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木戸敏郎氏:「三人称の雅楽《リヒト》」

  木戸敏郎氏によるエッセイ「三人称の雅楽《リヒト》」(京都造形芸術大学紀要「GENESIS」第13号、2009年)を以下に転載致します。
  転載を御快諾頂いた木戸敏郎先生、ならびにpdfファイルをご提供下さった京都造形芸術大学様に厚く御礼申し上げます。

 
 ※【参考資料】 柴田南雄(朝日新聞)、広瀬量平(讀賣新聞)、芸術新潮(黛敏郎)その他の有象無象による《暦年》初演(1977)酷評の一例:
 ――(・・・)これは音楽の不毛、これこそ耳目をおおうばかりの退廃ではないか。少しも楽器の機能を生かしていない無機的な音の貧弱なひびき、幼稚な構想の涸渇した創造力を糊塗するための下品な手段。そしてこのような仕事の背後にひそむ黒々とした思考。(・・・)開演中、憤然と席を立ってかえる女性、終わったとき「くだらないぞ」「引っ込め」と叫ぶ人達。多くの人が怒りの中に居たが、私はその人達に共感する、少なくともこのような独善と無能の延長に未来はない。(・・・) =広瀬量平(讀賣新聞評)――


三人称の雅楽「リヒト」
―― 伝承(トランスクリプション)を伝統(トランスフォーメイション)に変えるには ――

木戸敏郎


一、再演までに三十年を要したオリジナルヴァージョンの「リヒト」

木戸敏郎氏:「三人称の雅楽《リヒト》」_c0050810_14285271.jpg 昨年(二〇〇八)十一月七日、京都造形芸術大学の付属機構である舞台芸術研究センターの主催で、同大学の付属機関である京都芸術劇場春秋座に於いて、私が企画・構成して公演したコンサートジェネシスIIIで一昨年十二月急逝したシュトックハウゼンを追悼して

  カールハインツ・シュトックハウゼン作曲
  雅楽の楽器のための
  「三つの断章」
  ―― ヤーレスラウフ アウス リヒト 1977 より

を演奏した。
 この形による演奏は初演であったが、実体は同じ作曲家の作品である

  雅楽の楽器と四人の舞人のための
  「ヤーレスラウフ(歴年) アウス リヒト(ひかりより)」1977

のソロとデュオ部分三箇所の抜粋を打物で伴奏する組曲に仕立たもので、一九七七年に初演された作品の抜粋による再演であった。原曲となった作品に「雅楽の楽器と四人の舞人のための」とあるとおり、この作品は雅楽の楽器のために作曲された作品である。有職文化としては尊敬されながら音楽的には形骸化していた雅楽を活性化すべく、国立劇場開場十周年を記念してシュトックハウゼンに作曲を委嘱した私の国立劇場プロデューサー時代の仕事で、あくまでも雅楽の楽器を前提とした作品である。

 ところが、シュトックハウゼンは作曲の時点でヨーロッパで演奏することも想定し、雅楽の楽器の音の情報量を洋楽器でトランスクリプトすることを計画していて、楽譜は全く変更せずそのままで、楽器をすべて洋楽器で代替して演奏することも可能なことになっていた。私は雅楽の楽器による演奏をオリジナルヴァージョンと呼び、洋楽器でトランスクリプトされた演奏を洋楽器ヴァージョンと呼んでいるが、ヴァージョン(版)とは言っても楽譜は全く同じである。この一卵性双生児はその後日本とヨーロッパというそれぞれの土壌で数奇な運命を辿ることになる。

 洋楽器ヴァージョンはオリジナルヴァージョンが東京で初演された年の翌年(一九七八)にケルンでまずコンサート形式で再演された。私はその演奏を録音で聞いてオリジナルヴァージョンそっくりの音であるのに驚いた。トランスクリプションの正確さを示しているものといえよう。これの好評を受けてその翌年の一九七九年にパリでシアターピース形式の完全な形で再演され大成功を収めている。この公演でコスチュームを担当したのがケンゾー・タカタであった。パリの成功はヨーロッパ各都市に喧伝されそれぞれの劇場に合せて美術や演出を変更しながら再演を続けると共に、新しく姉妹編も続々と作曲され、やがて全曲の上演に一週間を要する一大連作に成長し、二〇〇三年に「リヒトビルダー」で完結する。

 その嚆矢となったのが、一九七七年に東京で行われたオリジナルヴァージョンの初演であった。ところが肝心の日本に於いては京都造形芸術大学舞台芸術研究センターの抜粋再演まで三十年間、遂に再演の機会はなかった。オリジナルヴァージョンの初演そのものはヴィデオに記録されている通り、作品の質といい演奏の出来栄えといい聴衆の反応も含めて、それらすべてに大きな成功を収めたが、事後に日本の楽壇からの激しい拒絶と伝統主義者からのきびしい反発を受けることになる。この辺の事情は同時代の日本人でも特殊な世界と関わりのない人には理解しがたいものである。本稿は楽壇については別稿にゆずり、伝統を守ると称する人びととの関わり合いについて論考する。


二、二十世紀第四四半期の日本社会の良識

木戸敏郎氏:「三人称の雅楽《リヒト》」_c0050810_1433646.jpg 現在独立行政法人の国立劇場は一九七七年当時は特殊法人であった。国が出資した資産の運営を法人が行うシステムで公共性が求められ、さまざまな形でチェックする機関の一つに著名な役者や関係団体の役員、学識者などによる評議員会が年に二回開かれていた。オリジナルヴァージョン初演後初の評議員会では当然ながらこの作品の初演が議題にのぼった。ところが評議員の殆んどは招待されても劇場に足を運ばないからこの作品の実態について知らない。然し、評議員の中でただ一人、すべての公演に足を運んで文字通りチェックしている人が居た。東洋音楽学会会長の吉川英史氏である。特に私が企画・制作する公演はマークしてすべてを一つ漏らさず聞いていた。だから当然、彼はこの初演についてひと言もふた言もあるはずだ。案の定彼はいつもの演説口調で
  「この企画は雅楽の伝統を破壊する行為である。国立劇場は日本の伝統を保存するための機関であるはずであり、このような企画は断じて許しておくわけにはゆかない。今後、このような公演は一切行うべきではない。」
と主張した。この種の論調は彼の持論である。まるで錦の御旗のように、すぐに伝統という言葉を持ち出す。然し彼の言う伝統の概念は甚だ曖昧で伝承と伝統のけじめが付いていない。彼が言う伝統の実態の多くは伝承であることが多い。東洋音楽学会もおおむねこれに同調しており、この概念の混乱が伝統音楽の形骸化の原因であるのだ。だから私は同学会に加入していなかった。会員ではないから制約を受けないで自由に仕事をすることができた。

 然し彼が国立劇場評議員という立場で発言するときは事情が変ってくる。評議員会はその都度座長を選んで、座長の取り纏めによって進行する。このときの座長は永年朝日新聞の天声人語を担当してきた荒垣秀雄氏であったが、彼も初演を聞いていなかった。他の委員も同様であった。そこで新聞などの批評記事を手掛りに評議員会の意見をまとめることになった。朝日新聞(柴田南雄)、読売新聞(広瀬量平)などすべて日本の楽壇の利害を代表した評であるが、大新聞の記事としてオーソライズされると社会通念として一人歩きを始める。荒垣氏は吉川英史の主張を採り上げ、世間の良識として、この作品は再演しないことを国立劇場に約束して欲しいと要望することを提案し、他の委員も異議は無く評議員会の要望事項となって提出された。世間の良識とはこんなものである。評議員会は諮問機関であって決議機関ではないから決定権はないが、評議員会の総意としてオーソライズされるとその要望は尊重しなければいけない。国立劇場は約束させられた形になってしまった。

 私はしばらくヤーレスラウフから離れざるを得なかった。然し雅楽の伝統と創造をテーマにした音楽運動は正倉院の楽器の復元と演奏や舞楽法会の構成・演出などに形を変えながら継続した。その中で私が最も留意したことは伝承からいかにして伝統を抽象するか、ということであり、そのことをプログラムノートで力説した。吉川はこれも見逃さなかった。以後の評議会でも私の名前を名指しであげ、
  「木戸さんは伝承と伝統とは違うものだと主張していますが、それは屁理屈です。伝承と伝統とは同じものです。」
と明言している。彼の伝統という語に対する概念がややはっきりした。漠然と混乱しているのではなく同じものと認識している、ということがはっきりした。

 ソシュールによれば、言葉は概念を表すもので言葉が違えば概念も変わる。『羊を英語ではシープ、フランス語ではムートンというが、シープとムートンは同じ概念ではない。それは、シープにはマトンという羊肉を意味する語が隣接していて、シープは生きた羊しか意味しないが、ムートンにはそれがないからである。言葉の概念は決定的に存在するものではなく、隣接する第二項の存在によって欠性的に決まるものである。つまり、シープはマトンではなく、マトンはシープではない。』この言説に従えば『伝承は伝統ではなく、伝統は伝承ではない。』ということになる。

 吉川英史にはかつてこれと同じような言動があった。『芸大邦楽科事件』と呼ばれている芸大音楽学部で学長の小宮豊隆と教授の吉川英史や平井澄子との対立である。結局双方共に辞職することになったが世間では吉川側の主張しか流布していない。明治以来の通弊であるが東京音楽学校は洋学偏重の教育機関であった。戦後東京美術学校と合併して東京藝術大学となりその音楽学部として出発する際、邦楽も含まれることになったが、その過程で学長の小宮豊隆が反対する立場をとったという。上原六四郎をはじめとする邦楽は野卑だという見解は訂正されなければいけない、と抗議して吉川は辞表を提出、平井もこれに同調した、と一般には言われている。

 然し、私は小宮豊隆本人から直接に別のことを聞いている。国立劇場設立準備協議会で仕事をしていた時期に駆け出しだった私は同協議会の会長小宮豊隆の送迎の役目で車に同乗して荻窪と虎ノ門の間を往復することが何度もあった。遠距離で当時の東京は道路事情が悪く、長時間いろいろな話を伺うことができたが、その中に『芸大邦楽科事件』も含まれていた。

  「キッカワ ナニガシという男は私が芸大に邦楽科を設けることに反対した、といっているが事実とは違う」
といった。『洋楽の教育では音楽理論は分析的に研究され、実技も聴音やソルフェージュ、教則本もいろいろあってカリキュラムが確立している。ところが邦楽の教育は師匠が示してくれるお手本を弟子が真似ることを原則としていて、まだカリキュラムが確立していない。(伝承が伝統に止揚されていない。)このような状態で洋楽と邦楽を同列に扱えば混乱を来たすから、まず邦楽の教授法を確立することから始めるべきだ。と主張したのをキッカワ ナニガシが邦楽は芸大で扱うに値しないといったと言い換えてしまった。』と語った。


三、シュトックハウゼンという触媒

 シュトックハウゼンがヤーレスラウフを作曲したプロセスに添って、彼の作曲の手法の跡をたどる。そのプロセスの中で伝承と伝統の違いが自ずと明らかになってくる。
 彼は作曲のための資料として、雅楽のすべての楽器の音を低い音から高い音へ、テープによる録音と五線譜に採譜した楽譜とを要求した。私はその通りのものを作成して彼に送った。彼はその資料に則って冒頭部分のスコア数ページを作曲、それを携えて公演の約一ヶ月前に来日して実際の演奏に携わる宮内庁楽部の楽師に試演してもらい、その音の効果を確認したうえで残りの部分を京都で作曲する手筈だった。

 国立劇場大稽古場で宮内庁楽部と初顔合せの練習を始める際、シュトックハウゼンは鞄から冒頭部分のスコアを取り出して
  「あなたが送ってくれた雅楽の音に関する資料は大変役に立った。」
といって、上機嫌だった。ところが練習が終った後で、彼は散らばったスコアを揃えながらやや不機嫌な様子で
  「あなたが送ってくれた雅楽の音に関する資料は、充分なものではなかった。」
とつい先刻とは違うことを言った。
  「あなたが送ってくれた雅楽の音に関する資料には無い音も今日聞いた楽器から出ているではないか。これまで作曲した部分は資料に則って作曲してきたが、これから作曲する部分は今日聞いて修正した音に則って作曲する。その方がずっと面白いものになるだろう。」
という。私は最初は何のことか解らなかったが、やがて彼の言っていることが理解できた。しまった、盲点を突かれた、と恥じ入る思いだった。

 私が整えて送った雅楽の音に関する資料は宮内庁楽部の楽師に協力していただいて作成したもので、各楽器毎に、音域や音列を録音と五線譜で記録したものであった。これで雅楽の六種類の調性に使われているすべての音が網羅されているはずである。盲点だったのはこの点である。すべての音を網羅していると思ったすべての音とは、現行雅楽のすべての音である。然し、雅楽の楽器からはこれ以外の音でも出す気になれば出すことが出来る。その音を認めるか否かが問題だ。雅楽の演奏家は実際の演奏に入る準備段階で楽器の状態を整えるためにチューニングを行う。彼はこの段階で資料には含まれていない音も楽器から出ていることを聞き漏らさなかったのだ。

 琵琶は四絃で柱(フレット)が四つ、従って4×4=16となり、これに開放絃を加えると20の音が出る。然し現行雅楽ではこの半分にも満たない音しか使っていない。私が整えて送った資料は後者の方だったが彼が欲しかったのは前者の方だったのだ。言葉を換えて言えば、私は伝承された古典の音をサンプリングして送ったが、彼が欲しかったのは音楽の音ではなく楽器の音だったのだ。正倉院の琵琶はハードとしては現行雅楽の琵琶と殆んど変りがないが、捍撥に残っている使用痕は現行雅楽の琵琶の使用痕とは明らかに異質でソフトとすればアルペジオ奏法(分散和音)ではなかったことが判り、使用した音も現行雅楽とは違うものであったことが伺われる。琵琶の音を現行雅楽の音に限定すれば伝承であり、正倉院の琵琶(天平時代の音楽)も視野に入れて楽器の音すべてに拡大して把握すれば伝統となる。構造主義的に言えば伝承された雅楽の古典を脱構造して古典の中に埋没している楽器の音を発掘したものが伝統である。私が作成して彼に送った資料は雅楽の古典作品を脱構造してはいたが、雅楽の六調子をそのまま踏襲しており、伝承を曳きずった不徹底なものであった。恥じ入る思いだったのはこの点である。
 雅楽という音楽の音と雅楽の楽器の音との違いを、私は気に止めていなかった、このことに気付かされたことは、この仕事を行ったことで得た私の最大の収穫だった。


四、伝承された古典の脱構造

 国立劇場大稽古場で彼が持ってきた楽譜が試演された際、彼は私にいくつか意外なことを言った。
  「琵琶の音が聞えないのはどうしてか。」
おかしなことを言う人だ。実際には琵琶の音はちゃんと聞えていた。私は
  「聞えているではないか。私には聞えている。」
というと彼は
  「絃が振動する音は聞えるが、楽器が響鳴する音が聞えない。」
といった。なるほどこの人はこんな風に楽器の音を聞いているのか、とちょっと驚いた。

 雅楽の楽器の中でも琵琶は異常である。まず弾く際の作法がひどくめんどくさい。まるで茶道のお手前のように美しい動きであるが、演奏は単純なアルペジオである。しかもその音たるや前記のとおり響鳴胴が機能していない。響鳴しないはずだ。胴の内刳が浅く、空洞の容積が小さい。槽は殆んど厚い板の状態で、従って絃楽器でありながら非常に重い。御遊に於いて、琵琶は天子の楽器であった。御遊は天子を中心に廷臣達が各々の身分に応じた場所にばらばらに居てそれぞれの楽器を演奏した。左大臣や右大臣は天子の側で筝を、それに続いて大納言や中納言が笙や龍笛を、離れるにつれて音の大きい楽器になる。篳篥は更に離れた所、打物(鞨鼓、太鼓、鉦鼓)は階である。こんな状態であるから音のバランスが良かったはずはない。が、その中で最もバランスの採れている場所が一ヶ所だけ有った。それが天子の位置である。従って琵琶の音は天子一人に聞えればよい。だからわざと響きを押えて作られているものだと思う。良くも悪くも歴史が培った伝承の様相である。このことを手短に説明するのは容易なことではない。
  「この楽器の音はこういう音だ」
と答えておいた。彼は他にもやるべきことが多く、このことに何時までも関ってもいられなかったからこの問題はこれでおしまいになった。然し私は、この人はごまかせないと、少し怖ろしくなった。似たようなことが筝についても言える。現在雅楽の筝は右手だけで演奏している。元々有った左手の奏法は応仁乱で廃絶、江戸初期に古譜によって復活が計画されたこともあったが、時の天子に右手だけでも危なかしいのに左手まで使うとは楽しみだとからかわれて沙汰止みになり、今に至るまで右手だけである。こうして伝承はしばしばジリ貧になっていく。然し、彼が作曲した筝のパートは両手で弾くことになっていた。

 彼は笙をタンギングで奏するとどうなるか、龍笛にアタックやヴィブラートが付けられるか、など、私が予想もしていなかったことを次々と試みていた。宮内庁の楽師もそれに応えてやってみればいろいろの効果を発揮する。こうして雅楽の楽器から思いもかけない効果を次々と引き出していった。「十操記」によれば龍笛に十種類の特殊奏法が有ったことが解る。アタックやヴィブラートのようなものだったらしい。それらを列記して、やりすぎると下品になるから慎むようにといましめている。このせいで、今日では全く行われていない。

 彼はこの後約三週間京都に滞在して全曲を書き上げた。確かに、後の部分には雅楽の音の情報量だけでなく、雅楽の楽器の音の情報量も盛り込まれている。特に篳篥が彼の前作(ハレルキン・イノリ・マントラ)から引用したメロディーをソロで演奏する部分は雅楽音階では不可能なことだ。(つづく
by ooi_piano | 2012-01-18 06:15 | POC2011 | Comments(0)

6月15日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第1回公演


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