2-d. 変化のプロセス、抑制と忍耐
●変化はゆっくり、案ずるな
変化は、非常にゆっくりであることが普通です。不具合の度合いが大きいほど、一瞬垣間見える光芒は所詮表層的なものだとあらかじめ悟ったほうが、後の落胆は小さいでしょう。「毎日わずか数分間××さえすれば、誰でも簡単にラクラク××出来る」、などという惹句は、まずは疑ってかかるのが社会人のたしなみです。射幸心を煽るような、その場限りのショーに惑わされてはいけません。
明らかに正論だと分かっているような指針を、ちょっとは真面目に徹底させる程度のことでも、かなり必死で喰い付いてみて、2~3年経って窓の方角が何とか分かれば、まだ儲け物なくらいです。他人の言うことを鵜呑みにすべきではありませんが、踏み台として利用するのも悪くない。ピアノ教師が生徒の日々の進歩を丁寧に指摘・確認してあげることは、生徒のモチヴェーション向上につながるでしょうが、一方、筋肉の質の微細な変化、などというものは本人にしか分からない、あるいは本人でも分からないようなことです。自分で体感出来ないことは中々納得しにくいし、また体が徐々に動き出したとしても、解決に向けて明瞭に道筋が見えるプロセスでもないので、当然紆余曲折がある。積み上がりが感じられない恐怖に怯え、盲滅法に様々な方法を試行錯誤した挙句、どれも継続しないので結果も付いてこない。まさに賽の河原のシジフォス状態です。
息を整えて冷静になりましょう。ことあるごとに原則に立ち帰るのは、思考停止でも敗走でもありません。自分の体の自浄作用を信じてみるのも非常に大事です。ドラマの結末を知らなかった昨日の自分へは決して戻れないのと同様に、筋肉の状態は日々変化しています。ジャブを打ったら、パッと数歩さがって様子を見、プラトー時の心理を楽しむ余裕(習慣)を持ちたいものです。接近戦で打ち合いになると、事態は膠着します。
今までの駄目な自分をがむしゃらに全否定するのも、反動で元の木阿弥になる危険を胚胎するようです。長年の慣行に対しては、「今までごくろうさま、でも今はその癖はなくても私はやっていけそうよ。」と言ってあげるつもりくらいが、丁度良いようです。 カットアウトではなくフェイドアウトの方が、後腐れも無いし本卦還りもしなくて済む、ということでしょう。そのくらいのことでさえ、幾許かの勇気と決意を要します。
ぶっちゃけ、膠着状態の打開プロセスとしては、(1)指が回らない(体のどこかに痛みや突っ張りなどは感じない) ⇔ (2)指が回らない(体のどこかに痛みや突っ張りなどが感じられる) ⇔ (3)指が或る程度は回る(体のどこかに痛みや突っ張りなどが感じられる) ⇔ (4)指が回る(体に痛みも突っ張りもない)、といったあたりが典型的のように思われます。無理の無い範囲でのエクササイズを、と言われても、筋肉の使い方くらいすぐ変えられる筈、とナメてかかって、どうしても功を急いでしまうからです。
名人とは、学習時に(1)から直接(4)の状態へと何事も無く進み、その後ずっと(4)の状態を維持出来る方のことでしょう。プロや専門学生でも、騙し騙し(3)に甘んじる人も多い。初学者は(2)と(3)の間のグレーゾーンをウロウロしています。おおよそ(4)を維持している上級者であっても、加齢などにより、(4)から(3)を経て(2)や(1)へ縮退してしまうことは有り得ます。
(4)から(1)への墜落のプロセスは滑らかである一方、(1)から(4)への悪戦苦闘はランダム・ウォーク(酔歩)になるのが普通で、しかも不要な硬直が体感出来るのは「緩まってから」です。お気軽な解法は無い代わりに、演奏業に付き物の「運」や「人間的魅力」といった要素は介在していない点では、「二足歩行出来るようになる」「言葉で会話するようになる」程度に、誰にでも踏破可能な過程かもしれません。
●自分・他人による言い訳にすがらない
何かが出来ないとき、壁にぶつかったときに、それを糊塗するためのさまざまな言い訳が用意されているものです。
曰く、「才能が無いから」、「もうトシだから」、「楽器が良くないから」、「練習時間が足りないから」、「小さい頃からやってないから」、「小さい頃からやってるのに駄目だから」、あるいは、「誰もそんなことしてない」、「出来た人を見たことが無い」、「そんなことしたって誰にも聴き取れない」、「医学的に解明されていない」、はたまた、「聞いてるほうも楽しく無いと思うんだよね」、「音楽は音を楽しむと書くのです」、「昔の楽器ってのは過渡期の未完成品だからね」、「作曲者もそんなことは望んで無かったと思うんだよね」、等々。自分の今いる地点から一歩も動きたくない、という、心と耳の保守反動。それに振り回されないことです。「よそはよそ、うちはうち」を徹底しましょう。あきらめた時点で試合終了です。
100メートル走の世界新記録を目指すのならともかく、ピアノを快適に楽しむ程度のことに、人体能力の極限は求められていません。インナーマッスルを含む筋肉を「鍛える」ことは、ピアノの上達には直結していません。無負荷で無抵抗の感触を求めるのが基本です。太極拳・ヨガは東洋人向け、ピラティス・アレクサンダーは西洋人向け、などとしたり顔で語るのも、「バッハはドイツ人にしか理解出来ない」「ドビュッシーはパリジャンしか弾けない」、というレベルの戯言です。ガキより大人のほうが遥かに時間の使い方は理性的な筈ですし、指も長く大きくしっかりしているので、ガキに負けているのはせいぜい肩甲骨周りの柔らかさだけです。1800年以前は誰にでも出来ていたことが、現代人に再現不能なわけが無い。空気なんてものはアッという間に変わります。ロバート・レヴィンの名言、「1000人に一人しか分からない平行5度でも、我々は全力で避けなければならない。なぜなら、その一人が残りの999人に喋りまくるからだ」。
答えの用意された問いに高得点を取り続けてきたエリートは、あっけないほど瀬戸際に脆い。その根拠は他人の言説です。また、世代に関わらず、どこか彼方の夢の国にいつまでもいつまでも縋っていられる料簡は、よほど過去の薬物体験でも疑いたくなります。本を読めば読むほど、人の意見を聞けば聞くほど、「正しさ」に拘ってワンパターンに平べったくなる。これらは全て妙法の敵です。
●自分の体のことは、他人には分からなくて当然
医者もピアノ教師も理学療法士もボディワーカーも、他人の体のことはよく分からない点では同じです。医学部在籍あるいは卒業者の下手糞など、掃いて捨てるほど見て来ました。体が柔らかいだけでは効率的な打鍵は出来ないことは、子供ならびにピラトゥス熟練者等で目の当たりにしました。アインシュタインの稚拙なヴァイオリンに業を煮やしたシュナーベルの一言、「博士、あなたは数が数えられないんですか」、を引用するまでもなく、知能指数と演奏能力は比例しません。最高のボディ・ワーカーであっても、楽器の奏法については素人に過ぎませんから、なぜその余計な動きが発生するか、筋肉の必要な収縮と不必要な収縮の峻別については、右往左往するだけです。
この世にお手軽な便法など有り得ないことを悟れば、コールドリーディングの小細工でボッタクられることも無いでしょう。自分の体のことは、自分で調律するしか無い、と再度申し上げて、取り敢えずの結語とさせて頂きます。 (この項終わり)
●変化はゆっくり、案ずるな

明らかに正論だと分かっているような指針を、ちょっとは真面目に徹底させる程度のことでも、かなり必死で喰い付いてみて、2~3年経って窓の方角が何とか分かれば、まだ儲け物なくらいです。他人の言うことを鵜呑みにすべきではありませんが、踏み台として利用するのも悪くない。ピアノ教師が生徒の日々の進歩を丁寧に指摘・確認してあげることは、生徒のモチヴェーション向上につながるでしょうが、一方、筋肉の質の微細な変化、などというものは本人にしか分からない、あるいは本人でも分からないようなことです。自分で体感出来ないことは中々納得しにくいし、また体が徐々に動き出したとしても、解決に向けて明瞭に道筋が見えるプロセスでもないので、当然紆余曲折がある。積み上がりが感じられない恐怖に怯え、盲滅法に様々な方法を試行錯誤した挙句、どれも継続しないので結果も付いてこない。まさに賽の河原のシジフォス状態です。

今までの駄目な自分をがむしゃらに全否定するのも、反動で元の木阿弥になる危険を胚胎するようです。長年の慣行に対しては、「今までごくろうさま、でも今はその癖はなくても私はやっていけそうよ。」と言ってあげるつもりくらいが、丁度良いようです。 カットアウトではなくフェイドアウトの方が、後腐れも無いし本卦還りもしなくて済む、ということでしょう。そのくらいのことでさえ、幾許かの勇気と決意を要します。

名人とは、学習時に(1)から直接(4)の状態へと何事も無く進み、その後ずっと(4)の状態を維持出来る方のことでしょう。プロや専門学生でも、騙し騙し(3)に甘んじる人も多い。初学者は(2)と(3)の間のグレーゾーンをウロウロしています。おおよそ(4)を維持している上級者であっても、加齢などにより、(4)から(3)を経て(2)や(1)へ縮退してしまうことは有り得ます。
(4)から(1)への墜落のプロセスは滑らかである一方、(1)から(4)への悪戦苦闘はランダム・ウォーク(酔歩)になるのが普通で、しかも不要な硬直が体感出来るのは「緩まってから」です。お気軽な解法は無い代わりに、演奏業に付き物の「運」や「人間的魅力」といった要素は介在していない点では、「二足歩行出来るようになる」「言葉で会話するようになる」程度に、誰にでも踏破可能な過程かもしれません。
●自分・他人による言い訳にすがらない

曰く、「才能が無いから」、「もうトシだから」、「楽器が良くないから」、「練習時間が足りないから」、「小さい頃からやってないから」、「小さい頃からやってるのに駄目だから」、あるいは、「誰もそんなことしてない」、「出来た人を見たことが無い」、「そんなことしたって誰にも聴き取れない」、「医学的に解明されていない」、はたまた、「聞いてるほうも楽しく無いと思うんだよね」、「音楽は音を楽しむと書くのです」、「昔の楽器ってのは過渡期の未完成品だからね」、「作曲者もそんなことは望んで無かったと思うんだよね」、等々。自分の今いる地点から一歩も動きたくない、という、心と耳の保守反動。それに振り回されないことです。「よそはよそ、うちはうち」を徹底しましょう。あきらめた時点で試合終了です。

答えの用意された問いに高得点を取り続けてきたエリートは、あっけないほど瀬戸際に脆い。その根拠は他人の言説です。また、世代に関わらず、どこか彼方の夢の国にいつまでもいつまでも縋っていられる料簡は、よほど過去の薬物体験でも疑いたくなります。本を読めば読むほど、人の意見を聞けば聞くほど、「正しさ」に拘ってワンパターンに平べったくなる。これらは全て妙法の敵です。
●自分の体のことは、他人には分からなくて当然
医者もピアノ教師も理学療法士もボディワーカーも、他人の体のことはよく分からない点では同じです。医学部在籍あるいは卒業者の下手糞など、掃いて捨てるほど見て来ました。体が柔らかいだけでは効率的な打鍵は出来ないことは、子供ならびにピラトゥス熟練者等で目の当たりにしました。アインシュタインの稚拙なヴァイオリンに業を煮やしたシュナーベルの一言、「博士、あなたは数が数えられないんですか」、を引用するまでもなく、知能指数と演奏能力は比例しません。最高のボディ・ワーカーであっても、楽器の奏法については素人に過ぎませんから、なぜその余計な動きが発生するか、筋肉の必要な収縮と不必要な収縮の峻別については、右往左往するだけです。
この世にお手軽な便法など有り得ないことを悟れば、コールドリーディングの小細工でボッタクられることも無いでしょう。自分の体のことは、自分で調律するしか無い、と再度申し上げて、取り敢えずの結語とさせて頂きます。 (この項終わり)