【ポック#9】 韓国現代ピアノ作品を集めて 2011年12月23日(祝) 午後6時開演 (午後5時30分開場) 白寿ホール 大井浩明(ピアノ)、有馬純寿(電子音響) ■尹伊桑(ユン・イサン 윤이상)(1917-1995)/5つの小品 (1958)、小陽陰(1966)、間奏曲A(1982) ■朴琶案泳姫(パク=パーン・ヨンヒ 박-파안 영희)(1945- )/波紋(1971)、のどの渇き(2008) ■陳銀淑(チン・ウンスク 진은숙)(1961- )/ピアノのためのエテュード集(1994-2003)(初版+改訂版 全曲による通奏世界初演) I.インC (初版+改訂版)、II.連鎖 (初版+改訂版)、III.自由なスケルツォ (初版+改訂版)、IV.音階 (初版+改訂版)、V.トッカータ ~大井浩明のために、VI.粒子 ~P.ブーレーズのために ■姜碩煕(カン・ソッキ 강석희)(1934- )/ピアノ・スケッチ(1968)(日本初演)、アペックス(1972)(日本初演)、インヴェンツィオ~ピアノと電子音響のための(1984)(日本初演)、ソナタ・バッハ (1986)

韓国作曲界の「河」の流れ ―――― 伊藤 謙一郎(東京工科大准教授)
1968年、春のソウル。その日、二人の作曲家が初めて顔を合わせた。その場所は、音楽について語り合うには不釣り合いな「病院」であった。二人の男から厳しい視線を注がれていた彼らに、自由な会話は許されていなかった。この男たちはKCIA(韓国中央情報部)の職員。彼らの言動を監視する命令を受けていた。
30才過ぎのその若い作曲家は、尊敬すべき先達に面会できた喜びもあって、つい思いのままに話をしてしまい、そのたびに初老の作曲家は無言で目をしばたたいて、話を止めるようサインを送らねばならなかった。しかし彼も、自国の若い作曲家の思いもよらぬ訪問に嬉しさを感じていた。この二人の作曲家の名は、尹伊桑と姜碩熙。この出会いが、その後の韓国作曲界を大きく変えていく契機となった。


この邂逅を機に、尹が入院している病院で毎週火曜日と木曜日の午後、姜は尹からヨーロッパの現代音楽の情報を聞くとともに作曲のレッスンを受けることとなり、尹がドイツに戻るまでの約1年間続いた。男声独唱、男声合唱、30人の打楽器奏者のための《禮彿》(1968)や、管弦楽のための《生成 ’69》(1969)といった初期の作品は、尹の助言によって書き上げられたものである。姜によれば、そのレッスンは書き直しや修正を求めるものではなく、主に創作上のアイデアを与えるものであったという。

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まず、尹も姜も、韓国に生まれた人間として、自身がもっている音楽上の言語をいかに西洋音楽と融合させるかという問題意識をもち、創作を通してその実現を試みてきた。しかしながら、両者の作風は大きく異なっている。例えば、韓国伝統音楽には「弄絃」[ノンヒョン]とよばれる、弦を素早く押したり揺すったりして音高を変える技法があるが、尹の作品では、それらが「主要音」「主要音響」といった形態の中で明確な輪郭を伴って表れる。韓国伝統音楽における表現の根幹を成すともいえるこの「弄絃」を尹は高い次元で様式化し、西洋楽器を用いながらも民族的な生命力あふれる作品を次々と生み出していった。姜の作品でも「弄絃」のほか、歌や舞踊に見られる「長短」[チャンダン]という伝統音楽特有のリズム型が認められるが、それは外面的には目立たぬように、しかし楽曲の重要な構成要素として昇華された形で取り入れられている。さらに、音高、音強、リズム、ハーモニーをはじめとするさまざまな要素が数理的な思考を通してそれぞれ結合され、楽曲全体と部分とが有機的かつ緊密に関係づけられているのが大きな特徴である。「ダイヤモンドはそれ自体でも美しいが、こなごなになっても、顕微鏡で見れば美しい結晶を見ることができる」という彼の言葉は、その創作の姿勢を示していると言えよう。

例えば、童謡《故郷の春》の作曲でも知られる洪蘭玻[ホン・ナンパ](1898~1941)は1918年から20年にかけて東京音楽学校(現 東京藝術大学)でヴァイオリンを学び、韓国の国歌《愛国歌》を作曲した安益泰[アン・イクテ](1906~65)は開学したばかりの東京高等音楽学院(現 国立音楽大学)でチェロを学んだのちアメリカに渡り、シンシナティ音楽院とフィラデルフィアのトピース音楽学校で引き続きチェロを学んだ。1935年にはカーティス音楽院で作曲と指揮を学び、翌36年にはベルリンに留学している。しかし、彼らの活動が西洋音楽の伝統と真正面から対峙した大きな「うねり」となることはなく、それは尹がヨーロッパ留学に向かうときまで待たなくてはならない。

ここで、姜の西洋音楽との出会いは尹と大きく異なることを紹介しておこう。
尹の場合、最初に親しんだ楽器は13才のときに手にしたヴァイオリンだった。その後、チェロに巡り会い、それは尹の生涯で自身を象徴する楽器となった。すでに10代でいくつかの作曲を試み、大阪ではチェロと作曲を学んでいる。韓国に一時帰国したのち、20代の初めには東京で池内友次郎に師事している。

ハノーヴァーの話に戻そう。ハノーヴァーで尹の教えを受けたのは姜以外に白秉東と崔仁讃[チェ・インチャン](1923~)、彼らから一学期遅れて留学した金正吉[キム・ジョンギル](1934~)で、この四人が、尹が教えた韓国人の弟子すべてである。白と崔、金はハノーヴァー留学を終えて韓国に戻ったが、姜は引き続きドイツにとどまり、ベルリン音楽大学で尹とボリス・ブラッハーに、ベルリン工科大学通信工学科でフリッツ・ヴィンケルに電子音楽を学んだ。ここでの経験が、《モザイコ》(1981)をはじめとする80年代の一連の電子音楽作品群につながっている。姜はその後、82年にソウル大に招かれるまで創作の拠点をドイツにおき、韓国に帰国後は、白、金とともに、ソウル大の作曲教授として多くの優れた作曲家たちを育てた。
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ソウルでの尹のレッスンでは作曲の指導のほか、韓国での現代音楽の今後について少なからぬ示唆を受けていた。その一つが国際的な現代音楽祭の開催であった。尹は、韓国の現代音楽の水準を高めるためには、世界各国の現代音楽の情報をリアルタイムに得られる場が必要と考えていた。そして、姜にその思い託し、音楽祭の開催を勧めたのである。
姜の行動は機敏で、ドイツに戻る尹を見送ってから5ヶ月後の1969年9月には、「ソウル現代音楽ビエンナーレ」という名称で早くも第1回の演奏会を開いている。これが、現在も行われている「パン・ミュージック・フェスティヴァル」の前身である。このとき演奏されたのは、エドガー・ヴァレーズ(1883~1965)の《オクタンドル》(1924)や、アール・ブラウン(1926?2002)、ローマン・ハウベンシュトック=ラマティ(1919?94)らの作品であった。また、姜の友人である白南準[ペク・ナムジュン](1932~2006)が姜の委嘱によるパフォーマンス作品を上演したが、その内容から大きな話題を呼んだ(この作品が白の韓国デビューとなった)。姜をはじめ、多くの若手作曲家・演奏家が、いかにこの音楽祭に意気込んでいたかが窺えよう。

さて、大阪万博からの委嘱で姜が《禮彿》、《生成’69》、《原音》を作曲したことはさきに触れたが、秋山邦晴は湯浅譲二とともに録音で流されているこれらの作品を韓国館で聴き、その独創的な音楽に強い衝撃を受けたという。このとき姜は来日していないため日本の作曲家たちと会うことはなかったが、秋山が音楽評論家として姜を多方面に紹介したこともあって、その後、湯浅のほか武満徹、一柳慧らをはじめとする日本の作曲家たちとの親交が深められていったのである。そして、姜を通じて韓国の現代音楽界の状況を知ることができるようになったほか、「パン・ミュージック・フェスティヴァル」に日本の作曲家や演奏家が招かれ、音楽を通した両国の文化交流が盛んになっていった。そこには、秋山と同様、姜の親友である音楽評論家、石田一志の献身的なはたらきがあったことは特に強調されるべきであろう。日本と韓国を何度も往復し、両国の橋渡しをしてきた彼の存在は非常に大きい。なお、1996年に秋山が亡くなってちょうど1年後の1997年8月17日、姜と石田の呼びかけにより、「本日休演・秋山邦晴」と題した秋山の追悼演奏会が開かれたことも記憶にとどめておこう。この演奏会のために、姜は秋山を偲んで、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための《伝説》(1997年)を作曲している。
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ここで、尹、姜、朴、陳という世代の異なる四人の韓国人作曲家の作品を一度に聴くことは、その流れに身を委ねる川下りにも似たスリリングな体験となるに違いない。