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9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》

9/16第1回公演感想集:

○CLASSICA (飯尾洋一氏のブログ) http://www.classicajapan.com/wn/2013/09/170950.html
9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_911118.jpg「・・・よく考えてみると不思議な気もするんだけど、ベートーヴェンを古楽器オーケストラやモダン・オーケストラのピリオド寄り演奏で聴く機会はそれなりにあるのに対して、ソナタをフォルテピアノで聴く機会ってそんなにはないんすよね。オケのほうが興行的に大仕掛けなのに。なので、気分としては見たことのある光景を違う遠近法で見るような気分。モダンピアノ基準で眺めると、外枠であるキャンバスのサイズはうんと小さく見える。逆にキャンバスのなかに描かれた絵のサイズはうんと大きく見える。作家はキャンバスいっぱいいっぱいの枠を使ってはみ出さんばかりに絵を描いている。普段リサイタルの前菜にように配置されるベートーヴェンの初期ソナタが、巨大な楽想を持った作品として迫ってくる。・・・」

○澤谷夏樹氏(音楽学)のブログ: http://d.hatena.ne.jp/Gebirgsbach/20130917
9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_912341.jpg「・・・作曲年と楽器の製作年(この場合は本歌の楽器の生まれ年)との差は5年内に収まっている。音楽がいままさにそこに鳴り響くものであることも考え合わせれば、このシリーズでは「生まれたまま」のベートーヴェン《ピアノソナタ》を聴くことになる。/・・・・大井がフォルテピアノを弾くと、楽器は饒舌に語り出す。比喩としての「語り」ではない。文節(=分節)と子音とに彩られた文字通りの語りだ。右手と左手の音形の受け渡しに「対話」を感じるのはもちろん、単旋律からでさえ複数の登場人物のおしゃべりが聴こえてくる。たとえば第1番の第1楽章。単純な順次下行にさえ3人ほど役者が登場している。減衰の速さ・音域による音色の違いといったフォルテピアノの特性と、18世紀の分節法を鍵盤上に繰り広げる大井の指とが、演出家と役者の役割を果たしている。・・・」

○齋藤俊夫氏(音楽学)のブログ: http://d.hatena.ne.jp/MOGURAmaru/20130916
9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_9124368.jpg「・・・このフォルテピアノによって、ベートーヴェン、すなわち古典主義の完成によるその自己崩壊とロマン派の誕生を一手に引き受けてしまった「前衛作曲家」の音楽を、大井浩明という古楽と前衛のスペシャリスト(と言っても間違いはないと思うが)はどのようにリアライゼーションしたか。端的に形容するなら、「チャーミングな即物主義」という古典主義と「澄みきった轟音」というロマン主義の併存から、この二つの主義の勢力均衡状態の崩壊がこの第1から第4までのソナタで歴史的に俯瞰させられた、と言えよう。・・・」

ベートーヴェン:ピアノソナタ全32曲連続演奏会(全8回)  
~様式別・時代順のフォルテピアノ(古楽器)による~


淀橋教会・小原記念チャペル(東京都新宿区百人町1-17-8)
JR総武線・大久保駅「北口」下車徒歩1分、JR山手線・新大久保駅下車徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート13000円]

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 03(3377)4706 (13時~19時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付) http://www.opus55.jp/
第二回公演/2013年9月23日(月・祝)19時

使用楽器 ヨハン・ロデウィク・ドゥルケン(1795年頃、FF-g3)
[A=430Hz、1/6ヴァロッティ不等分律]
調律 太田垣至


9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_7193975.jpg〈チェンバロまたはフォルテピアノのための三つのソナタ、
アンナ・マルガレーテ・フォン・ブロウネ伯爵夫人へ、
ルイ・ヴァン・ベートーヴェンにより作曲献呈 〉



《演奏曲目》

■ソナタ第5番ハ短調Op.10-1(1795/97)[全3楽章]
Allegro molto e con brio - Adagio molto - Finale: Prestissimo

■ソナタ第6番ヘ長調Op.10-2(1797)[全3楽章]
Allegro - Allegretto - Presto

休憩(約15分)

■ソナタ第7番ニ長調Op.10-3(1797/98)[全4楽章]
Presto - Largo e mesto - Menuetto: Allegro - Rondo: Allegro

9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_9131283.gif■ソナタ第8番ハ短調Op.13《悲愴(Pathétique)》(1798)[全3楽章]
Grave / Allegro di molto e con brio - Adagio cantabile - Rondo: Allegro


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《ましてや今は遠き世に ―― 器楽の「復元」という試み》  杉本舞

9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_22143763.jpg  今でもよく覚えている。あれは私が中学生の頃、当時師事していたピアノ教師からベートーヴェンのソナタ第1 番作品2-1 を課題に出されたときのことだった。レッスンで指導を受けた後、自宅のグランドピアノでおさらいをしながら「なんでこんな曲なんだろう」と思ったのだ。ベートーヴェンの作品は総じて好きだった。第1 番も気に入って、よく練習した。なのに、弾けば弾くほどしっくり来ない。なんだか「うまくない」。飛んだり跳ねたり転がったりする音の流れに、教師の言うとおりのメリハリをつけて弾くのだが、何故か「鳴り過ぎているのにスカスカ」というような訳の分からないことになってしまう。もちろんそれは自分の演奏が下手糞すぎるからに違いないのだが、ピアノ教師の模範演奏を聞いても、市販のCD を聞いても、何かがちぐはぐのまま残るのである。どんな演奏なら自分の感覚にしっくりくるのかわからない。ベートーヴェンは何故こんな、どう弾いてもしっくりこないような曲を書いたのか。「ピアノソナタ」なのに、はたしてこの曲はピアノという楽器に寸法が合っているのだろうか。あるいはベートーヴェンのピアノソナタ自体がそもそも「こんなもの」なのか。それとも自分の感覚が変なのか。……結局、好きな曲なのに好みの演奏に出会えないまま曲のレッスンは終わってしまった。その後、私はとくに音大などに進学するわけでもなく、アマチュアとして趣味のピアノを自由に楽しんでいたわけだが、この漠然とした違和感は長く頭の片隅に残っていたのだった。

9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_22153083.gif ところが、2008年の京都公演で大井氏によるピアノフォルテ演奏を聴いたとき、十数年間に及ぶ疑問はあまりにもあっけなく溶け去ってしまった。シュタインのフォルテピアノは、飴細工のような質感の、みやびで繊細で大きすぎない、よく響く音を出していた。モダン・ピアノとはまったく違う方向性の表現力。モダンに比べて、ダイナミックレンジが制限されているのだけれど、それが良い。残響が大きすぎず、歯切れがよく、しかし鋭すぎないのが良い。フォルテピアノ上では、少ない音で構成されたシンプルな曲想は、鳴り過ぎることも切れすぎることもスカスカになることもなかった。形容しがたい艶のある音で綴られたソナタ第1 番は、まさしく楽譜上の表現の「寸法通り」だった。「なんだ、そういうことだったのか」と思った。何のことはない、単にこの曲はピアノ―― モダン・ピアノのための曲ではなかったという、ただそれだけのことだったのだ。

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9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_9143065.jpg 博物館へ足を運んだ際に、古い装置や機械が、ときには動く形で復元されているのを見たことがある人は少なくないでしょう。作品を作曲当時にできるだけ近い環境・文脈に置いて再現を試みるという意味で、このコンサートシリーズを含む古楽の演奏会は、博物館における「復元」展示に似ています。しかし、事態はより複雑です。器楽作品の再現は単なる事物の復元ではなく、楽器、演奏者、環境、楽譜という複雑に絡み合う要素を一度に再現する試みだからです。いざ楽器と演奏者をもってきて当時の状況を再現しようとしたとき、独特の問題が立ちふさがります。

 第一に楽器の再現性です。古楽器を含む歴史的機械が、本当に当時使われていたそのままの状態で復元されることは、まずありません。楽器には日々のメンテナンスにまつわる知識、老朽化に伴う補修に使われる技術などが必要で、これらは長年の間に必ず何らかの変化をこうむっているからです。

  第二に演奏法の再現性です。その曲を弾くとき、どのように身体を使うべきなのかは、伝わっている伝統的奏法、史料や作品の分析、楽器の機構による制約、そして自分の身体そのものによる制約などから推測するしかありません。
 ただし、器楽の場合、楽器の機構による制約そのものが復元を試みる際のヒントとなっている側面はあるでしょう。たとえば日本の伝統芸能である能は、現在ではゆっくりとした重い曲調や、強吟と呼ばれる唸るような謡い方がその特徴ですが、室町当時は曲によっては現在の半分以下という上演時間であったそうですし、強吟は存在しなかったと言われています。つまり、江戸期以前の能の上演スタイルは、現在とはかけ離れたものだったのです。しかし、史料も少なく、機械による制約といったヒントも残されていない今となっては、かつての姿の再現はおそろしく困難な試みとなっています。

9/23(月・祝) ベートーヴェン×フォルテピアノ 第二回公演 第5番~第8番《悲愴》_c0050810_9151055.jpg 第三に楽器と演奏者をとりまく環境の再現性です。楽器はどれくらいの大きさの部屋に置かれたのか。聴衆は何人くらいで、どこに座り、何をしながら(あるいは何もせずに?)聴いたのか。作曲者はどのような環境で弾かれることを想定し、実際に演奏者がどこで弾いたのか。聴衆なしに音楽がありえない以上、本当に当時の状況を再現するならば、この要素は無視できません。しかもフォルテピアノの場合、座る位置をたった数メートル変えるたけで、モダン・ピアノとは比べ物にならないほど聞こえる音に違いが出ます。例えば2008年7月の京都公演で、私は演奏者側の前から2 列目に座りましたが、その時には音はどこか少し遠くで鳴っており、強弱もそれほど感じられず、趣味良くこじんまりした印象がありました。しかし、反響板側に席を変えて残りを聴いたところ、音量は大迫力、機構の動作音も聞こえましたし、強弱のメリハリに至っては作品の差を超えた違いでした。このことは、ピアノフォルテがモダン・ピアノと同じ環境で聴かれた楽器でないということを示しています(皆さんも、ぜひ積極的に聞こえる音の変化を体感頂きたく思います)。

 結局、当時の完璧な「復元」は不可能なのです。しかし、それでも試みることに意味があるのは、楽譜に書きようのない、現代的演奏では欠落してしまう何かが、その中で緩やかに立ち現れるからにほかなりません。堆く積みあがった解釈と変革の上にあるモダン・ピアノによる音楽には、確かにそれ自身としての価値はあります。しかし、ひとときそれを忘れて、モダン・ピアノに無いきめ細かな音の膚触りや、現代とはまったく異質の美意識を味わうとき、我々は作曲者の語る言葉なきメッセージに一歩近いところにいるのです。

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by ooi_piano | 2013-09-17 14:56 | Beethovenfries2013 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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