※松下眞一作品の解説については、こちらを御参照下さい(ただし半年前の京都公演のためのものです):http://ooipiano.exblog.jp/12896328/
本公演についての野村氏インタビュー (firestorageへのリンク) http://bit.ly/dteozQ http://bit.ly/b7OqSE
■野村誠: ロシアンたんぽぽ/誰といますか?
自作のピアノソロ作品は、高校以前の習作時代を除けば、「Away From Home With Eggs」(2000)、「DVがなくなる日のためのインテルメッツォ」(2001)、「福岡市美術館」(2009)の3作品しかない。大井浩明からは、異なった年代の作品をプログラムに入れたい、という要望があり、2002年から2008年の作品スコアの中から、ピアノで演奏可能な作品を検討した結果、アコーディオン独奏のための2曲が選択された。どちらも、2004年に御喜美江さんの委嘱で書いたものである。
2004年は、片岡祐介さんと「即興演奏ってどうやるの」(あおぞら音楽社)というCD付の本を書いた年で、片岡さんの即興演奏と音楽療法について言語化/楽譜化することがテーマだった。そうした時期に書いたこの2作品は、少なからず、その影響がある。
「ロシアンたんぽぽ」は、時間がない時期の委嘱だったこともあり、2日間で一気に譜面を書いた即興演奏のような作品。できるだけ刹那的に、瞬間瞬間を楽しみながら、進行する。しかし、行き当たりばったりの即興演奏も、ドキュメントし分析すれば、そこに意味やストーリーが解釈できる。御喜美江さんが、どのような解釈をして、どんな音楽が立ち上がってくるかを楽しみに書いた。
「即興演奏ってどうやるの」の第1章は、「なんちゃって音楽」と言い、「なんちゃって癒し系」、「なんちゃってモーツァルト」、「なんちゃって坂本龍一」、「なんちゃってフィリップ・グラス」など、様々な「なんちゃって」を書いた。「誰といますか?」を作曲する時も、そうした「なんちゃって」の影響があり、複数の様式の「なんちゃって」を組み込みたいと思った。「なんちゃってソナタ」として、二つの主題のある音楽を書いてみようと思った。第1主題をハ長調から始まる「なんちゃって調性音楽」で、第2主題を「なんちゃって無調音楽」と構想した。
第2主題は、第1主題とのコントラストがある方が良い。これについては、音楽療法士の石村真紀さんからのインスピレーションが大きい。「即興演奏ってどうやるの」を発表することで、音楽療法士の石村さんと出会ったのがこの時期だった。彼女の障害児との音楽療法は、無調による即興演奏によるコミュニケーションをベースとしていた。音楽療法士のほとんどが、古典的な調性音楽での音楽療法を行っている中で異彩を放っていた。音楽療法における無調は、セラピストが調性的な和声感を排除することで、クライアントが臆することなく楽器を演奏できることが特長で、行われるやりとりは、シンプルなリズムの模倣などが多い。第2主題を音楽療法の即興風の無調にして、ソナタ形式で呈示部、展開部と書き進めた。が、書いていくうちに、ソナタ形式からは脱し、再現部は訪れずに、曲はコーダに到る。
■野村誠: べルハモまつり
http://ooipiano.exblog.jp/11154017/
■野村誠: DVがなくなる日のためのインテルメッツォ
2001年10月21日に開催されたイベント《DV(ドメスティック・バイオレンス)鎮魂の会》のために、草柳和之氏の委嘱で作曲。被害者の方々や草柳氏と何度も話し合いの場を持ち、たくさんの作曲のヒントをいただいた。そのとき受け止めた「祈り」や「思い」を何とか音楽で伝えようと必死に作曲した。この曲は、演奏時の著作権はキャンセルされており、どのような機会でも自由に演奏することができる。弾きにくい場合は、最初の1ページ、あるいは最後の2ページあたりだけ等、できる範囲内で気に入ったところを弾いてみて欲しい。タイトルは、DVがなくなる日までの間に演奏する曲、間奏曲にあたる「インテルメッツォ」である。ぼくもDVがなくなる日まで、この曲を弾き続けていこう、と思う。
■野村誠: 6つの新しいバガテル
松下眞一が構想した「12のバガテル」は、7〜12番は、タイトルのみ発見されている。大井浩明から、この6つのタイトルでの作曲を委嘱された時、まず、1〜6番の譜面を読むところから始めようと思った。ところが、大井は、1〜6曲目を知らない状態で、タイトルだけから作曲するように提案してきた。松下眞一が書いたであろう音楽を想像して作曲するのではなく、松下眞一の遺したタイトルにインスピレーションを得て、野村誠の音楽を生み出すことが、今回の企画の趣旨だ。ぼくは、6つのタイトルと格闘することになる。
まず、「バガテル」ということなので、ぼく自身の通常の音楽活動の中でこぼれ落ちてしまうようなものを集めて、一つの曲集にしようと考えた。
1) フーリエ変換
30代まで、ぼくは、駄洒落をあまり肯定的に自分の作品に取り入れようとは、考えていなかった。40代になり、身の回りの友人たちが、次々に「おやじギャグ」を連発するようになり、冷たい視線を浴びているのを目撃するうちに、駄洒落は、非常に日本語的な優れた文化なのではないか、と思うようになった。そして、「駄洒落作曲」という作曲法を始めた。
例えば、2009年に作曲した吹奏楽のための「福岡トリエンナーレ」という曲は、駄洒落のみで構成した曲で、「福=吹く(一音をロングトーンで)」、「岡=おかしい音を出す(特殊奏法など)」、「トリ=トリル」、「エン=楽器で円を描きながら演奏」、「ナ=名前をもとにフレーズを作って演奏する」、「アレ=あれっという感じで終わる」という6つの合図の組み合わせで演奏する曲だった。
そこで、「駄洒落作曲」的なアプローチで、「フーリエ変換」というタイトルに向き合ってみることにした。すると、「フーリ」=「振り」と見えてきた。そこから、ぼくがHugh Nankivellと行っている「Keyboard Choreography Collection(以下KCC)」というプロジェクトのことが連想された。
2009年1月にえずこホール主催で開始したKCCは、幼児のデタラメ演奏からピアノ奏法を学び、それを振付として記述するというプロジェクトだ。まず、幼児に自由気ままにピアノを弾いてもらい、その様子をビデオに記録する。その映像を作曲家と振付家で分析し、そこから、可能な限り多くのピアノ奏法を抽出し、音楽用語ではなく、振付として記述する。
「フーリエ変換」は、このKCCによる作品にしようと考え、奏法のリストを吟味しているうちに、「フーリエ」が「フーリコ」と見えてきて、「フリコ」と見えた。「フーリエ」が変換されて、「フリコ」になる。ジャワ舞踊家の佐久間新さんが偏愛したKCC48(振り子奏法)が想起された。佐久間さんは舞踊家であるが、この振り子奏法で、真に美しい運動をし、その運動は美しい音色をもたらすのだ。
2)アンダルシアに
葛飾北斎は、「北斎漫画」に、木琴、尺八、胡弓、箏の四重奏の絵を残している。「江戸時代に木琴」、ということ自体が、ぼくの江戸の音楽への先入観を打ち砕いたのだが、調べていくと、江戸末期に、木琴は大流行したらしく、どうやら、その木琴は、インドネシアのガムラン音楽のガンバンを模しているらしいのだ。では、江戸の人は、インドネシアの音楽を演奏したのであろうか?
そうした興味から開始した「野村誠×北斎」(アサヒ・アートスクエア主催)では、実際に北斎が聞いたであろう音楽を調査するのではなく、北斎の絵から想像される音楽を新たに創造することになった。ぼくは違ったスタイルの10曲を作曲したが、そのうちの1曲「南の北斎」は、インドネシアの音楽を模した音楽を、お箏の雲井調子で合奏している、という想定で書いた。
インドネシアから伝わって変形された江戸の四重奏が、さらに、何らかの経緯でアンダルシアに伝わったらどんな音楽になるだろう、という興味で書いたのが、「アンダルシアに」だ。ジャワ・ガムランの香りは微かに残り、邦楽の匂いも若干は残っているかもしれない架空のスペインの音楽。
3)月の光
小学生の時に、「月の光」というタイトルで作品を書いたことがある。だから、「月の光」からぼくが最初に連想したのは、小学生だった。2010年7月、北九州芸術文化振興財団の委嘱で、小学校で作曲のワークショップをすることになった時、ぼくはワークショップの成果を「6つの新しいバガテル」に採用することを、主催者、学校、子どもたちに確認し、許諾をとった。2つの学校の4つのワークショップでは、子どもたちは独自のモードを作り、「C,D,E,F#,G,A」、「C,D#,E,G,A,B♭」、「C,D#,E,F#,G,A」、「C,C#,D,E♭,A,B♭」という4つのモードが生まれた。子どもたちが作ったメロディーを変形せずに、シンプルに提示した。
4)シャンソン
福岡市文化芸術振興財団主催の「野村誠の左手の法則」では、演劇、ダンス、音楽、アーツマネジメントのワークショップを出発点として、交差ジャンル的な作品創作が行われた。ぼくは、吉野さつきさんの企画プレゼンをするワークショップを見学した時に、プレゼンの言葉は歌であり、身振りはダンスだと感じ、ワークショップの映像を素材に作曲しようと考えた。全5曲から成る映像とピアノのための「福岡市博物館REMIX」の第2曲「Arts Management」として、2010年7月に、福岡アジア美術館にて、世界初演。
「シャンソン」とは、フランス語で「歌」の意味なので、まさに、この「Arts Management」の映像を題材にし、ピアノパートを書き直した。映像のルバートに合わせて、ピアニストが見事に伴奏をすることで、言葉が活き活きと浮かび上がってくる。映像撮影は、泉山朗土、編集は上田謙太郎。
5)語れや、君、そも若き折、何をかなせし
かつて、大井浩明が三輪眞弘作曲の「東の唄」を演奏するのを聴いたことがある。生ピアノを自動ピアノが感知して模したり変形したりして共演していくことで成立する音楽なのだが、この時の大井の演奏は圧巻だった。大井は機械的な演奏を意識的に排して(いるようにぼくには聞こえた)、人間の最高水準の精度の演奏(ニュアンス、揺らぎなど)で、自動ピアノの精度の粗さを浮き彫りにしていたのだ。機械と人間が対峙するこの演奏に、ぼくは少なからぬ感動を覚えた。
人間の機械的でない不均等さ、ちょっとした揺らぎやニュアンスで、三輪作品の深みを見せてくれた大井の演奏から、だったら、このピアニストを、思いっきり揺らぎのあるニュアンスの塊のような演奏と対峙させてみたら、どんな演奏が味わえるだろう、と考え、お年寄りの演奏と大井の共演を思いついた。
ぼく自身、1999年より、特別養護老人ホーム「さくら苑」でお年寄りと未完成な共同作曲を継続している(この活動については、野村誠+大沢久子著「老人ホームに音楽がひびく」(晶文社)を参照して下さい)。そこで生まれている独特な音楽を、どのような形でアウトプットしていくかについて、考えてきたのだが、なかなか良い方法が思いつかないまま11年の月日が流れた。
そうした中で、お年寄りの演奏する映像に、ぼくがピアノで共演する形で新作を発表しようと考えつき、今年の3月、Arts Commission Yokohamaの助成、BankART NYKの協力を得て、「老人ホーム・REMIX #1」という公演を行った。今回、大井浩明との共演に選ばれたのは、「たどたどピアノ組曲」の第4曲で、ピアノパートを新たに書き直し、「語れや、君、そも若き折、何をかなせし」とした。
お年寄りがたどたどしく弾くピアノと、大井浩明のピアノの間には、大きな距離/溝がある。大井浩明のピアノが、映像のピアノ演奏に寄り添い、模倣しながら、しかし、微妙に距離を保ちながら、どのような共演が可能になるのか、非常に興味深い。
映像は、上田謙太郎。
6)主よ、主よ、そは現し世なり
1999年に開始した共同作曲の方法に「しょうぎ作曲」というものがある。これは、「うーむ、その手で来たのか」と、相手に意表をつかれたり、裏をかいたりするところが、将棋などと似ていることからの命名だが、実際の将棋のルールに関係するところは、特にない。
「現し世」という言葉から、駒の損得や王様を先にとる方が勝ちという明確な実利を競う将棋というゲームのことが思いつき、将棋の棋譜をもとに作曲をすることを思いついた。今回は、羽生善治と谷川浩司による歴史的な棋譜を素材にした。こちらが勝手に決めたルールで音楽にしているにも関わらず、自分のネット対局時等の棋譜に比べ、羽生の駒の動かし方は、断然、良い音楽になったからである。
本公演についての野村氏インタビュー (firestorageへのリンク) http://bit.ly/dteozQ http://bit.ly/b7OqSE
■野村誠: ロシアンたんぽぽ/誰といますか?

2004年は、片岡祐介さんと「即興演奏ってどうやるの」(あおぞら音楽社)というCD付の本を書いた年で、片岡さんの即興演奏と音楽療法について言語化/楽譜化することがテーマだった。そうした時期に書いたこの2作品は、少なからず、その影響がある。
「ロシアンたんぽぽ」は、時間がない時期の委嘱だったこともあり、2日間で一気に譜面を書いた即興演奏のような作品。できるだけ刹那的に、瞬間瞬間を楽しみながら、進行する。しかし、行き当たりばったりの即興演奏も、ドキュメントし分析すれば、そこに意味やストーリーが解釈できる。御喜美江さんが、どのような解釈をして、どんな音楽が立ち上がってくるかを楽しみに書いた。

第2主題は、第1主題とのコントラストがある方が良い。これについては、音楽療法士の石村真紀さんからのインスピレーションが大きい。「即興演奏ってどうやるの」を発表することで、音楽療法士の石村さんと出会ったのがこの時期だった。彼女の障害児との音楽療法は、無調による即興演奏によるコミュニケーションをベースとしていた。音楽療法士のほとんどが、古典的な調性音楽での音楽療法を行っている中で異彩を放っていた。音楽療法における無調は、セラピストが調性的な和声感を排除することで、クライアントが臆することなく楽器を演奏できることが特長で、行われるやりとりは、シンプルなリズムの模倣などが多い。第2主題を音楽療法の即興風の無調にして、ソナタ形式で呈示部、展開部と書き進めた。が、書いていくうちに、ソナタ形式からは脱し、再現部は訪れずに、曲はコーダに到る。
■野村誠: べルハモまつり
http://ooipiano.exblog.jp/11154017/
■野村誠: DVがなくなる日のためのインテルメッツォ
2001年10月21日に開催されたイベント《DV(ドメスティック・バイオレンス)鎮魂の会》のために、草柳和之氏の委嘱で作曲。被害者の方々や草柳氏と何度も話し合いの場を持ち、たくさんの作曲のヒントをいただいた。そのとき受け止めた「祈り」や「思い」を何とか音楽で伝えようと必死に作曲した。この曲は、演奏時の著作権はキャンセルされており、どのような機会でも自由に演奏することができる。弾きにくい場合は、最初の1ページ、あるいは最後の2ページあたりだけ等、できる範囲内で気に入ったところを弾いてみて欲しい。タイトルは、DVがなくなる日までの間に演奏する曲、間奏曲にあたる「インテルメッツォ」である。ぼくもDVがなくなる日まで、この曲を弾き続けていこう、と思う。
■野村誠: 6つの新しいバガテル

まず、「バガテル」ということなので、ぼく自身の通常の音楽活動の中でこぼれ落ちてしまうようなものを集めて、一つの曲集にしようと考えた。
1) フーリエ変換

例えば、2009年に作曲した吹奏楽のための「福岡トリエンナーレ」という曲は、駄洒落のみで構成した曲で、「福=吹く(一音をロングトーンで)」、「岡=おかしい音を出す(特殊奏法など)」、「トリ=トリル」、「エン=楽器で円を描きながら演奏」、「ナ=名前をもとにフレーズを作って演奏する」、「アレ=あれっという感じで終わる」という6つの合図の組み合わせで演奏する曲だった。
そこで、「駄洒落作曲」的なアプローチで、「フーリエ変換」というタイトルに向き合ってみることにした。すると、「フーリ」=「振り」と見えてきた。そこから、ぼくがHugh Nankivellと行っている「Keyboard Choreography Collection(以下KCC)」というプロジェクトのことが連想された。
2009年1月にえずこホール主催で開始したKCCは、幼児のデタラメ演奏からピアノ奏法を学び、それを振付として記述するというプロジェクトだ。まず、幼児に自由気ままにピアノを弾いてもらい、その様子をビデオに記録する。その映像を作曲家と振付家で分析し、そこから、可能な限り多くのピアノ奏法を抽出し、音楽用語ではなく、振付として記述する。
「フーリエ変換」は、このKCCによる作品にしようと考え、奏法のリストを吟味しているうちに、「フーリエ」が「フーリコ」と見えてきて、「フリコ」と見えた。「フーリエ」が変換されて、「フリコ」になる。ジャワ舞踊家の佐久間新さんが偏愛したKCC48(振り子奏法)が想起された。佐久間さんは舞踊家であるが、この振り子奏法で、真に美しい運動をし、その運動は美しい音色をもたらすのだ。
2)アンダルシアに

そうした興味から開始した「野村誠×北斎」(アサヒ・アートスクエア主催)では、実際に北斎が聞いたであろう音楽を調査するのではなく、北斎の絵から想像される音楽を新たに創造することになった。ぼくは違ったスタイルの10曲を作曲したが、そのうちの1曲「南の北斎」は、インドネシアの音楽を模した音楽を、お箏の雲井調子で合奏している、という想定で書いた。
インドネシアから伝わって変形された江戸の四重奏が、さらに、何らかの経緯でアンダルシアに伝わったらどんな音楽になるだろう、という興味で書いたのが、「アンダルシアに」だ。ジャワ・ガムランの香りは微かに残り、邦楽の匂いも若干は残っているかもしれない架空のスペインの音楽。
3)月の光

4)シャンソン
福岡市文化芸術振興財団主催の「野村誠の左手の法則」では、演劇、ダンス、音楽、アーツマネジメントのワークショップを出発点として、交差ジャンル的な作品創作が行われた。ぼくは、吉野さつきさんの企画プレゼンをするワークショップを見学した時に、プレゼンの言葉は歌であり、身振りはダンスだと感じ、ワークショップの映像を素材に作曲しようと考えた。全5曲から成る映像とピアノのための「福岡市博物館REMIX」の第2曲「Arts Management」として、2010年7月に、福岡アジア美術館にて、世界初演。
「シャンソン」とは、フランス語で「歌」の意味なので、まさに、この「Arts Management」の映像を題材にし、ピアノパートを書き直した。映像のルバートに合わせて、ピアニストが見事に伴奏をすることで、言葉が活き活きと浮かび上がってくる。映像撮影は、泉山朗土、編集は上田謙太郎。
5)語れや、君、そも若き折、何をかなせし

人間の機械的でない不均等さ、ちょっとした揺らぎやニュアンスで、三輪作品の深みを見せてくれた大井の演奏から、だったら、このピアニストを、思いっきり揺らぎのあるニュアンスの塊のような演奏と対峙させてみたら、どんな演奏が味わえるだろう、と考え、お年寄りの演奏と大井の共演を思いついた。
ぼく自身、1999年より、特別養護老人ホーム「さくら苑」でお年寄りと未完成な共同作曲を継続している(この活動については、野村誠+大沢久子著「老人ホームに音楽がひびく」(晶文社)を参照して下さい)。そこで生まれている独特な音楽を、どのような形でアウトプットしていくかについて、考えてきたのだが、なかなか良い方法が思いつかないまま11年の月日が流れた。
そうした中で、お年寄りの演奏する映像に、ぼくがピアノで共演する形で新作を発表しようと考えつき、今年の3月、Arts Commission Yokohamaの助成、BankART NYKの協力を得て、「老人ホーム・REMIX #1」という公演を行った。今回、大井浩明との共演に選ばれたのは、「たどたどピアノ組曲」の第4曲で、ピアノパートを新たに書き直し、「語れや、君、そも若き折、何をかなせし」とした。
お年寄りがたどたどしく弾くピアノと、大井浩明のピアノの間には、大きな距離/溝がある。大井浩明のピアノが、映像のピアノ演奏に寄り添い、模倣しながら、しかし、微妙に距離を保ちながら、どのような共演が可能になるのか、非常に興味深い。
映像は、上田謙太郎。
6)主よ、主よ、そは現し世なり

「現し世」という言葉から、駒の損得や王様を先にとる方が勝ちという明確な実利を競う将棋というゲームのことが思いつき、将棋の棋譜をもとに作曲をすることを思いついた。今回は、羽生善治と谷川浩司による歴史的な棋譜を素材にした。こちらが勝手に決めたルールで音楽にしているにも関わらず、自分のネット対局時等の棋譜に比べ、羽生の駒の動かし方は、断然、良い音楽になったからである。