・・・
(高橋氏から、私信のウェブ転載の御許可を頂きましたので、御紹介申し上げます。)
《 松下真一さんとは1960年代につきあいがあり 『大阪の秋』音楽祭に行ったり スウェーデンにいた頃 ハンブルクにいた松下さんを電子音楽スタジオに紹介して話をきいたこともあります 1965年のことです 話はまったくかみあわなかった 当時Pascual Jordanの束論を応用して音楽を作曲しているということでしたが どうやっていたのかも 他人にはわからないことです Jordanは元ナチで 南米に亡命していたが ハンブルクに帰ってすぐ 松下さんを呼んだようです
Denis Gaborのgranular synthesisはクセナキスのアイディアのもとになったものですが クセナキスのdynamic stochastic synthesisはその実現とは言えないでしょう いまはgranular synthesisで作られた音は多いけれど 一般音響理論ではなく 音色のひとつになってしまった
当時ストックホルムの放送局の電子音楽スタジオでFylkingenがやろうとしていたコンピュータ音楽創成期のシステムも 松下さんとはかかわりがなかったと思う
当時Knut Wiggen作曲の第1号試作をピアノで弾いたこともありましたが それはクセナキスともちがうやりかたでした 松下さんの『スペクトラ4番』や その後日蓮宗のためにつくった交響曲のピアノソロを弾いたこともありますが いつか疎遠になって 亡くなったことも知りませんでした
高橋悠治 (2010年2月) 》
(高橋氏から、私信のウェブ転載の御許可を頂きましたので、御紹介申し上げます。)
《 松下真一さんとは1960年代につきあいがあり 『大阪の秋』音楽祭に行ったり スウェーデンにいた頃 ハンブルクにいた松下さんを電子音楽スタジオに紹介して話をきいたこともあります 1965年のことです 話はまったくかみあわなかった 当時Pascual Jordanの束論を応用して音楽を作曲しているということでしたが どうやっていたのかも 他人にはわからないことです Jordanは元ナチで 南米に亡命していたが ハンブルクに帰ってすぐ 松下さんを呼んだようです
Denis Gaborのgranular synthesisはクセナキスのアイディアのもとになったものですが クセナキスのdynamic stochastic synthesisはその実現とは言えないでしょう いまはgranular synthesisで作られた音は多いけれど 一般音響理論ではなく 音色のひとつになってしまった
当時ストックホルムの放送局の電子音楽スタジオでFylkingenがやろうとしていたコンピュータ音楽創成期のシステムも 松下さんとはかかわりがなかったと思う
当時Knut Wiggen作曲の第1号試作をピアノで弾いたこともありましたが それはクセナキスともちがうやりかたでした 松下さんの『スペクトラ4番』や その後日蓮宗のためにつくった交響曲のピアノソロを弾いたこともありますが いつか疎遠になって 亡くなったことも知りませんでした
高橋悠治 (2010年2月) 》