★9月23日クセナキス公演の感想集 http://togetter.com/li/191754
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〈前売〉 学生2,000円 一般2,500円 〈当日〉 学生2,500円 一般3,000円
3公演券 一般7,500円 学生6,000円
【チケット取り扱い】 ローソンチケット 0570-084-003 Lコード:39824
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音楽史の中のリゲティ ――――野々村 禎彦
1956年2月、フルシチョフによるスターリン批判を契機に東欧諸国では民主化の機運が高まり、ハンガリーでは10月23日に民衆が蜂起した。政府は宥和的で、戒厳令を停止し介入したソ連軍も撤退させようとした。ソ連はこの姿勢に業を煮やし、11月4日に大戦車部隊で越境攻撃を始めた。当時ブダペスト音楽院で対位法を教えていたジェルジ・リゲティは、当局が推奨するバルトーク流民謡編曲には飽き足らず、《ミクロコスモス》を凝縮して無調化したような《ムージカ・リチェルカータ》や、バルトークが戦後も生き延びてヴェーベルンやシェーンベルクの最晩年の作品に影響されたかのような弦楽四重奏曲を書いていた。それだけに、ソ連支配後の弾圧を怖れ、自作の譜面だけを持って着の身着のままで西側に亡命した。12月に入ってソ連側も亡命対策を整え始めており、列車が軍の検問に引っかかって沿線の郵便局に飛び込む際どい状況だった。だが、市民の間ではまだ反ソ感情が強く亡命者には協力的で、翌日には郵便物と一緒に国境の町まで「配達」され、夜陰に乗じて辛うじてオーストリアに逃げ込むことができた。
ただし、音楽に対する締め付けは東欧では限定的だった。ハンガリー革命の1956年にポーランドでは「ワルシャワの秋」現代音楽祭が始まり、ルトスワフスキ、ペンデレツキら「ポーランド楽派」のトーン・クラスター書法は西側でも注目された。リゲティの同僚ジェルジ・クルタークはハンガリーに残ったが、無調音楽の地道な探求を続けることは可能で、70年代には独自様式に達して西側でも徐々に知られるようになった。だが、現代音楽の後進国から先進国へ、すべてを捨てて亡命したリゲティはそんな悠長なことは言っていられない。そこで彼が選んだ戦略は、バルトークの衣鉢を継いだポリフォニックな書法の基礎の上に、さまざまな現代音楽のスタイルをトッピングしてゆくことだった。このような二番煎じ戦略を採用した作曲家は少なくないが、二番煎じなりに得意な様式に落ち着いてしまう例が多い中、彼は一作ごとに全く違う様式をトッピングし続けた。彼の西側亡命後の作品を辿れば、現代音楽の様式の大部分はフォローできてしまう。
むしろ注目すべきは、彼が何を選ばなかったかだ。ヨーロッパで二番煎じ戦略を取る作曲家の大半は、ヨーロッパの外側に関心を向けようとしないが、リゲティは米国実験音楽にも強い関心を示した。《100台のメトロノームのためのポエム・サンフォニック》は、フルクサスのメンバー以外のサウンド・インスタレーションとしてはヨーロッパでは最も早い部類である。《オルガンのための練習曲》や《コンティヌウム》に始まるミニマル音楽への接近はライヒが器楽曲を書き始めたのと同時期であり、その後もリゲティの中で大きな位置を占めた。80年代のナンカロウ・ルネッサンスに火を付けたのも彼だ。だが、米国実験主義の本命であるケージらの偶然性の音楽には、彼は一切関わらなかった。トーン・クラスター書法を特徴付ける半音階堆積を偶然性を利用して実現しようとする作曲家が多い中、リゲティは全パートを厳密に指定して、「ミクロ・ポリフォニー」と称した。《3つのバガテル》は《4分33秒》を意識した作品だが、決してオマージュではなく揶揄ないし当てこすりなのは、一目見れば明らかだろう。
他方、ヨーロッパ戦後前衛音楽の本命は、新ウィーン楽派の12音技法に相当するシステムを音高以外の音楽要素にも拡張した総音列技法ということになる。第2次世界大戦終結時には圧倒的に新古典主義が中心だったクラシック音楽界で、この方向性こそが新時代にふさわしいとアジテーションし、創作を通じて実証したのががブーレーズである。40年代後半、20歳代前半の作品で既に将来を嘱望されていた早熟なブーレーズは、期待に応えて総音列技法最初の傑作《構造I》を作曲し、リゲティが西側に亡命した50年代後半には、ストラヴィンスキーのリズム構造やドビュッシーの音色と柔軟な形式感を生かした作品を続々発表し、ケージとの交流を通じて偶然性の音楽をヨーロッパ流に解釈した「管理された偶然性」を提唱し、ドメーヌ・ミュジカルの音楽監督として総音列技法に基づいたヨーロッパ各国の作品を紹介していた。この10年の差を前にしたリゲティの戦略は、まず《構造I》の分析を行ってこの技法を理解していることを示した後、総音列技法も偶然性の音楽同様、徹底的に無視する逆張り戦略だった。追いつくのが無理なら、トップランナーを「過去の人」にしてしまうのが賢明だ。
ただし、リゲティの逆張り戦略は単なる方便ではなく、彼の音楽史観にも合致していた。1980年にナンカロウの音楽に出会った彼は「ヴェーベルンとアイヴズ以降で最大の音楽的発見」と記した。この覚え書きは見た目以上の情報を含んでいる。まず、彼は音列音楽自体は否定しておらず、新ウィーン楽派は高く評価しているが、その可能性はヴェーベルンで汲み尽くされ、総音列技法以降の展開は蛇足と見ているのだろう。また、彼は米国実験音楽の祖アイヴズの「天才素人」ならではの大胆な発想はリスペクトしているが、偶然性の音楽など、その後の展開の多くは重視していない。彼が取り入れたのはミニマル音楽やナンカロウの複雑なポリリズムなど、クラシック音楽の伝統的な記譜法に回収できるものに限られる。彼は西側亡命直後にまず電子音楽を作曲したが、その後はこの分野に足を踏み入れていないのも、電子音楽の本質は譜面の外側にあると気付いたからだろう。シュトックハウゼンの得意分野には関わらないという逆張り意識もあったのだろうが。
ミクロ・ポリフォニー書法による最初のオーケストラ曲のタイトルは《出現》。電子音楽は習作でこれが西側デビュー作であり、この分野が今後も主戦場になるという強い主張を感じさせる。合唱も加わった《レクイエム》はこの路線のひとつの頂点。後にキューブリック監督『2001年宇宙の旅』でも「モノリスのテーマ」として繰り返し使われ、一般的認知も高い。「ミクロ」の所以の半音階堆積は全音階を避けようとする時代様式だが、リゲティの拘りはそこにはない。《ロンターノ》以降は時代の流れに沿って、全音階の透明な響きに向かい始める。特に、旋律を表看板にした《メロディエン》の直前に書かれた《室内協奏曲》では半音階と全音階が絶妙に釣り合っており、玄人筋の評価は高い。
リゲティの音楽が全音階に向かい始める時期は、ミニマル音楽を取り入れた時期と一致する。反復の微妙な変化を聴かせるには反復パターン自体は耳に引っかかりやすい全音階的なものの方がよく、両者がシンクロするのは自然ではある。ミクロ・ポリフォニー書法は大編成限定なのに対し、反復書法は《弦楽四重奏曲第2番》《室内協奏曲》《メロディエン》と幅広く用いられた。特に、大編成作品での使用は本家ミニマル音楽の作曲家たちよりも早く、また彼らが書き割り的な和声進行を反復パターンで彩る原始的書法に留まったのに対し、リゲティの複雑な反復書法はオリジナルの域に達した。彼のこの書法の集大成が2台ピアノのための《記念碑・肖像・運動》。ライヒのフェイズ物の効果を確定譜面で実現しようとした結果、ナンカロウを思わせる複雑なポリリズムが出現した。
これと並行して書かれたのが、《大いなる死者》。創作歴中でも異質な、グロテスクなギャグてんこ盛りの舞台作品である。通俗的なオペラをナンセンスな行為でストイックに異化する、カーゲルらの「反オペラ」のスタイルもクリシェになった状況を受け、反オペラ的な設定の上にオペラ的な御都合主義のストーリーと悪趣味な視覚的要素を塗り重ねて異化した、「反・反オペラ」。単なるトッピングでは意味をなさないカーゲルの音楽に、まるごとひっくり返してようやく向き合えたわけだが、このスタンスは、本来は伝統的な音楽様式の否定として生まれた前衛諸技法を、対位法構造のスパイスとして使うことで伝統に回収してしまう、彼の歩みの集大成でもあった。カーゲルのパロディのはずが、歪んだ自画像を突きつけられたわけで、彼がこれ以降深刻なスランプに陥ったのも無理はない。チェンバロのための遊戯的な小品の委嘱は良い気晴らしになったが、ナンカロウの音楽と出会うまで、それ以外は1曲も書けなかった。
彼がナンカロウの音楽に見出したものは、決して「トッピング用の新ネタ」ではない。遅れて来た現代音楽界で評価されるために二番煎じ戦略を重ねてきた己の姿に虚しさを感じていたところに、スペイン市民戦争参加を理由に米国から追放され、メキシコの片田舎で現代音楽の状況とは隔絶され、演奏家も周りにいない中でやむなく、紙ロール式自動ピアノという時代遅れの楽器を用いて、ビ=バップ以前の古めかしいジャズを素材に作り始めた音楽が、いつしかあらゆる現代音楽を飛び越えていたという事実は啓示だった。それは彼が「現代音楽」と捉えていた範囲が狭かっただけではないか、という無粋な突っ込みは今はやめておこう。虚しかったのは自分だけではなく、競っていた同僚の来し方すべてだった。もはや現代音楽界の流行に汲々とすることなく、好きな音楽を書いてゆこう。
それまでの彼は深くリスペクトする音楽はトッピングには用いてこなかったが、吹っ切れたら後ろめたさもなくなり、ナンカロウ流ポリリズムを全面的に展開している。もちろん、自動ピアノに特化した発想を生楽器に転生させるだけで終わりではない。《ホルン三重奏曲》ではブラームスの同名作と向き合い、《練習曲集第1巻》や《ピアノ協奏曲》では世界の民族音楽のリズムを取り入れ、《練習曲集第2巻》ではフラクタルパターンのイメージと結びつけている。他方、自らの原点である民謡収集の中で見出した多様な音律の問題を、合唱曲で探求し始めたのもこの時期である。ただし、本稿のように想像力を逞しくせず、この時期も二番煎じ戦略を続けているという見方に立つと、《ホルン三重奏曲》は新ロマン主義、《練習曲集第2巻》は「新しい複雑性」、音律の探求はライリーやルー・ハリソンの影響ということになる。
いずれの立場を取るにせよ、ポリリズムの探求と音律の探求というふたつの流れが合流した《ヴァイオリン協奏曲》は、彼の創作の頂点である。作品の魅力を引き出すには楽章ごとに異なった音律で弾ける超人的なソリストが必要だが。バルトークをはじめ、20世紀前半の綺羅星のような協奏曲群に挑もうとする現代作曲家は少なくないが、えも言われぬ古めかしさを纏ってしまうことがあまりに多い。稀少な例外は本作とデュティユとフェルドマン程度、奇しくもみなヴァイオリン協奏曲だ。この作品のエッセンスを、より民謡寄りのスタイルで抽出し直したのが《無伴奏ヴィオラソナタ》であり、たちまちこの楽器の決定的なソロレパートリーになった。これ以降のリゲティは、死期を悟ったかのように静かにフェードアウトしてゆき、音楽活動もハンガリー時代の旧作の校訂出版の方が目立つようになる。そんな最晩年の境地を良く伝えるのが、《練習曲集第3巻》である。
以上のように、リゲティはブーレーズと補完する形で、20世紀の「クラシック音楽」の作曲家であり続けた。クセナキスやシュトックハウゼンあるいはケージやライヒのように、このジャンルを飛び越えた影響力は持たなかったが、このジャンルが存続する限りは音楽史の重要な一頁であり続けるだろう。
【ポック#7】 リゲティ(1923-2006) 歿後5周年・全鍵盤作品演奏会
2011年10月22日(土) 午後6時開演 Hakuju Hall
音響 森威功
協力 モモセハープシコード株式会社、有馬純寿
楽器 ノイペルト社「バッハ・モデル」 61鍵(FF-f3) 260cm x 105cm 170kg
二段鍵盤(4'/8'sup/8'inf/16'、バフストップ付) 5本ペダル
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【演奏曲目】
◆模索された音楽(ムージカ・リチェルカータ)(1951-53) (全11曲)
◆デイヴィッド・チューダーのための3つのバガテル(1961) 日本初演
◆連続体(コンティヌウム)(1968)
《19のエテュード集》(1985~2001、全曲による通奏日本初演)
◆エテュード集第1巻(1985) I.反秩序、II.開放弦、III.阻まれた打鍵、IV.ファンファーレ、V.虹、VI.ワルシャワの秋
ーーー(休憩15分)ーーー
◆ハンガリー風パッサカリア(1978)
◆エテュード集第2巻(1988-94) VII.伽藍梵論、VIII.メタル、IX.眩暈、X.魔法使いの弟子、XI.宙ぶらりん、XII.入り組み模様、XIII.悪魔の階段、XIVa.終わりの無い柱(自動ピアノのための)、XIV.無限柱
◆ハンガリー風ロック(シャコンヌ)(1978)
◆エテュード集第3巻(1995-2001) XV.白の上の白、XVI.イリーナのために、XVII.勝手にしやがれ、XVIII.カノン
〈前売〉 学生2,000円 一般2,500円 〈当日〉 学生2,500円 一般3,000円
3公演券 一般7,500円 学生6,000円
【チケット取り扱い】 ローソンチケット 0570-084-003 Lコード:39824
ヴォートルチケットセンター 03-5355-1280 (10:00~18:00土日祝休)
*3回券はヴォートルチケットセンターと株式会社オカムラ&カンパニーでお求めいただけます。
【お問い合わせ】お問い合わせ 株式会社オカムラ&カンパニー
tel 03-6804-7490 (10:00~18:00 土日祝休)
fax 03-6804-7489 info@okamura-co.com
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音楽史の中のリゲティ ――――野々村 禎彦

ただし、音楽に対する締め付けは東欧では限定的だった。ハンガリー革命の1956年にポーランドでは「ワルシャワの秋」現代音楽祭が始まり、ルトスワフスキ、ペンデレツキら「ポーランド楽派」のトーン・クラスター書法は西側でも注目された。リゲティの同僚ジェルジ・クルタークはハンガリーに残ったが、無調音楽の地道な探求を続けることは可能で、70年代には独自様式に達して西側でも徐々に知られるようになった。だが、現代音楽の後進国から先進国へ、すべてを捨てて亡命したリゲティはそんな悠長なことは言っていられない。そこで彼が選んだ戦略は、バルトークの衣鉢を継いだポリフォニックな書法の基礎の上に、さまざまな現代音楽のスタイルをトッピングしてゆくことだった。このような二番煎じ戦略を採用した作曲家は少なくないが、二番煎じなりに得意な様式に落ち着いてしまう例が多い中、彼は一作ごとに全く違う様式をトッピングし続けた。彼の西側亡命後の作品を辿れば、現代音楽の様式の大部分はフォローできてしまう。

他方、ヨーロッパ戦後前衛音楽の本命は、新ウィーン楽派の12音技法に相当するシステムを音高以外の音楽要素にも拡張した総音列技法ということになる。第2次世界大戦終結時には圧倒的に新古典主義が中心だったクラシック音楽界で、この方向性こそが新時代にふさわしいとアジテーションし、創作を通じて実証したのががブーレーズである。40年代後半、20歳代前半の作品で既に将来を嘱望されていた早熟なブーレーズは、期待に応えて総音列技法最初の傑作《構造I》を作曲し、リゲティが西側に亡命した50年代後半には、ストラヴィンスキーのリズム構造やドビュッシーの音色と柔軟な形式感を生かした作品を続々発表し、ケージとの交流を通じて偶然性の音楽をヨーロッパ流に解釈した「管理された偶然性」を提唱し、ドメーヌ・ミュジカルの音楽監督として総音列技法に基づいたヨーロッパ各国の作品を紹介していた。この10年の差を前にしたリゲティの戦略は、まず《構造I》の分析を行ってこの技法を理解していることを示した後、総音列技法も偶然性の音楽同様、徹底的に無視する逆張り戦略だった。追いつくのが無理なら、トップランナーを「過去の人」にしてしまうのが賢明だ。

ミクロ・ポリフォニー書法による最初のオーケストラ曲のタイトルは《出現》。電子音楽は習作でこれが西側デビュー作であり、この分野が今後も主戦場になるという強い主張を感じさせる。合唱も加わった《レクイエム》はこの路線のひとつの頂点。後にキューブリック監督『2001年宇宙の旅』でも「モノリスのテーマ」として繰り返し使われ、一般的認知も高い。「ミクロ」の所以の半音階堆積は全音階を避けようとする時代様式だが、リゲティの拘りはそこにはない。《ロンターノ》以降は時代の流れに沿って、全音階の透明な響きに向かい始める。特に、旋律を表看板にした《メロディエン》の直前に書かれた《室内協奏曲》では半音階と全音階が絶妙に釣り合っており、玄人筋の評価は高い。

これと並行して書かれたのが、《大いなる死者》。創作歴中でも異質な、グロテスクなギャグてんこ盛りの舞台作品である。通俗的なオペラをナンセンスな行為でストイックに異化する、カーゲルらの「反オペラ」のスタイルもクリシェになった状況を受け、反オペラ的な設定の上にオペラ的な御都合主義のストーリーと悪趣味な視覚的要素を塗り重ねて異化した、「反・反オペラ」。単なるトッピングでは意味をなさないカーゲルの音楽に、まるごとひっくり返してようやく向き合えたわけだが、このスタンスは、本来は伝統的な音楽様式の否定として生まれた前衛諸技法を、対位法構造のスパイスとして使うことで伝統に回収してしまう、彼の歩みの集大成でもあった。カーゲルのパロディのはずが、歪んだ自画像を突きつけられたわけで、彼がこれ以降深刻なスランプに陥ったのも無理はない。チェンバロのための遊戯的な小品の委嘱は良い気晴らしになったが、ナンカロウの音楽と出会うまで、それ以外は1曲も書けなかった。

それまでの彼は深くリスペクトする音楽はトッピングには用いてこなかったが、吹っ切れたら後ろめたさもなくなり、ナンカロウ流ポリリズムを全面的に展開している。もちろん、自動ピアノに特化した発想を生楽器に転生させるだけで終わりではない。《ホルン三重奏曲》ではブラームスの同名作と向き合い、《練習曲集第1巻》や《ピアノ協奏曲》では世界の民族音楽のリズムを取り入れ、《練習曲集第2巻》ではフラクタルパターンのイメージと結びつけている。他方、自らの原点である民謡収集の中で見出した多様な音律の問題を、合唱曲で探求し始めたのもこの時期である。ただし、本稿のように想像力を逞しくせず、この時期も二番煎じ戦略を続けているという見方に立つと、《ホルン三重奏曲》は新ロマン主義、《練習曲集第2巻》は「新しい複雑性」、音律の探求はライリーやルー・ハリソンの影響ということになる。

以上のように、リゲティはブーレーズと補完する形で、20世紀の「クラシック音楽」の作曲家であり続けた。クセナキスやシュトックハウゼンあるいはケージやライヒのように、このジャンルを飛び越えた影響力は持たなかったが、このジャンルが存続する限りは音楽史の重要な一頁であり続けるだろう。