曖昧な明晰/明晰な曖昧:山本裕之試論 ――――――――――田中吉史
関連リンク: ken-hongouさんによる、「山本裕之のまぢめないたづら」 その1 その2 その3

「曖昧」は山本裕之の音楽を語る時のキーワードの一つだが、彼と会話していて気付くのは、彼は割と断定的な言い方が好きだ、ということだ。その余りに決然とした様子に時々唖然とするわけだが、振り返ってみると、彼の作品にはこういう彼の話しぶりを思い起こさせるところがある。
山本が「曖昧」に焦点を当て始めた最初期の「ソニトゥス・アンビグースII」(1996)では、ゆったりした女声にまとわりつくようにユラユラと音程の定かでないサックスが薄く漂い、そこにピアノが時折密集した和音を打ち込んでいく。この2種類の響きの対比は鮮やかだ。続く弦楽四重奏のための「Eve I」(1997)やオーケストラ曲「カンティクム・トレムルムI」(1998)では、フォルティッシモの短い音型の背後からトリルやグリッサンド、ハーモニクスを多用した動きが立ちのぼる。後者の細やかな響きは、繰り返し現れる前者の鋭い響きによって分節され、その度に同じ場所に引き戻されるような感覚を味わう。この反復によって累積された情報がある瞬間に飽和して転換し、それまで目立たなかった響きが前面に現れて、全く違った風景(「Eve I」ではピチカートの下降グリッサンド、「カンティクム...」では分厚いグリッサンドの応酬)が広がっていく。
こうした明快な対比は、彼が「曖昧」に着目するようになる前の作品(今となっては「初期」のこれらの作品は、Webサイト「音ヲ遊ブ」の作品リストには殆ど載せられていない)においても見られる。ピアノ曲「東京コンチェルト」(1993)では、片手が3度や4度、オクターブといったシンプルな音程の2音、もう片方がクラスター状の密集和音という2声の対比が作品全体を貫いている。
モノディ様式に移行してからの作品では、これまでのような明確なコントラストはあまり目立たなくなった。彼のモノディ作品を聴くとき、我々の耳はオクターブやそれに近い音程で重ねられた線をたどっていく。このような分厚い響きはこれまでの作品の中にもたびたび現れていたが、モノディ様式では主役の座をつとめるようになったとも言える。核になる線を中心に書いていくという手法は、モノディ様式以前にも散見される(例えば声楽アンサンブルのための「賢治祭」(2004)では、高低2音で等拍で淡々と歌われる俵万智の短歌に、そこから派生したグリッサンドその他の曖昧な響きが絡んで行く)が、モノディ様式になってからは、核となる線そのもののあり方に焦点があてられている。例えば、「輪郭主義I」(2010)では、四分音ずれたチューバとピアノが時々つまずきながら歩んで行く様子をつぶさに観察することが要求される。

こうして振り返ってみると、多くの場合、山本作品は冒頭からそれがどのような曲なのかが明示されていることに気付く。非常に明確な特徴を持つ素材が限定されて用いられ、曲の最初から終わりまで徹底される。「曖昧さ」が意図されていても、もっとマクロなレベルから見てみると、素材やその構成には常にある種の明快さが見て取れる。すべてが最初から開かれていて、秘密めかしたところはない。そう、そのあっけらかんとした様子は、やはり彼の好む思い切りのいい言い方とどこか共通している。
このような明快さ、明晰さは山本の音楽を良い意味で親しみやすく、うちとけやすいものにしている。くっきりとしたコンセプトが与えられると、我々の耳はそれに沿って音楽を聴いていく。はっきりした図式が見つかれば、それに従って、聞こえるものを整理していけばよい。だが、もしそのような図式化された表現が重要ならば、何故彼はそこまで「曖昧さ」にこだわるのか?
素材を限定し、殆ど図式的なほど音楽を単純化することが、かえって響きの質感を際だたせることがある。近藤譲、スティーヴ・ライヒ、あるいはモートン・フェルドマンの作品の中にそうした例を見いだすことができる。山本作品にも、これらの作曲家の作品と根底の部分で共通したものがあるように感じられる。「曖昧」以前の山本作品は、通常の楽器の奏法に限定され、シンプルな素材とその扱いが、近藤やフェルドマンとの強い類縁性を感じ取ることがあった。「曖昧」を導入した頃から山本の音楽は見かけ上大きく変貌した。特殊奏法やノイズが盛んに使われ、また近藤やフェルドマンと比べものにならないほど多くの音が描き込まれるようになった。しかし、そうした表層的な変化に関わらず、彼の思い切りのいい話しぶりそのもののような明快さはそのまま変わらない。山本は大きな枠を設定することで、その中に彼が聴き出した響きの細部を詳述しやすくしているのかも知れない。表面的な類似性は見られなくなった分、逆にこれらの作曲家と深いところで共有された問題意識に気付かされる。
そう考えると、山本作品はその取っつきやすさとは裏腹に、なかなか気むずかしい音楽でもある。一見わかりやすい構図にしたがって聞き流していると、実は色々なものを取りこぼしている。全体に気を取られると細部は見落とされがちである。これは聴き手にとって大きな罠である。彼の音楽が要求するのは、私たちの耳が即座に捉えることのできる特徴を手がかりに、次々と現れる響きの中を泳ぎながら、その細部を聴きとっていくこと。山本の音楽を聴くことは、実はなかなかチャレンジングなことなのかも知れない。
