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《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)



【POC第53回公演】 2024年12月7日(土)18時開演(17時半開場)
〈Albtraum auf dem (Alban) Berg - 暴(あら)ぶるアルバン・ベルク〉

アルバン・ベルク(1883-1935):

《ソナタ断章 ニ短調》(1908、日本初演) 3分

《ピアノソナタ ロ短調 Op.1》(1908) 10分

《弦楽四重奏曲 Op.3》(1911/2017、ピアノ独奏版・世界初演) [米沢典剛(1959- )編] 22分
  I. Langsam - II. Mäßige Viertel

オペラ《ヴォツェック》第1幕第3場より「マリーの子守唄」(1922/1985) [R.スティーヴンソン(1928-2015)編] 3分

オペラ《ヴォツェック》第2幕第4場より「居酒屋のワルツ」(1922/1987) [Y.ミカショフ(1941-1993)編] 3分

オペラ《ヴォツェック》第3幕第4番より間奏曲「ひとつの調性(ニ短調)によるインヴェンション」(1922/2024、世界初演) [米沢典剛(1959- )編] 3分

若松聡史(1983- ):《暈色 "Iridescence" for extended piano》(2024、委嘱初演) 7分

 (休憩15分)

《抒情組曲》(1926/2016、ピアノ独奏版・東京初演) [米沢典剛(1959- )編] 30分
  I. Allegretto gioviale - II. Andante amoroso - III. Allegro misterioso / Trio estatico - IV. Adagio appassionato - V. Presto delirando / Tenebroso - VI. Largo desolato
  
《オペラ「ルル」に基づく幻想曲》 (1935/2008) [M.ウォルフサル(1947- )編] 14分
  ルルとアルヴァ二重唱(第2幕1場) - ラグタイムその1(第1幕3場) - 切り裂きジャックと死の絶叫(第3幕2場) - サイレント映画の音楽(第2幕間奏曲) - メロドラマ(第2幕2場) - ルルとアルヴァ二重唱(第2幕2場) - ラグタイムその2(第1幕3場) - アルヴァのルル賛歌(第2幕2場) - ルルのアリア(第2幕1場)



"Albtraum auf dem (Alban) Berg"
Sat, 7 December 2024, 6 pm start
Hiroaki OOI, piano
Shōtō Salon (1-26-4, Shōtō, Sibuya-ku, Tokyo)
4,000 yen
reservation: poc@artandmedia.com(Art & Media Inc.)

Satoshi Wakamatsu (1983- ) : "Iridescence" for extended piano (2024, commissioned work, world premiere)
Alban Berg (1885-1935) : Sonata fragment in d-moll (1908, Japan premiere), Piano Sonata Op. 1 (1908), String Quartet Op.3 (1911/2017) [piano solo version by Noritake Yonezawa (1959- ), world premiere], Lyric Suite (1926/2016) [piano solo version by Noritake Yonezawa, Tokyo premiere], "Cradle Song" from 'Wozzeck' (1922/1985) [piano solo version by Ronald Stevenson (1928-2015)], "Tavern Garden Waltz" from 'Wozzeck' (1922/1987) [piano solo version by Yvar Mikhashoff (1941-1993)], "Interlude (Invention on a Key)" from 'Wozzeck' (1922/2024) [piano solo version by Noritake Yonezawa, world premiere], "Lulu Fantasy" (1935/2008) [transcribed by Marvin Wolfthal (1947- )]




若松聡史:《暈色 Iridescence》(2024、委嘱初演)
 この作品では、複数の音の焦点が同時並行で展開される。それぞれが独立した運動を持ちながら時間の中で交差することで、多層的な響きを生成する。音の焦点は流動的で、各音が対比的な関係で相互に作用し合うことにより、全体として不均衡な波長があらわれる構造になっている。(若松聡史)


若松聡史 Satoshi Wakamatsu, composer
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 2014年パリ・エコール・ノルマル音楽院作曲科高等ディプロマ課程修了、2016年パリ地方音楽院作曲科専門課程修了。エディト・カナドシジー(Édith Canat de Chizy)に師事。第19回東京国際室内楽作曲コンクール第3位(2014)、第2回“Appassionato Ensemble”国際作曲賞入選(イタリア・コモ)(2018)、第11回JFC作曲賞コンクール入選(2022)、第41回ヴァレンティーノ・ブッキ国際作曲コンクール入選(イタリア・ローマ)(2022)等。近作に、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ハープのための《プリズム》(2023)、ピアノ弦のための《星彩現象》(2022)、ディレクションを伴う弦楽三重奏曲《プレグナンツ》(2021)、11弦楽器のための《スペクトル》(2017)等。






アルバン・ベルクの勘所――野々村 禎彦

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 アルバン・ベルク(1885-1935)の音楽の核心はきわめて明確で、「後期ロマン派的な素材の新古典主義的な取り扱い」がすべてである。この一言で、ピアノソナタ(1907-08)からオペラ《ルル》(1929-35)まで、例外なく把握できる。ただし現時点ではこのような言説は一般的ではない。その理由は明白で、文献として真っ先に参照されるアドルノによるベルクの評伝にはそのようなことは一切書かれていないからだが、そこにはふたつの背景がある。ひとつは、ここで言う「新古典主義的」は、音楽における新古典主義の一般的な定義をかなり拡大解釈していること。もうひとつは、たとえこの拡大解釈を認めたとしても、アドルノにはベルクの核心が新古典主義だとは書けない時代的・歴史的背景があったことである。

 まず、音楽における新古典主義について。この用語の起源は美術史にあり、18世紀半ばから19世紀初頭にかけての、バロック/ロココ芸術への反発から生まれた、ギリシア・ローマ(美術史における「古典」)芸術を範とする非装飾的な芸術様式を指す。クラシック音楽史における同時代はウィーン古典派の時代であり、バロック音楽への反発から生まれた点は共通しているが、ギリシア・ローマ時代の音楽は後世には残らなかったのでズレが生じたわけだ。ブゾーニは20世紀初頭のドイツで、後期ロマン派の限界は古典派回帰で打破すべきだと主張したが、新ウィーン楽派はそれを機能和声の限界だと捉えて、無調表現主義に向かった。第一次世界大戦が始まると、ドビュッシーは敵国の新音楽=無調表現主義への反発から平明な古典音楽への回帰を実践したが、フランスにはウィーン古典派の同時代に適切なモデルはなく、ラモーやクープランのバロック音楽が範になった。ドビュッシーと親交を結んでいたストラヴィンスキーはこの時期はスイスに避難していたが、第一次世界大戦後にパリに戻ると、当時ペルゴレージ作と伝えられていたイタリアのバロック音楽に現代の和声を加えて再構成した《プルチネルラ》(1919-20)を発表し、これが音楽における新古典主義の始まりとされる。ドビュッシー同様にバロック音楽を選んだことで「新古典主義=古典派回帰」という図式も崩れたわけだが、《プルチネルラ》はバレエ・リュスが第一次世界大戦中に始めたイタリア音楽編曲シリーズのひとつでシリーズ内にはロッシーニ原曲もあり、この選択は多分に偶然である。だが、それが規範として定着するくらいインパクトのある作品だった。フランス六人組もこの路線に追随して独墺の後期ロマン派/無調表現主義を仮想敵とする点は継承したが、「単純で深刻ぶらない音楽」全般を規範とする拡大解釈で独自性を主張した。米国からパリを経てヨーロッパ中に広がったジャズは、その象徴になった。

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 このような一般的な定義を踏まえると、「後期ロマン派的な素材の新古典主義的な取り扱い」という総括は殆ど語義矛盾に見えるかもしれないが、その意味するところは以下でベルク作品を具体的に眺める中で明らかになるだろう。そこでもうひとつの、アドルノに固有の背景に移る。彼はフランクフルト大学社会研究所がナチス支配下で米国コロンビア大学に組織ごと「亡命」していた時期に所長ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』で注目され、戦後に社会研究所がフランクフルト大学に復帰するとホルクハイマーと共同所長を務め、西ドイツで共産主義者扱いされることを恐れて積極的な活動を控えるようになったホルクハイマーに代わって、フランクフルト学派の中心人物になった。音楽に造詣の深い高名な思想家の音楽批評として強い影響力を持ったが、そもそも彼は作曲を志してベルクに師事した経歴も持つ音楽批評の本職で、社会研究所でも長らく音楽文化担当という扱いだった。音楽素材それ自体が自律的に――すなわち弁証法的に――発展する状況を実現するセリー技法は特権的な存在であり、既存の形式を鋳型として利用する新古典主義は反動的で論外だ、という思想的信念を持つ彼にとって、恩師ベルクの音楽を新古典主義と形容することはあり得ない。一見既存の形式を援用している箇所も少なくないが、音楽素材を弁証法的に発展させた結果をそこに導く「極微なる移行の巨匠」なので問題ない、というのが評伝の副題の意味である。

 以下ではまず、新ウィーン楽派内でのベルクの位置を眺める。シェーンベルクは弦楽四重奏曲第1番(1904-05) や室内交響曲第1番(1906) で後期ロマン派の対位法の複雑化を進めたが、なかなか無調への最後の一歩が踏み出せなかった。ヴェーベルンとベルクは彼が1904年から自宅で始めた音楽の私塾で頭角を現し、「卒業制作」にあたる作品を1908年に書き上げた。ヴェーベルンの《パッサカリア》op.1は師の歩みに忠実な管弦楽曲だが、ベルクのピアノソナタはその域を超えて「後期ロマン派の本質」の客体化に成功した。冒頭の主題がゆっくり変容してゆく過程の中に、「後期ロマン派を特徴付ける感情の動き」が微分化されて埋め込まれている。音楽を本格的に学んだのはこの私塾がほぼ初めてという伝統との距離感が、その中心で独学で叩き上げた師には血肉化し過ぎて客観視できなかったものの結晶化を可能にした。本来は内から溢れ出るはずの「感情」のようなものを客観的操作の対象にする能力をここでは「新古典主義的な取り扱い」と呼んでいる。一般的な新古典主義では既存の素材や形式に限られていた操作対象を、不定形の感情まで拡大できる作曲家がベルクなのである。むしろ年代的には新古典主義よりも先んじているが、普遍的な音楽の捉え方の話なので歴史的年代とは関係ない。ともあれ、いったん結晶化できれば最後の一歩にもはや困難はない。弟子の達成からヒントを掴んだシェーンベルクは、弦楽四重奏曲第2番(1907-08) 終楽章で無調への第一歩を踏み出すと、《5つの管弦楽曲》やモノオペラ《期待》を含む、1909年の無調表現主義作品ラッシュに突き進む。

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 師が自分を踏み台にして無調の新作を続々と生み出すのを横目で見ながら、ベルクは弦楽四重奏曲を1910年に書き上げた。今度は20分を超える無調の大作で、元々はピアノソナタ同様ソナタ形式の単一楽章だったが、「極微なる移行」の手腕がさらに洗練され、展開部を省いても音楽として十分成り立つ密度になったので、展開部を第2楽章として独立させた。ピアノソナタを単一楽章にするか書き足すかを延々と悩んでいるうちに師に先を越されてしまったトラウマを、変則的な形で乗り越えたのだろう。だが筆の速い師はこの方向性でも書き尽くして、次の道を模索していた。ヴェーベルンが《ヴァイオリンとピアノのための4つの小品》op.7(1910)で極小様式に踏み込むと、師は早速この路線を取り入れて《6つのピアノ小品》(1911)を書いた。無調表現主義ラッシュの作品群にはまだ調性感が残っており、それをいかに消すかを師は模索していたので、さらに濃密に調性感が残るこの弦楽四重奏曲への評価は芳しいものではなかった。だがベルクはそもそも調性感を消すつもりはなかった。無調の浮遊感と調性のドライヴ感はどちらも興味深く、いかにブレンドして音楽を豊かにするかが焦点だった。《アルテンベルク歌曲集》(1911-12)、《3つの管弦楽曲》(1914-15)と同様の方向性を管弦楽で追求し、師の反応は相変わらず芳しくなかったが、1914年にビュヒナー『ヴォイツェック(Woyzeck)』の舞台に接し、彼の運命は大きく変わる。

 この演劇をオペラ化するには自分の音楽が最適だと確信したベルクは、自ら台本を書いて早速作曲を始めた。《ヴォツェック(Wozzeck)》というタイトルになったのは単なる誤記らしいが、気付いても修正しなかったのでその方が好みだったようだ。上演のあてもなくグランドオペラを書き始める(しかも管弦楽曲の作曲経験は《アルテンベルク歌曲集》のみ、合唱曲の作曲経験もない状態で)のは常軌を逸しているが、書かずにいられなかったのだろう。第一次世界大戦中も出征中以外は作曲を続け、1922年に完成した。今度は協奏曲を書いてみてはどうかという師の助言に従って、ヴァイオリン、ピアノ、13管楽器のための室内協奏曲(1923-25)に取り組む。シェーンベルクは1921年に12音技法を開発し、ベルクも弟子たちへの講義に参加したがこの曲では採用せず、新ウィーン楽派の3人の名前の音名表象を音列的に扱い、J.S.バッハのような数の表象も随所に取り入れた技巧的な書法で特徴付けられる。第2楽章後半が前半を完全に逆行させたものであることはその象徴として広く語られるが、この構造をまず作った上でそれにふさわしい音を前半で選んでいるわけで、「極微なる移行」と大域構造を並行して構想し、両者を擦り合わせるのが彼の作曲だった。グランドオペラという大舞台はこの資質を活かすこの上ない舞台であり、《ヴォツェック》は終生の代表作になるべくしてなった。このような作曲スタイルは、霊感に身を委ねて一気呵成に書き上げる師のようなスタイルよりもはるかに時間を要し、寡作は運命付けられていた。室内協奏曲も、当初は師の50歳の誕生日プレゼントとして構想されたが、結局1年余分に要している(40歳の誕生日プレゼントとして構想された《3つの管弦楽曲》と同じパターン)。

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 指揮者ヘルマン・シェルヘン(1891-1966)は晩年にクセナキスの才能を見出し、名声を得るまでプロモートし続けたことで知られるが、新ウィーン楽派とも深く関わった。ベルクに関しては室内協奏曲の初演の他、《ヴォツェック》のプロモーションのために抜粋編曲を提案し、《ヴォツェックからの3つの断章》を初演している。その甲斐あって、《ヴォツェック》はベルリン国立歌劇場音楽監督エーリッヒ・クライバー(1890-1956)の目に留まり、1925年12月に初演されることになった。E.クライバーは1923年に着任後、《ヴォツェック》の前にヤナーチェク《イェヌーファ》のドイツ初演とクシェネックの最初のオペラの初演を行っており、新レパートリー開拓には積極的だった。137回のリハーサル(ただし話を盛るために分奏も合算した数字で、オーケストラ練習とアンサンブル練習を合わせると50回弱)を経た初演は賛否半ばするスキャンダルになったが、これは実験的な新作としてはこの上ない成功で、程なく独墺の歌劇場で相次いで上演され、数年後には東欧や英米でも初演されて、R.シュトラウスやプッチーニのような同時代のスタンダード・レパートリーに加わった。リハーサル回数の多さは、もっぱらこの作品の難解さ・演奏困難さを伝えるエピソードとされてきたが、ベルリン国立歌劇場よりも演奏技術・新作演奏経験とも下回る場でも数多く上演されてきたからこそスタンダードたり得ているわけで、初演者が作品の重要性を共有し、それにふさわしい舞台に仕上げようとしたことを示すものと捉えるべきだろう。非人間的な社会システムによる人間疎外という現代的なテーマと痴情のもつれの刃傷沙汰という伝統的なテーマを組み合わせ、全3幕の各場面を性格小品集・交響曲・インヴェンション集の1曲ないし1楽章に割り当てた構成も、演奏家にとっても聴衆にとっても敷居を下げている。このように、一見後期ロマン派/表現主義的な題材を客観的に突き放して(すなわち非ロマン主義的に)扱える資質を「新古典主義的」と呼んでいるのであり、「古典的形式を援用しているから新古典主義的」という水準のナイーヴな議論ではない。

 《ヴォツェック》が国際的な話題作となり、一過性ではないレパートリーとして定着したことは、ベルクとは全く作風の異なる20世紀を代表するオペラ作曲家たちの反応からも窺える。シェーンベルクの作曲姿勢には懐疑的だったヤナーチェクも《ヴォツェック》は絶賛し、ガーシュウィンは《ポーギーとベス》を作曲する際にこのオペラをモデルにした。こうしてベルクは継続的な印税収入で安定した生活を送れるようになった。すると若き日々の享楽的な生活が戻ってくる。15歳で父を亡くすと17歳の時には女中との間に子供が生まれており、19歳の時に兄が彼をシェーンベルクのもとに連れてきたのは、厳しい教師のもとで生活を立て直させる方が目的だったのかもしれない。1906年にはウィーン国立音楽院に入学したが、早速同い年で声楽を学ぶヘレーネ・ナホフスキを口説いて付き合い始め、1911年には先方の両親の反対を押し切って結婚した。彼女の実家が裕福なのは母が皇帝の愛人で、へレーネと弟は皇帝の庶子だったからで、別れた後も格別の口止め料が支払われていた。寡作で生業を持たなくても生活に困らなかったのは妻の実家の援助のおかげで、私生活ではおとなしくしていたが、収入面での気後れがなくなれば元に戻る。《ヴォツェック》の初演が決まった頃、彼はひとまわり年下の人妻ハンナ・フックスと出会い、深い関係になった。弦楽四重奏のための《抒情組曲》(1925-26)では、室内協奏曲と同様の音名表象をハンナと自分の名前で行っている。この曲の一部の楽章では12音技法が用いられており(タイトルの由来である、ツェムリンスキー《抒情交響曲》(1922-23)の引用を行うために自由な無調と併用)、彼が最初に12音技法を用いた歌曲《私の両眼を閉じてください》(1925)の総音程音列(短2度から長7度までの全音程を含む)が流用されている。全音程を含むということは協和音程も一通り含まれているということで、無調と調性の混淆は音列自体に組み込まれている。室内協奏曲に始まる遊戯的な性格をこの曲も受け継いでおり、ふたつの弦楽四重奏曲を続けて聴くと、ベルクの作風の変化を追体験できるだろう。

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 ベルクはヴェーデキントのルル連作第二部『パンドラの箱』の舞台のウィーン初演(1905)に接しているが、第一部『地霊』と合わせたオペラ化に至るには《ヴォツェック》や室内協奏曲の経験が必要だった。『地霊』と『パンドラの箱』の間のエピソードを無声映画として挿入し、前半でルルが死に追いやった3人の夫は第3幕で娼婦に落ちぶれたルルの客として再登場し、ルルに射殺されたシェーン博士は切り裂きジャックとしてルルを刺殺する、鏡像形の台本を自ら書き上げて作曲を始めた。基本的に12音技法に基づいているが、基本音列から主要登場人物の音列を派生させてライトモティーフ的に用いる、室内協奏曲の音名表象の扱いに通じる独自の書法である。第2幕中央の無声映画の場面の前後で音楽が逆行する構成も室内協奏曲第2楽章を踏襲している。他方、随所で《ヴォツェック》の自己引用も行っており、この2作を核にして創作歴の集大成を図った作品とみなせる。《ヴォツェック》の名声の絶頂で作曲を始めたが、作曲終盤にナチスがドイツの政権を掌握し、初演の見通しは立たなくなった。1934年にはプロモーションのために《ルル組曲》をまとめたが、ヒンデミット事件でフルトヴェングラーがベルリンフィル常任指揮者を解任された直後の同年11月末にE.クライバーは組曲の初演を強行し、その4日後にベルリン国立歌劇場音楽監督を辞してドイツを去った。政権も両輪を欠いた状態ではベルリンの音楽界は保たないと判断し、フルトヴェングラーの解任を取り消している。ベルクはE.クライバーの《ヴォツェック》解釈を別格視していたというが、その強い思いを伝える逸話である。

 1935年2月、彼は米国のヴァイオリン奏者ルイス・クラスナーから協奏曲の委嘱を受け、しばらくは《ルル》の作曲を優先していたが、同年4月にアルマ・マーラーとバウハウスを創立した建築家ヴァルター・グロピウスの娘マノン(アルマの浮気が原因でふたりは1920年に離婚)が18歳で亡くなると、追悼曲として完成を急いだ(独墺圏で演奏が禁止されて家計は急速に悪化しており、これで委嘱料を優先する気持ちの整理がついた)。ベルク夫妻には子供がなく、マノンを娘のように可愛がっていた。ヴァイオリン協奏曲の基礎音列はきわめて調性的で、最初の9音は短三和音と長三和音の交替、最後の4音は全音音階を構成する。最初の4和音の根音はヴァイオリンの開放弦に相当し、曲もそこから始まる。第1楽章はマノンの肖像、第2楽章は闘病と死による浄化というプログラム音楽として進行し、基礎音列最後の4音で始まるコラール〈もう十分です〉が現れるJ.S.バッハのカンタータ第60番の該当箇所を安らかな死の象徴として引用している。この基本構造を決めた後は直線的に書き進め、同年8月に完成した。彼の作品を特徴付ける、細部と全体を往復する中から生まれる複雑な構造は持たないが、むしろそのおかげで随一の人気曲になった。彼は《ルル》の作曲を再開したが、ヴァイオリン協奏曲作曲中から体調は思わしくなく、同年11月には背中の虫刺されに由来するできものが悪化し、翌月には敗血症で世を去った。《ルル組曲》は同年12月にウィーンでオーストリア初演されており、死の直前のベルクも臨席している。《ルル》は第2幕まで完成し、第3幕は冒頭268小節の後はショートスコアとして、組曲に現れる間奏曲と第2場終結部を完成見本とする形で残された。シェーンベルクが補筆依頼を断った後はへレーネ未亡人は補筆を禁じ、第2幕までと組曲の第3幕相当部分を組み合わせた上演が定着していたが、出版元のウニヴェルザール社は秘密裏に作業を進めてオーストリアの作曲家ツェルハが1963年から補筆を始め、1976年に未亡人が亡くなると補筆作業の進捗を公表し、1979年に全3幕版がブーレーズの指揮で初演された。

 ベルクの音楽を「新古典主義的」と表現するのが適切かどうかは自明ではない。少なくとも彼の音楽は、ストラヴィンスキーともフランス六人組とも、ヒンデミットやオルフとも明確に異質である。だがそれは、後期ロマン派的な素材という厄介なものを対象にした結果だろう。ストラヴィンスキーがチャイコフスキーを素材にした作品は軒並み悲惨で、歴史的な「新古典主義」にとってロマン派は鬼門である。ベルクの成功は、無調という方向性や12音技法という手段を活用できたことに多くを依っている。そもそも新古典主義は、対象とする素材をより広いパレットの中に置いて異化することが基本である。バロック音楽や古典派が素材ならばロマン派以降の拡張された和声や複調程度で足りるが、後期ロマン派を素材にする場合は、無調までパレットを広げる必要があった。無調は調性を否定するものではなく、12音技法は調性を消すための手段でもない。無調は調性を一部分として含む拡張された概念であり、セリー技法は素材を組織化する一手法であって無調とは関係がない(12音技法はオクターブ内の12音を均等に扱うことが前提なので、平均律ベースの無調と無関係ではないが)。ベルクが調性的な素材に向き合う姿勢はそのようなことを教えてくれる。むしろ彼の音楽を「新古典主義的」と捉えてその概念を拡張すると、その先には豊かな未来が広がっている。彼にならって対象を後期ロマン派に限る必要はなく、対象はいくらでも広げられるのだから。ただしその対象の「外の世界」も知っている必要はあるが。このような新古典主義的アプローチの限界も既に知られており、異化が異化として機能しなくなった時が終わりだということだが、ベルクの場合はそこに組織化の装置も取り込んでおり、さらに先まで行けるはずだ。



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# by ooi_piano | 2024-11-30 06:50 | POC2024 | Comments(0)
ライヴ演奏動画集 (2024/11/30 update)_c0050810_06075780.jpg

【New!】
杉山洋一(1969- ):《華(はな) ~西村朗の追憶に》(2023)(ピアノ独奏)
杉山洋一(1969- ):《華(はな) ~西村朗の追憶に》(2023) (フォルテピアノ独奏)
A.ウェーベルン:《弦楽四重奏のための緩徐楽章》 (1905/2024) [米沢典剛編ピアノ独奏版]
H. マンシーニ(1924-1994): 《ひまわり》 (1970/2024) [神田晋一郎編]
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クセナキス:ピアノ協奏曲全3曲(大井浩明)プレイリスト
シューベルト編曲集プレイリスト
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●南聡(1955- ):《帽子なしで Op.63-4》(2023)
●F.グロリュー(1932-2023) :《ショパンのマズルカ風のモーツァルトのトルコ風ロンド》(1988)
■F.シューベルト:《連弾のためのソナタ ハ長調「グラン・ドゥオ」 D 812》(1824) [J.F.C.ディートリヒ/L.シュタルク編独奏版]
■F.シューベルト:《連弾のためのフーガ ホ短調 D 952》(1828) [J.F.C.ディートリヒ編独奏版]
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■F.シューベルト:弦楽四重奏曲第12番ハ短調 D 703 「四重奏断章」 (1820/2023) [米沢典剛編独奏版]
■F.シューベルト:《連禱(万霊節) D 343》 (1816/1926) [ゴドフスキー独奏版]
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■F.シューベルト:《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]
■F.シューベルト:ピアノトリオ第2番 変ホ長調 D 929 より第2楽章+第3楽章 (1827/1875) [ルートヴィヒ・シュタルク(1831-1884)によるピアノ独奏版]
■F.シューベルト:《弦楽三重奏曲 D 471》(1816/2023) [米沢典剛によるピアノ独奏版]
■F.シューベルト:《さすらい人 D 493》(1816/1981) [フリードリヒ・グルダによるピアノ独奏版]
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■メンデルスゾーン(1809-1847):《弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20》より終楽章「プレスト」 (1825) [作曲者編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]
■米津玄師(1991- ):《KICK BACK》(2022) [金喜聖(キム・ヒソン)編曲による連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]

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一般社団法人全日本ピアノ指導者協会[PTNA]のYouTubeアカウント(+α)で公開されている動画一覧 大井浩明(ピアノ/フォルテピアノ/クラヴィコード/オルガン)

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【作曲家五十音順】
【あ】
■伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018)
■入野義朗(1921-1980):《三つのピアノ曲》(1958)
奥村一(1925-1994):《さくらさくら》(1963)
■落晃子(1969- ):《八犬伝》(2021)
■P.オリヴェロス(1932-2016):《ノルウェーの木》(1989)
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【か】
■G.カペレン (1869-1934) :《君が代》(1904)
■姜碩煕(カン・スキ)(1934-2020):《ゲット・バック》(1989)
■喜多郎(1953- ):《絲綢之路》(1980)
■I.クセナキス(1922-2001):《シナファイ》(1969) (i) NJP 1996 Jul. - (ii) KSO 1996 Nov.(前半後半)- (iii) LPO 2002 Mar.  《エリフソン》(1974) LPO 2004 Jun.  《ケクロプス》(1986) TPO 2022 Feb.
■桑原ゆう(1984- ):《花のフーガ》(2019)
■J.コズマ(1905-1969):《枯葉》 (1945/1993)[武満徹編]
■L.ゴドフスキー(1870-1938):《天国のアナクレオンへ》(1780/1921)
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【さ】
■坂本龍一(1952- ):《エナジー・フロー》(1999)
■佐村河内守(新垣隆)(1970- ):《ドレンテ》(2011)
■G. シェルシ(1905-1988):《アデュー(お別れ)》(1978)
■清水卓也(1986- ):《町田のヤンキー》(2011)
■F.シューベルト(1797-1828):《弦楽三重奏曲 D 471》(1816/2023) [米沢典剛によるピアノ独奏版]  《さすらい人 D 493》(1816/1981) [フリードリヒ・グルダ編独奏版]  《連禱(万霊節) D 343》 (1816/1926) [ゴドフスキー独奏版] 弦楽四重奏曲第12番ハ短調 D 703 「四重奏断章」 (1820/2023) [米沢典剛編独奏版] 《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]  《連弾のためのソナタ ハ長調「グラン・ドゥオ」 D 812》(1824) [J.F.C.ディートリヒ/L.シュタルク編独奏版] ピアノトリオ第2番 変ホ長調 D 929 より第2楽章+第3楽章 (1827/1875) [L.シュタルク編独奏版] 《連弾のためのフーガ ホ短調 D 952》(1828) [J.F.C.ディートリヒ編独奏版]
■R.シューマン(1810-1856):《夕べの歌 Op.85-12》(サン=サーンス編)
■D. D. ショスタコーヴィチ(1906-1975):《革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲》(1918)  オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Op.29》より第2幕間奏曲「パッサカリア」 (1932) [作曲者編独奏版]  《ピアノ五重奏曲 Op.57》より第2楽章「フーガ」(1940/2022) [米沢典剛編独奏版]  オラトリオ《森の歌 Op.81》より第7曲「栄光」(1949/2021) [米沢典剛編独奏版)  映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛編2台ピアノ版] [+浦壁信二(pf)]  交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者による連弾版] [浦壁信二(pf)]  交響曲第13番《バビ・ヤール》第5楽章「出世」(1962/2022) [米沢典剛編独奏版] 《弦楽四重奏曲第15番 Op.144》より第1楽章「エレジー」(1974/2020) [米沢典剛編独奏版]
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■M.スコリク(1938-2020):《メロディ》(1981)
■鈴木悦久(1975- ): 《クロマティスト》(2004)  《ピアノの練習》(2019)
■棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/18)
■田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011)
■P.チャイコフスキー(1840-1893) :《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版]  交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版]  歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版) 《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873) 《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876) 《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版] 《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版] 《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]
■R.ディットリヒ(1861-1919):《さくら》(1894)
■寺内大輔(1974- ):《地層》(2014)
■C.ドビュッシー(1862-1918): 《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005、J.E.バヴゼ編2台ピアノ版)[+浦壁信二(ピアノ)]  《白と黒で》(1915) [+浦壁信二(ピアノ)]
■冨田勲(1932-2016):《きょうの料理》(1957)
-----------------------
【な】
■中川真(1951- ):《非在の声》(2020)
■長瀬弘樹(1975-2012):《見えない星》(2007)
■信時潔(1887-1965):《あかがり》(1920)
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【は】
■S.バーバー(1910-1981) (米沢典剛編):《弦楽四重奏曲第1番第2楽章「アダージョ」》(1936/2017)
■林廣守(1831-1896):《君が代》(1880) ノエル・ペリ(1865-1922)編曲(1905)  A.グラズノフ (1865-1936) [Op.96、米沢典剛編ピアノ版](1915/2019)  河村光陽(直則)(1897-1946):《君が代踊り》(1941)  溝部國光(1908-1996)編(1971)   小弥信一郎(1950- )編(1979)  三宅純(1958- )編(2016)  吉田光貴(1994- )編(2016)  久米由基(1960- )編(2018)  松尾賢志郎(1995- )編(2019)
■平井(保喜)康三郎(1910-2002): 幻想曲「さくらさくら」(1971)
■M.d.ファリャ(1876- 1946):《ヴォルガの舟歌》(1922)
■G.フォーレ(1845-1924):《さようなら Op.21-3》 (1878/2021) [横島浩編ピアノ独奏版] 《バイロイトの思い出 ~ワーグナー「ニーベルングの指環」のお気に入りの主題によるカドリーユ形式の幻想曲》(1880、A.メサジェ採譜)  《月の光》(1887/1927)(M.ボニによるピアノ独奏版)+C.ドビュッシー(1862-1918):「仮装舞踏組曲」より《月の光》(1880)  《消え去らぬ香り Op.76-1》 (1897/2021) [横島浩編ピアノ独奏版]  パリ音楽院ピアノ科初見試験課題曲 [女子学生用(1899)/男子学生用(1901)] 歌劇《ペネロープ》第1幕への前奏曲 (1913、作曲者編)  《チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109》(1917)(全3楽章) 〔+上森祥平(チェロ)〕  《天守夫人(塔の奥方) Op.110》(1918) (ピアノ独奏版)  《幻想曲 Op.111》(1918、作曲者による2台ピアノ版) [+浦壁信二(ピアノ)]  《平和が来た Op.114》(1919/2021) [横島浩によるピアノ独奏版]  組曲《マスクとベルガマスク》 Op.112 (1919/2018) [米沢典剛編ピアノ独奏版] 《チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117》(1921)(全3楽章) 〔+上森祥平(チェロ)〕 「ディアーヌよ、セレネよ Op.118-3」(1921) ~歌曲集《幻想の水平線》より  《ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120》(米沢典剛によるピアノ独奏版)(1923/2018) 《弦楽四重奏曲 Op.121》(G.サマズイユ編独奏版)
■G.プッチーニ(1858-1924)(=R.T.カッツ編):《弦楽四重奏曲 「菊」 嬰ハ短調》(1890/2017)
■J.ブラームス(1833-1897):交響曲第2番 Op. 73 第2楽章(1877/1915) [M.レーガー編独奏版]  《野の寂しさ Op.86-2》(1881/1907) [M.レーガー編独奏版]  《セレナード Op.106-1》(1885/1907) [M.レーガー編独奏版]  交響曲第4番 Op. 98 第2楽章 (1886/1916) [M.レーガーによるピアノ独奏版]  《メロディのように Op.105-1》(1888/1912) [M.レーガーによるピアノ独奏版]  《我が眠りは一層浅くなり Op.105-2》(1888/1906) [M.レーガー編独奏版] 《弦楽五重奏曲第2番 ト長調 Op.111》(1890/1920) [P.クレンゲルによるピアノ独奏版] 《クラリネット五重奏曲 Op.115》(1891/1904)[P.クレンゲルによるピアノ独奏版]  クラリネットソナタ第2番(Op.120-2) 第1楽章 (1894/2021) [米沢典剛編ピアノ独奏版] 《4つの厳粛な歌 Op.121》(1896/1912) [M.レーガーによるピアノ独奏版]  《一輪のバラが咲いて Op.122-8》(1896/1902) [ブゾーニ編独奏版]
■C.フランソワ (1939-1978)/J.ルヴォー(1940- ):《マイ・ウェイ》(夏田昌和によるピアノ独奏版)(1967/2014)
■L.ブローウェル(1939- ):《丘の愚者》(1976)
■L.v.ベートーヴェン(1770-1827): ソナタ第20番第2楽章(1795)  交響曲第3番《英雄》第1楽章(1803)(F.リストによる独奏版、前半後半) ソナタ第23番《熱情》第1楽章(1806)  弦楽四重奏のための《大フーガ》(1826)(L.ヴィンクラーによる独奏版、前半後半)(全てフォルテピアノ独奏)
■G.ペッソン(1958- ):《マストの上で(水兵の歌)》(2009)

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【ま】
■松下眞一(1922-1990): 《スペクトラ第4番》(1971)
■松平(工藤)あかね(1972- ):《ルグリにリフト》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■G.マーラー(1860-1911) (米沢典剛編): 《花の章》(1888/2017)
■H.マンシーニ(1924-1994): 《ひまわり》 (1970/2024) [神田晋一郎編]
■三木たかし [渡邊匡] (1945-2009):《夜桜お七》(1994) [後藤丹編ピアノ独奏版]
■箕作秋吉(1895-1971):《さくらさくら Op.16-2》(1940)
■O.メシアン(1908-1992)(=米沢典剛編):《星の血の悦び》(1948) [+浦壁信二(ピアノ)]
■F.メンデルスゾーン(1809-1847):《弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20》より終楽章「プレスト」 (1825) [作曲者編連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]
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【や】
■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902)
■米沢典剛(1959- ):《君が代》(2021)
■米津玄師(1991- ):《KICK BACK》(2022) [金喜聖(キム・ヒソン)編曲による連弾版] [+浦壁信二(ピアノ)]
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【ら】
■L.J.A.ルフェビュール=ヴェリー(1817-1869):《H.ルベールの歌劇「ガイヤールのおやじ」による華麗な二重奏曲》(1852)[+金澤攝(ピアノ連弾)]
■C.ルル―(1851-1926):《分列式行進曲(扶桑歌)》(1886)
■M.レーガー(1873-1916):《クリスマスの夢~「聖しこの夜」による幻想曲》(1902) 《マリアの子守歌 Op.76-52》 (作曲者編ピアノ独奏版)(1904/1915) 《夜の歌 Op.138-3》(1914/2019) [ヴェンデリン・ビツァン編ピアノ独奏用パラフレーズ]  《ドイツ国歌によるフーガ》(1916、遺作)
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【わ】
■若尾裕(1948- ):《さりながら雪》(2019)
■R.ワーグナー(1813-1883):歌劇《ローエングリン》第1幕前奏曲(1848/2017)(B.ブライモ編) 歌劇《ローエングリン》第2幕より「エルザの大聖堂への入場」(F.リスト編) ヴェーゼンドンク歌曲集(1858/1917) [A.シュトラダルによるピアノ独奏版]  《トリスタンとイゾルデ》より「愛の場面」(1859/65)(タウジッヒ編) 《ジークフリート牧歌》(1870/1973) [G.グールド編ピアノ独奏版]  舞台神聖祝典劇『パルジファル』第1幕前奏曲(1857-82/1882)(A.ハインツ編) 《エレジー WWV93》(1881)
渡辺香津美(1953- ):《アストラル・フレイクス》(1980)


ライヴ演奏動画集 (2024/11/30 update)_c0050810_06090565.jpg






# by ooi_piano | 2024-11-30 04:41 | 雑記 | Comments(0)


Hiroaki Ooi Matinékoncertek
Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)

後援 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) []

チラシ 



【第2回公演】2024年11月10日(日) 15時開演(14時45分開場)

演奏会用大独奏曲 S.176 (1849) 18分
 Allegro energico / Grandioso - Andante sostenuto - Allegro agitato assai - Andante, quasi marziale funebre / Allegro con bravura

ハンガリー狂詩曲第2番 S.244-2 (1847) 10分
Lento e capriccio - Lassan, Andante mesto - Friska, Vivace

マイアベーア《ユグノー教徒》の主題による大幻想曲 S.412 (1836/1842、第2版) 16分
  ラウルとヴァランティーヌの二重唱「ああ!どこへ行かれるのですか? Ô ciel! où courez-vous ?」(第4幕) - コラール「神は我がやぐら Ein feste Burg ist unser Gott」

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スペインの歌による演奏会用大幻想曲 S.253 (1845) 14分
  ファンダンゴ - カチューチャ(19世紀アンダルシア地方のボレロ) - アラゴンのホタ

バラード第2番 S.170a (1853、初稿) 14分

死の舞踏 S.525 (1853/65) [作曲者編独奏版] 16分
  序奏 - グレゴリオ聖歌「怒りの日」主題 - 変奏1 Allegro moderato - 変奏2 L'istesso tempo - 変奏3 Molto vivace - 変奏4 (Canonique) Lento - 変奏5 (Fugato) Vivace - Cadenza - 変奏6 Sempre allegro, ma non troppo

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ドニゼッティ《ルクレツィア・ボルジア》の回想 S.400 (1840) 23分
  I. アルフォンソ公、ルクレツィア、ジェンナーロの三重唱「侯爵夫人の嘆願により Della Duchessa ai prieghi」(第1幕終曲) - II. オルシーニ「幸せになる秘訣は(乾杯の歌) Il segreto per esser fellici」 / ルクレツィアとジェンナーロの二重唱「ああ、あなたのお母様を愛して Ama tua madre」 / 終結部

半音階的大ギャロップ S.219 (1838) 3分

モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》の回想 S.418 (1841) 16分
  石像「貴様の笑いも夜明けまでには終わろうぞ」「もはや必要ないのだ、人間の食べ物は」(第2幕) - ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱「お手をどうぞ」(第1幕) - 石像「お前はわしを夕食に招いた」(第2幕) - 「シャンパンの歌」(第1幕)

[使用エディション:新リスト全集 (1972/2019、ミュジカ・ブダペシュト社)]



リストとフランスオペラ――山村雅治

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11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20112812.jpg
 1885年6月20日土曜日、ヴァイマールにおいてリストは8人の弟子のピアノ・レッスンをした。ブルメスターが弾くマイアベーアのオペラ《悪魔のロベールの回想》(リスト編曲、S.413)について、リストは改善すべき点や変えるべき点をいくつか挙げた。揺れ動くワルツの部分は、少し気取りながら、いたってクールな感じで弾くべきとのこと。313小節で2つのテーマが同時に現れるが、この箇所について、以前にパリでこれを弾いたときのエピソードを引き合いに出した。10回も拍手で演奏を中断させられたそうだ。「30年前は、まったく新しい、聞いたこともないような音楽だったんだよ」とリストはいった。そしてほとんどのパッセージを弾いてみせた。

 リストの高弟アウグスト・ゲレリヒは1884年5月31日のヴァイマールから、ローマ、ブタペストを経て、再びヴァイマール1886年6月26日までの弟子たちへのレッスンの記録を詳細に書き留めている。採りあげられた曲は師リストの作品だけではなく、ショパン、シューマン、バッハ、ベートーヴェンなどピアニストがレパートリーに持つ曲が並んでいるが、もちろんリストの曲が多く、リストが編曲した作品も弟子たちは好んで演奏した。

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20113697.jpg
 オペラに限って挙げれば、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》、ヴァーグナー《さまよえるオランダ人》《ワルキューレ》《タンホイザー》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》《トリスタンとイゾルデ》《パルジファル》、オーベール《ボルティナの物言わぬ娘》、マイアベーア《アフリカの女》《悪魔のロベール》《ユグノー教徒》《預言者》、ベッリーニ《夢遊病の女》《ノルマ》、ドニゼッティ《ルチア》《バリジーナ》《ルクレツィア・ボルジア》、ベルリオーズ《ベンヴェヌート・チェッリーニ》《ファウストの劫罰》、ヴェルディ《トロヴァトーレ》《エルナーニ》《リゴレット》、グノー《ロメオとジュリエット》。リストが書いたオペラ編曲作品は、もちろんこれらだけではない。

 リストはまぎれもなくオペラを愛していた。「30年前は、まったく新しい、聞いたこともないような音楽だったんだよ」と明かしたマイアベーアの音楽に新しい音楽を切り拓こうとしていたリストは魅せられた。「30年前」とは1855年前後の月日をいうのだろう。マイアベーアは1791年に生まれて1864年に没したオペラ作曲家で、イタリア歌劇もドイツ歌劇も消化してフランスのグランド・オペラの様式を確立した。ヴァーグナーにも影響を与えている。《悪魔のロベール》は1831年、《ユグノー教徒》は1836年、《預言者》は1849年の作品で、1849年といえばリストがヴァイマールで2月16日にヴァーグナーの歌劇《タンホイザー》を上演した。1850年には《ローエングリン》の世界初演をリストがした。
 リストがヴァーグナーに出会ったのは1840年代の初めにパリでだったと伝えられる。以来、互いの作品の楽譜を贈りあったり、直接に考えることをぶつけあったりして二人は近づいた。


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11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20114391.jpg
 1811年10月22日、フランツ・リストはハンガリーの寒村ドボルヤーンで生まれた。6歳で父親からピアノの手ほどきを受け、すぐに才能を輝かせた。デビュー演奏会は9歳になったばかりの1820年秋。11月にはブラティスラヴァで演奏会を開いて6人の貴族からの奨学金を得た。1822年、リスト一家はウィーンへ引っ越し、リストはピアノをチェルニーに、作曲理論をサリエリに無料で学んだ。
 そしてリスト一家は1823年12月11日にパリに到着した。紹介状を携えてケルビーニに会った。フランツをパリ音楽院に入学させるためだった。院長だったケルビーニの答えは拒否。後年リストは書いている。
「私の音楽院への入学許可にはいくらか障害があるだろうとは予期していましたが、授業に外国人が参加することを禁じる規則があるとは、そのときまで知りませんでした。私の涙と嘆きはとどまるところを知りませんでした」。

 12歳のリストは個人指導で音楽の勉強を続けることになった。作曲をパエールに、音楽理論をレイハに。ピアニストとしては活躍を続ける。貴族や王族の前でも、サロンで私的に演奏した回数はパリへ来た翌年3月までに36回。パリでの公開デビューコンサートは3月7日にイタリア劇場で開かれて大成功だった。それを受けてリストはさらにパリで音楽家として成功するにはオペラを書くことが求められた。
 リストが完成させた唯一のオペラ《ドン・サンシュ、あるいは愛の館》は13歳の作品。リストによれば「ほかの誰でもなく、作曲の先生パエールがかなり私を助けてくれた」。

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20115181.jpg
 イギリスにも渡った。3度目のイギリスツアーの1827年8月28日、父親が腸チフスで急死した。15歳のリストは母を抱えながら一家の生計を立てなくてはいけなくなった。定期的な収入を確保するためにパリでピアノ教師として生活していくことになった。
 19世紀のヨーロッパには時代を変える風が吹き荒れていた。7月革命で復古王政を打倒したフランスは1830年以後、ヨーロッパでもっとも自由な活気に満ちた年だった。ドイツやポーランドの政治亡命者たちがなだれ込み、芸術家たちもパリにあつまった。ハイネ、ミツキエヴィチ、ショパンもそのなかにいた。私的なサロン文化が盛んになり、ショパンとリストは寵児だった。
 
 劇場に進出した外国からの音楽家も枚挙にいとまがない。パリ音楽院院長のケルビーニがそうだったし、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、マイアベーア、オッフェンバック、ヴァーグナーのオペラに若いリストは胸をときめかせて見入っただろう。


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11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20115814.jpg
 1830年12月4日、リストは《幻想交響曲》初演前夜にベルリオーズに会った。19歳のリストと27歳のベルリオーズの出会いは、ゲーテの《ファウスト》を通じて同じ書物に情熱を抱き、その後互いに鮮烈な共感を抱き固く結ばれた。《幻想交響曲》の初演ではリストは会場の熱狂を最高潮に盛り上げた。ベルリオーズは三度目の挑戦でローマ賞を得て3年の留学ののちパリへ戻った。しかし1832年12月の《幻想交響曲》と続編《レリオあるいは生への回帰》上演は失敗した。リストは自分のピアニストとしての目覚ましい成功がベルリオーズを助けられると考え、それを自分の義務でもあるとした。
 1834年、リストは《幻想交響曲》のピアノ版を完成させ出版した。その楽譜でシューマンはベルリオーズを知った。その後も《レリオ》に基づく幻想曲を書き、その後もベルリオーズの作品には献身的といえるほどにピアノ版をつくりつづけた。

 しかし、ベルリオーズはリストのような人種的な排斥ではなく、書法の過激さにおいてパリ音楽院から除け者にされていた。パリ音楽院のアカデミズムの書法に則った音楽もベルリオーズはその気になれば書けた。《キリストの幼時》は彼らも認める美しい音楽だった。ベルリオーズはそれだけではものたりず冒険をかさねていった。オペラを書いてパリ・オペラ座で成功させたい。それがベルリオーズの宿願であるにもかかわらず、1838年オペラ座での《ベンヴェヌート・チェッリーニ》は惨憺たる失敗に終わった。リストがフランス・オペラの分厚い「壁」を感じたのはそのときだったかもしれない。リストはベルリオーズを世に認めさせるためにはどんなに面倒なことでも厭わなかった。ベルリオーズの晩年の大作《トロイアの人びと》もヴァイマールで上演にこぎつけている。存命中にはついにオペラ座ではついに上演されなかった執念の作品だった。

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20120512.jpg
 《ベンヴェヌート・チェッリーニ》の不評は「フランスの舞台作品の伝統にしたがって」オペラにおいても台本がまず重要視された。音楽は脆弱な詩を支えることはできない、と切って捨てられた。リストは不成功の知らせをきいて友人のドゥニに書き送った。「かわいそうな友よ!運命は彼にとても邪険です!批判や無礼がどんなものであっても、ベルリオーズはフランス音楽界のもっとも強靭な頭の持ち主であることに変わりありません」。リストは充分にフランス・オペラを聴きこんでいた。その伝統とはどういうものだっただろう。

 フランス・オペラは、1643年即位した太陽王ルイ14世を中心に、ヴェルサイユ宮殿で貴族たちが華々しいバレエを踊り、豪華絢爛なオペラが上演されたことに始まる。ただし、それらはただの「娯楽」ではなかった。この宮殿は人々を魅了する「魔法の宮殿」でなくてはならない。魅了することが支配者にとって、秩序の完成にとって不可欠で、喜びを与える魔術には歌が必要であった。そのとき、どのような音楽が奏でられるべきなのか。フランス・バロック・オペラの形成過程は、この課題をめぐっての様々な模索であった。つねに政治の監視の目にさらされていたといえるだろう。

 「パリ・オペラ座」は作曲家ロベール・カンベールと組んで宮廷用オペラを作っていた詩人ピエール・ペランの請願が、ルイ14世に認められ、1669年に設立された。最終的に「王立音楽アカデミー」の音楽監督に就任し、オペラ上演の独占権を獲得したのは作曲家ジャン゠バティスト・リュリだった。王政を裏切らないオペラが書き継がれて、1789年のフランス革命を経て時代は進む。リストとベルリオーズが出会った1830年代にはマイアベーアが全盛だった。フランス・グランドオペラの様式の第一人者だった。
 フランス・グランドオペラは「大規模」なオペラ。歴史のできごとを扱った台本、数多くの登場人物、大規模なオーケストラ編成、豪華な舞台衣装、スペクタクル的な舞台効果などに加えて、多くの場合バレエを含む。


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11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20121279.jpg
 1860年、ヴァーグナー《タンホイザー》のパリ・オペラ座での上演が決定した。ドイツの作曲家として名誉なことだった。パリ上演にはバレエのための音楽が必要だったので、急遽書き加えることになった。ベルリオーズの落胆と嫉妬には想像するに余りある。最後の命運をかけた彼の《トロイアの人びと》は1858年の完成以来、上演のために奔走しても延期になり憔悴しきっていた。
 ヴァーグナーはベルリオーズに会い、リストにも会っていた。ベルリオーズとヴァーグナーは互いに相いれなかったが、当時のリストはヴァーグナーの音楽と理想に共感し、互いに認め合っていた。ヴァーグナーは「音楽、文学、舞踊、彫刻、絵画、建築などあらゆる種類の芸術がドラマの表現のために統一、融合されるべき」という総合芸術論を訴えていた。ベルリオーズはおもしろくなかった。その後、友情は破綻した。

 オペラをめぐって、リストはパリで二人の作曲家とともにあった。ベルリオーズもヴァーグナーもそのオペラは「フランス・グランドオペラ」とはいえなかった。リストが書いたオペラは13歳の時に書き上げた《ドン・サンシュ》と、もう一作、2017年に蘇演された《サルダナパラス》がある。ヴァイマールのアーカイブから草稿が発見された作品で、バイロンの戯曲がもとになっている。1849年にとりかかって未完のままになっていた。イタリア語だったから、「フランス・グランドオペラ」はおろか「フランスオペラ」にもならない。



# by ooi_piano | 2024-11-01 19:35 | Comments(0)
POC第52回公演「歌曲で辿るウェーベルン」 客演:森川栄子(ソプラノ) [2024/10/15 update]_c0050810_23170150.jpg


《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)


【POC第52回公演】 2024年10月31日(木)19時開演(18時半開場)
〈歌曲で辿るウェーベルン〉 客演:森川栄子(ソプラノ)

ウェーべルン(1883-1945):
《ピアノのための楽章》(1906) 6分

《ソナタ楽章(ロンド)》(1906) 6分

《管弦楽のためのパッサカリア Op.1》(1908/2013) [杉山洋一編ピアノ独奏版] 10分

《S.ゲオルゲの「第七の輪」による5つの歌曲 Op.3》(S.ゲオルゲ) (1907/08) 5分
  1. これはあなたのためだけの歌 2. 風のそよぎの中で 3. 小川のほとりで 4. 朝露のなかを 5. 裸木が冬の靄の中で

《S.ゲオルゲの詩による5つの歌曲 Op.4》(S.ゲオルゲ) (1908/09) 8分
  1. 序詞 - 形を持つものの世界よ 2. 誠の心に強いられて 3. そう、祝福と感謝の言葉を 4. こんなにも悲しいので 5. あなた方は炉に歩み寄った

《4つの歌 Op.12》 (1915/17) 6分
  1. 日は去りて(民謡詞) 2. 神秘の笛(李白/H.ベートゲ訳) 3. 太陽が見えたとき(A.ストリンドベリ) 4. 似たものどうし(J.W.ゲーテ)

《4つの歌 Op.13》 (1914/18) [作曲者編ピアノ伴奏版] 7分
  1. 公園の芝生で(K.クラウス) 2. 孤独な乙女(王僧孺/H.ベートゲ訳) 3. 異郷で(李白/H.ベートゲ訳) 4. 冬の宵(G.トラークル)

 (休憩10分)

《子供のための小品》(1924) 1分

《メヌエットのテンポで》(1925) 1分

《H.ヨーネの「道なき道」による3つの歌 Op.23》(H.ヨーネ) (1934) 7分
  1. 暗き心 2. 天の高みより清涼さが 3. 我が主イエスよ

《9楽器の協奏曲 Op.24》 (1934/2024) [米沢典剛編ピアノ独奏版、世界初演] 6分
  I. Etwas lebhaft II. Sehr langsam III. Sehr rasch

《H.ヨーネの詩による3つの歌曲 Op.25》(H.ヨーネ) (1934/35) 4分
  1. 何と喜ばしいことか! 2. 心の深紅の鳥は 3. 星たちよ、夜の銀色の蜂たちよ

《ピアノのための変奏曲 Op.27》 (1936) 5分
  I. Sehr mäßig II. Sehr schnell III. Ruhig, fließend

《管弦楽のための変奏曲 Op.30》(1940/2016) [米沢典剛編ピアノ独奏版、世界初演] 7分

《H.ヨーネの詩によるカンタータ第1番 Op.29》(1939)より第2曲「小さな翼、楓の種子よ、風に漂え」(H.ヨーネ)[作曲者編ピアノ伴奏版] 2分

《H.ヨーネの詩によるカンタータ第2番 Op.31》(1943)より第4曲「樹々の最も軽い荷を」(H.ヨーネ)[作曲者編ピアノ伴奏版] 1分

POC第52回公演「歌曲で辿るウェーベルン」 客演:森川栄子(ソプラノ) [2024/10/15 update]_c0050810_23171208.jpg

森川栄子  Eiko Morikawa, soprano
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  北海道教育大学札幌分校特音課程および東京藝術大学声楽科卒業、同大学院修了。DAAD奨学金を得て93年よりベルリン芸術大学に留学、現代声楽曲をアリベルト・ライマン、声楽をエルンスト・G・シュラムの各氏に師事。94年ダルムシュタット現代音楽講習にてクラーニヒシュタイン音楽賞。96年ガウデアムス現代音楽コンクール総合第2位、第65回日本音楽コンクール第1位および増沢賞。ミュンヒェン・ビエンナーレ(細川俊夫『リアの物語』ほか)、ザルツブルク音楽祭(ラッヘンマン『マッチ売りの少女』)、ベルリン・コーミッシェオーパー(リゲティ『ル・グラン・マカーブル』)出演など、数多くの新作世界初演を含む現代声楽作品・オペラを中心に主に欧州にて活躍。国内では2005年に新国立劇場委嘱新作(久保摩耶子『おさん』)、2007年東京交響楽団定期演奏会(ヘンツェ『ルプパ』)、2009年東京室内歌劇場公演(リゲティ『ル・グラン・マカーブル』、ヒンデミート『往きと復り』)、2010年東京室内歌劇場公演(青島広志『火の鳥』)などに出演。2008年秋に帰国し、愛知県立芸術大学教授、お茶の水女子大学非常勤講師として教鞭をとると同時に、活発な演奏活動を展開している。


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《4つの歌 Op.12》第2曲
原詩:李白(701~762)「春夜洛城聞笛」

春夜洛城聞笛
誰家玉笛暗飛聲
散入春風滿洛城
此夜曲中聞折柳
何人不起故園情

春夜 洛城に笛を聞く
誰が家の玉笛ぞ 暗に聲を飛ばす
散じて春風に入って 洛城に 滿つ
此の夜 曲中 折柳を 聞く
何人か起こさざらん 故園の情

いったい誰だろう、暗闇の中を笛の音が響いてくる。
笛の音は春風の中に乱れ入り、洛陽の町中に広がる。
この夜、曲の中に「折柳」の調べを聴いた。
これを聴いて故郷を偲ばない者があろうか。

 〈・・・この詩の面白さは、初めから視覚を捨てているところにある。聴覚以外の一切の感覚を排して、ただひたすら耳を研ぎ澄まして得た事象から、客地にいる自身の心中に湧き上がる故郷への思いを詠っている。・・・〉

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《4つの歌 Op.13》 第2曲
原詩:王僧孺 (465-522)「秋閨怨」

斜光隱西壁
暮雀上南枝
風來秋扇屏
月出夜燈吹

深心起百際
遙淚非一垂
徒勞妾辛苦
終言君不知

斜光(しゃこう) 西壁(せいへき)に隱れ
暮雀(ぼじゃく) 南枝(なんし)に上(のぼ)る
風來たりて 秋扇(しゅうせん)屏(しりぞ)けられ
月出でて 夜燈(やとう)吹かる

深心(しんしん) 百際(ひゃくさい)に起(おこ)る
遙淚(ゆうるい) 一垂(いっすい)に非ず
徒(いたずら)に勞(ろう)す妾(しょう)が辛苦
終(つい)に言う君は知らずと

太陽の斜の光が西の方の壁にかくれる、
暮方の雀が南の枝に上がりすむ。
風が来て扇はのけられ、
月が出て夜の燈火が吹きけされる。

深いものおもいがいろいろのおりに起る、
遠く離れている吾身の涙は一度や二度垂れるのではなくたびたび流す。
無駄に自分の辛苦に煩わされているが、
つまりはこちらは何をしようとあなたはそれを知らぬのだと一人で言う(思う)。

POC第52回公演「歌曲で辿るウェーベルン」 客演:森川栄子(ソプラノ) [2024/10/15 update]_c0050810_14541044.jpg
パウル・クレー《王僧孺による中国詩のコンポジション、高く輝いて月が出る、第1部》(1916)
Paul Klee "Hoch und strahlend steht der Mond" (1916)

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同 第3曲
原詩:李白「静思夜」

床前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷

牀前(しょうぜん)、月光を看る
疑うらくは是(これ)、地上の霜かと
頭(こうべ)を上げて山月を望み
頭を低れて(たれて)故郷を思う

静かな秋の夜、ふと寝台の前の床にそそぐ月の光を見ると、その白い輝きは、まるで地上におりた霜ではないのかと思ったほどであった。
そして、頭(こうべ)を挙げて山の端にある月を見て、その光であったと知り、眺めているうちに遥か彼方の故郷のことを思い、知らず知らず頭をうなだれ、しみじみと感慨にふけるのである。


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ハンス・モルデンハウアー(1906-1987):「アントン・ヴェーベルンの死 ─記録文書の中のドラマ」(1961)(日本語訳) http://blaalig.a.la9.jp/webern_death.html


POC第52回公演「歌曲で辿るウェーベルン」 客演:森川栄子(ソプラノ) [2024/10/15 update]_c0050810_23165078.jpg


ヴェーベルンの音楽から今日汲み取れるもの――野々村禎彦

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 1950年代の現代音楽の「主流」は、ヨーロッパ戦後前衛音楽では12音技法の発展形である総音列技法、米国実験主義音楽では偶然性の美学だが、どちらの潮流でもアントン・ヴェーベルン(1883-1945)の音楽は本質的な位置を占めている。12音技法は平均律の1オクターヴを構成する12音を、音列を用いて均等に管理する技法であり、それまでは直感とテクストの支えが欠かせなかった「無調」のテクスチュアを組織的に構造化することを可能にした。この技法の開発者シェーンベルクは「無調の組織化」が達成された時点で満足し、形式面ではむしろ伝統に回帰したが、ヴェーベルンはそれだけでは満足できなかった。3音ないし4音の音型を移高・逆行・反行させて繰り返す極度に単純な音列を用い、伝統的な形式感に沿った持続がもはや作れないような舞台を設定した上で、テクスチュアとダイナミクスや音楽の流れが一体化した作品群に結晶化させた。このような《交響曲》op.21(1928)以降のヴェーベルンの様式は生前は全く理解されなかったが、組織化を重視して音高以外の音楽要素も音列で管理した総音列技法の先駆者だとして熱狂的に支持された。ブーレーズがシェーンベルクの死に際して「シェーンベルクは死んだ、ヴェーベルン万歳!」と書いたのは象徴的な出来事だった。他方、米国実験主義音楽で注目されたのは、この時期のヴェーベルンの「音と沈黙の対位法」の側面であり、偶然性の音楽の成立にやや先んじていた。ケージとフェルドマンは《交響曲》の演奏会場で出会い、ケージが弟子入りしたウォルフに最初に与えた課題は《交響曲》全曲のスコアを写譜することだった。すなわち、ニューヨーク楽派の偶然性の美学は、彼らがヴェーベルンの音楽に見出した音符と休符を対等なものと捉える姿勢の先に成立した。

 ただし彼らが参照したのは、《交響曲》に始まり《9楽器のための協奏曲》op.24(1931-34)を経て、《ピアノのための変奏曲》op.27(1935-36)と《弦楽四重奏曲》op.28(1936-38)に至る、高々10年の作品群にすぎない。ブーレーズは先のヴェーベルン讃の数年後には、「もはやヴェーベルンの可能性は汲み尽くされた」と言い始める始末だが、勝手に矮小化しておいて汲み尽くされたも何もあったものではない。しかも彼らは、後期ヴェーベルンの音楽自体をリスペクトしていたわけですらない。様式の継承という意味では、「音と沈黙の対位法」まで受け継いだ後期ダラピッコラや後期ペトラッシの作品群はもっと注目されてしかるべきだが、実際に総音列技法で書かれた作品群は、それとは似ても似つかない饒舌な音の戯れに落ち着いた。これは、ヨーロッパ戦後前衛第一世代に限った話でもない。欧米の「芸術的」な即興音楽は、「現代音楽」の典型的テクスチュアを20年程度のタイムラグで即興で再現することで発展してきたが、1960年代後半に後期ヴェーベルンを参照して「無調」テクスチュアに取り組み始めたヨーロッパ自由即興音楽第一世代の音楽家たちが1970年前後に至ったのは、総音列技法の作品群を思わせる饒舌なアンサンブルだった。ヴェーベルンの「音と沈黙の対位法」の美学は、ヨーロッパの感性とは相性が悪いのかもしれない。他方、この美学は1950年代のニューヨーク楽派では尊重されていたものの、1960年代に入るとケージがチュードアに追随してライヴエレクトロニクスに取り組み始めたことを契機に、徐々に顧みられなくなった。

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 もちろん、1950年代のブームの終焉とともに、ヴェーベルンが再び忘れられたわけではない。生前にはシェーンベルクやベルクと比べて全く無名だった作曲家が、このブームを経て彼らに匹敵する新ウィーン楽派の一員だと認められ、評価の出発点に立ったということである。ここで、新ウィーン楽派の中でのヴェーベルンを振り返る。彼はシェーンベルクが1904年から自宅で始めた私塾に参加したが、それ以前の管弦楽曲《夏風の中で》(1904)は素朴な19世紀音楽なのに対し、楽派参加後の《ピアノのための楽章》(1906)《ソナタ楽章(ロンド)》(1906)になると、後期ロマン派的な息の長い持続が目立つ(慣れない引き延ばしが過ぎるとも言えるが)。ここからしばらくの作品は師の影響が強い。《パッサカリア》op.1(1908)は師の《室内交響曲第1番》(1906)を、《軽やかな小舟にて逃れよ》op.2(1908)は師の《地上の平和》(1907)を編成的にも否応なく想起させるが、師のような濃さはない。《『7つの環』による5つの歌曲》op.3(1908-09)《5つの歌曲》op.4(1908-09)で無調に踏み出すと、簡潔な軽やかさに後年の面影が見え始めるが、師には同じくゲオルゲの詩を用いた《架空庭園の書》(1908-09)という浮遊感あふれる無調歌曲の傑作がある。《弦楽四重奏のための5楽章》op.5(1909)や《管弦楽のための6つの小品》op.6(1909)まで来ると、無調表現主義も板についてくる。op.5は弦楽合奏版(1928-29)、op.6は室内管弦楽版(1920)も作っており、彼も思い入れは深かったようだ。だが同時期の師は《5つの管弦楽曲》(1909)で音色旋律の実験を行い、モノオペラ《期待》(1909)では表現主義の極北まで振り切っており、ヴェーベルンは常に一歩先を行く師の後を追っていた。

 だが、《ヴァイオリンとピアノのための4つの小品》op.7(1910)でついに立場が入れ替わる。表現主義の前提になる文学的コンテクストも切り捨てた1曲1分前後の「極小様式」に、師よりも先に踏み込んだ。彼独自の音楽的背景として、フランドル楽派の作曲家ハインリヒ・イザーク(ca.1450-1517)の研究を通じてルネサンス時代の対位法に精通していたことが挙げられるが、表現主義から離れて抽象的な凝縮に向かうことで、この背景も活かされる。音楽劇《幸福の手》(1910-13)の作曲が難航していたシェーンベルクは、早速この弟子の試みに飛びついた。《6つのピアノ小品》(1911))の佇まい(6曲5分)はヴェーベルンが乗り移ったかのようだし、《月に憑かれたピエロ》(1912)の凝縮された構成(21曲35分)もヴェーベルン体験抜きには有り得なかっただろう。小アンサンブル伴奏歌曲という新しい方向性はブームになり、ストラヴィンスキーやラヴェルも追随した。この作品の予想以上の成功が励みになり、またこの作品で開発したシュプレッヒゲザングという新しい歌唱法を使うことで、翌年に《幸福の手》は完成したが、シェーンベルクの創作力はここで燃え尽き、12音技法を開発するまで長い沈黙に入る。他方ヴェーベルンは地道に極小様式の探究を進め、初期代表作の《弦楽四重奏のための6つのバガテル》op.9(1911-13)と《管弦楽のための5つの小品》op.10(1911-13)に到達した。作風的にこの様式とは相容れなそうなベルクも無視はできず、この路線に沿った《クラリネットとピアノのための4つの小品》(1913)を書いている。

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 程なく第一次世界大戦が始まり3人の道も分かれてゆくが、ヴェーベルンは極小様式はそろそろ潮時だと感じて切り上げ、新たな探究に向かう。そこで彼が選んだのは、師が開拓した小アンサンブル伴奏歌曲の先を掘り進めることだった。シュプレッヒゲザングは音程を指定した朗読であり、生声の存在感と表現主義の相性の良さが《月に憑かれたピエロ》の成功の要因のひとつだったが、これは彼が求めるものではない《4つの歌曲》op.12(1915-17)で彼が選んだのは、シューベルトを思わせる素直な歌唱だった。もうひとつの《4つの歌曲》op.13(1914-18)は室内オーケストラ規模のアンサンブルを伴うが、まず一通りの楽器を使ってみて自分に必要な編成を見出そうとしたのだろう。op.14-18はみな小アンサンブル伴奏歌曲(ソプラノと2-5奏者)だが、特徴的なのはクラリネットとバスクラリネットが衝突する編成で、ソプラノ、クラリネット、バスクラリネットのための《ラテン語詩による5つのカノン》op.16(1923-24)はその典型である。ソプラノ、クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン(ヴィオラ持替)のための次作《3つの宗教的民謡》op.17(1924-25)から彼は12音技法を用い始めるが、両作の様式に断絶はない。極小様式時代から「オクターブの12音が出揃った時点で曲は終わる」というオブセッションで作曲を進めてきた彼には12音技法は目新しいものではなく、シェーンベルクが弟子を集めてこの技法を講義した時の感想も、「私が10年ほど前から取り組んでいたほぼすべてのことが、そこで探究されていた」というものだった。

 ただし、12音技法採用後は作曲ペースが格段に上がった。《子供のための小品》(1924)《ピアノのための小品》(1925)で試運転を済ませると、op.17から本格的に創作に応用したが、op.14やop.15の頃は数年で1作だったペースが1年で数作になった。手探りで音を選んでいたものが組織化されたご利益である。小アンサンブル伴奏歌曲シリーズの締めくくりに混声合唱と小アンサンブルのための《2つの歌曲》op.19(1925-26)を書き上げると、《弦楽三重奏曲》op.20(1926-27)に取り組んだ。久々の室内楽でもあり、前後の1925-27年には試し書きにあたる同一編成による数作の作品番号なし小品が残されている。主旋律と伴奏からなる歌曲の構造とは違い、対等な複数の線が対位法を織りなす構造では、元々の構造と12音音列の兼ね合いを制御するのがなかなか難しい。そこで音列に内部構造を持たせて対称性を高めておけば、対位法構造を作るのはむしろ簡単になる、というのが冒頭で説明した《交響曲》op.21以降の作品群の発想の出発点である。他方、このような音列は線的構造の性格も決めてしまうため、主旋律はテクストに合わせて柔軟に生成したい歌曲には都合が良くない。従ってこの時期でも、《3つの歌曲》op.23(1933-34)《3つの歌曲》op.25(1934)では器楽曲のような音列は用いず、op.17やop.18と地続きの音世界が広がる。《弦楽四重奏曲》op.28で編成的にも一巡し、op.21以降の様式も潮時と判断したのだろう。

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 《カンタータ第1番》op.29(1938-39)以降、ヴェーベルンは対称性の高い音列を用いた音列操作を止める。元々器楽曲のための手法なので声楽曲とは相性が良くないことはわかっており、独唱も含む混声合唱と管弦楽のための作品でそうすることは不思議ではないが、《管弦楽のための変奏曲》op.30(1940)でもこの路線を貫いたところに意志が感じられる。基本音列の前半6音を完全4度に収め、後半6音は前半6音を反逆行させたものを移高してはめ込んでいるが、この程度は音列生成の定石であり、op.24のように3音音型とその反逆行型・逆行型・反行型を並べた音列を用い、この音型が音楽の核になっていることが分析せずとも聴き取れるような作品とは性格が違う。op.29のリズム構造はop.21-28を引き継いでスクエアだが、《カンタータ第2番》op.31(1941-43)はop.30の経験を経て柔軟性が増しており、主に器楽曲に反映されてきたルネサンス・ポリフォニー的側面と、主に声楽曲に反映されてきたシューベルト的側面がひとつになった、この時点での集大成的な作品になった。実のところ、機会音楽ではない後世に残すための管弦楽編曲は2曲のみ、J.S.バッハ《音楽の捧げもの》の〈6声のリチェルカーレ〉(1934-35)とシューベルト《ドイツ舞曲》(1931)であり、ルネサンス音楽の構築的な対位法表現(を集大成した後期J.S.バッハ)とシューベルトの透明な歌心という音楽的ルーツは、このような形でも明白である。

 ここまで、伝記的事実には殆ど触れてこなかったので最後に少々。彼は教職に就いたことはなく、生計は指揮で立てていた。活動初期の舞台はもっぱらオペレッタだったが、その世界に嫌気がさしてクラシック音楽の世界で仕事を探したものの上手くいかず精神的に消耗していた時期が、極小様式の探究を行っていた時期に相当する。第一次世界大戦後、ウィーン市政を社会民主党が担うようになって状況が変わる。伝統ある男声合唱団「ウィーン・シューベルト協会」の音楽監督に加え、1922年から社会民主芸術評議会音楽部門の全活動(ウィーン労働者交響楽団とアマチュア合唱団「ウィーン合唱協会」)の指揮者も担当した。演奏機会が増えるとともに評価も高まり、「マーラー以来の同時代音楽解釈者」としてオーストリア放送交響楽団やBBC交響楽団もたびたび指揮した。ベルク《ヴァイオリン協奏曲》の英国初演も担当し、録音も残されている。だが、1934年の内乱で社会民主党が非合法化されてその傘下の仕事はすべて失い、1919年から楽譜の出版契約を結んでいたウニヴェルザール社の編集や校閲の仕事で糊口を凌いだ。op.23以降の声楽曲のテクストはみなヒルデガルト・ヨーネ(1891-1963)の詩に基づいているが、多くの友人が亡くなり、ないし亡命して疎遠になる中、オーストリアで芸術活動を続け素朴な自然観を共有する彼女の存在は、晩年の孤独な彼の心の支えになった。1945年4月、ヴェーベルン一家はソ連軍が迫るウィーンを引き払って、ザルツブルク近郊ミッタージルの娘夫婦の家に身を寄せる。夜間外出禁止令が続く同年9月の夜、狭い家でつましく暮らす家族を気遣って屋外で煙草に火を点けたところを、元ナチス親衛隊員の闇商人(娘の夫)を監視していた米兵に狙撃され、そのまま亡くなった。ヨーネの詩による《カンタータ第3番》の草稿が存在し、「音楽を内包する図形」による作曲も試みていたというが、その後の方向性を伝える確たる資料は残されていない。

 ヴェーベルンの音楽から今日汲み取るべきは、その表面的な音楽様式ではなく、創作の基本姿勢だろう。ふたつの対照的な音楽をリスペクトし、それを今日の視点で統合しようとする中から新たな可能性が生まれてくる。両者は単純には統合できないものの方が、さまざまな可能性がありネタは尽きない。師シェーンベルクは突発的な創作と長い沈黙を繰り返したが、彼は経済的にも精神的にも師以上に厳しい状況の中で、寡作ながらも生涯にわたってコンスタントに作曲を続けられたのは、この創作姿勢の賜物だろう。生前は不遇だった彼は、まず戦後前衛の代弁者として(その対立する二大潮流からともに)受容されたが、後にはこの戦後前衛の二大潮流の批判者(例えばリゲティや近藤譲)からも高く評価された。一見単純だが実は奥深い彼の創作の底にあるもの――特に見過ごされがちなシューベルト的側面――を見極める上で、歌曲を中心に据えた本日のプログラムは有意義である。




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# by ooi_piano | 2024-10-30 13:55 | POC2024 | Comments(0)

12月7日(土)〈暴(あら)ぶるアルバン・ベルク〉


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