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POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説

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◆田中吉史氏Blog
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作品解説――――――――田中吉史

 今晩のコンサートでご一緒させていただく松平頼曉氏はおそらく現代日本で最もピアノ曲を得意とする作曲家だろう。それとは対照的に、ピアノ曲は必ずしも私の得意分野というわけではないし、ピアノ曲を書く機会もごく限られていた。とはいえ、数年おきに書かれたこれらの作品を振り返ってみると、それぞれの時期の興味がどこにあったのかが端的に反映されているようで興味深い。

TROS III(1992)
POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_5192633.jpg  作品表に残された中で最初のピアノ曲。大井浩明氏のために作曲され、同じ年の12月に芦屋で初演された。その後、改訂版を作り、ヨーロッパで何度か大井氏に演奏していただいているが、今回は改訂版での日本初演になると思う。このころ、音楽を構成する様々な要素(音高、音価、あるいは特徴的なブロックなど)の順序を、組織的な方法で入れ替えながら並べて作品を書くことを試みていた。TROSという題名も"sort"という単語を後ろから綴ったものである。このTROS IIIでは、音高、音価だけでなく特徴的なブロックが順序を入れ替えながら、時として同じ音域上でぶつかるようにして、並置されていく。ブロックを並置して構成していくやり方には、松平頼暁作品からの影響が見て取れなくもない。

eco lontanissima II(1994/6)
  TROSのシリーズでとっていたような要素を並べ変えて構成していく発想では、音響的素材は一度記号列に置き換えられてから操作され、個々の素材が持つ質的な特性を直接扱うことには結びつきにくい。そのことに気づいてから、個々の素材を記号化するのではなく、その響きの質感に基づいて作曲することに、関心が移った。中村和枝さんのために書かれた「eco lontanissima II」はそうした試みの一つである。「非常に遠いこだま」といった意味のイタリア語がつけられた独奏楽器のための連作では、強弱や音色、濃淡を変えつつ類似した音響が連ねられていき、時としてパルスや不規則な反復が現れる。こうしたやり方をとることで音の質感を強調することを目指していた。今日演奏される"II"では、パルスや反復に加えて、様々なペダリングによって多様な残響を作ることが試みられている。1994年に最初の版がTEMPUS NOVUM第5回演奏会で、改訂版が1996年にそれぞれ中村和枝さんにより初演された。

air varié(2004)
POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_5201199.jpg  ピアノ曲ではないのだが、1995-6年に書いた「Attributes II」は一つの転回点となった作品で、アルトサックスとピアノという非常に異なる楽器が一つの旋律をごくわずかにずれながら辿っていく、という方法が用いられている。これをきっかけに、旋律や線的な動きが作曲するときの発想の中心におかれるようになってきた。2004年に、山本裕之氏と中村和枝さんのユニットclaviareaのために書いた「air varié」も基本的にそうした発想に基づいている。この作品では、様々な旋律的な断片が飛び交うが、それらの断片の違いを際立たせるために、音域の配置や様々な音程で別の音を重ねることで、独奏ピアノによる「オーケストレーション」が試みられている。同じ年のclaviarea葉山公演で中村和枝さんにより初演された。

air (de Cherubino)(2005)
  「air varié」を作曲するときにつけていたメモを後で読みかえすと、いくつかのアイディアが実現されないまま残っていた。そこで、そのアイディアのひとつを改めて実現してみようと考えた。こうして書かれたのが「air (de Cherubino)」である。この作品は、ある有名なオペラのアリアに基づいており、その原曲とほぼ同じ演奏時間を持つ。原曲の旋律線が取り出され、様々な形でぼやけさせられる。その状態は原曲のフレーズやテクスチャーの変化に対応して移り変わる。原曲が何だったかはまず聴きとれないだろうが、それでも原曲の特徴はいくらか残っている。この曲は「air varié」といくつかの素材を共有しており、この曲のあとに「air varié」をつづけて演奏することができる。2005年5月、篠田昌伸氏により初演され、その後黒田亜樹さんによりイタリアでも演奏されているが、「air varié」とセットにしての演奏は今回が初めてとなる。

Umbrella for Yori-Aki Matsudaira(2010-11)
POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_5203464.jpg  松平頼曉氏の傘寿を記念して、今日のために作曲されたこの作品は、最近取り組んでいる作曲家の発話に基づく連作の一つである。この連作では、インタビューなどでの作曲家の話し声の録音が、西洋伝統音楽の記譜法に従ってできるだけ忠実に採譜され、素材として用いられている。
  人の話し声も音楽も、共に人間が生み出す何らかの組織化された音響である点では共通しているが、人の話し声を楽器で完璧に再現することは殆ど不可能である。人の発話も楽器も別の物理的・身体的制約に従っていることや、我々のなじんだ記譜法が人の話し声の記述には適していないことなどにより、自然な発話と器楽とは互換性が非常に乏しいのである。このことが逆に、楽器による音楽とは何なのか、どのようなものであるかを際立たせているようにも思われる。人の自然な発話を器楽に移植すれば、それはなかなか話し声には聞こえないし、普通の器楽曲からもどこかはずれたものになるだろう。
  この連作では他の私の作品には殆ど見られない複雑なリズムが用いられる。現代作品では複雑で難解なリズムをしばしば目にするが、それらの多くは非常にシステマティックな手法によってリズムが生成されている(ようだ)。しかし、この連作に見られる複雑さはそうした「理論的な」方法によって生み出されたものではない。現実のある時点にある場所で発せられた人の自然な話し言葉をとらえて丁寧に記述することで、日常生活の中にあるごく些細な出来事の複雑さがあらわになる。私は、システムや方法の複雑さよりも、そうした現象自体が持つ微妙さや脆さに強く惹かれる。また、自然な発話を転写しながら作曲するのは、写真や映像を加工しながら美術作品を制作するのと似たところがあるかもしれない。
POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_522163.jpg  「松平頼曉のための傘」では、松平氏が彼の作品を特集したラジオ番組に出演した際の録音が素材として用いられている。これまでに書いたものはいずれもイタリアの作曲家の発話に基づくもの(「ヴィオラとピアノの通訳によるL.B.へのインタビュー」(2006)はルチアーノ・ベリオへのイタリア語の、「ブルーノのアウラ、あるいはチューバとピアノの通訳によるインタビュー」(2008)はブルーノ・マデルナへの英語のインタビュー)だったが、日本語による発話を素材とするのは初めてである。
  この曲の前半で用いられているのは、おそらく1986年に放送された番組で、松平氏が一人で解説をつとめている。(おそらく)あらかじめ用意された台本に基づいて淡々と説明が行われ、発話のテンポは比較的安定しており、また日本語の特性により、等拍に近いリズムが続く傾向がある。後半は2006年に放送された番組に基づいており、ここでは西村朗氏との対談が行われている。前半とは異なり、かなりリラックスした雰囲気の中で、生き生きとした会話が行われている。こうした自由な会話の特徴として、時々言葉を探して沈黙したり、言い淀んだり、発話に緩急の変化が多く見られる。また、西村氏の発話は抑揚が大きく、より声域が低く、松平氏の話し方と対照的である(この曲の後半に現れる低音域の音型の多くは西村氏の発話である)。なお、この作品は特に録音された発話に忠実な部分が多く、そのためこれまで以上に線的な性質がかなり強く前面に出ている。


定着しない音の行方――――――――山本裕之

POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_5283669.gif  「かつて我々がよく耳にした日本の作曲家といえばタケミツでしたが、もちろんそれ以外にも山のような数の作曲家があの国にはいたわけで、今日はその中からヨシフーミ・タナカを取り上げようと思います。タナカは面白いことにイタリア文化に強い関心を持っていたので、我々にとって理解しやすい部分があるのではないかと思い、今日のゼミで聴いてみることにしました。私の印象では彼の音楽には、ドイツあたりの作曲家が好んで書くような重たい和音やクラスターはあまり存在せず、どちらかといえば線的で繊細な要素が随所に散りばめられるような書かれ方がされています。またその線は細かく動き、留まることをあまり好まない。なので『ある音響』を聞かせることが目的ではなく、限定された要素、あるいは短い単位の断片的な時間がどのように移り変わってゆくのかに興味があったのだと思います。
  まずはタナカが1996年から97年にかけて書いた《fuggitivi》という弦楽四重奏曲を聞いてみましょう」

 (《fuggitivi》聴く)

POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_5321180.jpg  「如何でしょうか。この作曲家の特徴として、どのようなことがいえると思いますか」
  「ええと、いま聴く前にプロフェッソーレが仰ったことの他には、どちらかというとさらりとした音楽を聴いた印象があります。いや、印象で語るのがいけないとしたら、この作曲家の音楽にはかつて多くの日本の作曲家に見られたような情念的なものがあまり見いだせません」
  「情念とは曖昧な言い方だね。まあわからないでもない。しかしタナカと同世代以降の日本の作曲家には多かれ少なかれそのような情念的な表現を避ける傾向が見られると思います。我々にとって日本の情念的な音楽は理解しがたい部分がある一方、ミステリアスであるが故の魅力を感じることもありますね。中には具体名は出しませんがそれを武器に注目を惹こうとする作曲家もいたわけですが、タナカ以降の世代はそれをあまり潔しとはしません。また日本では『秋吉台世代の作曲家』という言い方があって、1960~70年代の生まれの作曲家を総称する言葉となっています。タナカは1968年生まれですから年代としてはその中心的な存在になります。秋吉台とはその頃に現代音楽の夏季講習会が行われていた場所です」
  「私のかつての恩師が、招かれて行ったことがあります。ノーノがなぜか自分の舞台を作ったそうですね」
  「そうです。すごいですね。なんでわざわざ鍾乳洞でそんな勉強をしていたのかはよく分かりませんが、日本開国の成果の一つといわれています。そこで日本の当時の若手は日本にいながらにしてヨーロッパ音楽を学んだのでしょう。しかしタナカには他の作曲家とは違う特徴があります。それは彼が認知心理学のドクターだったということです。彼の研究対象は主に記憶や学習に関するものでしたが、もちろん音楽の認知心理学的側面も研究していたはずで、実際そのような著作もあります。タナカのこの専門的研究は当然自分の作品にも反映されていると考えてしかるべきでしょう」
POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_5323799.jpg  「作曲家が他の専門領域を持っているのは珍しくありませんね。例えば日本ではヨリァーキ・マツダーイラも生物学者でした。しかし専門的研究がそのまま作品にも反映されていると考えるのは、いくぶん短絡的ではないでしょうか?」
  「もちろん直接的にそうだとは言いきれません。作曲家自身も気付かない深層心理レベルでの影響があるという解釈はいつでも可能で、かつ危険なことです。しかし彼自身が心理学の研究者であるというのは重要です。彼はその道の専門家らしく観察することを好んでいました。こんなエピソードがあります。タナカがミラノに来たとき、あのドゥオーモの広場でジプシーの子供に手帳を盗まれました。彼はすぐさま気付いて、逃げていたその子供を捕まえて手帳を取り返したそうです。次に彼はドゥオーモの屋上に登って、物盗りの親子がどのような動きをするのかをずっと観察していたそうです」
  「ああそれで!」
  「ん?」
  「さっきの弦楽四重奏曲のタイトル……」
  「《fuggitivi》(訳注:「逃げ去るものたち」の意)? あいや、それは関係ないでしょう。情景描写的な作品は彼は一度も書かなかった。たぶん違うはずです。たぶん。きっとね。でもこのタイトルが何を示唆しているかお分かりですか。タナカはこのタイトルが意味する「うつろいやすいもの」「逃げ去るもの」というものに興味がある、と語っています。つまり一般的に音楽は聴く人の耳に定着されるように書かれているわけですが、この音楽ではむしろその逆、掴まえようとしても逃げていってしまう楽想が意図的に書かれているのです。
  タナカの音楽にはそのような例がたくさんあって、次に2001年に書かれた声、クラリネットとコントラバスのための《Gestes》というデュファイの作品をベースにした曲を聴いてみましょう」

 (《Gestes》聴く)

POC#5 [1月29日(土)] 田中吉史・作品解説_c0050810_5333548.jpg  「これは今世紀最初の年に書かれたものです。タナカはデュファイの「気ままに移ろう楽想やリズム」に関心を持ち、それらを音楽のジェスチャーとしてとらえたと語っています。ジェスチャーといえば《bogenspiel》というヴァイオリンソロの曲でも、奏者の身体性に焦点を当ててるんですね。決して大げさな所作ではない、何気ない身体の動き。明瞭に把握したり、特徴を説明するのが難しいとらえどころのない動作。それらを人はどう認識するのか。あるいはそういう現象を音楽の上で認識されるようにしむけるとしたら、どのようなものになると思いますか」
  「うーん、何を仰っているのやらプロフェッソーレ」
  「あれ、ここ重要なんだけどな。例えばこの《Gestes》にいくらか出てくる、素早く動く、断片化された音階がありますね。これはこの時期以降のタナカの音楽に頻繁に使用されています。音階ですよ。音階というものは耳が認識しやすいオブジェクトの一つです。なのにタナカの書く音階は、手で掴んだと思ったらするりと逃げてしまい、その直後にどこに消えたのかもよく分からない、捉えどころのない音階の断片群です。もちろん音階に限らず様々なオブジェクトが顕れては消えて、なかなか聴き手の記憶に食い込んで来ようとしないので、音楽の構造自体も語りえない不定型なものとして、最後に残るのです。タナカは音楽を聴き手の耳にどう定着させようかとするよりも、音楽が認識あるいは記憶されるべきものという観念に疑問を呈したといえるのではないか、そう私は考えています」
  「しかし聴き終わってから、それがどういう音楽だったかという印象は明確に残ってますが……」
  「うむ、説明不足でした。音楽の全体像はもちろん明確にあるのですが、細部ははたしてどうでしょう? 例えば美味しいサラダを食べた。全体の味を決めるドレッシングはこんな感じで美味しかった。お皿全体の色合いも憶えている。サラダを構成する材料が何なのかは食べた瞬間にはわかる。ところがすべてを食べ終わったときにそれら食材の種類をあまりよく憶えていない。でもサラダの存在感は否定出来ない。変な例えですがそんな感じでしょうか。私はタナカの音楽に、パルメジャーノがよく効いたシーザーサラダの香りを覚えます」
  「最後のだけわかりませんプロフェッソーレ」
  「おや、もうこんな時間だ。諸君失礼、私はこれからローマの日本文化会館に出かけなければならない。ピアニストのヒロアキ・オーイがPOC#30と題した日本人作品によるリサイタルを行うのです。実はそのオーイがタナカに委嘱した《松平頼暁のための傘》という四半世紀も前のピアノ曲を諸君に聴かせたかったのですが、それはまた次回にしよう。そういうわけで今日はこれにておしまい。ぐらっちぇ、ちゃお」
by ooi_piano | 2011-01-23 04:32 | POC2011 | Comments(0)

6月15日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第1回公演


by ooi_piano