的に堪能していた紳士淑女とは、依然として存在した特権階級や亡命貴族、そして産業や商業の発展で大成功を収めた都市部のブルジョワ最上層だったのである。
だからと言って、19世紀ヨーロッパの文化現象とも言われるグランド・オペラが、一般市民階級に馴染みのない存在だったわけではない。ロジャー・パーカーは次のように指摘している――「都市の劇場で公開上演されるオペラが、こんにち的な意味合いで『一般的な』(popular)楽しみとは決して呼ばれえないが、しかしこの[19世紀前半]、劇場での普及が示すよりも、はるかに幅広い現象となっていた」。その現象を可能にしたものとは、パロディーや改作を含む舞台演劇、そしてヨーロッパ中に広まった無数の「編曲」であった。確かに、社交の場としてのオペラ劇場に集ったのは貴族や都市の新興ブルジョワ階級だったものの、多くの一般市民は原曲オペラの片鱗に触れる機会を、演奏会ホールや家庭で響くピアノのための編曲を通して得ていた。オペラ編曲は日常的にオペラ劇場に通うことは出来ない、あるいは都市の劇場とは縁遠い市民階層に、日々の音楽生活を豊かに彩る「一般的な」楽しみを提供するものだったのである。
しかし、ピアノ1台で演奏する編曲が、音楽、台本、演出、舞台、衣裳、合唱、バレエなどさまざまな芸術の集大成であり、上演においては「ビジュアル効果」が作品の評価に大きな影響を与えるグランド・オペラの代替になりえたのだろうか。例えば、豪華な衣裳と壮大な舞台美術、ガス灯をはじめとする前代未聞のハイテク装置など、多額の経費を費やしたスペクタクルな演出で観客を魅了した《悪魔のロベール》は、聴くだけでなく、見なくてはならない劇的でロマン的な大オペラである。
そこで登場したのが、いわゆるピアノ譜としての編曲ではなく、「オペラ・ファンタジー」、「オペラ変奏曲」、そして「追想」(Réminiscences)や「挿絵」(Illustrations)といった、新しい時代の新しい手法によるオペラ編曲だった。それは音符対音符の単なる置き換えではなく、原曲を創造的に扱い、さまざまなレベルの奏者と演奏シーンを想定して作られた、19世紀ブルジョワ市民音楽文化の産物だった。アマチュア奏者向けの編曲は市民階級の家庭で大量に消費される一方、超絶技巧を要する編曲は、多くの場合、編曲者自身が演奏会で披露し、会場を大いに盛り上げた。このように、オペラ編曲は原曲をしのぐほどの勢いでヨーロッパ中に広がり、オペラ座の聴衆にはならなかった市民階層にまで浸透してゆくことになった。編曲の素材となった原曲のほとんどは同時代の大人気オペラだったことから、こうした編曲は当時の劇場レパートリー、人々の趣味を直接反映するものだったといえるだろう。
各地で旋風を巻き起こしたグランド・オペラは、都市のオペラ劇場での上演のほか、ヴィルトゥオーソ・ピアニストたちによる編曲を介してさらに広範囲の、より多様な階層の人々にも届けられた。まさにこのグランド・オペラ全盛期の1830~40年代、ピアニストとしてヨーロッパ中を舞台に演奏旅行を繰り広げたリストは、王侯貴族、ブルジョワ階級、そして一般市民にもオペラ編曲の演奏を届けていった。なかでも1841年に相次いで完成した《悪魔のロベール追想》、《ノルマ追想》、そして《ドン・ジョヴァンニ追想》はいずれも独創的な傑作であり、各地の演奏会で欠かせないレパートリーとして活用された。原曲オペラの初演年や人気・知名度を考えると、これらの編曲作成が原曲の普及を第一の目的としたものでないことは明らかである。それは間違いなくリスト自身の演奏レパートリー用であり、事実、きわめて高度なヴィルトゥオーソ作品となっている。しかし「こうした編曲は、リストが作曲家としての能力も持ち合わせていることを世間に認知させる役割も果たしていた」と指摘されるように、オペラ編曲が有する表面的華やかさと創造的で豊かな音楽性が並存しうることを示している。
ここで、リストの演奏会曲目に注目していこう。《悪魔のロベール追想》は1841年3月27日、パリ、エラールのサロンで、一席20フランという、当時としては「とてつもなく高い、まったくもって普通ではない」入場料の演奏会で初演された。プログラムは《ギヨーム・テル序曲》で開始し、《ランメルモールのルチア追想》、シューベルトの歌曲編曲《セレナード》と《アヴェ・マリア》、ピアノ・オリジナル曲として《マゼッパ》と《半音階的大ギャロップ》が続き、完成したばかりの《悪魔のロベール追想》で締めくくられ、大興奮と鳴りやまぬ拍手で大成功を収めた。およそ二週間後の4月13日にもリストはほぼ同じプログラムで演奏会を行い、人々の熱狂は再び最高潮に達した。
さらに、4月25日の「ベートーヴェンの記念碑建立の資金集めのための演奏会」は、エクトール・ベルリオーズの指揮で、ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調をはじめとするオール・ベートーヴェン・プログラムで構成されるはずだった。しかし演奏会のさいごに聴衆が熱望したのは《悪魔のロベール追想》で、リストがそれに応じたことは、ちょっとした物議を醸す事態となった。
こうしたオペラ編曲がプログラムの骨格を占める演奏会は、グランド・オペラの中心地に限ったことではなかった。それらがドイツでのコンサートでも重要なレパートリーであったことは、マイケル・サフルの研究によっても実証されている。1840~45年の間にドイツで行われたリストの演奏会レパートリーを調査したサフルの統計によると、上位10曲のうち8曲が編曲で、そのうち6曲がオペラ編曲、2曲がシューベルトの歌曲編曲だった。演奏頻度第1位はリストのショーピース《半音階的大ギャロップ》で、約70回にのぼった。第2位は1838年に編曲した《魔王》で、65回以上登場していた。そして以下は、華麗なオペラ編曲が続く――第3位《ドン・ジョヴァンニ追想》55回以上、第4位《悪魔のロベール追想》50回以上、第5位《ランメルモールのルチア追想》40回以上、第6位《ギヨーム・テル序曲》約40回、第8位《清教徒追想》35回以上、第10位は《へクサメロン》で30回以上演奏されていた。
都市別で見てみると、のちにリストが宮廷楽長に就任することになるヴァイマルでも、プロイセン王国の首都ベルリンでも、プログラムの中心は《ヘクサメロン》、《魔王》、《ドン・ジョヴァンニ追想》、《ギヨーム・テル序曲》、《悪魔のロベール追想》、《半音階的大ギャロップ》だった。1841年末から2か月にわたる伝説的なベルリン・ツアーの初回、12月27日にジングアカデミーでの演奏会に出向いた同地の名士カール・アウグスト・ファルンハーゲン・フォン・エンゼは、会場が猛烈な喝采に包まれたこと、そしてボックス席の国王ヴィルヘルム4世をはじめ、王国の貴族たち、マイヤベーア、フェーリクス・メンデルスゾーン、ガスパーレ・スポンティーニ、音楽批評家のルートヴィヒ・レルシュタープらが聴衆として居合わせたことを記録している。この
ベルリンでリストが巻き起こした旋風と熱狂の渦は、
ハインリヒ・ハイネによって呈された「リストマニア」(Lisztmania)の用語で知られる。
海を越えたイギリスでもこの傾向は変わらず、1840年代、同地では少なくとも《半音階的大ギャロップ》、《ヘクサメロン》、《悪魔のロベール追想》、《ランメルモールのルチア追想》、《ユグノー教徒》、《ノルマ追想》がレパートリー化されていた。
リストのオペラ編曲はマルセイユの港から運ばれてきたボワスロ社のピアノを通して、イベリア半島にも届けられた。1844年10月22日、33歳の誕生日にマドリードに到着したリストは同地で4度の演奏会を開催し、再び大成功を収めた。プログラムはもっぱら《ドン・ジョヴァンニ追想》、《ノルマ追想》、《清教徒》、そして《半音階的大ギャロップ》で構成されており、即興演奏も行われた。翌年初頭、リスボンに移動したリストは12回の演奏会に登場し、華やかなオペラ編曲で人々を魅了した。
このように、ヴィルトゥオーソ・ピアニスト時代の演奏曲目は、リスト自身が手がけたオペラ編曲がすべての中心だった。同じ都市で複数回行われる演奏会シリーズの場合、各回の演奏曲目は多少変更されていたが、オペラ編曲はかならず演奏されており、なかでも《ドン・ジョヴァンニ追想》、《悪魔のロベール追想》、《ノルマ追想》、《ランメルモールのルチア追想》、《ヘクサメロン》、《ギヨーム・テル序曲》から複数曲が、ほぼ例外なく取り入れられていた。さらに、アンコール曲の定番は、ブラヴーラの典型と言われるリストの《半音階的大ギャロップ》だったが、《悪魔のロベール追想》が追加されることもしばしばだった。当時の聴衆の人気を背景に、オペラ編曲は演奏会レパートリーとして不可欠の位置、そして不動の地位にあり、リストが演奏会に登場するたびに、これらの曲はさらに多くの人々の耳に届けられていった。
実際、どれほどの聴衆がリストのオペラ編曲を耳にしたのだろうか。1841年7月上旬にハンブルクで行われた北ドイツ音楽祭の聴衆は4千人以上、翌年4月に行われたサンクト・ペテルブルクの演奏会でも、貴族協会の大ホールに駆けつけた聴衆はおよそ3千人にのぼった。マドリードでのコンサートは、「いまだかつてピアニストがソロの演奏会を開催したことはなかったほどの大劇場」というテアトロ・シルコで、一公演あたり2,000フランの巨額出演料で開催された。そのほかパリのイタリア座、ベルリンのジングアカデミー、ヴァイマル宮廷劇場、ウィーン楽友協会ホールなどいずれの会場でも、《悪魔のロベール追想》をはじめとするグランド・オペラの編曲が演奏された。リストの演奏会は通常ではオペラ上演やオーケストラの公演を行うような大劇場で行われることもしばしばで、聴衆が千人を超えることも珍しくはなかった。例えばフレデリック・ショパンがまさに同時期に、パリ・サロンの親密な社交空間で行っていたような「限定された」客人向けの演奏会とは、層も数もまったく様相が異なっていたのである。
[初出:「《悪魔のロベール》とパリ・オペラ座」(上智大学出版、2019)]