《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
【POC第53回公演】 2024年12月7日(土)18時開演(17時半開場)
〈Albtraum auf dem (Alban) Berg - 暴(あら)ぶるアルバン・ベルク〉
アルバン・ベルク(1883-1935):
《ソナタ断章 ニ短調》(1908、日本初演) 3分
《ピアノソナタ ロ短調 Op.1》(1908) 10分
《弦楽四重奏曲 Op.3》(1911/2017、ピアノ独奏版・世界初演) [米沢典剛(1959- )編] 22分
I. Langsam - II. Mäßige Viertel
オペラ《ヴォツェック》第1幕第3場より「マリーの子守唄」(1922/1985) [R.スティーヴンソン(1928-2015)編] 3分
オペラ《ヴォツェック》第2幕第4場より「居酒屋のワルツ」(1922/1987) [Y.ミカショフ(1941-1993)編] 3分
オペラ《ヴォツェック》第3幕第4番より間奏曲「ひとつの調性(ニ短調)によるインヴェンション」(1922/2024、世界初演) [米沢典剛(1959- )編] 3分
若松聡史(1983- ):《暈色 "Iridescence" for extended piano》(2024、委嘱初演) 7分
(休憩15分)
《抒情組曲》(1926/2016、ピアノ独奏版・東京初演) [米沢典剛(1959- )編] 30分
I. Allegretto gioviale - II. Andante amoroso - III. Allegro misterioso / Trio estatico - IV. Adagio appassionato - V. Presto delirando / Tenebroso - VI. Largo desolato
《オペラ「ルル」に基づく幻想曲》 (1935/2008) [M.ウォルフサル(1947- )編] 14分
ルルとアルヴァ二重唱(第2幕1場) - ラグタイムその1(第1幕3場) - 切り裂きジャックと死の絶叫(第3幕2場) - サイレント映画の音楽(第2幕間奏曲) - メロドラマ(第2幕2場) - ルルとアルヴァ二重唱(第2幕2場) - ラグタイムその2(第1幕3場) - アルヴァのルル賛歌(第2幕2場) - ルルのアリア(第2幕1場)
"Albtraum auf dem (Alban) Berg"
Sat, 7 December 2024, 6 pm start
Hiroaki OOI, piano
Shōtō Salon (1-26-4, Shōtō, Sibuya-ku, Tokyo)
Google Map https://shorturl.at/bgzJM
4,000 yen
reservation: poc@artandmedia.com(Art & Media Inc.)
Satoshi Wakamatsu (1983- ) : "Iridescence" for extended piano (2024, commissioned work, world premiere)
Alban Berg (1885-1935) : Sonata fragment in d-moll (1908, Japan premiere), Piano Sonata Op. 1 (1908), String Quartet Op.3 (1911/2017) [piano solo version by Noritake Yonezawa (1959- ), world premiere], Lyric Suite (1926/2016) [piano solo version by Noritake Yonezawa, Tokyo premiere], "Cradle Song" from 'Wozzeck' (1922/1985) [piano solo version by Ronald Stevenson (1928-2015)], "Tavern Garden Waltz" from 'Wozzeck' (1922/1987) [piano solo version by Yvar Mikhashoff (1941-1993)], "Interlude (Invention on a Key)" from 'Wozzeck' (1922/2024) [piano solo version by Noritake Yonezawa, world premiere], "Lulu Fantasy" (1935/2008) [transcribed by Marvin Wolfthal (1947- )]
若松聡史:《暈色 Iridescence》(2024、委嘱初演)
この作品では、複数の音の焦点が同時並行で展開される。それぞれが独立した運動を持ちながら時間の中で交差することで、多層的な響きを生成する。音の焦点は流動的で、各音が対比的な関係で相互に作用し合うことにより、全体として不均衡な波長があらわれる構造になっている。(若松聡史)
若松聡史 Satoshi Wakamatsu, composer
2014年パリ・エコール・ノルマル音楽院作曲科高等ディプロマ課程修了、2016年パリ地方音楽院作曲科専門課程修了。エディト・カナドシジー(Édith Canat de Chizy)に師事。第19回東京国際室内楽作曲コンクール第3位(2014)、第2回“Appassionato Ensemble”国際作曲賞入選(イタリア・コモ)(2018)、第11回JFC作曲賞コンクール入選(2022)、第41回ヴァレンティーノ・ブッキ国際作曲コンクール入選(イタリア・ローマ)(2022)等。近作に、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ハープのための《プリズム》(2023)、ピアノ弦のための《星彩現象》(2022)、ディレクションを伴う弦楽三重奏曲《プレグナンツ》(2021)、11弦楽器のための《スペクトル》(2017)等。
アルバン・ベルクの勘所――野々村 禎彦
アルバン・ベルク(1885-1935)の音楽の核心はきわめて明確で、「後期ロマン派的な素材の新古典主義的な取り扱い」がすべてである。この一言で、ピアノソナタ(1907-08)からオペラ《ルル》(1929-35)まで、例外なく把握できる。ただし現時点ではこのような言説は一般的ではない。その理由は明白で、文献として真っ先に参照されるアドルノによるベルクの評伝にはそのようなことは一切書かれていないからだが、そこにはふたつの背景がある。ひとつは、ここで言う「新古典主義的」は、音楽における新古典主義の一般的な定義をかなり拡大解釈していること。もうひとつは、たとえこの拡大解釈を認めたとしても、アドルノにはベルクの核心が新古典主義だとは書けない時代的・歴史的背景があったことである。
まず、音楽における新古典主義について。この用語の起源は美術史にあり、18世紀半ばから19世紀初頭にかけての、バロック/ロココ芸術への反発から生まれた、ギリシア・ローマ(美術史における「古典」)芸術を範とする非装飾的な芸術様式を指す。クラシック音楽史における同時代はウィーン古典派の時代であり、バロック音楽への反発から生まれた点は共通しているが、ギリシア・ローマ時代の音楽は後世には残らなかったのでズレが生じたわけだ。ブゾーニは20世紀初頭のドイツで、後期ロマン派の限界は古典派回帰で打破すべきだと主張したが、新ウィーン楽派はそれを機能和声の限界だと捉えて、無調表現主義に向かった。第一次世界大戦が始まると、ドビュッシーは敵国の新音楽=無調表現主義への反発から平明な古典音楽への回帰を実践したが、フランスにはウィーン古典派の同時代に適切なモデルはなく、ラモーやクープランのバロック音楽が範になった。ドビュッシーと親交を結んでいたストラヴィンスキーはこの時期はスイスに避難していたが、第一次世界大戦後にパリに戻ると、当時ペルゴレージ作と伝えられていたイタリアのバロック音楽に現代の和声を加えて再構成した《プルチネルラ》(1919-20)を発表し、これが音楽における新古典主義の始まりとされる。ドビュッシー同様にバロック音楽を選んだことで「新古典主義=古典派回帰」という図式も崩れたわけだが、《プルチネルラ》はバレエ・リュスが第一次世界大戦中に始めたイタリア音楽編曲シリーズのひとつでシリーズ内にはロッシーニ原曲もあり、この選択は多分に偶然である。だが、それが規範として定着するくらいインパクトのある作品だった。フランス六人組もこの路線に追随して独墺の後期ロマン派/無調表現主義を仮想敵とする点は継承したが、「単純で深刻ぶらない音楽」全般を規範とする拡大解釈で独自性を主張した。米国からパリを経てヨーロッパ中に広がったジャズは、その象徴になった。
このような一般的な定義を踏まえると、「後期ロマン派的な素材の新古典主義的な取り扱い」という総括は殆ど語義矛盾に見えるかもしれないが、その意味するところは以下でベルク作品を具体的に眺める中で明らかになるだろう。そこでもうひとつの、アドルノに固有の背景に移る。彼はフランクフルト大学社会研究所がナチス支配下で米国コロンビア大学に組織ごと「亡命」していた時期に所長ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』で注目され、戦後に社会研究所がフランクフルト大学に復帰するとホルクハイマーと共同所長を務め、西ドイツで共産主義者扱いされることを恐れて積極的な活動を控えるようになったホルクハイマーに代わって、フランクフルト学派の中心人物になった。音楽に造詣の深い高名な思想家の音楽批評として強い影響力を持ったが、そもそも彼は作曲を志してベルクに師事した経歴も持つ音楽批評の本職で、社会研究所でも長らく音楽文化担当という扱いだった。音楽素材それ自体が自律的に――すなわち弁証法的に――発展する状況を実現するセリー技法は特権的な存在であり、既存の形式を鋳型として利用する新古典主義は反動的で論外だ、という思想的信念を持つ彼にとって、恩師ベルクの音楽を新古典主義と形容することはあり得ない。一見既存の形式を援用している箇所も少なくないが、音楽素材を弁証法的に発展させた結果をそこに導く「極微なる移行の巨匠」なので問題ない、というのが評伝の副題の意味である。
以下ではまず、新ウィーン楽派内でのベルクの位置を眺める。シェーンベルクは弦楽四重奏曲第1番(1904-05) や室内交響曲第1番(1906) で後期ロマン派の対位法の複雑化を進めたが、なかなか無調への最後の一歩が踏み出せなかった。ヴェーベルンとベルクは彼が1904年から自宅で始めた音楽の私塾で頭角を現し、「卒業制作」にあたる作品を1908年に書き上げた。ヴェーベルンの《パッサカリア》op.1は師の歩みに忠実な管弦楽曲だが、ベルクのピアノソナタはその域を超えて「後期ロマン派の本質」の客体化に成功した。冒頭の主題がゆっくり変容してゆく過程の中に、「後期ロマン派を特徴付ける感情の動き」が微分化されて埋め込まれている。音楽を本格的に学んだのはこの私塾がほぼ初めてという伝統との距離感が、その中心で独学で叩き上げた師には血肉化し過ぎて客観視できなかったものの結晶化を可能にした。本来は内から溢れ出るはずの「感情」のようなものを客観的操作の対象にする能力をここでは「新古典主義的な取り扱い」と呼んでいる。一般的な新古典主義では既存の素材や形式に限られていた操作対象を、不定形の感情まで拡大できる作曲家がベルクなのである。むしろ年代的には新古典主義よりも先んじているが、普遍的な音楽の捉え方の話なので歴史的年代とは関係ない。ともあれ、いったん結晶化できれば最後の一歩にもはや困難はない。弟子の達成からヒントを掴んだシェーンベルクは、弦楽四重奏曲第2番(1907-08) 終楽章で無調への第一歩を踏み出すと、《5つの管弦楽曲》やモノオペラ《期待》を含む、1909年の無調表現主義作品ラッシュに突き進む。
師が自分を踏み台にして無調の新作を続々と生み出すのを横目で見ながら、ベルクは弦楽四重奏曲を1910年に書き上げた。今度は20分を超える無調の大作で、元々はピアノソナタ同様ソナタ形式の単一楽章だったが、「極微なる移行」の手腕がさらに洗練され、展開部を省いても音楽として十分成り立つ密度になったので、展開部を第2楽章として独立させた。ピアノソナタを単一楽章にするか書き足すかを延々と悩んでいるうちに師に先を越されてしまったトラウマを、変則的な形で乗り越えたのだろう。だが筆の速い師はこの方向性でも書き尽くして、次の道を模索していた。ヴェーベルンが《ヴァイオリンとピアノのための4つの小品》op.7(1910)で極小様式に踏み込むと、師は早速この路線を取り入れて《6つのピアノ小品》(1911)を書いた。無調表現主義ラッシュの作品群にはまだ調性感が残っており、それをいかに消すかを師は模索していたので、さらに濃密に調性感が残るこの弦楽四重奏曲への評価は芳しいものではなかった。だがベルクはそもそも調性感を消すつもりはなかった。無調の浮遊感と調性のドライヴ感はどちらも興味深く、いかにブレンドして音楽を豊かにするかが焦点だった。《アルテンベルク歌曲集》(1911-12)、《3つの管弦楽曲》(1914-15)と同様の方向性を管弦楽で追求し、師の反応は相変わらず芳しくなかったが、1914年にビュヒナー『ヴォイツェック(Woyzeck)』の舞台に接し、彼の運命は大きく変わる。
この演劇をオペラ化するには自分の音楽が最適だと確信したベルクは、自ら台本を書いて早速作曲を始めた。《ヴォツェック(Wozzeck)》というタイトルになったのは単なる誤記らしいが、気付いても修正しなかったのでその方が好みだったようだ。上演のあてもなくグランドオペラを書き始める(しかも管弦楽曲の作曲経験は《アルテンベルク歌曲集》のみ、合唱曲の作曲経験もない状態で)のは常軌を逸しているが、書かずにいられなかったのだろう。第一次世界大戦中も出征中以外は作曲を続け、1922年に完成した。今度は協奏曲を書いてみてはどうかという師の助言に従って、ヴァイオリン、ピアノ、13管楽器のための室内協奏曲(1923-25)に取り組む。シェーンベルクは1921年に12音技法を開発し、ベルクも弟子たちへの講義に参加したがこの曲では採用せず、新ウィーン楽派の3人の名前の音名表象を音列的に扱い、J.S.バッハのような数の表象も随所に取り入れた技巧的な書法で特徴付けられる。第2楽章後半が前半を完全に逆行させたものであることはその象徴として広く語られるが、この構造をまず作った上でそれにふさわしい音を前半で選んでいるわけで、「極微なる移行」と大域構造を並行して構想し、両者を擦り合わせるのが彼の作曲だった。グランドオペラという大舞台はこの資質を活かすこの上ない舞台であり、《ヴォツェック》は終生の代表作になるべくしてなった。このような作曲スタイルは、霊感に身を委ねて一気呵成に書き上げる師のようなスタイルよりもはるかに時間を要し、寡作は運命付けられていた。室内協奏曲も、当初は師の50歳の誕生日プレゼントとして構想されたが、結局1年余分に要している(40歳の誕生日プレゼントとして構想された《3つの管弦楽曲》と同じパターン)。
指揮者ヘルマン・シェルヘン(1891-1966)は晩年にクセナキスの才能を見出し、名声を得るまでプロモートし続けたことで知られるが、新ウィーン楽派とも深く関わった。ベルクに関しては室内協奏曲の初演の他、《ヴォツェック》のプロモーションのために抜粋編曲を提案し、《ヴォツェックからの3つの断章》を初演している。その甲斐あって、《ヴォツェック》はベルリン国立歌劇場音楽監督エーリッヒ・クライバー(1890-1956)の目に留まり、1925年12月に初演されることになった。E.クライバーは1923年に着任後、《ヴォツェック》の前にヤナーチェク《イェヌーファ》のドイツ初演とクシェネックの最初のオペラの初演を行っており、新レパートリー開拓には積極的だった。137回のリハーサル(ただし話を盛るために分奏も合算した数字で、オーケストラ練習とアンサンブル練習を合わせると50回弱)を経た初演は賛否半ばするスキャンダルになったが、これは実験的な新作としてはこの上ない成功で、程なく独墺の歌劇場で相次いで上演され、数年後には東欧や英米でも初演されて、R.シュトラウスやプッチーニのような同時代のスタンダード・レパートリーに加わった。リハーサル回数の多さは、もっぱらこの作品の難解さ・演奏困難さを伝えるエピソードとされてきたが、ベルリン国立歌劇場よりも演奏技術・新作演奏経験とも下回る場でも数多く上演されてきたからこそスタンダードたり得ているわけで、初演者が作品の重要性を共有し、それにふさわしい舞台に仕上げようとしたことを示すものと捉えるべきだろう。非人間的な社会システムによる人間疎外という現代的なテーマと痴情のもつれの刃傷沙汰という伝統的なテーマを組み合わせ、全3幕の各場面を性格小品集・交響曲・インヴェンション集の1曲ないし1楽章に割り当てた構成も、演奏家にとっても聴衆にとっても敷居を下げている。このように、一見後期ロマン派/表現主義的な題材を客観的に突き放して(すなわち非ロマン主義的に)扱える資質を「新古典主義的」と呼んでいるのであり、「古典的形式を援用しているから新古典主義的」という水準のナイーヴな議論ではない。
《ヴォツェック》が国際的な話題作となり、一過性ではないレパートリーとして定着したことは、ベルクとは全く作風の異なる20世紀を代表するオペラ作曲家たちの反応からも窺える。シェーンベルクの作曲姿勢には懐疑的だったヤナーチェクも《ヴォツェック》は絶賛し、ガーシュウィンは《ポーギーとベス》を作曲する際にこのオペラをモデルにした。こうしてベルクは継続的な印税収入で安定した生活を送れるようになった。すると若き日々の享楽的な生活が戻ってくる。15歳で父を亡くすと17歳の時には女中との間に子供が生まれており、19歳の時に兄が彼をシェーンベルクのもとに連れてきたのは、厳しい教師のもとで生活を立て直させる方が目的だったのかもしれない。1906年にはウィーン国立音楽院に入学したが、早速同い年で声楽を学ぶヘレーネ・ナホフスキを口説いて付き合い始め、1911年には先方の両親の反対を押し切って結婚した。彼女の実家が裕福なのは母が皇帝の愛人で、へレーネと弟は皇帝の庶子だったからで、別れた後も格別の口止め料が支払われていた。寡作で生業を持たなくても生活に困らなかったのは妻の実家の援助のおかげで、私生活ではおとなしくしていたが、収入面での気後れがなくなれば元に戻る。《ヴォツェック》の初演が決まった頃、彼はひとまわり年下の人妻ハンナ・フックスと出会い、深い関係になった。弦楽四重奏のための《抒情組曲》(1925-26)では、室内協奏曲と同様の音名表象をハンナと自分の名前で行っている。この曲の一部の楽章では12音技法が用いられており(タイトルの由来である、ツェムリンスキー《抒情交響曲》(1922-23)の引用を行うために自由な無調と併用)、彼が最初に12音技法を用いた歌曲《私の両眼を閉じてください》(1925)の総音程音列(短2度から長7度までの全音程を含む)が流用されている。全音程を含むということは協和音程も一通り含まれているということで、無調と調性の混淆は音列自体に組み込まれている。室内協奏曲に始まる遊戯的な性格をこの曲も受け継いでおり、ふたつの弦楽四重奏曲を続けて聴くと、ベルクの作風の変化を追体験できるだろう。
ベルクはヴェーデキントのルル連作第二部『パンドラの箱』の舞台のウィーン初演(1905)に接しているが、第一部『地霊』と合わせたオペラ化に至るには《ヴォツェック》や室内協奏曲の経験が必要だった。『地霊』と『パンドラの箱』の間のエピソードを無声映画として挿入し、前半でルルが死に追いやった3人の夫は第3幕で娼婦に落ちぶれたルルの客として再登場し、ルルに射殺されたシェーン博士は切り裂きジャックとしてルルを刺殺する、鏡像形の台本を自ら書き上げて作曲を始めた。基本的に12音技法に基づいているが、基本音列から主要登場人物の音列を派生させてライトモティーフ的に用いる、室内協奏曲の音名表象の扱いに通じる独自の書法である。第2幕中央の無声映画の場面の前後で音楽が逆行する構成も室内協奏曲第2楽章を踏襲している。他方、随所で《ヴォツェック》の自己引用も行っており、この2作を核にして創作歴の集大成を図った作品とみなせる。《ヴォツェック》の名声の絶頂で作曲を始めたが、作曲終盤にナチスがドイツの政権を掌握し、初演の見通しは立たなくなった。1934年にはプロモーションのために《ルル組曲》をまとめたが、ヒンデミット事件でフルトヴェングラーがベルリンフィル常任指揮者を解任された直後の同年11月末にE.クライバーは組曲の初演を強行し、その4日後にベルリン国立歌劇場音楽監督を辞してドイツを去った。政権も両輪を欠いた状態ではベルリンの音楽界は保たないと判断し、フルトヴェングラーの解任を取り消している。ベルクはE.クライバーの《ヴォツェック》解釈を別格視していたというが、その強い思いを伝える逸話である。
1935年2月、彼は米国のヴァイオリン奏者ルイス・クラスナーから協奏曲の委嘱を受け、しばらくは《ルル》の作曲を優先していたが、同年4月にアルマ・マーラーとバウハウスを創立した建築家ヴァルター・グロピウスの娘マノン(アルマの浮気が原因でふたりは1920年に離婚)が18歳で亡くなると、追悼曲として完成を急いだ(独墺圏で演奏が禁止されて家計は急速に悪化しており、これで委嘱料を優先する気持ちの整理がついた)。ベルク夫妻には子供がなく、マノンを娘のように可愛がっていた。ヴァイオリン協奏曲の基礎音列はきわめて調性的で、最初の9音は短三和音と長三和音の交替、最後の4音は全音音階を構成する。最初の4和音の根音はヴァイオリンの開放弦に相当し、曲もそこから始まる。第1楽章はマノンの肖像、第2楽章は闘病と死による浄化というプログラム音楽として進行し、基礎音列最後の4音で始まるコラール〈もう十分です〉が現れるJ.S.バッハのカンタータ第60番の該当箇所を安らかな死の象徴として引用している。この基本構造を決めた後は直線的に書き進め、同年8月に完成した。彼の作品を特徴付ける、細部と全体を往復する中から生まれる複雑な構造は持たないが、むしろそのおかげで随一の人気曲になった。彼は《ルル》の作曲を再開したが、ヴァイオリン協奏曲作曲中から体調は思わしくなく、同年11月には背中の虫刺されに由来するできものが悪化し、翌月には敗血症で世を去った。《ルル組曲》は同年12月にウィーンでオーストリア初演されており、死の直前のベルクも臨席している。《ルル》は第2幕まで完成し、第3幕は冒頭268小節の後はショートスコアとして、組曲に現れる間奏曲と第2場終結部を完成見本とする形で残された。シェーンベルクが補筆依頼を断った後はへレーネ未亡人は補筆を禁じ、第2幕までと組曲の第3幕相当部分を組み合わせた上演が定着していたが、出版元のウニヴェルザール社は秘密裏に作業を進めてオーストリアの作曲家ツェルハが1963年から補筆を始め、1976年に未亡人が亡くなると補筆作業の進捗を公表し、1979年に全3幕版がブーレーズの指揮で初演された。
ベルクの音楽を「新古典主義的」と表現するのが適切かどうかは自明ではない。少なくとも彼の音楽は、ストラヴィンスキーともフランス六人組とも、ヒンデミットやオルフとも明確に異質である。だがそれは、後期ロマン派的な素材という厄介なものを対象にした結果だろう。ストラヴィンスキーがチャイコフスキーを素材にした作品は軒並み悲惨で、歴史的な「新古典主義」にとってロマン派は鬼門である。ベルクの成功は、無調という方向性や12音技法という手段を活用できたことに多くを依っている。そもそも新古典主義は、対象とする素材をより広いパレットの中に置いて異化することが基本である。バロック音楽や古典派が素材ならばロマン派以降の拡張された和声や複調程度で足りるが、後期ロマン派を素材にする場合は、無調までパレットを広げる必要があった。無調は調性を否定するものではなく、12音技法は調性を消すための手段でもない。無調は調性を一部分として含む拡張された概念であり、セリー技法は素材を組織化する一手法であって無調とは関係がない(12音技法はオクターブ内の12音を均等に扱うことが前提なので、平均律ベースの無調と無関係ではないが)。ベルクが調性的な素材に向き合う姿勢はそのようなことを教えてくれる。むしろ彼の音楽を「新古典主義的」と捉えてその概念を拡張すると、その先には豊かな未来が広がっている。彼にならって対象を後期ロマン派に限る必要はなく、対象はいくらでも広げられるのだから。ただしその対象の「外の世界」も知っている必要はあるが。このような新古典主義的アプローチの限界も既に知られており、異化が異化として機能しなくなった時が終わりだということだが、ベルクの場合はそこに組織化の装置も取り込んでおり、さらに先まで行けるはずだ。