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フランコ・ドナトーニ&杉山洋一(その3)



フランコ・ドナトーニ ドキュメンタリー・ヴィデオ 概訳

2'30''
変身(ミラノ市立音楽院に残されている授業風景の録音より)


変身は音楽の基本なんだ。自然だってそうでしょう。
その昔住んでいたヴェローナのパリオ門の外の辺りは当時はかなり田舎で、シルクをとる白いカイコがとれた。カイコは桑の葉を食べるでしょう。
シスターと一緒に子供たちが桑の実採りに行くと、カイコが葉っぱを食べていたりして。
5月か6月くらい、窓は開け放してあった。ある朝起きて外を見ると、カイコの姿が消えて丸い玉だけがあった。
「カイコはどこに行ったの?」
「どこに行ったって、そりゃあの玉の中さ」。
「どうやってこのなかに入っているの?」
「カイコが絹糸を吐いて繭だまを作ったのさ」。
次の日、繭玉まだあったけれども、そこには小さな穴が開いていてね。
「この穴はいったいどうしたの?」
そう、いつの間にか、カイコは蝶になって、繭玉に穴を開けて飛んでいったのさ。

これが僕の作曲の方法の原点だと思うんだ。つまり、すべては何も変形しない。
山ですら、少しずつ崩れて削れた石が滑り落ちていったりするけれど、形は変わらないでしょう。
波の満ち欠けも止まることはない。
自然界では、何ものも不動ではいられないのさ。
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4'48'
対称と非対称について


戦後(ナチスに破壊された)ヴェローナのカステルヴェッキオ橋(Ponte Scaligero)を建てなおすとき、
古いレンガをあつめてくるか、新しいレンガに機械で砂をふきつけ表面を削って古く見えるようにしなければならなかったんだ。
あちこちに開いている銃を構えるための銃眼も、非対称にならんでいるし、
道路わきに這う細い通路も道路に対して平行ではなく、
少し高かったり低かったりするでしょう。
古代から現代まで、世界中どこの伝統においても、非対称は存在するんだ。

有名な禅寺の庭師の話だけれど、
あるとき庭師が禅寺の庭の掃除する命をうけたときのこと。
禅寺の庭には、2本の飛び石がのびていて、白砂利がしきつめてあった。
庭師は、草を刈り、垣根を直し、きれいに掃いて、白砂利も直して、表面が白くうつくしくなるように足りないところには白砂利を加えたりしたんだ。
秋の声をきいて、柳の枝から垂れる葉は、赤く色づいていた。
すべてが、完全なシンメトリーをなしていた。
だけれども、庭師には何か納得がいかなかった。
それから庭師は柳に近づき、柳の枝をゆすると、
はらはらと葉があたりに散り、ようやく庭師は満足したという。

だから非対称というのは、対称形(シンメトリー)の中に存在していて
決してその反対ではないのさ。
さもなければ、単なる無秩序に陥ってしまう。
常に礎は対称形を形作る必要があって、
その上に非対称物が乗せられるわけさ。
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8分24秒
フィギュア(姿)とジェスチャー(身振り)


フィギュアは何か認識可能なものが、水平もしくは水平と垂直に広がる連続体、シークエンスなんだ。
つまり、フィギュアは顔なのさ。だから、分析するまでもなく、誰であるかをすぐに認識することが可能になる。
たとえば金髪や赤栗毛の女の子の鼻の形はどうで口の形がどう、髪型はどうかなどと分析する必要はないでしょう。
一目見てすぐに誰だかわかるし、完全で完結している理解なのさ。
これがフィギュアなんだ。

フィギュアは変化させられて、たとえば髪を染めたり、目に化粧したり、口紅をつけたり、悲しいかな老けることだってある。
同じフィギュアを20年後に見れば、同じアイデンティティを持っていたとしても、少し違うこともあるかも知れない。
ところが、ジェスチャーは変化させられないんだ。
ジェスチャーはこれさ(と何かしぐさをする)。
これはもう変えられないでしょう。だってほら、こうすると別な意味にになってしまう。
だからバリエーションにはフィギュアは含まれるけれど、ジェスチャーはそこには含まれないのさ。


11分9秒


これに関しては、人生ずっと付きまとわれているわけなんだけれど、
例えば、朝初めて見かけた車のナンバープレートの番号から、
その日の運勢を占ったりするわけさ。
例えば、574097…
57…ううん、どうもツキがなさそうな感じ…。
58! これはいい! 良い一日になりそうだ!
何と言ったって58は5+8で13だもの。
例えば61だったら…。ううん、どうも1日運に見放された感じ。
これが63だったなら、なんとなく1日の始まりにも希望が見えてくるね。何しろ7X9だから!

僕と数との関係は数量が意味を持つのではなくて、
数の持つ質感なのだと思う。
どの数字も数字ごとの顔をもっているのさ。

どんなに好感の持てる数かと思うこともあれば
とても感じの悪い数もあるし、特に良くも悪くもない数もあるんだ。
だから数にもそれぞれの顔つきがあって
僕は21には親しみを感じるけれど、29には全く好感が持てなかったりするし、
それに比べれば31はまだいい。ああでも33の方が言うまでもなくずっと感じがいい。
37…は、まあまあか。
しかし39はとてもいいね。何しろ13の3倍だし!
僕と数とはこんな付き合いなわけだよ。まあ少々常軌を逸しているのだけれども。



13分44秒
ブルーノ


マデルナは本当に偉大な人物だった。
彼の器の大きさで比較に値するのは、おそらく19世紀のシューマンくらいじゃないかな。
いつでも他人に対して甘んじて道を譲り、自らはいつもしんがりをつとめ
それは、たとえ相手が取るに足らないような人物であろうとも変わらなかったんだ。
彼の音楽性ときたら、それは素晴らしいものだった。
彼ほど全ての才能が端から端まで揃った人なぞ見たこともない。
全てが聴こえていてね。
1ヴェローナのアレーナを12歳で指揮していたころから
全ての音が聴こえていたんだ。
「フランコ、そのためには聞き分け能力が必要なのさ」
「聞き分け能力ってなんだい?」
「オーケストラを聴くとき、全部の音を聞いちゃだめだ。
たとえば2番オーボエだけの音を聞いて見るのさ。そうしたら間違えているかどうかがわかるだろう?」
「一体オーケストラが全員で弾いているとき、どうやって2番オーボエの音だけ聞き分けることなんて出来るのかい!」


16分17秒
敢えていえば:


聴覚は注意であって学習ではない。
聴覚は音に関して起きる事象の証言であって
音を通して起きる事象の理解ではないのだ。

つまり:
音とは、ある絶対の存在であって
それが発されることから、啓示を築く。
聴覚は会話体の理解に達する行為ではなく
形式的意識の単位において、多様性を仲介し、多様性に到達する瞬間なのだ。
聴覚は直接的経験であり、そこでは意識は行為に符合する。
聴覚は、自己鍛錬なのだ。

(F.ドナトーニ著「経緯X 」より1980年)


17分12秒
若者とともに (シエナ・キジアーナ音楽院夏期講習会の教室にて)


見てお分かりの通り、名前でお互いを呼び合っているし
少なくとも苗字で呼び合うなんです。
ここで僕のことをマエストロ・ドナトーニ先生と呼ぶ生徒はいません。
これはテレビの前でも同じです。
大事なことは、互いに信頼関係があって、対等であることです。
もちろん年齢も違いますから、文字通りの対等というのはあり得ないかもしれませんが。
ですが、それを除けば、それぞれ経験が違い、年齢も違い、立場も違うけれど、
皆それぞれ黒板の前に立ってプレゼンテーションをし、
それぞれが授業をしてくれるわけです。
(女の子が通り過ぎる)
ええと、何を話していたっけ?
フランコ・ドナトーニ&杉山洋一(その3)_c0050810_21224357.jpg

18分55秒
ここは美人の女流作曲家の宝庫だね!
君は何歳?20歳?ワーオ!


19分30秒
非対称は対称の中に書かれているんです。
なぜなら、無秩序は秩序のなかにあるんです。反対になってはいけません。
上手な花屋が花束を用意するとき、それらをよく理解しています。
みなさん上手な花屋を見かけたらよく観察してみてください
例えばバラを手にとって、花束を用意するとき、
それぞれのバラの高さや茎の長さを均一にならないよう留意しながら、
花束をつくりますね。


20分50秒
若い作曲家に必要なのはジェスチャーが明確でドラスティックであることです。
例えば引っ込み思案だったりすると、こんな風になります。
(外からドアをノックするジェスチャー)
これは若い作曲家に対しても同じです。
フォームが明確でなくて、
こんな感じでは、わからないですよ。


23分24秒
その後に残るのは、ただ贈り物の話のみ。
自らの作品について話し、失敗は語り継がれる。
しかし贈り物は見せられることなく、4月25日についてもみな口をとざす。
そこでは子供は友達や知り合いに贈り物を見せている。
なぜなら、それは受け取った贈り物だから。
でも、贈り物に値しない不完全な作品は見せない。
そこには不完全な作品しかない。
なぜなら、完結した作品は贈り物であって、作品ではないから。
その昔は、子供たちにこう教えていた。
贈り物を欲しがってはいけないし、望んでもいけない。
買ってもらってもいけないし、利益をあげてもいけない。
新しい贈り物は、年長者から無償で提供されたときのみ受け取ることができた。
その昔、子供たちにたくさんのことを教えていた。

(F.ドナトーニ著「経緯X 」より1980年)
by ooi_piano | 2012-08-19 03:52 | 雑記 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


by ooi_piano