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3月3日《イギリス組曲》

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【第二夜】2010年3月3日(水)
J.S.バッハ:イギリス組曲 Englische Suiten (全6曲)

19:00 開演 (18:30 開場)
山村サロン (JR芦屋駅前ラポルテ本館3F) tel. 0797-38-2585  yamamura[at]y-salon.com
当日券のみ・全自由席3000円

3月3日《イギリス組曲》_c0050810_19475100.jpg
第1番イ長調 BWV 806
Prélude - Allemande - Courante I/II - Sarabande - Bourrée I/II - Gigue

第2番イ短調 BWV 807
Prélude - Allemande - Courante - Sarabande - Bourrée I/II - Gigue

第3番ト短調 BWV 808
Prélude - Allemande - Courante - Sarabande - Gavotte - Gigue

第4番ヘ長調 BWV 809
Prélude - Allemande - Courante - Sarabande - Menuett I/II - Gigue

第5番ホ短調 BWV 810
Prélude - Allemande - Courante - Sarabande - Passepied I/II - Gigue

第6番ニ短調 BWV 811
Prélude - Allemande - Courante - Sarabande /Double - Gavotte I/II - Gigue
《イギリス組曲》曲目解説 

3月3日《イギリス組曲》_c0050810_834768.jpg  ヴィルヘルム・エルンスト公爵家のトラブルに巻き込まれ、ヴァイマルで宮廷オルガニストの職を逐われたバッハが、そこから北東へ100キロ程離れたケーテンでアンハルト=ケーテン侯レーオポルトに宮廷楽長(Kapellmeister)として仕え始めたのは1717年のことだった。教育熱心であったバッハは、この時すでにオルガニスト育成を念頭にルター派の聖歌を編曲した《オルガン小曲集》(Orgelbühlein, BWV599-644)を書き上げている。後に“ハレのバッハ”として名を馳せる長男ヴィルヘルム・フリーデマンはこの時7歳になっており、この頃からバッハは自分の子供たちや生徒の音楽教育を目的とする鍵盤楽器のための作品の制作に一段と意欲的に取り組むことになる。音楽を愛し、理解したレーオポルト候の下で、作曲家、演奏家としてのバッハの創作意欲、また楽器の音楽的特性への関心も同時に刺激されていたはずで、1719年頃には熱心に楽譜を収集したり、ベルリンに赴いて新しいチェンバロを購入したりしている。《ブランデンブルク協奏曲第5番》(ニ長調、BWV1050)は、特にこのチェンバロのために作曲されていると見られ、この作品を演奏することでバッハはソロイストとしての名人芸も披露したに違いない。 バッハにとって、作曲法、演奏法、楽器の構造研究、そして音楽教育は緊密な関係で結ばれていたのである。1723年バッハがライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督(Kantor)に就任したすぐ後に彼に学んだH. N. ゲルバーによると、バッハのレッスンは、上述のヴィルヘルム・フリーデマンのために書かれた《インヴェンションとシンフォニア》に始まり、長短全24調を網羅した前奏曲とフーガから成る《平均律クラヴィーア曲集》によって締めくくられたという。可能な限り音楽的多様性に富んだ作品群を、技巧の段階的な発展に合わせて導入するという方式だ。チェンバロ独奏のための作品の様々なスタイルを統合し展開する試みである《イギリス組曲》と《フランス組曲》は、このような“バッハ・メソッド”において教材として取り上げられることもあっただろう。

3月3日《イギリス組曲》_c0050810_85123.jpg  《イギリス組曲》の各曲の正確な作曲年代はわかっていないが、1720年代の前半に作曲されたと見られる《フランス組曲》より数年早く、ヴァイマル時代後期には既に着手されていたとみられる。バッハは1730年代もこれらの作品の改訂を続け、また現存する写譜にはバッハ以外の人間による装飾音も施されており、このうちのどれがバッハの演奏やレッスンに基づくものかは判断が難しい。《イギリス組曲》も《フランス組曲》も、 演奏のための“決定稿”と呼べるようなバッハの清書自筆譜は残っていないのである(《平均律クラヴィーア曲集》第2巻なども同様)。「イギリス」というタイトルはバッハによるものはなく、初期の史料にも見られない。バッハの最初の伝記(1802年出版)の筆者であるJ. N. フォルケルは、これら6つの組曲はあるイギリス人貴族のために作曲されたので《イギリス組曲》として知られているとするが、これは証拠に乏しい。音楽そのものに関しては、後述するように《イギリス組曲》にイギリス的な要素はほとんどないと言ってよい。

  バッハの鍵盤組曲はすべて、アルマンド(ドイツ)・クーラント(イタリア)・サラバンド(スペイン)・ジーグ(イギリス)と、4つの国の舞曲を緩・急・緩・急の順で並べる配列を基礎としており、このような“バロック組曲”の形式を確立したのは、17世紀の南ドイツの作曲家、フローベルガーであるとされている(バッハの組曲では、この枠組みにギャランテリィエン(Galanterien)と呼ばれる楽章が幾つか加えられる)。しかし、18世紀にこのジャンルがチェンバロのための音楽を代表するようなものになるまで発展したのは、シャンボニエールからフランソワ・クープラン(“大クープラン”)に至るまでのフランスの作曲家達の功績によるところが大きい。18世紀フランスの美学では“良い趣味(le bon goû)”と呼ばれる定義の難しい微妙な概念が一つの理想として論じられた。バッハがこのスタイルを学んだのは、主にイギリスで活躍したフランスの作曲家デュパールや、前述のクープランなどの作品からである。もちろん、バッハの作品群はそういった伝統の単純な模倣ではない。彼の組曲では、フランス的なホモフォニックで比較的自由な様式と、ドイツの伝統的な様式である模倣的対位法による和声の強い構築感との統合が試みられており、また、《イギリス組曲》第2~5番のプレリュードではイタリアの管弦楽書法であるリトルネロ形式の“協奏曲(concerto)”のスタイルがとられている(最後の2曲ではそれにフーガが融合される)。このように、各国の様々なジャンルやスタイルを実験的に組み合わせることによって、バッハは、後に後期バロックの代名詞ともなるような彼独特のイディオムを築き上げたのである。

3月3日《イギリス組曲》_c0050810_854714.jpg  協奏曲ではなく3声のシンフォニアに近い形のプレリュードを有し、続く楽章の性格も随所で残りの5曲とはやや異なる第1番(イ長調)は、他よりも後に作曲されたと考えられる。プレリュードは即興的で華やかな短い導入部に始まり、その後に現れる主題は、デュパールの《6つの組曲》第1番と、ガスパール・ル・ルーの《クラヴサン曲集》のジーグの主題との共通点が見られる。アルマンドで見られる、持続低音の上に分散和音で音をちりばめるような形はフローベルガー的だが、ここでは冒頭の主題が要所で反復され、即興性の中にも統一感が感じられる。6曲の中でクーラントが2つ入っているのは第1番だけで、2つのドゥーブルではバッハの想像力に富む変奏技法が味わえる。サラバンドはフランス舞曲の伝統的なリズムを保ちつつもイタリア風の装飾が施されており、きらびやかな分散和音の微妙な操作はチェンバロ音楽の醍醐味である。2つのブーレはバッハの初期の組曲に属する同種の曲よりも対位法的で、1つ目の後半では弦楽器の弓を使ったヴィブラートを模すような、4分音符2つをスラーでつないだ音型が低音部に現れる。終曲のジーグの主題はプレリュードの主題との類似性が感じられる。前半部後半部共に最後のフレーズには「p」の強弱記号が付されており、冒頭の主題がほのめかされる。これは当時のフランスの作品に見られた“小さな反復(petite reprise)”に倣ったものだ。

  第2番(イ短調)のプレリュードの冒頭の鋭い跳躍を伴う動機はどこか幾何学的な印象を与える。属音が低音部で保持される経過部の右手のパターンはヴァイオリン的、その後の挿入句で導入される動機は前打音によってダウンビートが強調され情熱的である。アルマンドにはインヴェンションのような模倣構造が注意深く組み込まれており、冒頭1小節目の右手に現れる主題は、まず次の小節でオクターヴ下に左手で反復され、後半の始めには自由に反行(上下転回)して現れる。続くクーラントでも、この舞曲の伝統的なアクセントと規律正しく運動する8分音符のパッセージが統合された、新しい音の秩序がつくりだされている。サラバンドは装飾無しの楽譜と装飾が施された楽譜が別々になっていて、これはフランソワ・クープランが《クラブサン曲集》第1巻で採用した手法である。バッハは続く第3番でもこのようにサラバンドを書いているが、2つの稿がどのような順序で演奏されたのかは定かでない。反復時に装飾を含む方を演奏するというやり方は18世紀の中盤以降、C. P. E. バッハによって広められたものである。1つ目のブーレの伴奏パターンは一見単純だがたぎるような勢いを持っていて、2つ目のブーレとの対比を明確にする効果もある。ジーグの終わりには冒頭に繋がるような第2の終結部が用意されており、演奏者の判断で楽章を丸ごとリピートすることもできるようになっている。

3月3日《イギリス組曲》_c0050810_862423.jpg  第3番(ト短調)のプレリュードは、リトルネロ形式のお手本といってもよい程整然と構築されている。トゥッティに当たる部分では重厚な和音が大胆に刻まれ、ソロに当たる挿入句では2本のヴァイオリンと通奏低音の3声が技巧的に絡む。3回目の挿入句の後、リトルネロ主題が回帰するまでの経過部の鮮やかでドラマティックな盛り上がりは特筆に値する。アルマンドでは模倣される主題がまず左手に現れるのが特徴的で、暗闇から静かに湧きあがるようで、しかし後半この主題が反行すると、今度は一筋の光が降りてくるようだ。続くクーラントのリズムはかなり複雑で、3/2拍子の上に4/4拍子が右手と左手で2拍分ずれて現れるが、曲の終わりではこの2つが足並みを揃え、3/2拍子で2小節分のスペースに4/4拍子のリズムが3小節分入る形で見事に締めくくられる。サラバンドでは深く重たい持続低音の上で陰鬱に展開する和声と閃くような装飾音が神秘的だ。冒頭の低いト音を始め、持続音が3~7小節に渡って保持される部分があるが、チェンバロの音の減衰性質上、記譜されている長さ通りに奏するのは事実上不可能である。そこで、演奏者はそのような音を適宜再打鍵することもある。これはフレスコバルディも、そしてもちろんバッハも認めていた奏法である。1つ目のガヴォットでは、中間部で左手に現れるドラムのようなト音の連打が印象的。2つ目のガヴォットは「ガヴォットIIあるいはミュゼット」と補足している版もあり、バグパイプの持続低音を模したドローン音は、前述のように何度か再打鍵されることもある。終曲のジーグは2つの主題を持つフーガである。

  後から作曲された第1番を除けば《イギリス組曲》で唯一長調で書かれている第4番(ヘ長調)は、演奏時間も最も短く、対位法的な書法が晦渋な印象を与えがちな一連の組曲の中でも親しみやすい作品である。16分音符の音階的な主題と、装飾音を交えた付点のリズムによる応答主題が生き生きと駆け抜けるプレリュードは、様々なオーケストレーションが実に見事に表現されていて彩り鮮やか。アルマンドでは16分音符と16分の3連符が交互に現れ、《パルティータ》第5番(ト長調)のアルマンドを想起させる。1小節分の長さの動機の模倣によるかわいらしい小ぶりのクーラントの後には、これもまた短めのサラバンドが置かれている。綿密な装飾はなく、比較的平易にまとめられている。続くメヌエットは2つとも標準より長めで、バッハは低音部を積極的に動かすことで、この比較的単純な舞曲形式に対位法的な面白みを加わえている。ジーグはヘ長調に親和性の高い角笛のファンファーレ的な主題で始まる。冒頭は3声のフーガのようでもあるが、曲の大部分は2声で明快な推進力を持って展開し、後半ではオクターヴで跳躍する音型が瑞々しい。

3月3日《イギリス組曲》_c0050810_873783.jpg  すべての楽章の完成度が高く、組曲としての規模も堂々たる第5番(ホ短調)は、《イギリス組曲》の白眉と言えるかもしれない。怒濤のごとく駆け抜けるプレリュードはダ・カーポ形式のフーガで、中間部はさらに半分に分けることができる。極めて動的なフーガ主題が巧みに展開されていく中で、《ブランデンブルク協奏曲》第3、4番で使われているようなソロ楽器の音型も垣間見える。経過句には持続音が効果的に使われており、蒸気機関車のように音楽は熱を帯びていく。アルマンドの主題は細かく鋭角な跳躍を多く含み、後半で反行して左手に現れた後、両手がゆっくりと互いに近づいていく(音域が狭まっていく)部分で厳しい緊張感をつくる。続くクーラントでは、バッハはこのフランス舞曲の伝統的な形式を踏襲するのをやめ、小節の終わりに来るアクセントが独特な動機を曲を通して発展させる、という手法をとっている。サラバンドはギャラント様式を意識して書かれており、細かい装飾も控えめ。パスピエはアップビートから始まる細かい旋律を伴うメヌエットのような形式で、1つ目はロンド形式で書かれているが、これはバッハの作品では珍しい。終曲のジーグはより完全なフーガに近づいており、ここではほぼ全曲を通して3声である。4小節の主題には半音階的な動きと持続音が組み込まれており、その緊迫感は第5番の全楽章を貫くものである。

  第6番(ニ短調)は《イギリス組曲》の最後を飾るにふさわしい大規模で野心あふれる作品である。プレリュードはアルペジオを基にした37小節にわたるあでやかな導入部を含み、この楽章だけで1つの「プレリュードとフーガ」を成している。このフーガに相当する部分だけでも他の5曲のプレリュードのどれよりも長大である。フーガの主題は音階的動機からなる1小節のシンプルなものだが、その可能性を隅々まで開拓しきって曲全体のテクスチャを決定させるまでに昇華させるバッハの技法は圧倒的だ。他の幾つかのプレリュードでも見られたように、持続音を活用したパッセージが要所に配置され、最初の主題が回帰する前には第3番のプレリュードにあったような特徴的な経過部もある。アルマンドは第5番のそれに劣らず高い緊張感を伴う音楽であり、模倣される動機は慎重に配置されている。クーラントではフランス風のメロディとイタリア風の8分音符で動き回るベースラインが組み合わされている。続くサラバンドでは、ソプラノとバスが半音階も交えながらゆっくりと進む。ドゥーブルでは流れるような8分音符が彩りを加え、終結部手前ではサラバンドでは珍しいヘミオラも登場する。1つ目のガヴォットは4小節を1単位とした親しみやすい主題が掲示されるが、中間部では音楽的な流れの中でこの一定の小節感は一度失われ、主題が主調で回帰するまで復帰しない。主音の持続音を基礎とした2つ目のガヴォットは田舎のミュゼット音楽風で、素朴なメロディラインが楽しい。《イギリス組曲》全体の根底にある対位法的作曲技法への関心は、終曲ジーグにおいて頂点に達する。半音階を交えて和音の音を拾うような主題をはじめ、前半部に掲示される素材の多くは後半でそのまま反行して現れ、この時期のバッハの作品としてはかなり大きな規模のフーガが構築されている(ただし完全な鏡像フーガにはなっておらず、調性の一貫性を保つために後半部には様々な微調整が施してある)。バッハのフーガ書法はもちろんこの後も進化を続け、その集大成は最晩年の《フーガの技法》だが、《イギリス組曲》全6曲を緊張感を持ってまとめあげるこの曲も、この到達点へ続く道程の一つのマイルストーンである。

Yuuki Ohta
by ooi_piano | 2010-02-28 03:10 | コンサート情報 | Comments(0)

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