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プレイエルをめぐって
筒井はる香
ひょっとしたらパリのイメージが強いかもしれませんが、イグナーツ・プレイエルの生家は、ウィーンから車で1時間ほど走った、ニーダー・エスタライヒ州トゥルン近郊の片田舎にあります。私が訪れたときは、真冬で町全体が雪に埋もれていました。真っ白な雪の地面に足跡をつけながら、足早にプレイエルの生家の前まで辿り着くと、深い感慨が湧き起こったことをよく覚えています。
扉をくぐると、オーストリア人らしく陽気で大柄な館長が笑顔で出迎えてくれました。私たちに向かって「さあようこそ!ここは世界で一番小さな博物館ですよ。」と話しかけてきました。そうなのです。プレイエル博物館には小さな展示室がひとつしかありません。壁には、プレイエルの生涯を描いたパネルが順番に綴られ、天井からは、人形劇で使う人形が何体もぶらさがっています。小さな椅子が並んでいて、正面には、それほど大きくないテレビモニターがあります。館長が私たちに一通りガイドをしてくれた後に、これも観ていきなさい」としきりに勧めるので、一本のビデオを見ました。ここでは、作曲家としてのプレイエルがクローズアップされたもので、彼のオペラ作品の再演の様子が放映されていました。
そして最後に、―― これこそが私たちの一番の目的だったのですが ―― 部屋に展示されているプレイエル製のピアノを見させていただけることになりました。グランド・ピアノ(1831年製、作品番号1614)です。これはショパンがはじめてプレイエルと出会った頃に作られた楽器です。プレイエルのあるソナタの一楽章を試し弾きしましたが、譜面上の単純な旋律が、プレイエルのピアノで弾くとたちまちエレガントな歌に変わり、心の底に触れるような温かい音がしました。この時、ご一緒した山本宣夫氏は、1831年製のプレイエルを、ご自身の(今日の演奏会で使われる)1846年製のプレイエル製ピアノと比較しながら丹念に調査され、プレイエル独特のユニークなダンパー(止音)の機能が、すでに1831年製の方にも採用されていることを確認されました。(プレイエルピアノのダンパー機能については、フォルテピアノ・ヤマモトコレクションのホームページをご参照ください。http://blog.zaq.ne.jp/fortepianoyamamoto/)
■作曲家、企業家としてのイグナーツ・プレイエル
イグナーツ・プレイエル(1775-1831)は、ハイドンの愛弟子の作曲家として、早いうちからヨーロッパ中で絶大な人気を誇っていました。彼は多作家であり、41の交響曲、71のピアノまたはハープのための小品、70の弦楽五重奏曲、48のピアノ三重奏曲、8の協奏曲など合わせて600曲を超える作品を世に出しました。プレイエルの存命中、およその2000種類の楽譜が250もの出版社から出版されたことから、プレイエルが、ヨーロッパのコンサートホールや家庭内において、いかに上演回数の多かった作曲家であったことは疑う余地がありません。
ちなみにプレイエルの初期の弦楽四重奏曲を聴いたモーツァルトも「とてもよく書けており、やがて彼の師と同じように抜きん出るだろう」と報告しています。プレイエルは、最初にエルデーディ伯爵の後援のもとで作曲活動を行いました(エルデーディ伯爵は、ハイドンが6つの弦楽四重奏曲Hob.III-75-80を献呈したことでよく知られます)。
彼がイタリアに旅したとき、オペラ作曲家やオペラ歌手と知り合いました。例えばジョヴァンニ・パイジェッロ(1740-1816)やドメニコ・チマローザ(1749-1804)やピエトロ・ナルディーニ(1722-1793)などです。それがきっかけとなり、プレイレル自身もイタリアで自作のオペラ≪Ifigenia in Aulide≫を発表する機会を得ました。
次の目的地であったストラスブールでは、大聖堂の楽長を務め、指揮者、音楽家として活躍しましたが、フランス革命が勃発してからは、教会での演奏会が廃止されるなど芸術家生命の危機に晒され、1791年にロンドンへ渡ることにしました。同地でも、演奏活動で成功を収め、多くの財を築きました。プレイエルの音楽の高貴さ、愛らしさ、何度も現れる分かりやすい旋律が好まれ、ロンドンでもっともポピュラーな作曲家となったのです。
1795年にパリに滞在してからプレイエルは、作曲家、音楽家にとどまらず、企業家としての手腕を発揮しました。音楽出版社「Maison Pleyel」を創業したときには、ハイドンやベートーヴェンやクレメンティやドゥシークを含む約4000の作品を出版しました。さらに1807年からは出版業を営むかたわらピアノ工場を立ち上げます。まったく興味深いことですが、ライプツィヒの出版業者ブライトコプフ&ヘルテル社がピアノ販売を始めたのも、プレイエルと同じ1807年でした。「プレイエル」は現在でも著名なピアノ会社でありますが、創立者のイグナーツ自身は、ピアノ製作そのものに携わっていたわけではなかったようです。彼が正式な職業訓練を受けたという記録は見当たりません。創立の際には、フランス出身で、ロンドンで活躍したピアノ製作家アンリ・パペの助力が大きかったと思われます。ピアノには、初期の段階からイギリス式アクションが採用されていました。
イグナーツの長男カミーユ(1788-1855)は、ピアノのヴィルトゥオーソでしたが、ロンドンでピアノ製作技術を学び、1815年からプレイエル社で父と働き、父が退いた後、1824年からは正式に主導者としてプレイエル社を導きました。当時パリでは、エラール社がトップのピアノ会社でしたが、パペやカルクブレンナーなどの協力を得て1830年代には、プレイエルが、エラールに次ぐ大規模なピアノ工場になりました。1834年にはすでに1000台以上のピアノが製造されていました。
また古楽との関連についても、プレイエル社は注目に値するメーカーです。古楽器復興運動が本格化した1920年年代、プレイエル社は、ポーランドの女性ピアニストワンダ・ランドフスカからの要請で、19世紀以来、忘れ去られていたチェンバロを復興させました。とはいっても、古楽器を完全に再現したものではなく、鉄骨製フレームを使用した、いわゆるモダン・チェンバロでした。ランドフスカは、プレイエル製の二段鍵盤のチェンバロを愛用し、演奏旅行や録音の際にも必ず携えたと言われています。
プレイエルのピアノは、ショパンやルビンシュタインやコルトーによって好まれてきました。このように、ロマン派からフランスのピアノの黄金時代である1850年代、そして21世紀に入っても支持され続けています。それには二つ理由があると思います。ひとつは、プレイエルとしての音が確立していること、つまりアイデンティティがしっかりとしており、容易にはぐらつかないことです。第二に、それでいて時代に合った音や求められている音に対して敏感であることだろうと思われます。この柔軟さは創立者イグナーツ・プレイエルから受け継がれているのでしょう。
大井浩明 Beethovenfries
16 Dec 1770 - 26 Mar 1827
第九回公演《來よ、魂、惱みを過ぎ越し歡びへ到らむ》
Komm, Seele, durch Leiden zur Freude zu gehen!
京都文化博物館 別館ホール
(旧日本銀行京都支店、明治39年竣工/重要文化財)
2008年12月19日(金) 18時30分開演
使用楽器:
プレイエル 1846年 パリ
85鍵(AAA-a4) イギリス式シングルアクション 平行弦
《演奏曲目》
ベートーヴェン作曲/サン=サーンス編曲:弦楽四重奏曲Op.59「ラズモフスキー」(1805/06)より第1番第2楽章アレグレット + 同第3番終楽章フーガ
ベートーヴェン作曲/リスト編曲:交響曲第5番ハ短調Op.67「運命(Schicksal)」(1804/08) R 128/5, SW 464/5
第1楽章 Allegro con brio
第2楽章 Andante con moto
第3楽章 Allegro
第4楽章 Allegro
【休憩15分】
ベートーヴェン作曲/F.リスト編曲:第6番ヘ長調Op.68「田園(Pastorale)」(1804/08) R 128/6, SW 464/6
第1楽章 Allegro ma non troppo 「田舎に到着し晴れやかな気分がよみがえる」
Erwachen heiterer Empfindungen bei der Ankunft auf dem Lande.
第2楽章 Andante molto mosso 「小川のほとりの情景」
Szene am Bach.
第3楽章 Allegro 「農夫たちの楽しい集い」
Lustiges Zusammensein der Landleute.
第4楽章 Allegro 「雷雨、嵐」
Gewitter. Sturm.
第5楽章 Allegretto 「牧歌、嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気分」
Hirtengesang. Frohe und dankbare Gefühle nach dem Sturm
プレイエルをめぐって
筒井はる香
ひょっとしたらパリのイメージが強いかもしれませんが、イグナーツ・プレイエルの生家は、ウィーンから車で1時間ほど走った、ニーダー・エスタライヒ州トゥルン近郊の片田舎にあります。私が訪れたときは、真冬で町全体が雪に埋もれていました。真っ白な雪の地面に足跡をつけながら、足早にプレイエルの生家の前まで辿り着くと、深い感慨が湧き起こったことをよく覚えています。
扉をくぐると、オーストリア人らしく陽気で大柄な館長が笑顔で出迎えてくれました。私たちに向かって「さあようこそ!ここは世界で一番小さな博物館ですよ。」と話しかけてきました。そうなのです。プレイエル博物館には小さな展示室がひとつしかありません。壁には、プレイエルの生涯を描いたパネルが順番に綴られ、天井からは、人形劇で使う人形が何体もぶらさがっています。小さな椅子が並んでいて、正面には、それほど大きくないテレビモニターがあります。館長が私たちに一通りガイドをしてくれた後に、これも観ていきなさい」としきりに勧めるので、一本のビデオを見ました。ここでは、作曲家としてのプレイエルがクローズアップされたもので、彼のオペラ作品の再演の様子が放映されていました。
そして最後に、―― これこそが私たちの一番の目的だったのですが ―― 部屋に展示されているプレイエル製のピアノを見させていただけることになりました。グランド・ピアノ(1831年製、作品番号1614)です。これはショパンがはじめてプレイエルと出会った頃に作られた楽器です。プレイエルのあるソナタの一楽章を試し弾きしましたが、譜面上の単純な旋律が、プレイエルのピアノで弾くとたちまちエレガントな歌に変わり、心の底に触れるような温かい音がしました。この時、ご一緒した山本宣夫氏は、1831年製のプレイエルを、ご自身の(今日の演奏会で使われる)1846年製のプレイエル製ピアノと比較しながら丹念に調査され、プレイエル独特のユニークなダンパー(止音)の機能が、すでに1831年製の方にも採用されていることを確認されました。(プレイエルピアノのダンパー機能については、フォルテピアノ・ヤマモトコレクションのホームページをご参照ください。http://blog.zaq.ne.jp/fortepianoyamamoto/)
■作曲家、企業家としてのイグナーツ・プレイエル
イグナーツ・プレイエル(1775-1831)は、ハイドンの愛弟子の作曲家として、早いうちからヨーロッパ中で絶大な人気を誇っていました。彼は多作家であり、41の交響曲、71のピアノまたはハープのための小品、70の弦楽五重奏曲、48のピアノ三重奏曲、8の協奏曲など合わせて600曲を超える作品を世に出しました。プレイエルの存命中、およその2000種類の楽譜が250もの出版社から出版されたことから、プレイエルが、ヨーロッパのコンサートホールや家庭内において、いかに上演回数の多かった作曲家であったことは疑う余地がありません。
ちなみにプレイエルの初期の弦楽四重奏曲を聴いたモーツァルトも「とてもよく書けており、やがて彼の師と同じように抜きん出るだろう」と報告しています。プレイエルは、最初にエルデーディ伯爵の後援のもとで作曲活動を行いました(エルデーディ伯爵は、ハイドンが6つの弦楽四重奏曲Hob.III-75-80を献呈したことでよく知られます)。
彼がイタリアに旅したとき、オペラ作曲家やオペラ歌手と知り合いました。例えばジョヴァンニ・パイジェッロ(1740-1816)やドメニコ・チマローザ(1749-1804)やピエトロ・ナルディーニ(1722-1793)などです。それがきっかけとなり、プレイレル自身もイタリアで自作のオペラ≪Ifigenia in Aulide≫を発表する機会を得ました。
次の目的地であったストラスブールでは、大聖堂の楽長を務め、指揮者、音楽家として活躍しましたが、フランス革命が勃発してからは、教会での演奏会が廃止されるなど芸術家生命の危機に晒され、1791年にロンドンへ渡ることにしました。同地でも、演奏活動で成功を収め、多くの財を築きました。プレイエルの音楽の高貴さ、愛らしさ、何度も現れる分かりやすい旋律が好まれ、ロンドンでもっともポピュラーな作曲家となったのです。
1795年にパリに滞在してからプレイエルは、作曲家、音楽家にとどまらず、企業家としての手腕を発揮しました。音楽出版社「Maison Pleyel」を創業したときには、ハイドンやベートーヴェンやクレメンティやドゥシークを含む約4000の作品を出版しました。さらに1807年からは出版業を営むかたわらピアノ工場を立ち上げます。まったく興味深いことですが、ライプツィヒの出版業者ブライトコプフ&ヘルテル社がピアノ販売を始めたのも、プレイエルと同じ1807年でした。「プレイエル」は現在でも著名なピアノ会社でありますが、創立者のイグナーツ自身は、ピアノ製作そのものに携わっていたわけではなかったようです。彼が正式な職業訓練を受けたという記録は見当たりません。創立の際には、フランス出身で、ロンドンで活躍したピアノ製作家アンリ・パペの助力が大きかったと思われます。ピアノには、初期の段階からイギリス式アクションが採用されていました。
イグナーツの長男カミーユ(1788-1855)は、ピアノのヴィルトゥオーソでしたが、ロンドンでピアノ製作技術を学び、1815年からプレイエル社で父と働き、父が退いた後、1824年からは正式に主導者としてプレイエル社を導きました。当時パリでは、エラール社がトップのピアノ会社でしたが、パペやカルクブレンナーなどの協力を得て1830年代には、プレイエルが、エラールに次ぐ大規模なピアノ工場になりました。1834年にはすでに1000台以上のピアノが製造されていました。
また古楽との関連についても、プレイエル社は注目に値するメーカーです。古楽器復興運動が本格化した1920年年代、プレイエル社は、ポーランドの女性ピアニストワンダ・ランドフスカからの要請で、19世紀以来、忘れ去られていたチェンバロを復興させました。とはいっても、古楽器を完全に再現したものではなく、鉄骨製フレームを使用した、いわゆるモダン・チェンバロでした。ランドフスカは、プレイエル製の二段鍵盤のチェンバロを愛用し、演奏旅行や録音の際にも必ず携えたと言われています。
プレイエルのピアノは、ショパンやルビンシュタインやコルトーによって好まれてきました。このように、ロマン派からフランスのピアノの黄金時代である1850年代、そして21世紀に入っても支持され続けています。それには二つ理由があると思います。ひとつは、プレイエルとしての音が確立していること、つまりアイデンティティがしっかりとしており、容易にはぐらつかないことです。第二に、それでいて時代に合った音や求められている音に対して敏感であることだろうと思われます。この柔軟さは創立者イグナーツ・プレイエルから受け継がれているのでしょう。