W.A.モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのアウエルンハンマー・ソナタ集 作品2 (全六曲) (1778~81)
(通し番号で第24番・第32番~第36番)
2010年10月13日(水)午後6時30分開演(午後6時00分開場)¥3,000(全自由席)
近江楽堂(東京オペラシティ3F) 京王新線・初台駅下車
ご予約・お問い合わせ/合同会社opus55 tel 03(3377)4706 (13時~19時)、fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
作品2と名付けられたこのソナタ集は、1781年11月にウィーンのアルタリア社から出版されました。ウィーンでの弟子(父宛に「見かけは化け物みたいだがよく弾ける」と書き送っている)のジョゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢に献呈されました。出版前に校訂を一緒に行なったほど、信頼されていた弟子だったようです。
初版のタイトルには“Six sonatas pour le clavecin ou pianoforte avec l’accompagnement d’un violon“(ヴァイオリン伴奏付きのクラヴィーアまたはピアノフォルテのための6曲のソナタ)とあります。
バロック・クラヴィーアソナタから古典派ピアノソナタへと形式的、美学的に発展し様々な作曲家が手がけてきたこのジャンルは、のちのロマン派ヴァイオリンソナタへと変遷していきます。年少のころ、すでにモーツアルトはカール・フィリップ・エマニュエル・バッハやヨハン・クリスティアン・バッハのこのジャンルの作品に触れ、自身も作曲を試みていました。1777?78年にかけて彼は母を伴ってのマンハイム・パリ旅行に出ますが、ヨゼフ・ショスターやヨハン・ショーベルトの同様の編成でのソナタと出会い、彼自身パリで作品1を出版します。その後ザルツブルクで宮廷オルガニストとして就職したモーツアルトは、雇用主のコロラド卿との関係悪化の中、1781年に父親の反対を押し切ってウィーンでフリーの音楽家としての活動を始めました。1781年5月19日の手紙の中で父親にこのソナタ集作品2の出版予約について触れ、収入の可能性を強調しています。年少の頃からヨーロッパ各地を巡り様々な作曲スタイルを身につけていたモーツアルトは、特定の書法を模倣する事が得意でした。この作品2は、ウィーンでの成功、就職を狙っていた彼がウィーンの趣味を考慮して出版した野心作と言えるのです。
元来ヴァイオリン伴奏無しでもピアノソナタとして演奏可能だった作曲技法は(1733年に最初の作品がみられる)、次第にヴァイオリンパートが重視され、ピアノパートと対等に扱う様に発展してきました。モーツァルトは、それまでの技法を踏襲しながら、心理描写的、修辞法的なドイツの”ソナタ形式”における美学(全曲を通した曲想のアイデアと構成)と、イタリアオペラ的なメロディーとを巧みに組み合わせ、2つの楽器を対話させる事に成功しています。
当時の音楽雑誌として有名なハンブルクの“Magazin der Musik”(1783年4月)に、「このソナタ集はこの種の中で突出したもの」との記事があり、「新しい楽想」「輝かしい曲想」「作曲者の偉大な天分」を高く評価しています。当時から盛んだった美学的見地からのソナタ論に見られる様に、モーツアルトにおいては、和声・形式的な作曲技法の完成度と、音の心描画としての表現性が一体となって、聞く人に迫ります。
また、楽曲形式の発展に大きく関わったのがピアノフォルテという楽器の開発・改良です。1777年10月、アウグスブルクでシュタインのピアノフォルテに出会ったモーツアルトは、すぐには購入出来ず、1781年ウィーンに移住した際トゥーン伯爵夫人から借用しました。おそらく1782年前半に、モーツアルトは同じ撥ね上げ式メカニックを持ち、より力強いヴァルターの楽器を手に入れます(Siegbert Rampe 著:Mozarts Claviermusik 参照)。ウィーンは当時ピアノフォルテ制作のひとつの拠点で、メカニックの改良は音楽表現の自由と多様性をもたらし、楽曲の発展に大きな影響を与えました。
作品2の6曲中、2曲はウィーン時代以前に書かれたものです。ハ長調K.296は1778年3月に弟子のテレーゼ・ピエロン嬢のために書かれた若々しいソナタです。変ロ長調K.378は1779年初頭にザルツブルクで成立しました。エネルギッシュな1楽章に、2楽章は楽器間での情感あふれる対話、快活なロンドの3楽章が続きます。
ウィーンで書かれた他の4曲のうち、ギャラント様式が伺えるヘ長調K.376と躍動感あふれる冒頭に続きメランコリックな変奏、メヌエットと続くヘ長調K.377は、1781年夏に書かれました。ト長調K.379はオペラを思い起こさせる壮大なアダージョとそれに続くト短調の情熱的なアレグロ、2楽章は打って変わって晴れやかなテーマでの変奏曲となります。曲集最後の変ホ長調K.380は1781年4月7日の夜、翌日の演奏のために1時間で書き上げられ、ピアノパートはモーツアルト自身が記憶のみで演奏したとあります。スケールの大きなこのソナタで、曲集は締めくくられます。(阿部千春)
(通し番号で第24番・第32番~第36番)
2010年10月13日(水)午後6時30分開演(午後6時00分開場)¥3,000(全自由席)
近江楽堂(東京オペラシティ3F) 京王新線・初台駅下車
ご予約・お問い合わせ/合同会社opus55 tel 03(3377)4706 (13時~19時)、fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
●ヘ長調K.376(374d)
Allegro - Andante - Allegretto grazioso
●ハ長調K.296
Allegro vivace - Andante sostenuto - RONDEAU /Allegro
●ヘ長調K.377 (374e)
Allegro - Andante(主題と6つの変奏)- Tempo di Menuetto
【休憩】
●変ロ長調K.378 (317d)
Allegro moderato - Andante sostenuto e cantabile - RONDEAU /Allegro
●ト長調 K.379 (373a)
Adagio/Allegro - Andantino cantabile(主題と6つの変奏)
●変ホ長調 K.380 (374f)
Allegro – Andante con moto – RONDEAU /Allegro
[使用楽器]
◎クラシカル・ヴァイオリン: Model " Ysaÿe" Guarneri del Gesú - Christian Sager によるコピー楽器(2003)
◎フォルテピアノ: Johan Lodewijk Dulcken 1795 のレプリカ 太田垣至製作(2010)
作品2と名付けられたこのソナタ集は、1781年11月にウィーンのアルタリア社から出版されました。ウィーンでの弟子(父宛に「見かけは化け物みたいだがよく弾ける」と書き送っている)のジョゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢に献呈されました。出版前に校訂を一緒に行なったほど、信頼されていた弟子だったようです。

バロック・クラヴィーアソナタから古典派ピアノソナタへと形式的、美学的に発展し様々な作曲家が手がけてきたこのジャンルは、のちのロマン派ヴァイオリンソナタへと変遷していきます。年少のころ、すでにモーツアルトはカール・フィリップ・エマニュエル・バッハやヨハン・クリスティアン・バッハのこのジャンルの作品に触れ、自身も作曲を試みていました。1777?78年にかけて彼は母を伴ってのマンハイム・パリ旅行に出ますが、ヨゼフ・ショスターやヨハン・ショーベルトの同様の編成でのソナタと出会い、彼自身パリで作品1を出版します。その後ザルツブルクで宮廷オルガニストとして就職したモーツアルトは、雇用主のコロラド卿との関係悪化の中、1781年に父親の反対を押し切ってウィーンでフリーの音楽家としての活動を始めました。1781年5月19日の手紙の中で父親にこのソナタ集作品2の出版予約について触れ、収入の可能性を強調しています。年少の頃からヨーロッパ各地を巡り様々な作曲スタイルを身につけていたモーツアルトは、特定の書法を模倣する事が得意でした。この作品2は、ウィーンでの成功、就職を狙っていた彼がウィーンの趣味を考慮して出版した野心作と言えるのです。
元来ヴァイオリン伴奏無しでもピアノソナタとして演奏可能だった作曲技法は(1733年に最初の作品がみられる)、次第にヴァイオリンパートが重視され、ピアノパートと対等に扱う様に発展してきました。モーツァルトは、それまでの技法を踏襲しながら、心理描写的、修辞法的なドイツの”ソナタ形式”における美学(全曲を通した曲想のアイデアと構成)と、イタリアオペラ的なメロディーとを巧みに組み合わせ、2つの楽器を対話させる事に成功しています。
当時の音楽雑誌として有名なハンブルクの“Magazin der Musik”(1783年4月)に、「このソナタ集はこの種の中で突出したもの」との記事があり、「新しい楽想」「輝かしい曲想」「作曲者の偉大な天分」を高く評価しています。当時から盛んだった美学的見地からのソナタ論に見られる様に、モーツアルトにおいては、和声・形式的な作曲技法の完成度と、音の心描画としての表現性が一体となって、聞く人に迫ります。

作品2の6曲中、2曲はウィーン時代以前に書かれたものです。ハ長調K.296は1778年3月に弟子のテレーゼ・ピエロン嬢のために書かれた若々しいソナタです。変ロ長調K.378は1779年初頭にザルツブルクで成立しました。エネルギッシュな1楽章に、2楽章は楽器間での情感あふれる対話、快活なロンドの3楽章が続きます。
ウィーンで書かれた他の4曲のうち、ギャラント様式が伺えるヘ長調K.376と躍動感あふれる冒頭に続きメランコリックな変奏、メヌエットと続くヘ長調K.377は、1781年夏に書かれました。ト長調K.379はオペラを思い起こさせる壮大なアダージョとそれに続くト短調の情熱的なアレグロ、2楽章は打って変わって晴れやかなテーマでの変奏曲となります。曲集最後の変ホ長調K.380は1781年4月7日の夜、翌日の演奏のために1時間で書き上げられ、ピアノパートはモーツアルト自身が記憶のみで演奏したとあります。スケールの大きなこのソナタで、曲集は締めくくられます。(阿部千春)