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ケージ《南のエチュード》の奏法について

  「みんなで弾こうジョン・ケージ」シリーズ第3弾です。(第1回/プリペアド・ピアノ入門、第2回/《冬の音楽》について、cf.●ピアノ内部奏法入門 )。

ケージ《南のエチュード》の奏法について_c0050810_713653.jpg  ケージ《南のエチュード集》(1974年1月~75年12月作曲)は、第1巻~第4巻各々8曲ずつ、全32曲の曲集です。86楽器のための《黄道星図(アトラース・エクリプティカーリス)》(1961/62)の後に入手した、チェコ人天文学者アントニーン・ベジュハーシュの恒星図(全天球で16枚)等に基づき、《北のエチュード》(全4曲、1978)や《フリーマン・エチュード》(全32曲、1977-80/89-90)等と同様、易(八卦)を用いて作曲されました。
  ケージよりも6歳年長のユダヤ系ドイツ人ピアニスト、ヨハンナ・マルガレーテ・スルタン(グレート・サルタン、1906-2005)は、戦時亡命直後にケージと出逢い、バッハやベートーヴェンなどクラシックを演奏する傍ら、《ピアノのための音楽 53-68》《ピアノのための音楽 69-84》(1956)を献呈初演するなど、アメリカ実験音楽にも取り組みました。70歳を前にして《易の音楽》を練習するサルタンを目の当たりにし、「老齢の淑女がピアノの蓋を叩くのも如何かと思い」、通常の鍵盤奏法のみで書かれたのがこの《南のエチュード集》です。全曲の初演は1982年4月、独ヴィッテン現代室内音楽祭で、献呈者サルタンによって行われました。
  譜面は右手用2段(ト音記号+ヘ音記号)、左手用2段(ト音記号+ヘ音記号)の合計4段で書かれ、その(手の)配分は厳守しなければなりません。各曲それぞれ異なる低音部の鍵盤が静かに押さえられ、それにより仄かなハーモニクス(残響)音が発生します。テンポ、強弱、「出来るだけ長く伸ばす音符」の音価等は、奏者の解釈による不確定性に任されており、立ち上がるハーモニクスも、個々の演奏により全く違ったものとなります。第1巻では単音がメインですが、巻が進むにつれ、徐々に2音以上の和音が増えてゆく構成です。

  国際コンクールで、20世紀前半のエチュード(ラフマニノフ・スクリャービン・バルトーク・ストラヴィンスキー等)が指定されることがありますが、戦後現代曲の代表的エチュードはといえば、メシアン全4曲、リゲティ全19曲、そしてこのケージ《南のエチュード》全32曲に止めを刺すでしょう。もし仮に、現代ピアノ音楽専攻の大学院課程があったとしたら、メシアン《音価と強度のモード》、リゲティ《反秩序》、それにケージ《南のエチュード》から任意の一曲・・・あたりは必修になるのでは無いでしょうか。
  以下、尤度(ゆうど)が高いと思われる譜読み法について述べてみます。各曲の終わりの楔除去作業時以外は、私はどのペダルも使用しませんでした。

A.
 (0)「付録」の細かい譜面がある場合は、該当箇所近くに縮小して貼り付けます。
 (1)まず最初に、長く伸ばすべき音(白音符)を赤丸で囲みます(私は0.8mmサクラ水性pigmaを愛用)。
 (2)オクターヴ指定(8va)を鉛筆で囲います。次の手順(3)で、「指の届く範囲」を可視化するためです。
 (3)先ほどの赤丸の持続可能時間を、白音符の右横に赤線(横棒)で書き込みます。ケージ自身による持続指定もこのときフォローします。時間的にほとんど延ばす事の出来ない音も多いです。奏者の手の拡がりによって、持続時間は変化します(不確定性)。例外的に、片方の手の持続をもう片方の手で押えなおす指定もあります(見れば分かる)。
  「出来るだけ長く伸ばす音価」の尊重は、左右2段ずつの音符振り分けや、ハーモニクス用低音と同じ程度に、この作品の重要な仕掛けになっているので、しっかりチェックしましょう。短い音(黒丸)と長い音(白丸)の区別さえついていない演奏の、何と多いことか。
 (4)ケージ指定の黒い持続線を修正液で消します。赤い横棒をより目立たせることが出来ます。

B.
ケージ《南のエチュード》の奏法について_c0050810_9423443.jpg (1)《冬の音楽》の際と同様に、易経(乱数)によって強弱を決定し、鉛筆で書き込みます。《易の音楽》以降のケージ作品のスタイル、なかんずく関連作品《フリーマン・エチュード》に於ける強弱指定に鑑みれば、「その場の思いつきで強弱を付ける」「交差した手や跳躍の都合で決める」「倍音がきれいに響くように強弱を決める」、などという生ぬるい態度は有り得ません。D-(3)の作業(=音符の演奏順チェック)を先にしておいても良いでしょう。
  強弱決定への援用くらいですと、乱数(という手段)によるマイナス面は感じられません。興味深いことに、強弱決定により各々の演奏の「個性」は確保される一方、全体の印象は余り変わりません。《34分46.776秒》など他作品からの類推で、私は和音にはバラバラではなく一つの強度を設定しました。和音を1つとカウントした場合、右手と左手で一曲につき合計300~400ほどです(書き写し所要時間20分~30分)。100個代なのは第23番のみ、500個代は第9番と第29番のみです。
 (2)強弱を5色の蛍光ペン(ピンク/橙/黄/緑/青)で塗り分けます。キャップ式ではなくノック式のものが便利です。私の強弱設定は、ppp/pp/p/mp/mf/f/ff/fffの8種類でした。最も識別し易いと感じられる色分け法は、ppp/pp/pを青、mpを緑、mfを黄色(sfのたぐいも黄色)、fを橙、ff/fffをピンク、というものです。激しい跳躍を含む手の交差時に、細かい強弱記号などいちいち読み取っていられませんので、これは必須でしょう。
  乱数によって完全に無秩序にばらまかれた数百個の強弱の塗り分け順は、(i)まずp/pp/pppを青で塗り、(ii)次にff/fffをピンクで塗り、(iii)この時点で一文字のものはfのみで、それを橙で塗り、(iv)mfを黄色で塗り、(v)残り(mp)を緑で塗るのが、最も速いです。強弱を書き込む作業にくらべて、色塗り作業は簡単であり、一曲せいぜい15分です。
  こういった単純労働は非常に面倒ですし、助手か秘書に任せられれば・・と思いもしますが、しかし実のところ、これは譜読み作業にほかなりません。書き込み、すなわち、手作業をする程度の時間を取って、じっくり繰り返し音符を眺め続けることで、見知らぬ点々模様も、やがて音楽として立ち上がって来ます。

C.
  一段を8分割する「小節線」を書き込みます。跳躍時に譜面から目を離さざるを得ないので、小節線も軽く色分けしたほうが良いでしょう。私は、まず左端と中央線を黄緑で引き、1/4と3/4ラインを青(水色)で引き、残りを鉛筆で書き込みました。一枠4秒なら一曲4分16秒(全32曲で2時間17分)、一枠5秒なら一曲5分20秒(全32曲で2時間51分)です。せめて一枠単位の「テンポ」は、各個の曲内で遵守すべきでしょう。

D.
ケージ《南のエチュード》の奏法について_c0050810_1324871.gif  (1)架線で読みにくい音高を書き込みます。私はC~B/Hに、♯/♭を付け加える派です。ケージ作品に時折現れる密集パッセージでは、「re」「sol」等の音名では難しいでしょう。
  (2)《南のエチュード》の右手2段+左手2段による記譜は、慣れれば案外平気ですが、ただ、特に中2段(右手のヘ音記号と左手のト音記号)は混乱しやすいので、長い休みの直後などには音部記号を書き加えるのが安全でしょう。
  (3)各々の手の音群に、演奏順を示す線を鉛筆で薄く書き加えます。非常に密集したパッセージでも、各音符の「演奏順」が一応考えられていることが分かります。クセナキス《ミスツ》《コンボイ》等のスペース・ノーテーション部では、私は必ずしも音符の「演奏順」は守りませんでしたが(密度を優先するため)、《南のエチュード》では順番を遵守した上で、「出来るだけ速く」弾きました。
  (4)右手・左手をそれぞれ独立にグルーピングした後で、「小節線」の枠内に、さらにガイドが必要な箇所に縦線を書き加えます。これが有るか無いかで、弾き易さが全然違います。
  (5)持続音も無く明らかにフレーズの「休止」と見て取れるところに、呼吸マーク(V)を書き入れます。これが有るか無いかで、なぜか弾き易さが全然違います。
  (6)「付録」の沢山ついた第4巻の複雑な譜面では、さらに見開き中央(本の折り目)に肌色ライン、2段目と3段目の間に黄色ラインなどを書き込みました。

E.
  以上の作業後に、初めて楽器の前に座り、指遣いを決定します。
  持続音と強弱の都合を睨みつつ、右手と左手それぞれバラバラに指使いを決めます。その後、両手同時に弾いて、どちらの手が「上」か「下」かを調整しますが、先だって個別に決めた指使いは、ほとんど変更しないで済むようです。

F.
ケージ《南のエチュード》の奏法について_c0050810_445256.gif  ハーモニクス効果のために、曲の冒頭で静かに押えられる低音について。
  二つ方法があり、(α)ソステヌート・ペダルを踏む、(β)鍵盤の隙間に楔を差し込む、のどちらかを選択します。
  各曲の終わりにフェルマータが書かれているのは全32曲中わずか4曲なので、指定通りにハーモニクスを切り上げるためには、(α)がベターです。短所は、(i)右足で押えるにしろ左足で押えるにしろ、右手と左手の激しい交差中も確実にペダルを下まで踏み込み続けておかねばならない(案外足が浮いてしまうものである)、(ii)激しい手の交差その他の突発要素によりハーモニクス音をミスタッチした場合、演奏修復が困難である、(iii)どの音域をどの強度で弾いても完璧にソステヌートペダルが機能する楽器が会場に備え付けられているとは限らない(案外調整に穴があるものである)。
  (β)の場合は、以上(i)~(iii)の事故は起こり得ません。一方、曲の終わり方に工夫が必要となります。右手と左手のアクロバティックな交差も、この作品の醍醐味の一つなので、楔の除去作業(という視覚的要素)は悩みの種です。ハーモニクスの音数が最も多いのは第23番(8音)で、5音のものも3曲あります。除去作業が片手で済めば良いですが、その際に余計な音が出てしまう可能性もあり、私はつねに両手で一音ずつ除去しました。楔は消しゴムをカットして作成しました。楽器によって、「しっかりと安定して鍵盤が押し下げられ」、かつ「速やかに除去できる」楔のサイズは違っているので、注意が必要です。


  如何でしょうか。ここまでの作業はプロ・アマ・年齢問わず、ほとんど自動的・機械的に進められるものです(Diviser chacune des difficultés)。自称エキスパートが標榜する「創造的解釈」とやらも必要ありません。東洋テイストがどうしても欲しいなら、ピアノ椅子の上で座禅でも組めば宜しい(ペダル使わないし)。「この作品を通して世界を変革うんぬん」というケージの能書きは、1970年代にお洒落とされたファッションに過ぎません。


ケージ《南のエチュード》の奏法について_c0050810_1010832.jpg  ケージ《南のエチュード集》を取っ付きにくくしている原因は、記譜法もさることながら、全貌が概観しにくい点でしょう。一見似たような曲が多いのはリゲティのエチュードも同様ですが、あちらには個別に意匠を凝らしたタイトルが付けられています
  そこで、ベートーヴェンの32のソナタと関連付けてみる、という珍案を思い付きました。ロケット発射(Mannheimer Rakete)の如き上昇音型で始まる第1番(Op.2-1)。第1巻で最も音数が少なくハーモニクス数は最も多い――すなわち最も弾き易く親しみ易い第8番(Op.13『悲愴』)。疎密差が激しく美しい第14番(Op.27-2『月光』)。後半の開始を告げる颯爽とした第17番(Op.31-2『テンペスト』)。ハーモニクス数が最も多く響きの拡がる第23番(Op.57『熱情』)。全曲で最も演奏至難な第29番(Op.106『ハンマークラヴィア』)。第4巻で最も音数が少なく、チクルスを清澄に締めくくる第32番(Op.111)。「全部で32曲である」「第29番が一番難しい」、というのは、これで一発で覚えられましたね。
  リゲティの第5・8・11番に相当するのが、ケージの第8・11・13・23・32番等です。右手より左手が動くのは全体の約半数で、特に第13・24・25・26・31番あたりが顕著です。リゲティと違って、見開き2ページで一曲なのは、譜めくりも要りませんし有り難い。
  夜空を見上げても、最初はどれがサソリ座で射手座で大犬座なのか見当も付きませんが、ガイドがあれば小学生でも判別出来るようになります。《南のエチュード》の各曲も、それぞれに個性豊か、かつエキサイティングです。是非お試し下さい。

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cf.
ケージ《南のエチュード》の奏法について_c0050810_1093412.gifメシアン《音価と強度のモード》演奏法 [2005.07.02]
 ――総音列主義作品における種々のアタック/タッチ/音色の定義 (レガート、スタッカート、テヌート、ポルタート、ノン・レガート)
ブーレーズ《フルート・ソナチネ》《第1ソナタ》演奏法 [2006.05.26]
●M.シュパーリンガー《エクステンション》特殊奏法総覧
 ――その1 (序文/第1~第236小節) [2005.04.19]
 ――その2 (第237~コーダ) [2005.04.20]
 ――その3 (ヴァイオリン・パートについて/曲目解説)  [2005.04.20]
現代作品での譜めくり [2005.12.22]
クセナキス《シナファイ》 音源と概説 [2005.09.29]
同曲ライヴ映像についての雑記 [2007.08.01]
クセナキス《エリフソン》と《ホアイ》の素材援用について [2004.06.22]
サルでも見破れる現代音楽演奏 [2006.11.26]
演奏教育現場における現代音楽の効用・目的について [2006.12.08]
武満徹「実証研究」の諸相 [2006.12.03]
シュトックハウゼン追悼演奏会 [2008.10.20]
by ooi_piano | 2013-04-12 06:55 | POC2012 | Comments(0)

6月15日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第1回公演


by ooi_piano