【紹介番組】
ラヂオつくば 84.2MHz 「つくばタイムス・ドッピオ」
12/5(水) 24:00~24:30(=12/6(木) 午前0時~0時半)
※野々村禎彦さんのインタビュー・・・POC#13のリスニング・ガイドとして、「ポスト戦後前衛世代について、ファーニホウとシャリーノを中心に」「『新しい単純性』あっての『新しい複雑性』、新しい複雑性の超絶技巧志向とスペクトル楽派の音響志向の美味しいとこ取りが独学者シャリーノ、という図式」etc。
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「ポスト戦後前衛世代」について:「新しい複雑性」を中心に ――― 野々村 禎彦

だが、前衛的な音楽は戦後前衛世代とともに雲散霧消したわけではない。ロックの世界を見ても、前衛的/実験的な試みは連綿と続いている。「芸術」や「崇高」が逃げ口上にならない世界でも、商業的にはマイナスな創造行為に自発的に向かう動きは常に存在する。現代音楽界だけが例外のはずはない。ただし、戦後前衛世代と「ポスト戦後前衛世代」には大きな違いがある。戦後前衛世代では、前衛書法を用いるのが「芸術的な態度」、それ以外は「保守反動」という意識が強かったが、ポスト前衛世代にはこの類の図式は通用しない。前衛的アプローチは趣味嗜好以上のものではなくなり、指標となる唯一の中心も時代様式も存在しない。
戦後前衛世代は物心ついた時に「戦後」を引きずっていた世代までだとPOC#11の解説で書いたが、ポスト戦後前衛世代もそこから始まる。ヨーロッパではラドゥレスク(1942生)、H.デュフール(1943生)、ファーニホウ(1943生)らから始まり、グリゼー(1946生)、ミュライユ(1947生)、シャリーノ(1947生)らベビーブーム世代で最初のピークを迎える。ここに挙げた作曲家のうち、今回の主役のファーニホウとシャリーノ以外は「スペクトル楽派」に属し、ファーニホウが主導した「新しい複雑性」と共に、この時期の潮流を代表する。独学者シャリーノの音楽はどちらにも属さないが、両者の良い所取りと言えなくもない。
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英国現代音楽界には戦後前衛第一世代が存在しなかった。ティペット(1905生)やブリテン(1913生)の次世代は、P.M.デイヴィス(1934生)とバートウィスル(1935生)、戦後前衛第二世代の作曲家である。60年代の彼らは劇場性を表看板に、前衛的と言えなくもない作風だったが、70年代に入ると「英国音楽」の伝統を踏まえた「新・新古典主義」に落ち着いてしまう。シュトックハウゼンの助手として総音列技法を身に着けたカーデュー(1936生)も、自由度の高い図形楽譜/集団即興グループAMM/アマチュア音楽家のためのテキスト作品…と2、3年おきに方向性を変えた末、70年代に入るとどの方向性もブルジョア的だったと自己批判して政治活動に打ち込み、民衆的な素材を伝統的な形式で展開する「新・社会主義リアリズム」に転向した。戦後前衛世代は1945年当時の年齢という世界共通の区切りで二分され、第二世代上限の彼らでも第一世代の代わりにはなれなかった。

やがて彼はダルムシュタット現代音楽夏期講習で講師とクラーニヒシュタイン音楽賞作曲部門の審査を担当し、「新しい複雑性」の次世代をプロモートした。英国ではディロン(スコットランド, 1950生)、デンク(1953生)、クラーク(1957生)、バレット(ウェールズ, 1959生)ら、フライブルク音大からはヒュープラー(1956生)、マーンコプフ(1962生)らがこの傾向に加わった。総決算的な連作《発明の牢獄》(1981-86) も高く評価されて、ヨーロッパでの仕事は一段落した。ただし、次世代の作曲家たちのその後は、この方向性の困難を予告していた。80年代には尖っていたディロンも、90年代半ばになると後期武満風の穏当な作風に落ち着いた。「新しい複雑性」本来の独自書法開拓に努めたヒュープラーは大病の影響もあって十分な評価を得られず、「ファーニホウ風の曲」の再生産に励んだマーンコプフが、御大離欧後のヨーロッパでこの傾向の中心人物に収まった。

「新しい複雑性」は、前衛音楽不毛の地英国に生まれ、前衛音楽衰退期に全盛期を迎えたファーニホウが始めた、戦後前衛の失地回復運動とみなせる。彼は戦後前衛衰退の原因を書法の硬直化に見て、演奏家の生理に妥協しない複雑な譜面を指標に、作曲家ひとりひとりが新しい前衛書法を見出せば解決できると考えた。だが、言うは易く行うは難し。彼は70年代にはこの理念を実践していたが、80年代以降は自ら開拓した語法をなぞる手並みが聴き所になってしまった。ましてやフォロワーたちをや。だが、「新しい複雑性」は戦後前衛の縮小再生産には終わらなかった。ファーニホウの米国移住後十余年を経た21世紀に入ると、彼に直接師事しなくても十分な情報が得られるようになり、むしろその距離が独自語法を生むにはプラスに働き、米国の若い世代に「新しい複雑性」の理念を体現した作曲家が現れ始めた。J.エッカルト(1971生)の作風はファーニホウに似ているが、その全盛期に匹敵する生命感に満ちているのは、模倣ではなく自らの身体感覚に引きつけた再発見を行っているからだ。キャシディー(1976年生)は奏者が身体の各部分(弦楽器なら右手と左手、管楽器なら右手・左手・息)の動きを各々独立に指定したタブラチュア譜を用い、出音を意識しない複雑な身体運動から苛烈な音響を引き出している。
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シャリーノは早熟な独学者で、W.リーム同様、作品表は10代の作品から始まる。W.リームの世代になると懐疑の対象になる戦後前衛の美学を、5歳年長のシャリーノはすんなり受け入れた。彼は生楽器による「新しい音響」を目指したが、70年代ラッヘンマンのような伝統と隔絶した新奇さではなく、伝統の拡張ないし伝統奏法を新しい文脈で扱うことだった。彼は生地パレルモで現代音楽祭を主催したローマの作曲家エヴァンジェリスティ(1926-80) に弦楽四重奏曲第2番(1967) を献呈したが、この縁で最初のオーケストラ曲《子守歌》(1967-69) がヴェネツィア・ビエンナーレに推薦された。彼は現代音楽界デビューを機にローマに移り、1977-82年にはミラノ音楽院で教鞭を執ったが、以後は専業作曲家としてイタリア中部の小都市チッタ・ディ・カステッロに居を構え、新作初演でも滅多に離れないという。
斬新な弦楽器書法は初期から彼の代名詞で模倣者も多い。さまざまな倍音奏法を混ぜ、弦を縦に擦る疑似ホワイトノイズで空間を敷き詰める。ヴァイオリン独奏のための《6つのカプリース》(1976) はこの書法を詰め込んだ代表作。ピアノのための第1ソナタ(1976) もリスト/ラヴェル流ヴィルトゥオーゾ書法を継承している。《ハルポクラテスの像》(1974-79) や《アスペレン組曲》(1979) など、特徴的音型を執拗に反復し幻想的な音響で長い時間枠を埋めた作品が、この時期の真骨頂。やがて彼の関心は木管楽器(特にフルート)に移る。息の制御とキー操作の組み合わせを虱潰しに探索し、この楽器の特殊奏法のカタログを書き換えた。80年代に入ると「新しい単純性」の時流を意識して調性的音型や三和音もパレットに加えた。オペラ《ローエングリン》(1982-84) は、この時期の音響世界の集大成。ピアノのための第2ソナタ(1979-83) と第3ソナタ(1987) も、この時期の輝かしい書法を伝える。後期フェルドマンを思わせる長時間化も進み、《中心を共有する詩 I, II, III》(1987) は非常に限定された素材による各1時間近い協奏曲の3部作である。
エヴァンジェリスティ亡き後は、ノーノが作品の普及に一役買った。サントリーホール国際作曲委嘱シリーズのノーノ特集(1987) は、シャリーノが日本で本格的に紹介された最初の機会になった。《夜の寓話》(1985) の斬新な音響と、ヴァイオリンとオーケストラの編成でメンデルスゾーンの協奏曲を全面的に引用するわかりやすさは強い印象を残した。1990年のノーノの死は彼の音楽にも大きな影を落とし、ピアノのための第4ソナタ(1991-92) と第5ソナタ(1994) の暗い表情は前作までの明るさとは対照的だ。「新しい音響」の探求は続き、サックス四重奏と百人のサックス奏者のための《口、足、音》(1997) ではキー・クラップ音のみの音世界を常軌を逸した編成で実現した。《海の音調の練習曲》(2000) は 100+4 奏者のフルート群とサックス群が掛け合い、歌と打楽器も加わるさらにわかりやすい作品。このように同じ発想を使い回す姿勢は、専業作曲家ならではと言えるだろう。
集大成的なオペラ《マクベス》(2002) の後も、彼は年数作のペースで新作を書き続けている。松尾芭蕉の俳句による《あかあかと I, II, III》(1968) 以来日本への思いは強く、近作にも『和泉式部日記』に基づくオペラ《霜から霜へ》(2006) がある。初来日は、2005年のサントリーホール国際作曲委嘱シリーズでようやく実現した。この時の委嘱作《音の影》(2005) は発音行為に伴う噪音にスポットを当てた作品。「新しい音響」への意欲は依然衰えていない。2012年には1月のコンポージアムと11月のポリーニ・パースペクティヴ(《12のマドリガル》(2007) 他の日本初演)で2回来日しており、シャリーノ・イヤーは本公演で締め括られる。
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ポスト前衛世代では、前衛的アプローチは「芸術的な態度」を保証するわけではなく、もはや趣味嗜好以上のものではなくなったが、50年代末以降に生まれた世代では、現代音楽というジャンルの選択自体も趣味嗜好以上のものではなくなった。逆に、バレットのようなジャンル横断的な活動が「芸術的な態度」を保証するわけでもないが、自由即興音楽をはじめとする実験的ポピュラー音楽の豊かな広がりはいまや質量ともに現代音楽を凌駕し、あえて現代音楽という制約の多いジャンルを選ぶからには、このジャンルでなければ実現できない音楽を目指さなければ意味はない。もはや紙数も尽き、本稿の趣旨からも外れるので個人名までは挙げないが、ポスト戦後前衛世代以降の優れた現代作曲家は、みなこの状況を自覚している。

>>>独自書法に至った遅咲きのドナトーニ(1927生)と、60年代末から斬新な音響を生み出してきたシャリーノ(1947生)の2トップが現代音楽界を牽引する状況が続いた。>>>
万人に受け入れられるように書くなら「(ツェルボーニ内紛が原因と見られる)戦後第二世代の決定打を欠く中それぞれの都市はまったく相互にかみ合わず、RICORDI、ZERBONI、EDIPAN、BERBEN、RUGGINENTI、SONZOGNO所属の作曲家たちが休むことなく新作を提出し続ける状態が2000年ごろまでは続いた」。
万人に受け入れられるように書くなら「(ツェルボーニ内紛が原因と見られる)戦後第二世代の決定打を欠く中それぞれの都市はまったく相互にかみ合わず、RICORDI、ZERBONI、EDIPAN、BERBEN、RUGGINENTI、SONZOGNO所属の作曲家たちが休むことなく新作を提出し続ける状態が2000年ごろまでは続いた」。
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