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フランコ・ドナトーニ&杉山洋一

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  フランコ・ドナトーニ(1927-2000)の総領弟子である杉山洋一氏が、師から補筆完成を任された作品を含むオーケストラ個展を開催なさいますので、御案内致します。
  2001年の日本=イタリア国際交流年に於けるブルーノ・カニーノと私の二台ピアノ公演では、カニーノがドナトーニ《リマ》を独奏し、私がカニーノ作曲《ラグを書くには良い日和》を演奏した後、杉山氏への委嘱新作《ディヴェルティメント第2番》(世界初演ライヴ録音)を共演する、という、師弟たすき掛けプログラムでした。(ドナトーニはミラノ・ヴェルディ音楽院作曲科教授、カニーノは同音楽院ピアノ科教授の間柄。)

サントリー芸術財団 サマーフェスティバル 2012
<MUSIC TODAY 21>
《フランコ・ドナトーニ 〜 生誕85年記念》
2012年8月22日(水)19:00開演サントリーホール
フランコ・ドナトーニ(1927-2000):
イン・カウダ(行きはよいよい帰りは怖い)II(1993-1994)
イン・カウダ(行きはよいよい帰りは怖い)III(1996)
エサ(イン・カウダV)(2000)
プロム(1999)
ブルーノのための二重性(1974-1975)
(全曲日本初演)
指揮:杉山洋一 東京フィルハーモニー交響楽団
S席=4,000円 A席=3,000円 B席=2,000円
【お問合せ】東京コンサーツ TEL03(3226)9755 FAX 03(3226)9882


●杉山洋一プロフィール&作品リスト
●伊左治直による杉山洋一作品論
●杉山洋一《間奏曲V》(2010、大井委嘱作) 演奏動画
●水牛サイト・関連エッセイ (2012年8月1日)
●杉山作品音源集@YouTube


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フランコ・ドナトーニについて (杉山洋一)

  フランコ・ドナトーニは、ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)やルイジ・ノーノ(1924-1990)、シルヴァーノ・ブッソッティ(1931-)と同じ世代のイタリア人作曲家で、1927年6月9日に北イタリア・ヴェローナに生まれ、
2000年8月17日にミラノの二グアルダ病院で逝去している。


・・・幼少期・・・


  彼の父はヴェローナの市職員で、彼は一人っ子。決して裕福な家庭ではなかった。ただ祖父はヴェルディとロッシーニが大好きで、父親がプッチーニ好きだったこともあって、1934年7歳のときに両親に勧められヴァイオリンを始める。冗談のようだが、大人になったら昼は銀行員として働き、夜はアレーナのオーケストラでアルバイトをして家計を支えられるように、という両親の真面目な配慮によるものだったという。
  7歳のドナトーニは国語が苦手で、大きくなっても文系高校への進学は無理だと諦めていたのと、万が一文系高校へ進学すると今度は大学までやらなければならず23歳か24歳まで食べさせる余裕は到底ないからと、両親の方で手っ取り早く会計士の資格を取らせることに決めてしまった。
  こんな風にユーモアを交えてにあけすけに話すところがドナトーニらしいが、当時はとても内向的で友達は近所に住む憲兵の息子「マリェート」だけだった。
  しかしそのマリェートも程なくして父が亡くなり、母親の故郷レコアーロに去ってしまった。こうして彼は人生最初の喪失感を味わったとインタヴューで答えている。

  その頃は、夏に家族でアレーナへオペラを見に行くのが一大イヴェントで、アイーダ、椿姫、トロヴァトーレ、ボエーム、アフリカーナ(マイヤベーア)、メティストーフェレ(ボイート)など沢山のオペラに触れた。特にメティストーフェレが大好きだったのは、悪魔的なものへの興味が当時からあったに違いないと語っている。
  毎日曜には街のブラスバンドを見に行くのも大好きで一番前の席を陣取っていた。一番大きな楽器だからという理由でトロンボーンが特にお気に入りだったが、実際それはバッソ・チューバと呼ばれることを随分後になって知った。反対に小さくて軽い楽器はやや嫌悪の対象だったそうで、特にフリコルニーニ(小フリューゲルホーン)は嫌いだった。当時からヴァイオリンは習っていたが、実際は箸にも棒にもかからない出来だったと告白している。
  それどこか、音楽そのものに全く才能がなく、実際大戦直前の38年か39年、11歳か12歳の頃にヴェローナの音楽学校で受けた初めてのソルフェージュ試験に落第したそうだ。
  ソルフェージュを習っていたカッティーニ先生のご主人がアレーナの第一ヴァイオリンで、彼からヴァイオリンの手ほどきを受けていた。
  20歳までは続けたものの、音楽院の中期修了試験すら合格することないまま終わってしまったのは、パガニーニの奇想曲は自分にはむつかしすぎたからだと語っている。

  当時ヴェローナの音楽院で和声と音楽史を教えていたピエーロ・ボッタジーズィオの手ほどきを受け、ヴェローナからほど近いボルツァーノ国立音楽院の作曲科受験の準備がはじまった。
  両親からとても過保護に育てられ、毎日お決まりの「午後のお昼寝」をしなければならず、「お昼寝」の後は母親や祖母に手を引かれ長い散歩にでかけるのが日課となっていたが、身内に特に音楽家がいたのでもないのに、散歩の間中ずっと頭のなかで長いシンフォニーなどを想像していたという。
  ドナトーニを身ごもって3ヶ月のクリスマスに、彼の母親がヴェローナの聖ルカ教会で「どうかこの子だけはうちの家族と違って生まれてきますように」と熱心に祈ったことと、その年の冬、父親が同じ市役所の婚姻窓口で働く友人からヴェローナのテアトロ・ヌオーヴォ(劇場)の無料チケットを度々もらって、何度となく夫婦でオペレッタに出かけたのが、案外息子の将来に役立ったのだろうと話している。

  1942年15歳になって作曲の勉強をボッタジーズィオの下で始めることになり、彼の家で丸一日ピアノを弾きながら、ブーレやプレリュードなど、大量の曲を書きなぐった。
  1944年17歳の頃はナチス親衛隊が街をうろついているので外出もままならなくなり、学校にも週にせいぜい1度か2度通える程度になってしまったため、家にこもって勉強を続け、ヴァイオリンをさらっていた。
大戦末期、実際ヴェローナとても危険な地域だった。すぐ近くにムッソリーニが作った傀儡政権、サロ共和国があり、パルチザンとの内戦は非常に激しかった。
  第二次世界大戦当時の記憶を、ドナトーにはずっと引きずっていて、度々話にのぼった。1998年に日本を訪れる機中でもずっとナチス親衛隊の話をしていたし、日本ではどうしても原爆記念館に行くといって譲らなかった。
  そうして45年18歳になる頃には本格的に作曲を勉強しようと決めていたという。
  ボルツァーノの音楽院で作曲の中期試験(第4年)を終えたとき、ディオニーズィやボッタジーズィオの助言もあり、ミラノ音楽院に移ることになった。
  ミラノではエットレ・デスデーリについて対位法とフーガを習うことになったが、当時デスデーリはまだムッソリーニに協力した罪で起訴されている最中で落着いて教えられる状況ではなく、無意味な時間を過ごしたと語っているが、そんな中、次第に作曲が自分の天職だと思えるようになる。

  1948年、21歳になったとき、ディオニーズィの助言に従いボローニャの音楽院に移ると、全てが別世界のように楽しく友人にも恵まれる。
  その頃はヴェローナのナイトクラブで夜9時から朝5時までピアノを弾き、昼間はコンクールに出品するためカルテットの浄書に勤しむ生活であったが、最初の大きな精神衰弱におそわれたとも語っている。
  尤も、ノイローゼの傾向は小学1年生の頃から認められていたそうで、ようやく字が書けるようになったばかりの頃には、いつでも記録簿を手放さず、目に入るものをすべて記録せずにはいられなかったそうである。
時間を確認するためしばしば教室を出て、何時に何回教科書を触ったか、朝はカフェラッテを何口啜り、お昼に食べたオレンジにいくつ種が入っていたか、全て書かずにはいられなかったという。
  ボローニャ時代、そうした神経衰弱状態に陥り医者に掛りながら、テアトロ・コムナーレのアシスタント・ピアニストが友人だったお陰で、いつもリハーサルに立ち会ったりして、生活は愉しかった。
  こうしてドナトーニはブラスバンド作曲と楽器法、合唱指揮などのディプロマをとり、51年にはアドーネ・ゼッキ、リーノ・リヴィアベッッラの指導の下、作曲のディプロマをとった。

  それから、かねてから憧れていたぺトラッシに会いにローマへ出かけた。
  最初ぺトラッシは「それではまず僕の話をしよう」と言って、小麦やぶどう満載の荷車に乗って田舎からローマへ出てきた話や、教会で合唱隊をしていた話、音楽関係の専門店で店員をして暮らした話などをし、それからおもむろに「では、何か聴かせてください」と水を向けてきた。
  そこでドナトーニは、当時書いたぺトラッシスタイルの「オーケストラのための協奏曲」を、楽譜を出さずにピアノで弾いてきかせたが、1楽章終わったところでぺトラッシは「わかりました。でもあなたは、このぺトラッシズムから遠ざからなければいけません」と言い、机上のスイス製葉巻を勧めてから話を続けた。
  「ところで先生、僕が作曲を続ける価値はあるでしょうか」、とドナトーニが尋ねると、ぺトラッシは「その価値はあると思います」と答えた。
  「サンタ・チェチリアのアカデミーに登録されてはどうでしょう。ピッツェッティのクラスはさほど興味を引かないかもしれないが、奨学金が貰えるはずです。あなたはローマに住むことができますし、いつでもあなたが望むときにわたしに会えますから」。

  その言葉通りドナトーニはサンタ・チェチリアに入学し、ローマに住み、足しげくぺトラッシのもとを訪れては、長い時間を過ごすことになった。
  このときのぺトラッシの優しさは、後年作曲教師としてのドナトーニにそのまま受け継がれ、世界各地彼を慕う生徒がたくさん生まれることになる。
  「弦楽と金管楽器とティンパニのための小協奏曲」がルクセンブルグ・ラジオのコンクールで優勝したと伝えてくれたのも、他ならぬぺトラッシだった。
  当時ドナトーニは、ミケランジェロ’・アントニオーニ監督の映画音楽で知られるジョヴァンニ・フスコのところで「明日までに10分分カセッラ風の曲を書いてきて!明日までに中世決闘劇用に10分分レスピーギ風古代舞曲を書いてきて!」という具合に、商業音楽でモグリのアルバイトをしながら暮らしていた。


・・・ダルムシュタット夏期講習会・・・

フランコ・ドナトーニ&杉山洋一_c0050810_11533645.jpg  1953年、ドナトーニはサンタ・チェチリアのアカデミーを修了し、ボローニャ音楽院で和声と対位法を教え始める。このころ初めてマデルナと出会う。
  当時ドナトーニが交際していたアレーナのハーピストを通し、テレーザ・ランパッツィの音楽家懇親会でマデルナを紹介されたのだ。
  ドナトーニはルクセンブルグ・ラジオのコンクールの褒賞でヨーゼフ・シゲッティのためにヴァイオリン協奏曲を書いたのだが、サンタ・チェチリアの同級生から「ドナトーク」とからかわれる程バルトークに似ていたので、演奏してもらえなかった。
  めっきり落ち込んでいるところに、マデルナが全く知らないマーラーやウェーベルン、シェーンベルグについて嬉々として話すのを聞きながら、それまでドナトーニが持っていた信念に大きな亀裂が入った。

  自分が変わらなければならない自覚はあったが、音列作法などまるで知らなかったし、ラジオで耳にしたシェーンベルグなど耳障りで切ってしまったほどだったから、マデルナの話が当時ドナトーニの理解の範疇を軽く越していたことは確かだろう。
  それでもドナトーニは、マデルナからダルムシュタットにはガッゼローニやコンタルスキーなど沢山の仲間がいると説得され、54年初めてダルムシュタットに参加している。
  納得して参加したというより、自分の信じる音楽が既に過去のものだと自覚していて、何か新しい道を見出せないか必死で模索していた。
  だから、マデルナをはじめブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼン、ベリオなど、当時ドナトーニより先を歩んでいた作曲家から少なからず影響を受け、クシェネックやレイボヴィッツのセミナーで12音作法を学び、何ヶ月も家で4色の色鉛筆片手にシェーンベルグの作品31を分析した。
  シュトックハウゼンの「コントラプンクテ」やブーレーズのソナタなど、当時のドナトーニにとってはまるで神が書いた作品で、好き嫌い関係なく「とにかくこのように作曲しなければいけない」と感じたという。
  そのため構造主義を学んで、御託を並べるより先に、とにかくそうしようと努めた。

  何年か経つと、今度は誰もが「不確定」を採用しなければならない時代が到来する。
  1956年、ケージは初めてダルムシュタットに現れた。このアメリカ人作曲家に対し、当時みなとても興味を持っていたが、結局彼の意図は誰もあまり理解できなかった。
  その後ケージは59年にダルムシュタットを訪れたが、このときドナトーニは講習に参加しておらず、その年の終わり、ミラノのベリオ宅に寓居していたケージに会いに出かけている。
  当時ケージは「フォンタナ・ミックス」を制作中で、ミラノのあちらこちらを歩きまわり、路面電車に乗ったりしながら、何でもかんでも録音し、そのリールの山を二週間かけて切り刻んではつないでと編集に勤しんでいた。

  ベリオ宅でのケージは、まったく何も言わないか大笑いしていたそうで、一度などある婦人が肘かけに指が一本突き出ているのをみて叫び声をあげるまで、何時間もじっとソファーの後ろに隠れていたという。
  これらの奇行は特別な独創性として受け入れられていたが、ドナトーニにはそれが理解できなかった。ケージの禅への執着やケージの行動はドナトーニをいら立たせたのは、ケージによって音楽が崩壊するのを感じたからだという。
  ただドナトーニが何かを憎むときは、結局自分がそこにとりこまれてしまうのだといい、果たしてその言葉通りになった。
  そしてドナトーニは、ケージ自身は一切否定的な表現を用いていない、彼を否定的なデモンストレーションだと解釈したのは、他ならぬヨーロッパのインテリだったと認めている。
  戦後のあの時代に否定が必要とされたからであって、ケージ自身は単なるカリフォルニアの音楽家で、単なるひょうきんものだった。


・・・パネル作法・・・

  59年から60年にかけて、ドナトーニは書き続けていた室内楽から離れて、大規模なオーケストラ作品を二つ作曲した。
  一つは「ストロッフェ(詩節)Strophes」で、もう一つは「グルッペン」を手本にして書かれた大オーケストラのための「セツィオーニ(部分)Sezioni」である。
  「ストロッフェ」では、後年彼が盛んに使用するパネル作法が既に「まだ馴れない手つきながら」使われていて、シュトックハウゼンのモメント形式が受け継がれている。
  アナログ時計が止まることのない時間の流れを示しているのなら、デジタル時計はそれを短く区切りながら堰き止めたものを、時間の流れのなかに置いてゆく。
  モメント形式は後者の考え方にあたり、瞬間つまり永遠のヒュポスタシス=本質は、ストラヴィンスキーやシュトックハウゼン、ボリス・ゴドノフの戴冠式のようなパネルに相当するというのだが、ドナトーニは形式が詩的概念まで背負い込むべきとは考えていない。

  たとえば「ストロッフェ」では従来の音楽観における「発展」という観念は否定されている。
  ドナトーニ曰く発展と成長は別であり、たとえば子供が成長して大男になったとしても中身が子供のまま未熟で間抜けなら、それを発展とは呼ばないそうだ。
  彼にとって素材の提示は、タロット占いでカードを開示するようなもので、開示そのものにはそれ以上でもそれ以下の意味もない。
  しかし、鉱物を原材料のままで保存できないように、一度提示された原素材は、自然界の摂理に則って、有機的に変化させてから保存すべきだという。
  これらミクロ次元おける素材の発展は、構造主義のマクロとミクロとの対応とは無関係で、クレーの絵のように求心感覚を失い、ウェーベルンのように瞬間の連続のどこにでも中心が存在し得るものに準じている。

  ドナトーニはパネル作法とはつまり円状の時間で、角度の微妙にずれから生ずる永遠のらせん運動だと説明する。
  後年1967年に書くことになる「Etwas Ruhiger im Ausdruck(ひそやかに)」は、シェーンベルクのピアノ曲から引用された断片が繰り返されることで構成されている。
  そこでは素材は更なる選択を受け、音域の制限を解かれ、時間軸に変化がもたらされた上に、別の作曲規則を当てはめるか否かをそのつど順次選択してゆく。
  何度となく繰り返されるなか、緩やかに歪み続けるのは、毎年やって来る春が一度たりとも同じでないのに等しい。
  この頃、アイルランド出身で当時イギリス系テレビ局で働いていたスージーと、精神分裂症患者の絵画の展覧会で知合い、数ヵ月後に結婚している。
  59年の女声と16楽器のための「セレナータ」は、スージーが長男ロベルトを身ごもっているときに、当時の厭世観を拒否して、長男のために書かれた。

  「ストロッフェ」の時代、ドナトーニはこれらの作品を、先駆者たちの書法を学んで消化し、自身の足で立つために書き、そして作品を書くことを通して、漸く自分もそこに身を置くことが出来るようになった。
  これらオーケストラ作品に続いてチェンバロのマリオリーナ・デ・ロベルティスのために「ドゥーブルdoubles」を書いたとき、作品をみたシュトックハウゼンは興奮して、是非自分で研究したいしブーレーズにも見せたいのでコピーが欲しいとドナトーニに頼んだ。61年、3度目のダルムシュタット訪問のことで、この年ドナトーニはミラノ国立音楽院の作曲科教授に任命されている。(つづく)
by ooi_piano | 2012-08-16 11:10 | 雑記 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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