
多くの作曲家の場合、大学入学以前は「古典的な作品」を作曲し、学習ソナタを習得し受験をする。そして大学に入り「現代音楽」と出会い、作曲するようになる。それは、年齢とともに世界が広がり未知のものと出会う流れの中での自然な変化と言えるが、およそ自分の中学高校時代には予想だにしなかった音楽でもあるだろう。さらには海外留学をし、突如日本人のアイデンティティーに目覚め、自分の祖母が茶道の師匠であったとか、叔父の義理の祖父の妹の長男が書道家であるとか、日本との繋がりを無理にでも意識しだす。恰も南米やアフリカのサッカー選手がEU国籍の取得のために系図を洗い出すようにして。
こういった一般的な日本人音楽家の、成長過程での変容とか迷いとかと、杉山はほとんど無縁だったのではないだろうか。
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以下、思いつくままに挙げてみよう。すでにその当時からイタリアの文化に並々ならぬ興味を持ち、精通していた。音楽に限っても、イタリアバロックはもとより、当時ほとんど日本では知られていなかったイタリア現代作曲家のレコードも大量に所有していた。高校時代の作品を聴かせてもらった事があるが、それはシャリーノの影響の強い曲だったし、細かいアナリーゼを書き込んだブソッティの譜面を見せてもらった事もある。大学でのワークショップでは自作、スカルラッティ、エマニュエル・バッハ、中川俊郎、といったプログラムの室内オーケストラ演奏会を自身の指揮で主催していたのをはじめ、後に彼の師となるサンドロ・ゴルリやアルド・クレメンティ、ファビオ・バッキなどが次々と日本初演されていた。ここで特筆すべきは、現代音楽のみならずバロック作品も取り上げられていたことで、それがまったく自然に音楽的に並列されてしかるべき、と思わせる説得力を持っていたことだ。

2年前、ブソッティが桐朋学園で一週間近くワークショップを開催したが、そこで、杉山、新垣、中川、久木山らが演奏に参加していた。その折、現在作曲科主任である石島正博氏が、学生時代の師であった八村義夫がブソッティの音楽を本当に好きだったこと、ここに今ブソッティがいること、同僚だった中川や後輩の杉山らがそれを演奏していること、を深い感慨をもって語っていた。その言葉は、歴史を知る者が思いあふれて口をついてしまった実感がこもっていて、とても記憶に残っている。石島氏の言葉(というか、その語り口)は感動的ですらあった。

POCに登場する作曲家、野村、山本、伊左治、田中は、それぞれ個性ある作曲家であるが、日本という(西洋から見たら)遠方の地の特殊な個性でもある、と思う。誤解を恐れずに言うなら、彼らは少し、「制度」から外れてしまっている。杉山はその点で少し異なる。今日聴かれる音楽は、まさに西洋音楽なのだ。
イタリアが好きで、本当にイタリアへと渡り、その地で生活し音楽をし、今や水牛webにエッセイを寄稿する彼のあり方は、中学生の頃(もしかしたらもっと以前)からの、まったく自然な一貫した流れの中にある。海外滞在の長い作曲家は今も多くいるが、彼らとも杉山は違うと思う。彼の場合、強い意志を持って留学する、習得する、といったものと、無縁な気がしてならない。彼はまったく自然にイタリアにいるのだと思う。海外で活動することの困難ももちろんあるだろうから理想化はしないが、その自然さにおいて、彼は幸せな音楽家であると、思える。