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12/3(金)ブラームス後期全ピアノ曲+三宅榛名新作初演 (2021/11/26 update)_c0050810_19264726.jpg

大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
チラシpdf 


【第3回公演】2021年12月3日(金)19時開演(18時30分開場)〈ブラームス後期全ピアノ曲〉
使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」


■J.ブラームス:《7つの幻想曲 Op.116》(1892) 25分
  I. 奇想曲 - II. 間奏曲 - III. 奇想曲 - IV. 間奏曲 - V. 間奏曲 - VI. 間奏曲 - VII. 奇想曲

●三宅榛名:《捨て子エレジー》(1974)  7分

■ブラームス:《3つの間奏曲 Op.117》(1892)  16分

  (休憩 10分)

■ブラームス:《6つの小品 Op.118》(1893)  22分
  I. 間奏曲 - II. 間奏曲 - III. バラード - IV. 間奏曲 - V. ロマンス - VI. 間奏曲

●三宅榛名:《Come back to music 異聞》(2021、委嘱初演) 5分

■ブラームス:《4つの小品 Op.119》(1893)  14分
  I. 間奏曲 - II. 間奏曲 - III. 間奏曲 - IV. 狂詩曲



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三宅榛名:《捨て子エレジー》(1974)
  ピアノ弾き語り。現代音楽の語法と、演歌とが、互に相対物として存在している。演歌は現代音楽の中でパロディーであり、現代音楽もまた、その逆である。(三宅榛名)

  昔 桃太郎 今捨子
  流れ流れて 三途の川を
  渡りゃうらめし 親子石

  ピンクの産衣は 女の子
  白い産衣は 男の子
  お宮まいりの親子連れ
  見るも うらめし 親子石

  わびし三途の 川岸で
  一人積む石 親のため
  けむるメザシの かほりさえ
  嬉し恨めし 親子石


三宅榛名:《Come back to music 異聞》(2021)
  音のひびきが、次の音をつむぎ出し、その危ういひびきから繰り出される音楽が、次第に姿をあらわす。曲は、ただよいつつ揺れ動くテンポや微妙な音色の多様性が込められているため、演奏者には自発的なアプローチがより求められる。(三宅榛名)


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三宅榛名 Haruna Miyake, composer
  作曲家・ピアニスト。ジュリアード音楽院作曲科卒。リンカーン・センター<新ホール>こけら落しに作品を委嘱される。オーケストラから邦楽器におよぶ作品を書き、ピアニストとしてはクラシックから即興演奏に至る広分野で活動を続ける。作品に<弦楽オーケストラの詩曲>(ベンジャミン賞)、<滅びた世界から>(国立劇場委嘱)など。CDに<空気の音楽>(コジマ録音)など。



 
ブラームス:《クラリネット五重奏曲 Op.115》(1891/1904)[P.クレンゲルによるピアノ独奏版]


〇三宅榛名:《鉄道唱歌ビッグ変奏曲 大人用》(1981) https://youtu.be/dIHImi4yXZA
〇三宅榛名:《鳥の影》(1984)  https://www.youtube.com/watch?v=wEKrnq1sC7w
〇三宅榛名:《イェスタディ》(1990)  https://www.youtube.com/watch?v=3pab6MfFwas
〇三宅榛名:《御業を待ち望む》(2001)  https://www.youtube.com/watch?v=9YQJJFafEqs



ブラームスの場合――本郷健一

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  1908年にパリから日本へ帰国した永井荷風は、ヨーロッパの音楽事情を精力的にレポートした。中心はパリで見たオペラだった。ベルリオーズ、グノー、ドビュッシーと並べられたフランスの作曲家たちの中に、ドイツのワーグナーの名が頻りに登場するのが目につく。しかるに、反ワーグナーの代表格と見なされていたはずのブラームスは、なぜか、まったく登場しない。荷風の関心がほとんどオペラだったせいなのか。ブラームスにはオペラ作品がひとつもない。
  それならこちらはどうか、と、同時期に活発な評論活動をしていたドビュッシーの文章を覗いてみる。もちろん自国のフランク、サン=サーンス、ダンディらの作品がぞろぞろ登場する。そしてその狭間に、やはりワーグナーについて、少なからぬ言及がある。いっぽう、ブラームスには、こちらも一切触れていない。

  どうやらブラームスは、フランスではほとんど認知されていなかったらしい。すでに没後十年である。独仏の政治的関係も影響していたのだろうか。40年前の普仏戦争以来、二国間には常によそよそしい空気が流れていた。親ビスマルクだったブラームスが独仏交流の埒外にいても、何の不思議もない。しかし、それだけで説明がつくのだろうか。

  普仏戦争敗戦後の1870年代、フランスの国民意識の高揚の中で、象徴派の若い詩人たちが、かつて『タンホイザー』上演でパリに賛否両論の渦を巻き起こしボードレールやマラルメに称揚されたワーグナーを、敵国人であるにもかかわらず自派の巨匠とする。これが同年代の音楽家にも波及した。結果、1920年にパリ音楽院の聴講生だった日本人作曲家、小松耕輔の表現によれば、フランスの大多数の作曲家が、二度音程や半音階的進行、装飾音の組織立てた使用で、音調を霧で被うようになっていた(『現代フランス音楽』昭和25年)。おそらく、このような潮流に乗っていない音楽は、フランス人には用がなかったのだ。

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  音調を霧で被う志向は、フランツ・リストに遡る。かつ、リストは、詩的想念が形式を決定する、と主張もしていた。エドゥアルト・ハンスリックは、1854年に著した『音楽美論』で、このリストに代表されワーグナーが『未来の芸術』で展開した新ドイツ派的な思潮に激しく反発し、音楽作品の美は音楽以外の何物にも関係なく、音の結合に内在している、と主張した。つまり、音楽美に詩的想念など持ち込む余地はない、というわけだ。
  たまたま、ブラームスは1860年、ヨアヒムら友人と共に、新ドイツ派を糾弾する声明文を発表した。曰く、彼らは新奇で前代未聞の理論を打ち立てることに無理して努めていて、音楽の最も奥深い本質に逆らっている、と。
  声明の三年後、ブラームスはハンスリックと初めて交流をもった。以後ハンスリックは、ブラームスの音楽を、音楽そのものによる形式美の典型と喧伝する。ブラームスが反ワーグナーの代表格と見なされるようになったのは、このことによる。
  1892年には、珍しくフランスからブラームスへ「私は、私が反ブラームスだという謂われのない汚名に反駁しました」と書いた手紙がきた。サン=サーンスからだった。フランス古典の形式を復興した、と後に評価された彼は、ちょうど20年前、ブラームスとミュンヘンの同じ会場で『ワルキューレ』他を観ている。その際面識を持ったのかも知れない。


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  ブラームスは、しかし、反ワーグナーなのではなかった
  先の新ドイツ派糾弾声明にも拘らず、ワーグナーへの反感はなかった。1863年には友人タウジヒからワーグナーのウィーンでの演奏会に協力を求められ、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のパート譜作成に従事して心を躍らせている。そのうちタウジヒの仲介で、『タンホイザー』の自筆譜を、所有していた人物から入手さえした。これはのちに求められてワーグナーに返却し、代わりに感謝の金文字自筆献辞入り『ラインの黄金』の初版譜をせしめることになる。
  さらにブラームスは、ハンスリックは寄る年波でワーグナー作品に対する耳もセンスもない、とも言い放っている(1887年。後出の評論家ホイベルガーによる「ブラームスは語る」)。
  ワーグナーの作ったキャラクターの中で、ブラームスのいちばんのお気に入りは、『マイスタージンガー』のベックメッサーだったらしい。ブラームスはワーグナーと交流のあることをハンスリックには内緒にしていた(同)。

  オペラを書きたくなかった訳ではないが、ブラームス作品は結局カンタータ『リナルド』(1868年、作品50)だけがドラマ的で、これは男声独唱男声合唱ゆえに聴き映えがせず、こんにち殆んど忘れられている。主戦場は、「器楽ができないことについては音楽ができるとは断じていえない」(『美論』)とハンスリックが言っていたその器楽、加えて歌曲や合唱曲だった。
  創作方針は、唯一の作曲の弟子グスタフ・イェンナーへの教え、歌曲作曲のアドバイスを乞うたイギリスの歌手ジョージ・ヘンシェルへの示唆、いずれも同じで、旋律よりも低音が大事とし、ある程度出来上がったらしばらく放置する、だった。
  しかし、思いつき自体は旋律からだったようだ。晩年の『四つの厳粛な歌』の出来立て草稿を目の当たりにしたホイベルガーは、それが旋律から書かれ、他は後からたくさん手直しされているのを見てとった。掘り下げ型の作曲手法をとっていたブラームスには、旋律を楽劇に仕立てる方向性が持てなかったのだろう。

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  まずは旋律から、の作曲手順だったかと推測されるにもかかわらず、ブラームスの旋律は許容されにくかった。
  ほぼ毎年イギリスへ演奏旅行をしたクララ・シューマン、無二の友人ヨアヒムの盛んな紹介のお陰で、自身は渡ることがなかったにもかかわらず、ブラームスの音楽はドーバー海峡を越えた名声を得た。が、一方で酷評も免れなかった。
  バーナード・ショーは、こう書いた。「ブラームスは本質的に陳腐な主題を用い、それをかなり精巧にこじつけたハーモニーで飾ることによって一風変わった雰囲気を醸し出させている」(1890年)。ブラームスの作曲法の急所を突いた評言かも知れない。
  チャイコフスキーなどは、ブラームスの音楽を「混乱していて全くくだらない」(1886年の日記)と貶めた。このころブラームスへの弟子入りに迷っていたイェンナーは、しかし、翌年ハンブルクへ自作演奏会準備のために訪問したチャイコフスキーに紹介されて作品を見せに行き、その口数の多さと話す内容の曖昧さに戸惑い、同時にブラームスの思慮深さの魅力を認識し直した。

  作曲の師としてのブラームスは、容赦がなかった。イェンナーは「これからも褒められることはない」と宣言され、安易なアイディアや和声、対位法の不備を徹底的に突かれて、しばしば涙にくれた。
  これは、セザール・フランクが弟子の拙い作品にも「私はこういうの好きだよ」と誉めた逸話と正反対である。フランクが弟子からデュパルク、ショーソン、ダンディら多くの有名作曲家を輩出したのと、ブラームスの周囲にはそれがなかったこととの差は、弟子への接し方の違いから生まれたものだったのだろうか。

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  ブラームスにはイェンナー以外に直弟子はいなかった。
  ピアノ演奏ならば、クララ・シューマンの弟子を預かって教えることがあった。1871年に面倒を見たフローレンス・メイへの教授の様子は、メイ自身の書き残したものから少し分かる。それによると、ブラームスはメイの指の動きの悪いところを根気よく指摘し、自分の手の動きを見せて是正させた。すると、それまで固く出っ張っていたメイの指関節が、たった二週間で滑らかになり、出っ張りが消えた。これには、付き添っていた彼女の父も仰天した。曲はメイが弾けなければ「難しいから仕方ない、そのうちなんとかなる」として突き放さず、仕上がってくれば「それでよし」の他は余計なコメントをせずに次へと進ませた。
  ブラームス自身の演奏については、やはりクララの弟子で、それを間近に見たファニー・デイヴィスが、「書き表すことは作品を作っていく過程を論じるようなもの」で難しいと言いつつ、彼が「内声部のハーモニーを聴かせようとし」・「低音部をがっちり強調」していたと伝えている(1929年記)。

  厳しい細やかさの反動か、ふだんは「短く細切れにしゃべる」(イェンナー談)ブラームスが、パーティーでは甲高い声でジョークを放つことが多かった、と、何人もが報告している。声が高いのはコンプレックスだったようで、若い頃には、矯正のため、と、わざとガラガラ声で喋って耳障りだった、と、親友だったディートリッヒは述べている(『ヨハネス・ブラームスの思い出』)。
  そんなブラームスのセンスも、うまく活きるときがある。1889年、イェンナーと面会した二年後再び、第5交響曲初演への立ち会いでハンブルクに来たチャイコフスキーは、ブラームスと同宿になり、自作をブラームスと並んで聴く羽目に陥った。事後、「終楽章以外は気に入った」というブラームスに連れ出され、二人でしこたま飲み食いした。こちらもキンキン声だったチャイコフスキー、「実は私も終楽章だけは気に入らないので」と、すっかりブラームスと話が合ってしまった。周りは二人のキンキン声にさぞ迷惑を被っただろう。

  こんなエピソードで拙稿を締め括ろう。1876年7月、ブラームスは行動を共にしていたヘンシェルを誘って湿地帯を歩き、寂しい池にたどり着くと、ウシガエルの声に長いこと聴き入った。ウシガエルの低い声は、どうやらCesを根音とする減三和音で響いていたらしい。ブラームスは、つぶやいた。「この何とも言えない音楽よりも悲しくてメランコリックなものなんか、あると思うかい?」

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(1892)
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Dabei bemerkte Brahms, daß er von Saint-Saens einen Brief bekommen habe, worin dieser den Gerüchten, daß er Brahms nicht schätze, deutlich entgegentrat. „Ich erinnere mich doch eines vor Jahren in den Blättern veröffentlichten Ausspruches von Saint-Saens, daß er stets bereit sei, für Wagner gegen Brahms Stellung zu nehmen. Sie erinnern sich doch auch daran?" befragte mich Brahms. Er sagte ferner, daß er Saint-Saens höflich antworten werde, ohne das jedoch zu übersehen.

最近サンサーンスから「アンチ・ブラームスという、いわれのない汚名に反駁しました」という手紙を受け取ったそうだ。「サン=サーンスは数年前に、自分はワーグナー派で、反ブラームスだということを公にしていたはずだが君も覚えているだろう」。サン=サーンスには、そのことをちゃんと書きそえ、丁重に返事するそうだ。

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4. November. Abends mit Brahms im „Igel", wo wir über jüdische Originalgesänge sprachen. Jemand fragte Brahms: „Was halten Sie von Saint-Saens, Herr Doktor?" „O, sehr viel", war die Antwort. Wir alle, die Brahms besser kennen, mußten herzlich lachen über diese Naivität, Brahms so geradezu zu fragen.

夕方ブラームスと『はりねずみ』で、ユダヤ古謡について話していた。すると誰かが『先生、サン=サーンスのどの辺を評価なさいますか』とブラームスに話しかけた。『そりゃ、いっぱいありますよ』 ”こんなずけずけと質問して”と、ブラームスをよく知るわれわれは、その軽率さを笑ったものだ。


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(1905)
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11. 12. 05. Gestern nach dem Konzerte Max Regers mit ihm und einer Anzahl Herren und Damen bei Klomser zu abend ... — Brahms redete nie von seinen Sachen (oder doch nur höchst selten) — Reger spricht immer von seinen Sachen.



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In the afternoon we resolved to go on an expedition to find 'his' bullfrog pond, of which he had spoken to me for some days. His sense of locality not being very great, we walked on and on across long stretches of waste moorland. Often we heard the weird call of bullfrogs in the distance, but he would say: "No, that's not 'my' pond yet, " and on we walked. At last we found it, a tiny little pool in the midst of a wide plain grown with heather. We had not met a human being the whole way, and this solitary spot seemed out of the world altogether.
"Can you imagine, " Brahms began, "anything more sad and melancholy than this music, the undefinable sounds of which for ever and ever move within the pitiable compass of a diminished third?
"Here we can realize how fairy tales of enchanted princes and princesses have originated .... Listen! There he is again, the poor King's-son with his yearning, mournful C flat!"

  午後は、ここ数日聞かされていた「ブラームスのウシガエル池」探検に決まった。ブラームスの方向感覚はお世辞にも良いとはいえず、われわれはどこまでも続く湿地帯を横切り、延々と歩かされた。時折遠くから、へんてこなウシガエルの鳴き声が聞こえると、ブラームスは「ありゃ”僕の”池じゃないな」――さらに歩き続ける。そしてついに、ヒースの茂る広い平原の真ん中にある小さな水たまりを発見。ここに至る道中、人類に遭遇しておらず、この寂しい場所は世界から孤立しているように見えた。

  語り始めるブラームス。「哀れを誘う減三和音の音域の中で永遠にうごめく、このいわく言い難い音楽よりも、悲しくメランコリックなものがあると思うかい?」「魔法をかけられし王子と王女のおとぎ話、かくして誕生――哀れ、王の子は胸を焦がし、悲しみに暮れる。ほらまた――ド♭(ツェス)――どう、聞こえるだろう?」


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Die Erklärung gegen die Neudeutschen (1860)

"Die Unterzeichneten haben längst mit Bedauern das Treiben einer gewissen Partei verfolgt, deren Organ die Brendelsche Zeitschrift für Musik ist.
Die genannte Zeitschrift verbreitet fortwährend die Meinung, es stimmten im Grunde die ernster strebenden Musiker mit der von ihr vertretenen Richtung überein, erkennten in den Kompositionen der Führer eben dieser Richtung Werke von künstlerischem Wert, und es wäre überhaupt, namentlich in Norddeutschland, der Streit für und wider die sogenannte Zukunftsmusik, und zwar zu Gunsten derselben, ausgefochten.
Gegen eine solche Entstellung der Tatsachen zu protestieren halten die Unterzeichneten für ihre Pflicht und erklären wenigstens ihrerseits, daß sie die Grundsätze, welche die Brendelsche Zeitschrift ausspricht, nicht anerkennen, und daß sie die Produkte der Führer und Schüler der sogenannten ›Neudeutschen‹ Schule, welche teils jene Grundsätze praktisch zur Anwendung bringen und teils zur Aufstellung immer neuer, unerhörter Theorien zwingen, als dem innersten Wesen der Musik zuwider, nur beklagen oder verdammen können."

Johannes Brahms, Otto Grimm, Bernhard Scholz, Joseph Joachim


 次に署名する者たちは、ブレンデルの主筆をつとめる音楽雑誌をその機関誌とするある党派の活動を、かねがね遺憾の念をもって見守ってきた。上記の雑誌は、真摯につとめている音楽家たちはけっきょくはこの雑誌の主張する方向と意見をひとつにし、この方向の指導者たちの作品の中に芸術的な価値のある作品を認識し、あまねく、とくに北ドイツにおいていわゆる未来音楽の賛否をめぐる論争が、しかもこの未来音楽に利するかたちで戦わされるであろうという見解をたえず広めている
 こうした事実をゆがめた見解にたいして抗議するのは、署名者たちの義務と考え、少なくとも署名者の側としては、そのブレンデルの雑誌の述べている原則を認めない。しかも「新ドイツ派」の指導者たちや生徒たちの作品は、一部は件の原則を実際に応用したり、また一部はたえず新奇で前代未聞の理論を打ち立てることに無理してつとめており、彼らの作品は音楽のもっとも奥深い本質に逆らうものとして、非難もしくは批判されてしかるべきであると認識する。

 ヨハネス・ブラームス/ヨーゼフ・ヨアヒム/ユーリウス・グリム/ベルンハルト・ショルツ


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Gustav Jenner "Johannes Brahms als Mensch, Lehrer und Künstler" (1903)

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Brahms' Art zu sprechen hatte etwas kurzes, abgerissenes. Es war nicht seine Sache, sich breit und behaglich über eine Sache auszulassen. Im Gegensatz zu sogenannt beredten Leuten, die im Sprechen eine Freude an ihren eigenen Worten zu erkennen geben, hatte man bei ihm den Eindruck, dass er nur ungern spreche und nur das allernotwendigste. Seine Sätze stellte er präcise und scharf hin und traf hier jedesmal den nagel auf den Kopf: aber er verschwieg weit mehr, ja oft die Hauptsache, ohne die seine Worte gar nicht rightig verstanden werden konnten. Alles das steigerte sich, wenn er in die lage kam, von sich sebst sprechen zu müssen. Jeder, der Brahms näher gestanden hat, weiss, wie kurz wegwerfend, fast verletzend er von seinen eigenen Werken sprechen konnte: gerade auf diesem Gebiet war es schwerer als sonst, ihn richtig zu verstehen. Er war sich des Wertes seiner Werke durchaus bewusst, aber seine männlich-keische Natur machte es ihm unendlich schwer, von sich zu sprechen. Oft versuchte er, sich mit einem Witz zu helfen, der unmoglich immer richtig aufgefasst werden konnte, woraus sich dann wieder leicht eine unbehagliche Stimmung entwickelte. Meistens war er, wenn er im Ernste von sich sprach, in einer Art von Verlegenheit, zu der sich auch wohl ein Zorn gesellte, wenn jemand, dem er eine Berechtigung hierzu nicht einräumte, ihn drängte.

ブラームスは短く細切れにしゃべる。ひとつの話題を楽しく広げてゆくのはブラームス流ではない。雄弁な人は自分の言葉に酔うことがあるけれど、彼は正反対で、必要となったとき仕方なく口を開くといった印象だった。彼の言葉は鋭く正確でつねに核心を衝いていた。しかし肝心なことをぼかしてしまい、何を言っているのか見当がつかないことも多かった。とりわけ自分自身について語るはめになると、わかりにくさは極まった。ブラームスが自分の作品について話すとき、ぶっきらぼうに不機嫌になるのは有名で、話の真意を正しく理解するのは、まず不可能だった。巨匠が己の作品の価値を理解していたのは当然である。しかし男気のある純真な気質のため、それを他人にわからせることが億劫だったのだ。そんな事態におちいると、冗談で切りぬけようとする。ところが、そんなものがうまく伝わるなど土台無理な話で、さらに気まずくなってしまう。真剣に何かを話そうとするとなんだか戸惑った様子になり、周りが無理強いしようものなら、それが怒りの表情に変わるのであった。







# by ooi_piano | 2021-11-13 03:39 | Rosewood2021 | Comments(0)
ロマン派ピアノ音楽の摂動(全5回) ~1887年製スタインウェイ《ローズウッド》とともに
大井浩明(ピアノ独奏)
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ロマン派ピアノ音楽の摂動(全5回) ~1887年製スタインウェイ《ローズウッド》とともに (2021/11/13 Update)_c0050810_07464075.png
(C)林喜代種(桒形亜樹子)


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●三宅榛名:《捨て子エレジー》(1973)、《Come back to music 異聞》(2021)
●J.ブラームス(1833-1897):《7つの幻想曲 Op.116》(1892)、《3つの間奏曲 Op.117》(1892)、《6つの小品 Op.118》(1893)、《4つの小品 Op.119》(1893)




ロマン派ピアノ音楽の摂動(全5回) ~1887年製スタインウェイ《ローズウッド》とともに (2021/11/13 Update)_c0050810_23335405.jpg
【第4回】 2022年1月14日(金)19時開演(18時30分開場) 〈フォーレ後期全ピアノ曲〉
●桒形亜樹子:《輝石》(2021、委嘱初演)
●G.フォーレ(1845-1924):《舟歌第8番 Op.96》(1908)、《夜想曲第9番 Op.97》(1908)、《夜想曲第10番 Op.99》(1908)、《舟歌第9番 Op.101》(1908/09)、《即興曲第5番 Op.102》(1909)、《9つの前奏曲集 Op.103》(1909/10)、歌劇《ペネロペ》第2幕前奏曲(1912) [作曲者編独奏版]、《夜想曲第11番 Op.104-1》(1913)、《舟歌第10番Op.104-2》(1913)、《舟歌第11番 Op.105》(1914)、《舟歌第12番 Op.106b》(1915)、《夜想曲第12番 Op.107》(1915)、《天守夫人(塔の奥方) Op.110》(1918)、《舟歌第13番 Op.116》(1921)、《夜想曲第13番 Op.119》(1921)



【第5回】 2022年3月24日(木)19時開演(18時30分開場) 〈レーガー主要ピアノ作品〉
●林加奈:《そっかー》(2022、委嘱初演)
●F.リスト(1811-1886): 《B-A-C-Hの主題による幻想曲とフーガ S.529》(1871)
●M.レーガー(1873-1916):《B-A-C-Hの主題による幻想曲とフーガ Op.46》(1900/10) [A.シュトラダル編]、《バッハの主題による変奏曲とフーガ Op.81》(1904)、《テレマンの主題による変奏曲とフーガ Op.134》(1914)
 (※)日程が変更になりました


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●落晃子: 《八犬伝》(2021、委嘱初演)
●R.ワーグナー(1813-1883)
●R.ワーグナー(1813-1883):『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲(1867) [H.v.ビューロー編(1868)]、『タンホイザー』序曲(1845) [F.リスト編(1849)]、『ローエングリン』より「第3幕への前奏曲と結婚行進曲」(1848) [F.リスト編(1854)]、『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」(1859) [E.シェリング編(1932)/F.リスト編(1868)]
●R.ワーグナー/L.マゼール:《言葉のない指環》(1848-74/1987/2021) [米沢典剛編/世界初演]
  楽劇『ニーベルングの指環/ラインの黄金』(1854)より 〈斯てラインの「緑色の黄昏」が始まる〉〈ヴァルハラ城への神々の入城〉〈地底の国ニーベルハイムの侏儒〉〈槌を打つ雷神ドンナー〉、『ワルキューレ』(1856)より 〈我らはジークムントの愛の眼差しを見る〉〈二人の逃走(第2幕前奏曲)〉〈ヴォータンの憤激〉〈ワルキューレの騎行〉〈ヴォータンの告別〉、『ジークフリート』(1871)より 〈ミーメの恐れ〉〈魔法の剣を鍛えるジークフリート〉〈森のささやき〉〈ドラゴン退治〉〈ファーフナーの嘆きの歌〉、『神々の黄昏』(1874)より 〈ジークフリートとブリュンヒルデを包む朝焼け〉〈ジークフリートのラインへの旅〉〈ハーゲンの呼びかけ〉〈ジークフリートとラインの娘たち〉〈ジークフリートの死と葬送行進曲〉〈ブリュンヒルデの自己犠牲 - 神々の滅亡〉
 
 (※)ワーグナー関連 演奏動画プレイリスト ジークフリート牧歌(G.グールド編独奏版)、ヴェーゼンドンク歌曲集(シュトラダル編独奏版)、パルジファル前奏曲、ローエングリン前奏曲、フォーレ「バイロイトの思い出」、G.ペッソン「水夫の歌」、米沢典剛「デビルマンの黄昏」他



●塩見允枝子: 《素描 A-214 / R-215 / P-216 (Dessin for a Moment Unknown)》(2021、委嘱初演)
●C.フランク(1822-1890) :《前奏曲、フーガと変奏曲 Op.18》(1862/1910) [H.バウアー編]、《前奏曲、コラールとフーガ》(1884)、《前奏曲、アリアと終曲》(1887)、《弦楽四重奏曲(全4楽章)》(1890/2018) [米沢典剛編/世界初演]



# by ooi_piano | 2021-11-13 03:34 | Rosewood2021 | Comments(0)


大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
チラシpdf 


【第2回公演】2021年11月11日(木)19時開演(18時30分開場)〈セザール・フランク ピアノ主要作品〉
使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」


11/11(木)C.フランク主要ピアノ作品+塩見允枝子新作初演  (2021/11/10 update)_c0050810_18544842.png
●塩見允枝子(1938- ): 《素描:A-214》(2021、委嘱初演) 4分

■セザール・フランク(1822-1890) :《前奏曲、フーガと変奏曲 Op.18》(1862/1910) [H.バウアー編] 10分

●塩見允枝子: 《素描:R-215》(2021、委嘱初演) 4分

■フランク:《前奏曲、コラールとフーガ》(1884) 17分

●塩見允枝子: 《素描:P-216》(2021、委嘱初演) 5分

■フランク:《前奏曲、アリアと終曲》(1887)  21分

  (休憩)

■フランク:《弦楽四重奏曲(全4楽章)》(1890/2018) [米沢典剛編ピアノ独奏版、世界初演]  40分
  I. Poco lento / Allegro - II. Scherzo, Vivace - III. Larghetto - IV. Final, Allegro molto




フランク:《交響的変奏曲》(1885/1932) [G.サマズイユによるピアノ独奏版]


塩見允枝子:《素描 A-214 / R-215 / P-216 (Dessin for a Moment Unknown)》(2021)
  楽譜とは、未来の或る特定の時に、演奏家が鳴り響く音として具体化するためのデッサン(構図)であるという意味で「素描」をタイトルとした。
  このシリーズでは、各作品が互いに関係の無い短いことばを含んでいるが、それらは曲のイメージから派生した光景であったり、曲の構造と原理を共にする出来事であったり、発想の源であったりする。
  演奏にあたってピアニストはそれらを呟いたり、はっきりと発音したり、無視したりというように、多様な対応をするよう指示されているが、その通りに行わなくても構わない。
 タイトル番号のA、R、Pなどは、それらの文中の主要な英単語の頭文字であり、数字、例えば214は2021年4月に完成したという意味である。(塩見允枝子)


塩見允枝子 Mieko SHIOMI, composer
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  1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成。即興演奏やテープ音楽の制作を試みる。グループ・インプロヴィゼーションは、次第にアクション・ミュージックやイヴェントへと移行し、それは図らずも世界的な傾向と一致していた。1964年ニューヨークへ渡り、フルクサスの活動に参加。同年10月ワシントン・スクエアー・ギャラリーでイヴェント作品によるソロ・リサイタルを開催。65年、郵便によって地球をステージとした遠隔共同パフォーマンス「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始。75年までに9つのイヴェントを行う。一方、イヴェントを舞台上のパフォーマンスとしても発展させ、インターメディア作品へと至る。70年に結婚して大阪へ移住。以後しばらくは、関西を中心に音と詞による室内楽作品を多数発表。
  90年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことを契機に、フルクサスの仲間たちとの交流が再開し、90年代は欧米の数々のフェスティヴァルやグループ展に参加。95年パリ、98年ケルンで個展。同時に国内では、電子テクノロジーに興味を持ち、藤枝守・佐近田展康氏らの協力の下、神戸ジーベックで「メディア・オペラ」、「フルクサス・メディア・オペラ」などのコンサートを企画・演奏。96年には、<東京の夏>音楽祭「世界の女性作曲家」に推薦され、高橋アキ氏の委嘱による「時の戯れ Part II」を自選作として再演。97年神戸国際現代音楽祭では、ブック・オブジェクトから平面作品やパフォーマンスを経て50分の室内楽として作曲した「日蝕の昼間の偶発的物語#1~#3」を初演。1999年北上市で開催された「日独ヴィジュアル・ポエトリー展」に参加。以後このジャンルの国内外の展覧会に出品。
  2001年5月国立国際美術館で裁判形式による複合パフォーマンス「フルクサス裁判」を構成・共演。同年11月「日本の作曲・21世紀へのあゆみ:前衛の時代1~ジョン・ケージ上陸」で過去のイヴェント作品を舞台音楽に作曲初演。2004年3月ジーベックにピアニスト井上郷子氏を招き、近藤譲氏との二人展「線の音楽・形の音楽」を企画。同年5月フルクサスの友人ベン・パターソンの来日公演をマネージメント・共演。2005年には、自伝的著書「フルクサスとは何か」をフィルムアート社から出版。一方、うらわ美術館でのフルクサス展を初め、大学などでフルクサスのレクチャーやワークショップを行う。2008年豊田市美術館でのグループ展「不協和音」には、音楽的コンセプトを持つ多数のヴィジュアルな作品を展示。
  2009年より再び作曲に戻り、ピアノ曲や、イヴェント性のあるチェロ、ハープのためのソロ作品を作曲。2012年舘野泉氏からの委嘱で書いた「アステリクスの肖像」や献呈曲「架空庭園」全3曲が「舘野泉--左手の音楽祭」で初演される。2013年4~7月国立国際美術館がコレクション展「塩見允枝子とフルクサス」を開催。2014年4月東京都現代美術館で行なわれた「Fluxus in Japan 2014」に参加。同年より京都市立芸術大学芸術資源研究センターの特別招聘研究員として、学内でワークショップや公開授業を行ない、現在に至る。なお、過去の出版物やオブジェクトなどは、ニューヨーク近代美術館を始め、国内外の多数の美術館やアーカイヴに収蔵されている。


【主要音楽作品】
「ファントーム」1978
「鳥の辞典」1979
「もし我々が五角形の記憶装置であったなら」1979
「午後に 又は 夢の構造」1979
「草原に夕陽は沈む」1981
「パラセリー二」1981
「時の戯れ」1984
「グロビュールの詩」1988
「時の戯れ Part Ⅱ」1989
「ジョージ・マチューナスへの鎮魂曲」1990
「ピアニストのための方向の音楽」1990
「グランド・ピアノのためのフォーリング・イヴェント」1991
「ピアノの上のビリヤード」1991
「そして夜鶯は翔んだ」1992
「時の思索」1992
「日食の昼間の偶発的物語」1997
「カスケード」1997
「アンコールの伝言」1998
「鏡の回廊」1998
「パラボリック」1998
「月食の夜の偶話 ・第一話」1999
「彩られた影」2002
「架空庭園No.1 – No.3」2009
「チェロのための6つの小品」2010
「ハーピストのための方向の音楽」2010
「アステリスクの肖像」2012
「ソリトン 薄明の大気の中で」2013
「ジュピターの環」2014
「カシオペアからの黙示」2017
「無限の箱から――京都版」2019
シリーズ「素描」2021


【cf.】
〈ポック[POC]第3回公演〉 2010年11月13日(土)
塩見允枝子(1938- ):《シャドウ・ピース》+《バウンダリー・ミュージック》(1963/2010、改訂版初演)
同:《午後に又は夢の構造~ピアノと朗読のための》(1979)
同:《フラクタル・フリーク》(1997/2002、全曲通奏による東京初演) [I. カスケード - II. 鏡の回廊 - III. パラボリック - IV. 彩どられた影]
【感想ツイート集】 https://togetter.com/li/69064


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■Art Week Tokyo Online Talk https://www.artweektokyo.com/
「時間と空間を越えて:塩見允枝子の世界」(2021年)
Interview - Beyong Time and Space : Inside the World of Mieko Shiomi
橋本梓(国立国際美術館 主任研究員)によるインタビュー https://www.youtube.com/watch?v=hj9kD5LJuBc

■塩見允枝子《フルクサスとは何か? - 日常とアートを結びつけた人々》(フィルムアート社、255頁、2005年)
■塩見允枝子《パフォーマンス作品集 フルクサスをめぐる50余年》(2017年、60頁)

■塩見允枝子エッセイ「フルクサスの回想」(2020年)
 第1回 マチューナスとマルチプル http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53437534.html
 第2回 閉ざされた楽園からスペイシャル・ポエムへ http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442084.html
 第3回 北イタリーのコレクター達 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442085.html
 第4回 90年代はフルクサス・ルネッサンス  http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442183.html
 第5回 日本でのプロジェクト http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442184.html
 第6回(最終回) フルクサスの美学と手法 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442185.html

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A FLUXATLAS (フルックスアトラス)(1992年)

ギャラリー「ときの忘れもの」取り扱い作品(写真付き) http://www.tokinowasuremono.com/artist-e47-shiomi/

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●京都市立芸術大学 芸術資源研究センター 塩見允枝子オーラル・ヒストリー (柿沼敏江、竹内直によるインタビュー、2014年) http://www.kcua.ac.jp/arc/ar/shiomi_jp_1/

●後藤美波によるインタビュー映像(2019年) https://creators.yahoo.co.jp/gotominami/0200058884
ジェンダー差別「考えたことがない」―― 世界的”女性アーティスト”が背負ってきたもの

●ルイジ・ボノット財団(イタリア)のコレクション (73点)
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フランクのことが羨ましいサン=サーンス――中西充弥

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  筆者はカミーユ・サン=サーンス(1835-1921)を専門に研究しているので、論点がどうしてもサン=サーンスから見える世界に偏りがちになりますが、特にサン=サーンスとフランク「派」(フランキスト)との対立が激しかっただけに、サン=サーンスから見たフランク像を提供することで、よりセザール・フランク(1822-1890)の人となりを浮き彫りにできるのではないかと思います。
  サン=サーンスから見たフランクの羨ましい点、それは「親離れができた」こと、「世俗的な成功に固執しなかった」こと、「シンフォニックなオルガン作品というジャンルを構築した」こと、そして何より「ワーグナーの影響を受け、それを支持する多くの熱狂的な弟子を持ち一派を成した」ことなど、様々です。そしてその一つ一つがサン=サーンスとは対照的で、つまりサン=サーンスにないものをフランクが持っていた、ということになります。有り体に書くと「ないものねだり」となりますが、この比較が両者の本質を表しており、フランクの音楽や人生を読み解く上でのヒントとなるでしょう。

  まず、「親離れができた」点、フランクもサン=サーンスもピアノの神童として「売り出された」のですが、フランクの場合は父親、サン=サーンスの場合はピアノの師、カミーユ・スタマティ(1811-1870)によるものでした。フランクの父親はステージ・パパとしてフランクを支配したのに対し、サン=サーンスの母親は拙速な成功には懐疑的で十分な教育を受けさせたいとして結果スタマティと決別しますが、教育方針は違えども束縛する親には違いありませんでした。フランクの場合、恋人となったデムソー嬢との結婚を父親に反対されたものの、1848年に強行することで父親との決別を果たし、自立への一歩を踏み出しました。一方、サン=サーンスの結婚に関しては謎が多く、特に恋仲と噂されたこともない相手と唐突に結婚し、おそらく母親の束縛を逃れるための方便として結婚を利用したと考えられるのですが、一人親を置いておくわけにもいかず、姑と新婚夫婦3人同居の生活となってしまいました。よって当初から上手くいく気配がなく、息子の相次ぐ死という悲劇によって夫婦仲は冷めて別居となり、結局サン=サーンスは親子二人暮らしに戻ってしまうのでした。特にサン=サーンスの場合、父親を生後間もなく失い、母親の庇護という名の束縛が彼女の死までずっと続くことになりますので、サン=サーンスの精神形成に多大な影響を与え、母親の死は作曲家に自由と自立をもたらす代わりに精神的危機を引き起こしました。

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  さて、フランクは父親の反対を押し切りましたが、それは結婚だけではありませんでした。聖書による牧歌《ルツ》の1846年の公開初演の失敗により、公的な活動から身を引き、プライヴェート教師や伴奏者としてキャリアを進めるという、華やかな成功を期待できない生活となります。サン=サーンスの場合もローマ大賞コンクールに失敗し、作曲家としては順風満帆な船出とはなりませんでしたが、それでも彼は自宅で「月曜会」という音楽サロンを開催するなど社交界の付き合いを大事にして人脈作りに励み、当時の作曲家のステータスであった劇場での成功を夢見てオペラ作品の売込みに奔走しました。ただし、フランクは結婚式を挙げたノートルダム・ド・ロレット教会を皮切りにオルガニストとしてのキャリアをスタートさせます。教会オルガニストとしての「勤め」は安定した収入を求めて始められたものではありましたが、そこでアリスティド・カヴァイエ=コル(1811-1899)と彼が製作したオルガンに出会い、1858年より亡くなるまで務めたサント・クロチルド聖堂のオルガニストとしての活動は、フランクの名声を高め、1873年のパリ音楽院(コンセルヴァトワール)のオルガン科教授の任用につながり、彼の作曲活動にも大きな影響を与えました。
  その影響の一つは当然ながら彼のオルガン作品に現れます。《大オルガンのための6つの作品集》の中の第2曲〈交響的大曲〉(1863)がその代表です。オルガンによってシンフォニックな世界を作り出す、ということはフランクの後任としてコンセルヴァトワールのオルガン科教授を引き継いだシャルル=マリー・ヴィドール(1844-1937)のオルガン交響曲の嚆矢とも言えるでしょう。そして、この鍵盤楽器による交響曲のアイディアは1857年に出版されたシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813-1888)の《全ての短調による12の練習曲 op.39》(1857)に含まれる〈ピアノ独奏のための交響曲〉や〈ピアノ独奏のための協奏曲〉に由来していると考えられます。実際、この〈交響曲的大曲〉はアルカンに献呈されており、フランクに対するアルカンの影響の大きさが窺われます。音楽的な部分だけでなく、アルカンの厭世的な生き方も、慎み深いフランクに共鳴するところがあったのでしょう。サン=サーンスもマドレーヌ教会のオルガニストとしてその即興演奏にて名声を轟かせますが、フランスの即興演奏の伝統に軸足を置くあまり、オルガン独奏曲として重厚な構成感のある作品を生み出す発想が出てこなかったのは、サン=サーンスの後任オルガニストとなったガブリエル・フォーレ(1845-1924)がオルガン独奏曲を作曲しなかったことと共通しています。
  このようにオルガンの大家となったフランクのもとには多くの弟子が集まりました。ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)、エルネスト・ショーソン(1855-1899)、アンリ・デュパルク(1848-1933)らなどがその代表で、フランク派(フランキスト)と呼ばれました。先述したように、フランスのオルガン演奏においては即興演奏が重視されるため、作曲理論の素養が必須となり、またフランク自身がそうであったように、教会での勤務が安定収入をもたらすことから、「オルガン科」と言っても作曲家の卵が多くまれます。よってフランクは惜しみなく作曲指導も行い、その慎み深い性格から多くの弟子に慕われ、「ペール(父)・フランク」と呼ばれたのですが、そのカリスマ的な人気にはサン=サーンスも内心嫉妬していたことでしょう。サン=サーンスは対照的に一匹狼を貫き、フォーレなどの弟子を育てたとはいえ、派閥を形成するほどには至りませんでした。それにはサン=サーンス自身の猜疑心や神経質な性格も関係していたでしょう。サン=サーンスはよく皮肉屋で性格が悪かったと伝えられ、多少誇張されている部分もありますが、確かに敵対する勢力に対しては辛辣でした。そしてその敵対する勢力というのが、何を隠そう「フランキスト」だったのです。

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  1871年、普仏戦争における降伏の後に「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」を標榜してサン=サーンスが発起人となり、フランクも賛同して「国民音楽協会」が創設されます。当然ナショナリズムの高まりとも関係があり、入会資格はフランス国籍保持者で、存命の作曲家の作品の演奏に限定するという、作曲家の互助組織の側面も持ち合わせていました。しかし、1872年から86年まで会長を務めたサン=サーンスが脱退する騒動が起きます。この直接的な原因として知られるのが、ダンディによる演奏会プログラムへの外国作品の導入提案でした。1886年11月26日の総会におけるこの提案の可決によりサン=サーンスが脱退し、フランクを会長に戴く新体制へと移行しました。プログラミングの変化はまさにフランス楽壇の潮流を反映したもので、創設後10年以上経過してフランス人作曲家の新作だけで質の高い演奏会プログラムを組むことが難しくなり、硬直化した国民音楽協会を立て直す結果となります。とはいえ、ダンディの本音としては、ワグネリアンの仲間と共にリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の作品の演奏を意図したものであり、当時ワーグナーから距離を取りつつあったサン=サーンスとの感情的な溝が深まっていたのでした。当然ながら、この一件はサン=サーンスとフランキストとの対立を決定的なものとしてしまいました。しかし、「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」であり、「嫌い」ということは実は「好き」と表裏一体で「気になってしょうがない」ことの表れでもあります。サン=サーンスも結局ワーグナーの呪縛からは逃れられなかったのでした。その点、ワーグナーの影響を素直に認め受け入れられるフランクとその一派が羨ましかったのでしょう。

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  さて、それではサン=サーンスとフランクの両人自身は仲が悪かったのでしょうか、というと、必ずしもそうではないと考えられます。なぜなら、国民音楽協会の演奏会において、サン=サーンスはしばしばフランクの作品の演奏者を務めており、1880年の《ピアノ五重奏曲 へ短調》の初演に参加し、献呈を受けています。ただし、サン=サーンスはこの演奏の終了時、献辞の入った自筆譜をそのままに退出してしまいました。この五重奏曲には当時フランクの弟子となっていたオーギュスタ・オルメス(1847-1903)への思いが込められているというゴシップ的な説もあり、もしそれが本当ならば、かつてオルメスに恋心を抱いていたサン=サーンスは不愉快であったでしょうし、フランクとオルメスに特別な関係が無くとも、オルメスが自分ではなくフランクに師事していること自体面白くなかったのかもしれません。とはいえ、私怨は公門に入らず、フォーレ宛の書簡においてサン=サーンスは率直にフランクのオルガン科教授としての業績を評価しており、フランクが亡くなった際、葬式に参列しないなど手のひらを返したように冷たい態度を取る人がいる中、サン=サーンスは葬列の柩の付添人の四人の内の一人を務めるなど義理堅かったのです。逆にフランクの方も、亡くなる直前、病床の中でサン=サーンスの歌劇《サムソンとダリラ》のパリ初演の様子を門人から聞かされると、非常に関心を示し、うれしそうに「すばらしい!すばらしい!」と言ったと伝えられています。方向性は異なれども、真摯に音楽に向き合う姿勢に対し、互いに敬意を払っていた二人の芸術家の姿がそこにはありました。



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  Chez C. Franck, c’est une dévotion constante à la musique, et c’est à prendre ou à laisser ; nulle puissance au monde ne pouvait lui commander d’interrompre une période qu’il croit juste et nécessaire ; si longue soit-elle, il faut en passer par là. Ceci est bien la marque d’une rêverie désintéressée qui s’interdit tout sanglot dont elle n’aurait pas éprouvé auparavant la véracité.
  En cela C. Franck s’apparente aux grands musiciens pour qui les sons ont un sens exact dans leur acception sonore ; ils en usent en leur précision sans jamais leur demander autre chose que ce qu’ils contiennent. Et c’est toute la différence entre l’art de Wagner, beau et singulier, impur et séduisant, et l’art de Franck qui sert la musique sans presque lui demander de gloire. Ce qu’il emprunte à la vie, il le restitue à l’art avec une modestie qui va jusqu’à l’anonymat. Quand Wagner emprunte à la vie, il la domine, met le pied dessus et la force à crier le nom de Wagner plus haut que les trompettes de la Renommée. — J’aurais voulu mieux fixer l’image de C. Franck afin que chaque lecteur en emportât dans sa mémoire un souvenir précis. Il est juste de songer, parmi de trop pressantes préoccupations, aux grands musiciens et surtout d’y faire songer. (Claude Debussy)

  セザール・フランクにあっては、不断の信仰が音楽に献げられる。そしてすべてをとるか、とらぬかだ。この世のどんな権力も、彼が正当で必要とみた楽節を中断するように命じることはできなかった。いかに長かろうと、耐えなければならない。これこそ、誠実さがあらかじめ感じられない一切のすすり泣きを禁じる、欲得をはなれた夢想の、しるしである。
  この点でC.フランクは、大音楽家たちの同類である。彼らにとっては音というものが、それらの音響的な意義のなかに、ひとつの正確な意味をもつ。彼らは音に、それらが含んでいる以外の何ものもけっして要求しないで、それらをきっちりと用いる。しかもここが、美しく奇矯であり、不純で気をそそるヴァーグナーの芸術と、ほとんど栄光をもとめずに音楽に奉仕するフランクの芸術の、まるで違うところである。フランクは、人生から借りうけるものを、ついには名をすてるまでにいたる謙遜な態度で、芸術にかえす。ヴァーグナーが人生から借りるときは、彼は人生を支配し、踏みしだき力をかけて、ファーマのトランペットよりなお高らかに、ヴァーグナーの名を呼号させる。――私は、諸者がそれぞれはっきりした印象を記憶のなかにくみいれてくださるよう、セザール・フランクの心象(イマージュ)をもっと確固としたものにしたいと、考えたのだった。あまりにも切実な気苦労が数あればこそ、ときには大音楽家たちにおもいを馳せ、とりわけそれをひとにすすめるのは、正当なことである。(クロード・ドビュッシー)


# by ooi_piano | 2021-11-10 06:43 | Rosewood2021 | Comments(0)
ライヴ演奏動画集 (2021/11/26 update)_c0050810_10371721.jpg

【New!】
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■サン=サーンス(L.ゴドフスキー編):《白鳥》(1886/1927)
■サン=サーンス(G.ファウル編):《白鳥》 (1886/2019) [米沢典剛によるピアノ版]
■R.シューマン(サン=サーンス編):《夕べの歌 Op.85-12》
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■桑原ゆう(1984- ):《花のフーガ》(2019)
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■J.S.スミス(ラフマニノフ編):《星条旗》(1918) 
■J.S.スミス(ストラヴィンスキー編):《星条旗》(1941)

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ライヴ演奏動画集 (2021/11/26 update)_c0050810_15303050.jpg
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一般社団法人全日本ピアノ指導者協会[PTNA]のYouTubeアカウント(+α)で公開されている動画一覧 大井浩明(ピアノ/フォルテピアノ/クラヴィコード/オルガン)

【作曲家五十音順】
【あ】
■A.アレクサンドロフ(1883-1946):《ボリシェヴィキ党歌》(1938)
■伊藤謙一郎(1968- ):《アエストゥス》(2018)
■入野義朗(1921-1980):《三つのピアノ曲》(1958)
奥村一(1925-1994):《さくらさくら》(1963)
■落晃子(1969- ):《八犬伝》(2021)
■P.オリヴェロス(1932-2016):《ノルウェーの木》(1989)
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【か】
■姜碩煕(カン・スキ)(1934-2020):《ゲット・バック》(1989)
■喜多郎(1953- ):《絲綢之路》(1980)
■I.クセナキス(1922-2001):《シナファイ》(1969) NJP 1996 Jul. / KSO 1996 Nov.(前半後半)/LPO 2002 Mar.  《エリフソン》(1974)
■桑原ゆう(1984- ):《花のフーガ》(2019)
■剣持秀紀(1967- ):《ピンチェ》(2015)
■J.コズマ(1905-1969):《枯葉》 (1945/1993)[武満徹編]
■L.ゴドフスキー(1870-1938):《天国のアナクレオンへ》(1780/1921)
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【さ】
■坂本龍一(1952- ):《エナジー・フロー》(1999)
■佐村河内守(新垣隆)(1970- ):《ドレンテ》(2011)
■清水卓也(1986- ):《町田のヤンキー》(2011)
■R.シューマン(1810-1856):《夕べの歌 Op.85-12》(サン=サーンス編)
■A.シルヴェストリン(1973- ):《凍れる音楽》(2015、テイク1テイク2)
■鈴木悦久(1975- ): 《クロマティスト》(2004)  《ピアノの練習》(2019)
■棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/18)
■田村文生(1968- ):《きんこんかん》(2011)
■P.チャイコフスキー(1840-1893) (K.クリントヴォルト編): 《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73)
■R.ディットリヒ(1861-1919):《さくら》(1894)
■寺内大輔(1974- ):《地層》(2014)
■冨田勲(1932-2016):《きょうの料理》(1957)
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【な】
■中川真(1951- ):《非在の声》(2020)
■長瀬弘樹(1975-2012):《見えない星》(2007)
■信時潔(1887-1965):《あかがり》(1920)
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【は】
■橋本晋哉(1971- ):《ゆたにたゆたに》(2016)
■S.バーバー(1910-1981) (米沢典剛編):《弦楽四重奏曲第1番第2楽章「アダージョ」》(1936/2017)
■林廣守(1831-1896):《君が代》(1880) ノエル・ペリ(1865-1922)編曲(1905)  A.グラズノフ (1865-1936) [Op.96、米沢典剛編ピアノ版](1915/2019)  河村光陽(直則)(1897-1946):《君が代踊り》(1941)  溝部國光(1908-1996)編(1971)   小弥信一郎(1950- )編(1979)  三宅純(1958- )編(2016)  吉田光貴(1994- )編(2016)  久米由基(1960- )編(2018)  松尾賢志郎(1995- )編(2019)
■平井(保喜)康三郎(1910-2002): 幻想曲「さくらさくら」(1971)
■M.d.ファリャ(1876- 1946):《ヴォルガの舟歌》(1922)
■G.フォーレ(1845-1924)::《バイロイトの思い出 ~ワーグナー「ニーベルングの指環」のお気に入りの主題によるカドリーユ形式の幻想曲》(1880) (A.メサジェ採譜) 《月の光》(1887/1927)(M.ボニによるピアノ独奏版)+C.ドビュッシー(1862-1918):「仮装舞踏組曲」より《月の光》(1880)   《チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109》(1917)(全3楽章) 〔+上森祥平(チェロ)〕  《天守夫人(塔の奥方) Op.110》(1918) (ピアノ独奏版)  《幻想曲 Op.111》(1918、作曲者による2台ピアノ版) [+浦壁信二(ピアノ)] 《チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117》(1921)(全3楽章) 〔+上森祥平(チェロ)〕 《ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120》(米沢典剛によるピアノ独奏版)(1923/2018) 《弦楽四重奏曲 Op.121》(G.サマズイユ編独奏版)
■G.プッチーニ(1858-1924)(=R.T.カッツ編):《弦楽四重奏曲 「菊」 嬰ハ短調》(1890/2017)
■C.フランソワ (1939-1978)/J.ルヴォー(1940- ):《マイ・ウェイ》(夏田昌和によるピアノ独奏版)(1967/2014)
■L.ブローウェル(1939- ):《丘の愚者》(1976)
■L.v.ベートーヴェン(1770-1827): ソナタ第20番第2楽章(1795)  交響曲第3番《英雄》第1楽章(1803)(F.リストによる独奏版、前半後半) ソナタ第23番《熱情》第1楽章(1806)  弦楽四重奏のための《大フーガ》(1826)(L.ヴィンクラーによる独奏版、前半後半)(全てフォルテピアノ独奏)
■G.ペッソン(1958- ):《マストの上で(水兵の歌)》(2009)
ライヴ演奏動画集 (2021/11/26 update)_c0050810_15411271.jpg

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【ま】
■松下眞一(1922-1990): 《スペクトラ第4番》(1971)
■松平(工藤)あかね(1972- ):《ルグリにリフト》(2007)[+柴田暦(vocal)]
■G.マーラー(1860-1911) (米沢典剛編): 《花の章》(1888/2017)
■三木たかし [渡邊匡] (1945-2009):《夜桜お七》(1994) [後藤丹編ピアノ独奏版]
■箕作秋吉(1895-1971):《さくらさくら Op.16-2》(1940)
■O.メシアン(1908-1992)(=米沢典剛編):《星の血の悦び》(1948) [+浦壁信二(ピアノ)]
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【や】
■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902)
■米沢典剛(1959- ):《君が代》(2021)
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【ら】
■L.J.A.ルフェビュール=ヴェリー(1817-1869):《H.ルベールの歌劇「ガイヤールのおやじ」による華麗な二重奏曲》(1852)[+金澤攝(ピアノ連弾)]
■C.ルル―(1851-1926):《分列式行進曲(扶桑歌)》(1886)
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【わ】
■若尾裕(1948- ):《さりながら雪》(2019)
■R.ワーグナー(1813-1883):歌劇《ローエングリン》第1幕前奏曲(1848/2017)(B.ブライモ編) 歌劇《ローエングリン》第2幕より「エルザの大聖堂への入場」(F.リスト編) ヴェーゼンドンク歌曲集(1858/1917) [A.シュトラダルによるピアノ独奏版]  《トリスタンとイゾルデ》より「愛の場面」(1859/65)(タウジッヒ編) 《ジークフリート牧歌》(1870/1973) [G.グールド編ピアノ独奏版]  舞台神聖祝典劇『パルジファル』第1幕前奏曲(1857-82/1882)(A.ハインツ編) 《エレジー WWV93》(1881)
渡辺香津美(1953- ):《アストラル・フレイクス》(1980)




# by ooi_piano | 2021-11-03 10:45 | 雑記 | Comments(0)

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