
Versuchの中核部分は、第1部の奏法論、第2部前半のエクササイズ導入で既に述べたことになります。ここでブレイクを。
指が回る・回らない、という、原因不詳の壁に突き当たった際の対応の差は、実は、日頃の学習態度にも現れている筈です。まずは、専門学生とアマチュア愛好家の典型例で比較してみましょう。
専門学生 ⇔ アマチュア愛好家
(1)地味な曲を地道に練習するのは当然の仕事 ⇔ (2)人をアッと驚かせモテモテになりたい
(3)意図的に曖昧な言い回しには慣れている ⇔ (4)完全に途方にくれる
(5)一曲仕上げるのに長時間を覚悟 ⇔ (6)何か秘法を知ればすぐに弾けるようになるものと夢想
(7)お手本を弾かれた際、ある程度は吸収 ⇔ (8)ポカーンと傍観
(9)入試やコンクールの内部裏事情をgetすれば元が取れる ⇔ (10)有名人の師事歴が書けると嬉しいな
(11)曲を練習するのは基本的に義務感からなので、新しい課題は面倒なだけ ⇔ (12)好きな曲・好きな楽器を好きなタイミングで練習するのにワクワク
(13)才能が無いことは薄々気付いている ⇔ (14)自分は本当は天才だと思っている
(15)それでも音楽業界に身を置きたい ⇔ (16)音楽を仕事にするほどアホでは無い

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専門学生の中には、「弾けてしまう子」と「弾けない子」がいます。これも、情報授受におけるリテラシーの問題として、考えてみましょう(過去記事再掲)。
【弾けてしまう子の場合】・・・・・弾けてしまう子はしばしば、教師の言うことを聞きません。3割先生、7割自分。先生側も、好きにさせておくことが多い。
さて、こういう子が教える立場になると、なにせ、いつのまにか弾けてしまうので、「どうして弾けるのか」を省察・言語化していることは稀です。ですので、なぜ生徒の指が回らないのか理解出来ない。ムカデに歩き方を尋ねるようなもので、善意でのアドヴァイスも生徒の混乱を招いたり、表層的な効果を狙うだけになりがちです。
【弾けない子の場合】・・・・・・弾けない子はしばしば、教師の言うことに振り回されます。7割先生、3割自分。教師側も、まさか自分の言ったことが、生徒の可能性を凋めているとは夢にも思っていません。
さて、こういう子が教える立場になると、さらに話はややこしい。ピアノを20数年誰かに師事して、ピアノは弾けるようにならなかったが、ピアノを「教える」ことは出来るようになった。なんとなれば、20数年間耳にタコが出来るほど聞かされた言葉を、自分で理解も納得も実践もすることなく、適当に復唱していれば商売になるからです。いわく、「もっと力を抜いて」「もっと感情を込めて」。 (→振り出しに戻る→)

生徒としての良し悪しは、ある情報が目の前を通過していった際に、その後ろ髪を毟り取るべく手を伸ばすか伸ばさないか、で明暗が分かれます。「こういうムズカシイ説明がしてある本(or授業)は分からない」と尻込みするのも困り物だけれど、「これなら知っている」と早合点するのはそれより遥かに危険でしょう。
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演奏家と現代作品の関係にも、この種の類似性が見られます。現代曲を「未知の課題」と置き換えれば、これは「専門家的」「アマチュア的」とまったく平行現象です(再掲)。
一般的 ⇔ 現代曲プロパー的
(A)楽器は上手いが現代曲に興味が薄い ⇔ (B)楽器は下手だが現代曲を長時間我慢して練習出来る
(C)評価が確立していて既に参照録音も存在するような作品なら弾く ⇔ (D)新作初演上等、作曲家とのコラボも好き
(E)誰かに演奏法を教えてもらえるなら弾く ⇔ (F)職人は自分で道具を作って手入れするもの、練習法など自分で開発して当然
(G)汎調性、汎パルスの弾き易い曲なら弾く ⇔ (H)メロディもパルスも無いノイズ系上等
(I)歌ったりアクションしたりするなど考えられない ⇔ (J)叫ぶのも脱ぐのも大喜び

教育課程には一応のゴールが設定されています。エリートであればあるほど、ゴールよりも先の譜面に遭遇した場合――すなわち、「初見でだいたいのところが掴めない」作品の場合――、脆くも思考停止になりがちです。優れた演奏能力を持ち、現代音楽に多大の関心がありながらも、上記の「左項系」(中ん就く(G)⇔(H)の「反ノイズ系」)に収束してしまうのは、こういった音楽教育の知られざる弊害と言えます。
「アルゲリッチのテンポ・ルバートを耳コピー出来る俺って、凄くね?」的な発想は、アマチュア・プロを問わずよく見かけるものですが、いまや古楽や現代音楽の分野にもこの悪習が広がりつつあるようです。先だって聞いた米人奏者によるクセナキス《エヴリアリ》(しかも複数)は明らかに高橋アキ盤を下敷きにしていましたし、《シナファイ》についても同じ感想を持った演奏がありました(聞けば分かります)。譜面から自分の解釈を組み立てられないのなら、現代曲などに手を出すべきではありません。

爛熟ロマン派と現代のピアノ曲の一部には、大量の音符をモーレツな勢いで演奏させる、「超絶技巧作品」なるカテゴリーが存在します。これを好んでレパートリーとして取上げるのが、「超絶技巧ピアニスト」です。
B.カニーノはシュトックハウゼンのピアノ曲のうち、第1~第11番全曲を弾いたそうです(第10番除く)。「第10番は弾いていない」というコメントを聞いたときに、「ああ、あの曲は特にリズム表記が錯綜を極める上に、音符が多くて指が回らないからだろう」、などと思っていたものでしたが、これには別の見方もあります。第10番を弾いているピアニストは、(i)リズム表記ならびにデュナーミク指定を完全に無視して弾きまくっているだけ(初演者ジェフスキーなど)か、(ii)楽譜のテクスチュアそのものが本来内含する修辞論的理想像に肉薄するのを途中放棄しているか、のどちらかにおよそ二分出来ます。逆に言うと、「楽譜から音高以外の情報を読み取る能力が無ければ無いほど―――すなわち音高以外の音楽情報を捨象出来るほど―――、超絶難曲は弾きやすい」、ということです。
ここで一つ、答えが出ました。「音高以外、特にリズムはケンチャナヨ」。リゲティのエテュード集がこれだけ幅広く弾かれるようになったのは、汎調性でロマンチックな演奏効果を持つことに加えて、「リズムを数えなくて良い」ことが大きいと思います。ブーレーズ初期作品だって、最初に音高さえ我慢して拾ってしまえば、あとはポリーニのCDでリズムを「覚える」だけで、莫迦でも「弾ける」ようになります。