[ポック#15] 実験工房の切り拓いたもの
2013年2月22日(金) 18時開演 代々木上原・けやきホール
大井浩明(ピアノ+オンド・マルトノ[*]他) 河合拓始(ピアノ+トイピアノ他) 有馬純寿(エレクトロニクス[※])
●鈴木博義 (1930-2006):2つのピアノ曲(1952)
●佐藤慶次郎(1927-2009):ピアノのためのカリグラフィー(1957/59)、如何是第9番(1993、抜粋)[*]
●武満徹(1930-1996):遮られない休息(1952/1959)、フォー・アウェイ(1973)、閉じた眼 ~瀧口修造の追憶に(1979)、コロナ(1962)[*] +静寂の海(1986)[同時演奏]
【休憩】
●福島和夫(1930- ):途絶えない詩(1953、抜粋)[*] 、エカーグラ(1957)[*] 、風の輪(1968)、水煙(1972)
●湯浅譲二(1929- ):スリー・スコア・セット(1953)、内触覚的宇宙(1957)、プロジェクション・トポロジク(1959)、オン・ザ・キーボード(1972)、「夜半日頭」に向かいて -世阿弥頌- ~ピアノと電子音響のための(1984)[※]
協力/尾茂直之(ASADEN 浅草電子楽器製作所)、(有)ふぉるく
※プログラムの一部が変更されました。
【お問い合わせ】 (株)オカムラ&カンパニー tel 03-6804-7490(10:00~18:00 土日祝休) fax 03-6804-7489 info@okamura-co.com http://www.okamura-co.com/
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■鈴木博義 (1930-2006)は成蹊大学文科で学んだのち、濱田徳昭の合唱サークル(《第九》や《アヴェ・ヴェルム・コルプス》を練習)で、武満徹と福島和夫に出会う。武満とともに1950年新作曲派協会に入会。《2つのピアノ曲》は、52年8月実験工房第4回発表会にて長松純子(ピアノ)により初演された。54年11月東京交響楽団委嘱によるオンド・マルトノ独奏(クラヴィオリンで代用)と管弦楽のための《モノクロームとポリクローム》、55年7月クラリネットと4弦楽器のための《メタモルフォーズ》を発表したのちは、付随音楽以外の作曲活動は行っていない。本日は、作曲者自身が楽譜作成ソフトを用いて浄書した最終版を用いる。
■佐藤慶次郎(1927-2009)は慶應大医学部在籍中から早坂文雄に師事。1954年音楽コンクール作曲部門第2位。《ピアノのためのカリグラフィー》は、1961年1月イタリア文化協会主催の現代音楽公演で、田辺緑により献呈初演。ISCMウィーン大会(第35回)に入選し、メシアン・ブーレーズらの賞賛を得た。「この作品の創作にあたって意図されたのは、純粋な生命力の把握です。書の世界のイメージを通じて、作品の世界を暗示し、さらに書の行為的な側面と対応して、演奏態度をも示唆するために、この題名が選ばれました」(作曲者)。《10の弦楽器のためのカリグラフィー第2番》(1965)の発表後は、主に電子オブジェ製作に向かう。代表作に「エレクトロニック・ラーガ」(1967)、「ススキ」(1974~)等。《如何是(いかんぜ)第9番》は、80年代から90年代にかけて手がけられた、電子音源による非公表のテープ音楽の一つ。フルート音(ただしフルートでは演奏不能)とピアノ音が用いられ、1拍毎にテンポが22から132まで6段階で加速する3小節周期の記譜によって書かれている。今回はその冒頭部分(422小節)を演奏する。
■武満徹(1930-1996)は、作曲はほぼ独学。《ノヴェンバー・ステップス》(1967)以降、映画音楽を含め広く欧米で知られる。現代音楽祭《Music Today》(西武劇場)を長く主宰した。著書多数。《遮られない休息》は、第1曲「ゆっくりと悲しく、話しかけるように」が1952年8月実験工房第4回発表会で園田高弘により初演。第2曲「静かに残酷な響きで」・第3曲「愛の歌」は、1959年笠間春子により初演。タイトル(“Pause ininterrompue”)は瀧口修造の詩(1937)による。《フォー・アウェイ》は、1973年ロジャー・ウッドワードにより献呈初演。クセナキス《エヴリアリ》やジョラス《ソナタのためのB》同様、彼らのバリ島訪問の影響が指摘される。オディロン・ルドンの油彩画(1890)に因む《閉じた眼》は、1979年9月6日東京で高橋アキにより初演。同年7月1日に逝去した瀧口修造の追憶に捧げられている。1990年に《ヴィジョンズ》第2曲として管弦楽化された。グラフィック・デザイナー杉浦康平との共作である《コロナ》は、5枚の円環状の図形楽譜からなる。初演は1962年2月、高橋悠治と一柳慧の2台ピアノによる。今回は、楽譜で推奨される種々の鍵盤楽器を組み合わせつつ、テープ音楽《静寂の海》との同時演奏を試みる。
■福島和夫(1930- )は、作曲はほぼ独学。W.シュタイネッケを追悼する《冥》(1962)等のフルート作品を中心に、国際的に広く演奏され続けている。1970年代からは上野学園大学日本音楽史研究所長として、日本音楽史学(古代・中世・史料学)に専念。近年の論文に、「西域伝来の古楽器揩鼓の研究(一)~(五)」(2004~)、「東大寺文書 華厳会記録 覚書」(2010)、「古楽文粋 譜序・跋」(2007)等。《途絶えない詩(うた)》は、1953年9月実験工房第5回発表会にて川田敦子(ヴァイオリン)により初演。作曲者の処女作にあたり、盟友・武満徹に献呈されている。タイトル(“Poésie ininterrompue”)はポール・エリュアールの詩集(1946)から採られた。今回はその冒頭部分(Presque lent)を演奏する。《エカーグラ》は、1958年8月軽井沢で林リリ子(アルト・フルート)・高橋従子(ピアノ)により献呈初演。梵語で「一縁」の意であり、「自分の住まっている、自分の腰を落ち着けている処」「一つのことに心を集中すること」、と云う。武満徹《弦楽のためのレクイエム》を並んで《エカーグラ》を激賞したストラヴィンスキーは、アメリカでの初演の労を執った。《風の輪 ~スケリグ島の追憶に》は、東京ドイツ文化研究所(当時)の委嘱により、1968年第2回日独現代音楽祭のために作曲。コンタルスキー兄弟による松下眞一《スペクトラ第3番》と同じ公演で、小林仁により初演された。「…目を閉ざすと、音のない唸りを聞く、海でもあり風でもあり、この小さな岩山を、無音の唸りがめぐる。…永遠をあらわすケルトの巴文、螺旋文が、渦巻いて続く。それは風の呪である」。《水煙》は、1972年第6回日独現代音楽祭のために作曲、本荘玲子により初演。水煙(すいえん)とは、仏塔の最上部に取り付ける相輪(そうりん)の一部で、九輪(宝輪)の上にある火炎をかたどった透かし彫り装飾のこと。出版作品としてはこれが最新のものとなる。
■湯浅譲二(1929- )は福島県郡山生まれ。1951年慶應大医学部を中退して実験工房に参加、爾来今日に至るまで半世紀以上、旺盛な作曲活動を続けている。《スリー・スコア・セット》は、1953年9月実験工房公演にて松浦豊明により初演。前年の処女作《二つのパストラール》に続く第2作であり、「プレリュード」「コラール」「フィナーレ」の短い3曲からなる。《内触覚的宇宙》は、1957年6月実験工房ピアノ作品演奏会にて園田高弘により初演。「内触覚的」とは、原始的な洞窟絵画のように「外的な観察によってではなく内的な感覚(sensation)によってフォルムが描きとられてゆく型の芸術」[Herbert Read “Icon and idea”(1955)]を示している。同タイトルのシリーズは、ピアノ曲(1957/1986)・二十弦筝と尺八(1990)・チェロとピアノ(1997)・オーケストラ(2002)の五曲を数える。《プロジェクション・トポロジク》は、1959年8月軽井沢にて園田高弘により初演。プロジェクション第1(静的な時間空間)、同第2(浮動的な時間空間、偶発するエネルギー)、同第3(静的な形の中に浮動的な時間空間エネルギーの交替)、の3部からなる。《オン・ザ・キーボード》は高橋アキの委嘱、1972年2月15日初演。タイトルは、鍵盤とペダルのみによる新しい世界の開拓を指すと同時に、内部奏法に否定的である日本楽壇への揶揄も込められている。《「夜半日頭(やはん・じっとう)」に向かいて》は、1984年春カリフォルニア大学音楽実験センター(CME、サンディエゴ)にて作曲、同年6月3日にNYリンカーン・センターにてアラン・ファインバーグピアノ)により初演。世阿弥『九位』の能実践の喩え、「夜半、日頭明らかなり」(新羅では真夜中に太陽が煌々と照っている)に縁る。
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日本の戦後前衛第一世代について:「実験工房」同人を中心に ――野々村 禎彦
POCシリーズ最初の1年は、息の長い作曲家を輩出した大井の同年生まれと、戦後前衛/実験主義を貫きながら実力に見合う評価を受けてこなかった日本の作曲家たちを組み合わせた特集だった。その後のシリーズは、ヨーロッパの戦後前衛世代(ポスト戦後前衛世代を含む)をほぼ網羅的に紹介する内容で、ドイツ留学組が形作った韓国の戦後前衛世代も、この枠で紹介された。POC小休止前の最後の回で、日本の戦後前衛第一世代の中核をなす「実験工房」同人を取り上げるのは自然な流れだ。ただし日本の戦後前衛は、歴史的経緯により英国とは別な意味で特殊な様相を呈しており、本稿では対象を「実験工房」に限らず、全体像を概観する。
松平頼則(1907-2001)は戦後前衛世代よりもはるか年長だが、同世代のメシアン(1908-92)とカーター(1908-2012)がヨーロッパと米国の戦後前衛の基礎を作ったのと同じ意味で、日本の戦後前衛の基礎を作った。戦前の松平は伊福部昭(1914-2006)と並ぶ「民族派」として民謡等を素材にした作品で知られていたが、彼はフランス新古典主義をほぼリアルタイムで学び、独自性を求めて「民族的」な素材に向かった。すなわち彼は初期から「輸入」「翻訳」では満足できなかった。太平洋戦争中の彼は、創作への干渉を嫌ってほぼ筆を絶ったが、おかげで戦後に戦争協力を追及されたり、アリバイとして「民主的」な作品を書くような煩わしい処世に追われず、新古典主義の粋を極めた作曲に集中できた。ヨーロッパ戦後前衛史観では新古典主義は音列主義と対立するかのように扱われてきたが、これはシェーンベルクとストラヴィンスキーの個人的対立に由来し、本来は歴史を俯瞰的に眺めて様式変遷を素材と看做す新古典主義こそモダニズムの本流に位置する。実際、ストラヴィンスキーはシェーンベルクの死に呼応するかのように音列技法を採用し、後期ヴェーベルンを受け継いだ優れた12音作品を書き続けた。ただし、ストラヴィンスキーやプーランクのような新古典主義は日本では受けが悪く、ヒンデミットやオルフのような新古典主義が主流だった。大澤壽人(1906-53)のフランス新古典主義とジャズを融合した才気溢れる作品が理解されるはずもない。
日本で戦後いち早く12音技法を研究したのは柴田南雄(1916-96)、入野義朗(1921-80)ら、新古典主義から出発した作曲家たちだった。日本で最初に12音技法を使ったのは入野とされるが、諸井誠(1930-)も同時期に使い始めていた。新古典主義的なゴツゴツした持続が抜けない入野や柴田の12音書法とは対照的に、諸井は初期からベルクのような流麗な書法を身に着けていた。日本におけるドイツ伝統書法の重鎮、諸井三郎(1903-77)の息子ながら大学では日本におけるフランス伝統書法の祖、池内友次郎(1906-91)に学んだ成果だろう。アカデミックな基礎に12音技法はぴったりはまった。彼はNHK電子音楽スタジオ創設時に北ドイツ放送スタジオを調査し、シュトックハウゼン《習作I/II》の分析を通じて総音列技法に向かった。正弦波素材の電子音楽では《ヴァリエテ》(1962)、器楽曲では《ヴァイオリンとオーケストラのための協奏組曲》(1963) がこの方向のピークにあたる。「アカデミズムの反逆者」というヨーロッパ戦後前衛の典型を地で行く、もうひとりの池内門下生が黛敏郎(1929-97)だ。フランス新古典主義を土台にジャズやエキゾティックな素材を散りばめ、学生時代からジャズバンドでピアノを弾き、映画の主題歌を作曲する時代の寵児だった。パリ音楽院に留学したが得る物なしと1年で帰国し、日本初のミュジック・コンクレートや(狭義)電子音楽を相次いで発表した。他方、映画音楽にも積極的に取り組み、後に松本清張『砂の器』のモデルになるほど世間でも注目されていた。聴衆を取り囲むオーケストラと合唱が、スペクトル解析した梵鐘の響きを再構成し声明を歌う《涅槃交響曲》(1957-58) は、後年のスペクトル楽派の探求まで予見した、国際的にも先駆的な代表作である。
しかし黛は《涅槃交響曲》の先に進むことはなく、この作品を生んだ日本の伝統への関心も右寄りの政治活動に収束し、程なく活動の中心をそちらに移した。諸井も《協奏組曲》を乗り越えることはできず、《竹藾五章》(1964) で前衛書法を尺八に適用する新たな方向性を打ち出したが、この曲を契機に戦後前衛の枠を超えて広がった邦楽器ブームに埋没し、70年代半ばには音楽文筆に活動の中心を移した。国際的にも、モダニズムを突き詰めた創作は60年代初頭で飽和し、その先を独力で切り拓いた作曲家のみが前衛の終焉を超えて生き延びた。黛と諸井の華やかな活動の前に霞んだかに見えた柴田と入野は、日本伝統音楽との様式混合を通じて60年代半ばから再び存在感を示した。特に柴田は、《追分節考》(1973) に始まる日本民謡を素材にした合唱のためのシアターピースが創作のピークにあたる。
池内門下で戦後前衛に属するのは黛と諸井だけだが、彼ら以外にも興味深い作曲家は多い。少なくとも70年代までは、池内門下生を中心とする日本のアカデミックな作曲界は、戦後前衛側に劣らぬ進取の気性に満ちた創作を続けていた。バルトークにならった民謡研究を通じて声楽書法を発展させた間宮芳生(1929-)の《合唱のためのコンポジション》シリーズは、ヨーロッパ戦後前衛の探求に比肩する。フランス伝統書法と原初的なオスティナートを融合した松村禎三(1929-2007)の《交響曲第1番》(1965) や《管弦楽のための前奏曲》(1968) は、同時代のリゲティに匹敵するトーン・クラスター音楽である。むしろ、戦後前衛第一世代でフランス伝統書法に収まったのは矢代秋雄(1929-76)だけかもしれない。三善晃(1933-)もパリ音楽院での師デュティユと同じく徐々にその枠を乗り越え、《チェロ協奏曲》(1974) や《変化嘆詠》(1975) の時期には前衛の停滞を凌ぐほどの激越な表現に達していた。そもそも日本人にとって洋楽の伝統書法はしょせん借り物。高校在学中から毎日音楽コンクールの常連だった一柳慧(1933-)がジュリアード音楽院留学後数年で米国実験音楽に向かい、ケージに師事したのも驚くにはあたらない。
日本の総音列技法の使い手は諸井だけではない。松平頼曉(1931-)は作品表冒頭の《変奏曲》(1957) から、松下眞一(1922-90)も同時期に使い始めた。松平頼則も《右舞》(1957) で総音列技法、《蘇莫者》(1961) で管理された偶然性を使い始める。息子の頼曉への対抗意識もあったのか、雅楽のフィルターを通した独自様式で終生使い続けた。頼曉の場合はこの書法は出発点に過ぎず、独自のピッチ・インターヴァル技法を80年代初頭に確立するまでは、米国実験主義のさまざまな意匠を試みることになる。松下は60年代にピークを迎えたが、1965年からハンブルクに拠点を移したこともあって日本国内では相応の評価を受けられず、70年代に入るとペンデレツキらと並んでいち早く新ロマン主義に向かった。もうひとり特筆すべきは篠原眞(1931-)。彼も池内門下出身だが藝大を中退し、メシアン門下を皮切りにシュトックハウゼンの助手を経てユトレヒトのソノロジー研究所に落ち着いた。前衛書法をリアルタイムで吸収した彼は、70年代に入ると西洋楽器と邦楽器の融合に目を向けたが安易な折衷主義に陥ることはなく、《Egalisation》(1975) や《Cooperation》(1990) など、ポスト前衛の時代に本領を発揮した。また彼は、《Broadcasting》(1974) や《City Visit》(1979) など、GRMでフェラーリから学んだ経緯を彷彿とさせるミュジック・コンクレートでも異彩を放った。
この4人のうち、篠原以外の3人はPOC第1期で取り上げられており、国際水準で戦後前衛を代表する彼らが正当に評価されていない現状には大きな問題があるが、それだけ日本独自の「戦後前衛」に存在感があったということでもある。それが、実験工房同人の作曲家たちに他ならない。福島秀子(1927-97)・和夫(1930-)姉弟の家に集った芸術家たちが詩人&美術評論家の瀧口修造(1903-79)を後見人に据えて結成した集団であり、ピアニスト園田高弘(1928-2004)、舞台照明家の今井直次(1928-)、技術者の山崎英夫(1920-79)、詩人&音楽評論家の秋山邦晴(1929-96)も含む、セルフ・プロデュース可能なグループだったことも成功の要因だろう。美術作家は駒井哲郎(1920-76)、北代省三(1921-2001)、大辻清司(1923-2001)、福島秀子、山口勝弘(1928-)と比較的年長で、「具体」同人と並ぶ日本抽象絵画のパイオニアたちや戦前の前衛写真を継承する作家のマルチメディア指向を、一世代下の非アカデミックな作曲家たちが支える形で始まった。
現代芸術の世界は狭く、美術作家どうし、作曲家どうしは以前から面識があったが、1950年5月頃から武満徹(1930-96)と鈴木博義(1931-2006)が福島家のサロンに顔を出し、ジャンルを超えた交流が始まる。清瀬保二(1900-81)に師事していた武満と鈴木は同年、清瀬、松平、伊福部、早坂文雄(1914-55)ら「民族派」を糾合した「新作曲派協会」に参加した。同年末、親交のあった湯浅譲二(1929-)と秋山が新作曲派協会の発表会に足を運び、武満《2つのレント》(1950) を激賞し仲間に加わる。彼らは翌年の夏に芸術家集団「アトム」名義で展覧会を企画していたが、折良く瀧口から創作バレエ『生きる悦び』の制作を依頼され、「実験工房」(瀧口の命名)として活動を始めた。やがて武満は早坂の映画音楽の助手を始め、早坂に師事していた佐藤慶次郎(1927-2009)も1953年に参加する。5人ともほぼ独学、音楽学校出身者はいない。湯浅に至っては新作演奏会に足を運ぶうちに、「この程度なら俺でも書ける」と作曲を志したという。パンクムーヴメントの時代に「この程度なら…」と音楽を志した人々は実験的ポピュラー音楽の中興の祖になった。歴史は繰り返す。
実験工房の活動期間は1951-57年と短い。鈴木の活動で知られているのはこの間のみだが、メンバーの多くはむしろこれ以降に飛躍した。早坂の「日本的な感覚的無調」を体現した佐藤は《ピアノのためのカリグラフィー》(1960) に始まる《カリグラフィー》シリーズで名高いが、60年代後半に戦後前衛第二世代が台頭し、ベルリン帰りの石井眞木(1936-2003)がポストコロニアルな作風で注目を浴び、高橋悠治(1938-)がクセナキスの作曲技法を使うなど国際化が進む中で、創作の中心を電動オブジェに移した。福島の作風は一見穏健だが海外への対抗意識は人一倍強く、ダルムシュタット現代音楽夏期講習やISCMに積極的に参加した。「日本的」なフルート書法は特に注目され、《冥》(1962) は国際的なスタンダードになった日本人初の(現在でも数える程しかない)作品である。そんな福島だけに、前衛の時代が終わって現代音楽が各国内に閉じこもるようになると(日本は特にその傾向が強かった)、活動の中心を日本や東洋の伝統音楽の研究に移した。
武満は満州引揚者の家庭に生まれ、米軍キャンプで働いてようやく高校を卒業するハングリーな少年時代を過ごした。彼のキャリアで特筆すべきは、現代音楽と映画音楽の経験を並行して積み、どちらの分野でも日本の頂点に立ったことである。公的に認知される前は早坂らの映画音楽の助手と独自のミュジック・コンクレートを通じて双方の仕事の基礎を身に着け、映画音楽では中村登監督の50年代後半の作品、現代音楽では「20世紀音楽研究所」コンクールへの入賞(1958) と同研究所参加を機に知られ始めた。映画音楽では勅使河原宏・羽仁進・篠田正浩ら、同世代の芸術指向の監督作品でミュジック・コンクレートや邦楽器を駆使し、映画賞の音楽部門の常連となって地位を確立した。現代音楽では《テクスチュアズ》(1964) の国際作曲家評議会コンクール1位、《ノヴェンバー・ステップス》(1967) のNYPからの委嘱と海外での評価が逆輸入される形で評価を確立した。以後の彼は、現代音楽祭「Music Today」の運営など、プロデュースにも才能を発揮した。
湯浅は郡山の代々医者の名家で生まれ育ち、武満のように貪欲な自己プロデュースは行わなかったため認知は遅れたが、諸井の電子音楽制作が一段落しNHK電子音楽スタジオが在野の作曲家にも門戸を開き始めた時期に、ホワイトノイズのフィルタリングという独自の手法で制作した《プロジェクション・エセムプラスティク》(1964) が、シュトックハウゼンにも「エニグマティックな音楽」と評され、ようやく自己を見出した。この経験を経て音楽を時間と周波数の2次元グラフで作曲する書法にクセナキスとは独立に到達し、この手法を推し進めた最初の代表作《イコン》(1967) の後、この書法を通常の器楽曲にも拡張してからは、《クロノプラスティク》(1972)、《芭蕉の情景》(1980/89) など、国際水準の作品をコンスタントに発表している。コンピュータ音楽研究で名高いカリフォルニア大学サンディエゴ校で1981-94年に教鞭を執り、アナログ電子音楽にもコンピュータ音楽にも通じた日本では稀少な現代作曲家となった。その最初の成果《夜半日頭に向かいて》(1984) は、福島作品の集中的紹介と並ぶ本演奏会の目玉だ。
このように概観すると、日本の戦後前衛第一世代及び彼らに対抗意識を燃やしたアカデミックな作曲家たちはほぼ1929-33年という極めて狭い間に生まれている。戦後前衛第二世代は水野修孝(1934-)、刀根康尚(1935-)らに始まって三宅榛名(1942-)、池辺晋一郎(1943-)あたりまで、ポスト戦後前衛世代は佐藤聰明(1947-)、近藤譲(1947-)、平石博一(1948-)らに始まり、三輪眞弘(1958-)、中川俊郎(1958-)らの世代には既に実験的ポピュラー音楽(大友良英(1959-)、内橋和久(1959-)らの世代に相当)との境界が曖昧になっている。戦後前衛第二世代以降の世代の切れ目はヨーロッパと変わらない。逆に、例外的な作曲家の戦時中の生活を眺めると事情ははっきりする。入野(1921生)は東京銀行を経て海軍主計局に勤めた財務畑のエリート、松下(1922生)は九州帝国大学理学部数学科の大学院生、佐藤(1927生)は医者志望の慶應普通部の学生だった。旧制中学からは勤労奉仕、旧制高校からは学徒動員という戦時下の総動員態勢を免れた者だけが戦後前衛第一世代を形成した。
この事情は実はヨーロッパでも変わらない。大半の国は第2次世界大戦が始まるとたちまちナチスに占領され、多くの若者が兵役に駆り出されたのは、ヨーロッパ大陸全土とアフリカ北部まで派兵し、最後は国土が戦場になったドイツ、ドイツの侵略を耐え抜いた旧ソ連、ドイツの上陸を許さなかった英国程度である(イタリアのファシスト党はナチスとは対照的に前衛芸術を擁護し、連合国軍がノルマンディに上陸した段階で政権を追われている)。実際、ドイツの戦後前衛第一世代はシュトックハウゼン(1928生)とシュネーベル(1930生)程度(カーゲルは戦後にアルゼンチンから移住)、旧ソ連の戦後前衛第一世代はデニソフ(1929生)とグバイドゥーリナ(1931生)程度、英国に戦後前衛第一世代は存在しなかった。実験工房の美術作家たちはみな1920-28年の間に生まれており、日本の戦後小説の多くはむしろ戦争体験から生まれた。伝統書法の作曲家はこの世代にも多く、前衛音楽を志向する個性のみが「軍隊的なもの」とは決定的に相性が悪いようだ。
本稿の執筆にあたり、川崎弘二さんにご協力頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。
2013年2月22日(金) 18時開演 代々木上原・けやきホール
大井浩明(ピアノ+オンド・マルトノ[*]他) 河合拓始(ピアノ+トイピアノ他) 有馬純寿(エレクトロニクス[※])

●佐藤慶次郎(1927-2009):ピアノのためのカリグラフィー(1957/59)、如何是第9番(1993、抜粋)[*]
●武満徹(1930-1996):遮られない休息(1952/1959)、フォー・アウェイ(1973)、閉じた眼 ~瀧口修造の追憶に(1979)、コロナ(1962)[*] +静寂の海(1986)[同時演奏]
【休憩】
●福島和夫(1930- ):途絶えない詩(1953、抜粋)[*] 、エカーグラ(1957)[*] 、風の輪(1968)、水煙(1972)
●湯浅譲二(1929- ):スリー・スコア・セット(1953)、内触覚的宇宙(1957)、プロジェクション・トポロジク(1959)、オン・ザ・キーボード(1972)、「夜半日頭」に向かいて -世阿弥頌- ~ピアノと電子音響のための(1984)[※]
協力/尾茂直之(ASADEN 浅草電子楽器製作所)、(有)ふぉるく
※プログラムの一部が変更されました。
【お問い合わせ】 (株)オカムラ&カンパニー tel 03-6804-7490(10:00~18:00 土日祝休) fax 03-6804-7489 info@okamura-co.com http://www.okamura-co.com/
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■佐藤慶次郎(1927-2009)は慶應大医学部在籍中から早坂文雄に師事。1954年音楽コンクール作曲部門第2位。《ピアノのためのカリグラフィー》は、1961年1月イタリア文化協会主催の現代音楽公演で、田辺緑により献呈初演。ISCMウィーン大会(第35回)に入選し、メシアン・ブーレーズらの賞賛を得た。「この作品の創作にあたって意図されたのは、純粋な生命力の把握です。書の世界のイメージを通じて、作品の世界を暗示し、さらに書の行為的な側面と対応して、演奏態度をも示唆するために、この題名が選ばれました」(作曲者)。《10の弦楽器のためのカリグラフィー第2番》(1965)の発表後は、主に電子オブジェ製作に向かう。代表作に「エレクトロニック・ラーガ」(1967)、「ススキ」(1974~)等。《如何是(いかんぜ)第9番》は、80年代から90年代にかけて手がけられた、電子音源による非公表のテープ音楽の一つ。フルート音(ただしフルートでは演奏不能)とピアノ音が用いられ、1拍毎にテンポが22から132まで6段階で加速する3小節周期の記譜によって書かれている。今回はその冒頭部分(422小節)を演奏する。
■武満徹(1930-1996)は、作曲はほぼ独学。《ノヴェンバー・ステップス》(1967)以降、映画音楽を含め広く欧米で知られる。現代音楽祭《Music Today》(西武劇場)を長く主宰した。著書多数。《遮られない休息》は、第1曲「ゆっくりと悲しく、話しかけるように」が1952年8月実験工房第4回発表会で園田高弘により初演。第2曲「静かに残酷な響きで」・第3曲「愛の歌」は、1959年笠間春子により初演。タイトル(“Pause ininterrompue”)は瀧口修造の詩(1937)による。《フォー・アウェイ》は、1973年ロジャー・ウッドワードにより献呈初演。クセナキス《エヴリアリ》やジョラス《ソナタのためのB》同様、彼らのバリ島訪問の影響が指摘される。オディロン・ルドンの油彩画(1890)に因む《閉じた眼》は、1979年9月6日東京で高橋アキにより初演。同年7月1日に逝去した瀧口修造の追憶に捧げられている。1990年に《ヴィジョンズ》第2曲として管弦楽化された。グラフィック・デザイナー杉浦康平との共作である《コロナ》は、5枚の円環状の図形楽譜からなる。初演は1962年2月、高橋悠治と一柳慧の2台ピアノによる。今回は、楽譜で推奨される種々の鍵盤楽器を組み合わせつつ、テープ音楽《静寂の海》との同時演奏を試みる。

■湯浅譲二(1929- )は福島県郡山生まれ。1951年慶應大医学部を中退して実験工房に参加、爾来今日に至るまで半世紀以上、旺盛な作曲活動を続けている。《スリー・スコア・セット》は、1953年9月実験工房公演にて松浦豊明により初演。前年の処女作《二つのパストラール》に続く第2作であり、「プレリュード」「コラール」「フィナーレ」の短い3曲からなる。《内触覚的宇宙》は、1957年6月実験工房ピアノ作品演奏会にて園田高弘により初演。「内触覚的」とは、原始的な洞窟絵画のように「外的な観察によってではなく内的な感覚(sensation)によってフォルムが描きとられてゆく型の芸術」[Herbert Read “Icon and idea”(1955)]を示している。同タイトルのシリーズは、ピアノ曲(1957/1986)・二十弦筝と尺八(1990)・チェロとピアノ(1997)・オーケストラ(2002)の五曲を数える。《プロジェクション・トポロジク》は、1959年8月軽井沢にて園田高弘により初演。プロジェクション第1(静的な時間空間)、同第2(浮動的な時間空間、偶発するエネルギー)、同第3(静的な形の中に浮動的な時間空間エネルギーの交替)、の3部からなる。《オン・ザ・キーボード》は高橋アキの委嘱、1972年2月15日初演。タイトルは、鍵盤とペダルのみによる新しい世界の開拓を指すと同時に、内部奏法に否定的である日本楽壇への揶揄も込められている。《「夜半日頭(やはん・じっとう)」に向かいて》は、1984年春カリフォルニア大学音楽実験センター(CME、サンディエゴ)にて作曲、同年6月3日にNYリンカーン・センターにてアラン・ファインバーグピアノ)により初演。世阿弥『九位』の能実践の喩え、「夜半、日頭明らかなり」(新羅では真夜中に太陽が煌々と照っている)に縁る。
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日本の戦後前衛第一世代について:「実験工房」同人を中心に ――野々村 禎彦

松平頼則(1907-2001)は戦後前衛世代よりもはるか年長だが、同世代のメシアン(1908-92)とカーター(1908-2012)がヨーロッパと米国の戦後前衛の基礎を作ったのと同じ意味で、日本の戦後前衛の基礎を作った。戦前の松平は伊福部昭(1914-2006)と並ぶ「民族派」として民謡等を素材にした作品で知られていたが、彼はフランス新古典主義をほぼリアルタイムで学び、独自性を求めて「民族的」な素材に向かった。すなわち彼は初期から「輸入」「翻訳」では満足できなかった。太平洋戦争中の彼は、創作への干渉を嫌ってほぼ筆を絶ったが、おかげで戦後に戦争協力を追及されたり、アリバイとして「民主的」な作品を書くような煩わしい処世に追われず、新古典主義の粋を極めた作曲に集中できた。ヨーロッパ戦後前衛史観では新古典主義は音列主義と対立するかのように扱われてきたが、これはシェーンベルクとストラヴィンスキーの個人的対立に由来し、本来は歴史を俯瞰的に眺めて様式変遷を素材と看做す新古典主義こそモダニズムの本流に位置する。実際、ストラヴィンスキーはシェーンベルクの死に呼応するかのように音列技法を採用し、後期ヴェーベルンを受け継いだ優れた12音作品を書き続けた。ただし、ストラヴィンスキーやプーランクのような新古典主義は日本では受けが悪く、ヒンデミットやオルフのような新古典主義が主流だった。大澤壽人(1906-53)のフランス新古典主義とジャズを融合した才気溢れる作品が理解されるはずもない。

しかし黛は《涅槃交響曲》の先に進むことはなく、この作品を生んだ日本の伝統への関心も右寄りの政治活動に収束し、程なく活動の中心をそちらに移した。諸井も《協奏組曲》を乗り越えることはできず、《竹藾五章》(1964) で前衛書法を尺八に適用する新たな方向性を打ち出したが、この曲を契機に戦後前衛の枠を超えて広がった邦楽器ブームに埋没し、70年代半ばには音楽文筆に活動の中心を移した。国際的にも、モダニズムを突き詰めた創作は60年代初頭で飽和し、その先を独力で切り拓いた作曲家のみが前衛の終焉を超えて生き延びた。黛と諸井の華やかな活動の前に霞んだかに見えた柴田と入野は、日本伝統音楽との様式混合を通じて60年代半ばから再び存在感を示した。特に柴田は、《追分節考》(1973) に始まる日本民謡を素材にした合唱のためのシアターピースが創作のピークにあたる。

日本の総音列技法の使い手は諸井だけではない。松平頼曉(1931-)は作品表冒頭の《変奏曲》(1957) から、松下眞一(1922-90)も同時期に使い始めた。松平頼則も《右舞》(1957) で総音列技法、《蘇莫者》(1961) で管理された偶然性を使い始める。息子の頼曉への対抗意識もあったのか、雅楽のフィルターを通した独自様式で終生使い続けた。頼曉の場合はこの書法は出発点に過ぎず、独自のピッチ・インターヴァル技法を80年代初頭に確立するまでは、米国実験主義のさまざまな意匠を試みることになる。松下は60年代にピークを迎えたが、1965年からハンブルクに拠点を移したこともあって日本国内では相応の評価を受けられず、70年代に入るとペンデレツキらと並んでいち早く新ロマン主義に向かった。もうひとり特筆すべきは篠原眞(1931-)。彼も池内門下出身だが藝大を中退し、メシアン門下を皮切りにシュトックハウゼンの助手を経てユトレヒトのソノロジー研究所に落ち着いた。前衛書法をリアルタイムで吸収した彼は、70年代に入ると西洋楽器と邦楽器の融合に目を向けたが安易な折衷主義に陥ることはなく、《Egalisation》(1975) や《Cooperation》(1990) など、ポスト前衛の時代に本領を発揮した。また彼は、《Broadcasting》(1974) や《City Visit》(1979) など、GRMでフェラーリから学んだ経緯を彷彿とさせるミュジック・コンクレートでも異彩を放った。

現代芸術の世界は狭く、美術作家どうし、作曲家どうしは以前から面識があったが、1950年5月頃から武満徹(1930-96)と鈴木博義(1931-2006)が福島家のサロンに顔を出し、ジャンルを超えた交流が始まる。清瀬保二(1900-81)に師事していた武満と鈴木は同年、清瀬、松平、伊福部、早坂文雄(1914-55)ら「民族派」を糾合した「新作曲派協会」に参加した。同年末、親交のあった湯浅譲二(1929-)と秋山が新作曲派協会の発表会に足を運び、武満《2つのレント》(1950) を激賞し仲間に加わる。彼らは翌年の夏に芸術家集団「アトム」名義で展覧会を企画していたが、折良く瀧口から創作バレエ『生きる悦び』の制作を依頼され、「実験工房」(瀧口の命名)として活動を始めた。やがて武満は早坂の映画音楽の助手を始め、早坂に師事していた佐藤慶次郎(1927-2009)も1953年に参加する。5人ともほぼ独学、音楽学校出身者はいない。湯浅に至っては新作演奏会に足を運ぶうちに、「この程度なら俺でも書ける」と作曲を志したという。パンクムーヴメントの時代に「この程度なら…」と音楽を志した人々は実験的ポピュラー音楽の中興の祖になった。歴史は繰り返す。

武満は満州引揚者の家庭に生まれ、米軍キャンプで働いてようやく高校を卒業するハングリーな少年時代を過ごした。彼のキャリアで特筆すべきは、現代音楽と映画音楽の経験を並行して積み、どちらの分野でも日本の頂点に立ったことである。公的に認知される前は早坂らの映画音楽の助手と独自のミュジック・コンクレートを通じて双方の仕事の基礎を身に着け、映画音楽では中村登監督の50年代後半の作品、現代音楽では「20世紀音楽研究所」コンクールへの入賞(1958) と同研究所参加を機に知られ始めた。映画音楽では勅使河原宏・羽仁進・篠田正浩ら、同世代の芸術指向の監督作品でミュジック・コンクレートや邦楽器を駆使し、映画賞の音楽部門の常連となって地位を確立した。現代音楽では《テクスチュアズ》(1964) の国際作曲家評議会コンクール1位、《ノヴェンバー・ステップス》(1967) のNYPからの委嘱と海外での評価が逆輸入される形で評価を確立した。以後の彼は、現代音楽祭「Music Today」の運営など、プロデュースにも才能を発揮した。
湯浅は郡山の代々医者の名家で生まれ育ち、武満のように貪欲な自己プロデュースは行わなかったため認知は遅れたが、諸井の電子音楽制作が一段落しNHK電子音楽スタジオが在野の作曲家にも門戸を開き始めた時期に、ホワイトノイズのフィルタリングという独自の手法で制作した《プロジェクション・エセムプラスティク》(1964) が、シュトックハウゼンにも「エニグマティックな音楽」と評され、ようやく自己を見出した。この経験を経て音楽を時間と周波数の2次元グラフで作曲する書法にクセナキスとは独立に到達し、この手法を推し進めた最初の代表作《イコン》(1967) の後、この書法を通常の器楽曲にも拡張してからは、《クロノプラスティク》(1972)、《芭蕉の情景》(1980/89) など、国際水準の作品をコンスタントに発表している。コンピュータ音楽研究で名高いカリフォルニア大学サンディエゴ校で1981-94年に教鞭を執り、アナログ電子音楽にもコンピュータ音楽にも通じた日本では稀少な現代作曲家となった。その最初の成果《夜半日頭に向かいて》(1984) は、福島作品の集中的紹介と並ぶ本演奏会の目玉だ。

この事情は実はヨーロッパでも変わらない。大半の国は第2次世界大戦が始まるとたちまちナチスに占領され、多くの若者が兵役に駆り出されたのは、ヨーロッパ大陸全土とアフリカ北部まで派兵し、最後は国土が戦場になったドイツ、ドイツの侵略を耐え抜いた旧ソ連、ドイツの上陸を許さなかった英国程度である(イタリアのファシスト党はナチスとは対照的に前衛芸術を擁護し、連合国軍がノルマンディに上陸した段階で政権を追われている)。実際、ドイツの戦後前衛第一世代はシュトックハウゼン(1928生)とシュネーベル(1930生)程度(カーゲルは戦後にアルゼンチンから移住)、旧ソ連の戦後前衛第一世代はデニソフ(1929生)とグバイドゥーリナ(1931生)程度、英国に戦後前衛第一世代は存在しなかった。実験工房の美術作家たちはみな1920-28年の間に生まれており、日本の戦後小説の多くはむしろ戦争体験から生まれた。伝統書法の作曲家はこの世代にも多く、前衛音楽を志向する個性のみが「軍隊的なもの」とは決定的に相性が悪いようだ。
本稿の執筆にあたり、川崎弘二さんにご協力頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。