(承前)
2-b. 各部位を連動させるための導入エクササイズ
2-aの条件下で、手首~肘~肩甲骨を連動させるエクササイズを導入していきます。
エクササイズといっても単純なもので、手首を誰かに持ち上げてもらい、左右に軽く揺すってもらうだけです。手首に合わせて肘~肩甲骨がブラブラ揺れていれば、もうオッケーです。ただ、これが案外難しい。様々な方々と脱力セッションをさせて頂いて、ほぼ共通していたのは、ある年齢以上ではどうしても肩が固くなることでした。その場で一時的にやわらかくすることは出来ても、ピアノの前に座るとまた固くなったり、奏法に落とし込めなかったり、等々。手首を「置く」だけで鍵盤が押し下がるためには、「置く」アクションに逆らう筋肉は全て緩めることが前提となります。余計な筋肉が突っ張ると、それだけ「置く」アクションの効率が阻害されるからです。
効率的に腕を動かす、というのは、出来るだけのたくさんの部位の筋肉を、最小限ずつ使用することです。特定の少ない部位の筋肉を精一杯動かそうとすると、痛くなったり動かなくなったりする。腕が軽い、とは、沢山の部位がちょうどバランス良く参入している状態を意味します。
解剖図を見ながら××筋を動かし××筋を動かさないように、と思ってみても、特に肩周りでは、そうは簡単にことは運びません。付加的な指令を脳から発信するのは諸刃の刃(やいば)で、使用は限定した方が良いでしょう(次章参照)。動きを支える部位の準備が出来たら(前章参照)、あとは筋肉が勝手に回りだしてくれるのを待つのがベストです。勝手に動いてくれたときが、筋肉の組み合わせが最も効率化されているからです。
困ったことには、突っ張った筋肉は緩められて初めて、突っ張っていたことが分かります。各部位の筋肉の質は人それぞれであり、しかも今日と明日で状態が変わる。注意深いストレッチとは、往々にしてアクションの反対側に位置する、縮まなくて良い筋肉をじっくり解除し、各部位の可動域を広げていくことです。実のところ、体が動く動かないの問題解決は、それに尽きます。注意深いチェックとは、脳の可塑性を活用した、神経回路の再構築に他なりません。味噌汁を作る前に慎重に出汁を取る程度の、慣れれば当然、慣れてなければ面倒、わずかな手間隙・味見が必要な準備作業のことです。そのあたりを含み込みながら、肩周りを緩めていきましょう。
●誰かに揺さ振ってもらう場合
以下、揺する側(A)・揺すられる側(B)の視点を、適宜シフトしながら書いていきます。いま揺する側(A)は人間を想定していますが、最終的にはこの(A)は楽器そのものです。すなわち、「ピアノに手をつかまれ、揺さ振られている」、という見方です。
まずBは直立して、両腕をラクに垂らします。【1】AはBの手首を、前方の鍵盤位置の高さくらいまでゆっくり持ち上げていきます。そして元へ戻す。【2】再び手首を鍵盤位置まで持ち上げ、その高さで高音域(右方向)、低音域(左方向)へゆっくり動かす。同様に【3】上下、【4】前後へも移動させます。このとき、手首の移動にともなって、前章の「肩周りのリラックス」、ホウキの上で軽やかにバランスを取るカボチャを意識しましょう。
【5】次に、鍵盤位置まで持ち上げた手を、その位置で軽く左右に揺すってもらいます。そのまま軽く揺すり続けながら、手首の位置を【6】左右、【7】上下、【8】前後に移動させます。【1】~【4】の場合と、【5】~【8】の場合に、背中周り・肩周りに何か違いが起きたか、観察してみましょう。
そののち、今度は椅子に座って同じことを繰り返します。立った時に比べて座った際に何か不都合があったなら、2-aの「腰周りのリラックス」を意識してみましょう。以下、【1】~【8】での注意点など。
【1】・・・ AがBの手に触れる前に、既にBが手を差し出して来ることがあります。両腕は全行程を通じて、ブランと垂れ下がったままにしてもらって下さい。赤の他人に手を握られる心理的抵抗感、あるいは、急に腕に放されてその落下の衝撃を受ける恐怖(=高所恐怖症の一種)から、脇や腕を硬くしてしまわないようにしましょう。腕の「脱力」を確認するため、ピアノ教師が生徒の腕をガッと持ち上げ、急に放して自由落下するかどうかテストすることがありますが、果たして、一般に演奏中も始終その「落下状態」は守られているでしょうか。
変位(動かす)の直前に、まずはBに息を吐き切ってもらいましょう。息を吐き切ったタイミングを見計らった直後、空気が体の中へ自然と入り込んでくる(=Bが息を吸う)のと平行して、手首を持ち上げていきます。アクションの前に、就寝時に息を吐き切った際の体の状態を再現して下さい。そこがエクササイズの出発地点です。そして、今度は息をゆっくり吐き出すのと同時に、腕を下ろしていく。それが出来たら、今度は呼気と吸気のタイミングを逆にしてみましょう。
一連のプロセスにおいて、「頭は空中にしろしめし、体はただ事も無く平和」、という遠隔操作感が大事です。妙な突っ張りは解除してゆくべきですが、それ以外は一切何もせず、BはAのなすがままにしていること。AがBに、「息をゆっくり吸いながら」「息をゆっくり吐きながら」「顔は正面を向いたままで」「はいもっと力を抜いて、もっと抜いて、さらに抜いて」「へその下から息を出し入れして」「突っ張っているところをちょっとずつリリースしていって」などと、声をかけるのも効果的です。ふわふわ、どろどろ、にゅー、どーん、びよーん等の擬態語を、AのみならずB自身が口に出してストレッチするのも、ときにあっけないほどの変化を齎すようです。音楽的には、ティラリ、リララ、ディヤダ等の口三味線で、アーティキュレーション・節回しが全く違ってくることに相当します。
手の位置を変化させる際、諸関節が適切に動いているかどうかを判別するのは、素人の手に負えることではありませんので、厳密には専門家に当たられることをお勧めします。
【2】~【4】・・・ AがBの右手を取って高音域側へ動かそうとすると、右脇が閉まってAの手を引っ張り返してしまう(【2】)。鍵盤位置から手首を上へ持ち上げていくと、今度は吊り橋のように垂れているべき肘がリキんで外側へ張り出し、脇が開く(【3】)。手首の位置を胴体側へ押し込んでいくと(=手押し相撲)、肩と肘が背中方向へ退却し受け流すことなく、脇が締まり、胸の手前で肘が折り畳まれてしまう(【4】)。 ・・・というのが、よくあるパターンでした。
このうち最も問題なのは、手を左右に腕を動かすときに肩甲骨周りが固くなり、移動がぎごちなくなったり、鍵盤に手を押し付けてしまうことでしょう。右手の場合、高音域という遠い見知らぬ場所を、「弱い」指(小指・薬指)で弾かねばならない、という心理、また左手の場合は低音域を爆音で弾きたい、という心理が、跳躍のための硬直やらオクターヴ用の硬直やら(前述)と組み合わさって、脇の締め付けを起こしています。そもそも、ベートーヴェン時代までの鍵盤楽器の高音域は、元々細く薄くなるよう設計されていましたので、左手を柔らかく右手をたっぷりと輝かしく弾くのが上級者、という考え方も、わりと最近の話です。右手が鍵盤中央を弾く際のI.B.をI.B.(x=0)、そこから30cm右方向を弾く際のI.B.をI.B.(x=30)とすると、右手を鍵盤中央から右方向へ30cm跳躍させるためには、その跳躍直前にI.B.(x=0)からI.B.(x=30)へと、胴体の中で準備作業が出来ていなければなりません。細かいアーティキュレーションを施すための浮遊する手首を体感するためには、鍵盤表面上の爪先グリッサンドでノイズを立てるラッヘンマン《ギロ(グエロ)》を練習してみると良いでしょう。白鍵の表面を高速で爪先グリッサンドしても、実音が決して出ないようにすること。x=0のポジションからx=30のポジションへの移動を練習する際、ほどよい等速で《ギロ》式に滑っていくのは、keyboard mappingにも大いに役立ちます(これはオルガンの足鍵盤も同様です)。
腕が横方向に引っ張られたとき、その変位を受け流すには、体の中心線を意識してみると良いでしょう。背骨が上方向と下方向に延長され、体全体が垂直方向に串刺しになっているとイメージします。手が引っ張られると、串を中心に筋肉・内臓はくるくる回る。体を捻(ひね)らない、という考え方は、武道の順体、相撲の調体(てっぽう)、歌舞伎の六方(ろっぽう)、ナンバ歩き等にも見られる智慧です。
【5】~【8】・・・ 手首を揺すられたときに肩甲骨がブラブラと連動してくれない、あるいは揺すられると手首位置の移動に支障が生じたりするのは、硬い肩、すなわち首周りの緊張に起因しています。肩が「開端」していないことにより波動が堰き止められていることは、Bには自覚出来ていなくても、Aは如実に手元で感じることが出来ます。縄跳びの縄を左右に振ってヘビごっこをする際、縄の一方が結び付けられているかどうかは、手元ですぐ判別出来るのと同様です。
他人によって肩甲骨が揺すられること、すなわち、気道に近い筋肉がぐにょぐにょ動かされるのは、慣れないうちは恐怖、少なくとも不愉快なことです。そんな生命線に近いところ(=喉)が吊り橋の一端となっているなど、考えたくない。動くにしても、もうちょっと手前が動いて欲しい。そもそも、いつも動いていないところ(=慣れないところ)は、他人はおろか、自分自身でも動かすのは億劫なものです。かくして首周りを固めてしまう。
また、「腕の付け根」というものが、肩あるいは脇の固定された「一点」だと思っているため、肩甲骨をまるごとペロンと動かすことを無意識に拒絶してしまう。これは解剖図などを見れば一目瞭然ですので、知識で誤認を解決出来る範囲ではあります。
リラックスということでは、BがAの膝に乗り、背中側から二人羽織のように手を握られ、揺すってもらうのが理想的かもしれません。ぶらぶら手首を揺すりながら、AがBの肩甲骨あたりにもう一方の手を添える、あるいは肩甲骨近くに手をかざすだけで、Bの動きに変化が起こることがあります。言葉と体温と催眠ペンダントで、ひとは幾らでも暗示にかかる、ということでしょう。
応用編としては、たとえばB自身が左腕を「うらめしや」状態で持ち上げておいて、別途Aに右腕を揺すってもらう。左腕を持ち上げていることが、右肩周りの脱力を邪魔していないかどうか。加えて、左手の指を開いたり握ったりした場合はどうなるか。なにか条件を付け加えたときに、意識的無意識的な筋肉調整の変化を観察しましょう。
●自分で揺すってみる場合
誰かに揺すってもらった際の筋肉の状態を思い出しつつ、今度はアシスト無しでやってみましょう。不具合の調整に好きなだけ時間をかけられるメリットの一方、手を動かすための脳からの指令にバグが含まれている危険も覚悟しなければなりません。
まず腰の横に両腕を垂らします。手のひらを前へ向けると、上腕は回外し、肩甲骨が内側へ寄ります(=内転)。手のひらを背後、さらには逆手で外側へ向けると、上腕は回内し、肩甲骨は外側に広がります(=外転)。手首を「うらめしや」状態で持ち上げ、少しだけ内側・外側に傾けた際、手首~肘~肩甲骨が連動して傾いているでしょうか。手首~肘~肩甲骨をゆるゆると揺らしつつ、手首の位置を左右・上下・前後に動かした際、滑らかにI.B.が取れれれば、このエクササイズは終了です。
第1-b章で述べたように、自分自身で手を持ち上げる場合、「前腕の真ん中あたり(手首と肘の間)がヘリコプターで吊り下げられている」、あるいは「下からT字杖(or物干し竿受け)でリフトアップされている」、という体感イメージがベストだと思います。これは、前腕の尺骨、すなわち手首の小指側の付け根と肘を結ぶラインを動きの支点とするに等しい。もし手・腕のどこかに意識をあてるとするなら、それは指先ではなく、尺骨の真ん中(重心)あたりであれば、手首から先をリキませずに済みます。
尺骨を物干し竿とすると、その真ん中をT字杖で下から持ち上げ、そのまま竿の端にブラ下がっていた手首を鍵盤に引っ掛けること。「うらめしや」状態だった手は鍵盤を押し下げ、それと連動して、吊り橋のように垂れていた肘は外側へ押し出され、上腕は回内し、肩甲骨はニュートラル位置から外転します。指先が対象物に触れた瞬間、上腕が回内し肩甲骨は外転し、余計な力を入れずに腕の重みを対象物へ伝えられるのは、弦楽器の右手・左手についても同様だと思います。
重要なのは、肩甲骨が外転し、その状態でフレクシブルに左右に揺れていることです。解剖図のことは一端忘れて、肩甲骨が空中でフワフワ転がっているテトラパックだと思うこと。ある方向へ動くべきものだ、という思い込みが硬直を招きます。上腕が回内していても肩甲骨が連動しなければ、遠からず肩に激痛が走るでしょう。ピアノの連続高速オクターヴ連打や、一流弦楽器ソリストも内心気に病む「一弦連続スタッカート」は、盆の窪を緩めて指先・弓先の喰い付きにより肩甲骨をゆるゆると電気アンマする(軽く波打たたせる)ことに尽きるのでは無いでしょうか。
手首~肘~肩甲骨の連動について、別経路で考えてみます。まず腰の横に両腕を垂らします。そのまま上半身全体を左右に捻ると、両腕はデンデン太鼓のように投げ出され、振り回されます。一挙に両腕ともデンデン太鼓状態にするのは難しいので、例えばまず右腕は胴体にぴったり貼り付けて固定しておいて、左腕だけをブンブン回す、その次に左腕を固定して右腕を振り回す、最後に両手で、という順を追っても良いでしょう。脇の上で、肩甲骨と鎖骨がクランクシャフトのような押し競饅頭をしているのを感じること。
それが出来たら、片手ずつ手首を「うらめしや」状態へ持ち上げていきましょう。持ち上げるのは少しで良いです。その際、デンデン太鼓状態がどれくらい崩れるでしょうか。「裸で歯を磨くとチンチンが揺れるのは、チンチンが脱力しているからである」、「シリコンが入っていないおっぱいは、走ると内側へ向かって回転して揺れる」等の喩えは、脱力セッションに付き合って頂いた皆様から、分かり易いとの御高評を頂きました。
こういった柔軟エクササイズは、一回出来たらハイ終わり、ではなく、不具合を感じる毎に回帰し常にチェックすべきものです。ピアノ教育の何割かは、この手のボディワークに割くべきでしょう。無論、従来の鍵盤演習とのリンクも可能です。例えば、学生時代にハノンを弾いて上手くなった、という事例は、指先と肩甲骨の回転がシンクロ出来るようになったことを意味している可能性があります。確かにあの音型はリンク作業に向いている。何でもモノは使いようであり、リキんだ指先・手首・肘でタイピングに興じるので無ければ、ハノンもコルトー・メソッドも全否定すべき存在では無いでしょう。
●同じように足首を揺すってみる
今度は、手首のかわりに足首を持ち上げて、揺すってみましょう。手首のときと同様、足首はフワッフワの状態のままにします。椅子や地面があるとどうしても踏ん張ってしまいたくなるので、例えば空中に浮かぶ椅子に、タケコプターで着地する、とイメージしましょう。当然タケコプターは頭の天辺についています。椅子は宙に浮かんでますので、座っても足首は空中に垂れ下がっています。椅子を取り払うと、元のタケコプター飛行状態(=手足ともにダランと垂れている)に戻ります。・・・この喩えが想像しにくい場合は、プールサイドで水に足を漬けている状態、と言ったほうが早いかもしれません。どちらにしても、椅子には坐骨で座っています。
もし見えざる手で脛(すね)を握られ、上下・左右・前後に動かされた際の、股関節の角度や膝の曲がり具合を想像してみましょう。例えば足先が右方向へ動かされた際、股関節がリキんで無ければ、おのずと膝は内側へ落ち込む(=内股になる)筈です。これが、オルガンの足鍵盤奏法の基本です。広背筋は腰周りと肩周りをリンクしているで、「足首がフワッフワでいられる」ことは、手の指先へも影響する可能性があります。
アフリカならびに中南米の人たちに見られるリズム感の良さは、足首の柔らかさ、腰周りの柔軟性に由来しているのかも、と思ったことがあります。乗馬にしても、鐙(あぶみ)を踏ん張ってしまうと駄目みたいです。ロナウジーニョの足にボールが吸い付いているように見えるのは、ありとあらゆる足首と膝の位置のためのI.B.を、安定して連続させられるからでしょう。一本歯下駄やMBTシューズに頼らずとも、ひょっとするとブッシュマンの如く裸足のままフワフワと都会を歩き回れば、太古の記憶も蘇ってくるかもしれません。
(この項続く)