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シューベルト:最期の3つのソナタ

フォルテピアノ・ヤマモトコレクション・コンサート
大井浩明フォルテピアノ・リサイタル

2009年12月6日(日) 開演14:00/開場13:30

●シューベルト最期の3つのソナタ
クラヴィア・ソナタ第19番 ハ短調 D958
クラヴィア・ソナタ第20番 イ長調 D959
クラヴィア・ソナタ第21番 変ロ長調 D960
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使用楽器: 伝マテーウス・アンドレアス・シュタイン Matthäus Andreas Stein 1820年頃 ウィーン製
75鍵(FF-g4) ウィーン式アクション
ペダル4本(ウナコルダ、ファゴット、モデラート、ダンパー)


会場:スペース クリストーフォリ 堺
http://blog.zaq.ne.jp/fortepianoyamamoto/
〒599-8126 堺市東区大美野119-12
南海高野線・北野田駅西口より バス(5分)『登美丘中学校前』下車すぐ

(クリックすると拡大表示されます)
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コンサート代金/3800円
コンサートは完全予約制です。電話、Fax、メールなどで直接ご予約をお願い致します。当日券は御座いません
電話:072-237-3940 (スペース・クリストーフォリ・堺 担当;波多野まで)
e-mail: cristoforijapan@sakai.zaq.ne.jp
予約席を確保していただいた後、コンサート代金を、直接、または郵便振込みでお願いいたします。
座席数が限られております(定員80名)ので、入金順に予約確定とさせていただきます。なお、チケットは発行しておりません。
郵便振込み口座 00910-4-69368 /加入者名 山本宣夫 (やまもとのぶお)



  ■会場は、南海・北野田駅から徒歩で15分くらいです(最短経路を赤線で示しました)。バスは確か30分に一本で、14時開演だと北野田駅発は13時20分か50分かの2択かも。バス停『登美丘中学校前』は北野田駅西口から4つ目くらいでした。片道160円。バス停を下車して、道路を挟んだすぐ向かい側のお屋敷が会場です。
  ■9月下旬の時点で、あと十数名で定員と聞きました。ご予約はお早めにどうぞ。
  ■当初は1846年プレイエルでショパンのエチュード27曲とソナタ2曲、などというプログラムを考えておりましたが、まだ両手黒鍵グリッサンドが上手く弾けないので、まずはシューベルトに日和ることに致しました。ハ短調ソナタはベルン芸大ソリストディプロマ課程の入試で弾き、変ロ長調ソナタは国家資格卒試修了リサイタルで弾いた懐かしい曲です(モダンピアノ)。卒試では、バロックはチェンバロで、シューベルトはフォルテピアノで弾きたいと主張したのですが、「これはピアノの試験です!!」というカニーノ師匠の一声でボツに。
  ■思い返せばスイス留学を決意したのは、近藤譲《ペルゴラ》世界初演時(1995)のリハーサルにて、近藤氏から「もっとシューベルトみたいに弾いて欲しいんだけど。」と言われカチーンと来たのがきっかけでした。その反動で、ベルン芸大在籍時はシューベルト三昧の日々で、ソナタもろもろ・即興曲集・さすらい人幻想曲・舞曲集といった独奏曲の他、イェルク・エヴァルト・デーラーの歌曲・室内楽クラスでは、モデラート足ペダル付きのフォルテピアノでトリオ2曲、「冬の旅」「白鳥の歌」他の歌曲多数、ヴァイオリンのロンドやファンタジー、フルートとの「萎める花」など弾きまくってました。


<今回使用の楽器:マテウス・シュタイン 1820年 ウィーン>
ロンドンのサザービーズのオークションにヨハン・アンドレアス・シュタインの5オクターブのフォルテピアノが競売に掛けられるというニュースに急遽ロンドンに飛んだのは早いもので、もうかれこれ10年も以上前のことになってしまいました。ヨハン・アンドレアス・シュタインのピアノといえば、バイオリンのストラディヴァリウスのような存在です。モーツァルトがお父さんに当てた手紙でアウクスブルクのアンドレアス・シュタインのピアノの性能の良さを絶賛したことはあまりにも有名です。このロンドンの競りに掛けられたシュタインはピン板が交換されていて、総てオリジナルというわけではなかったのですが、あれよあれよという間に手の届かないはるか現実離れした競り値にのぼりつめ落札されてしまいました。結局、この本命を逃しはしたものの他のものを3台も落札し帰国の途に着いた次第です。そして、本日使用の(伝)マテウス・シュタインがそのうちの1台なのです。このマテウスとは、アウクスブルクのアンドレアス・シュタインの息子です。モーツァルトの手紙にも登場し、モーツァルトと連弾したこともあるマテウスの姉、ナネッテは、幼い頃から父親を手伝って当時としては珍しく女性ながら超一流のピアノ製作家となり、1792年にお父さんが亡くなってからは、弟マテウスとともに家業を継ぎました。その後、文豪シラーとも深い交流のあったウィーンの偉大な音楽家シュトライヒャーと結婚したのをきっかけに弟を連れて1794年にウィーンに出て、ピアノ会社を立ち上げました。マテウスは、ベートーヴェンがパリのエラール社から贈られたピアノのタッチの変更を依頼されるなど姉ともども巨匠の信頼は篤くベートーヴェンと大変深く関わりました。そして自分の結婚後マテウス・シュタインというピアノメーカーとして姉から独立しました。今回使用のピアノを(伝)マテウス・シュタインと紹介しているのは、ネームプレートがどういういきさつか別のものになってしまっているためです。本体構造、形状、アクションなどからすると1820年頃、マテウスの工房から出たピアノと判断できるのですが、サザビーズのカタログに準じて一般にはマテウス作と伝えられているとして公にしています。

<ピアノを通して見える シューベルトとベートーヴェン>
ベートーヴェンがウィーンに来て死ぬまでに所有したピアノは、パリのエラール、イギリスのブロードウッド、ウィーンのピアノではヴァルター、シャンツ、シュトライヒャー、コンラート グラーフ、フォーゲル(後で良く調べたらハンガリーのブタペストでした)などの製作家のものが知られています。中でもコンラート グラーフは当代きっての名工とうたわれベートーヴェンをはじめショパン、クララ シューマン、リストに好まれたことは有名です。
このコンラートグラーフという名工がシューベルトとも深い関わりを持っていたことが最近になって判明しました。それは、ヨハン フレデリック クールボアーズという6オクターブのフォルテピアノが1台、新たに当ヤマモトコレクションに加わることになったことがきっかけです。このピアノは、金箔を施したギリシャ風女神像のある四角の脚がピアノ本体を支えていて、その本体には桜材が使われているというそれだけでも充分美しいものなのですが、さらに透かし彫りの真鍮飾りもたくさんついているというまことに見目麗しきピアノです。
このピアノは2008年ウィーンのヴェーリンク地区博物館で「ヴェーリンクのシューベルト」というタイトルの催しに展示され、演奏会も行われました。研究者リタ シュテプリンが興味深い逸話を
論文「シューベルトとヴェーリンク」に発表していますので、そのうちいくつかご紹介しましょう。
「シューベルトのいとこヨハン ゴットフリート シューベルトという人物は、13歳で家具職人になるためブレスラウに奉公に出された。その後、16歳で(おそらく1808年)名高いコンラートグラーフのところで働くためウィーンにやって来た。少年シューベルトはその時11歳で王宮少年合唱団(いわゆるウィーン少年合唱団)のメンバーとなった。シューベルトの妹テレーゼは7歳。二人の少年シューベルトたちは個人的にも芸術的にもお互いとてもよく似た好みを持っていて気があったらしい。当時、グラーフの工房はヴェーリンガー通り84(現在ゲンツガッセ57)にあり、それはシューベルトの両親の家(ゾイレンガッセ)から歩いて10分そこそこだった。このいとこによりシューベルト一家とコンラート グラーフのあいだに個人的なつながりができたことは事実であり、大作曲家シューベルト自身、少年時代しばしばグラーフのピアノ工房に出入りしていたことは確かだ。その後、シューベルトの最初のミサ曲F-Dur (D105)は、1814年9月25日に行われたリヒテンタール教会の100周年記念祭で演奏され大きな成功を収め、父から5オクターブのピアノを贈られた。研究者オットー エーリッヒ ドイチュによると、そのピアノがグラーフの工房の楽器であった可能性は高くそのように主張しても差し支えないが、確証はないとのことである。その後いとこのシューベルトのほうはどうしたのだろうか?
グスタフ シリンクの百科事典によると1819年にブレスラウに戻り、1838年までは運良く成功。彼は特別上等なピアノしか製作しない、いわゆる中程度のピアノは作らず、常に芸術的野心作ばかりで、発明にも取り組み実験し続け破産状態になってしまった。しかし彼の会社は新しい共同経営者クールボアーズを得て[クールボアーズジュニアとシューベルト]社という名のもとで存続した。」
本日演奏される「シューベルト最後の3つのソナタ」と呼ばれる、ハ短調、イ長調、変ロ長調(D958~960)は、1828年に作曲されました。その頃のシューベルトは、とても貧しく激しい頭痛とめまいに苦しめられていたにもかかわらず作曲した曲を出版社に売ることで生計を立てていたので、休暇も取れず、とうとう9月はじめには、お兄さんフェルディナントのところに身を寄せました。シューベルトは熱に浮かされながら作曲していたといわれています。これらの曲は9月27日にはすでに出来上がっていたらしく、イグナツ メンツ博士の家で演奏されました。その後、10月には兄フェルディナントや友人たちと徒歩旅行に出掛けることが出来、ハイドンの眠るアイゼンシュタットまで足を延ばしたようですが、病状は悪化の一方で、11月19日に兄に看取られて息を引き取りました。シューベルトの遺体は兄が11月21日付けの父宛の手紙に書いているように、「ベートーヴェンの近くに眠りたい」という希望どおり、ヴェーリンガー墓地に埋葬されました。その前年1827年3月19日にはシューベルトは友人達とともに死の床にあるベートーヴェンを見舞いましたが、二人が直接会ったのはそれが初めてでした。その一週間後の26日にベートーヴェンは亡くなりました。そして、それから一年半余りのちには今度はシューベルト自身も亡くなってしまったわけです。アントン・シントラーによるとベートーヴェンは、死の床にありながらシューベルトの歌曲を熱心に読んでいたといわれています。また、ベートーヴェン、シューベルトの眠るヴェーリンガー墓地ですが、そこには、ベートーヴェンの不滅の恋人かもしれないといわれているうちのひとりヨゼフィーネも1821年4月3日に墓石もなしに埋葬されているということはほとんど知られていません。研究者リタ シュテプリンは、ベートーヴェンはヨゼフィーネのそばで永遠に安らぎたいと思ったのだろうと書いています。また彼女の末子ミノナはピアノ教師として身を立てましたが、母親宛の13通のベートーヴェンの恋文などを委譲されているにもかかわらず生涯公表しなかったことなどからヨゼフィーネとべートーヴェンの子供ではないかといわれています。                
          *大作曲家たちの墓は現在ウィーンの中央墓地に移されています。

by ooi_piano | 2009-10-15 22:07 | コンサート情報 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


by ooi_piano