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〈超人とアンチクリスト〉 2019年11月22日(金)19時開演 東音ホール(JR巣鴨駅南口) 
浦壁信二+大井浩明(二台ピアノ) 予約フォーム

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c0050810_11094555.jpg●R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはこのように語った!》 作品30 (1896、オットー・ジンガーによる二台ピアノ版、日本初演)
  導入部(ツァラトゥストラの序説) - 背後世界論者について - 大いなる憧れについて - 歓楽と情欲について - 墓の歌 - 学問について - 病の癒えゆく者 - 舞踏の歌 - 夢遊病者の歌

  (休憩)

●R.シュトラウス:《アンチクリスト ~ アルプス交響曲》 作品64 (1915/2019、米沢典剛による二台ピアノ版、世界初演)
  夜 - 日の出 - 登り道 - 森に入る - 小川沿いに歩く - 滝 - 幻影 - 花咲く草原で - アルムの牧場で - 道に迷い茂みと藪を抜ける - 氷河で - 危険な瞬間 - 頂上で - 幻視 - 霧が立ちのぼる - しだいに日がかげる - 哀歌 - 嵐の前の静けさ - 雷雨と嵐、下山 - 日没 - 終了 - 夜




〈反キリスト者リヒャルト・シュトラウスはこのように作曲した〉―――甲斐貴也


■思想家フリードリヒ・ニーチェについて


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  思想家フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の出現は、ヨーロッパ精神史上の事件であった。その半生は病苦と無理解にさいなまれたが、1880年代から識者の間で名声が徐々に高まり、1889年1月精神の平衡を失った後の1890年代に入ると、「哲学者の発狂」というロマン派的話題性も寄与して、わずか数年の間にフランス、イギリス、イタリア、ロシア、スウェーデンの思想・文学界に絶大な影響を与える「ニーチェ熱」と呼ばれたブームを巻き起こした。ことにフランスでは爆発的に流行し、1902年メルキュール・ド・フランス誌の行ったアンケートでは、最も影響を受けたドイツの文学者・思想家として、ゲーテ、ショーペンハウアー、ヴァーグナーを抑えて、ニーチェを挙げる者が最多であったという。

  西欧で長く続いた中世キリスト教原理主義の時代は、16世紀のマルティン・ルターらの宗教改革に始まり三十年戦争に至る、カトリックとプロテスタントの対立による社会の荒廃によって終わりの始まりを告げた。続く17~18世紀の「啓蒙の時代」には、キリスト教に由来する道徳的進歩を目指す情熱と、科学的合理主義との結びつきが生み出した近代精神である啓蒙思想が、宗教支配と封建主義から離れた理性の支配する社会を目指し、結果キリスト教会の権威を弱体化させていった。

  科学的合理主義からは、創造主としての神は認めるが、歴史と運命を支配する「神の摂理」を認めない理神論が生まれ、さらには世界の創造にも神の力は必要なく、神を道徳的秩序とする無神論に発展する。19世紀にはフランス革命により国民国家が成立して封建主義が終焉し、市民社会が発生・発展したことで、新たに生まれた教養市民層に無神論と自由主義が広まった。生化学、進化論の確立と産業革命により、「科学の世紀」となったこの時代にキリスト教会の権威はさらに低下し、旧来の社会的価値観の劇的な変化(パラダイムシフト)が起きていた。

  にもかかわらず社会を抑圧し続けるキリスト教文化の因習への反発が極限まで高まっていた19世紀末に、「神は死んだ」という度肝を抜く箴言(しんげん)、言わば鮮烈なキャッチコピーによって、二千年間続いたキリスト教文化による諸価値の根本的転換を問うニーチェの出現は、「ニーチェ熱」を巻き起こした諸国の社会に充満して爆発を待つばかりであった新時代を開く機運への、まさに待望された点火であったのだ。

  一方ニーチェの故国ドイツの状況はやや異なっていた。普仏戦争の勝利によって統一されたドイツ帝国はヨーロッパ最強の軍事力と、産業・経済の発展による大国化によって自信を増したドイツは思想的に保守化していた。フランスへの勝利をドイツの文化的優位の結果と位置づけ、小市民的なビーダーマイアー期を迎え、キリスト教の権威が復活して勢力を取り戻しつつあった。ニーチェの「神の死」は、その社会情勢への痛撃であった。

  こうして20世紀思想の源流となったニーチェの根本思想が展開されたのが、代表作とされる”Also sprach Zarathustra”(『ツァラトゥストラはこのように語った』 1883-1885)である。本書は思想書であるにもかかわらず、ルター訳聖書のパロディと言われる擬古的な説話形式をとり、ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラ(紀元前13世紀~紀元前7世紀。ルネッサンス期の西欧で、形而上学の祖・キリスト教の先駆者という虚像が流布した)のドイツ語読みを借りたツァラトゥストラなる架空の人物が、ニーチェの思想に加えてその感情をも、寓意や擬人化という前時代の手法を交えたパロディによって披歴してゆく、文学とも哲学ともつかない特異な構成になっている。

  謎かけのような副題「万人のための、誰のためでもない書」を持つ本書は、抽象的な手法によってその真意の理解に、読者一人一人の思索と内省、自己変革を要求する。従って、そこに記されたニーチェの思想の概要をここで伝えるのは不可能であり無意味だが、シュトラウスの楽曲にかかわる範囲でまとめるならば、2つのニヒリズムの克服ということになるだろう。ひとつは、捏造された神と彼岸世界を信じて、人間が実際に生きる地上の世界の価値を認めず蔑視するニヒリズム。もうひとつは、その克服により神を失うことで存在の意味と価値を見失う虚無感としてのニヒリズムである。

  「神の死」によりキリスト教のニヒリズムから自由になった人間を待ち受けるのは、新たなるニヒリズムの深淵である。この世に真理は存在せず、人間の生には何の意味もなく、行くべき来世もない。無常の人生は苦しみに満ち、人間は苦悩に病んで死を待つ死刑囚である。このような世界に生まれ落ちたこと自体が誤りで、最も良いのは生まれないことであり、次に良いのはなるべく早く死ぬことである。

  その生の苦しみを和らげ慰め、一時的にも苦痛を忘れさせるのが芸術・音楽の力であるという、哲学者ショーペンハウアーの厭世哲学と、音楽論に強く共感したリヒャルト・ヴァーグナーの創作した天才的音楽芸術作品にニーチェは心酔し、ニーチェを優れた理解者と認めたヴァーグナーとの幸福な交友が始まった(ショーペンハウアーも一般レベル以上の音楽愛好家であったが、ヴァーグナーの進歩的音楽は理解できず、その好意を受け入れなかった)。その後不幸ないきさつからニーチェはヴァーグナーと決別し、ヴァーグナーがキリスト教に回帰した『パルジファル』を徹底批判することになる。前述のようにドイツでキリスト教が勢力を取り戻す中、ヴァーグナーが無神論から転向して神による「救済」をテーマとしたことは、思想的な必然性ではなく、バイロイト劇場の顧客たる富裕層に気に入られる作品を作ろうという商策だというのである。

  ショーペンハウアーとヴァーグナーの、ニヒリズムからの消極的な逃避を乗り越え、ニーチェは『ツァラトゥストラ』で明快に「神の死」を告げ、宗教的価値観に縛られた人間を克服する「超人」という寓意的概念と、ニヒリズムを克服する「永遠回帰」という謎めいた思想を提示した。


■作曲家リヒャルト・シュトラウスについて


  そして、若き日にニーチェと同じくショーペンハウアーとヴァーグナーに心酔した作曲家リヒャルト・シュトラウスは、ニーチェ思想との出会いにより蒙を啓かれ、同じくショーペンハウアー/ヴァーグナーの厭世哲学と決別し、地上世界を肯定する独自の道を見出していった。

  リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)は、バイエルン宮廷管弦楽団の首席ホルン奏者フランツ・シュトラウスを父とし、有名なビール醸造業者プショル家(現ハッカー‐プショル社)の娘ヨゼフィーネを母として生まれた。父の意向で音楽学校には進まず、その同僚たちからピアノ、ヴァイオリンを学んだ後、作曲を宮廷楽長フリードリヒ・ヴィルヘルム・マイアーに師事する。ミュンヘン・ルートヴィヒスギムナジウム(ドイツの中高一貫校)では歴史とゲーテをはじめとする古典文学に興味を持ち、ソフォクレスの『エレクトラ』を学んだ折には、その一節に合唱曲を作曲して学園祭で演奏された。

  ヴァーグナー嫌いの父と異なり、リスト、ヴァーグナーを敬愛する師マイアーの影響もあって、シュトラウスは『トリスタンとイゾルデ』、『ニーベルングの指輪』に熱中し、1882年のギムナジウム卒業祝いには、バイロイトで父の出演する『パルジファル』初演を鑑賞した。そのゲネプロを見学した時に、18歳のリヒャルトは翌年没する巨匠ヴァーグナーの姿を遠くから見たという。ギムナジウム卒業後は父の勧めもあり、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ミュンヘン大学)哲学科に進学し、ショーペンハウアー哲学に関心を持つが、音楽の道に専念するため一年余りで中退した。

  この頃、父親の同僚で、後年ドヴォルザークにチェロ協奏曲を献呈された名チェリスト、ハンス・ヴィーハンの妻で4歳年上のドーラと知り合い恋仲に発展し、その「ヴァーグナー的許されざる愛」の関係は、シュトラウスの結婚まで続くことになる。

  若くして早くも2曲の交響曲を含むいくつかの作品で好評を得たシュトラウスは、大指揮者ハンス・フォン・ビューローに才を認められ、1885年ビューローが楽長を務めるマイニンゲン宮廷管弦楽団の副指揮者となった。そのコンサートマスターの一人で親しくなった作曲家・詩人のアレクサンダー・リッターは、ヴァーグナーとショーペンハウアーの使徒であり、二人の著作をシュトラウスに叩き込んだ。

  ソナタ形式はベートーヴェンによって極められた以上、それに固執するブラームス、ブルックナーとは異なる新しい形式を求めるべきとするリッターは、詩的テキストが形式の構成要素となるリストの交響詩に倣うようシュトラウスに勧め、以後このジャンルが、シュトラウスの管弦楽作品の主要部門となる。また歌曲では、今日も広く愛唱される名歌曲「献呈」「万霊節」を含む傑作ぞろいの『8つの歌曲集』作品10を発表しており、歌曲作家としての早熟の天才ぶりに驚かされる。

  1886年、マイニンゲン宮廷管弦楽団との契約切れにより、シュトラウスはミュンヘン宮廷歌劇場の第三楽長に着任する。この時代指揮者としては不遇であったが、イタリア静養旅行の成果とも言える交響的幻想曲『イタリアから』から、作曲家としての個性が確立されてゆく。ミュンヘンには夫と離婚した年上の恋人ドーラが住んでおり、交際が続いていたようだが、1887年にはのちに妻となるソプラノ歌手パウリーネ・デ・アーナと出会う。同じ年にはライプツィヒで、その後盟友となる指揮者・作曲家グスタフ・マーラーと面識を得ている。

  1888年、最初の交響詩『ドン・ファン』を作曲し、翌年ヴァイマールで初演されるこの斬新な傑作は、新進作曲家シュトラウスの名声を確立することになる。続いてこれも今日名曲として名高い交響詩『死と浄化』、そして同『マクベス』を作曲するが、これらの作品に共通するのは、リッターを介して受けたショーペンハウアー・ヴァーグナー流の、ほの暗い情念の渦巻く世界苦とペシミズム、死のテーマである。

  1889年にはミュンヘンの地位を辞してヴァイマール宮廷歌劇場の副楽長となる。熱烈なヴァグネリアンであったシュトラウスは、ヴァーグナーの『ローエングリン』を父から借金をしてまで理想的上演に努め、バイロイトから観劇に来たコジマ・ヴァーグナーに才を認められ、バイロイト祝祭劇場で大指揮者ヘルマン・レヴィの助手を務めた。それからシュトラウスはコジマと急速に親しくなり、彼女を教祖とする新興宗教のようなバイロイト・サークル(ヴァーグナーの思想と音楽に影響された音楽家・知識人の集まり)に取り込まれてゆく。

  作曲家・指揮者として上り調子のシュトラウスだったが、多忙な生活がたたって健康を害し、コジマが約束したバイロイト・デビューを断念して療養に専念することになる。そして1892年秋、医師の勧めにより、ギリシャ・エジプトに長期静養のためギリシャ・エジプトに向かう。アテネでの遺跡の見分はシュトラウスに古代ギリシャ文化への愛着を生み、後年の名作オペラ群の創作に活かされることになる。カイロでは「棕櫚とバラとアカシアの国」エジプトに魅了され、シュトラウスは肉体的にも精神的にも健康を取り戻していった。

  休暇中に取り組んでいたのが初のオペラ作品『グントラム』で、アテネで自ら台本を完成し、カイロで大半の作曲を終えた。リッターに勧められたショーペンハウアー的題材によるヴァーグナー風の楽劇だが、シュトラウスはその結末を、初期の構想であった主人公の告解による贖罪から、世俗と愛を断念して孤独の中に自ら罪を引き受け、自らを裁く形に改めた。シュトラウスは既にマイニンゲンでニーチェの『悲劇の誕生』を読んでいたと思われるが、エジプトでその『アンチクリスト』を読み、その激烈なキリスト教批判に感化され、ショーペンハウアーの思想から離脱していたのである。のちにシュトラウスは、ニーチェを読んだことが、15歳の頃から感じていたキリスト教への反感、告解によって信者の罪を免れさせてしまうことへの疑念を決定づけたと回想している。

  この件は、筋書きの変更を厳しく非難したリッターとの決別を招いた。さらに、ヴァーグナーが『パルジファル』でキリスト教へ回帰したことを激しく攻撃したニーチェの思想への接近は、コジマとの関係にもひびを入れることになった。愛弟子となっていたパウリーネのバイロイト出演をコジマが一方的にキャンセルし、憤激したシュトラウスが抗議する事件が起こり、1894年7月には『タンホイザー』を指揮してようやくバイロイト・デビューを飾るが、聴衆の不評とバーナード・ショーら批評筋の酷評を受け、以後コジマの存命中には二度とバイロイトに招聘されることはなかった。

  『グントラム』は1894年5月ヴァイマールで初演された。公演は4回で終わったが、まずまずの成功であった。その年の9月にシュトラウスは、生涯の良き伴侶となる婚約者パウリーネと結婚し、ヴァイマールの地位を辞してミュンヘンに戻り新居を構える。ミュンヘン宮廷歌劇場音楽総監督ヘルマン・レヴィの意向により、ミュンヘン宮廷楽団第一楽長という、願ってもない地位を得て、故郷に錦を飾ったのである。ところがこの職は長続きしなかった。

  1895年11月、『グントラム』のミュンヘン初演が行われたが、リハーサルから歌手と楽団員のボイコットにあい、なんとかこぎ着けた上演は、最後までまともに歌えた歌手はパウリーネだけという、破滅的失敗となった。この失敗はシュトラウスに大きな失望をもたらし、しばらくの間オペラの創作から離れることになる。歌手と団員を敵に回したシュトラウスは、翌年には歌劇場管弦楽団によるオーケストラ演奏会の指揮者もはずされる。嫌気のさしたシュトラウスは、1898年ミュンヘンを辞してベルリン・フィルの指揮者に就任する。

  指揮者としては不毛に終わった第2のミュンヘン時代だが、作曲家としてはその個性を確立する実りある時期となった。音詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、『ツァラトゥストラはこのように語った』、『ドン・キホーテ』という屈指の名作を生み出したのである。そして『グントラム』ミュンヘン上演の大失敗にも、かつてのようにストレスで健康を害することなく、苦境に前向きに立ち向かっていく力強さを身につけていた。

  ミュンヘン着任直後から作曲を始めた、民話を題材とする『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』は、熟達の管弦楽法に加え、それまでのシュトラウスの作品になかったユーモアと諧謔に満ちており、『ドン・ファン』、『死と浄化』、『マクベス』のショーペンハウアー=ヴァーグナー的世界苦、ペシミズムと一線を画している。『グントラム』の変更された結末に現れたニーチェ思想の影響が、いよいよその姿を現し、以後のシュトラウスの作品における、架空の彼岸よりも現世と人間を愛する現実主義が確立されるのである。

  そのニーチェの主著『ツァラトゥストラはこのように語った』の名を冠するシュトラウスの新作音詩は1896年に作曲された。読書家のシュトラウスはニーチェに傾倒し、ニーチェの友人だったフリードリヒ・レーシュとの手紙を交換や、1893年の秋にはアーサー・ザイドルとニーチェの主要な作品の全般について話し合うなど、その著書に精通していた。

  前述のように19世紀末の知識層には「ニーチェ熱」が蔓延し、熱狂的な崇拝者とともに非難の声も高まっていた。その思想を精神病による道徳的狂気とみなし「悪魔ならびに嘘の父の預言者」「誇大妄想」といった誹謗がまかり通る一方、L.シュタイン『ニーチェの世界観とその危険』(1893)の「彼に刺激されて産声を上げた《貴族たち》ほど笑止千万なものはない。彼らは襟の汚れたシャツを着て顔も剃らずにライプツィヒの街をうろつき、超人風をひけらかしている」という「ニーチェ熱」に浮かされた人々の風俗への非難には、ニーチェ崇拝の軽佻浮薄な一面を垣間見ることができる(『ニーチェを知る事典』ちくま学芸文庫より)。


音詩『ツァラトゥストラはこのように語った』について


  こうした状況下で、既に音詩『ドン・ファン』、『死と変容』、『ティル・オイレンシュピーゲル』といった、水際立った楽曲を発表していた新進気鋭の作曲家リヒャルト・シュトラウスが『ツァラトゥストラ』による管弦楽作品を作曲しているというニュースがいかに注目の的となったか。この作品におけるシュトラウスのニーチェ解釈についての論議は、作品の初演どころか作曲中すでに始まっていたのである。

  1896年初頭、シュトラウスがオーケストレーションを始める前に、「ノイエ・ムジーク・ツァイトゥング」誌に、作曲家の周辺から出たと思われる匿名の記事が掲載された。曰く、「リヒャルト・シュトラウス氏は交響詩『ツァラトゥストラ』を作曲している。音響の超人。音楽に表現されたニーチェの思想!」。シュトラウスに人々が期待し、あるいは非難しようとしたのは、「ニーチェ哲学を直接音楽に変換した作品」であった。シュトラウスはニーチェ崇拝と非難の論争から距離を置くため、「ニーチェに倣って、自由に」という副題を追加して、次のように説明したとされる。


  「哲学的な音楽を書いたり、ニーチェの素晴らしい作品を音楽的に描いたりするつもりはありませんでした。人類の起源から宗教、科学と、ニーチェの超人のアイデアまでのさまざまな発展段階を通じて、人類の進化を音楽で伝えることを意図していました。音詩全体は『ツァラトゥストラ』で最大の例示が見られるニーチェの天才へのオマージュとして意図されています。

(ノーマン・デル・マーが1962年の著書で、シュトラウスの1897年の発言として英訳を引用した有名なものだが、ヴェルベックによるとそのドイツ語の出典は確認されていないという)


  こうした作曲家の注釈と説明により、本作はニーチェ『ツァラトゥストラ』の標題的解釈による作曲ではなく、「その中心的な概念を音楽的構成そのものに置き換えている」(音楽之友社ポケットスコアの小鍛冶邦隆による解説より)と見るのが大方の一致するところである。

  だが作品中にはツァラトゥストラの哄笑や12回の鐘の音など、明らかな描写的手法も見られ、作品の構成には起承転結的物語の推移を感じることができる。総譜に記された原著の章名の順序は前後しており、原著の構成とは異なる筋立てが設定されているように見受けられる。また、途中で音楽の局面が変わる「病から癒えつつある者」で顕著だが、総譜の各所にカッコつきで記された原著の章名の位置は、必ずしも楽曲構成の切れ目と一致していない。


(1)(序説)(第1部~序説1/10)

(2)背後世界論者について(第1部3/22)

(3)大いなる憧れについて(第3部 14/16)

(4)歓楽と情欲について(第1部 5/22)

(5)墓の歌(第2部 11/22)

(6)学問について(第4部 15/20)

(7)病から癒えつつある者(第3部 13/16)

(8)舞踏の歌(第2部 10/22)

(9)夢遊病者の歌(第2部 9/22)


  ヴェルベックによれば、公式的な説明以外に私的・内的なプログラムが存在しており、初期の段階における作曲者のメモにそれを垣間見ることができる。その「崇拝―疑念」、「疑いの認識―絶望」、「夜明けの復活」というキーワードは明らかに楽曲構成のアイデアを示している。シュトラウスと親しかった作家アルトゥール・ザイドル Arthur Seidl(1863-1928)は、エッセイ『ツァラトゥストラはこのように歌った Also Sang Zarathustra』(1900)で、「病から癒えつつある者」に自伝的意味があるとし、シュトラウスの「古い神々:ヴァーグナーとショーペンハウアーから新しい預言者ニーチェへ」の改宗を指摘している。

  この時期のシュトラウスと数多くの手紙のやり取りや家族ぐるみでの交流のあった仏文学者ロマン・ロランの日記には、シュトラウスの構想について、自然の謎に直面した英雄が、宗教によってもユーモアによってもついに満足できない無力感だとする解説がある。

  この説明では、交響詩の物語の主人公は、ツァラトゥストラではなく「英雄」となっている。それはニーチェ思想との出会い以後の音詩『英雄の生涯』、『家庭交響曲』、『アルプス交響曲』に設定された主人公と同一の、すなわち作曲家シュトラウス自身と見ることもできるだろう。つまり音詩『ツァラトゥストラ』で構成される物語は、ニーチェ思想との出会いにより、ニーチェと同じくヴァーグナー/ショーペンハウアーの影響を脱して自己変革を成し遂げ、ヴァーグナーの追従者を脱して作曲家としてのオリジナリティを確立し、厭世思想を克服して享楽主義的作風に転換した、作曲家自身の成長物語と言えよう。


  近年出版された、シュトラウス研究の権威ヴァルター・ヴェルベックの著書 "Richard Strauss Handbuch" (2014)で、シュトラウス自身による原書テキストを引用した書き込みがシュトラウス所有の総譜に残されていることが明らかにされた。本稿ではシュトラウス自身が引用したテキストと、ロマン・ロランによる解説をもとに、音詩楽曲構成の基になっているはずの内的プログラムを考察する。(テキスト翻訳:甲斐)


(1)導入部(ツァラトゥストラの序説)


出版譜の冒頭には『ツァラトゥストラ』の10編からなる「序説」の第1部分が置かれ、序奏部はこの情景を描いた音楽とされる。


ツァラトゥストラの序説

フリードリヒ・ニーチェ


ツァラトゥストラは30歳で故郷とその湖を去り山に入った。ここで自らの精神と孤独を楽しみ、10年の間飽くことがなかった。だがついにその心が変わる時が来た。―ある朝、彼は日の出とともに起き、太陽の前に歩み出て、このように語った。


  「偉大な天体よ! もしあなたに照らすべきものがなかったなら、あなたに幸福はあるだろうか。

  10年間あなたはわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしの鷲と蛇がいなかったなら、あなたはあなたの光と道とに飽き果てていたことだろう。

  だがわたしたちは毎朝あなたを待ち受け、あなたから溢れこぼれるものを受け取り、その代わりにあなたを祝福した。

  見られよ! 蜜をあまりに集め過ぎた蜜蜂のように、わたしもおのれの知恵に飽き果てている。わたしはそれを受け取るべく差し出される手を必要とする。

  わたしは贈り、分け与えたい。人間のなかの賢者が今一度その愚かさを悟り、貧者が今一度その豊かさを喜ぶまで。 

  そのためにわたしは深みへ降りていかなければならない。あなたが夕方に海の背後に沈みゆきながら、なおも下界に光をもたらすように。あなた、溢れるほど豊かな天体よ!

  わたしは人間たちのところへ下ってゆく。人間たちの呼び方をすれば、あなたと同じく 没 落 す る(untergehen) のである。

  わたしを祝福されよ、あまりに大きな幸福をも嫉妬なく見られる安らかな目よ!

  この杯を祝福されよ、水が黄金色をなして流れ出し、いたるところにあなたの歓喜の反映を運ぶようにと、溢れることを欲するこの杯を!

  見られよ! この杯は再び空になろうと欲する。そしてツァラトゥストラは再び人間になろうと欲する。」


―このようにしてツァラトゥストラの没落(untergang)は始まった。


〔第1部~序説1/10〕


  オルガン、コントラバス、大太鼓の低く鳴る地響きのような持続音の上に、「自然の動機Natur Motive」がトランペットにより荘厳に奏される。クライマックスに達し全管弦楽がハ長調の和音を最強奏して断ち切られ、オルガンのみが残って轟然と鳴り響く。

  作曲家公認の解説に記されている「自然動機」という名称だが、筆者が調べたところでは、原著で「自然 Natur」という語が使われているのは第2部の「詩人について」でのただ一か所であり、それも全く重要な語でないことから、この最重要モティーフの名称としては疑問がある。この序奏モティーフが、ツァラトゥストラの偉大な思想の比喩としての太陽であり、ニーチェ思想の偉大さの象徴であることは間違いないので、本稿では「ZN動機 (Zarathustra-Nietzsche Motiv)」と呼称することにする。


(譜例)


  この「序説」の第2部分で、山を下りる途中ツァラトゥストラは森に住む老いた「聖者」と出会い、神と人間について問答する。神を愛する聖者と人間を愛するツァラトゥストラはかみ合わず、別れたのちにツァラトゥストラが独白するのが名高い「神は死んだ」である。

  「こんなことがあるのだろうか! あの老いた聖者は森の中にいてまだ聞いていないのだ、神は死んだということを。」(第1部~序説2/10)


(2)背後世界論者について Von den Hinterweltlern (第23小節)


  かつてツァラトゥストラもまた、すべての背後世界論者たちと同じく、彼岸の世界に妄想を馳せた。わたしに世界は、苦悩し責めさいなまれた神の作品と思われた。

そのとき世界は、ひとりの神の夢であり詩作であると思われた。崇高にして満ち足らざる者が、その眼前に漂わせた多彩で儚い靄かと思われた。(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


  暗いロ短調で「憧れの動機」が奏される。(譜例) 宇宙の謎の解明を希求し、知恵と認識を深めようとする精神、つまり人間の主題である。ZN動機と共に最重要の動機であり、ロマン・ロラン言うところの「英雄(主人公)」であり、自伝的プログラムとしては作曲家自身を表すと思われる。ホルンにグレゴリオ聖歌の「クレド(我は信じる)」(23-24)が現れ、変イ長調の祈りの音楽が始まる。(35-)


クレド(譜例)


  弦楽は20にも分割され、オルガンが伴奏する。教会で多人数の信者が祈る情景であろうか。美しく感動的な音楽に皮肉や揶揄は見られないが、かすかな疑念が管楽器で奏される。背後世界論者とはニーチェの造語で、地上を生きるに値しない苦界とし、天国・来世といった肉体を捨ててゆく彼岸世界の存在を説く宗教者、すなわちキリスト教徒を指す。ロマン・ロランはこの章を「宗教思想について」と記している。


  この世界、永遠に不完全なこの世界。永遠の矛盾の反映、それも不完全な反映―不完全な創造者の陶酔した喜び、それが世界だとかつてわたしには思われた。

こうしてわたしはかつて、すべての背後世界論者のように、彼岸に妄想を馳せた。だがそれは真実の彼岸であったのか?(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


(3)大いなる憧れについて(75-)

  「憧れの動機」が再びロ短調でチェロとファゴットに現れ、弦楽でグレゴリオ聖歌「マニフィカト」が奏されると続いてロ長調となるが、木管に「ZN動機」が異質なハ調で現れて信仰への疑念を提示する。(82-)


  ああ、兄弟たちよ、わたしが作り出したこの神は、すべての神と同じように、人間の作ったものであり、その妄想の産物だったのだ!

  その神は人間であった。わたしの自我の貧弱な断片に過ぎなかったのだ。その幽霊はわたし自身の灰と残り火から、わたしのところにやって来たのだ。まことに! それは彼岸から来た者ではなかったのだ!

兄弟たちよ、それから何が起こったかと言うか? わたしは苦悩する自分自身を克服し、自分の灰を山上に運び、わたしが発明したより神より明るい炎を持ち帰った。

  すると見よ! その幽霊はわたしから退散したのだ!(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


  「世界背後論者」の動機が再現して「憧れの動機」と対立、拮抗するなか、「自然の動機」が断続的に現れる。この部分にシュトラウスが書き留めたニーチェのテキストは「世界背後論者」のもので、それが楽曲前半のほとんどを占めているのは注目される。「背後世界論者」の動機と「憧れの動機」との闘争のクライマックスにトランペットの「自然の動機」が現れ、ついで劇的に「歓楽と情欲について」の部分になだれ込む。

(98-)

  耳傾けよ、わが兄弟たちよ、健全な身体の声に。それはより誠実で、より純粋な声である。(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


(4)歓楽と情欲について(115-)

  この部分にニーチェのテキストは引用されていない。

  「背後世界論者たちの動機」に対して優勢となった「憧れの動機」がハ短調で情熱的に展開される。その頂点においてトロンボーン3本による「嫌悪の動機」が提示される。これは「自然の動機」「憧れの動機」と並び重要な動機となる。主人公はキリスト教で悪とされる、地上の歓楽と情欲に耽ろうとするが、それに満足できず飽きてしまう。この動機の出現により情熱的音楽は減衰する。年上の不倫の恋人、ドーラとの恋愛関係が想起される個所である。


嫌悪の動機 譜例


(5)墓の歌(164-)


  「あそこに墓の島、沈黙の島がある。そこにはわたしの青春の墓もある。あそこへ青々とした常緑樹の葉環を捧げに行こう。」

  このように心に決め、わたしは海原を越えていった… 。

  おお、お前たち、わたしの青春の面影と幻よ! おお、お前たちすべての愛の眼差し、お前たち、神々しい瞬間よ! どうしてこんなにも早く死んだのだ! 今日わたしは亡き友のように、お前たちを偲ぶ。

わたしの亡き最愛の友よ、お前たちからわたしに漂う甘い香りは、心をとろかし涙を誘う。まことに、それは孤独な船乗りの心を揺さぶり、そして砕く。

(「墓の歌」〔第2部 11/22〕)


  ツァラトゥストラの教説集である『ツァラトゥストラ』の中で、「夜の歌」、「舞踏の歌」と並び、ツァラトゥストラの心情が吐露される散文詩の章である。この章はこの後、その青春は殺されたと言い、その殺害者たちへの憤りを延々とつづって行く。その執拗さにはいささか当惑するほどだが、この章はニーチェのヴァーグナー・コジマ夫妻との親しい交流への哀惜と、ヴァーグナーへの愛憎併存の感情を込めているとされる。

  ヴァーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』からイゾルデのセリフ「そもそもどのようにしてわたしはそれに耐えたのか?」が引用され、「最愛の歌い手」(ヴァーグナー)が、重苦しい歌曲(キリスト教を題材とするヴァーグナーの神聖舞台祝典劇『パルジファル』)を歌って自分を苦しめたと訴える。

  ニーチェは後年の著書『この人を見よ』で、『ツァラトゥストラ』の執筆開始の年が、ヴァーグナーの死の年であったことを特筆し、離反して以後、厳しい批判の対象ともしたヴァーグナーへの、変わらぬ敬意と哀惜を表明している。ヴァーグナーが亡くなったヴェニスの地にかつてニーチェが滞在した折、借りた屋敷の窓から、墓地の島であるサン・ミケーレ島が見えることを、ニーチェは気に入っていたことから、「墓の島」とはサン・ミケーレ島のイメージともされる。

  この全編中特異な章を選んだシュトラウスの意図も同じところにあったのではないだろうか。ニーチェと同じくヴァーグナーの音楽に深く傾倒し、その死後とはいえヴァーグナー家に出入りし、バイロイトでヴァーグナー作品を指揮するなど重用され、ヴァーグナー風の楽劇『グントラム』を作曲していたシュトラウスは、ニーチェ思想との出会いを機に、ヴァーグナーの影響下を抜け出し、独自の道を見出していくのだから。


  音楽はロ短調に戻り、前章の素材を用いて痛切な哀歌が歌われ、「自然の動機」による緩やかなクライマックスを形成する。小鍛冶邦隆は「憧れの動機」をクラリネットからチェロに受け渡す結尾について「ヴァーグナー風の『移行の技術』を思わせる」と評している。


(6)学問について

  この章にシュトラウスはテキストを引用していない。原著ではひとつ前の「憂愁の歌」に続いて章の主役と言える登場人物である、俳優的芸術家の「年老いた魔術師」は、その設定と、セリフにヴァーグナーの言葉が引用されていることから、ヴァーグナーがモデルであることが定説化している。

  狡猾な扇動家として描かれる老魔術師には、ニーチェの愛憎併存の感情が見て取れる。原著ではそれぞれ第2部(11/22)と第4部(15/20)にある、ヴァーグナーに関連した2つの章を連続させたことは、キリスト教への帰依と疑念を描く「背後世界論者について」「大いなる憧れについて」「歓楽と情欲について」の3つの章に続いて、ニーチェの、ヴァーグナーの音楽とショーペンハウアーの厭世思想への傾倒と反発を描く意図と読むこともできるだろう。前述のザイドルの説に従うなら、次の「病から回復しつつある者」がそこからの離脱を描くことで3章一組になる。

  原書における前章で老魔術師が歌う「憂愁の歌」の「狡猾に仕組まれた悦楽の網」に、ツァラトゥストラの弟子たちは誘い込まれる。シュトラウスの楽曲では、魅惑的な悲歌である「墓の歌」が、原作の「憂愁の歌」の役割を担っているとも言えるだろう。「自然の動機」を基にした12の半音を含む陰鬱な主題によるフガートに始まり、一旦高揚してからロ長調に転じる。


(7)病から回復しつつある者(201-)


  「学問について」のフガート主題と嫌悪の動機の二重フーガに始まる。宗教を捨てたためのニヒリズムをも克服するという、ツァラトゥストラの根本思想となる永劫回帰がついに姿を現そうとする。だがこの思想を受け入れるには大きな障害がある。世界のすべてが反復されるのならば、この世の愚劣も卑小もまたすべて繰り返されることを受け入れなければならない。その嫌悪感にツァラトゥストラは吐き気を催す。


(263-)

  嬉しや! おまえはやってくる、― おまえの声が聞こえる! わたしの深淵が語っているのだ、わたしの最後の深みが明るみに出るのだ!

嬉しや! 近く寄れ! 手を握らせよ ―― あっ! 放せ!  ああ! ―― おぞましい、おぞましい、おぞましい ―― ――情けない!


(321-)

  ツァラトゥストラはそう発するやいなや死んだように倒れ、長い間死体のように横たわった。そして我に返ると、青ざめて震え、横たわったまま長いこと飲みも食いもしなかった。


  ZN動機が全管弦楽のfffで轟然と再現される。注目されるのは、序奏で管弦楽が静まった後も鳴り響いて存在感を示したオルガンが、この再現を最後に、それ以後の全曲後半では一切姿を現さないことである。キリスト教との対決を描いた「背後世界論者について」と続く2章では、マニフィカト音形を奏するなど、キリスト教会の象徴として用いられているので、その呪縛が断ち切られたことを表現しているとみてよいだろう。

  この直後にシュトラウスは第1部序説5の一節を引用しているので、曲頭の「序説」の再現であるとも言える。ツァラトゥストラが市場の民衆に向かって、彼らにも人間の内なる可能性のあることを説く。(338-)


  あなたがたに言おう:踊る星を産み出そうとするには、人は自らの中に更なる混沌を宿していなければならない。あなたがたに言おう:あなたがたはいまだその中に混沌を宿しつづけている。(「序説」(第1部~序説5/10))


  ツァラトゥストラは動物たちのとりなしにより嫌悪の打撃から立ち直る。


(8)舞踏の歌(409)


  ここでは原書における前章「夜の歌」の一節が引用される。(561-)


  夜がきた。愛する者たちのすべての歌が今や目覚める。そして、わたしの魂もまた、ひとりの愛する者の歌である。(「夜の歌」〔第2部 10/22〕)


  続いて「大いなる憧れについて」の一節が引用される。(661-)


  しかし、おまえが泣きたくないならば、おまえの深紅の憂愁に泣きはらしたくないならば、おまえは歌わなければならない。おお、わたしの魂よ! …見よ、このようにおまえに予言するわたしは、自らにむけて微笑んでいる:

…激越に歌わねばならない、すべての海が静まり、おまえの憧れに耳を傾けるまで、…

(「大いなる憧れについて」〔第3部 14/16〕)


  心を高めよ、あなたがた良き舞踏者よ、高く、より高く! そして忘れるなかれ、良き笑いをも! …笑いは聖なるものとわたしは宣する。あなたがた、ましな人間たちよ、わたしから学ばれよ...笑いを!(「ましな人間について」第4部 13/20の20/20)

(der höhere menschの訳語は、高等な人間 貴人 ましな人間 などがあるが、超人と「終わった人間」の間なので、ましな人間が適当だろう))


  音楽はZN動機と背後世界論者のコラールを用いた第1のワルツ、舞踏の動機による第2のワルツからなる。弦や木管に笑い声を模倣する音形が現れ、舞踏者ツァラトゥストラ、哄笑者ツァラトゥストラが暗示され、ニーチェ思想へのオマージュが明らかとなるが、問題はワルツという形式の採用である。

  作曲当時ワルツは舞踏会の伴奏音楽で通俗なものとみなされ、管弦楽団の演奏会で上演されることはなかった。それをわざわざ導入し、前半のオルガンが姿を消してから前面に現れるヴァイオリン独奏が活躍する、大変に上機嫌で幸福な舞踏音楽を繰り広げるさまに筆者は、シュトラウス自身の、新妻パウリーネとの結婚の喜びが投影されているように思えてならない。


(9)夢遊病者の歌(876-)

  ここにテキストは引用されないが、「もうひとつの舞踏歌」に由来するとみられる、鐘の12連打があるところから、その部分のテキストを参照する。(876)


一つ!

おお人間よ、心せよ!

二つ!

深い真夜中は何を語るのか。

三つ!

「わたしは眠っていた、眠っていた...

四つ!

「深い夢から目覚めた...

五つ!

「世界は深い。

六つ!

「昼が思っているよりも深い。

七つ!

「深いのはその痛み、

八つ!

「よろこび...それは苦しみよりさらに深い:

九つ!

「痛みは言う:消えよ!

十!

「だがすべてのよろこびは永遠を望む…

十一!

「...深い、深い永遠を望む!

十二!


(「もうひとつの舞踏歌 3/3」)


  喜びのワルツが大団円を迎え、夜の訪れと永遠の喜びを語って楽曲は静かな終焉に向かう。ロ長調の木管・ヴァイオリンと、トロンボーンと低音弦のハ音がずれたまま終わる終結は、永遠回帰思想の象徴とも、ついに自然の謎に到達できない人間の象徴とも言われるが、ロマン・ロランの解説にある、ついに満足できない英雄という設定によれば後者がふさわしい。

  ニーチェの思想に傾倒し、精通していたシュトラウスだが、合理主義者の彼が、永遠回帰という謎めいた思想を納得して信じていたとまでは考えにくい。キリスト教からの離脱とは、キリスト教を否定し、別のものを信じるということではない。シュトラウスこそは、「わたしを信じるな。わたしはあなたがたを担いでいるのかもしれない。」と、批判精神を持つことを教えるツァラトゥストラの、最良の弟子であった。

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『芸術家の悲劇』から『反キリスト者―アルプス交響曲』へ――甲斐貴也


■シュトラウス14歳の実体験について


  『アルプス交響曲』の起源はシュトラウスが14歳の折までさかのぼると思われる。1879年夏、少年シュトラウスは、父親とハイキングの名所ハイムガルテン山(標高1791メートル)に登った。その「ハイムガルテンへの大冒険」を、ギムナジウムの同級生で同じく作曲家となる親友、ルートヴィヒ・トゥイレに報告した手紙が残されている。


8月26日 親愛なるルートヴィヒ!
 先日、12時間をかけた山登りをしたんだ。午前2時に馬車でふもとの村に出発し、そこから暗闇の中をカンテラを頼りに登り、5時間後に頂上に着いた。それは素晴らしい眺めだったよ。シュタッフェル湖、リーク湖、アンマー湖、ヴュルム湖、コッヘル湖、ヴァルヒェン湖、そしてイザール渓谷は山々に囲まれ、エツトハール(エッツタール?)、シュトゥーバイヤーフェルン、インスブルックの山脈、ツークシュピッツェを眺めた。そして山の反対側をヴァルヒェン湖を目指して降りるはずが、暑い日差しのなか道に迷い、3時間も彷徨い歩くことになってしまった。ヴァルヒェン湖は美しいが、左を森に、右を山々に囲まれて、寂しい印象を与える。その水は美しく輝き、明るい緑色をしていた。それから僕らは湖を船で渡り、ハイムガルテン山の隣、ヘアツォークシュタント山のふもとにある、ウーアフェルデンに向かった。そこからケッセルベルクを通ってコッヘル湖畔のケッセルベルク食堂で1時間を過ごした。
 出発するとすぐに、僕らはすごい嵐に襲われた。樹木が根からなぎ倒され、小石が顔に飛んでくるほどで、ずぶ濡れになってしまった。いつもはロマンティックで美しいコッヘル湖は恐ろしいほど波立ち、僕らの馬車を置いていた対岸のシュレードルフに渡ることなど考えられないくらいだった。結局嵐が去ってから2時間かけて、コッヘル湖岸を歩くことになった。するとまた雨が降ってきたので、1分も休むことなく急いで歩き続け、疲れ果て、びしょ濡れになって、ようやくシュレードルフに到着した。そこで一晩泊まり、翌朝にはすっかり静かになった中、馬車に乗ってムルナウに帰った。この旅は本当にたのしかった。その後数日間、僕はこの旅の行程の全てをピアノで演奏したんだ。もちろんそれは長大な音の絵画に、見かけだけヴァーグナー風のものになったがね。

  『アルプス交響曲』のプログラムそのままと言えるこの内容だが、このアイデアが作品に結実するまで30年の歳月と、構想の紆余曲折があった。

  1892年、シュトラウスはビューローから詩人ジョン・ヘンリー・マッケイを紹介される。「あした」「ひそやかな誘い」というシュトラウスの名歌曲に歌詞を提供した詩人だが、彼はビューローのかつての知人でドイツの哲学者マックス・シュティルナーの伝記を書いていた。シュトラウスはシュティルナーの主著『唯一者とその所有』を読み、そのキリスト者による自然蔑視批判と、大自然の前の人間の無力というくだりに感銘を受けた。ニーチェ思想に加えてこのシュティルナーの思想も、『アルプス交響曲』の構想に影響を与えていると見られる。


■幻の音詩『芸術家の悲劇』について


  次いでニーチェ思想との出会いにより感化され、1896年の音詩『ツァラトゥストラ』で、キリスト教とヴァーグナー/ショーペンハウアーからの離脱を描いたシュトラウスは、以後、音詩『ドン・キホーテ』(1897)、音詩『英雄の生涯』(1898)と傑作を生みだしていたが、ヴェルベックによれば、その次作に音詩『芸術家の悲劇』を構想していた。

  1900年1月28日、シュトラウスは父親に「スイスの日の出とともに」始まる新しい音詩の計画について書いた。同時代のスイスの肖像画家・彫刻家で登山家、カール・シュタウファー=ベルンの思い出に捧げられ、シュトラウスが「芸術家の愛と人生の悲劇」、「芸術的悲劇」、「芸術家の愛の悲劇」などと呼んだこの構想は、後に『アルプス交響曲』で使用されたプログラムと音楽に共通する素材を持つと考えられている。おそらく1899年から1902年にかけて制作された『芸術家の悲劇』のスケッチには、「山の主題」の初期形態と、谷に降り注ぐ太陽の光を表す下行形による「日の出」など、『アルプス交響曲』と共通の素材が多くあるという。

  シュトラウスは『芸術家の悲劇』で自然を主に描くつもりはなく、「芸術家」と「破滅」の2楽章からなるプログラムを構想していた。シュトラウスとシュタウファーには共通の知人がおり、面識もあったが、シュトラウスはシュタウファーの死後、オットー・ブラームスによるシュタウファーの伝記(1892)を読んで、その悲惨な運命を知ったという。

  カール・シュタウファー=ベルン Karl Stauffer-Bern(1857-1891)はスイス・ベルン出身。ミュンヘンで学ぶ。1881年にベルリンの国際美術展で発表されたマックス・クラインの肖像画が高く評価され、肖像画家としての名声を得た。1886年、ギリシア彫刻の崇拝者であったシュタウファーは、ベルンの資産家リディア・エッシャーとアルフレッド・エッシャー夫妻の財政的支援により、 彫刻を学ぶために夫妻と共にローマに赴いた。  ローマでリディアとの恋愛関係が発覚し、リディアの親族は彼女を精神病院に入院させ、シュタイファーは刑務所に収監された。釈放後ベルンに戻ったシュタイファーは精神を病み、何度かの自殺未遂後に1891年薬物で自殺した。精神に異常のないことを証明され解放されたリディアも、一年後に後を追って自殺した。

  シュタイファーの弟子には、高名な彫刻家ケート・コルヴィッツ、画家マリア・スラヴォーナ、クララ・ジーベルトがいる。

  ヴェルベックは、カール・シュタウファーとニーチェには明確な類似点があると指摘する。


・山の孤独に隠れて知識を求める。

・感情的安定と芸術的生産性を見いだすことを望んでの、イタリアへの脱出。

・最愛の女性との破局。

・狂気と早死。


  私見では、『ツァラトゥストラ』の項で検討した、ニーチェとシュトラウス自身の体験の類似性も重要である。シュトラウスに狂気と早世はないかわり、人妻ドーラ・ヴィーハンとの禁じられた愛は、ニーチェが一方的に想いを募らせた才女ルー・サロメへのプラトニックな愛よりも、シュタウファーとの共通性が高い。


  最終的にシュトラウスはこの構想を放棄し、1903年に発表された新作は大規模な音詩、標題交響曲『家庭交響曲』であった。練達の管弦楽法を縦横に駆使し、シュトラウスとパウリーネの幸福な家庭生活を華麗にユーモラスに描いた、『芸術家の幸福』とでも呼ぶべきこの作品と、『芸術家の悲劇』の救いのなさの落差はあまりに大きい。そしてこの曲を区切りとしてシュトラウスの主要創作ジャンルは音詩から、優れた歌手である妻パウリーネの領域、すなわちオペラに移行する。オペラ『サロメ』(1905)、『エレクトラ』(1908)、そして『薔薇の騎士』(1910)、『ナクソス島のアリアドネ』(1903)の成功によってオペラ作家としての名声を得、ベルリン・フィルの指揮者としての活動と合わせ、シュトラウスは多忙な日々を送ることとなる。


■マーラーの死、ドーラとの別れ、『アルプス交響曲』本格着手について


  1902年から1910年の間に、シュトラウスは『芸術家の悲劇』の完成を断念し、その素材を用いた新たな作品、ニーチェの山に生きる精神と、非キリスト教的自然を賛美する全4楽章の交響曲を構想していた。


『反キリスト者―アルプス交響曲』

第1楽章

 夜と日の出/登り道、森(狩り)/滝(アルプスの妖精)/花咲く草原(牛飼い)/氷河/雷雨/下山/静寂(日の出の後に、痛みに引き裂かれた心と自然との強い対比/優しい気持ち/少年時代/無邪気で宗教的な気持ちと厳しい自然の対比/無力感と慰め:自立した思考の覚醒と試み)

第2楽章

 田舎の喜び:舞曲、民衆の祭り、行進

第3楽章

 ゴヤ風の夢と亡霊

第4楽章

 創作・芸術的創造による解放・フーガ


  第4楽章の標題の意図は、シュトラウスが日記に記した「芸術的直感、芸術的生産、哲学の喜びは、苦悩すべての10倍を上回る」という考えを反映していると思われる。

  名作オペラ群作曲の多忙により遅々として進まなかった『アルプス交響曲』がようやく日の目を見るきっかけとなったのは、マーラーの死であるかもしれない。

  1911年5月、グスタフ・マーラーが50歳で死去した。シュトラウスと同時代の偉大な指揮者・作曲家であり、お互いの作品を上演し合う盟友でもあった。その前年、マーラーは短期間に終わったニューヨーク・フィル時代のデビューとなる演奏会で、シュトラウスの音詩『ツァトゥストラはこのように語った』を演奏している。病を得てヨーロッパに戻るマーラーのために、シュトラウスはベルリンで、マーラーが自作の第3交響曲(ニーチェ『ツァラトゥストラ』のテキストを歌詞に用いた作品)を指揮できるよう準備をしておくと手紙で約束し、マーラーを喜ばせている。直後のマーラーの訃報に、いつも規則正しく仕事をする習慣のシュトラウスは、一日何も手につかず、ほとんど口もきかなかったという。


 「重病の末にグスタフ・マーラーが世を去った。この野心家で、理想主義者で、精力的な芸術家の死は、まことに大きな損失だ。(中略)ユダヤ人マーラーは、キリスト教の中で自身を高めることができた。英雄リヒャルト・ヴァーグナーは、ショーペンハウアーの影響を受けたが、老人になった時、再び身を落として本来の自分に戻った。
 完全に明白なことは、ドイツ民族は、キリスト教からの解放のみによって、新しい活力を得られるということだ。(中略)わたしは『アルプス交響曲』を『反キリスト者』と名付けたい。そこには自分自身の力による道徳的浄化、創造による救済、永遠の自然への崇拝があるからだ。」
(シュトラウスの日記 1911年5月)

  この年の同じ月には、かつての恋人ドーラとの再会と別れもあった。夫ヴィーハンと離婚したドーラはミュンヘンを離れ、ギリシャ在住の資産家夫人のピアノ教師として暮らしていたが、その後故郷のドレスデンに戻り、歌劇場のコレペティートル(歌手に下稽古をつける練習ピアニストで、オペラの専門知識が必要とされる職業)として生計を立てていた。1911年当地でのシュトラウスの『薔薇の騎士』初演に際してドーラはコレペティートルを務めた。ミュンヘン時代から上品なドーラと親しく、粗忽なパウリーネと折り合いが悪かったシュトラウスの母と妹は喜んで、ドーラを自宅に招いてもてなした。しかしドーラを敵視するパウリーネにより険悪となり、以後ドーラは二度とシュトラウス家を訪ねることも、シュトラウスと会うこともなかった。

  ドーラはその後1938年に亡くなるまで居室のピアノの上にシュトラウスの写真を飾っていたという。彼女がシュトラウスに書いた多くの手紙は、遺言によって処分され、ほとんどが残されていない。

  そしてこの年シュトラウスは『アンチクリスト―アルプス交響曲』に本格着手し、第2楽章以後を放棄した、第1楽章の構想のみによる単一楽章の作品構成を確定した。上記のこの作品のテーマは、第1楽章の内容のみで、十分に表現できると判断したようである。1913年8月にスケッチが完成。オーケストレーションの完成は1915年に入ってから、オペラ『影のない女』作曲の合間にに行われた。116名を擁する大編成による、演奏時間50分を要する大曲である。


■ ニーチェ『アンチクリスト(反キリスト者)』について


  シュトラウスが『アルプス交響曲』の本来のタイトルにしていた、ニーチェ後期の著書『反キリスト者~キリスト教呪詛』は、1895年に刊行されたグロースオクターフ社のニーチェ全集で初出版された。本書はその名のとおりキリスト教への徹底的な批判・非難の書である。偉大な精神、自由な精神とは懐疑から生まれるとし、懐疑と逆の信仰への欲求を、弱さと依存への欲求とする。その序言でニーチェは本書の対象を「私のツァラトゥストラを理解してくれる読者」とし、その真意を理解するために「山頂で生きる修練――政治や民族的利己心という哀れな当世風のお喋りを足元に見下す修練が必要である」と説く。これは『ツァラトゥストラ』序説における、ツァラトゥストラの山での10年間を想起させる。

  「信仰の人、あらゆる種類の『信者』は必然的に、依存的な人間である。(中略)『信者』は自己に属していない。彼は単なる手段でしかありえない。使い捨てられるに決まっている人間である。自分を使い捨ててくれる何びとかを必要としている人間である。信者の本能は、自己滅却の道徳に最高の栄誉を与えている。自己滅却の道徳に与するように、すべてのものが、彼の智慧、彼の経験、彼の虚栄心が、よってたかって彼を説きつけている。あらゆる種類の信仰は、それ自体、自己滅却の表現であり、すなわち、自己疎外の表現なのである。」(『反キリスト者』54 西尾幹二訳)

  詩的な『ツァラトゥストラ』と異なり、キリスト教への攻撃に終始する全62章のあとに、結語として「キリスト教に対抗する律法」の「布告」をする。以下がその全文である(甲斐訳)



キリスト教に対抗する律法


救いの日、第1年の初日に公布さる (偽りの暦によれば1888年9月30日)


悪に対する決戦: 悪とはキリスト教である


第1条:

悪質なのはあらゆる種類の反自然である。最も悪質な人間は牧師である。反自然を教えているからである。牧師に反駁の余地なく刑務所が待つのみ。


第2条:

礼拝への参加はすべて、公道徳の暗殺である。カトリック教徒に対するよりもプロテスタントに対して、厳格な信者に対するよりもリベラルなプロテスタントに対して、より厳しくなければならない。キリスト者であることによる犯罪性は、学問的であるほど増大する。したがって、犯罪者中の犯罪者は哲学者である。


第3条:

キリスト教がそのバジリスクの卵を育てた悪質な場所は、破壊して平らに均し、後世の恐怖の的となる、地面の焦げた場所にしなければならない。そこで毒ヘビを繁殖させる必要がある。


第4条:

貞操の説教は、反自然への公的な扇動である。性生活に対する軽蔑、「汚れ」という言葉による不潔化は、生の聖霊に対する本質的罪である。


第5条:

テーブルで牧師と食事を共にすること:それは合法社会との関係を壊す。牧師は我々にとってチャンダーラである。彼を追い立て、飢えさせ、いずこであろうと荒野に追放する必要がある。


第6条:

「聖なる」物語は、呪われた歴史として、それにふさわしく呼称すべきである。「神」、「救世主」、「救い主」、「聖人」という言葉は罵詈雑言として用い、犯罪者の記章に利用されるべし。


第7条:

以下これよりさらに続くべし。


                                      反キリスト者


※バジリスク:人間を睨み殺す伝説上の怪蛇

※チャンダーラ:インドの被差別民


  1899年にはシュトラウスの友人、アルトゥール・ザイドルの編集により、グロースオクターフ新全集版が出版される。『反キリスト者』は当初、『ツァラトゥストラ』に続く新たな4部作として構想された『あらゆる価値の価値転換』の第1部として執筆された。しかし4部作の計画は破棄され、ニーチェは『反キリスト者』が『あらゆる価値の価値転換』そのものとみなすようになり、それを副題として『反キリスト者~あらゆる価値の価値転換』としたが、最終的に副題を「キリスト教呪詛」とした。そして自伝的内容の『この人を見よ』を先に世に出す方が、『反キリスト者』のより良い理解につながると考えたニーチェは、前者を先に出版させたが、1889年初頭のニーチェの精神崩壊により、『反キリスト者』の出版は延期されたのだった。

  第二次大戦以前に出版された『反キリスト者』は、キリストを「白痴」と呼んだ部分、ヴィルヘルム2世を揶揄、誹謗する箇所が削除されていたが、親友ザイドルが編集に携わっていたことから、シュトラウスはその箇所のニーチェの真意を知っていたと思われる。

  全4部作の構想が第1部のみになった経緯は、シュトラウスの『アルプス交響曲』の作曲経緯と酷似しており興味深い。これについてもシュトラウスがザイドルから聞き知っていた可能性はあるかもしれない。


  シュトラウスは作品の初演と出版にあたり、プロイセン宮廷歌劇場指揮者という公的な立場から、『反キリスト者』というタイトルを断念せざるを得なくなり、副題の「アルプス交響曲」がタイトルに昇格させられたとされているが、ヴェルベックによれば、これは楽曲のプログラムを隠蔽するための処置であるという。


『反キリスト者―アルプス交響曲』Der Antichrist—Eine Alpensinfonie

1)夜 Nacht

 変ロ短調の全ての音を中低音で響かせるトーンクラスター風のくぐもった序奏に続き「夜」の動機が奏され、やがて山の動機が和音で現れる。

2)日の出 Sonnenaufgang

 夜の動機が変容されたイ長調の「太陽」の動機が輝かしい姿を見せる。下行音形により、朝日が山々の谷まで下りてゆく様が描かれる。


3)登り道 Der Anstieg

 動的な「登山」の動機が低弦に変ホ長調で現れて主部、登山が始まる。これが楽曲の主要主題となる。金管に岩壁の動機が現れ、対位法展開が続く。舞台裏で奏される狩猟ホルンの動機が現れ、遠方の狩人たち、あるいは中世騎士団の幻影が示される。

4)森に入る Eintritt in den Wald

 突如ハ短調に転じ「森」の動機が現れる。ヴェルベックはT230-266を、『ツァラトゥストラ』の「世界背後論者Hinterweltlern」への言及としている。これはHinterweltlernという語が、「Hinterwalder 森の向こうの人=無知な田舎者」にひっかけたニーチェの造語であることにも関連するという。

5)小川に沿って歩く Wanderung neben dem Bache

 変イ長調のせせらぎ。

6)滝 Am Wasserfall

 せせらぎは岩壁で滝となり、ニ長調に転じてしぶきとなる。

7)幻影 Erscheinung

 しぶきは色彩の幻影、虹を作り出す。3拍子。

8)花咲く牧草地で Auf blumigen Wiesen

 8分の6拍子、パストラーレ。   


9)山の牧場で Auf der Alm

 牛の首に着けられたカウベルが聞こえる。

10)道に迷い茂みと藪を抜ける Durch Dickicht und Gestrüpp auf Irrwegen

 山登りの動機と岩壁の動機のフーガ

11)氷河で Auf dem Gletscher

12)危険な瞬間 Gefahrvolle Augenblicke

13)頂上で Auf dem Gipfel

 トロンボーンに頂上の主題がヘ長調で現れ、頂上が視界に入ったことを示す(T566)。次にハ長調で壮大に提示され、頂上への到達を示す。これは『ツァラトゥストラ』の「ZN動機(自然動機)」の変容形とされる。

14)幻視 Vision

 それまでの動機も加わって、登頂の感動と自然への畏敬の念を描く壮大なクライマックスを築く。そこに全曲で初めてオルガンが加わるのが注目される。『ツァラトゥストラ』では前半のみだったオルガンが、『アルプス交響曲』では後半のみに使われているのである。

15)霧が立ちのぼる Nebel steigen auf

 キリスト教会の象徴ともとれるオルガンの登場後、音楽に暗い影が差し始める。この部分は『芸術家の悲劇』の素材とされる。

16)しだいに日がかげる Die Sonne verdüstert sich allmählich

17)哀歌 Elegie

18)嵐の前の静けさ Stille vor dem Sturm

19)雷雨と嵐、下山 Gewitter und Sturm, Abstieg

 山の反対側を降り始める。登山の主題が転回され、下山の主題となる。ウィンドマシーンが強風を表し、木管に大粒の雨がぽつぽつと降り始め、急激に激しくなる。私見ではこの木管は「十字架音形」である。『芸術家の悲劇』で主人公に襲いかかる宗教的モラルの抑圧だろうか。

20)日没 Sonnenuntergang

21)終音 Ausklang

 日没後にふもとの教会を通りすがる。オルガンのコラールが聞こえ、これまでの楽想が次々回想される。この感動的な音楽は、「反キリスト者」を標榜するこの曲の大きな謎となっている。結局はキリスト教の祈りに取り込まれるのだろうか。だが『ツァラトゥストラ』における「世界背後論者について」の、教会で信者たちが祈る敬虔な音楽を思い起こしたい。すなわちこの教会のコラールは、背後世界論者たちの祈りであろう。祈りが結論ではない証拠に、楽曲はここで終わらない。

22)夜 Nacht

 登山の楽しみと雄大な大自然への畏敬の念。それを否定するキリスト教とはなんなのか。もやもやとした疑念が、宿で床に就いた少年の夜の夢にまとわりつく。その疑念を晴らすのは、ニーチェ思想との出会い、『ツァラトゥストラ』冒頭の夜明けを待たねばならない。


■『ツァラトゥストラ』前日譚としての『アルプス交響曲』について


  ヴェルベックは上記のように『アルプス交響曲』と『ツァラトゥストラ』の関連を指摘しているが、『ツァラトゥストラ』を、作曲家自身を主人公とする自伝的作品と捉えれば、その関連性はさらにはっきりとする。『アルプス交響曲』の原体験はシュトラウスが14歳の時であり、初めてキリスト教に疑念を抱いたのは15歳の時だったと回想していた。本作が、大自然への畏敬の念とともにキリスト教への疑念を抱いた、『ツァラトゥストラ』の前日譚的自伝的作品であるという解釈は十分成り立つだろう。

 『ツァラトゥストラ』について、後半にのみ現れるヴァイオリン独奏を、『英雄の生涯』、『家庭交響曲』で公式に用いられる「英雄の妻」の先駆けという見立てをしたが、『アルプス交響曲』にはヴァイオリン独奏が一切現れない。美しい自然情景、牧歌的風景を描く音楽にふさわしいにもかかわらず、まるで頑ななまでに使用されないのである。これは、本作がパウリーネとの出会い以前の自伝的作品だからではないだろうか。つまり本作では、ヴァイオリン独奏の不在によって、後のパウリーネとの出会いが暗示されているわけである。

 そして、ニーチェへのオマージュよりも、むしろドーラとの不倫の愛を想起させる『芸術家の悲劇』の構想が幻に終わり、代わりに幸せな家庭生活を描いた『家庭交響曲』が作曲されたのも、愛妻家シュトラウスがパウリーネのご機嫌を忖度してのことだったのではないだろうか。





# by ooi_piano | 2019-11-10 20:31 | POC2019 | Comments(0)

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【New!】
■野平一郎(1953- ):《林の中の散歩道》(1985)  間奏曲第2番「イン・メモリアム・T (武満徹の追憶に)」(1998)  《響きの歩み》(1999/2000)   《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006) 《間奏曲第7番》(2014)
■林廣守(1831-1896):《君が代》(1880) ノエル・ペリ(1865-1922)編曲(1905)  A.グラズノフ (1865-1936) [Op.96、米沢典剛編ピアノ版](1915/2019)  河村光陽(直則)(1897-1946):《君が代踊り》(1941)  溝部國光(1908-1996)編(1971)   小弥信一郎(1950- )編(1979)  三宅純(1958- )編(2016)  吉田光貴(1994- )編(2016)  久米由基(1960- )編(2018)  松尾賢志郎(1995- )編(2019)
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■L.ゴドフスキー(1870-1938):《天国のアナクレオンへ》(1780/1921)
■信時潔(1887-1965):《あかがり》(1920)
■佐村河内守(新垣隆)(1970- ):《ドレンテ》(2011)
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■夏田昌和(1968- ):《てふてふ》(2012)  
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■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902)
■姜碩煕(カン・スキ)(1934- ):《ゲット・バック》(1989)
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一般社団法人全日本ピアノ指導者協会[PTNA]のYouTubeアカウント(+α)で公開されている動画一覧 大井浩明(ピアノ/フォルテピアノ/クラヴィコード/オルガン)

【作曲家五十音順】
■A.アレクサンドロフ(1883-1946):《ボリシェヴィキ党歌》(1938)
■伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018)
■P.オリヴェロス(1932-2016):《ノルウェーの木》(1989)
■金澤攝(1959- ):《烏枢沙摩》(2018)  
■姜碩煕(カン・スキ)(1934- ):《ゲット・バック》(1989)
■喜多郎(1953- ):《絲綢之路》(1980)
■I.クセナキス(1922-2001):《シナファイ》(1969) NJP 1996 Jul. / KSO 1996 Nov.(前半後半)/LPO 2002 Mar.  《エリフソン》(1974)
■剣持秀紀(1967- ):《ピンチェ》(2015)
■L.ゴドフスキー(1870-1938):《天国のアナクレオンへ》(1780/1921)
■坂本龍一(1952- ):《エナジー・フロー》(1999)
■佐村河内守(新垣隆)(1970- ):《ドレンテ》(2011)
■清水卓也(1986- ):《町田のヤンキー》(2011)
■A.シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、テイク1テイク2)
■鈴木悦久(1975- ): 《クロマティスト》(2004)  《ピアノの練習》(2019)
■I.ストラヴィンスキー(1882-1971)(米沢典剛編):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017) [+浦壁信二(ピアノ)]
■棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/18)
■田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011)
■P.チャイコフスキー(1840-1893) (K.クリントヴォルト編): 《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73)   
■寺内大輔(1974- ):《地層》(2014)
■冨田勲(1932-2016):《きょうの料理》(1957)
■長瀬弘樹(1975-2012):《見えない星》(2007)
■信時潔(1887-1965):《あかがり》(1920)
■橋本晋哉(1971- ):《ゆたにたゆたに》(2016)
■S.バーバー(1910-1981) (米沢典剛編):《弦楽四重奏曲第1番第2楽章「アダージョ」》(1936/2017)
■林光(1931-2012):
■林廣守(1831-1896):《君が代》(1880) ノエル・ペリ(1865-1922)編曲(1905)  A.グラズノフ (1865-1936) [Op.96、米沢典剛編ピアノ版](1915/2019)  河村光陽(直則)(1897-1946):《君が代踊り》(1941)  溝部國光(1908-1996)編(1971)   小弥信一郎(1950- )編(1979)  三宅純(1958- )編(2016)  吉田光貴(1994- )編(2016)  久米由基(1960- )編(2018)  松尾賢志郎(1995- )編(2019)  
■G.プッチーニ(1858-1924)(=R.T.カッツ編):《弦楽四重奏曲 「菊」 嬰ハ短調》(1890/2017)
■C.フランソワ (1939-1978)/J.ルヴォー(1940- ):《マイ・ウェイ》(夏田昌和によるピアノ独奏版)(1967/2014)
■L.v.ベートーヴェン(1770-1827): ソナタ第20番第2楽章(1795)  交響曲第3番《英雄》第1楽章(1803)(F.リストによる独奏版、前半後半) ソナタ第23番《熱情》第1楽章(1806)  弦楽四重奏のための《大フーガ》(1826)(L.ヴィンクラーによる独奏版、前半後半)(全てフォルテピアノ独奏)
■細川俊夫(1955- ): 《メロディア II》(1977/78)
■松尾賢志郎(1995- ):《なにがでるかな?》(2019)
■松下眞一(1922-1990): 《スペクトラ第4番》(1971)
■G.マーラー(1860-1911) (米沢典剛編): 《花の章》(1888/2017)
■O.メシアン(1908-1992)(=米沢典剛編):《星の血の悦び》(1948) [+浦壁信二(ピアノ)]
■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902)
■L.J.A.ルフェビュール=ヴェリー(1817-1869):《H.ルベールの歌劇「ガイヤールのおやじ」による華麗な二重奏曲》(1852)[+金澤攝(ピアノ連弾)]



# by ooi_piano | 2019-11-08 04:47 | 雑記 | Comments(0)

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大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
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【ポック(POC)#43】 「ヤナーチェクからの眺望」 2019年11月9日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)

レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928):ズデンカ変奏曲 Op.1 (1880)  9分
  主題 Andante - 第1変奏 Andante - 第2変奏 Allegro - 第3変奏 Con moto - 第4変奏 Con moto - 第5変奏 Meno mosso - 第6変奏 Adagio - 第7変奏 Adagio

ヤナーチェク:ピアノソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」(1906)  10分
  I. 予感 - II. 死

林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)  15分
  I. - II. - III.

 (休憩10分)

ヤナーチェク:草の小径(全10曲)(1901-08/1911)  27分
  I. わたしたちの夕べ - II. 舞い散る木の葉 - III. さあ一緒に! - IV.フリーデクの聖母 - V. 娘たちは燕みたいにおしゃべり - VI. どう言えばいいのか! - VII.おやすみ! - VIII.心配でしかたない - IX. 涙にくれて - X. ふくろうが飛ばないなんて!

間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)  15分
  I. Allegretto - II. Presto

 (休憩10分)

ヤナーチェク:霧の中で(1912)  14分
  I. Andante - II. Molto adagio - III. Andantino - IV. Presto

ヤナーチェク:弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928/2018)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演)  27分
  I. Andante/Con moto/Allegro - II.Adagio/Vivace - III.Moderato/Andante/Adagio - IV.Allegro/Andante/Adagio

  [使用エディション:新ヤナーチェク全集版 (Editio Supraphon Praha)]



林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)  
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  「木々について」は、ベルトルト・ブレヒトの(第2次大戦中の)詩『あとから生まれる人びとへ』からの引用。いまという時代に自然(たとえば木々)について会話することは、他のことから、例えば無数の非行(もちろんファシズムによる)について「会話しない」こと、沈黙することであり、犯罪でさえある、と詩人は書いた。詩人に共感しつつも、なお木々について(ついても)語りたいというのが、作曲者の弁。ソナタ形式によらない3楽章からなるこの曲では、また、各楽章に音楽上の引用がある。第1楽章では、フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩による作曲者のソング『新しい歌』の旋律が引用され、第3楽章の中間部の旋律は、おなじく作曲者の歌曲『光州5月』のなかの『わかれ』の一節によっている。また、第2楽章は、沖縄童歌『がらさ(烏)』とその変奏で、歌の大意は、カラスよカラス、気をつけろ、オマエのうしろからヤマトンチュウ(日本人)が、鉄砲でお前を狙っているぞ、というようなもの。(林光)


間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)  
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  サックス奏者オーネット・コールマン(1930-2015)が無手勝流で弾くヴァイオリン演奏に想を得た《無伴奏ヴァイオリンソナタ》(1970)と並んで、フリージャズの巨星セシル・テイラー(1929-2018)に触発されたのが《ピアノソナタ第2番》(1973)である。彼らアメリカの黒人が、ヨーロッパの音楽伝統を美しく体現するヴァイオリンとピアノを、遮二無二その伝統から引きちぎり、「何が何でも自己の表現のために使い切る攻撃的な姿勢」に奮起したと云う。「そのリファインされない、荒々しい音楽の息づかいと、硬質のざらざらした響きに出会って強く引き付けられた。その経験は、当時ぼくの中にくすぶりはじめていた奥深い希求の声が、少しずつ具体的な楽想の形を取りはじめるきっかけを作ってくれたようである。《ピアノソナタ第2番》の場合でいえば、その希求は冒頭の上行する無骨なモティーフの形を次第にはっきりさせながら、しきりにぼくに向かって働きかけ、ぼくを導いて歩かせはじめることになる」。




ヨーロッパの中心から少し離れて:ヤナーチェクの場合――野々村 禎彦

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  レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928) は生年で見れば今期最年長、フォーレとドビュッシーの間に位置するが、音楽的にはむしろバルトークやシマノフスキと同世代と見做せる。生涯の大半をチェコ・モラヴィア州の州都ブルノで過ごし、晩年までヨーロッパのモダニズムの動向とはほぼ無縁だったが、この孤立が唯一無二の音楽を生んだ。彼の音楽歴は修道院で暮らす聖歌隊員として始まり、声楽曲の作曲が終生活動の中心になる。また教会オルガニストとしても頭角を現し、1882年にはブルノにオルガン学校を設立して長らく校長を務めた(チェコスロヴァキア独立後の1919年にブルノ音楽院に発展)。さらに彼はモラヴィア民謡を網羅的に収集・刊行し、農民音楽家集団を引率して都市部や海外での紹介活動も積極的に行った。チェコ文化の中心地であるボヘミア州の州都プラハでの彼は、国際的名声が高まる晩年までは「作曲も嗜む民俗音楽学者」という扱いだった。

  妻との交際中に留学先のライプツィヒで書いた《ズデンカ変奏曲》(1880) などのロマン派風の初期作品の後は、収集した民謡を直接的に用いた作品が続くが、カンタータ《アマールス》(1897) でその段階を離れた。民謡研究を進める中で、言葉が内包する「発話旋律」こそが民謡の起源であると考えるに至った彼はその収集も始め、オペラ《イェヌーファ》(1894-1903) から作曲に応用した。ただし発話旋律の収集はそれを直接引用するためではなく、既存の旋律に引きずられないためのガイドだった。彼の旋律はテキストと不可分で、望ましい旋律を得るためにしばしば細部の語句を変更していた。オペラ《ブロウチェク氏の休暇旅行》(1908-17) の台本は、月世界旅行と15世紀へのタイムスリップという題材の難しさも加わって9人の作家をたらい回しにされ、作曲は自作の仮台本に基づいて進められた。これ以降に書かれたオペラの代表作群では、台本も自作になったのは自然な成り行きだった。

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  ピアノ独奏曲集《草陰の小径にて》(1901-08/11)・《1905年10月1日》(1905)・《霧の中で》(1912) は、独自語法を見出しても正当な評価は得られない、鬱々とした日々の中で書き溜められた。単純な動機の執拗な反復と唐突な転換、全く異質な要素の重ね合わせと結果的に生じる斬新な和声。動機の有機的な展開と対位法的な構成を良しとする伝統的な価値観(たとえ技法的には「前衛」であっても)に立てば、同時代には素朴な地方の作曲家として片付けられていたのもやむを得ない。この時期の作品では、男声合唱曲《ハルファール先生》(1906)・《マリチカ・マグドーノヴァ》(1906-07)・《七万》(1909) とヴァイオリンソナタ(1914/21) も重要である。第一次世界大戦の趨勢とともに独立への期待が高まる1916年に、《イェヌーファ》はようやくプラハで上演されて大成功を収め、翌年には40歳近く年下の人妻カミラ・シュテスロヴァと出会って一方的な恋愛感情を抱いた。このように、公私とも充実した状況が訪れたことで彼の創作意欲は燃え上がり、人生最後の10年が彼の「傑作の森」になった。

  ただし、ピアノ独奏曲をはじめとする上記作品群は彼にとって身近な編成に限られ、同時期に書かれたオペラ《運命》(1903-05/06-07) と《ブロウチェク氏の休暇旅行》、交響詩《タラス・ブーリバ》(1915-18) のような大編成作品では、書法はより伝統的だった。モダニズムとは生涯無縁だった彼は、組織的に語法の革新を行ったわけではなく、音楽的必然に導かれて手の届く範囲で新しい試みを進めた結果に他ならない。全面的に新しいフェーズに入った最初の作品が歌曲集《消えた男の日記》(1917-19) である。ジプシー女の肉体に惹かれて故郷を捨てた青年が残した詩(実際は、職業詩人が方言を駆使してその状況を装い、匿名で発表)にカミラへの恋愛感情を重ね、新ウィーン楽派の表現主義が無調への飛躍に至ったのに匹敵する変化が訪れた。若干の重唱と合唱以外はピアノ伴奏歌曲というシンプルな編成がこの曲でも力になっており、この後に書かれたオペラ《カーチャ・カヴァノヴァー》(1919-21) もこの曲には及ばない。ドロドロした世話物だけに、オペラ劇場のレパートリーとしては《イェヌーファ》と人気を二分しているが。

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  彼は《利口な女狐の物語》(1921-23) で、オペラでも《消えた男の日記》の水準に達した。発話旋律の採集の対象は、人間の会話だけでは飽き足らず、動物や鳥や虫の鳴き声まで広がっていたが、動物が主人公のこのオペラでその蓄積は活かされた。原作は新聞連載小説で、女狐ピストロウシュカの冒険をコミカルに描いているが、ヤナーチェクの台本ではその部分は大幅に削り、動物たちの森の世界と人間の世界をつなぐ森番に重要な役割を与えた。さらに独自ストーリーの最終幕を追加し、主人公の女狐が死んでその子供たちに世代が受け継がれるところまで描き、台本作家としての成熟も作品の充実に貢献している。弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》(1923) では、スル・ポンティチェロの多用と極端なダイナミクスやテンポの対比が、バルトーク第3番すら予言する一方、トルストイの同名小説をなぞるプログラム音楽でもあり、大元のベートーヴェン作品も引用される。モダンな音響とロマン主義的な旋律が何の矛盾もなく共存するのが彼の音楽の特徴で、システムに依らないからこそ可能な、アイヴズの音楽にも通じる魅力と言えるだろう。

  好調な創作は続き、木管六重奏のための《青春》(1924)、オペラ《マクロプロス事件》(1923-25)、ピアノとアンサンブルのための《コンチェルティーノ》(1925)、《シンフォニエッタ》(1926) が相次いで書かれた(左手のためのピアノ協奏曲《カプリッチョ》(1926) もこの時期の作品だが、この編成に求められる技巧的性格が彼の作風には合わなかった)。初めて参加したISCMプラハ大会(1925) でチェコを代表する作曲家として遇され、バルトークと知り合って親交を結んだことも大いに刺激になった。特に《コンチェルティーノ》はかつてピアノ独奏曲で試みた方向性をアンサンブルに独自手法で拡大(楽章ごとに異なる楽器とのデュオ、後半でフル編成合奏)しており、ピアノ独奏曲の先駆性を実証している。この曲はISCMフランクフルト大会(1927) に入選し、怒れる若者のような音楽と拍手に応えて登場した白髪の老人のギャップが話題になった。そして終生の代表作、《グラゴル・ミサ》(1925-26) が生まれた。合唱と管弦楽の組み合わせはオペラで十分な経験を積んできたが、テキストは古代教会スラヴ語によるミサ通常文なので音楽の性格は抽象的になっている。そこに加わるオルガンが聴き所で、演奏・教育歴と比べて作品は少なく、独奏曲は専ら初期、管弦楽曲の中でも《タラス・ブーリバ》で型通りに使われていただけだが、本作では終曲前のソロをはじめとして存分に暴れ回り、汎スラヴ主義を情熱的に唱える作曲者を代弁するかのようだ。

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  嵐のような創作が一段落し、ドストエフスキー『死の家の記録』に基づいたオペラ《死者の家より》(1927-28) に取り組み始めた時、彼は自らの晩年を意識した。1904年に当時はロシア支配下のワルシャワ音楽院院長職を打診された時から(条件が折り合わなかったようだが)、彼にとってロシア文化は特別な存在だった。ドストエフスキーの獄中体験記として同時代のロシア文学に大きな影響を与え、『地下室の手記』以降の後期作品の母胎になった小説は、人生の最後を賭けるにふさわしい題材だった。《コンチェルティーノ》で既に試みていた、楽章ごとにアンサンブルを細分化して音色のコントラストを大きくする書法を管弦楽に拡大し、薄く室内楽的で明確なクライマックスを持たない場面が続く。作曲が停滞していたヴァイオリン協奏曲《魂のさすらい》(1926-) を放棄してその素材を転用し、同じく難航していた弦楽四重奏曲第2番《内緒の手紙》(1923-28) をオペラの全容が見えてきた時点で完成させるなど、「まるで人生の決済をまもなくすませなくてはならないかのように」創作を進めた。オペラ完成後程なくカミラ夫妻とその息子を故郷に招いた際、その子供が森で迷子になったと思い込んで雨中を探し回り、肺炎を悪化させて世を去った。ただし、この休暇旅行に妻は呼ばず、妻が駆け付ける前に遺書の遺産配分指定をカミラ寄りに書き換えて死んでおり、計画的に人生の幕を引いたかのような最期だった。

  彼はオルガン学校校長時代から、少なからぬ生徒に作曲を教えてきたが、独自の音楽を書くだけに音楽理論の捉え方も独特で癖があり、優秀な生徒ほどプラハの伝統的な教師のもとに移りがちだった。このオルガン学校がブルノ音楽院に昇格した時も、彼の期待に反して院長には選ばれなかった。それでも1925年までは同校で作曲を教えたが、絶頂期に雑事に忙殺されなかったのは結果的に幸いだった(ワルシャワ音楽院院長就任後は保守派との争いに巻き込まれて作曲の時間が殆ど取れず、晩年の可能性が摘み取られたシマノフスキとは対照的である)。彼の音楽性を理解して受け継いだ「弟子」には恵まれなかったが、彼の成功を願って援助を惜しまない友人はマックス・ブロート(彼のオペラ台本を片っ端から自主的に独語訳して出版社に売り込み、全作品がウニヴェルザール社から出版される土台を作った文学者)をはじめ少なくなく、残された問題作《死者の家より》に対して彼らが取った判断は、「薄く不完全な」オーケストレーションを「修正」し、ハッピーエンドの最終場面を「補筆」して上演に漕ぎ着けることだった。彼が求めた音楽への理解が進むにつれて復元作業が始まり、最終版が上演されたのは実に2017年のことである。彼のオペラに取り組み続けた指揮者チャールズ・マッケラス(オーストラリア→英国)と、大部の評伝 ”Years of Life” を著した英国の音楽学者ジョン・ティレルの共同作業による、半世紀に及ぶ執念の結晶だった。

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  彼が本格的に評価されたのは1950年代以降、まずマッケラスの尽力で「ブリテンと並ぶオペラ作曲家」として主に英国で受容された。さらに1980年代以降ポストミニマルやスペクトル楽派第二世代以降の潮流が「新しい調性」に向かう中、そこで主張されていた「新しさ」は既にヤナーチェクがはるかに高い水準で達成していたことが再発見されてゆく。無調とその組織化及び特殊奏法の探求にほぼ特化していた、音楽におけるモダニズムの歴史が相対化された時、ヤナーチェクの真価が明らかになった。アンチェル、イーレク、クーベリック、ノイマンらチェコ出身の指揮者以外では彼を早くから評価していたバーンスタインの後任としてNYPの音楽監督になったブーレーズは、彼の音楽に接する機会は比較的多かったと思われるが、長らく「田舎のドヴォルザーク」と小馬鹿にしていた。だが《消えた男の日記》の実演に接して評価は一変し、最晩年の重要なレパートリーのひとつになった。《死者の家より》の映像化に加え、《グラゴル・ミサ》や《シンフォニエッタ》のシカゴ響やBBC響との演奏記録が残されている(いずれも慣用譜ではなくオリジナル復元譜を使用)。スペクトル楽派第二世代以降の演奏経験を重ねる中でヤナーチェクの音楽性を受信する回路がある時繋がった、と理解すべき実例だろう。





# by ooi_piano | 2019-11-06 09:09 | POC2019 | Comments(0)


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大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第42~第46回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs II》
大井浩明(ピアノ独奏)

松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
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c0050810_00001711.jpg【ポック(POC)#43】 「ヤナーチェクからの眺望」 2019年11月9日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)
林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928):《ズデンカ変奏曲 Op.1》(1880)、《草かげの小径にて》(1901-08/1911)、ピアノソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」(1905)、《霧の中で》(1912)、弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928/2018)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演



c0050810_06264238.jpg【関連公演】
〈超人とアンチクリスト〉 2019年11月22日(金)19時開演 東音ホール(豊島区) 浦壁信二+大井浩明
R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはこのように語った》 作品30 (1896、オットー・ジンガーによる二台ピアノ版、日本初演)
  導入部(ツァラトゥストラの序説) - 背後世界論者について - 大いなる憧れについて - 歓楽と情欲について - 墓の歌 - 学問について - 病の癒えゆく者 - 舞踏の歌 - 夢遊病者の歌
R.シュトラウス:《アンチクリスト ~ アルプス交響曲》 作品64 (1915/2019、米沢典剛による二台ピアノ版、世界初演)
  夜 - 日の出 - 登り道 - 森に入る - 小川沿いに歩く - 滝 - 幻影 - 花咲く草原で - アルムの牧場で - 道に迷い茂みと藪を抜ける - 氷河で - 危険な瞬間 - 頂上で - 幻視 - 霧が立ちのぼる - しだいに日がかげる - 哀歌 - 嵐の前の静けさ - 雷雨と嵐、下山 - 日没 - 終了 - 夜



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【ポック(POC)#44】 「スクリャービンの窯変」 2019年12月20日(金)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
山田耕筰(1886-1965):《スクリャービンに捧ぐる曲》(1917)、舞踊詩《青い焔》(1916)
スクリャービン(1871-1915) :ソナタ第7番「白ミサ」Op.64 (1911)、詩的夜想曲 Op.61 (1911/12)、ソナタ第6番 Op.62 (1911/12)、2つの詩曲 Op.63 (1911/12)、3つの練習曲 Op.65 (1912) 、2つの前奏曲 Op.67 (1912/13)、ソナタ第9番「黒ミサ」Op.68 (1912/13)、2つの詩曲 Op.69 (1912/13)、ソナタ第10番「トリル・ソナタ」Op.70 (1913)、ソナタ第8番 Op.66 (1913)、2つの詩曲 Op.71 (1914)、詩曲「焔に向かって」Op.72 (1914)、2つの舞曲 Op.73 (1914)、5つの前奏曲 Op.74 (1914)



c0050810_06280988.jpg【関連公演】
〈花々に蔽われた大砲 ~ショパンのマズルカを巡って Armaty ukryte wśród kwiatów - Mazurki Chopina〉 2019年12月29日(日)15時開演 松山庵(兵庫県芦屋市) 
F.F.ショパン(1810-1849):マズルカ風ロンド Op.5 (1826)、マズルカ風ロンド Op.21-3 (1830、作曲者による独奏版)、5つのマズルカ Op.6 (1830)、4つのマズルカ Op.17 (1831/33)、マズルカ Dbop.42A 「ガイヤール」 (1840)、3つのマズルカ Op.50 (1841/42)、3つのマズルカ Op.56 (1843)、3つのマズルカ Op.59 (1845)、3つのマズルカ Op.63 (1846)、マズルカ Op.68-4 (1849) [使用エディション:ポーランド・ナショナル版(1998/2017)]
C.ドビュッシー(1862-1918):マズルカ (1890)
A.スクリャービン(1871-1915):マズルカ Op.25-3 (1898)
L.ゴドフスキー(1870-1938):マズルカ(ショパンOp.25-5に基づく) (1904)
K.シマノフスキ(1882-1937):2つのマズルカ Op.62 (1933/34)
T.アデス(1971- ):マズルカ(2009)



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【ポック(POC)#45】 「シマノフスキの讖緯」 2020年1月18日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
若尾裕(1948- ):《さりながら雪》(2019、委嘱初演
李聖賢(1995- ):《夜の集(すだ)き》(2019、委嘱初演)
カロル・シマノフスキ(1882-1937):《メトープ(浮彫) Op.29》(1915)、《仮面劇 Op.34》(1916)、《ピアノソナタ第3番 Op.36》(1917)、《20のマズルカ集 Op.50》(1924/25)、《2つのマズルカ Op.62》(1933/34)




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【ポック(POC)#46】 「ジョリヴェの蚕蝕」 2020年2月15日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
門脇治(1964- ):《前奏曲第11番》(2020、委嘱初演)
前田克治(1970- ) :《影と形Ⅲ》(2020、委嘱初演)
アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974):《マナ》(1935)、《五つの儀式的舞踊》(1939)、ピアノソナタ第1番(1945)、ピアノソナタ第2番(1957)
エドガー・ヴァレーズ(1883-1965):《アルカナ》(1927/2018、米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演


(終了)【関連公演】
c0050810_06225588.jpg日本シベリウス協会例会 〈ピアノで紡ぐシベリウスの管弦楽の世界――その3〉 2019年9月16日(月・祝)14時開演 マルシャリンホール(調布市)
K.シマノフスキ:ピアノソナタ第2番 Op.21 イ長調 (1910) 
J.シベリウス:交響曲第3番 ハ長調 Op.52 (1907/2018)(米沢典剛編独奏版、世界初演)
J.シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 Op.43 (1901/2017)(マイケル・グラント編独奏版、世界初演) 



c0050810_04130168.jpg(終了)【ポック(POC)#42】 「戦後前衛音楽の濫觴」 2019年10月14日(月・祝)17時開演 松涛サロン(渋谷区)
R.シュトラウス:《皇紀2600年奉祝音楽》(1940/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演
しばてつ(1959- ) :《「君が代」逆行形による変奏曲》(2019、委嘱改訂初演)
李聖賢(1995- ):《君が代遺聞》(2019、委嘱初演
成田為三(1893-1945):《「君が代」変奏曲》(1942)
M.グルリット(1890-1972):《信時潔「海ゆかば」による変奏曲》(1944、全曲による世界初演)
黛敏郎(1929-1997):《オール・デウーヴル》(1947)
松平頼則(1907-2001):《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/1983)
諸井誠(1930-2013):《αとβ》(1954)、《ピアノ曲1956》(1956)
入野義朗(1921-1980):《三つのピアノ曲》(1958)
松下眞一(1922-1990):《可測な時間と位相的時間》(1957/60)




POC2019:日本戦後前衛の源流を辿って――野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で9期目。第6期ではヨーロッパ戦後前衛に直結したシェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーを取り上げたが、日本の戦後前衛への直接的な影響は実は限定的だった。12音技法の学習は柴田南雄、入野義朗らの戦後最初の課題だったが、生まれてきたのは新ウィーン楽派とは似ても似つかない音楽だった。新古典主義を取り入れた作曲家は多いが、ドイツ系ではヒンデミットやオルフ、フランス系では後期ラヴェルや六人組が参照され、ストラヴィンスキーに挑んだ作曲家はいない。バルトークの影響を標榜する作曲家も多いものの民謡素材の導入という入り口の段階に留まり、それを活かすためにヨーロッパ古典音楽の体系の方を組み換える(対象が微分音や噪音ならば前衛語法に直結する)という核心部分には至らなかった。

 むしろ同時代には、スクリャービン(シマノフスキが後期ロマン派風書法から飛躍したのも、スクリャービンの影響が大きい)やジョリヴェ(「若きフランス」の作曲家としては、メシアンよりも断然)の方が、日本作曲界への直接的な影響ははるかに大きかった。またオペラ作曲家として発話旋律の収集を根幹に据えたヤナーチェクのアプローチは、日本語に根ざしたオペラの指標になった。ロシアと東欧、及びフランスでのオリエンタル志向という彼らの立ち位置が、ヨーロッパの中心から見ればさらに辺境にあたる日本の作曲家たちにとっては近づきやすかったことは疑いない。前衛の時代が終わってから欧米では再評価が始まった彼らと日本の作曲家たちの影響関係や照応関係を具体的に見てゆくことが、今年度のテーマである。
 
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 アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915) はモスクワ音楽院でセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943) と同期だった。十度を楽に掴める大きな手と異常に柔軟な指関節を活かし、楽曲の対位法構造を徹底的に抽出してモダニズムを体現したピアニスト=ラフマニノフは、作曲家としては19世紀の語法の革新を必要としなかったが、ピアニストとしては化け物ではなかったスクリャービンはそれでは済まない。《法悦の詩》(1908) 《プロメテ》(1910) で独自の無調書法を編み出し、ようやくライバルの影から解放された。長三度・完全四度・増四度を堆積した「神秘和音」で「無調」のトーンを作り、時間分節は持続音で行う。ダンパーペダルで持続音を作ると和音が混濁するピアノ独奏曲の場合は、アルペジオとトリルで代用する。彼にとって管弦楽の作曲は得意分野ではなく、この2曲以降に完成されたのはすべてこの書法によるピアノ独奏曲だった。その大半が今回網羅的に取り上げられる。

 スクリャービンは音楽史から隔絶された特異な存在だと長年見做されてきた。彼のインスピレーションの源泉は神智学やニーチェの超人思想で、色彩と音響の共幻覚が強調されてきたことも要因のひとつだろう。彼の影響を神秘和音の使用に限定すると、その構成音は全音音階の構成音1個を半音ずらしたものなので、彼の影響は無視して「印象派風」と見做されがちだった(シマノフスキがまさにそうだった)。だが「無調的な構成音と持続音による分節」まで拡大すれば影響圏は一挙に広がる。ロスラヴェッツ、ルリエー、ヴィシネグラツキーらロシア・アヴァンギャルドの作曲家の大半はこの意味では彼の影響下にある。シェルシも12音技法と並行してスクリャービンの弟子からその作曲法を学び、微分音オルガンを使い始めるまでのピアノの即興に基づいた作品群に至った。セリー技法は本質的に筆記的だが、広義のスクリャービン流「無調」は即興音楽における「無調」表現の現実的な処方箋になった。

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 カロル・シマノフスキ(1882-1937) は、当時はロシア支配下のポーランドの貴族の家庭で生まれ育った。親戚のネイガウス家の音楽学校で学び始め、スクリャービンの音楽に初期から親しんでいた。ワルシャワ音楽院に進み、ルービンシュタイン、コハィンスキらと音楽家集団「若きポーランド」を結成する。当時の彼はワーグナーやR.シュトラウスを好み、交響曲第2番(1909-10) やピアノソナタ第2番(1910-11) はまさにそのような音楽だ。1914年に南欧や北アフリカを旅行してオリエントやアラブの音楽を知り、異国の音組織と無調化以降のスクリャービンの音組織の類似性は、後期ロマン派を超える音楽を模索していた彼に啓示を与えた。ピアノ独奏のための《メトープ》(1915) 《仮面劇》(1916)、ヴァイオリンとピアノのための《神話》(1915)、交響曲第3番(1914-16)、ヴァイオリン協奏曲第1番(1916)、ピアノソナタ第3番(1917)、弦楽四重奏曲第1番(1917) などで、彼は一挙にヨーロッパ作曲界の最前線に立った。なかでも《神話》は、バルトークの最も尖鋭的な作品であるヴァイオリンソナタ第1番(1921) に直接的な影響を与えている。

 この充実期は、ロシア革命に際しボリシェヴィキの一団に自宅を襲撃された事件で終わる。そのショックで音楽活動を中断していた彼が活動を再開したのは、第一次世界大戦が終結してポーランドが独立を回復した時だった。しばらくは「若きポーランド」の盟友との海外での活動が中心だったが、ストラヴィンスキー《結婚》に衝撃を受けて民俗音楽に目覚め、1922年からポーランド南端ザコパネに別荘を借り、近代西洋音楽に毒されていない同地の音楽を収集した。充実期の作風を受け継いだオペラ《ロジェ王》(1918-24) 完成後の《20のマズルカ》(1924-25)、《スターバト・マーテル》(1925-26)、弦楽四重奏曲第2番(1927) がこの時期の成果である。ただしフィラデルフィア音楽財団の弦楽四重奏曲コンクールでは入賞を逃し(バルトーク第3番は相手が悪すぎたが、カゼッラ《セレナータ》にも後塵を拝した)、この時期の彼の方向性はもはや同時代にも作曲界の最前線とは見做されていなかった。

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 レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928) は生年で見れば今期最年長だが、音楽的にはむしろバルトークやシマノフスキと同世代と見做せる。生涯の大半をチェコ・モラヴィア州の州都ブルノで過ごし、晩年までヨーロッパのモダニズムの動向とはほぼ無縁だったが、この孤立が唯一無二の音楽を生んだ。彼の音楽歴は修道院で暮らす聖歌隊員として始まり、声楽曲の作曲が終生活動の中心になる。教会オルガニストとしても頭角を現し、1882年にはブルノにオルガン学校を設立して長らく校長を務めた(チェコスロヴァキア独立後の1919年にブルノ音楽院に発展)。また彼はモラヴィア民謡を網羅的に収集・刊行し、チェコ文化の中心地であるボヘミア州の州都プラハでは長らく、「作曲も嗜む民俗音楽学者」という扱いだった。《ズデンカ変奏曲》(1880) などのロマン派風の初期作品の後は、民謡を直接的に用いた作品が続くが、カンタータ《アマールス》(1897) でその段階を離れた。

 民謡研究を進める中で、言葉が内包する「発話旋律」こそが民謡の起源だと考えるに至った彼はその収集も始め、オペラ《イェヌーファ》(1894-1903) から作曲に応用した。ただし発話旋律の収集はそれを直接引用するためではなく、既存の旋律に引きずられないためのガイドだった。彼の旋律はテキストと不可分で、望ましい旋律を得るためにしばしばテキストの方を変更していた。今回の曲目の中核となるピアノ曲集《草陰の小径にて》(1901-08/11)《1905年10月1日》(1905)《霧の中で》(1912) は、独自語法を見出しても世間では正当に評価されない、鬱々とした日々の中で書き溜められた。単純な動機の執拗な反復と唐突な転換、全く異質な要素の重ね合わせと結果的に生じる斬新な和声。動機の有機的な展開と対位法的な構成を良しとする伝統的な価値観(たとえ技法的には「前衛」であっても)に立てば、同時代には素朴なローカル作曲家として片付けられていたのもやむを得ない。

 第一次世界大戦の趨勢と共に独立への期待が高まった1916年、《イェヌーファ》はようやくプラハで上演されて大成功を収め、翌年には40歳近く年下の人妻カミラ・シュテスロヴァと出会って一方的な恋愛感情を抱いた。このように公私とも充実した最晩年の十余年が彼の「傑作の森」になった。今回は最後の完成作、弦楽四重奏第2番《内緒の手紙》(1928) のピアノ独奏版が取り上げられる。彼が本格的に評価されたのは1950年代以降、まずマッケラスの尽力で「ブリテンと並ぶオペラ作曲家」という位置付けで英国で受容された。さらに1980年代以降、ポストミニマルやスペクトル楽派第二世代以降の潮流が「新しい調性」に向かう中、そこで議論されていた「新しさ」は彼が既にはるかに高い水準で達成していたことが再発見されてゆく。モダニズムの歴史は無調とその組織化及び特殊奏法の探求にほぼ特化していたわけだが、それが相対化された時、ヤナーチェクの真価が明らかになった。

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 アンドレ・ジョリヴェ(1905-74) は師エドガー・ヴァレーズ(1883-1965) からオリヴィエ・メシアン(1908-92) を経てモーリス・オアナ(1913-92) まで続く、エキゾティックな音楽に強いインスピレーションを受けたフランス近代の作曲家の列に連なる。作曲家集団「若きフランス」結成に際してメシアンが在野の作曲家ジョリヴェに声をかけたのは、ヴァレーズ譲りの無調書法が反新古典主義を旗印にしたグループの理念に合致していたからだが、早くから電子音響を夢想していたヴァレーズ、インド音楽の旋法やリズムを科学的に分析したメシアン、セリー主義へのアンチテーゼとして地中海の民俗音楽を創造的に用いたオアナと比べると、ジョリヴェの姿勢は典型的なエキゾティシズムに留まっていたことは否定できない。

 《マナ》(1935)、《5つの呪文》(1936)、《5つの儀礼的舞踏》(1939) などの生気に満ちた作品群から出発した彼は、《兵士の3つの嘆き》(1940) で調性回帰し、ピアノソナタ第1番(1945) の頃にはすっかり保守的な精神の持ち主になっていた。80年代は「クセナキスの唯一の弟子」にふさわしい輝きを見せていたデュサパンの90年代以降の変節を例に挙げるまでもなく、「在野の改革派」がいったん名声を確立すると保守派以上に保守的になってしまうのはフランス作曲界の宿痾なのだろう。ただし、マッカーシズムに葬られたニューディール左派の理想主義が日本国憲法に残されたように、《赤道協奏曲》(1950) の悪名の前に忘れられたジョリヴェ初期の輝きは、日本の現代音楽草創期の作品群に残されていた。

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 このような認識を踏まえて日本の作曲家の曲目は選ばれた。スクリャービンの影響を直接的に受けた山田耕筰の2曲を本家と聴き比べ、合唱曲やオペラを通じて日本語の話し言葉に正面から対峙した間宮芳生林光の代表作にヤナーチェクの精神を確認し、ジョリヴェ受容の諸相を日本の現代音楽草創期の作品群に探す。初期ジョリヴェの影響を最も強く受けたのは湯浅譲二福島和夫だが、このリストには黛敏郎も含まれる(彼の場合はその後の顛末も含めてだろうが)。松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951) は、フランス新古典主義(モデルは主にプーランク)から雅楽のフィルターを介した戦後前衛に乗り換える瞬間に現れた、創作史の特異点という位置付けだが、雅楽の素材をエキゾティシズムの対象として扱って多様式を繋ぐハブにするという発想には、同時代の「ジョリヴェ的なもの」も無関係ではないだろう(その影は石井眞木やその後の世代まで伸びている)。この文脈では、諸井誠・入野義朗・松下眞一の初期作品は解毒剤として並んでいることになりそうだが、併せて聴くことで見えてくるものもあるはずだ。


# by ooi_piano | 2019-10-17 04:24 | POC2019 | Comments(0)