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フランコ・ドナトーニ&杉山洋一(その6)

水牛「しもた屋之噺」より
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親しく交わっていたドナトーニの死も、自分にとって大きな契機となりました。長年重度の糖尿を患い、数年前に自分で身の回りの世話が出来なくなった時点で、これ以上生きるのは虚しいと明言したにも関わらず、我々周りの人間が、何とか彼を生きさせ作曲させるべく、策を巡らせていたのでした。肺に水が溜り入院した夏の盛り、突然ぱったりと食事を拒否し、そのまま衰弱して息を引き取りました。生きる事を拒絶する人を目の当たりにして、生が何を意味するのか考えさせられました。生はすなわち死を理解する事であり、死は逆に生を理解する事なのかも知れない、とその時思いました。

…マリゼルラから電話。「フランコ、死んでしまったわ」と言われた時、初め全く内容を理解していなかった。文章を何度か反芻して漸く内容が理解できると今度は愕然とした。心の中で「まさか。嘘でしょう」と叫んでいて、マリゼルラは泣いていた。
霊安室に駆けつけた。死体安置礼拝所に並んで、霊安室は病院の外れにあった。入口には、ただ「お入り下さい」とだけ書いてあって、空恐ろしかった。辺りには人気がなく、びくびくしながら天井の高いがらんとした建物の廊下を、誰かいないかさまよった。
門番の憲兵が、呼鈴を鳴らせば人が出て来ると教えてくれ、その通りにする。目の前には遺族らしい10人程の人が泣き崩れていた。果して白衣を来た男性が現れると、「地下1階7番の部屋です」、手短に言われ、独りで階段を降りた。ダンテの神曲で、地獄に降りる気分とはこんなものかしらと考える。
霊安室は形容し難い、壮絶な処だった。広間に面して幾つもの個室が単純に並び、幾つかのドアは開け放たれており、ベッドに人が横臥している姿も見えたし、或る部屋には遺族らしき人々が集まり亡骸を囲んでいる様が、厭がおうにも伺われた。
こわごわ7号室を探し、ノックした。中には誰か居ると思った。失礼します、と言って恐る恐るドアを開けると、シーツにくるまれた足の先が見えた。ひんやりとした奇妙な雰囲気の部屋に入ると、4畳程の白タイル張りの殺風景な小部屋にフランコが横たわっていて、他には誰も居なかった。自分が異物に感じられ、落ち着くまで時間が掛かった。顎から頭にかけて、包帯でしっかり留められていたが、落ち着いた顔だった。土色とは言え、普段から顔色が悪かったので、死んでいる事すら分らなかった。換気扇がまるで彼の寝息の様な音を立てていて、喉に挿入されていたチューブやカテーテルを外されたフランコはこざっぱりとして、長かった葛藤から漸く解放されたと思う。目は閉じられていて、右側から見るとただ寝ている様に見えたが、逆から見ると目は微かに開いていて、宙を見ている様にも、又目の奥がじろと僕を覗いた気もして、どきりとした。屍に触れるのは初め抵抗があったが、軽く髪を撫でると、いつものフランコで安心した。冷たくなってはいたがきっと彼も近くに居るに違いない、この様子を飄々と眺めているだろうと思うと愉快にさえ感じられたが、不思議な事に、呆然としているだけで何の感情も湧かなかった。
もうそろそろ帰ろうと思った時、ふと我に返って当惑した。今までは「又、近い内に」と声をかけ、フランコが「じゃあね、ヨーイチ」と答えるのが常だったが、霊安室では何と声を掛ければ良いのか。こういう時に「Addio(永遠の別離の挨拶)」と言うのかと思った途端、涙が溢れた。額にお別れのキスをして、後ろ髪を引かれる思いで外に出た。(2000年8月の日記より)
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先月の猛暑が嘘のように、8月の声を聞いた途端、ミラノは秋の気配に包まれました。結局今月は譜読みと作曲を続けているうちに過ぎてしまった感があります。今は連日の合わせが終わり、エルナンデスの詩で合唱を書きながら、秋にロサンジェルスで演奏するドナトーニの「最後の夜」を勉強しています。思い返せば、高校のころ、篠崎先生のお宅で、「最後の夜」のヴァイオリンのパート譜を見せてもらったのが、ドナトーニとの最初の出会いで、あれから20年近くたって、漸く自分で演奏する機会が巡ってきました。久しぶりに一つ一つ音符を追いながら勉強して痛感したのは、言葉で表現できないドナトーニの凄さです。彼の亜流とか弟子たちの作品でよく書けているものはたびたび見かけますが、楽譜を勉強して改めて感じるのは、ドナトーニの素晴らしさは作曲の技術でも書法でもなくて、彼自身の音楽性によるのだという至極当然の事実でした。

「最後の夜」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ぺッソアのテクストを、タブッキが伊訳した断片からなっています。こうして譜読みを粗方終えて、ふと、納戸にしまいこんであったエンツォ・レスターニョのインタビュー記事を読み返してみたくなりました。
「1980年に書いた、<最後の夜>という、フェルナンド・ぺッソアの詩による女声と五楽器のための叙情的な短い断片集があるだろう。君とぺッソアとの出会いというのは、誰もの興味をそそるところだと思うのだがね」
「いや、あれは実は偶然なんだ。それまでぺッソアは全く読んだことがなかったんだけれども、あの年の夏、マリゼッラ・デ・カルリが<たった一つの多性>を読み始めてみて、絶対僕にぴったりだと確信して、渡してくれてね。ぺッソアが色々なペンネームを使って、さまざまな人格に成りすました例のエピソードに魅了されたんだ。だから、あちらこちらから断片を集めて、ちょうど書かなければならなかったフランス放送の委嘱新作を書いたというわけさ。1980年の10月から12月までかかってスコアを仕上げた。あの頃、また新たな欝病の症状に呑みこまれつつあったところだった。直後の1981年の初めから、結局精神分析にかかって、なんとかあの状況から脱しようと試みるんだ」
こう答えたあと、エンツォは、欝病に悩まされる人間が、ぺッソアのような絶望的で暗い世界を読むのは到底良いとは思えないが、と続いてゆきます。

この年の春、ドナトーニはチェロ協奏曲「階段の上の小川」を作曲しました。この曲は「最後の夜」とともにこの時期の傑作として双璧を成していますが、「階段の上の小川」の44頁を作曲中、ドナトーニは精神病の発作が起きて作曲を中断せざるを得ませんでした。作曲にあたり下書きを用意せず、いつも直接清書をしていたドナトーニの精神状況は、この44頁の長いフェルマータの前後で大きく変化するのが、聴くものの心を穿ちます。そして、まさにその直後に書かれた「最後の夜」のために、ドナトーニが選んだぺッソアの断片は次のようなものでした。

「暗がりで、自ら解さないままに独りごちた。遥か彼方、神が忘却の都市を築いた砂漠を、今日わたしはこの手で知る」
「あたかも一日が死にゆくような風景の、旧く静かな夜に立ち戻るために」
「(風。戸外のあちらに)」
「皆、死んだ赤ん坊を抱いて、あやそうではないか」
「どこでもそうであるように、ここでも異邦人だ」
「静かなる夜よ。わたしにとって、どうか母性であってくれ」
「闇の些細な羽音、さもなければ葉のかすれる音に、際立つ沈黙」
「病人。翻る旗のまにまに、滅びゆく剣の刃の夕暮れは、王国の最後の夜が焔に包まれて」
全体がシンメトリーの8章の歌曲集は、歌詞もまたシンメトリーになっていて、冒頭と終章は、同じ詩集から採られています。原詩にはかなり長大なものもありますが、ここではどうやら詩の前後の脈絡なしに、作曲者の一定の視点に沿って切り出されたようです。
ドナトーニが欝に呑み込まれそうになりながら編んだ言葉は、果てしない闇のなか音もなく燃えあがる崩れかけた彼自身の姿を彷彿とさせます。様々な人物に自在に変容しながら紡がれるぺッソアの言葉は、底なし沼に足をすくわれかけていたドナトーニにシンパシーを呼び覚ますものだったに違いありません。
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「最後の夜」が書かれた1980年、ドナトーニは2冊目のエッセイ「Antecedente X 作曲の困難について」を出版します。「Antecedente X」は、難解で有名なドナトーニの本のなかでも特に理解が難しいと言われますが、多くは精神科の医師の勧めに従い夢をそのまま書き留めたもので、幻想的で怪奇な情景が続くものです。
「最後の夜」には、こうした当時の作曲者の精神状態がはっきりと刻印されているように思います。どんなに音が交ざり合って混濁しきっていても、感情は空虚で、絶対に濁らないのです。虚無感にも通じるような、この感情不在の不安感が浮かび上がらせる夜の風景は、どこまでも透明で、人間的な触感が極力排除されているようです。そしてこれらのファクター全てが、ぺッソアの言葉と結びついて、強烈な個性を放つことになります。ぺッソアのように、直接自己を露呈せずに借り物の他者に言葉を託す姿勢が、当時のドナトーニにそっくり当てはまるからかも知れません。

とにかく楽譜を勉強してゆくうち、この透明感、虚無感にすっかり魅せられてしまいました。そして、ああまたこの色だ、この暗い、くすんだ茶色のような色調が、イタリアのリアリズムの色だと妙に納得するのです。ミラノ中央駅のくたびれた色の剥き出しの鉄骨のような、ダルラピッコラの肌触りのような、イタリアン・リアリズムの白黒映画のような、暗くて鈍い色が、ここにも一面に塗りたくられているように思います。でも、そこから全ての感情を抜き去ってしまったような超越感があって、まるで剥製になったピエロ・リュネールのような按配です。編成から鑑みても、何箇所かの女声の扱いを見ても、ドナトーニがピエロ・リュネールを意識していたのは間違いありません。

4曲目の歌詞に出てくる「死んだ赤ん坊をあやす」という下りで、原語では「男の子の赤ん坊」と書かれています。これを読んだとき、ドナトーニには一人幼くして死んでしまったマルコという男の子がいたのを思い出しました。「Antecedente X」の前書「Questo」をマルコに捧げるほど、彼はいつもマルコのことを心に留めていました。この歌詞を選んだとき、ドナトーニがマルコを意識していたかどうか分かりませんが、「死んだ赤ん坊を、figlio morto...」とこの曲を 結ぶところで、「死んだ morto」という言葉を最後まで言い切らずに「mor....」だけで二重線が引かれているのが印象に残っています。

6曲目の「わたしにとって、どうか母性であってくれ」という部分では、ドナトー二は曲の最後を「どうか母性で」で終わらずに、また延々と「静かなる夜よ」と繰り返し、最後に「hahahahahahaha」という女声の奇怪な笑い声だけで終わります。この意味はぺッソアの原詩「Passagem das Horas」を読んでみてもよく分かりませんでした。一人っ子だったドナトーニにとって、母親はとても強い存在だったのは良く知っています。たびたび話に登場しましたし、彼の家の玄関に、ドナトーニそっくりのお母さんの写真がいつも飾られていたのを思い出します。

この曲がマリゼルラに捧げられているのは、もちろん最初にぺッソアの本を渡してくれたからですが、1980年なら、まだ彼らが付き合いだして3、4年というところではないでしょうか。前の奥さんや子供たちとの関係も一番複雑だった頃だと思います。
マリゼルラと二人、トリノ近郊のモンテウという山村に住んでいた、前妻のスージー宅を訪れたことが何度もあって、2000年頃リハビリを兼ねてドナトーニはずっとこの家に滞在していました。巨体のドナトーニが、本当に小さな、目のつぶれた子猫をそれは可愛がっていました。当時、スージーとマリゼルラは表向きまるで家族のような付き合いをしていましたが、それでも一人でモンテウを訪ねるより、誰か同行者が欲しかったのでしょう。よくマリゼルラから誘いの電話をもらいました。ピエモンテの田園風景に車を走らせながら、その昔、確執が激しかったころの話をしてくれたのが、今となってはとても懐かしい気がします。

当時からアルコール漬けで身体を壊していたスージーは、ドナトーニの死んだあと、しばらくミラノの子供たちのもとで治療を続けていましたが、去年やはり肝臓を壊して亡くなったとマリゼルラから電話をもらいました。久しぶりの電話でうちの子供の誕生を喜んだあと、ところで、と声を落として話してくれました。彼女も、長年お母さんと住んでいたローディ通りの家を売り払って、もう少し中央に小さなアパートに引越して、新居に遊びにゆくよと言いながら、互いに忙しさにかまけてそれきりになっているのが、ずっと気にかかっています。
(8月28日モンツァにて)
by ooi_piano | 2012-08-21 00:29 | 雑記 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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