音研入部当時のこと、その後の余聞
大井浩明(1987年入学、Pf/Vc)
十字屋ピアノサービスの調律師の方から、「京大教養部のサークルで、グランドピアノが置いてある部室がある」、と聞いたのは、入学直前の1987年3月のことでした。
小学校3年~4年の頃に近所のピアノ教室へ2年弱通ったものの、チェルニー30番へ入ったところで中断、そのまま誰に習うこともなく、鍵盤がふにゃふにゃの電気ピアノで、弾きたい曲を弾きたい時に弾き散らかしていました。当時の小遣いでは一枚3000円のLPを買う余裕もなく、例えばショパンの《スケルツォ第3番》がどんな曲なのかを知ったのも、大学に入ってからでした。中学・高校の音楽室や講堂にあるグランドピアノは、せいぜい合唱コンクールの本番くらいでしか触らせてもらえなかったので、「やっとグランドピアノを思う存分弾ける」、と心が躍ったものです。
同期入学の野村誠君(理)は、入試時にメシアン《星の血の喜び》を口ずさみながら数学の問題を解いた、というくらいのメシアン好きで、早速《アーメンの幻影》全曲を例会で共演しました。彼のピアノ、私のチェロ、澤民樹君(経)のヴァイオリン、前田純宏さん(医)のクラリネットで、《時の終わりの四重奏曲》全曲を関西日仏学館で演奏したこともありました。澤君の弾くアイヴズのソナタを伴奏したのは、いつのことだったか。
一回生の11月祭でのSebastian(※部室を利用した喫茶店)で、ショパンの1番・2番・スピアナート・クラコーヴィアクを2台ピアノで弾いた黒歴史は、伴奏して下さった勝矢(鈴木)陽子さん(農)に言われて、久々に思い出しました。なぜかスクリャービン・ソナタ全10曲制覇も目指していて、マイナーな第1番からチマチマさらってました。
同期では、野村真技子さん(文)も連弾相手をして下さったお一人です。彼女はヤマハ・ジュニアオリジナルコンサートで、西村由紀江・望月京・渡辺睦樹・横山幸雄らに混じって自作のピアノ協奏曲(!)を発表していた人でした。早期教育を受けていた、ということでは、海野義雄と尾花輝代允に師事し東京藝大を目指していた京大オケ・コンミス(文)等も同学年にいましたので、「そのスジで頑張る」、という発想は、あの当時でさえ有り得ませんでした。
この年の京都文化芸術会館での音研定演で、タンバリンを叩きながら猛烈な即興演奏を披露して、観客をドン引きさせたのが、河合拓始さん(経)です。河合さんからは、近藤譲《線の音楽》を始めとする音源・楽譜を大量に貸してもらい、野村君と貪るように聞きました。河合さんはその翌年、東京藝大大学院楽理科へ移られました。ハイマート合唱団からの参加で、4回生だった飯田みち代さん(教)が《愛の死》を熱唱なさったのも、この定演だったのでは無かったかな。
ピアノやチェロは勝手気儘に弾いていただけでしたから、28歳になってスイスの音大ピアノ科へ留学する時点で、先生に最も「師事」していた楽器は、実は三味線だったかもしれません。一回生から二回生にかけて、須山知行社中(生田流)の師匠に毎週真面目に通ってましたが、左手人差し指の爪を伸ばすのと正座がどうしても無理で、これも中途で挫折しました。
2003年12月に音研同窓会主催により京都コンピュータ学院で行った、鈴木貴彦君(総人)との2台ピアノ演奏会では、野村誠君への委嘱新作とともに、同じく音研OBの千秋次郎氏作品も取り上げました。鈴木貴彦君は、東京藝大ピアノ科現役入学するも3日間で行くのをやめ、新疆ウイグル自治区を放浪したのち、総合人間学部一期生として入学して来た人です。終演後、楽屋に長尾真学長御夫妻がお見えになり、クセナキスCDにサインを所望されたのは、電気工学科ドロップアウトの私としては冷汗三斗の至りでした。聞くところでは前原誠司代議士も音研OBだそうで(ホンマかいな)、この日は急遽出演が決まったサンデープロジェクトのため、御来駕頂けなかったとの事でした。
2005年6月の京大創立記念日でのオルガン・リサイタルでは、バッハやヴィドール等のクラシック曲の他に、河合拓始さんへの委嘱新作を初演しました。ほとんど無音、あるいは単音の状態が延々35分続く、という作風で、学生・教職員の皆さんが引き潮のように退出していったそうです。アンコールでは、これも音研OBの木下博史君による、学歌《九重に花ぞ匂へる》と応援歌《新生の息吹に充ちて》を組み合わせた小品を演奏しましたが、元々のメロディ自体、誰にも気付いてもらえなくて、残念ながらドン滑りでした。
2010年(今年)は、松下眞一氏(1922-1990)の歿後20周年の追悼演奏会を行っています(2月/京都、9月/東京)。戦後直後の三高音楽部が松村禎三氏によって立ち上げられ、それが学制改革によって京大音楽研究会へ移行した経緯については、今年4月に刊行されたばかりの木村敏氏『精神医学から臨床哲学へ』(ミネルヴァ書房)に詳述してあります。松村氏のエッセイによると、「戦前の」三高音楽部を1937年頃に創設したのが、松下眞一氏だったようです。生前は数学者としても作曲家としても国際的にも目覚しい評価を受けながら、幾つかの要因により松下作品は長らく放置されていました。このたび、音研OBで同じ数学者でもある松井卓氏(理)のプロデュースにより、新発見の遺作の初演を含めた作品個展を、どうにか実現に漕ぎ着けました。東京公演では、松下氏《スペクトラ第6番》の未完の後半六曲について、残されたタイトルによる空想作曲を、同じ数学科出身の野村誠君が手がけてくれています。松下氏の譜面には謎も多く、1990年12月までは電車で20分の茨木で御存命でしたから、いくら難人物であっても、あのとき特攻しておけば・・・、と思う今日この頃です。(了)
大井浩明(1987年入学、Pf/Vc)
十字屋ピアノサービスの調律師の方から、「京大教養部のサークルで、グランドピアノが置いてある部室がある」、と聞いたのは、入学直前の1987年3月のことでした。
小学校3年~4年の頃に近所のピアノ教室へ2年弱通ったものの、チェルニー30番へ入ったところで中断、そのまま誰に習うこともなく、鍵盤がふにゃふにゃの電気ピアノで、弾きたい曲を弾きたい時に弾き散らかしていました。当時の小遣いでは一枚3000円のLPを買う余裕もなく、例えばショパンの《スケルツォ第3番》がどんな曲なのかを知ったのも、大学に入ってからでした。中学・高校の音楽室や講堂にあるグランドピアノは、せいぜい合唱コンクールの本番くらいでしか触らせてもらえなかったので、「やっとグランドピアノを思う存分弾ける」、と心が躍ったものです。
同期入学の野村誠君(理)は、入試時にメシアン《星の血の喜び》を口ずさみながら数学の問題を解いた、というくらいのメシアン好きで、早速《アーメンの幻影》全曲を例会で共演しました。彼のピアノ、私のチェロ、澤民樹君(経)のヴァイオリン、前田純宏さん(医)のクラリネットで、《時の終わりの四重奏曲》全曲を関西日仏学館で演奏したこともありました。澤君の弾くアイヴズのソナタを伴奏したのは、いつのことだったか。
一回生の11月祭でのSebastian(※部室を利用した喫茶店)で、ショパンの1番・2番・スピアナート・クラコーヴィアクを2台ピアノで弾いた黒歴史は、伴奏して下さった勝矢(鈴木)陽子さん(農)に言われて、久々に思い出しました。なぜかスクリャービン・ソナタ全10曲制覇も目指していて、マイナーな第1番からチマチマさらってました。
同期では、野村真技子さん(文)も連弾相手をして下さったお一人です。彼女はヤマハ・ジュニアオリジナルコンサートで、西村由紀江・望月京・渡辺睦樹・横山幸雄らに混じって自作のピアノ協奏曲(!)を発表していた人でした。早期教育を受けていた、ということでは、海野義雄と尾花輝代允に師事し東京藝大を目指していた京大オケ・コンミス(文)等も同学年にいましたので、「そのスジで頑張る」、という発想は、あの当時でさえ有り得ませんでした。
この年の京都文化芸術会館での音研定演で、タンバリンを叩きながら猛烈な即興演奏を披露して、観客をドン引きさせたのが、河合拓始さん(経)です。河合さんからは、近藤譲《線の音楽》を始めとする音源・楽譜を大量に貸してもらい、野村君と貪るように聞きました。河合さんはその翌年、東京藝大大学院楽理科へ移られました。ハイマート合唱団からの参加で、4回生だった飯田みち代さん(教)が《愛の死》を熱唱なさったのも、この定演だったのでは無かったかな。
ピアノやチェロは勝手気儘に弾いていただけでしたから、28歳になってスイスの音大ピアノ科へ留学する時点で、先生に最も「師事」していた楽器は、実は三味線だったかもしれません。一回生から二回生にかけて、須山知行社中(生田流)の師匠に毎週真面目に通ってましたが、左手人差し指の爪を伸ばすのと正座がどうしても無理で、これも中途で挫折しました。
2003年12月に音研同窓会主催により京都コンピュータ学院で行った、鈴木貴彦君(総人)との2台ピアノ演奏会では、野村誠君への委嘱新作とともに、同じく音研OBの千秋次郎氏作品も取り上げました。鈴木貴彦君は、東京藝大ピアノ科現役入学するも3日間で行くのをやめ、新疆ウイグル自治区を放浪したのち、総合人間学部一期生として入学して来た人です。終演後、楽屋に長尾真学長御夫妻がお見えになり、クセナキスCDにサインを所望されたのは、電気工学科ドロップアウトの私としては冷汗三斗の至りでした。聞くところでは前原誠司代議士も音研OBだそうで(ホンマかいな)、この日は急遽出演が決まったサンデープロジェクトのため、御来駕頂けなかったとの事でした。
2005年6月の京大創立記念日でのオルガン・リサイタルでは、バッハやヴィドール等のクラシック曲の他に、河合拓始さんへの委嘱新作を初演しました。ほとんど無音、あるいは単音の状態が延々35分続く、という作風で、学生・教職員の皆さんが引き潮のように退出していったそうです。アンコールでは、これも音研OBの木下博史君による、学歌《九重に花ぞ匂へる》と応援歌《新生の息吹に充ちて》を組み合わせた小品を演奏しましたが、元々のメロディ自体、誰にも気付いてもらえなくて、残念ながらドン滑りでした。
2010年(今年)は、松下眞一氏(1922-1990)の歿後20周年の追悼演奏会を行っています(2月/京都、9月/東京)。戦後直後の三高音楽部が松村禎三氏によって立ち上げられ、それが学制改革によって京大音楽研究会へ移行した経緯については、今年4月に刊行されたばかりの木村敏氏『精神医学から臨床哲学へ』(ミネルヴァ書房)に詳述してあります。松村氏のエッセイによると、「戦前の」三高音楽部を1937年頃に創設したのが、松下眞一氏だったようです。生前は数学者としても作曲家としても国際的にも目覚しい評価を受けながら、幾つかの要因により松下作品は長らく放置されていました。このたび、音研OBで同じ数学者でもある松井卓氏(理)のプロデュースにより、新発見の遺作の初演を含めた作品個展を、どうにか実現に漕ぎ着けました。東京公演では、松下氏《スペクトラ第6番》の未完の後半六曲について、残されたタイトルによる空想作曲を、同じ数学科出身の野村誠君が手がけてくれています。松下氏の譜面には謎も多く、1990年12月までは電車で20分の茨木で御存命でしたから、いくら難人物であっても、あのとき特攻しておけば・・・、と思う今日この頃です。(了)