◆classic news様に御紹介頂きました。(9/17)
◆CLASSICA様に御紹介頂きました。(9/18)
松下眞一の肖像 ――――――――――白石知雄(音楽評論)
松下眞一(1922-1990)の人生は慌ただしい。
敗戦の焼け跡から再出発した戦後、日本人は誰もが休みなく働き続けていたと言えるかもしれないけれど、それにしても、彼の経歴を見直すと、落ち着きのない日々だと思う。
彼が生まれた大阪の北部、茨木は、彼自身も関わった1970年の日本万国博覧会の玄関口として開発されるまでは、のどかな自然が広がっていた。地元の名士の長男に生まれて、松下眞一は生涯この土地を愛したが、同時に、早くから作曲を試みていた。映画でフランスの作曲家たちに親しみ、秘かに十二音技法のアイデアを試したと言うから、既に心はより広い世界へ向かっていたのだろう。
京都の旧制三高へ進むと、かつて織田作之助や梶井基次郎がいた文芸部と、自ら設立した音楽部(ピアニストの大井浩明氏や、作曲家の野村誠氏が在籍した京大音楽研究会の前身)をかけもちして、京大が誇る哲学の伝統にも並々ならぬ関心を抱いていたらしい。
徴兵を避けて理系へ進み、九州帝国大学に進学して、数学者として大阪市立大学にポストを得るが、研究テーマは、このプログラムの別稿、松井先生の詳細な解説にもあるように次から次へと移り変わった。「問題/課題」を見つけると、いてもたってもいられない。即座に解析して、レポートを書き上げてしまうのだ。
作曲家としての歩みも、彼の研究歴とよく似ている。内外でウェーベルンからセリー音楽へという路線が注目されていることを知ると、直ちに複数のコンクールに応募して、「位相的な時間」をキーワードとする初期の作品群を書く。電子音楽が話題になると、大阪のNHKでテープ音楽に挑戦する。60年代のケージ・ショックにも、ペンデレツキのトーン・クラスターにも機敏に反応するし、哲学と語学力の下地があるから、古代パーリ語の経典に遡り、仏教音楽を書くこともできた。エッセイでは、父の影響でたしなんでいた俳句を披露して、四季の自然の移ろいに文人風の感性で反応するし、東西の学生歌や民謡にも興味を示し、ふと空を見上げると、UFOまで発見してしまう。
大学の教職を退いた晩年も、枯淡の境地には遠かった。作曲界の将来を憂い、故郷の変わり果てた街並にも我慢がならず、やれ喫茶店のBGMが下品で騒々しい等々と、文句を言わずにいられない。「問題」を解析する頭脳は、最後まで健在だったようなのだ。
他人から誉められようが、疎ましく思われようが頓着しないところが、少しずつ時代に取り残される結果をもたらしたかもしれないけれど、悪意や邪念の痕跡はほとんどない。抒情詩人がひたすら言葉を紡ぐように、松下眞一はひたすら「問題」を解析して、結果を出力しつづけた。1960年代から晩年まで書き継がれたスペクトラ全6曲が一挙に演奏される今宵、戦後作曲界の鬼っ子、虚空に無償の「答え」を出力しつづけた人間コンピュータ松下眞一が、没後20年の時を経て再起動する。
◆CLASSICA様に御紹介頂きました。(9/18)
松下眞一の肖像 ――――――――――白石知雄(音楽評論)

敗戦の焼け跡から再出発した戦後、日本人は誰もが休みなく働き続けていたと言えるかもしれないけれど、それにしても、彼の経歴を見直すと、落ち着きのない日々だと思う。
彼が生まれた大阪の北部、茨木は、彼自身も関わった1970年の日本万国博覧会の玄関口として開発されるまでは、のどかな自然が広がっていた。地元の名士の長男に生まれて、松下眞一は生涯この土地を愛したが、同時に、早くから作曲を試みていた。映画でフランスの作曲家たちに親しみ、秘かに十二音技法のアイデアを試したと言うから、既に心はより広い世界へ向かっていたのだろう。
京都の旧制三高へ進むと、かつて織田作之助や梶井基次郎がいた文芸部と、自ら設立した音楽部(ピアニストの大井浩明氏や、作曲家の野村誠氏が在籍した京大音楽研究会の前身)をかけもちして、京大が誇る哲学の伝統にも並々ならぬ関心を抱いていたらしい。
徴兵を避けて理系へ進み、九州帝国大学に進学して、数学者として大阪市立大学にポストを得るが、研究テーマは、このプログラムの別稿、松井先生の詳細な解説にもあるように次から次へと移り変わった。「問題/課題」を見つけると、いてもたってもいられない。即座に解析して、レポートを書き上げてしまうのだ。
作曲家としての歩みも、彼の研究歴とよく似ている。内外でウェーベルンからセリー音楽へという路線が注目されていることを知ると、直ちに複数のコンクールに応募して、「位相的な時間」をキーワードとする初期の作品群を書く。電子音楽が話題になると、大阪のNHKでテープ音楽に挑戦する。60年代のケージ・ショックにも、ペンデレツキのトーン・クラスターにも機敏に反応するし、哲学と語学力の下地があるから、古代パーリ語の経典に遡り、仏教音楽を書くこともできた。エッセイでは、父の影響でたしなんでいた俳句を披露して、四季の自然の移ろいに文人風の感性で反応するし、東西の学生歌や民謡にも興味を示し、ふと空を見上げると、UFOまで発見してしまう。

他人から誉められようが、疎ましく思われようが頓着しないところが、少しずつ時代に取り残される結果をもたらしたかもしれないけれど、悪意や邪念の痕跡はほとんどない。抒情詩人がひたすら言葉を紡ぐように、松下眞一はひたすら「問題」を解析して、結果を出力しつづけた。1960年代から晩年まで書き継がれたスペクトラ全6曲が一挙に演奏される今宵、戦後作曲界の鬼っ子、虚空に無償の「答え」を出力しつづけた人間コンピュータ松下眞一が、没後20年の時を経て再起動する。