※9年前、アルケミスタ・武田浩之氏のメルマガ用に執筆した、リサイタル紹介文のサルヴェージ第2弾です(未改訂)。
【使用楽器】ジャーマン・チェンバロ(J.Kalsbeek 2000年作/オランダ、ミートケモデル)、イタリアン・チェンバロ(A.Anselm/Umeoka 1999年作、17世紀タイプ)
CD批評・インタビュー集成は、木下健一氏のサイトにアップロード中 http://perso.wanadoo.fr/kinoken2/intv/intv_contents/ooi_menu.html
●作品解説
【第1部】
ヨハン・ヤコプ・フローベルガー 《来たるべき我が死を弔う黙祷》
1616年5月18日ドイツ・シュトゥットガルト生〜1667年5月7日フランス・モンベリャール没。ヴュルテンベルク宮廷楽長の息子として生れ、ウィーンにオルガニストとして赴任したのち、20代前半の数年間ローマでフレスコバルディに学ぶ。ウィーン・ブリュッセルを経て、パリでは若きルイ・クープランやリュート奏者のブランシュロシュ、シャンボニエールらと交友した。当時のイタリア音楽とフランス音楽の諸要素を絶妙に溶け合わせながらも、バッハからモーツァルト・ベートーヴェンに至る18世紀ドイツ音楽、ひいてはショパンさえ予告するような、情熱的な表現も魅力である。この 《来たるべき我が死を弔う黙祷(瞑想)》(跋語/メメント・モリ・フローベルガー)は、 組曲第20番の冒頭・アルマンド楽章として書かれ、彼の同種の標題音楽に倣って、自由なリズムで演奏される。
三宅榛名 《カム・バック・トゥ・ミュージック (チェンバロ版)》 委嘱作品/東京初演(2004)
中学在学時に東響とモーツァルトの協奏曲でピアニストとしてデビューしたのち、ジュリアード音楽院にて作曲をパーシケッティに師事。〈弦楽オーケストラの詩曲〉でエドワード・ベンジャミン賞。リンカーンセンターの新ホールこけら落し(1970)に作品委嘱されるなど、NYで作曲家のキャリアをはじめる。近作に〈憂愁の時——ダブル・コンチェルト〉、〈スノウ・ヴォイス〉(東京の夏音楽祭委嘱 '96)、〈滅びた世界から〉(国立劇場・声明公演委嘱 '97)など。『オリジナルはピアノ曲。'70年代に〈Why not, my baby?〉シリーズの1曲として作曲。古代の琵琶の音色を幻のように思い浮かべることで、この曲の最初の1行が始まった。今回のチェンバロ版は、大井浩明さんの演奏会のために、構成や音域等を含め、かなり書きかえた。全体を通して、5度の音程を中心としたノスタルジックなひびきが、くり返し形をかえてあらわれる。(三宅榛名)』
カルロ・ジェズアルド 《王のシャンソン》
1566年3月8日イタリア・ヴェノーザ生〜1613年9月8日没。シェイクスピアやカラヴァッジョとほぼ同世代にあたる。ヴェノーザの大公=王(プリンチペ)ならびにコンサ伯爵であり、不貞を犯した最初の妻を殺害したことでも有名。非常に裕福な大貴族であったため、音楽家が召使の身分であった時代に、誰憚ることなく大胆な不協和音や半音階技法など、やりたい放題の表現を試みることが出来た。保険会社社長であったチャールズ・アイヴスのケースを思い起こさせる。最晩年のストラヴィンスキーがジェズアルドに入れ込み、生誕400年を記念してマドリガーレ3曲を小管弦楽用に編曲している。カンツォン・フランチェーゼ(フランス風の歌、シャンソン)と付題されたこの鍵盤曲は、元は4声部コンソートとして構想されたらしい。突如現れる半音階的ディミニューションが極めて特徴的である。
ジャン=アンリ・ダングルベール 《パッサカリア》
1629年4月1日バル・ル・デュクにて受洗〜1691年4月23日パリ没。前半生は判然としないが、30歳頃にしばらくパリでオルガニストを勤めたのち、前任者シャンボニエールと取引し1662年にルイ14世付き宮廷チェンバリストに就任する。それ以前から、リュリ(映画『王は踊る』の主人公)との友情は厚かったらしい。何と言っても特徴的なのは、入念に書き込まれた渦巻くような装飾音で、ラモーやフランソワ・クープラン、そしてJ.S.バッハらが装飾法の規範とした。
ジョン・ボールドウィン 《天使は励ましの御言葉もて(セルモーネ・ブランドー)》
1560年以前に出生〜1615年8月28日ロンドン没。75年にウィンザー城・聖ジョージ礼拝堂のテノール要員、94年からロンドンの王室礼拝堂付きとなり、98年に正隊員に指名された。エリザベス1世の葬儀やジェームズ1世の戴冠式に、恐らくジョン・ブルとともに、聖歌隊メンバーとして参加した。ウィリアム・バード《ネヴェル卿夫人のヴァージナル曲集》の筆写者として知られている。1586年から1591年(1606年に補筆)にかけて書き溜められた、いわゆる「ボールドウィン備忘録(手写本)」所収のこの3声部のファンタジアは、ミラーノ大司教・聖アンブロシウス(4世紀)の賛歌『暁の光は赤く染まり』の後半、《御使は女等に慰め[励まし]の御告げを授けぬ/ 汝ら軈てガリラヤの地にて主に謁ゆるを得ん・・・》に始まる、福音書終盤の場面に基づいている。2:10:9、5:15:4といったポリリズム/ポリテンポが現れる箇所など、ムーシカ・スペクラーティーワ(思弁的音楽)の面目躍如である。
ミケランジェロ・ロッシ 《第七トッカータ》
1601年(あるいは02年)イタリア・ジェノヴァ生〜1656年7月7日ローマ没。作曲家、オルガニスト、そして「ヴァイオリンのミケランジェロ」と異名を取るほどヴァイオリニストとして高名であった。フレスコバルディの「後継者」とされることが多いが、同じローマの教会オルガニスト仲間として「同僚」と称すべきであろう。《試し弾き、投企、査問》を意味する動詞に由来した「トッカータ」というジャンルにふさわしく、うねりながら上昇下降を繰り返す有名な半音階パッセージが棹尾に現れるが、これは当時ベルニーニによって建立されたばかりのサンピエトロ大伽藍の螺旋柱を模している、とも言われる。
ジョン・ブル 《主の御名に於いて 第IX》
1562年(あるいは63年)英ウェールズ生〜1628年3月12日(あるいは13日)アントワープ没。当時を代表する鍵盤ヴィルトゥオーゾであるのみならず、オルガン建造家としても名を成した。ヘレフォード主教座聖堂オルガニストを経て、1586年1月王室礼拝堂楽員に指名。宗教上のスキャンダルで1613年にブリュッセルへ出奔、晩年の11年間はアントワープ主教座聖堂オルガニストを務めた。《主の御名に於いて(イン・ノミネ) 第IX》では、ジョン・タヴァナーのミサ曲からの定旋律低声部の上に、4分の11拍子の変奏が展開され、終わり近くには4分の16+1/2拍子のガリアードが現れる。
ジロラモ・フレスコバルディ 《パッサカリアによる100のパルティータ》
1583年9月9日イタリア・フェラーラ生〜1643年3月1日ローマ没。初期バロック音楽を代表する大作曲家。25歳から死去するまでローマのサンピエトロ大聖堂のオルガニストを、またマントヴァやフィレンツェの宮廷オルガニストも勤めた。この作品におけるパルティータとは、よく知られた低音進行による変奏曲群を指す。1つのパルティータはおおよそ4秒〜8秒程度の断片であり、「パッサカリア」のみならず「コレンテ」「チャコーナ」といった舞曲、また旋法や表向きのテンポ感をめまぐるしく移行しながら、碗コ蕎麦のように120余りの変奏を行う。今回は、当時の拍節法理論から導かれた、統一テンポによる解釈を試みる。
【第2部】
伊左治直 《機械の島の旅(夜明け)》 委嘱作品/東京初演(2004)
1995年東京音大大学院修士課程修了。在学中、作曲を西村朗氏に、音楽学(中世西洋音楽史)を金澤正剛氏に師事。日本音楽コンクール第1位、第5回芥川作曲賞、第8回出光音楽賞等、受賞多数。00年、ラジオオペラ「密室音響劇《血の婚礼》」(F・ガルシア・ロルカ原作)製作。01年、「音楽の前衛?〜ジョン・ケージ上陸」にてアートディレクター。02年、「南蛮夜会-伊左治直 個展」開催。03年、Music from Japan委嘱作品初演(NY)。ジャック・タチ監督映画「プレイタイム」70mm版プレミア上映会にてプレ・コンサートを開催。『大井浩明氏の委嘱により作曲。5月に初演されたバロック・オルガン曲「機械の島の旅(黄昏)」と対になっている。南米やギリシャのロードムービーへの興味が、タイトルに繋がっている。勿論「機械の島」には『からくり楽器』としてのチェンバロそのもののイメージもある。また、タイトルとは別に、かねてより興味のある安土桃山文化、特に、南蛮様式を取り入れた幻の城、安土城の様々な復元案にも触発されている。曲中現れるバラードはJohannes Olivierの「Si concy gist」のスタイルをそのまま踏襲している。(伊左治直)』
ゲオルク・ムファト 《パッサカリア》
1653年6月1日フランス・メジェーヴで受洗〜1704年2月23日ドイツ・パッサウ没。スコットランド人を祖先に持ち、フランスに生まれ育ったが、自身はドイツ人であるとしていた。10代の6年間、パリにてリュリに師事。20代の終りには、ローマにてパスクィーニに師事、またコレッリと交友を結ぶ。ストラスブール、ウィーン、プラハ、ザルツブルクでオルガニストを勤めた。フランス風ロンド形式とイタリア風自由変奏曲を組み合わせたこの《パッサカリア》は、18〜19世紀には人口に膾炙していたらしく、その後のドイツ音楽の様々な種子を見出すことが出来る。
高橋悠治 《糸車打令》 (1978)
1938年9月21日鎌倉生れ。1954年〜58年桐朋学園にて柴田南雄と小倉朗に作曲を師事。米フォード財団の助成により1963年〜66年ベルリンにてクセナキスに師事。66年に米ロックフェラー財団によりニューヨークに渡りコンピュータによる作曲に従事、1972年まで米国に滞在。1973年の「メアンデル」以降、アジア伝統音楽や左翼思想に根ざした作品を多く書いている。「糸車打令(Mullae Taryong=まわれまわれ糸車)」は、朝鮮半島の平安道と全羅道につたわる綿紡ぎ歌に基づく。12拍子のチュンモリ・チャンダン(長短 = 歌や踊りにおける時間の流れの伸縮、調子)を基にしながら、自由リズムの変奏と即興によって綴られている。
「糸車よ 糸車よ ウィンウィン廻れ /ウォリロン スォリロン よく廻るね /三合糸を抜いて ソクセ布を織ろうか /一本糸を抜いて ポルム布を織ろうか」。
ウィリアム・バード 《パヴァンとガリアード第5番》
1543年頃英リンカーン生〜1623年7月4日エセックス没。イギリス・ルネサンス期を代表する作曲家。20歳でリンカーン主教座聖堂オルガニスト、29歳で王室礼拝堂オルガニストに任命される。1575年には師トマス・タリスとともに楽譜の印刷・販売独占権の許可を得るなど、エリザベス1世から手厚い庇護を受けた。パヴァン(パヴァーヌ)は2拍子系の荘重な宮廷舞曲。3つの部分に分かれ、それぞれが主部とその変奏となっている。男女のペアによる踊り手の行列が、ゆったりと舞踏会場を周回する。一方、ガリアード(ガリアルド)は3拍子系の快活なダンス。剣と帽子をはずし、かかとをあげて片足で飛び跳ねる。《ネヴェル卿夫人のヴァージナル曲集》に収録された一品。
コンロン・ナンカロウ 《自動ピアノのためのスタディ第6番「カウボーイ」&第15番「カノンX」》 (1950s)
1912年10月27日アメリカ・テクサカナ生、1997年8月10日メキシコ・シティ没。生地の市長をしていた父の希望により、技術者となるべくヴァンダービルト大学で学んだのち、シンシナティ音楽院在籍中の18歳のときにストラヴィンスキー「春の祭典」と出会い、その複雑なリズムに魅了される。また、アート・テイタム、アール・ハインズといったジャズ・ピアニストや中世イソリズム技法、インドのターラ等にも影響を受けた。共産党員としてスペイン市民戦争に参加、リンカーン部隊で九死に一生を得る。帰国したのち、赤狩りを逃れてメキシコに移住した。「複雑なポリリズムを実現するには、自動ピアノを用いれば良い」とのカウエル《新音楽の源泉》の記述にヒントを得、ニューヨークで購入したパンチ・ロール式自動ピアノ(チェンバロ的な、非常に短く乾いた音がする)のための「Study」シリーズを、生涯を通じて作曲し続けた。70歳を迎えた頃から欧米で高く評価され始め、1983年にジョン・マッカーサー財団から「Genius賞」(副賞30万ドル)を受賞。スタディ第6番では、4分の3拍子の呑気なメロディに、8分の4拍子と8分の5拍子を組み合わせた伴奏音型が絡む。スタディ第15番では、ひとつの声部が徐々に加速していき、他方は徐々に減速していく、という、「カノンX」のシンプルな形を採っている。
ヨハン・ヤコプ・フローベルガー 《ブランシュロシュ君の墓前に捧げる誄詞》
フローベルガーの親友であり、著名なリュート奏者であったシャルル・フルーリ(ブランシュロシュ卿)がパリの自宅で階段から転落して死去した際、その追悼曲として書かれた。シャルル(「C」harles)の頭文字Cの最低音から開始され、左手で弔鐘が打ち鳴らされる中、ブランシュロシュ(「B」lancheroche)をあらわすBの最高音の悲痛な詠嘆へ到達し、再び最低音Cへ崩れ落ちてゆく。リュートを模したチェンバロ表現の可能性はルイ・クープランの「小節線のない前奏曲」等へ受け継がれ、また「トンボー(墓)」と題されるジャンルは、ルクレールのヴァイオリン・ソナタを経て、ラヴェル「クープランの墓」や、デュカス・ルーセル・バルトーク・ファリャ・サティ・ストラヴィンスキー等による「ドビュッシーの墓」、そしてブーレーズ「プリ・スロン・プリ」における「墓(ヴェルレーヌの)」へ至っている。
大井浩明 チェンバロ・リサイタル 《天使は励ましの御言葉もて》
2004年6月30日(水)午後7時開演(6時半開場)
池袋・自由学園明日館 東京都豊島区西池袋2-31-3
【第1部〜中全音律のイタリアン・チェンバロで】
フローベルガー《来たるべき我が死を弔う黙祷》
三宅榛名《カム・バック・トゥ・ミュージック〜チェンバロ版(2004)》(委嘱作品/東京初演)
ジェズアルド《王のシャンソン》
ダングルベール《パッサカリア》
ボールドウィン《天使は励ましの御言葉もて》
ロッシ《第七トッカータ》
ブル《主の御名に於いて(イン・ノミネ) 第IX》
フレスコバルディ《パッサカリアによる100のパルティータ》
【第2部〜ジャーマン・チェンバロで】
伊左治直《機械の島の旅(夜明け)(2004)》(委嘱新作/東京初演)
ムファト《パッサカリア》
高橋悠治《糸車打令》
バード《パヴァンとガリアード第5番》
ナンカロウ《自動ピアノのためのスタディ 第6番「カウボーイ」&第15番「カノンX」》
フローベルガー《ブランシュロシュ君の墓前に捧げる誄詞》
【使用楽器】ジャーマン・チェンバロ(J.Kalsbeek 2000年作/オランダ、ミートケモデル)、イタリアン・チェンバロ(A.Anselm/Umeoka 1999年作、17世紀タイプ)
CD批評・インタビュー集成は、木下健一氏のサイトにアップロード中 http://perso.wanadoo.fr/kinoken2/intv/intv_contents/ooi_menu.html
【京都公演(2004年3月)の批評2篇】●『音楽の友』2004年5月号 p.182
こんなに刺激的で痛快なチェンバロの時空があるのだった。
現代ピアノ曲のCDでも海外で話題を集める大井浩明の、チェンバロを存分に聴けた夜だが、委嘱新作の世界初演1曲、日本初演2曲を含む全18曲という濃密で驚くべき内容。
すべてに触れる紙幅は与えられていないが、時代を縦横に行き来する曲並べ、ジャーマンとイタリアン両楽器の弾き分けは鮮烈。ここでは16世紀から21世紀までの作品が、ごく自然に顔を合わせ談笑している。
フローベルガーの品格と厳正なテンポ感、三宅榛名《カム・バック・トゥ・ミュージック》のチェンバロ版初演の淡々と気負いのない表現、エレディアのトッカータ風作品では眼も眩む恐るべき技巧を炸裂させ、バッハでは骨格を捉え構造を細密画で描き出して切れ味抜群、ナンカロウの自動ピアノのための作品で無機質に敷かれた音の軌道上に鄙びた情景を漂わせる絵心、ティエンスーの《ファン・タンゴ》の言葉遊びと洒落た音空間に気合で立ち向かうツバ迫り合いの妙。その他どれもこれも聴き手をゾクゾクさせる時間が続く。次回帰国時の京都ではピアノでまたも奇抜な企みがあるという。眼と耳が離せない。 (3月14日・青山音楽記念館バロックザール) 【響敏也】●『関西音楽新聞』623号 平成16(2004)年5月1日
「古典と新作の同居 モダニズム精神鮮やかに——大井浩明チェンバロ・リサイタル」
チェンバロは、歴史に精通した専門家の楽器と思われがちだが、古楽復興の出発点は、ロマン派への反発という、二十世紀のモダニズムだったはず。二台の楽器を使い、古典と新作を混ぜて弾く大井浩明は、そんなパイオニア精神を、鮮烈に思い出させてくれた。
全十九曲は、一応、前半が、楽器の可能性を試すトッカータ集、後半が舞曲集だが、どちらも、いわば「バロック的」な過剰と歪みの精神で、常識から逸脱してゆく。三宅榛名「カム・バック・トゥ・ミュージック」(日本初演)が、イタリアン・チェンバロから繊細な共鳴を引きだしたかと思うと、ジャーマン・スタイルの二段鍵盤をフル活用するために、ムファト「パッサカリア」やバッハ「六声(!)のリチェルカーレ」(「音楽の捧げ物」)へ遡る。後半でも、ジョン・ブルの変拍子(「主の御名に於いてIX」)と、ナンカロウ「自動ピアノのスタディ」(第6、15番)、ティエンスー「ファン・タンゴ」(日本初演)が、平然と同居していた。
また、ダングルベール「パッサカリア」の華麗な装飾音を、タイプライターのように連打するのは、チェンバロを「からくり楽器」と形容する伊左治直(「機械の鳥の旅“夜明け”」委嘱作初演)の発想に呼応しているのだと思う。
現代曲で名を馳せた大井の猛烈なヴァイタリティは、スイスで絶妙の企画力を身につけて、着実にパワーアップしていた。(3月14日、青山音楽記念館バロックザール) 【白石知雄】
●作品解説
【第1部】

1616年5月18日ドイツ・シュトゥットガルト生〜1667年5月7日フランス・モンベリャール没。ヴュルテンベルク宮廷楽長の息子として生れ、ウィーンにオルガニストとして赴任したのち、20代前半の数年間ローマでフレスコバルディに学ぶ。ウィーン・ブリュッセルを経て、パリでは若きルイ・クープランやリュート奏者のブランシュロシュ、シャンボニエールらと交友した。当時のイタリア音楽とフランス音楽の諸要素を絶妙に溶け合わせながらも、バッハからモーツァルト・ベートーヴェンに至る18世紀ドイツ音楽、ひいてはショパンさえ予告するような、情熱的な表現も魅力である。この 《来たるべき我が死を弔う黙祷(瞑想)》(跋語/メメント・モリ・フローベルガー)は、 組曲第20番の冒頭・アルマンド楽章として書かれ、彼の同種の標題音楽に倣って、自由なリズムで演奏される。
三宅榛名 《カム・バック・トゥ・ミュージック (チェンバロ版)》 委嘱作品/東京初演(2004)
中学在学時に東響とモーツァルトの協奏曲でピアニストとしてデビューしたのち、ジュリアード音楽院にて作曲をパーシケッティに師事。〈弦楽オーケストラの詩曲〉でエドワード・ベンジャミン賞。リンカーンセンターの新ホールこけら落し(1970)に作品委嘱されるなど、NYで作曲家のキャリアをはじめる。近作に〈憂愁の時——ダブル・コンチェルト〉、〈スノウ・ヴォイス〉(東京の夏音楽祭委嘱 '96)、〈滅びた世界から〉(国立劇場・声明公演委嘱 '97)など。『オリジナルはピアノ曲。'70年代に〈Why not, my baby?〉シリーズの1曲として作曲。古代の琵琶の音色を幻のように思い浮かべることで、この曲の最初の1行が始まった。今回のチェンバロ版は、大井浩明さんの演奏会のために、構成や音域等を含め、かなり書きかえた。全体を通して、5度の音程を中心としたノスタルジックなひびきが、くり返し形をかえてあらわれる。(三宅榛名)』

1566年3月8日イタリア・ヴェノーザ生〜1613年9月8日没。シェイクスピアやカラヴァッジョとほぼ同世代にあたる。ヴェノーザの大公=王(プリンチペ)ならびにコンサ伯爵であり、不貞を犯した最初の妻を殺害したことでも有名。非常に裕福な大貴族であったため、音楽家が召使の身分であった時代に、誰憚ることなく大胆な不協和音や半音階技法など、やりたい放題の表現を試みることが出来た。保険会社社長であったチャールズ・アイヴスのケースを思い起こさせる。最晩年のストラヴィンスキーがジェズアルドに入れ込み、生誕400年を記念してマドリガーレ3曲を小管弦楽用に編曲している。カンツォン・フランチェーゼ(フランス風の歌、シャンソン)と付題されたこの鍵盤曲は、元は4声部コンソートとして構想されたらしい。突如現れる半音階的ディミニューションが極めて特徴的である。

1629年4月1日バル・ル・デュクにて受洗〜1691年4月23日パリ没。前半生は判然としないが、30歳頃にしばらくパリでオルガニストを勤めたのち、前任者シャンボニエールと取引し1662年にルイ14世付き宮廷チェンバリストに就任する。それ以前から、リュリ(映画『王は踊る』の主人公)との友情は厚かったらしい。何と言っても特徴的なのは、入念に書き込まれた渦巻くような装飾音で、ラモーやフランソワ・クープラン、そしてJ.S.バッハらが装飾法の規範とした。
ジョン・ボールドウィン 《天使は励ましの御言葉もて(セルモーネ・ブランドー)》
1560年以前に出生〜1615年8月28日ロンドン没。75年にウィンザー城・聖ジョージ礼拝堂のテノール要員、94年からロンドンの王室礼拝堂付きとなり、98年に正隊員に指名された。エリザベス1世の葬儀やジェームズ1世の戴冠式に、恐らくジョン・ブルとともに、聖歌隊メンバーとして参加した。ウィリアム・バード《ネヴェル卿夫人のヴァージナル曲集》の筆写者として知られている。1586年から1591年(1606年に補筆)にかけて書き溜められた、いわゆる「ボールドウィン備忘録(手写本)」所収のこの3声部のファンタジアは、ミラーノ大司教・聖アンブロシウス(4世紀)の賛歌『暁の光は赤く染まり』の後半、《御使は女等に慰め[励まし]の御告げを授けぬ/ 汝ら軈てガリラヤの地にて主に謁ゆるを得ん・・・》に始まる、福音書終盤の場面に基づいている。2:10:9、5:15:4といったポリリズム/ポリテンポが現れる箇所など、ムーシカ・スペクラーティーワ(思弁的音楽)の面目躍如である。
ミケランジェロ・ロッシ 《第七トッカータ》
1601年(あるいは02年)イタリア・ジェノヴァ生〜1656年7月7日ローマ没。作曲家、オルガニスト、そして「ヴァイオリンのミケランジェロ」と異名を取るほどヴァイオリニストとして高名であった。フレスコバルディの「後継者」とされることが多いが、同じローマの教会オルガニスト仲間として「同僚」と称すべきであろう。《試し弾き、投企、査問》を意味する動詞に由来した「トッカータ」というジャンルにふさわしく、うねりながら上昇下降を繰り返す有名な半音階パッセージが棹尾に現れるが、これは当時ベルニーニによって建立されたばかりのサンピエトロ大伽藍の螺旋柱を模している、とも言われる。
ジョン・ブル 《主の御名に於いて 第IX》
1562年(あるいは63年)英ウェールズ生〜1628年3月12日(あるいは13日)アントワープ没。当時を代表する鍵盤ヴィルトゥオーゾであるのみならず、オルガン建造家としても名を成した。ヘレフォード主教座聖堂オルガニストを経て、1586年1月王室礼拝堂楽員に指名。宗教上のスキャンダルで1613年にブリュッセルへ出奔、晩年の11年間はアントワープ主教座聖堂オルガニストを務めた。《主の御名に於いて(イン・ノミネ) 第IX》では、ジョン・タヴァナーのミサ曲からの定旋律低声部の上に、4分の11拍子の変奏が展開され、終わり近くには4分の16+1/2拍子のガリアードが現れる。

1583年9月9日イタリア・フェラーラ生〜1643年3月1日ローマ没。初期バロック音楽を代表する大作曲家。25歳から死去するまでローマのサンピエトロ大聖堂のオルガニストを、またマントヴァやフィレンツェの宮廷オルガニストも勤めた。この作品におけるパルティータとは、よく知られた低音進行による変奏曲群を指す。1つのパルティータはおおよそ4秒〜8秒程度の断片であり、「パッサカリア」のみならず「コレンテ」「チャコーナ」といった舞曲、また旋法や表向きのテンポ感をめまぐるしく移行しながら、碗コ蕎麦のように120余りの変奏を行う。今回は、当時の拍節法理論から導かれた、統一テンポによる解釈を試みる。
【第2部】
伊左治直 《機械の島の旅(夜明け)》 委嘱作品/東京初演(2004)
1995年東京音大大学院修士課程修了。在学中、作曲を西村朗氏に、音楽学(中世西洋音楽史)を金澤正剛氏に師事。日本音楽コンクール第1位、第5回芥川作曲賞、第8回出光音楽賞等、受賞多数。00年、ラジオオペラ「密室音響劇《血の婚礼》」(F・ガルシア・ロルカ原作)製作。01年、「音楽の前衛?〜ジョン・ケージ上陸」にてアートディレクター。02年、「南蛮夜会-伊左治直 個展」開催。03年、Music from Japan委嘱作品初演(NY)。ジャック・タチ監督映画「プレイタイム」70mm版プレミア上映会にてプレ・コンサートを開催。『大井浩明氏の委嘱により作曲。5月に初演されたバロック・オルガン曲「機械の島の旅(黄昏)」と対になっている。南米やギリシャのロードムービーへの興味が、タイトルに繋がっている。勿論「機械の島」には『からくり楽器』としてのチェンバロそのもののイメージもある。また、タイトルとは別に、かねてより興味のある安土桃山文化、特に、南蛮様式を取り入れた幻の城、安土城の様々な復元案にも触発されている。曲中現れるバラードはJohannes Olivierの「Si concy gist」のスタイルをそのまま踏襲している。(伊左治直)』

1653年6月1日フランス・メジェーヴで受洗〜1704年2月23日ドイツ・パッサウ没。スコットランド人を祖先に持ち、フランスに生まれ育ったが、自身はドイツ人であるとしていた。10代の6年間、パリにてリュリに師事。20代の終りには、ローマにてパスクィーニに師事、またコレッリと交友を結ぶ。ストラスブール、ウィーン、プラハ、ザルツブルクでオルガニストを勤めた。フランス風ロンド形式とイタリア風自由変奏曲を組み合わせたこの《パッサカリア》は、18〜19世紀には人口に膾炙していたらしく、その後のドイツ音楽の様々な種子を見出すことが出来る。
高橋悠治 《糸車打令》 (1978)
1938年9月21日鎌倉生れ。1954年〜58年桐朋学園にて柴田南雄と小倉朗に作曲を師事。米フォード財団の助成により1963年〜66年ベルリンにてクセナキスに師事。66年に米ロックフェラー財団によりニューヨークに渡りコンピュータによる作曲に従事、1972年まで米国に滞在。1973年の「メアンデル」以降、アジア伝統音楽や左翼思想に根ざした作品を多く書いている。「糸車打令(Mullae Taryong=まわれまわれ糸車)」は、朝鮮半島の平安道と全羅道につたわる綿紡ぎ歌に基づく。12拍子のチュンモリ・チャンダン(長短 = 歌や踊りにおける時間の流れの伸縮、調子)を基にしながら、自由リズムの変奏と即興によって綴られている。
「糸車よ 糸車よ ウィンウィン廻れ /ウォリロン スォリロン よく廻るね /三合糸を抜いて ソクセ布を織ろうか /一本糸を抜いて ポルム布を織ろうか」。

1543年頃英リンカーン生〜1623年7月4日エセックス没。イギリス・ルネサンス期を代表する作曲家。20歳でリンカーン主教座聖堂オルガニスト、29歳で王室礼拝堂オルガニストに任命される。1575年には師トマス・タリスとともに楽譜の印刷・販売独占権の許可を得るなど、エリザベス1世から手厚い庇護を受けた。パヴァン(パヴァーヌ)は2拍子系の荘重な宮廷舞曲。3つの部分に分かれ、それぞれが主部とその変奏となっている。男女のペアによる踊り手の行列が、ゆったりと舞踏会場を周回する。一方、ガリアード(ガリアルド)は3拍子系の快活なダンス。剣と帽子をはずし、かかとをあげて片足で飛び跳ねる。《ネヴェル卿夫人のヴァージナル曲集》に収録された一品。
コンロン・ナンカロウ 《自動ピアノのためのスタディ第6番「カウボーイ」&第15番「カノンX」》 (1950s)
1912年10月27日アメリカ・テクサカナ生、1997年8月10日メキシコ・シティ没。生地の市長をしていた父の希望により、技術者となるべくヴァンダービルト大学で学んだのち、シンシナティ音楽院在籍中の18歳のときにストラヴィンスキー「春の祭典」と出会い、その複雑なリズムに魅了される。また、アート・テイタム、アール・ハインズといったジャズ・ピアニストや中世イソリズム技法、インドのターラ等にも影響を受けた。共産党員としてスペイン市民戦争に参加、リンカーン部隊で九死に一生を得る。帰国したのち、赤狩りを逃れてメキシコに移住した。「複雑なポリリズムを実現するには、自動ピアノを用いれば良い」とのカウエル《新音楽の源泉》の記述にヒントを得、ニューヨークで購入したパンチ・ロール式自動ピアノ(チェンバロ的な、非常に短く乾いた音がする)のための「Study」シリーズを、生涯を通じて作曲し続けた。70歳を迎えた頃から欧米で高く評価され始め、1983年にジョン・マッカーサー財団から「Genius賞」(副賞30万ドル)を受賞。スタディ第6番では、4分の3拍子の呑気なメロディに、8分の4拍子と8分の5拍子を組み合わせた伴奏音型が絡む。スタディ第15番では、ひとつの声部が徐々に加速していき、他方は徐々に減速していく、という、「カノンX」のシンプルな形を採っている。
ヨハン・ヤコプ・フローベルガー 《ブランシュロシュ君の墓前に捧げる誄詞》
フローベルガーの親友であり、著名なリュート奏者であったシャルル・フルーリ(ブランシュロシュ卿)がパリの自宅で階段から転落して死去した際、その追悼曲として書かれた。シャルル(「C」harles)の頭文字Cの最低音から開始され、左手で弔鐘が打ち鳴らされる中、ブランシュロシュ(「B」lancheroche)をあらわすBの最高音の悲痛な詠嘆へ到達し、再び最低音Cへ崩れ落ちてゆく。リュートを模したチェンバロ表現の可能性はルイ・クープランの「小節線のない前奏曲」等へ受け継がれ、また「トンボー(墓)」と題されるジャンルは、ルクレールのヴァイオリン・ソナタを経て、ラヴェル「クープランの墓」や、デュカス・ルーセル・バルトーク・ファリャ・サティ・ストラヴィンスキー等による「ドビュッシーの墓」、そしてブーレーズ「プリ・スロン・プリ」における「墓(ヴェルレーヌの)」へ至っている。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
1994年度青山音楽賞受賞研修成果披露演奏会
大井浩明 チェンバロ・リサイタル
2004年3月14日 京都・青山音楽記念館(バロックザール)
【使用楽器】
ジャーマンチェンバロ(J.Kalsbeek 2000年/オランダ、ミートケモデル)
中全音律イタリアンチェンバロ(A.Anselm/Umeoka 1999年/ 17世紀タイプ)*
第一部
J.J.フローベルガー《来たるべき我が死を弔う黙梼》
三宅榛名《カム・バック・トゥヘミュージック~チェンバロ版》(2004、日本初演)*
G.ムファト《パッサカリア》
C.ジェズアルド《王のシャンソン》*
S.アギレーラ・デ・エレディア《第八の旋法による戦争のティエント》*
伊左治直《機械の鳥の旅(夜明け)》(2004、委嘱新作・世界初演)
M.ロッシ《第七トッカータ》*
J.S.バッハ《音楽の捧げ物》より「三声のリチェルカーレ」
C.Ph.E.バッハ《クラヴィーア奏法試論》より「幻想曲ハ短調」
J.S.バッハ《音楽の捧げ物》より「六声のリチェルカーレ」
第二部
G.フレスコバルディ《パッサカリアによる100のパルティータ》*
高橋悠治《糸車打令》
W.バード《パヴァンとガリアード 第5番》*
J.ブル《主の御名に於いて 第Ⅸ》*
C.ナンカロウ《自動ピアノのためのスタディ》より 第6番 「カウボーイ」、第15番「カノンⅩ」
J.H.ダングルペール《パッサカリア》*
J.ティエンスー《ファン・タンゴ》(1984、日本初演)
J.J.フローベルガー《プランシユロシュ君の墓前に捧げる誄詞》*