「戦後前衛第二世代」について:ラッヘンマン、ホリガーを中心に ――野々村禎彦
「戦後前衛」は、第二次世界大戦と切っても切れない関係にある。ヨーロッパではマデルナ(1920生)に始まり、クセナキス(1922生)とリゲティ(1923生)の年長亡命組を経て、ノーノ(1924生)、ブーレーズ(1925生)、シュトックハウゼン(1928生)の「前衛三羽烏」世代を最初のピークに、ヌネシュ(1941生)やマルコ(1942生)の世代までの作曲家の総称である。マデルナよりも年長の世代は徴兵されて死傷し、生き延びても「旧世代の美学」の持ち主として冷遇された。B.A.ツィンマーマン(1918生)はこの世代を呪詛しながら1970年に自殺した。スイスや旧ユーゴスラヴィアのような例外を除き、ヨーロッパ本土の国々は軒並み一度はナチスに支配された。彼らが頽廃芸術撲滅を掲げ、戦前の前衛芸術を弾圧したことは、結果的に戦後前衛世代を大いに助けた。戦前の前衛作曲家たちは米国に亡命するか、強制収容所送りになった。ヴェーベルンのような同時代には無名の作曲家が密かに譜面を書くことは可能だったが。保守的なアカデミズムの重鎮たちの権威も「"頽廃芸術"を弾圧するナチスの同類」扱いで著しく低下した。
「戦後前衛」世代の終わりは始まりほど明確ではないが、物心ついた時にまだ「戦後」を引きずっていたかどうかで決まるようだ。先に挙げた最後の二人が、ポルトガルとスペインという、70年代まで戦前の独裁体制が維持された国に生まれていることは偶然ではない。また、この世代は細かく見るとさらにふたつに分かれる。年長世代を旧世代として敵視し、自分たちの手でゼロから歴史を作ろうとした前衛第一世代と、追従にせよ反発にせよ、前衛の年長世代との距離を意識しながら方向性を決めてきた前衛第二世代である。逡巡と試行錯誤を重ねた末に進むべき道を見出した作曲家は、年齢的には第一世代に属しても第二世代と看做した方がよい。ドナトーニ(1927生)やフェラーリ(1929生)はその典型である。ただし第一世代の下限は比較的明瞭で、カスティリオーニ(1932生)やペンデレツキ(1933生)の世代まで、第二次世界大戦終結時に一夜にして社会が大きく変わった経験がアイデンティティに組み込まれている世代まで。後の回で見るように、前衛第一世代の上限には地域性があるが、下限はイギリスや日本でも変わらない。
今回の主役のラッヘンマン(1935生)とホリガー(1939生)は、戦後前衛第二世代を代表する作曲家である。この世代で彼らと並び称されるべき作曲家は、年長世代遅咲き組を除けばグロボカール(1934生, フランス/旧ユーゴスラヴィア)くらいだろう。彼はフランスに生まれたが、戦後に親の故郷ユーゴスラヴィア(現スロヴェニア)に移住し、ジャズトロンボーン奏者として音楽活動を始めた。やがて彼はフランスに戻ってクラシック音楽を学び始めるが、頭角を現したのは60年代半ば以降、現代音楽界でも集団即興が興隆し、集団即興グループに参加して即興性や劇場性が大きな役割を果たす作品の演奏に関わり、自らもその方向で作曲を行い始めてからである。そんなグロボカールはピアノ曲への拘りはないが、今回取り上げるふたりはピアノ曲でもこの世代を代表している。ラッヘンマンは青年時代にはピアニストとして活動し、ホリガーもオーボエ奏者として世に出るまでは、パリ音楽院でルフェーヴルに師事してピアノを学んでいた。
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旧西ドイツの戦後前衛第二世代からはラッヘンマンの他、ライマン(1936生)、ツェンダー(1936生)、ヘスポス(1938生)、ハイン(1938生)、N.A.フーバー(1939生)ら多くの優れた作曲家が生まれたが、ラッヘンマンの上はシュネーベル(1930生)とカーゲル(1931生)までギャップがある原因は、シュトックハウゼン(1928生)の存在に他ならない。彼が同僚を積極的に潰そうとするような小物ならば、こんなことにはならなかっただろう。天然に唯我独尊の実力者だから厄介なのだ。シュネーベルとカーゲルが生き残れたのは、二人とも視覚的要素と音楽の歴史性が主な題材で、彼とは関心が被らなかったおかげだろう。ラッヘンマンは50年代末にノーノの最初の弟子になったが、ノーノは彼とは犬猿の仲。ラッヘンマンは電子音楽には殆ど関わらなかった(習作時代の終わりの1965年に1曲試みたが)のも、そういう経緯の結果だろう。
ラッヘンマンが師事した当時、ノーノはまだアカデミックには認知されておらず、彼はノーノが暮らすヴェネツィアに移り住んで私的に指導を受けた。彼がノーノに惹かれたのは、専ら左翼的な立場を明確に打ち出す姿勢への共感だろう。セリー音楽の鋳型に政治的メッセージを流し込んで表出的な音楽を作り、ミュジック・コンクレートを感情を増幅する効果音として用いる前衛時代のノーノの作風は、絶対音楽志向のラッヘンマンとはあまりに遠い。クラシック音楽の伝統を折衷主義に陥らないように利用する姿勢には多少影響を受けたかもしれないが、自己を見出す助けにはならなかった。《ゆりかごの音楽》(1963) までの初期ピアノ作品は、ピアニスト活動の傍らの習作時代の苦闘の記録である。
彼は30歳代に入った60年代後半に、生楽器の特殊奏法に着目してようやく進むべき道を見出した。戦後前衛第一世代の作曲家たちも特殊奏法を積極的に用いたが、彼らの興味はあくまで新奇な音響にあり、電気増幅も厭わない電子音楽探求と同次元の関心である。だが、ラッヘンマンは生音に拘り、特殊奏法による微小音響のみで空間を埋め尽くそうとした。彼にとってこの方向性は「新しい楽器の創造」であり、「楽器によるミュジック・コンクレート」だった。このように噪音のみを用いて緊密な構造を作り出す書法に踏み込んだのがチェロと小オーケストラのための《Notturno》(1966-68) であり、チェロ独奏のための《プレッション》(1969/2010)、ピアノ独奏のための《ギロ》(1969/88)、クラリネット独奏のための《ダル・ニエンテ》(1970) の3曲で書法は確立された。
大オーケストラのための《Kontrakadenz》(1970-71)、弦楽四重奏のための《Gran Torso》(1971/76/88) から弦楽四重奏とオーケストラのための《ドイツ国歌による舞踏組曲》(1979-80) まで、同時代を代表する大曲が並ぶ70年代は、彼の「傑作の森」の時期にあたる。一見伝統的なタイトルと編成を持つが、その枠組はすべて非伝統的な特殊奏法で埋められ、徹底的に異化される。例えば、クラリネットとオーケストラのための《Accanto》(1975-76) では、モーツァルトのクラリネット協奏曲と同一編成、同一時間枠が噪音で敷き詰められるが、「原曲」の該当箇所の録音が途切れ途切れに再生され、両者の差異の大きさが直截に提示される。《子供の遊び》(1980) はこの時期の最後に書かれたピアノ小品集。「傑作の森」の時期の最後にあえて平易なピアノ曲を書き、大編成の大曲で表現してきた内容が最小編成の小品でも表現できるようになったことを確認して次の段階に移る、というのはクラシック音楽の歴史でも馴染み深い態度だ。
チューバとオーケストラのための《Harmonica》(1981-83) に始まる次なる時期にも彼の作風は激変したわけではないが、70年代には伝統を異化する手段として特殊奏法による噪音を用いていたのが、80年代以降は特殊奏法による噪音は無条件の前提となり、それを用いて伝統を受け継いだ組織化を実現する、というスタンスに変化した。実験性を重視する筆者の立場ではこの変化は退嬰化だが、ヨーロッパの現代音楽界ではこれを円熟と受け取る向きも多く、演奏機会はむしろ80年代の作品の方が多い。「特殊奏法」が他に例のない真に特殊なものではなく、「現代音楽では標準的な特殊奏法」に変化したのも大きな要因だろうが… もちろん、退嬰化とは言っても高い次元の話で、ドナウエッシンゲン現代音楽祭草創期からレジデントオーケストラを務め、さまざまなスタイルの現代音楽には慣れているはずの南西ドイツ放送響が、オーケストラのための《塵》(1985-87) の初演をボイコットしたくらい、「演奏困難」で「難解」な作風は変わっていない。
90年代には、集大成的なオペラ《マッチ売りの少女》(1990-96) の作曲に集中した。その完成以降は、ピアノ曲の集大成となる大曲《セリナーデ》(1997-98)(ただし《エコー・アンダンテ》のペダル操作と《ゆりかごの音楽》のアルペジオ探求に焦点を絞り、《ギロ》の特殊奏法は対象外)など、伝統的な編成で2年に1曲程度大作を書くスタンスに移った。サントリーホール国際作曲委嘱シリーズのためのオーケストラ作品《書》(2003/04) もそのひとつである。なお、2008年以降新作情報はなく、今年6月に初演予定だった《8本のホルンとオーケストラのための協奏曲》も、2014年に延期とアナウンスされた。
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スイスは小国だけに世界水準の作曲家はおのずと限られる。ザッハー、マルケヴィチ、タバシュニクら「指揮者として名高い作曲家」は輩出したが、ホリガーの前はK.フーバー(1924生)、その前はオネゲルまで遡る。以後はあえて挙げればジャレル(1958生)やキーブルツ(1960生)の世代だろうか。ホリガーは作曲家=指揮者だが、それ以前に卓越したオーボエ奏者――それもホルンならデニス・ブレイン、フルートならオーレル・ニコレ級の、LP世代なら誰でも知っている存在である。アルビノーニからR.シュトラウスまであらゆるクラシックレパートリーを網羅し、現代曲の初演や録音も多い。武満徹がサントリーホール国際作曲委嘱シリーズの幕開けに完成させた大作《ジェモー》(1972-86) は、彼とグロボカールのために書かれた。尹伊桑、ルトスワフスキ、リゲティなど、オーボエとハープのための二重協奏曲が現代曲には多いのは、彼とハープ奏者の妻ウルズラを想定して書かれたためである。
作曲家としてのホリガーは地元ベルン音楽院でまずヴェレシュ(1907-92, 共産主義に馴染めず40年代末にハンガリーから亡命)に師事した(すなわち彼は大井の大先輩)。これは彼がオーボエ奏者としてコンクールで優勝を重ねる以前の話で、彼は元から作曲家も目指していた。その後、ブーレーズがバーゼル音楽院で作曲を教え始め、彼は演奏活動の傍ら指導を受けた。本日演奏される《エリス》(1961) は彼がブーレーズに学び始めた時期に書かれ、清潔なセリー書法と仄かに漂う抒情は、その後の作風を予告している。シアターピース《魔法の踊り手》(1963-65) や《七つの歌》(1966-67) の曲想は、極彩色の《プリ・スロン・プリ》という趣で、ブーレーズの強い影響下にある。オーボエ、ヴィオラ、ハープのための《三重奏曲》(1966) では線的構造の音色変化が際立つ編成を用い、ブーレーズは消化不良に終わった「管理された偶然性」を見事に使いこなしている。
もちろん、彼はいつまでも師の背中を追っていたわけではない。彼は管楽器奏者らしく奏者の呼吸に着目し、吹奏楽・オルガン・ラジオのための《Pneuma》(1970) で探求を始めた。《弦楽四重奏曲第1番》(1973) などを経た、オーケストラのための《息の弓》(1974-75) がこの方向性での到達点である。この時期の現代音楽界は大転換期だった。詳細はファーニホウとシャリーノ、前衛第二世代の次世代を取り上げる回の解説に譲るが、社会の革命的機運の衰退、経済の低迷に伴う前衛芸術への援助の減少、古典的調性をこの時代状況の中で守り続けた大家の死といった要因が重なり、調性を積極的に導入して伝統的な表現性を回復しようとする、「新ロマン主義」と総称される潮流が大きな力を持つようになった。ラッヘンマンはこの潮流の直接的な影響を受けなかった稀有な例だが、ホリガーは調性的要素を用い始める。
だが彼の場合、調性の持つ意味は些か異なる。彼の無調書法は「静謐で透明な抒情」という性格のもので、そこにダイナミズムを持ち込む手段はどぎつい音色や特殊奏法の多用だった。調性はそのような悪趣味すれすれの要素を持ち込まずに音楽的成り行きを作る格好の素材であり、彼の音楽はこの後ますます豊かになる。その中でも広く代表作とみなされているのが《Scardanelli-Zyklus》(1975-91) である。ヘルダーリンの詩による混声合唱曲〈四季〉は春夏秋冬1曲ずつで始まったが、やがて3曲ずつ1時間を超える作品へと増殖した。そこにフルート独奏からオーケストラまでの関連のある小品を組み込み、最終的に2時間半の大曲に結実した。ブーレーズ流 "work in progress" の鮮やかな成功例だ。数分の小品を無理やり10倍に引き延ばしたような作品ばかりの師匠とは大違いだ。
これに限らず彼には文学的テキストに基づく作品が多い。ベケットによるシアターピース3部作《Come and go》(1976-77), 《Not I》(1978-80), 《What Where》(1988) やオペラ《白雪姫》(1997-98) が代表作である。また、《エリス》の抒情的な音世界を受け継ぐ作品としては、ヴァイオリンとピアノのための《無言歌集I/II》(1982-83/1985-94) を特筆したい。《こどものひかり》(1993-95) はラッヘンマン《子供の遊び》と同じく子供のためのピアノ曲だが、あちらが《子供の情景》ならばこちらは《ミクロコスモス》に相当し、演奏会で弾ける曲は限られる。《パルティータ》(1999) はシューマンの初期ピアノ諸作に触発されたと思しき30分を超える組曲。演奏家としてのクラシック音楽との密接な関わりは、作曲活動にも良い形でフィードバックされている。また、彼の純粋な電子音楽作品は1曲しかないが、音符を隅々まで書き込むのではなく背景を電子音で埋めた作品は独奏曲からオーケストラ曲まで非常に多く、彼の筆の速さの一因でもある。
指揮者としては自作やスイスの同僚の作品を振る機会が多く、手兵カメラータ・ベルンを率いたバロック音楽の網羅的紹介も長年続けている。近年の録音では、シュトゥットガルト放送響とのケックラン・プロジェクトが高く評価されている。オーボエの演奏機会は減りつつあるが、最近J.S.バッハの協奏曲全集を再録音した。創作も質量とも衰えていないどころか、演奏活動や教育活動が減った分、ますます盛んなようだ。サントリーホール国際作曲委嘱シリーズでも、2015年に委嘱初演が予定されている。ショット社のサイトの出版目録を見ても、データ入力が追いつかない新作が何曲も並んでいる。

「戦後前衛」世代の終わりは始まりほど明確ではないが、物心ついた時にまだ「戦後」を引きずっていたかどうかで決まるようだ。先に挙げた最後の二人が、ポルトガルとスペインという、70年代まで戦前の独裁体制が維持された国に生まれていることは偶然ではない。また、この世代は細かく見るとさらにふたつに分かれる。年長世代を旧世代として敵視し、自分たちの手でゼロから歴史を作ろうとした前衛第一世代と、追従にせよ反発にせよ、前衛の年長世代との距離を意識しながら方向性を決めてきた前衛第二世代である。逡巡と試行錯誤を重ねた末に進むべき道を見出した作曲家は、年齢的には第一世代に属しても第二世代と看做した方がよい。ドナトーニ(1927生)やフェラーリ(1929生)はその典型である。ただし第一世代の下限は比較的明瞭で、カスティリオーニ(1932生)やペンデレツキ(1933生)の世代まで、第二次世界大戦終結時に一夜にして社会が大きく変わった経験がアイデンティティに組み込まれている世代まで。後の回で見るように、前衛第一世代の上限には地域性があるが、下限はイギリスや日本でも変わらない。
今回の主役のラッヘンマン(1935生)とホリガー(1939生)は、戦後前衛第二世代を代表する作曲家である。この世代で彼らと並び称されるべき作曲家は、年長世代遅咲き組を除けばグロボカール(1934生, フランス/旧ユーゴスラヴィア)くらいだろう。彼はフランスに生まれたが、戦後に親の故郷ユーゴスラヴィア(現スロヴェニア)に移住し、ジャズトロンボーン奏者として音楽活動を始めた。やがて彼はフランスに戻ってクラシック音楽を学び始めるが、頭角を現したのは60年代半ば以降、現代音楽界でも集団即興が興隆し、集団即興グループに参加して即興性や劇場性が大きな役割を果たす作品の演奏に関わり、自らもその方向で作曲を行い始めてからである。そんなグロボカールはピアノ曲への拘りはないが、今回取り上げるふたりはピアノ曲でもこの世代を代表している。ラッヘンマンは青年時代にはピアニストとして活動し、ホリガーもオーボエ奏者として世に出るまでは、パリ音楽院でルフェーヴルに師事してピアノを学んでいた。
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ラッヘンマンが師事した当時、ノーノはまだアカデミックには認知されておらず、彼はノーノが暮らすヴェネツィアに移り住んで私的に指導を受けた。彼がノーノに惹かれたのは、専ら左翼的な立場を明確に打ち出す姿勢への共感だろう。セリー音楽の鋳型に政治的メッセージを流し込んで表出的な音楽を作り、ミュジック・コンクレートを感情を増幅する効果音として用いる前衛時代のノーノの作風は、絶対音楽志向のラッヘンマンとはあまりに遠い。クラシック音楽の伝統を折衷主義に陥らないように利用する姿勢には多少影響を受けたかもしれないが、自己を見出す助けにはならなかった。《ゆりかごの音楽》(1963) までの初期ピアノ作品は、ピアニスト活動の傍らの習作時代の苦闘の記録である。
彼は30歳代に入った60年代後半に、生楽器の特殊奏法に着目してようやく進むべき道を見出した。戦後前衛第一世代の作曲家たちも特殊奏法を積極的に用いたが、彼らの興味はあくまで新奇な音響にあり、電気増幅も厭わない電子音楽探求と同次元の関心である。だが、ラッヘンマンは生音に拘り、特殊奏法による微小音響のみで空間を埋め尽くそうとした。彼にとってこの方向性は「新しい楽器の創造」であり、「楽器によるミュジック・コンクレート」だった。このように噪音のみを用いて緊密な構造を作り出す書法に踏み込んだのがチェロと小オーケストラのための《Notturno》(1966-68) であり、チェロ独奏のための《プレッション》(1969/2010)、ピアノ独奏のための《ギロ》(1969/88)、クラリネット独奏のための《ダル・ニエンテ》(1970) の3曲で書法は確立された。

チューバとオーケストラのための《Harmonica》(1981-83) に始まる次なる時期にも彼の作風は激変したわけではないが、70年代には伝統を異化する手段として特殊奏法による噪音を用いていたのが、80年代以降は特殊奏法による噪音は無条件の前提となり、それを用いて伝統を受け継いだ組織化を実現する、というスタンスに変化した。実験性を重視する筆者の立場ではこの変化は退嬰化だが、ヨーロッパの現代音楽界ではこれを円熟と受け取る向きも多く、演奏機会はむしろ80年代の作品の方が多い。「特殊奏法」が他に例のない真に特殊なものではなく、「現代音楽では標準的な特殊奏法」に変化したのも大きな要因だろうが… もちろん、退嬰化とは言っても高い次元の話で、ドナウエッシンゲン現代音楽祭草創期からレジデントオーケストラを務め、さまざまなスタイルの現代音楽には慣れているはずの南西ドイツ放送響が、オーケストラのための《塵》(1985-87) の初演をボイコットしたくらい、「演奏困難」で「難解」な作風は変わっていない。
90年代には、集大成的なオペラ《マッチ売りの少女》(1990-96) の作曲に集中した。その完成以降は、ピアノ曲の集大成となる大曲《セリナーデ》(1997-98)(ただし《エコー・アンダンテ》のペダル操作と《ゆりかごの音楽》のアルペジオ探求に焦点を絞り、《ギロ》の特殊奏法は対象外)など、伝統的な編成で2年に1曲程度大作を書くスタンスに移った。サントリーホール国際作曲委嘱シリーズのためのオーケストラ作品《書》(2003/04) もそのひとつである。なお、2008年以降新作情報はなく、今年6月に初演予定だった《8本のホルンとオーケストラのための協奏曲》も、2014年に延期とアナウンスされた。
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作曲家としてのホリガーは地元ベルン音楽院でまずヴェレシュ(1907-92, 共産主義に馴染めず40年代末にハンガリーから亡命)に師事した(すなわち彼は大井の大先輩)。これは彼がオーボエ奏者としてコンクールで優勝を重ねる以前の話で、彼は元から作曲家も目指していた。その後、ブーレーズがバーゼル音楽院で作曲を教え始め、彼は演奏活動の傍ら指導を受けた。本日演奏される《エリス》(1961) は彼がブーレーズに学び始めた時期に書かれ、清潔なセリー書法と仄かに漂う抒情は、その後の作風を予告している。シアターピース《魔法の踊り手》(1963-65) や《七つの歌》(1966-67) の曲想は、極彩色の《プリ・スロン・プリ》という趣で、ブーレーズの強い影響下にある。オーボエ、ヴィオラ、ハープのための《三重奏曲》(1966) では線的構造の音色変化が際立つ編成を用い、ブーレーズは消化不良に終わった「管理された偶然性」を見事に使いこなしている。
もちろん、彼はいつまでも師の背中を追っていたわけではない。彼は管楽器奏者らしく奏者の呼吸に着目し、吹奏楽・オルガン・ラジオのための《Pneuma》(1970) で探求を始めた。《弦楽四重奏曲第1番》(1973) などを経た、オーケストラのための《息の弓》(1974-75) がこの方向性での到達点である。この時期の現代音楽界は大転換期だった。詳細はファーニホウとシャリーノ、前衛第二世代の次世代を取り上げる回の解説に譲るが、社会の革命的機運の衰退、経済の低迷に伴う前衛芸術への援助の減少、古典的調性をこの時代状況の中で守り続けた大家の死といった要因が重なり、調性を積極的に導入して伝統的な表現性を回復しようとする、「新ロマン主義」と総称される潮流が大きな力を持つようになった。ラッヘンマンはこの潮流の直接的な影響を受けなかった稀有な例だが、ホリガーは調性的要素を用い始める。

これに限らず彼には文学的テキストに基づく作品が多い。ベケットによるシアターピース3部作《Come and go》(1976-77), 《Not I》(1978-80), 《What Where》(1988) やオペラ《白雪姫》(1997-98) が代表作である。また、《エリス》の抒情的な音世界を受け継ぐ作品としては、ヴァイオリンとピアノのための《無言歌集I/II》(1982-83/1985-94) を特筆したい。《こどものひかり》(1993-95) はラッヘンマン《子供の遊び》と同じく子供のためのピアノ曲だが、あちらが《子供の情景》ならばこちらは《ミクロコスモス》に相当し、演奏会で弾ける曲は限られる。《パルティータ》(1999) はシューマンの初期ピアノ諸作に触発されたと思しき30分を超える組曲。演奏家としてのクラシック音楽との密接な関わりは、作曲活動にも良い形でフィードバックされている。また、彼の純粋な電子音楽作品は1曲しかないが、音符を隅々まで書き込むのではなく背景を電子音で埋めた作品は独奏曲からオーケストラ曲まで非常に多く、彼の筆の速さの一因でもある。
指揮者としては自作やスイスの同僚の作品を振る機会が多く、手兵カメラータ・ベルンを率いたバロック音楽の網羅的紹介も長年続けている。近年の録音では、シュトゥットガルト放送響とのケックラン・プロジェクトが高く評価されている。オーボエの演奏機会は減りつつあるが、最近J.S.バッハの協奏曲全集を再録音した。創作も質量とも衰えていないどころか、演奏活動や教育活動が減った分、ますます盛んなようだ。サントリーホール国際作曲委嘱シリーズでも、2015年に委嘱初演が予定されている。ショット社のサイトの出版目録を見ても、データ入力が追いつかない新作が何曲も並んでいる。