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野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」

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野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_11423882.jpg野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_1143419.jpgPOC#8 ピエール・ブーレーズ全ピアノ作品演奏会
2011年11月23日(祝)18:00 ハクジュホール
●12の徒書(ノタシオン) (1945)
●フルートとピアノのためのソナチネ (1946) (※助演:寺本義明)
●第1ソナタ(1946) [全2楽章]
●第2ソナタ(1948) [全4楽章]
  (休憩15分)
●第3ソナタ(1956-1957)
 --《シグラ(略字)》
 --《トロープ(修飾)》 [テクスト(文章) - パランテーズ(括弧) - グローズ(注釈) - コマンテール(解説)]
 --《コンステラシオン-ミロワール(星座-鏡像形)》 [メランジュ(混合体) - ポワン(点)3 - ブロック(塊)2 - ポワン2 - ブロック1 - ポワン1]

●内挿節(アンシーズ) (1994/2001)
●日めくりの一頁 (2005、日本初演)

■POC#8 ブーレーズ全ピアノ曲 [2011.11.23] 感想集

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ブーレーズとは何だったのか ――― 野々村 禎彦

野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6173838.jpg 音楽史から切り離された独自の道を歩んできた(それこそ「前衛」の名にふさわしいという見方もあろうが)クセナキスと、音楽史に翻弄されてきた(後半生で開き直ったことも含めて)リゲティ。ふたりの作曲家の歩みを振り返るのは、作品を十分に聴いていればさほど難しくはない。だが、ブーレーズの場合はそうはいかない。どの戦後音楽史のテキストにも彼が作曲活動を旺盛に行っていた時期のことは詳しく書かれており、彼の歩みがそのまま「音楽史」の一部になっているように見える。それをまとめ直すだけの作業には殆ど意味はない。それが、彼は「現代音楽の保守本流」だったということである。


野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_618712.jpg 作曲家=指揮者=音楽教育者=音楽行政官。まず、この肩書きから検討しよう。各々の仕事の高い水準は日本でも十分実感できる。指揮者としての録音は言うまでもなく、作曲作品の録音や譜面も手に入りやすい方で、論文集や講義録も邦訳されている。Ircam所長としての仕事は、専属団体アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)が80年代から90年代半ばにかけて(ロンドン・シンフォニエッタの活動が飽和してからアンサンブル・モデルンが台頭するまで)20世紀音楽演奏を支え、ブーレーズ時代に開発された音響合成ソフトMAXが今日でもジャンルによらず標準的であることを挙げれば十分だろう。


野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6185384.jpg 教育者及び指揮者としての区切りは1963年。この年に最初の論文集『現代音楽を考える』を出版し、コレージュ・ド・フランスで講義を始め、フランス国立放送管との《春の祭典》の録音が高く評価され、《ヴォツェック》のフランス初演を指揮した。他方、作曲家としての主要作品は、1961年に《構造II》を完成させ、翌1962年に《プリ・スロン・プリ》全曲が最初に出揃った時点でほぼ出尽くした。これ以降の作品は、ブーレーズ特集のような企画公演以外ではあまり取り上げられない。またこれ以前は、バロー劇団やドメーヌ・ミュジカルで指揮者修行に励んでおり、作曲に加えて音楽教育にまで時間を割く余裕はなかった。作曲家=指揮者見習いから指揮者=音楽教育者への転身。

野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6191399.jpg すなわち彼は、才能に任せて片っ端から引き受けるタイプではなく、能力の限界を見極めて優先順位を付けてゆくタイプ。世界の一流オーケストラの指揮を始めたら、作曲活動は副業になった。Ircam所長就任時も同様で、実際に仕事を始める前までにBBC交響楽団とニューヨークフィル(NYP)の音楽監督を辞している。Ircam所長職自体は役人仕事だとしても、彼の場合はEIC音楽監督を兼任し、研究所のために作曲することも求められていた。大型コンピュータを用いたリアルタイム音響合成システム4Xの一般公開のために書かれた《レポン》は、所長就任以前の《リチュエル》以来の大作で、この作業に刺激されて《デリーヴ》などの派生作品が生まれ、《ドメーヌ》のアンサンブル版を4Xシステムのために全面改稿した《二重の影の対話》も完成させ、《プリ・スロン・プリ》《カミングスは詩人である》の管理された偶然性部分を確定させ、補筆も行った。

野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6193479.jpg 本気で作曲に取り組むと(《レポン》がそれだけの作品かどうかは別にして)創作意欲が湧いてくるのはいかにもだが、若かりし頃の彼がそうだったように、どんなに忙しくても湧いてしまうのが本来の創作意欲ではないか? 例えばアイヴズの代表作は、保険会社の創業者=副社長として事業を拡大する激務のさなかの週末に書かれている。《レポン》に取り組む直前のブーレーズの作曲活動は《ノタシオン》のオーケストレーションという明らかに不毛な作業だった。《レポン》祭り後は再び作曲頻度が落ち、Ircam所長を退職してからも、力を割いたのは指揮活動だった。もっとも、今回のオファーは音楽監督ではなく、ベルリンフィル、ウィーンフィル、シカゴ響、クリーブランド管など世界の超一流オーケストラを作品に応じて使い分け、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、バルトーク、マーラー、新ウィーン楽派という得意レパートリーを網羅的に録音する巨匠待遇であり、NYP時代には団員のサボタージュの結果としか思えない録音も散見されたことを思い出すと、そちらを優先してしまうのは音楽家として当然かもしれない。

野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6195867.jpg とはいえ、Ircam所長退職後にブーレーズは晴れて指揮者=作曲家になり、そうして書かれた作品が《内挿節》や《日めくりの一頁》ということになるわけだが…どうしてこうなった? まず、作曲家のピークは思いの外短く、10年続けば一流、15年続けば超一流と言ってよい。シェーンベルクですら開店休業状態が長く、霊感にあふれていたのは1906~13年(室内交響曲第1番~幸福な手)、1927~32年(弦楽四重奏曲第3番~モーゼとアロン)、1946~50年(弦楽三重奏曲~現代詩篇)の計約15年にすぎない。それがブーレーズの場合は1946~62年だったとしても恥じることはない。また、ブーレーズ絶頂期の数少ない汚点はミュジック・コンクレートを用いた作品であり、彼のアキレス腱が電子音楽にあることは明らかだ。器楽的発想から逃れられないのだ。《レポン》以降にデジタル電子音響と関わるようになっても、何も変わっていない。4Xシステムも器楽的な発想で設計されているが、そこで自動生成される装飾音型を「未来の音楽」だと誤認し、作曲にフィードバックさせてしまった結果が彼らしからぬ近作なのだろう。

野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6202285.jpg 残る問題は、ブーレーズは果たして「現代音楽」の人なのか? 指揮者として見ると、極めて疑わしい。先に挙げたように、彼が得意レパートリーとする作曲家はことごとく19世紀末~20世紀前半のモダニズムを代表する人々であって、現代の作曲家ではない。作曲家=指揮者は自作を振っていれば良いという考え方もあろうが、ベリオ、シュトックハウゼン、アルフテル、ペンデレツキをはじめ、多少なりとも指揮の心得のある作曲家はみな自作は振るもの。作曲家でもあるギーレンがB.A.ツィンマーマンを絶対的なレパートリーにしていたように、自作以外にも現代レパートリーを持っていなければ「現代音楽の指揮者」とは呼べない。ブーレーズは、ドメーヌ・ミュジカルやEICの音楽監督時代には多くの作品を初演しているが、それは仕事として処理していただけで、音楽史に残る作品で初演したのはクセナキス《エオンタ》とリゲティのヴァイオリン協奏曲程度。いわゆる一流オーケストラが取り上げるのは現代音楽でも評価が確立した作品であり、委嘱するのも序曲代わりの小品になりがち。音楽史に残る作品を初演するのは現代音楽祭のレジデントオーケストラを務めるヨーロッパの放送オーケストラの役割、という構造はもちろんあるが、シェルヘンがクセナキスを発掘したような役割を果たす余地はあったはずだ。

野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6205148.jpg そもそも彼は現代音楽の作曲家なのか? これも定義しだいかもしれない。20世紀に生まれ、戦後に活躍した作曲家という定義ならもちろんそうだし、総音列技法や管理された偶然性を主導したのだから言うまでもない、という見方も妥当ではある。だが、このような前衛技法の導入は、果たして20世紀前半のモダニズムと質的に異なるのだろうか。ケージ流の偶然性ならばさすがに違うが、管理された偶然性はルバートのようなものだと彼自身述べており、大編成作品ではデメリットの方が大きいとして、後年に選択の余地がない形に改訂している。結局、その程度のものだったということだ。リゲティが示唆していたように、総音列技法は後期ヴェーベルンの亜流に過ぎないという見切り方も可能だ。少なくともブーレーズが指揮活動中心に乗り換えた60年代初頭は、それまでモダニズム一筋で歩んできた作曲家たちが岐路に立った時期である。例えばシュトックハウゼンの場合は、総音列技法は《クラヴィア曲第10番》、電子音楽は《コンタクテ》でピークを迎えた。そこで彼は引き返さず、即興的要素を含むライヴエレクトロニクスの制御にまで「音列」概念を拡大し、20世紀後半最大の音楽的達成のひとつである自由即興音楽との境界領域に近づいてゆく。ミュジック・コンクレートを探求してきたフェラーリの場合は、具体音を抽象的に構成するシェフェールの理論をひっくり返し、具体音の意味性を全面的に利用する、孤独だが豊穣な道をこの時期に歩み始めた。彼らに限らず、この時期にモダニズムの彼方を独力で見出した作曲家たちは、前衛の時代が過ぎても探求を止めなかった。

野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」_c0050810_6211618.jpg 「現代◯◯」の定義に関しては、現代美術を参照するのが示唆的だろう。20世紀前半のモダニズムは、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチ、クレーらの抽象絵画を生んだが、彼らの作品が現代美術にカウントされることはない。現代美術は、あくまで戦後米国の抽象表現主義から始まる。『クレーの絵と音楽』という幸福な本の中で閉じたブーレーズの美学がどちら側に属するのかは明らかである。













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by ooi_piano | 2011-11-20 06:22 | POC2011 | Comments(0)