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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_02444486.jpg
大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って
Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
使用楽器:ハンブルク・スタインウェイ
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
後援  一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) 
チラシpdf 第3回

・開場時間は14時45分です。開場時間より前にご入場は頂けません。
・場内では、マスクの着用をお願い致します。
・客席は安全に考慮し、使用座席数を減らしております。
・演奏中の水分補給等はご自由にどうぞ。
・キャンセルの場合は、すみやかにご一報をお願い致します。



【第3回公演】2021年3月14日(日)15時開演(14時45分開場)
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_23445230.jpg
●C.V.アルカン(1813-1888): 《短調による12の練習曲 Op.39》(1857、関西初演)
Charles-Valentin Alkan : Douze études dans toutes les tons mineurs en deux suites Op.39


〈第一部〉 15分
I.風のように Comme le vent. Prestissimamente
II.モロッソス格で En rhythme molossique. Risoluto
III.悪魔的スケルツォ Scherzo diabolico. Prestissimo

〈第二部〉 27分
IV.~VII.ピアノ独奏による交響曲(全4楽章) Symphonie pour piano seul
  第1楽章 Allegro Moderato - 第2楽章 葬送行進曲 (Andantino) - 第3楽章 メヌエット - 第4楽章 Presto

〈第三部〉 55分
VIII.~X.ピアノ独奏による協奏曲(全3楽章) Concerto pour piano seul
  第1楽章 Allegro Assai - 第2楽章Adagio - 第3楽章 Allegretto alla barbaresca

〈第四部〉 22分
XI.序曲 Ouverture. Maestoso-Lentement-Allegro
XII.アイソーポスの饗宴(主題と25の変奏) Le Festin d’Ésope. Allegretto senza licenza quantunque




Ch.-V.アルカンについて───上田泰史

  「アルカンは、ショパン、 ヘラー、リスト、タールベルクの華麗な流派のいずれにも関係してはいるものの、直接これらの模範を映し出してはいない。アルカンは彼自身で完結しており、その美点と 欠点によってのみ、ほかの誰でもない、彼なのだ。彼は固有の言語で考え、語る。」
 この人物評は、パリ音楽院ピアノ科教授アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルが、後年に同窓生のアルカンを振り返って書いたものである。独創性は、ロマン主義に与する音楽家にとって不可欠の条件だった。それは、ロマン主義的精神が社会的に共有される外的世界よりも内的世界を重視するからであり、また個々の内面的差異の現れによって作品の価値を測るという新しい基準が通用するようになったからである。
 ロマン主義運動は、伝統的に認められてきた公式の慣習に背を向け、想像力が創作の主導権を奪取したときに、花開いた。音楽におけるこの運動は1820年の後半から30年代というごく短い期間に爆発し、ヨーロッパ中へと波及した。ロマン主義の素地はフランス大革命(1789年)で作られ、七月革命(1830)が起爆剤となった。19世紀前半の自由主義を求める急進的な政治運動と連動しているだけに、ロマン主義の芸術運動も、理論的基盤の整備を待たずに、創作的表出が先行した。
 創作における変化はまず文学で起こり、音楽、絵画など他ジャンルへと拡がっていった。文学青年のベルリオーズやシューマンがそれぞれフランスとドイツでロマン主義の旗振り役となったのは、偶然ではない。ベルリオーズの10歳年下で、シューマンの3歳年下のシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813~1888)を育んだのは、ロマン主義のゆりかごとしてのパリだった。


ロマン主義×宗教

 だが、彼の芸術的素地の形成にはもう少し複雑な背景がある。一つは、モランジュ家(註1)が信仰していたユダヤ教である。ヤーウェ(ヤハウェ)に捧げられた謹厳な信仰と自由主義の発露であるロマン主義は、アルカンの創作を加速させた二つの軸を成している。これらは一見相反するように見える。信仰は伝統や慣習を重んじるが、ロマン主義は旧い慣習の打破を目指すからである。しかし、宗教とロマン主義は、往々にして個々の教義とは衝突するものの、永遠なるものを目指すという点で精神的な親和性がある(註2)。アルカンの場合、時に芸術(音楽)が信仰の領域を侵しているように見えることさえある。ユダヤ教徒でありながらプロテスタントの讃美歌に主題を求めたり(足鍵盤付ピアノのための《ルターのコラール〈我らの神は堅き砦〉に基づく即興曲》)、《大ソナタ》ではカトリックの聖体の祝日に歌われる聖歌を引用したりしている。アルカン伝の著者ブリジット・フランソワ=サペ女史は、彼の創作にエキュメニズム(広義での宗教統一運動)の理想を見ている。いずれにせよ、アルカンはロマン主義×宗教という二つの内面的領域の交わる世界を生きた、典型的なロマン主義の音楽家である。

 註1 アルカンという姓は、父の名から(アルカン・モランジュ)から採られている。彼の姉弟はみなアルカン姓を名乗った。姉弟全員が音楽家となったので、シャルル=ヴァランタンは終生「アルカン長男Alkan aîné」と署名した。
 註2 若くして信仰篤いヴィオラ奏者・オルガン奏者のクレティアン・ユランやラムネー神父と交わり、長じてカトリックの下位聖職者となったリストの場合にも当てはまる。


パリ国立音楽院での学習時代

 宗教とロマン主義という内なる熱源を現実世界に表現するためには、現実世界で駆動する機械が必要だった。音楽におけるロマン主義の発露を方向づけた一つの関数が、ピアノである。19世紀前半、産業革命の礎の上に開花した経済的自由主義はパリに蒸気機関と鉄道をもたらし、ピアノには金属製のフレームをもたらした。エラール、プレイエル、パープといったピアノ製造者たちは気温や湿度変化から受ける影響を最小化する工夫を凝らし、また大きな会場での演奏に耐えるよう弦長と張力を増強するなど、楽器の改変に勤しんだ。
 ところで、アルカンの父はパリのマレ地区で私塾を営み、音楽や文法を教えていた。そこには後にパリ音楽院のピアノ教授のポストを争うこととなるマルモンテルなど、パリ音楽院の級友となる子どもたちが集まっていた。アルカンは当然、ここでピアノを始めたはずである。6歳でパリ音楽院のソルフェージュ科に登録し、翌年にはジョゼフ・ヅィメルマンの受け持つピアノ科に登録した(この年、人前でヴァイオリンも弾いている)。ピアノ科のレッスン室にはエラールがあり、周に数回、若い学生がピアノを囲んで代わる代わる演奏した。1824年の修了選抜試験で一等賞を得て、10代前半にして音楽界に華々しくデビューする。和声・伴奏科も修了したアルカンは作曲の勉強にも勤しんだ。ケルビーニの愛弟子で、かつて作曲教授資格試験に合格したことのあるヅィメルマン師には、ピアノのみならず作曲理論も師事し、オペラ作曲家としての登竜門ローマ賞作曲コンクールにも2度挑戦した、1832年にカンタータ《エルマンとケティ》が選外佳作に選ばれた。さらにオルガン科では1834年に一等賞を得ている。この華々しい受賞歴は、アルカンに音楽家としての多方面での社会的成功を約束した。
 しかし、アルカンはピアノに専心した。それは、単にピアノの演奏やレッスンで収益が見込めたというだけではなく、ピアノこそが自らを突き動かす表出的欲求を引き受けてくれる手段だったからだろう。その内発的な力は、1828年に出会ったリストとのライバル関係によっても増幅された。
 アルカンのピアノ作品の出版は、1826年に遡る(《シュタイベルトの主題による変奏曲》作品1)。産業化が進むせわしい都会で、アルカンはスピードに対する嗜好を培った。1828年、ロッシーニ風の《乗合馬車》作品2は、1844年には《鉄道》作品27へと「工業化」を遂げた。これは単なる外的事象の描写ではなく、ロマン主義的自己の表現である。技術革命がもたらした、人力をはるかに凌駕するテクノロジーは、超人になることを望んだファウストが己の魂と引き換えに手にした魔術の比喩であり、蒸気機関車のスピードと威容は、ピアニストのロマン主義的願望に充分に応える主題であった。


ロマン的なものと古典的なもの

 ピアノを通して、若きアルカンは熱烈な信仰心も吐露している。《アレルヤ》作品25、《前奏曲集》作品31および《歌曲集》作品38/38bisの幾つかの曲には、ヘブライ聖書の詩編やソロモンの雅歌からの引用、あるいは「祈り」といった言葉が題名に用いられている。彼のユダヤ教信仰は、古代ギリシア・ローマの古典文学やバッハ、ヘンデル、グルックといった音楽における古典への愛着とも通じている。古くから変わらぬ善きもの、真なるもの、美なるものの探究を通して、アルカンの眼差しは絶えず過去へも向けられていた。1847年、アルカンは《音楽院の想い出》と題して、古典音楽の牙城として知られたパリ音楽院演奏協会のレパートリーから抜粋した6曲のトランスクリプションを刊行した。マルチェッロ、グルック、ハイドン、グレトリ、モーツァルトの作品を収めるこのトランスクリプション集の制作に当たり、アルカンは近代的な原典尊重主義的態度で編曲に臨んだ。出版はされなかったものの、この年にはベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第5番》の緩徐楽章やグルックのオペラ《アルセスト》より〈大司祭たちの行進〉のピアノ独奏用編曲も手がけている。
 これと対照を成すように、アルカンは33歳までのロマン主義的創作の総決算として《大ソナタ》作品33を発表した。20歳から50歳まで、人間の人生を10年毎に4つに区切り、これを次第に遅くなる第1楽章から第4楽章に割り当てた。第2楽章と第4楽章はそれぞれゲーテの『ファウスト』を、第4楽章はアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を題材にしている。前者はロマン主義の神話であり、後者は古代ギリシャの神話である。


練習曲

 1848年、アルカンの旧師ヅィメルマンは、教育における影響力の低下と同僚からの敵意に屈し、院長オベールに辞表を提出した。後任人事が始まると、アルカンを含むヅィメルマン門下の4名が院長の指名を受けた。アルカン、ラコンブ、プリューダン、マルモンテルのうち、マルモンテルは作曲の業績が殆ど無かった。だが教育実績とおそらく人柄から、院長オベールやヴィクトル・ユゴーの後ろ盾を得ていた。一方のアルカンは比類無い実績にも拘わらず、むしろその強烈な前衛的作風からか、院長からは疎まれていた。彼を育てたヅィメルマン師には指名権も任命権もなかった。アルカンはジョルジュ・サンドを介して任命権を持つ大臣に接触し直訴を試みたが、おそらくマルモンテルに対する攻撃的な文面が裏目に出たのだろう、教授のポストにはマルモンテルが任命された。この一見は子ども時代から続く二人の仲を決定的に引き裂いたのみならず、翌年、親友ショパンの死の報も受けて、彼は表向きの音楽活動をほぼ中止した。1851年からは出版も中断し、以後6年間は作品45以外、出版しなかった。
 1857年の沈黙を破ったのは作品37から47(43, 44は欠番)に至る作品群である。中でも1846年から書き溜められた《全ての短調による12の練習曲》作品39はアルカンの創作史上超弩級の作品で、1848年に刊行された《全ての長調による12の練習曲》作品35の姉妹作を成している。何れもアルカン作品に好意的な評を寄せてきた博識の批評家・理論家のフランソワ=ジョゼフ・フェティスに献呈された。その規模は12曲からなる練習曲としては前例がなく、ロマン主義的な題材(風、悪魔)、古典的な形式(交響曲、協奏曲、序曲、変奏曲)を含んでいる。「ピアノのベルリオーズ」(ハンス・フォン・ビューロー)という形容に違わず、アルカンはこの練習曲で究極の技巧と管弦楽的な効果を徹底して追究した。
 「ある善き人物の死に寄せる葬送行進曲」と銘打たれた〈交響曲〉の第二楽章(葬送行進曲)は、ベートーヴェンの《交響曲第3番「英雄」》の「ある偉人の思い出を記念して」という標示を喚起する。協奏曲はトゥッティ部分にも想定される楽器の指示が入念に書き込まれ、ピアノのカデンツァもすべて記譜されている(第一楽章だけで約30分を要する)。ポロネーズをフィナーレに配したこの協奏曲は、亡き友ショパンの回想とも見られる。終曲〈アイソーポス[イソップ]の饗宴〉は8小節の主題に25の変奏が続く。この主題は、アルカンが1842年に編曲したモーツァルトの《交響曲第40番》(K 550)のメヌエットに由来するとされるが(R.Smith)、近年では食事の前に歌われるユダヤ教の感謝の歌との関連も指摘されている(A.Kessous Dreyfuss)。「饗宴(festin)」は豪勢な食事のことでもあるから、これはありそうな説である。

* * *

 アルカンの作品を聴いていると、ショパンやシューマン、リストとは異なる、底知れない深淵を感じ取るかもしれない。アルカンの独創性はそれほどに際立っており、その意味ではロマン主義的本質を感知しやすい作曲家でもある。とはいえ、アルカンの作品はピアニストのレパートリーにおいても音楽史においても、いまだショパンやリストに匹敵する地位は得ていない。苛烈な技巧もその要因かもしれないが、自筆史料など基礎的な研究資料が明るみに出ていないこと、また、作品目録など研究に不可欠な基礎資料の整備が充分に進んでいないことも一因である。また大部分の楽譜は、初版譜のリプリント(ビヨード社、編者ドラボルドとフィリップによる部分的な変更を伴う)が出回っており、普及用の楽譜や批判校訂版は数えるほどしかない。しかし2021年現在までに、録音や演奏の機会も確実に増えており、研究書の刊行もイギリスとフランスを中心に積み重ねられてはいる(2020年にヘンレ社から〈アイソーポス[イソップ]の饗宴〉が刊行されたことは、普及への一歩と云えるだろう)。
 こうした状況は、アルカンに限らずフォーレ以前のフランス・ロマン主義作曲家全般に当てはまる。例えば、サン=サーンスは2021年に没後100周年を迎える。アルカンは年下の彼に敬意を払い、晩年に彼を演奏会に招いて共演もしている。《動物の謝肉祭》(「白鳥」以外の出版を禁じた)を筆頭に《交響曲第3番「オルガン付き」》、幾つかのピアノ協奏曲などが演奏されているものの、彼の広い創作領域に鑑みると、それに相応しい評価を得ているとは言えない。だが、周年企画などにより少しずつ研究が積み重なっていくだろう。アルカンがサン=サーンスとともに、フランス・ロマン主義音楽を語る上で不可欠の人物になっていくことは間違いない。



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(終了)2020年9月12日(土)/13日(日)15時開演(14時45分開場)
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_22125131.jpg□F.F.ショパン(1810-1849)
●3つの新しい練習曲 B.130 (1839)  7分
 I. Andantino - II. Allegretto - III. Allegretto
●12の練習曲Op.10 (1829/32)  30分
  I. - II. - III.「別れの曲」 - IV. - V.「黒鍵」 - VI. - VII. - VIII. - IX. - X. - XI. - XII.「革命」
●12の練習曲Op.25 (1832/36)  30分
  I.「エオリアンハープ」 - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.「蝶々」 - X. - XI.「木枯らし」 - XII.「大洋」
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●ピアノソナタ第2番Op.35《葬送》(1837/39)  24分
 I. Grave /agitato - II. Scherzo - III. Marche, Lento - IV. Finale, Presto
●ピアノソナタ第3番Op.58 (1844)  25分
 I. Allegro maestoso - II. Scherzo, Molto vivace - III. Largo - IV. Finale, Presto non tanto

    [使用エディション:ポーランドナショナル版]



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(終了)2020年9月19日(土)/20日(日)15時開演(14時45分開場)
□F.リスト(1811-1886): 24のエチュード集
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_22123211.jpg●3つの演奏会用練習曲 S.144 (1845/48)  20分
 I. 悲しみ - II. 軽やかさ - III. ため息
●2つの演奏会用練習曲 S.145 (1862/63)  7分
 I. 森の騒めき - II. ノーム(小人)の踊り
●アブ・イーラートー(怒りに駆られて) S.143 (1840/52)  3分
●パガニーニによる大練習曲 S.141 (1838/51)  25分
  I. - II. - III. 「ラ・カンパネラ」 - IV. - V. 「狩り」 - VI. 「主題と変奏」
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●12の超絶技巧練習曲(決定稿) S.139 (1851)  60分
I. 「前奏曲」 - II. - III. 「風景」 - IV. 「マゼッパ」 - V. 「鬼火」 - VI. 「幻影」 - VII. 「英雄」 - VIII. 「荒ぶる狩り」 - IX. 「回想」 - X. - XI. 「夕暮の諧調」 - XII. 「雪嵐」

    [使用エディション:新リスト全集版]

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_22315897.jpg3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_22321364.jpg


【cf.】
■シマノフスキ:ソナタ第2番ソナタ第3番+マズルカ全曲[2019/09/16 & 2020/01/18]

えてうどは かなしきかな────山村雅治

1

えてうどは かなしきかな
いとをはじく ゆびのちからの
ひといろにあらず なないろの
ひかりのいろを つむぎだす
わざは どこまで きわめれば

わざのわかれは てふてふの
はばたきのごと うたになる
ひととの わかれは せつなくも
こがらしのふく くろい いと
ひとのよをかえる ちからとは

うみにひろがる みなものしずけさ
くろも しろも 
くろだけさえも うたいだす
にじがかかれば やまいはとおのき
しょぱんも りすとも あるかんも


3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_04041585.gif ピアノの演奏を習得するには技巧の練習が必要だ。ピアノだけでなく楽器はすべて固有の音の出しかたがあり、直接楽器に触れる体の部位が楽器と一体になることが求められる。演奏者の音楽が楽器を通して十全に鳴り響かなければならない。ピアノの場合は指で鍵を打つ。単音だけでは音楽にならないから10本の指を使って和音を鳴らしたり、歌うように奏でたり、指を速く回したりする。ピアノ演奏の技術は多様にして多彩をきわめる。
 練習曲は演奏技巧を習得するための楽曲だ。一般には「技巧修得のための練習曲」は教育用の練習曲とされる。ハノンなどはそうだろう。またそれらとはちがい「演奏会用練習曲」があるとされる。ショパンやリストの練習曲は演奏会場で弾かれて聴衆の息を呑ませ感動させる。
 バッハはどうか。バルトークはどうか。純然たる技巧の練習曲とおぼしき楽曲が人を感動させる場合があり「教育用」と「演奏会用」の決然たる区別はできないだろう。リストが師事したカール・ツェルニーは偉大な音楽家だった。日本で初めて西洋音楽の列伝を書いた大田黒元雄は『バッハよりシェーンベルヒ』(音楽と文学社 1915/大正4年)でツェルニーに2頁を割いている。ベートーヴェン、ヴェーバー、ツェルニーと続く。次はシューベルト。


3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_01083017.jpg<チェルニー Czerny

 世には多くの洋琴練習曲がある。けれどもチェルニー程此の方面に優れた作品を書いた人は居ない。同時に彼ぐらひ其の後進の洋琴家を悩ました人も居ない。
 此のカール、チェルニー(Karl Czerny)は千七百九十一年ウィンナに生れた。彼は先づ其の父から洋琴を習ひ、次いで千八百年から三年間ベートーヴェンに師事する幸福を得た。かうして練習につとめた彼はやがて、ウィンナで一流の洋琴教授として知られる様に成つた。
 彼は多くの練習曲の外に、多くの歌劇や聖楽を洋琴用にアレンジした。彼の作品の数は千にも及ぶが、其の中最も有名なものに、Die Schule der Gelaeufigkeit. Die Schule das Legato und Staccato 等がある。
 彼の練習曲は彼以後の殆どすべての名洋琴家に用ゐられ、リストやタルべャグ等の大家も皆喜んで此れを試みた。嘗てレシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答へたといふ話がある。
 チェルニーは其の一生をウィンナに過し、千八百五十七年其地に逝った。
 彼の偉業は華々しいものではなかつたが、最も有意義な充実したものであつたと云ふ事が出来るであらう。> (引用者注釈。洋琴はピアノ。タルべャグはジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812-1871)。ツェルニーを一流の作曲家と認めた日本人がいて、この文を書いた)。

 ツェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。ベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っていた。その願望は練習曲集や理論書の著者であるツェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになった。大田黒元雄の記述によればリストはもっとも忠実なツェルニーのピアノ奏法の継承者だった。


2

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_01093819.jpg リストは、ショパンが亡くなってから誰よりも早く彼の伝記を書いた。2年後の1851年のことだ。
<ショパン! 霊妙にして調和に満ちた天才! 優れた人々を追憶するだけで我々の心は深く感動する。彼を知っていたことは、何という幸福であろう!>という熱烈な讃辞にはじまる。リストとショパンは陽と陰、水と油ほどの芸術の個性をもっていた。惹かれあい、反発しあいの若い時代を共有した。リストのショパンへの讃辞は続く。

<ショパンはピアノ音楽の世界に閉じこもって一歩も出なかった。
一見不毛のピアノ音楽の原野に、かくも豊穣な花を咲かせたショパンは、何と熱烈な創造的天才であろう!>。

<彼の音楽が持つこの陰鬱な側面は、彼の優美に彩られた詩的半面ほどよく理解されず、人の注意も惹かなかった。彼は彼を苦しめる隠れた心の顫動を人に窺い知られることを、許そうとはしなかったのである>。

<ショパンは次のように語った。「私は演奏会には向いていない。大衆が恐ろしいのです。好奇心以外に何物もあらわしていない彼らの顔を見ると神経が麻痺してきます」。彼は公衆の賞讃を自ら拒否することによって、心の傷手に触れられないですむと考えていた。彼を理解する人はほとんどいなかったのである。ショパンは、楽壇の第一線に立っていながら、当時の音楽家の中で、一番演奏会を開かなかった人であった>。

 おそらくは同時代の音楽家のなかでリストひとりがショパンの音楽を理解していた。とくにマズルカやポロネーズについて。

<マズルカを踊っている時とか、また騎士が踊り終わっても婦人のそばを離れずにいる休憩時間とかに人々の心に生ずる、数々の変化にみちた情緒の織物に、ショパンは陰影や光にとんだ和音を織り込んだのである。マズルカのすべての節奏は、ポーランドの貴婦人の耳には失った恋情の木霊のように、また愛の告白の優しい囁きのように響くのである。群に交じって差し向かいに長い間踊っている間に、どんな思いがけぬ愛の絆が二人の間に結ばれたことだろうか>。


 リストはここではショパンの和声や音楽の心について書いた。ピアノ奏法の技法については一言も触れてはいない。批評は印象批評だけではもの足りない。和声についても「陰影や光にとんだ」だけではものたりない。構造にまで踏みこんだ作曲技法やショパン生前のピアノ奏法の技術批評をしてほしかった。リストはやがて社交界をむなしく思い、孤独な音楽家として生きることになる。技術が社交界を喜ばせていたのだとしたら、技術はむなしいと感じていたのだろうか。リストはやがて無調の音楽を生みだすのだが。



3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_01105506.jpg ショパンはしかし、リストに出会ったとき、リストと同じようにピアノ奏法をより熟達させる技術のことも、音楽を深めていくことと同じく深く考えていた。天才の二人は強烈な親近感を覚えただろうし、個性がちがうのだから「ここは反発」ということもあっただろう。あたりまえのことであって、ひとりが大好きな音楽が、もうひとりが大嫌いということもある。彼らはまず社会に生きる人間としての性格がちがっていた。リストは、稀代のヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパじゅうをかけまわり、名声をほしいままにした。ショパンはあれほどの才能をもちながら、大衆を避け、小さなコミュニティの中だけで繊細な音楽を追求し続けた。

 ショパンにピアノ演奏を習った弟子のひとりはエチュード作品10-1についてこう言っている。「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンは私に勧めてくれました。『このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、音階や和音を弾くときもヴァイオリンの弓で弾くような効果が得られるでしょう。ただ残念なことに、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです』と彼は言うのです。このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合は、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすれば良かったのです」。(『弟子から見たショパン』ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米谷治郎/中島弘二訳 音楽之友社刊)。

 エチュードのみならず全作品にピアノ奏法の習熟への課題があった。ショパンは機会を通じて「技法の練習の種類」「楽器に要求される性能」「練習の仕方と時間」「姿勢と手の位置」「手首と手の柔軟性、指の自在な動き」「タッチの習熟、耳の訓練、アタックの多様性、レガート奏法の重要性」「指の個性と独立性」、そして「運指法の原理としての、音の均等性と手の静止」などについての技術をつねに考えていた。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_01122285.jpg ショパンは生まれてからの20年をすごしたワルシャワから、もっと大きな音楽の世界を知ろうとした。ウィーンへ行ってみたがそこは彼が生きる場所ではなかった。パリこそが彼の音楽が大きく花開く都会だった。1830年11月2日にワルシャワを旅立ち、11月23日にウィーンに到着。11月29日にはワルシャワでロシアへの「11月蜂起」が起こる。前年の好評はポーランド人のショパンに掌をかえした。しかしウィーンでショパンは「ワルツ」を書きはじめた。1831年7月20日にショパンはパリへ向かった。途上のシュトゥットガルトで「ワルシャワ蜂起敗北」を知る。この慟哭がエチュード作品10-12「革命」を生みだす力にもなった。

 1830年はヨーロッパ文化の歴史において「ロマン主義」が大きく羽ばたいた年だった。とくにパリにおいて。ユゴーの演劇「エルナーニ」上演は守旧の古典派とあたらしい時代をこじあけようとするロマン派の戦いの一夜だった。2月25日のことだ。ユゴーは芸術の自由を主張した。そしてフランスに7月革命が起こる。7月27日から29日にかけてフランスで起こった市民革命である。これにより1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。栄光の三日間が芸術家たちに惹きおこした力は測り知れない。演劇、文学、音楽、美術などすべての分野に力は及び、古典の旧秩序をのりこえて「芸術の自由」はそれまで信じられていた「世界の秩序」からではなく「個人の心の自由」から創造された。



3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_01144057.jpg リストの「ショパン伝」には、次のような美しい思いでも記されている。

<私たち3人だけだった。ショパンは長いあいだピアノを弾いた。そしてパリでもっとも卓越した女性のひとりだったサンドも、ますます敬虔な瞑想が忍び込んでくるのを感じていた・・・・・・。
 彼女は知らずしらずのうちに心を集中させる敬虔な感情が、どこからくるのかを彼にたずねた・・・・・・。そして、未知の灰を手の込んだ細工の雪花石膏アラバスタのすばらしい壷の中に閉じ込めるように、彼がその作品のなかに閉じ込めている常ならぬ感情を、なんと名づけたらよいのかをたずねた・・・・・・。

 麗しい瞼を濡らしているその美しい涙に負けたのか、ふだんは内心の遺骨はすべて作品という輝かしい遺骨箱に納めるだけにして、それについては語ることをせぬショパンだったが、この時ばかりは珍しく真剣な面持ちで、自分の心の憂愁の色濃い悲しみが、彼女にそのまま伝わったのだと答えた。

 と言うのは、たとえかりそめに明るさを装うことはあっても、彼は精神の土壌を形作っていると言ってよいある感情からけっして抜け出ることはなく、そしてその感情は、彼自身の母国語によってしか表現できず、他のどんな言葉も、耳がその音に渇いているとでもいうように彼がしばしば繰り返す 『ザル』というポーランド語と同じものを表すことはできない、この『ザル』という語はあらゆる感情の尺度を含んでいるのであり、あの厳しい根から実った、あるいは祝福されさるいは毒された果実ともいうべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである――と言った、 実際、『ザル』は、あるいは銀色に、あるいは熱っぽく、ショパンの作品の束全体を、つねに一つの反射光で彩っているのだ。>

『ザル』(ZAL/ジャル)は、運命を受けいれた諦めを含んだ悔恨、望郷の心をあらわすポーランド語。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_01161253.jpg 「永遠に家を忘れるためにこの国を離れ、死ぬために出発するような気がする」―。
外国へ旅立とうとするショパンの不安は、侵略を受けつづける祖国ポーランドの苦悩とともにあった。花束のような華麗な音楽のかげに、祖国独立への情熱と亡命者の悲しみを忍ばせ、やり場のない怒りを大砲のように炸裂させた。死ぬために出発するような気がすると書いた手紙は、彼が祖国ポーランドを離れる直前の悩みを、親友にあてて書き綴ったものだ。

 僕は表面的にはあかるくしている。とくに僕の「仲間内」ではね(仲間というのは、ポーランド人のことだ)。でも、内面では、いつもなにかに苦しめられている。予感、不安、夢――あるいは不眠――、憂鬱、無関心――生への欲望、そしてつぎの瞬間には死への欲望。心地よい平和のような、麻痺してぼんやりするような、でもときどき、はっきりした思い出がよみがえって、不安になる。すっぱいような、苦いような、塩辛いような、気持ちが恐ろしくごちゃまぜになって、ひどく混乱する。 (1831年12月25日)

 ショパンは「エチュード ホ長調 作品10-3」を弾く弟子、グートマンに「私の一生で、これほど美しい歌を作ったことはありません」と語った。そしてある日、グートマンがこのエチュードを弾いていると、先生は両手を組んで上げ、「ああ、わが祖国よ!」と叫んだのである。






えてうどにみちびかれて――――山村雅治

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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_21530903.jpg  リストは幼いころから音楽に才能を現し、10歳になる前に公開演奏会を行っていた。わずか11歳、1822年にウィーンに移りウィーン音楽院でツェルニーとサリエリに師事する。ベートーヴェンが教えたツェルニーとベートーヴェンが教えを受けたサリエリ。これ以上に幸運なことはなかった。1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこでベートーヴェンに会うことができた。そのときのベートーヴェンの耳の状態がどうだったのか。伝えられる話によれば少年リストは老ベートーヴェンから称賛をいただいたという。

  ベートーヴェンが没した1827年には父アーダムを亡くし、リストは15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。彼は貴族の生まれではなかった。ピアノを教えること、ピアノを弾いてみせることで人生を切りひらいていった。彼は作曲ができた。自作を自演して生活の糧を得た。ベルリオーズの「幻想交響曲」が初演された1830年はベートーヴェン没後わずか3年、ロマン派の芸術が音楽においても幕を開けた年。18歳のリストは感激の絶頂に達して27歳のベルリオーズにまじわり絶賛した。1831年、ポーランドから21歳のショパンがパリに来た。デビュー・コンサートは1832年に開かれ、以来リストはショパンと親交を深めていく。ロマン派の始まりにして絶頂だった時代の若者たちの音楽への情熱と個性がはげしく火花を散らしそれぞれの果実をむすんだ。同じ年、1831年にパガニーニのヴァイオリン演奏を聴いて感銘を受け、彼はピアノの超絶技巧をめざした。同時代を生きた作曲家にはシューマンもメンデルスゾーンもいた。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_21532125.jpg  リストはショパン没(1849)後、まもなくショパン伝(1852)を書いたが、そのなかでこの時期を回想している。「1832年、すなわちショパンがパリに到着してまもなくのころ、文学と同じように音楽においても新しい流派がつくられていた。ロマン主義が当時の流行であり、その是非がさかんに論じられた」。ひとつは「永遠の形式――その完成が絶対美をあらわす」という古典的な考えかたであり、もうひとつは「美が固定された形式をもつことを否定し、自分の感情にあわせるために形式を選ぶ自由があることを願い」、「感情があらかじめ決定された形式では表現できない」ことを主張した。リストは後者の代表にベルリオーズとショパンを挙げている。
 
  リストはすでにパリのサロンの寵児だった。ベルリオーズやショパンの音楽に刺激された。1820年代までの彼の作品は伝統的な書法によるものだったが、1830年以降は劇的に変貌する。「超絶技巧練習曲」の初稿は「すべての長短調のための48の練習曲」。1826年、15歳のリストの作品である。じっさいには全12曲でフランスで作品6、ドイツで作品1として出版された。サリエリに作曲を習い、ツェルニーにピアノを習った少年の会心の作品だっただろう。その後、1839年に拡大とともに改訂されて「24の大練習曲」(じっさいは全12曲)になった。さらにショパン伝を書きつつあった1851年に改訂されて「超絶技巧練習曲」になった。前作と同じくツェルニーに捧げられた。イ短調とヘ短調の二曲をのぞいては曲名がつけられた。


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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_21533382.jpg  シューマンが「超絶技巧練習曲」の前身、「すべての長短調のための48の練習曲」と「24の大練習曲」について書いた文章がある。『音楽と音楽家』吉田秀和訳(岩波文庫)から抜粋しよう。1839年に29歳のシューマンが28歳のリストについて書いた一文だ。

  「すべての長短調のための48の練習曲」と「24の大練習曲」を「今これらを比較してみると、第一にピアノの演奏法の今昔の相違がわかる。つまり、今日の演奏法は手段が豊富になり、華麗および充実という点で、昔の演奏法を全般的に凌駕しているけれども、昔の、青春の最初の噴出に内在していた素朴さが、今度の形の中ではすっかり抑圧されてしまったように思われる。つぎに新版をみると、この作家の見違えるほど進歩した思考と感情の現状の目安がわかる上に、内心の隠れた精神生活もうかがわれる。もっともその結果、僕らは、どうしても平和に到達できそうもない大人よりも、むしろ子供を羨む方が本当ではないだろうかと迷ってしまうけれども」。

  「とにもかくにも、相手は今も昔も相変わらず多彩な動きを見せている非凡な精神であることは、どこからみてもうかがわれる。リストの音楽のなかには、ほかならぬ彼自身の生活が生きている。はやくから祖国を離れて、騒々しい大都会に投げこまれ、幼少にしてすでに一世の驚異となった彼は、前にはよく、今祖国ドイツに寄せる切々たる憧憬のこめられた曲を書いたかと思うと、たちまち軽いフランス的精神を表した放恣を極めた曲を作ったりしていた。あるいは、彼にふさわしい師匠が見当たらなかったからかも知れないが、いずれにせよ、彼はおちついてじっくりと作曲を勉強する気にはならなかったらしい。元来、活発な音楽的素質を持ったものは、無味乾燥な紙の上の研究よりも、手っとりばやい音の方にひかれるものであるが、彼もまた作曲の勉強に落ちついていられなかっただけに、一層演奏の名人としての錬磨を怠らなかった。その結果、彼は演奏家として驚異的な高所に達したのに反して、作曲家としては取残されてしまった」。

  「思うに、ショパンの出現にあって初めて、彼は再び思慮をとり戻したらしい。しかしショパンには形式がある。彼の音楽の驚異的な構成の下には、旋律が薔薇色の糸のように貫いている。今となってはさすが非凡な名人といえども、作曲家としての遅れをとり戻すには遅すぎるかに見えた」。

  「彼の今後の活躍はただ推測にまつよりほかはないが、もし彼が祖国の好意をかち得ようと思ったならば、前にいった、古い練習曲にみられるような快い明朗さ、単純さに立戻らなければならない。彼は簡単にする代りに複雑化する道をとったけれど、本当は逆の道を進まなければならなかったのではあるまいか」。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_21534749.jpg  そしてシューマンは若いリストの二つの練習曲集について、それぞれの「第1番」「第5番」「第9番」などの譜例を出し印象批評にとどまらない技術批評を展開する。書いた言葉の裏付けを譜面を掲げて論じている。「第6番」から「第8番」にかけての3曲については、「この三曲は、全く嵐の練習曲、恐怖の練習曲で、これを弾きこなす者は、世界中探しても十人か十二人くらいしかあるまい。へたな演奏家がひいたら、物笑いの種になるだろう。この三曲は、リストが最近ピアノ用に移そうとしているパガニーニのヴァイオリンのための練習曲の中にある曲に一番似ている」。

  シューマンはもう一度リストの演奏を聴くのを楽しみにしている。「しかし何はともあれ、来るべき冬の彼の到着は、心から待遠しい。彼は最近のヴィーン滞在の時にはこの練習曲で驚くべき効果を上げた。大なる効果は大なる原因を前提とする。公衆は決していたずらに熱狂するはずはない。だから諸君は、両方の練習曲に一通り眼を通しておいて、この芸術家を迎える準備をしたまえ。最上の批評は、リスト自身がピアノを通して与えるだろう」が文を結ぶ言葉だった。


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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_21535868.jpg  1856年に狂気のうちに没したシューマンは、1851年に出されたリストの練習曲の最終稿「超絶技巧練習曲」を聴いていただろうか。新版の楽譜に目を通していただろうか。1848年に38歳のリストはヴァイマルの宮廷楽長に赴任して、それまでの自分を棄てる。一皮むけたリストの深化は神に近づこうとする音楽を生みだした。シューマンが望んだように、技巧そのものを追求することをやめた。現代の音盤に聴くならば、老いて最盛期の技巧を失ったヴィルヘルム・ケンプのリスト・アルバムに聴く音楽は美しい。ケンプの師カール・ハインリヒ・バルトはリストの高弟であったハンス・フォン・ビューローとカール・タウジヒに師事した。ケンプと同時代に生きたヴィルヘルム・バックハウスもリストに師事したオイゲン・ダルベールだったから、リストのピアノ演奏の教育者としての功績は測り知れない。

  シューマンは若いリストの練習曲「6」-「8」について「この三曲は、リストが最近ピアノ用に移そうとしているパガニーニのヴァイオリンのための練習曲の中にある曲に一番似ている」と書いた。そんなことはやめとけよ、という心が透けて見える。シューマンは猛練習で指を傷めてピアニストとして生きることを断念せざるを得なくなった。彼はピアニストの道をあきらめ、作曲の勉強を深めていった。そしてリストは当時はモーツァルト以来の「作曲家自作自演のピアニスト」として舞台に生き、その高名に惹かれてあつまる貴族子女にピアノを教えて生きていくことが誉れにみちてできた青年音楽家だった。シューマンの当時のリストへの批評は、二人の音楽家としての「そうとしか生きてこられなかった」生き方を反映して、鋭い。そしてリストは後年、その批評を超えて当時交流した作曲家の誰よりも長く生きて、束縛されるなにものからも自由な音楽を書いた。無調の音楽さえ書いたのだ。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/03/03 Update]_c0050810_21540883.jpg  若いリストが夢中になった作曲家は、まずベルリオーズだった。彼からは標題音楽をまなんだ。抽象的な構築体としての交響曲から脱した作品、人間の生活や感情を表現する交響曲はベートーヴェンの「第6交響曲・田園」に切りひらかれていた。ベートーヴェン没後3年の年にベルリオーズは青年の恋と破滅を描いた「幻想交響曲」を世に出した。リストがピアノを離れて管弦楽で「交響詩」を猛然と書きはじめたのは、ヴァイマルの宮廷楽長に赴任してからの時代だった。そして、ショパン。リストは性格がちがっていたショパンの音楽を理解し愛していた。「ショパンに私たちが負っているもの、それは和音の拡大であり、半音階や異名同音による紆余曲折だ」とリストはショパン伝で書いた。彼のショパンへの理解と愛はシューマンのショパンへの理解と愛ともちがう。これはあたりまえのことで、彼ら天才はそれぞれの宇宙を創造する人間だから、感じる角度がちがうし称賛をあらわす言葉もちがう。彼らが生きた時代は天才たちが熱く沸騰する坩堝のなかにいた。シューマンはショパンの「ピアノ・ソナタ第2番」の終楽章について「音楽ではない」と断じた。「不協和音をもって始まり、不協和音を通って、不協和音に終わる」音楽は1830年代のリストの音楽にも明らかだ。「詩的で宗教的な調べ」の初稿には調記号も拍子記号もなかった。当時の誰よりも先を進んだリストがそこにいた。楽式を破壊する力に関しては、リストはショパンを凌いでいた。

  パガニーニはリストの眼の前には1832年4月20日のリサイタルで現れた。そのときの感激を友人への書簡に書いている。「なんという人物! なんというヴァイオリン! なんという芸術家! 神よ! この四本の弦に、いったいどれほどの苦悩、苦痛、堪え難き苦しみが込められていることでしょうか!」。パガニーニが示したヴァイオリン演奏の技巧には度肝をぬかれた。そして、彼の技巧は芸術家パガニーニの内面に根差した自己主張をあらわしていた。技巧は技巧だけで独立するものにとどめてはならない。少年時代にツェルニーから教わったことが、パガニーニを聴いて爆発するかのように蘇ってきたのだろう。ほどなくリストは「パガニーニの鐘の主題に基づく華麗なる大幻想曲」を書いた。「パガニーニ練習曲」の「鐘」(ラ・カンパネラ)のピアノ版の原型だ。技術そのものの錬磨に励んだリストは、のちに「技術は機械的な練習からではなく、精神から生まれるべきである」と書いた。

  「パガニーニ練習曲」の作曲は1838年から1840年にかけてで、初版は1840年。シューマンのクララとの結婚を祝ってクララに捧げられた。改訂版は1851年に出された、現在知られている「パガニーニ大練習曲」。初版は13度の和音や、非常に早いパッセージで連続する10度の和音等、手の大きさそのものを要求する部分も多いが、改訂版ではそれらの大部分は削除された。
 







薄暮(くれがた)の曲―――シャルル・ボドレエル

時こそ今は水枝(みづえ)さす、こぬれに花の顫(ふる)ふころ。
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ。

花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ、
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ。

痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)。
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ、
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)。

闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)、
光の過去のあとかたを尋(と)めて集むる憐れさよ。
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)、
君が名残のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒(せいたいごう)。

(上田敏訳)




Harmonie du soir / Charles BAUDELAIRE (1821 - 1867)

Voici venir les temps où vibrant sur sa tige
Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !

Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir.

Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige,
Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir ;
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige.

Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir,
Du passé lumineux recueille tout vestige !
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige...
Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir !















# by ooi_piano | 2021-03-01 19:29 | Pleyel2020 | Comments(1)

【第5回】2021年2月27日(土)18時開演(17時半開場)
大井浩明(フォルテピアノ独奏)

2/27(土)1843年製プレイエルによるアルカン《12の短調エチュード(全曲)》+C.レンナース新作 (2/18 Update)_c0050810_17054967.jpg
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) 渋谷駅徒歩10分、神泉駅徒歩2分
全自由席 5000円
お問い合わせ pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)〔要予約〕

使用楽器:プレイエル社1843年製80鍵フォルテピアノ(430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]






2/27(土)1843年製プレイエルによるアルカン《12の短調エチュード(全曲)》+C.レンナース新作 (2/18 Update)_c0050810_09460778.jpg
●C.V.アルカン(1813-1888): 《短調による12の練習曲 Op.39》(1857)
Charles-Valentin Alkan : Douze études dans toutes les tons mineurs Op.39

〈第一部〉 15分
I.風のように Comme le vent. Prestissimamente
II.モロッソス格で En rhythme molossique. Risoluto
III.悪魔的スケルツォ Scherzo diabolico. Prestissimo

〈第二部〉 27分
IV.~VII.ピアノ独奏による交響曲(全4楽章) Symphonie pour piano seul
  第1楽章 Allegro Moderato - 第2楽章 ある善き人物の死に寄せる葬送行進曲 (Andantino) - 第3楽章 メヌエット - 第4楽章 Presto

〈第三部〉 55分
VIII.~X.ピアノ独奏による協奏曲(全3楽章) Concerto pour piano seul
  第1楽章 Allegro Assai - 第2楽章Adagio - 第3楽章 Allegretto alla barbaresca

〈第四部〉 30分
◇クロード・レンナース(Claude Lenners)(1956- ):フォルテピアノ独奏のための《パエトーン Phaeton》(2020、委嘱新作初演)
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XI.序曲 Ouverture. Maestoso-Lentement-Allegro
XII.アイソーポスの饗宴(主題と25の変奏) Le Festin d’Ésope. Allegretto senza licenza quantunque




クロード・レンナース:フォルテピアノ独奏のための《パエトーン》(2020)
  アポロンの息子パエトーンは、父と彼の関係を証明するため、周囲の制止を振り切って太陽の馬車を駆り出した。ゼウスでさえ制御するのが難しい馬車は暴走し、まず馬が高く走り過ぎて地上は凍り、それから近付き過ぎて大火災となった。やむなくゼウスは雷でこれを撃ち落とし、パエトーンは絶命した。パエトーンは、分を弁えぬ人類の傲慢さの比喩であり、現代でも軍拡や環境破壊、原子力問題にその具体例を見出すことが出来る。(クロード・レンナース)

2/27(土)1843年製プレイエルによるアルカン《12の短調エチュード(全曲)》+C.レンナース新作 (2/18 Update)_c0050810_09472418.jpg
クロード・レンナース Claude Lenners, composer
  ルクセンブルク大学人文科学学部で音楽学を、ルクセンブルク音楽院で作曲を学ぶ。ローマ・メディチ荘滞在(1989-91)、デュティユ作曲賞第1位(1991)、ダルムシュタット講習会奨学生賞(1992)、第14回入野賞(1993)等。作品は、ルクセンブルクフィル、トゥール歌劇場管、ザールブリュッケン放送響、アンテルコンタンポラン、ルシェルシュ、アクロシュノート、ASKO、アルテルエゴ(ローマ)等の団体や、多くのソリストによって演奏され、ルモワーヌ社、アルフォンス・ルデュック社他から出版されている。1992年以来、ルクセンブルク音楽院で作曲、楽曲分析、コンピュータ音楽の教授を務める。





Ch.-V.アルカン:人物と練習曲について――上田泰史(音楽学)

「アルカンは、ショパン、 ヘラー、リスト、タールベルクの華麗な流派のいずれにも関係してはいるものの、直接これらの模範を映し出してはいない。アルカンは彼自身で完結しており、その美点と 欠点によってのみ、ほかの誰でもない、彼なのだ。彼は固有の言語で考え、語りかける。」

  この人物評は、パリ音楽院ピアノ科教授アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルが、後年に同窓生のアルカンを振り返って書いたものである。独創性は、ロマン主義に与する音楽家にとって不可欠の条件だった。それは、ロマン的精神が外的世界よりも内的世界を重視するからであり、また個々の内面的差異の現れによって作品の価値を測るという新しい基準が通用するようになったからである。
  ロマン主義運動は、伝統的に認められてきた公式の慣習に背を向け、想像力が創作の主導権を奪取したときに、花開いた。音楽におけるこの運動は1820年の後半から30年代というごく短い期間に爆発し、ヨーロッパ中へと波及した。ロマン主義の素地はフランス大革命(1789年)で作られ、七月革命(1830)が起爆剤となった。19世紀前半の自由主義を求める急進的な政治運動と連動しているだけに、ロマン主義の芸術運動も、理論的基盤の整備を待たずに、創作的表出が先行した。
  創作における変化はまず文学で起こり、音楽、絵画など他ジャンルへと拡がっていった。文学青年のベルリオーズやシューマンがそれぞれフランスとドイツでロマン主義の旗振り役となったのは、偶然ではない。ベルリオーズの10歳年下で、シューマンの3歳年下のシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813~1888)を育んだのは、ロマン主義のゆりかごとしてのパリだった。


ロマン主義×宗教

  だが、彼の芸術的素地の形成にはもう少し複雑な背景がある。一つは、モランジュ家(註1)が信仰していたユダヤ教である。ヤーウェ(ヤハウェ)に捧げられた謹厳な信仰とロマン主義は、アルカンの創作を加速させた二つの軸を成している。これらは一見相反するように見える。信仰は伝統や慣習を重んじるが、ロマン主義は旧い慣習の打破を目指すからである。しかし、宗教とロマン主義は往々にして個々の教義とは衝突するものの、永遠なるものを目指すという点で精神的な親和性がある(註2)。アルカンの場合、時に芸術(音楽)が信仰の領域を侵しているように見えることさえある。ユダヤ教徒でありながらプロテスタントの讃美歌に主題を求めたり(足鍵盤付ピアノのための《ルターのコラール〈我らの神は堅き砦〉に基づく即興曲》)、《大ソナタ》ではカトリックの聖体の祝日に歌われる聖歌を引用したりしている。アルカン伝の著者ブリジット・フランソワ=サペは、彼の創作にエキュメニズム(広義での宗教統一運動)の理想を見ている。いずれにせよ、アルカンはロマン主義×宗教という二つの内面的領域の交わる世界を生きた、典型的なロマン主義の音楽家である。

註1 アルカンという姓は、父の名アルカン・モランジュから採られている。彼の姉弟はみなアルカン姓を名乗った。姉弟全員が音楽家となったので、シャルル=ヴァランタンは終生「アルカン長男Alkan aîné」と署名した。
註2 若くして信仰篤いヴィオラ奏者・オルガン奏者のクレティアン・ユランやラムネー神父と交わり、長じてカトリックの下位聖職者となったリストの場合にも当てはまる。


パリ国立音楽院での学習時代

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  宗教とロマン主義という内なる熱源を具現するには、現実世界で駆動する機械が必要だった。その一つが、ピアノである。19世紀前半、産業革命はパリに蒸気機関車と鉄道をもたらし、ピアノには金属製のフレームをもたらした。エラール、プレイエル、パープといったピアノ製造者たちは気温や湿度変化から受ける影響を最小化する工夫を凝らし、また大きな会場での演奏に耐えるよう弦長と張力を増強するなど、楽器の改変に勤しんだ。
  ところで、アルカンの父はパリのマレ地区で私塾を営み、音楽や文法を教えていた。そこには後にパリ音楽院のピアノ教授のポストをめぐり争うこととなるマルモンテルなど、パリ音楽院の級友となる子どもたちが集まっていた。アルカンは当然、ここでピアノを始めたはずである。6歳でパリ音楽院のソルフェージュ科に登録し、翌年にはジョゼフ・ヅィメルマンの受け持つピアノ科に登録した(この年、人前でヴァイオリンも弾いている)。ピアノ科のレッスン室にはエラールがあり、週に数回、若い学生がピアノを囲んで代わる代わる演奏した。1824年の修了選抜試験で一等賞を得て、10代前半にして音楽界に華々しくデビューする。和声・伴奏科も修了したアルカンは作曲の勉強にも勤しんだ。ケルビーニの愛弟子で、かつて作曲教授資格試験に合格したことのあるヅィメルマン師には、ピアノのみならず作曲理論も師事し、学士院が主催する作曲コンクール(ローマ大賞コンクール)にも2度挑戦した。1832年に書いたカンタータ《エルマンとケティ》は選外佳作に選ばれた。さらにオルガン科では1834年に一等賞を得ている。この華々しい受賞歴は、アルカンに音楽家としての多方面での活躍を約束した。
  しかし、アルカンはピアノに専心した。それは、単にピアノの演奏やレッスンで収益が見込めたというだけではなく、ピアノこそが自らを突き動かす表出的欲求を引き受けてくれる手段だったからだろう。その内発的な力は、1828年に出会ったリストとのライバル関係によっても増幅された。
  アルカンのピアノ作品の出版は、1826年に遡る(《シュタイベルトの主題による変奏曲》作品1)。産業化が進むせわしい都会で、アルカンはスピードに対する嗜好を培った。1828年に出版されたロッシーニ風の《乗合馬車》作品2は、1844年に《鉄道》作品27へと「工業化」を遂げた。これは単なる外的事象の描写ではなく、ロマン主義的自己の表現である。技術革命がもたらした、人力をはるかに凌駕するテクノロジーは、超人たることを望んだファウストが己の魂と引き換えに手にした魔術の比喩であり、蒸気機関車のスピードと威容は、ピアニストの超越的願望に充分に応え得る主題だった。


ロマン的なものと古典的なもの

  ピアノを通して、若きアルカンは熱烈な信仰心も吐露している。《アレルヤ》作品25、《前奏曲集》作品31および《歌曲集》作品38/38bisの幾つかの曲には、ヘブライ聖書の詩編やソロモンの雅歌からの引用、あるいは「祈り」といった言葉が題名に用いられている。前述の通り、彼の宗教的関心は音楽的領域においてはキリスト教にも拡大されている。その一方で、古くから変わらぬ善きもの、真なるもの、美なるものの探究を通して、アルカンの眼差しはギリシャ古典文芸にも注がれていた(《大ソナタ》におけるアイスキュロスの悲劇、《全ての短調による12の練習曲》におけるアイソーポス[イソップ]の寓話)。
  古きものへの関心は、バッハ、ヘンデル、グルックといった音楽における古典への愛着にも通じている。1847年、アルカンは《音楽院の想い出》と題して、古典音楽の牙城として知られたパリ音楽院演奏協会のレパートリーから抜粋した6曲のトランスクリプションを刊行した。マルチェッロ、グルック、ハイドン、グレトリ、モーツァルトの作品を収めるこのトランスクリプション集の制作に当たり、アルカンは原曲の楽譜テクストを丹念に辿りながら、かつピアノの効果を損なわない「手ごろな難しさの」編曲を目指した。「全てを聴かせながらも、どのパートが際立たせられなくてはならないか、どのようにそのパートがあるべきか、さらに、それらがどのように伴われ、光が当てられ、あるは陰に残されるべきなのかということを知ること、こうしたことがこの[編曲の]技術(中略)なのである。」(楽譜序文より)出版はされなかったものの、この年にはベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第5番》の緩徐楽章やグルックのオペラ《アルセスト》より〈大司祭たちの行進〉のピアノ独奏用編曲も手がけている。
  これと対照を成すように、アルカンは33歳までのロマン主義的創作の総決算として《大ソナタ》作品33(1847刊)を発表した。20歳から50歳まで、人間の人生を10年毎に4つに区切り、これを次第に遅くなる第1楽章から第4楽章に割り当てた。第2楽章と第4楽章はそれぞれゲーテの『ファウスト』を、第4楽章はアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を題材にしている。前者はロマン主義の神話であり、後者は古代ギリシャの神話である。


練習曲

2/27(土)1843年製プレイエルによるアルカン《12の短調エチュード(全曲)》+C.レンナース新作 (2/18 Update)_c0050810_12241449.jpg
  1848年、アルカンの旧師ヅィメルマンは、教育における影響力の低下と同僚からの敵意を受けて、院長オベールに辞表を提出した。ヅィメルマンの後任人事が始まると、アルカンを含むヅィメルマン門下の4名が院長の指名を受けた。アルカン、ラコンブ、プリューダン、マルモンテルのうち、マルモンテルは作曲の業績が殆ど無かった。だが教育実績とおそらく人柄から、院長オベールやヴィクトル・ユゴーの後ろ盾を得ていた。一方のアルカンは比類無い実績にも拘わらず、むしろその強烈なロマン的作風からか、院長の好意を得ていなかった。彼を育てたヅィメルマン師には指名権も任命権もなかった。アルカンはジョルジュ・サンドを介して任命権を持つ大臣に接触し直訴を試みたが、おそらくマルモンテルに対する攻撃的な文面が裏目に出たのだろう、教授のポストにはマルモンテルが任命された。この年に出版された意欲作《全ての長調による12の練習曲》作品35(1848)も、結局のところパリ音楽院での教授職獲得に貢献することはなかった。
  この一件は子ども時代から続くマルモンテルとの仲を決定的に引き裂いた。さらに翌年、親友ショパンの死の報も受けて、彼は表向きの音楽活動をほぼ中止した。1851年からは出版も中断し、以後6年間、作品45以外、ピアノ曲は出版しなかった。この沈黙は、社会に対する不信感の表示であったが、同時に作曲と出版準備に捧げられた雌伏でもあった。アルカンは、打ち砕かれた栄達への期待を創作へと差し向け、創作者としての才能を世に問うことを願ったのである。

  1857年、作品37から47(43, 44は欠番)に至る作品群が沈黙を破った。1846年から書き溜められた《全ての短調による12の練習曲》作品39はアルカンの創作史上のみならず、練習曲というジャンル史上超弩級の作品である。長調による作品35と同様、この練習曲集もアルカン作品に好意的な評を寄せてきた博識の音楽史家フランソワ=ジョゼフ・フェティスに献呈された。その規模は12曲からなる練習曲としては前例がなく、ロマン主義的な題材(風、悪魔)、ならびに古典的な形式(スケルツォ、交響曲、協奏曲、序曲、変奏曲)を包摂している。「ピアノのベルリオーズ」(ハンス・フォン・ビューロー)という形容に違わず、アルカンはこの練習曲で究極の技巧と管弦楽的な効果を徹底して追究した。演奏時間は通奏するとおよそ120分前後を要する。ショパンの作品10と25が各々約30分、リストの《超絶技巧練習曲集》が約65分であることを考えれば、これが如何に長大であるかが分かるだろう。この長さの理由は練習曲というジャンルの中に交響曲、協奏曲、序曲といった、大規模な規範的ジャンルを取り込んだことが一因である。12曲が形作る大伽藍は、19世紀に「シリアスな」と形容されたアカデミックな器楽ジャンルの一覧を成している。かくてアルカンは、社会的挫折からくる憂鬱を創作へと昇華したのだった。
  作中にはベートーヴェンとショパンの回想が垣間見られる。「ある善き人物の死に寄せる葬送行進曲」と銘打たれた〈交響曲〉の第二楽章(葬送行進曲)は、ベートーヴェンの《交響曲第3番「英雄」》の「ある偉人の思い出を記念して」という標示を喚起する。協奏曲はトゥッティ部分にも想定される楽器の指示が入念に書き込まれ、ピアノのカデンツァもすべて記譜されている(第一楽章だけで約30分を要する)。ポロネーズをフィナーレに配したこの協奏曲は、亡き友ショパンの回想とも見られるが、同時に「野蛮な(Alla barbaresca)」荒々しさが際立っている。終曲〈アイソーポス[イソップ]の饗宴〉は8小節の主題に25の変奏が続く。この主題は、アルカンが1842年に編曲したモーツァルトの《交響曲第40番》(K 550)のメヌエットに由来するとされるが(R. Smith)、近年では食事の前に歌われるユダヤ教の感謝の歌との関連も指摘されている(A. Kessous Dreyfuss)。「饗宴(festin)」は豪勢な食事のことでもあるから、これはありそうな説である。

  アルカンは1888年に74歳で没した。彼の音楽はその後、演奏と作曲の両領域に長い影を投じている。演奏の領域において、アルカン作品は第二次世界大戦まではパリ音楽院定期試験でも時折弾かれていた。父の夢を引き継いでパリ音楽院教授となった息子エリ=ミリアン・ドラボルドを中心として、イジドール・フィリップ、マルグリット・ロン、コルトーらのクラスの生徒がパリ音楽院の試験でアルカンの曲を弾いている。特にドラボルドとフィリップはコスタラ社から刊行されたアルカン作品集の校訂を担当した(もっとも、彼らの仕事は初版プレートに注釈なしに手を加えるという作業に留まっている)。同じ頃、フランス以外では、フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)が、アルカン作品をレパートリーとし、ベルリンで演奏した。彼はアルカンをショパン、シューマン、リスト、ブラームスと並ぶ、ベートーヴェン以降のピアノ音楽の大家として称揚している。ブゾーニを尊敬し、『ピアノ・ソナタ第二番』を彼に献呈した英国の作曲家兼ピアニスト、カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(1892-1988)もやはりアルカンの独自性を称揚した。
  創作の領域において、ソラブジが1940年代に作曲した100曲の《超越的練習曲》や《私一人で、オーケストラなしで演奏する、気晴らしのための協奏曲》(第3楽章はアルカンOp.39-3〈悪魔的スケルツォ〉と同表題)は、練習曲及び協奏曲というジャンルを独自の視点で捉えたアルカンの着想を継承している。やはり英国の作曲家で1946年生まれのマイケル・フィニッシーの作品にもアルカンの影が見える。《アルカン=パガニーニ》(1997)の冒頭の楽想記号「アッラ・バルバレスカ」は、アルカンの作品39-10のそれと同じである。

  第二次大戦後、アルカンの音楽が録音されラジオで流れ始めると、アルカンに熱中する音楽家や愛好家が各地に現れた。1977年には英国でアルカン協会(Alkan Society)が設立された。アルカンの祖国フランスでは8年遅れて1985年にアルカン協会(Société Alkan)が設立された。2010年以降、アテネでもアルカンとその師ヅィメルマンを記念してアルカン=ヅィメルマン国際音楽協会が設立され、アルカンとその時代への関心は拡がりを見せている。
  さてアルカンの作品39が通演されるこの貴重な機会に、一人の演奏家によるこの作品の通演記録(一回のコンサートで全12曲が演奏された記録)を整理しておきたい。

①中村攝(1959- ):1984年3月1日、石川県文教会館(金沢)
②中村攝:1984年3月12日、スタジオ・ルンデ(名古屋)
③中村攝:1984年4月6日、虎ノ門ホール(東京)
④ジャック・ギボンズ(1962- ):1995年1月18日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑤ジャック・ギボンズ:1996年2月15日、クイーン・エリザベス・ホール(ロンドン)
テッポ・コイヴィスト(1961- ):2007年(ヘルシンキ)
⑦ジャック・ギボンズ:2013年8月25日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑧ヴィンチェンツォ・マルテンポ(1985- ):2013年11月2日、横浜みなとみらいホール(横浜)
⑨ジャック・ギボンズ:2013年12月15日、マーキン・コンサート・ホール(ニューヨーク)

  上記9公演のうち、4公演が日本で行われていることは特筆すべきだろう。金澤(中村)攝氏の全曲演奏は、中でも抜きん出て早い時期に行われている。1983年、当時25歳の金澤氏はM.ポンティが弾く抜粋盤LPを聴いて公開演奏を決意し、全曲暗譜で3公演に臨んだ。敬愛するブゾーニを介して、かねてよりアルカンやゴドフスキーにも関心を寄せていた故・園田高弘氏は東京公演に臨席し、「初めてアルカンの真価を知った」と激賞を惜しまなかった。金澤氏はその後ほどなくして名古屋(スタジオ・ルンデ)で姉妹作《全ての長調によるエチュード》Op.35 も通演している。
  チェンバロ・フォルテピアノ・オルガンといった歴史的鍵盤楽器にも通暁する大井氏による本日の公演は、1857年の作曲以来、おそらく当時のフォルテピアノで通演される世界初演」の可能性がある。ダブル・エスケープメント機構(註)を備えるエラールのピアノではなく、シングル・エスケープメントのプレイエルがどこまでアルカンの大作に応えてくれるだろうか、興味は尽きない。アルカンの衣鉢を継ぐ大作、ソラブジ《オプス・クラウィケンバリスティクム Opus Clavicembalisticum》(1930) の日本初演や、またフィニッシーの難曲《イングリッシュ・カントリー・チューンズ》、更には献呈初演を含むピアノ作品個展を開催した大井氏、また金澤攝氏への委嘱曲も初演(YouTubeで視聴可能)した大井氏の、2021年から逆照射されるアルカンへの眼差しにも注目したい。

 註:この機構は、打鍵されたハンマーが二段階で元の位置に下りる仕組みで、急速な連打において高い効果を発揮する。中期以降のアルカンは、エラールのピアノを好んで弾いた。




【関連リンク】

◎『ピティナピアノ曲事典』
・作曲家解説
・アルカン, シャルル=ヴァランタン :大ソナタ 第1番 Op.33
・アルカン, シャルル=ヴァランタン :片手ずつ、および両手のための3つの大練習曲 [Op.76]

◎ブログ
・金澤攝「ピアノ・エチュード大観」後編 第6景 シャルル・ヴァランタン・アルカン 1」
・金澤攝「ピアノ・エチュード大観」後編 第6景 シャルル・ヴァランタン・アルカン 2」

◎楽譜
・アルカン・ピアノ曲集 I(カワイ出版)
・アルカン・ピアノ曲集 II(カワイ出版)

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◎動画
ピアノ曲事典の歩き方 第2回 練習曲の「1830年とロマン主義」
上田泰史 × 実方康介

【目次/要約】
・導入
0:53​ 1830年をテーマにした理由
2:20​ ロマン主義/ロマン派とは「ここにはないものをありありと描く」芸術的態度
6:29​ 「ロマン」の原義はロマンス諸語で書かれた物語
8:11​ ブルクミュラー「貴婦人の乗馬」=中世の騎士道?!
・第1部:社会的背景
14:30​ ロマン主義を促進した背景(フランス大革命~七月王政)
18:22​ フランス大革命が音楽家のステイタスに変化をもたらした
19:30​ 恐怖政治の時代にピアノの即興で命拾いした名手エレーヌ・ド・モンジュルー
21:27​ パリ音楽院の学生は革命祭典で活躍
22:11​ 第一共和政⇒第一帝政(ナポレオン)⇒王政復古(揺り戻し)⇒七月王政
24:34​ 七月王政時代は自由主義と産業の発展がピアノ音楽文化に力を与えたーショパンやリストの世代のメンタリティ
・第2部:作曲家の内面的変化
29:50​ 1830年、ロマン主義の創作が表面化する(シューマン、ベルリオーズ)
32:03​ ピアニストたちの変化:リスト(19歳)のリアクション
35:22​ ショパン(20歳)のリアクションー「革命」エチュードのイメージを探る
38:38​ ポーランド11月蜂起の失敗に対する心情/援護してくれないフランス政府への怨恨
39:42​ ショパンの内面に巻き起こったロマン主義的イメージを読む
42:12​ ショパンが体験した「感情の死」と憂鬱(メランコリー)
47:42​ 「憂鬱」= ロマン主義のキーワード
48:24​ ロマン主義芸術家と「青白い肌」
51:13​ リストに献呈されたショパンの《練習曲集》作品10:献辞が「F. Liszt」ではなく「J. Liszt」の理由
52:53​ リストは「リッツ」と発音されていた?
・まとめ
53:27​ ロマン主義は、世界認識のモードの変化をもたらした―芸術家は、「ロマン主義的な自我」を意識し、振る舞うようになっていった。その画期が1830年だった。



# by ooi_piano | 2021-02-19 01:12 | Pleyel2020 | Comments(0)


1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_14290832.jpg1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_14292136.jpg1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演)
大井浩明(フォルテピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
使用楽器:プレイエル社1843年製80鍵フォルテピアノ [タカギクラヴィア(株)所蔵]
全自由席 5000円
お問い合わせ pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)〔要予約〕
チラシpdf https://bit.ly/31jEDAA



1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_14152577.png

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【第5回公演】 2021年2月27日(土)18時開演(17時半開場)
●C.V.アルカン(1813-1888): 《短調による12の練習曲 Op.39》(1857)
 ~I.風のように II.モロッソス格で III.悪魔的スケルツォ IV.~VII.ピアノ独奏による交響曲(全4楽章) VIII.~X.ピアノ独奏による協奏曲(全3楽章) XI.序曲 XII.アイソーポスの饗宴
クロード・レンナース(Claude Lenners)(1956- ):フォルテピアノ独奏のための《パエトーン》(2020、委嘱新作初演)


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(終了)【第1回公演】 2020年10月23日(金)19時開演(18時半開場) (※)須田祥子(客演/東京フィルハーモニー交響楽団ヴィオラ首席奏者)
●H.ベルリオーズ(1803-1869): 《幻想交響曲 ~ある芸術家の生涯の出来事》 S.470 (1830/36、F.リストによるピアノ独奏版)[全5楽章]、《交響曲「イタリアのハロルド」》 S.472 (1834/36、F.リストによるピアノ独奏版)[全4楽章] (※)
高橋裕(1953- ):フォルテピアノ独奏のための《濫觴》(2020、委嘱新作初演)

【アンコール】
〇N.パガニーニ《ヴィオラと管弦楽のためのソナタ》(1834)

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(終了)【第2回公演】 2020年11月13日(金)19時開演(18時半開場)
●F.F.ショパン(1810-1849): 12の練習曲Op.10 (1829/32)、12の練習曲Op.25 (1832/36)、3つの新しい練習曲 B.130 (1839)、ピアノソナタ第2番Op.35《葬送》(1837/39)、ピアノソナタ第3番Op.58 (1844)、前奏曲嬰ハ短調Op.45 (1841)
●鈴木光介(1979- ):フォルテピアノ独奏のための《マズルカ》(2020、委嘱新作初演)

【アンコール】
〇C.V.アルカン:練習曲《相似的無窮動 Op.76-3》(1838)
〇ショパン/ゴドフスキー(生誕150周年):練習曲第47番《誂い》

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(終了)【第3回公演】 2020年12月11日(金)19時開演(18時半開場)
●R.シューマン(1810-1856):《謝肉祭 - 4つの音符による滑稽譚 Op.9》 (1833/35)、《クライスレリアーナ - ピアノのための幻想曲集 Op.16》(1838)、《幻想曲 Op.17(初稿)》(1836/39)

【アンコール】
〇ショパン《「お手をどうぞ」による変奏曲 Op.2》(1827、独奏版)
〇シューマン《ピアノソナタ第3番終楽章(Green/Moyerによるオリジナル草稿補筆版)》(1835、日本初演) 

――――
【第4回公演】 2021年1月30日(土)18時開演(17時半開場)
●F.リスト(1811-1886): 《超越的演奏のための12の練習曲(決定稿)》 S.139 (1851)、《ピアノソナタ ロ短調(初稿)》 S.178 (1852/53)
アダム・コンドール(Ádám Kondor)(1964- ):フォルテピアノ独奏のための《5つの超越的前奏曲》(2020、委嘱新作初演)

【アンコール】
〇リスト《ドン・ジョヴァンニの回想 S.418》(1841)
〇アルカン《2つの室内フーガ「泣くジャン、笑うジャン」》(1840)

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1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_16321877.gif  「ピアノ音楽の革命」――これが本シリーズのテーマだ。採り上げられる19世紀の作曲家はベルリオーズ、リスト、ショパン、シューマン、アルカン。錚々たる顔ぶれである。奏者としては慎ましいギタリストだったベルリオーズとピアニストへの道を断念したシューマンを除く三名は、ピアノのヴィルトゥオーゾである。彼らは皆、1810年代の前半に誕生している。この年代には、1811年生まれのフェルディナント・ヒラー、1812年生まれのジギスモント・タールベルク、1814年生まれのアドルフ・フォン・ヘンゼルトもいる。

  「1810年世代」は、続く一世紀のピアノ音楽の景色を一変させた。その背景には、1820年代から30年代にかけて起こった芸術思潮の大転換がある。この転換は、産業革命の結果大きな変化を遂げたピアノの製造と普及といった外的理由だけからは説明できない。それは、精神的な改革によって実現されたのである。

1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_16335510.gif  彼らの青春時代に、一体何が起こったのか?それは、器楽をめぐる美学上の革命だった。それまで鍵盤楽器のための音楽といえば、何よりもまずソナタであった(ソナタの原義は「器楽」である)。人々はソナタで演奏技術を磨き、ソナタで聴衆に語りかけた。ピアノ曲は、いまだ「歌詞のないロマンス(無言歌)」ではなく、いわば「言葉のない弁論」と見做されていた。ソナタは修辞学をモデルとして作曲され、演奏されていた。そこには発想(主題)があり、それらの巧妙な配置があり、論駁(展開)があり、確証(主調の確立)があった。作曲家(=奏者自身)がそのようにして書いたソナタを、奏者は解釈と身振りの力を借りつつ披露し、聴き手を感動させ、説得した。だが、このような器楽の在り方は批判にも晒されていた。「ソナタよ、お前は私に何を求めているのか」――フォントネルはこう問いかけた。明快な意味を持たない器楽よ、お前は言葉を伴う音楽に優ることはできない、と。

  ところが1800年を過ぎると、器楽の地位は俄かに向上していく。人々の「聴く耳」に変化が起きたのだ。ドイツの作家・批評家E. T. A. ホフマンは、ベートーヴェンの《交響曲第五番》に寄せた批評で、こんなことを書いている。

〈器楽曲は他の芸術の援助も混入も一切拒否して、音楽芸術にしかない独自のものを純粋に表現しているのである。この音楽こそあらゆる芸術のうちで最もロマン的なもの――唯一純粋にロマン的な芸術と言ってよいだろう。――オルフェウスの竪琴は冥府の門を開いたのである。〉(鈴木潔訳)

1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_16344179.gif  ホフマンにとって器楽は、言語の具体的な指示機能に依存することなく聴く者に深い夢を見させることのできる芸術だった。同じくドイツの作家レルシュタープも、ベートーヴェンの《幻想曲風ソナタ》Op.27-2(通称「月光」)を聴くとき、もはやそこに奏者(=弁論者)の姿を見出さない。彼の想像力は異界を飛翔し、山岳に囲繞された月下の湖、霊ごとく水面を漂う白鳥を目撃し、廃墟から漏れ聞こえるエオリアン・ハープの神秘的な調べを聴いた。
  ピアノは修辞学の器から、ロマン主義的精神の器に創り直されたのである。

  1814年、ナポレオンの失脚に続くアンシャン・レジームへの揺り戻しによって、ロマン主義はフランスで新たな局面を迎える。大革命と帝政により社会的立場を脅かされた人々が、心の中に「密やかな逃げ場所」を求め始めたのだ。かくて王党派の作家たちは、復古王政時代、民衆の趣味に寄り添う新たなフランス国民文学の確立に邁進した。シャトーブリアンは『ルネ』で血縁関係の分断や現実逃避といったテーマを扱いながら、「世紀病」や「あてどない情熱」と呼ばれる近代的憂鬱の典型を示した(ベルリオーズが《幻想交響曲》の標題で「ある著者」と言っているのはシャトーブリアンのこと)。

1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_16360686.gif  王党派の文学者たちが創り出した葛藤と逃避のトポスは、さまざまな形で芸術作品に表れることとなった。都市から隔絶された田園、スイスの山岳地帯、ベネツィアの干潟、墓場、サバト・・・ロマン主義者たちが描くこうした世界は、単なる外界の模倣ではなく、内面化された主観的世界である。そのために、ベルリオーズは冒頭からいきなり主人公にアヘンを多量投与しなければならなかった。ベルリオーズがコール・アングレにランズ・デ・ヴァーシュ(牛追い歌)を吹かせたとしても、それは羊飼いがそのように吹いたからではない。遠雷は、もはや神々が引き起こす気象現象として聴かれるのではない。それは主人公の心理的反映であり、聴き手の主観的経験として生きられるのだ。

  1830年の七月革命とともに、ピアノのロマン主義は一気に開花した。主観的自然や超自然的イメージは、ピアニスト兼作曲家たちにもあらゆる誇張を許した。リストの想像力は、ダグー夫人との恋愛とスイスへの「巡礼」(という名の逃避行)、ラムネー神父によってもたらされた宗教=社会的啓示、そして超人パガニーニの洗礼を経て、魔界から天国に至るまで縦横無尽に駆け巡った。もはや、ピアノはピアノとして鳴り響いてはいけない。未知なる技巧と表現力によって、彼方の音を地上に響かせなければならなかった。リストはベルリオーズ、ショパン、ヒラー、アルカンらとパリで親交を深め、文芸における「若きフランス」よろしくユゴーの「醜は美なり」という旗印に従った。

  ショパンは、「ピアノのベルリオーズ」アルカンのように、言葉と音楽を接近させることを好まなかったが、二人の親友は「凡庸なものへの嫌悪」(A. マルモンテル)で結ばれていた。ショパンが《ピアノ・ソナタ 第二番》作品35の終楽章で見せる異様さは、アルカンの〈風〉(作品15-2、全3曲をリストに献呈)とも響き合っている。

1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_16380886.gif  シューマンはショパンの作品2への批評で「諸君、脱帽せよ、天才が現れた」と称賛したが――もっともショパンは続くシューマンの詩的な解釈に面喰らった――、ショパンの第二ソナタの終楽章を評して「彼の最も狂気じみた4人の子供を無理矢理一緒にした」「墓場に吹きすさぶ風」(第4楽章)と書いたとき、おそらく、そこにアルカンの影を感じ取ったのではないだろうか。ちなみに、クララ・ヴィークは1839年の春に単身パリを訪れアルカンの演奏を聴いており、作曲家としての才能を高く評価した。もしかしたら、フィアンセによるこの称賛も、ロベルトのアルカン嫌いを助長する要因になったのかもしれない。

  ショパンとリストはシューマンと互いに献呈のやりとりがあるのに、アルカンだけは遂にシューマンと作品を献呈しあうことはなかったし、会うこともなかった。もしシューマンがアルカンの円熟期、つまり1857年以降の作品まで見ていたら、彼は「フランスの辞書には魂という言葉はない」という前言を撤回しただろうか。(上田泰史/音楽学)



上田泰史 Yasushi UEDA, musicology
1843年製プレイエルによる《ピアノ音楽の革命》(全5回公演) (2021/02/19 update)_c0050810_14173466.jpg
 金沢市出身。2016年に東京藝術大学大学院音楽文化学研究科にて論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号を取得。同年にパリ=ソルボンヌ大学にて博士論文 "Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853): l'homme, le pédagogue, le musicien" で同大学博士号(音楽・音楽学)を審査員満場一致で取得。在学中、日本学術振興会より育志賞を受ける。著書に『「チェルニー30番」の秘密――練習曲は進化する』(春秋社)、『パリのサロンと音楽家たち――19世紀の社交界への誘い』(2017)。東京藝術大学楽理科非常勤助手を経て、2018年4月より日本学術振興会特別研究員(SPD)を務める。東京藝術大学、国立音楽大学、大妻女子大学ほか非常勤講師。

【著書/論考 リンク集】
●世界遺産・富岡製糸場の「幻のピアノ」を求めて 第1回第2回第3回







# by ooi_piano | 2021-02-01 19:39 | Pleyel2020 | Comments(0)

【第4回】2021年1月30日(土)18時開演(17時半開場)
大井浩明(フォルテピアノ独奏)

1/30(土)1843年製プレイエルによるリスト《超絶技巧練習曲集(全12曲)》《ロ短調ソナタ》+A.コンドール新作_c0050810_17054967.jpg
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) 渋谷駅徒歩10分、神泉駅徒歩2分
全自由席 5000円
お問い合わせ pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)〔要予約〕

使用楽器:プレイエル社1843年製80鍵フォルテピアノ(430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]





1/30(土)1843年製プレイエルによるリスト《超絶技巧練習曲集(全12曲)》《ロ短調ソナタ》+A.コンドール新作_c0050810_09200419.jpg
■F.リスト(1811-1886): 《超越的演奏のための12の練習曲(最終稿)》 S.139 (1851)
I. 「前奏曲」 - II. (イ短調)

〇アダム・コンドール(Ádám Kondor)(1964- ):フォルテピアノ独奏のための《5つの超越的前奏曲 Öt transzcendens prelűd》(2020、委嘱新作初演)
第1前奏曲 Andantino

■ III. 「風景」 - IV. 「マゼッパ」

〇第2前奏曲 Tempo flessibile, ma non lento

■ V. 「鬼火」 - VI. 「幻影」

〇第3前奏曲 Parlando

■ VII. 「英雄」 - VIII. 「荒ぶる狩り」

〇第4前奏曲 Presto

■ IX. 「回想」 - X.(ヘ短調)

〇第5前奏曲 Presto

■ XI. 「夕暮の諧調」 - XII. 「雪嵐」


  (休憩)

■F.リスト: 《ピアノソナタ ロ短調(初稿)》 S.178 (1852/53)
  Lento assai- Allegro energico - Grandioso - Cantando espressivo - Pesante - Recitativo - Andante sostenuto - Quasi Adagio - Allegro - Stretta (quasi presto) - Presto - Prestissimo


  [使用エディション:新リスト全集版]



アダム・コンドール:フォルテピアノ独奏のための《5つの超越的前奏曲》(2020)
  F.リストの超越的練習曲集は、ある面でブーレーズ作品に於ける抑制出来ない興奮ぶりを連想させる。そこで、私はその解毒剤的な前奏曲集を着想した。各曲は、簡明な作法と論理的構造に基づき、明確な音楽素材の可能性を探索した。それゆえ、この5つの前奏曲はリストの練習曲集と組み合わせて演奏されるのが最も望ましい。大井浩明の非凡な才腕を念頭に作曲され、彼に献呈されている。(アダム・コンドール)

アダム・コンドール Ádám Kondor, composer
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  バルトーク音楽高校(ブダペスト)を経て、リスト・フェレンツ音楽大学で作曲をミクローシュ・コチャールとシャーンドル・ソコライに師事。また室内楽をジェルジ・クルターク、シャーンドル・ヴェーグに学んだ。1998年ソロス財団、1999年独エデンコーベン芸術財団より助成を受ける。さまざまな編成の多数の作品が、世界各地で演奏されている。近作に《ピアノ協奏曲》(2017/ブダペスト初演)、《ヴァイオリン協奏曲》(2018/ウィーン初演)、《フルートとクラリネットのための二重協奏曲》(2020)等。2020年秋よりハンガリー科学アカデミー会員。2013年~2016年、タイに在住した。





『ファウスト』とピアノ・ソナタ―――上田泰史

  他の芸術諸ジャンルと同様、神話は音楽の継承と創造の土台となってきた。「神話」という言葉を神(々)と人間の物語に限らず、各時代の人々が共有し、文化に根を下ろした語りとして捉えるなら、キリスト教にとどまらず古典ギリシア・ローマの神話や詩学、啓蒙思想、種々の文学作品も一種の神話である。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲『ファウスト』は、ベートーヴェン、シューベルトからマーラーに至るまで、19世紀を生きた音楽家たちにとっての比類無いロマン主義の神話だった。


ロマン主義の神話「ファウスト」

  ファウスト博士をめぐる物語はゲーテの創作ではなく、ドイツに古くから伝わる説話である。この人物は16世紀に実在したと云われる錬金術師で、学を極め尽くしてなお悟り宇宙の本質を悟り得ないことに絶望して悪魔に魂を預け、人間のあらゆる欲望を満たした後に地獄に落ちるという、ドン・ジョヴァンニのような反キリスト教的存在である。この物語は、人形劇を通して民間にも広く浸透した。しかし18世後半、啓蒙主義運動の中で、ファウスト博士は欲望に駆られた悪魔的存在というイメージを脱ぎ捨て、究極の知識を追究する超人として語り直されるようになった。そこで、救済されるファウストという結末が用意された。救われるファウスト像は、まずドイツ啓蒙思想家・劇作家ゴットホルト・エフライム・レッシングによって構想され、ゲーテがファウスト第二部でそれを永続的なものとした。救済されるファウストを描いた音楽としては、マーラーの《交響曲第8番》がよく知られているが、シューマンのオラトリオ《ゲーテの『ファウスト』からの情景》も、『ファウスト』第二部を扱った、決して多くはない作品の一つである。


「ファウスト」熱

  ゲーテの『ファウスト』はすでに1770年代に初稿(Urfaust)が書かれ、時を経て第一部が1808年に、第二部が1833年に遺作として出版された。この戯曲は諸外国でも翻訳された。フランスではまず文芸・政治評論家スタール夫人の『ドイツ論』(1813年)でドイツ的想像力の驚くべき産物として『ファウスト』第一部が紹介されたが、書物の性格上、要約的な紹介に留まった。続いて1823年にルイ=サントレール、1827年にアルベール・シュタッフェールによる仏訳が出た。後者にはウジェーヌ・ドラクロワがグロテスクな挿絵を提供したことでも知られる。これらの翻訳では時事風刺的で難解な「ヴァルプルギスの夜」が省かれていた。しかし1828年、弱冠19歳のネルヴァルがこの情景を含めた第一部の全訳を上梓して、これが若い音楽家たちの心を捉えた。
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E.ドラクロワによる挿絵(「ヴァルプルギスの夜」にマルグリートの姿を垣間見るファウスト)/ Paris, Petit Palais (CC0)


  ロッシーニはF.ヒラーへの手紙で「『ファウスト』への真の熱狂」がパリを席圏していると報告し、ベルリオーズやグノーは一時期ファウストを携帯してパリの街を歩いていた。ベルリオーズは《『ファウスト』からの8つ情景》(1829年部分初演)をゲーテに送りさえした(ゲーテは音楽家の友人に意見を求め、結局関心を示さなかった)。劇場ではファウストの劇が音楽付きで上演され、1830年4月にはシュポーアのオペラ《ファウスト》、そして7月の革命を挟んで同年12月にはベルリオーズの《幻想交響曲》第5楽章〈サバトの夜の夢〉が鳴り響いた。翌年にはルイーズ・ベルタンのイタリア語オペラ《ファウスト》が、そして年末にはヒラーの《ファウスト序曲》が初演された。
  ドイツでは1829年にヴァーグナーがライプツィヒで『ファウスト』を観劇し「ファウスト熱」に冒された。彼はまず合唱とピアノの為の《ゲーテの『ファウスト』による7曲》(1831)を書き、10年後、パリで《ファウスト序曲》を書いたがパリ初演は叶わなかった(後に1844年、ドレスデンでメンデルスゾーンの《最初のヴァルプルギスの夜》の前に初めて演奏された)。シューマンは第二部の結末に心を打ち振るわせ、1844年から1853年の長きに亘って《『ファウスト』からの情景》に取り組んだ。


神と悪魔

  リスト少年が父とともにパリに到着したのは、『ファウスト』第一部の仏訳がパリで出た1823年12月のことである。音楽以外の教養に関しては独学ではあったが、リストはパリでファウスト熱を肌で感じることができただろう。既に神童として名を馳せていたリスト少年は、世俗の輝きだけでなく、すでに深い信仰心、永遠なるものへの憧れを心に宿していた。リストは、後にベルリオーズの《イタリアのハロルド》を初演することになるクレティアン・ユランがオルガニストを務めていた教会に通い、神秘的な音色に耳を澄ませた。
 『ファウスト』は、キリスト教とロマン主義を橋渡しする重要な役目を果たした。この戯曲は、神と悪魔(メフィストフェレス)がファウストの魂を賭けるところに始まり(第一部)、創造主による悪魔払いとファウストの救済で終わる(第二部)。戯曲冒頭の神と悪魔の対話で、神は善なる人間は迷うにせよ、正しい道を忘れない、と述べる。一方の悪魔は、森羅万象はいずれ滅びるのだから、初めから無い方が良いのだとその本領を語り、創造という神の崇高な役目を認めない「否定の霊」である。ファウストは悪魔の力を借りて自在に振る舞い、無垢な乙女マルグリート(グレートヒェン)とその親族を破滅させる。だが第二部では奇術を弄して栄達を実現し、最後は為政者として人々の為に灌漑工事を指揮する。人々の働く姿に感動して自ら鋤を手に壕を掘るが、これが墓穴となって息絶える。
  一方では、決して尽きることのない欲望を追究し自己膨張を続ける巨人ファウストは、無限への憧憬を原動力とするロマン主義と握手することができる。その意味で、超人ファウストはロマン主義の英雄に他ならない。他方、神の被造物として神的なファウストの側面もまた、天上的永遠へと開かれている。メフィストフェレスが現出させる世界は一見果てしないようだが、結局のところファウストの寿命によって終焉を迎える。悪魔が見せる無限的(夢幻的)世界は、永遠的実体の「映像」にすぎない。確かにロマン主義の芸術家は、「醜は美なり」というヴィクトル・ユゴーのモットーに共感しメフィスト的題材を好んだ一方で、ファウストに内在する聖性にも注目していた。リストやアルカンがメフィストフェレスとして超人的演奏技巧を追究した一方で、両者が生涯に亘り創造主に――前者はキリスト教者として、後者はユダヤ教者として――祈りを捧げたことは、偶然ではない。


リストの《ピアノ・ソナタ》とアルカンの《大ソナタ》の間隙
 
  1840年、フランスではファウスト第二部のネルヴァル訳も刊行され、それまでにドイツとフランスで『ファウスト』はピアニストたちにとっても完全なバイブルとなった。C. M. v. ウェーバーの弟子ユリウス・ベネディクトは1836年に、自作《ゲーテのファウストに基づく大幻想曲》をベルリオーズの居る前で演奏し(楽譜所在は不明)、シャルル=ヴァランタン・アルカンは1847年に《ピアノのための大ソナタ》作品33の第二楽章に〈ファウストのように〉という題名を与えた。この楽章は後半に「神秘の合唱」としてのフガートが置かれ、それに神の顕現、メフィストの退散、マルグリートの動機と共に上昇するファウストの姿が描かれている。ピアノ作品としては『ファウスト』第二部の結末を描いた最初の作品と見られる点で、この作品はピアノ音楽史的にも『ファウスト』をめぐる文化史的にも、注目に値する(リスト後年の《ファウスト交響曲》では、「神秘の合唱」は声楽を伴って表現される)。
  アルカンの伝記作家たちは、これまでに何度もリストの《ピアノ・ソナタ》ロ短調とアルカンの《大ソナタ》作品33との音楽的関連性を指摘してきた。充分な紙幅がないため簡単な指摘に留めるが、アルカンのファウストの主題は複付点のリズム動機と低音域のスタッカートによる同音反復動機で構成される。リストのソナタの主題も同じ要素含んでいる。
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譜例1 アルカン《大ソナタ》作品33(30歳:ファウストのように)

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譜例2 リスト《ソナタ》ロ短調 アレグロ冒頭の主題


  アルカンの同音反復主題は、その後第3主題としてマルグリート的性格に変じるが、この同一動機による性格変容もリストのソナタのcantando espressivo(第153小節~)で同じように生じる。
 他方、リスト研究者たちはアルカンのソナタとリストのロ短調ソナタの類似に気づいてはいても、それらの関連性を確信するには至っていない。それ以前に、そもそもリストのロ短調ソナタに隠された標題があるのかどうかについて長い議論が行われており、各人各様の立場を取っている。『ファウスト』になぞらえる解釈(Ott 1981)、自伝としての解釈(Raabe 1931/68)、ミルトンの《失楽園》に即したの解釈(Szász 1984)、あるいはプログラムは想定していないとする説(Winklhofer 1980)等々。
  リストが周囲にソナタの「意味」を明かすことがなかったため、彼がどのようなプロットを想定したのかは分からないし、あるいはしなかったかもしれない。とはいえ、この作品を聴いた人々が何らかの典型的な物語を想起することは自然であるし、リストは様々な文学的題材から、善悪の相克を音楽的に抽象したのかもしれない。とはいえ、アルカンとリストのソナタの音楽的近似性が、興味をそそられる主題であることに変わりはない。リストのロ短調ソナタの完成は1853年2月とされるが、最近の研究では1849年の時点ですでに――ゲーテの「ファウスト初稿」のように――原型が存在したことが、ほぼ確実視されている。それはリストが同年の春にヴァイマルで友人らに内々に演奏したとされ、これを聴いたフリートリヒ・キュームシュテットFriedrich Kühmstedt(1809-1851)は《リスト博士の主題による4声の演奏会用大フーガ》作品24を書いて1850年に出版した。このフーガの主題は、今日知られているロ短調ソナタの主題に一致している。他にも、1969年以降に今日では行方不明になっているソナタの1849年のスケッチに、ソナタのandante sostenutoの楽想が書き留められていたという。リストが1849年にソナタの構想に着手していたという事実は、アルカンのソナタの出版(1847年末)からリストが「ロ短調ソナタ」に取りかかるまでの期間が、一年半足らずであることを物語っている。
  完成後、リストは出版前に内々でこのソナタを人前で弾いた。1853年6月、ヴァイマルで宮廷楽長の座にあったリストを、ブラームスが訪ねた。そこに居合わせたアメリカの作曲家ウィリアム・メイソンの回想によれば、リストは「ロ短調ソナタ」を完成させたアルテンブルク館にブラームスを招き、リストがこの新作を弾くのを聴いた。ところが、ブラームスは演奏中に居眠りをしていたという・・・。だが寛大なリストは二人の若い訪問客をそのまましばらく館に逗留させた。
  1854年の春、リストはこの少なからず「アルカン風」のソナタを、10年以上も前に《幻想曲》作品17を献呈してくれたシューマンへの献辞とともに出版した。だが同年2月、シューマンの精神は不安定極まりなく、2月にライン川に身を投げ自殺未遂を起こしていた。折角の献呈にも拘わらず、シューマンはすぐに精神病院に入れられ、ソナタの出版を知ることはなかった。ただし妻のクララ・シューマンは版元から楽譜を受け取っていた。日記に書き留めた評価は「盲目の騒音に過ぎない」という辛辣なものだった。


リストとアルカン

  シューマン、リスト、アルカンの三者は、青春時代から互いを知っていた。シューマンとアルカンは直接会ったことはないが、シューマンは楽譜を通して彼の音楽を知り、アルカンの《悲愴的ジャンルの3つの断章》作品15に手厳しい批評を書いたことがある。それ以後、シューマンはアルカンに公然と反応することもなかった。一方のアルカンはシューマン作品を好んで弾いた。
  リストとアルカンが公の場で互いの曲を弾いたという記録は見当たらないが、両者は生涯に亘り一定の距離を取りながら相互的関心を保った。1836年、リストがジュネーヴ音楽院の教職を去るときに、後任として彼がポストを打診したのはアルカンだったし(アルカンはこの招待を断った)、翌年には、リストはシューマンを苛立たせたアルカンの作品15を「何度も読み、読み返した」上で、かなり好意的な評を書いた。この作品15はリストに献呈されており、マルグリート的なヒロインを題材にしている。しかし後の《大ソナタ》とは異なり、強弱や楽想指示を全く書き入れずに出版した。この行為は、「ロマン主義的な音楽」というのはこのようなものだろう、君には指示がなくても分かるだろう、という、皮肉めいた敬意とも読める。「悲愴的ジャンル」という言葉にも風刺的ニュアンスを読み取ることができる(「ジャンル」と言う言葉は、対象を客観化するから)。時代は下って1865年にリストがカトリックの下位聖職者に叙された翌年、アルカンはリストに新作《ルターのコラール「神は我らの堅き砦」に基づく即興曲》作品69を贈った。更に後、晩年のリストはマスタークラスで生徒たちにアルカンの作品を弾かせている。1884年には〈イソップの饗宴〉作品39-12を生徒に提案し、「余りに知られていない作曲家だ」と口にしたという。
  長い音楽的交流の一時期、フランス二月革命の直後、何がリストをソナタへと駆り立てたのか。証拠は見つからないかもしれないし、想像は妄想なのかもしれない。しかし、ドキュメントと想像の間隙を見つける時に、解釈という行為は成り立つ。多様な解釈へと誘う作品には、やはり魔的な魅力が宿っている。リストのソナタは、そのような作品である。








薄暮(くれがた)の曲―――シャルル・ボドレエル

時こそ今は水枝(みづえ)さす、こぬれに花の顫(ふる)ふころ。
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ。

花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ、
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ。

痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)。
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ、
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)。

闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)、
光の過去のあとかたを尋(と)めて集むる憐れさよ。
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)、
君が名残のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒(せいたいごう)。

(上田敏訳)




Harmonie du soir / Charles BAUDELAIRE (1821 - 1867)

Voici venir les temps où vibrant sur sa tige
Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !

Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir.

Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige,
Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir ;
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige.

Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir,
Du passé lumineux recueille tout vestige !
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige...
Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir !













# by ooi_piano | 2021-01-17 08:34 | Pleyel2020 | Comments(0)