《半音階的幻想曲の演奏に関する幾つかの所見》 F.C.グリーペンケルル
1.【はじめに】----------
バッハ一門は、たとえそれが極めて難しいバッハ作品であっても、一門特有の打鍵法によってのみ到達出るようなレベルにおける、演奏の清潔さ、軽やかさ、そして自由さを追い求めている。この演奏法はフォルケルの小冊子「J.S.バッハの生涯、芸術、作品」に描写されているが、これはまことに本物の、かつ明快な手ほどきである。それゆえ、このやり方に真剣に取り組み、ガチガチの先入観で誤った方向へ遁走せぬような分別ある者ならば、演奏手本や口頭レッスンなしでも、完璧に修得が可能であった。この訓練の要旨は以下のとおりである。
2.【バッハ・タッチの原理】----------
手の仕組みは、つかむ、という動作に向いている。つかむとき、親指を含むすべての指は手の内側へ曲がり、手に潜在する強さと安定性は、この動きで最も発揮される。他のあらゆる種類の指の動きは不自然であるか、あるいは、指を曲げないまま打鍵する動作のように、付随する筋肉の大部分が使われないままである。それゆえつかむという動作に沿って手を動かすあらゆる運動は、手の自然なありように適っているため、容易に、自由に、確実に遂行できるはずである。
いま述べた手の仕組みは、鍵盤楽器の打鍵において最も顕著に活かされる。上鍵と下鍵[注:現在のピアノにおける黒鍵と白鍵]の2列が上下にずらされて並び、それぞれのキーは同じ幅と長さを持っている。しかし、指の長さは同じではない。まずはこの事実により、同一平面上に指先が揃い、各指が互いに等距離となってだいたい一直線上にくる箇所にまで指を曲げることが、必要となる。指先を完全に一直線上に揃えることは大抵の手にとっては無理がかかることであるから、指先の並びを少し円弧状にすることは有益でさえある。なぜなら、親指を例外として、弱い指というのは短い指でもあり、たいていの鍵盤楽器の仕組みでは、[指を曲げて]キーの手前側の端を弾けば、[てこの原理から]最も楽にキーが作用するのであり、[打鍵する場所が]キーの奥になればなるほどより多くの力が要るからである。それに対して、手をどの位置でも内側に曲げていき、各々の指が[キーの底を]を垂直に打鍵するようにし、そして指の根元の関節が決してへこまず常に手首・下腕・肘とともに直線をなすようにすると、この意図された動きには非常に有益であろう。
しかしながら、指によって強さと柔軟さが違うので、指を曲げるだけではない人為的補助が必要である。その補助無しには、たとえ最大限の努力で絶え間なく精勤したとしても、何人も薬指と小指が弱い、という自然の障害に打ち勝てない。J.S.バッハは補助として、手と腕の重みを利用することを考え出した。誰でも[指先に伝わる]腕の重みというものは、同じ強さを保持したり、あるいは全く意のままに難なく増減することが出来る。この重みを支えられないほど、指は弱いものではない。薬指と小指は、各指が本来持つ弾力性を活かしさえすれば、人差し指や中指と同じ強さで重みを支えることも、また同様に重みを鍵盤へ伝えることも出来る。 打鍵時における、手の重みと[指の]弾力性の最も深遠なる結び付きこそが、バッハ芸術における鍵盤演奏法で最も本質的なことである。[この文章が全文で最も強調されて印字されている]。これは以下のやり方で達成出来る。
3.【バッハ・タッチの第一歩】----------
まず指を一本、キーの上に置き、[軽すぎず重すぎない]適切な腕の重みを「支え」として利用しよう。 硬直したり堅くなったりしないように、つねに指を引っ込められるつもりでいること。そのとき、引っ込めようという意図に対して、比較的強められた手と腕の重みがそれを妨げず、また逆に、指を引っ込めるために用いられる力が、腕の重みに対して弱すぎないようにして、指が遅滞なく手の中へ戻ることが出来るようにせよ。手首が指の付け根と同じ高さ、そして指の第2関節よりはかなり高い位置にあって不動状態を保ってないと、このポジションは不可能である。正しいポジションのためには、小指は関節を伸ばしてほとんどキーに直立し、親指は[内側に軽く]曲げられキー上に置かれる。と同時に、他のあらゆる部分の関節はゆるめられている[注5]。肘の関節は自由に解き放たれ、打鍵中でない他の[4本の]指は、最寄りのキーから約6ミリ(4分の1インチ)ほど上空に静かに待機している。 もしキーから指までの距離がもっと大きければ、望むべき静けさは失われ、有害で不必要な緊張が出てしまう。1番目の指の次に、2番目の指(どれでもよい)で打鍵しようとする時、2番目の指が1番目同様に、つかみながら[腕の重みを]支えられるような形になるように意識せよ。よって、2番目の指は打鍵する前に、すでに打鍵予定のキーの上空に一定の緊張をもって待機していること。それから、1番目の指に(記述したごとく)先だって働いていた支えの力を、最大速度とともに2番目の指に移すのである。そのためには、1番目の指を素早く弾力性をもって引っ込め[=シュネレン]、2番目の指を同じ重さでもってキーの上へ跳ね乗せるしかない[注6]。いま述べられた動作が、速度と正確さと繊細さをもって実践される限り、このやり方で発音された音は、地上的・肉体的な不自由さを持たず、あたかも大気のなかから自由に、聖霊がごとくに立ち現れたかのように鳴り響くであろうことは間違いない。しかし、この立ち現れ方こそが真の目的であり、演奏者の名技性に少なからず寄与するのだ。学習者がいま述べたやり方を、隣り合ったり離れたりしている左右両手の様々な指すべてで成し遂げられれば、そしてあらゆる考えられる変化形——強弱を変えたり、速くあるいは遅く、デタシェで弾いたりスラーにしたり[注7]でき、そしてそれが繊細さと確実性をもち、なんら不必要な肉体的努力をせずに済むようになるならば、彼はJ.S.バッハのタッチを手に入れているのだ。フォルケルが得たように、そして多くの人が彼から修得したように。
4.【種々の訓練課題】----------
初心者、あるいは熟達した者も、最も効率よくこの動作の練習を開始するには、以下のようにすること。
意図的な加圧や減圧無しに下腕の重みが機能するためには、最初は、肘の関節が全くゆるんでくつろいでなければならない。 このやり方で、各々の手で、様々な隣接する2音の練習を行う。
[譜例1]
と
[譜例2]
と
[譜例3]
まず人差指と中指の2本で始める。ゆっくりとそして素早く移動出来るまで必要なだけじっくりと続ける。そののち、親指と人差指、中指と薬指、薬指と小指の組み合わせで、同じ練習に取り組むが、その時、手のポジションを変えたり、長さの短い上鍵[黒鍵]で親指と小指を避けたりしないこと。ここで、人差指と中指に薬指を加え、以下のような上昇下降パッセージを。
[譜例4]
最初はゆっくり始め、それが努力無しに出来るようになれば、徐々に速くしてゆく。このようにして、親指・人差指・中指の組み合わせの他に、中指・薬指・小指も練習すること。指ごとのタッチの違いがもはや区別できなくなり、全てが完全に均等で独立しているように響くまで続ける。今度は薬指が必要な次の課題をさらうこと。
[譜例5]
親指・人差指・中指・薬指の組み合わせから始めて、それから人差指・中指・薬指・小指の組み合わせを。 そのあとに全5指のための次のような音型を。
[譜例6]
ほぼ全ての鍵盤流派に見られるように、移調も行うこと。長さの短い上鍵[黒鍵]の打鍵は、特別な練習が必要で、そのためには次のような音型を利用すること。
[譜例7]
最終的に全ての音階と分散和音で行う。 左手も[右手に]対応した指使いで同じ練習をすること。まず最初は左手だけで、それから右手と一緒に[注8]。
親指を使わず、残りの4本の指で練習しているとき、絶対に親指はキーの下にだらんと垂らしてはならず、キーの上空で打鍵を待機しているべきである。加えて、親指・人差指・中指の3指で練習中に、薬指と小指が空中へ突き上がっていたり、手の内側へ折り畳められたりすべきではない。 このような状況では、薬指と小指は同様にキーの上空に適当な距離をもって静かに待機しているべきである。
ここで述べられた練習を、下腕(肘から手首まで)の自然な重みと、まったく緩んだ肘の関節をもって行ったのちに、肘関節を使って加圧・減圧しながら、この重みを強くしたり弱くしたりすること。 最初は完全に同じ強さで、それから連続する音を徐々にcresc./decresc.する。大きくなり消えてゆく強度(フォルテとピアノ)のコントロールが、余計な努力無しに出来るようになるまで、そして特に指を打ちつけることなくフォルテが出せるようになるまで、これらの練習を続けること。
5.【訓練課題の次のステップ】----------
この準備課程を一通りをすませるには、初学者でも専心・熱心さ・才能に恵まれれば、2ヶ月を超える時間は要しないだろう。。引き続いて、J.S.バッハ自身による練習用小品が選ばれなければならない。なぜなら彼以外には僅かの作曲家しか左手に旋律線を割り当てていないからだ。もっとも適切なのは、インヴェンションの第1番と第6番である。その次に第12番、第11番、第5番が来る[注9]。また、半音階的幻想曲の32分音符の走句や、同種のものが援用されるべきである。学習者は自分が練習したいと思う各々の小品を、注意深く最初から最後まで見てみるべきであり、また最良の指使い、つまり最も快適な指使いについて熟考すべきであり、何物も偶然に任せてはならない。そしてその上で、最初から作品全体を難なく通して弾けるのが確信できるほどに、ゆっくりしたテンポで始めること。練習を続ければ、テンポは自然に速めてゆくことが出来よう。また、最初の作品の困難さがすっかり習熟されるまでは、次の曲へ急ぐべきではない。 この指示に従えない者は誰でも、疑いなく壁にぶつかっていたものだし、学習時間を倍増させ、自由さ・確実さ・自信をもって演奏する術を学ぶことはなかった。 加えるに、手の訓練を始めるにあたっては、フォルテピアノよりもクラヴィア[注10]が遥かに良い。なぜなら打鍵法の誤り全てがずっと容易に聞き取れるし、楽器よりも奏者に[結果が]左右されるからである。 [クラヴィコードから]フォルテピアノへ移行するのは全く難しく無い。というのは、フォルテピアノの打鍵法は[クラヴィコードと]同様でほとんど変更しなくてよい上に、不注意に弾いてもそれほど目立たないからである。これに異を唱える人は、おそらくクラヴィアを使い切れていないのだ、ただのフォルテピアノ演奏家が皆そうであるように。
学習者が、自らに課す音楽的訓練に真摯であり、J.S.バッハの全鍵盤作品について完全なる見識を得ることが不可欠だと思うならば、上級者向けの作品にいきなり取り組む前に、彼はまず初学者向けの傑作の全てを一通り学ぶことを決意すべきである。この初学者向けの作品群に分類されるものとして、なかんづく6つの小前奏曲集があり、その後に15の2声インヴェンション、そして15の3声シンフォニアが挙げられる。これら36曲すべてを同時に修得したものは誰でも、良い鍵盤奏者としての自信がつくだろうし、古今の鍵盤音楽でも歯が立たない曲はわずかだろう。J.S.バッハの4声と5声のフーガについては特別な準備作業を要するが、これにはバッハの4声コラールを入念で精巧にさらうことで切り抜けられる。
6.【メカニックから音楽へ】----------
この段階まででは、これで十分である。さて、我々はバッハ自身の打鍵法について語らねばならぬ。なぜなら精緻な演奏の追い求めるにはそれは欠くことが出来ないものであり、特に半音階的幻想曲とフーガにおいては、それ無しでは十分正確に演奏出来ないからだ。
打鍵法というものは、[言葉を]発音することにこそ比較出来る。美しい音楽的雄弁術のためには、演奏法のメカニズム全体を完全に制御した明晰さ・正確さ・確実性・容易さ以上のものが必要である。バッハの音楽作品の大部分は、あらゆる時代を通じて純粋な芸術的労作であるから、客観的に取り扱われねばならない。その演奏にあたっては、いかなる感傷性や気取り、流行、主観的・個人的なものは、一切行ってはならない。自らの心を芸術作品それ自体によって純粋に導かせる感受性も素養ももたずに、自分の感受性ないしその時代の[流行の]感性や表現法に、これらの作品は引き込む者は、誰でも間違いなく作品をゆがめ損傷するであろう。純粋に客観的な芸術表現は、しかし、なにより極めて難事であり、少数の者のみによって達成されないし理解されない。客観性の欠落は往々にして、美しい芸術作品への没頭から生じる、慎み深い理解と純粋な楽しみのかわりに、あやまった虚飾を発生させる[注11]。これら全ては、特に半音階的幻想曲について当てはまる。 この作品においては、現代のクラヴィア奏者が皆、自分の感覚に疑念を覚えるのも無理は無い。真の演奏の轍(わだち)にしっかり乗り入れるためには、表題ページに示されたとおりの伝統による幾つかの忠言を我慢して聞かねばならない。
7.【半音階的幻想曲のアルペジオ部】----------
ここで私は、我が至らなさが及ぶ限り、そして言葉と符号で可能な限りにおいて、その伝統を忠実に伝えようと思う。多言を割愛するため、ここに書かれていることを、理性をもって実践しようという全ての人に忠告しておくが、この校訂版を以前の版と一音符ずつ比べれば見出される異稿形は、思い上がった改竄としてではなく、連綿と伝えられてきた誠実な演奏を示唆するものとして、見なして頂きたい。
幻想曲の最初の2ページ、そして第3ページのアルペッジョ部まで[第1〜第26小節]は、音符が弾き潰れたりしない明瞭さと、揺ぎ無い和声感覚にもとづいて増減する濃淡をもって、一定の急速なテンポで、出来るだけ華麗にそして軽く演奏されなければならない。3連符に分割されたニ短調の和音を経た最初のアルペッジョへ移行する箇所だけはゆっくり開始し、アルペッジョを弾くための速さになるまで徐々に速くしてゆく。 他のアルペジオ部の間の経過句でも、同様である。
白い音符で書かれた和音によって示唆されているアルペッジョは、C.Ph.E.バッハの《正しいクラヴィーア奏法試論》によると、指を打鍵後もそのままにしておいて[=フィンガー・ペダル]、どの和音も2回上へ下へと分散させる、とある。しかしここでは例外的に、1回だけ上下させ、それぞれのアルペッジョの締めくくりの和音は一回上へ弾いて止めるほうが良い。指がキーを押さえ続けることは、レガートという言葉の追加によって示されている。言うまでも無いことだが、タッチは安定して繊細であり、また、速度と強さについては、明確な和声感覚による殆ど感知出来ないほどの漸次的変化を伴っており、そしてなかんづく和音の間は最大限に滑らかに連結されるべきである。和音の移り変わりについては、たいてい、先行する和音の、下から数えて最後から2番目の音から、次に続く和音の最初の音へと導かれるものである。しかしこれは常に必要なわけではない。先入観や軽率さに邪魔されることなく、これらのアルペッジョを学ぶ者なら、上記のようなことは全て、そしてさらに言葉で言い得る以上のことも、おのずと分かってくるものだ。白い音符のあいだに挿入された4分音符を見て、多くの人々は混乱するかもしれない。しかしここの解釈としてありうるのは一つだけであり、それによれば困難は何もないのだ。つまり、小節線は無視してよく、そして、この4分音符は、一つの音が変化した以外、その直前と全く同和音を繰り返すことの、短縮表現にすぎないのである。
8.【半音階的幻想曲のレチタティーヴォ部とコーダ】----------
レチタティーヴォの演奏一般については、周知であろう。ただ、ここでのレチタティーヴォが短音価の音符で記譜されているために、往々にして奏者は速い店舗で弾きがちであるから、ここで付言しておかなければならないが、これらの音符は、音価の合計を4拍の中に収めることのみを目的としているのである。表面的に視覚されるリズムは、ここでは音楽思考の内なるリズムとは全く異なっており、短い音価であっても、隣接した長い音価の音符と同じか、あるいはより遅いテンポでさえ弾くべきである。例えば最初のレチタティーヴォの終わりの64分音符のように。各々のレチタティーヴォ部分の最初の音は、短く示されているが、これはスタッカートにしたり緊迫させたりするのではなく、単に各々の部分が余拍で始まっており、2番目の音符こそにアクセントがあることを示している。レチタティーヴォ部分を分かち、また繋げている一つ一つの和音は、低音から上へとアルペッジョで弾かれるが、これはその箇所ごとの音楽的意味が求めるのに従い、時には強く、時には弱く、時には素早く、時には遅く、均等なタッチで奏すること。残りについては、指示も十分過ぎるほど書き込まているので、芸術的感覚をもって真摯に探求すれば、おのずと明らかであろう。
Senza misuraという言葉から最後までの持続低音(オルゲルプンクト)[第75〜79小節]は、極めて自由に、そして実に即興的な装飾音を伴って奏されるが、 しかしそれは、このような演奏のための作品と流儀に完全に精通している者だけが、敢行してよいものだ。J.S.バッハ自身は、和音間に見られる個々の音型を通じて、このような装飾音を指示した。その上に小さく印刷されている譜例は、参考として、フォルケルがときに自ら演奏し、また教えていたやり方である。両者の例を見れば、可能な装飾音の自由度の限界が知られよう。行間が読めない人々に申し上げたいのは、この結末部分の要諦は、これらの装飾的挿入句ではなく、和音の近くで半音ずつ下がってゆく8分音符であることである。各々の挿入句は、それゆえ8分音符の方へ流れ込んでゆくものであり、それ自身でなにか独立していると考えるべきではない。最後の和音は一番上の音から下へアルペジオし、徐々にリタルダンドする。
9.【半音階的フーガ】----------
フーガにおいて必要だったは、僅かな修正と符号追加だけであった。 近年の鍵盤音楽の流儀でテンポを規定し、いくつかの誤植を改善し、また古い記譜法のせいで読譜が困難であった箇所を、別の書き方に直して容易にした。技量と自由さと清潔さをもってこの作品を弾こうとするものは誰でも、C.Ph.E.バッハが父から学んだ運指法に慣れるべきである。それによると、走句を最も楽に弾ける指使いが、一番良い指使いである。親指と小指は、そのほうが楽で必然性があるなら、どんどん上鍵[黒鍵]にも使うべきだ。多くの新興理論家たちによる偏向した規則付けに反して、長い指の下に短い指をくぐらせ、そして短い指の上から長い指を越させても良いのだ。J.S.バッハはこのような指使いを練習するための小品を書いた。例えば2声インヴェンションの第5番であり、それは親指と小指を上鍵[黒鍵]に慣れさせるためのものである。その上、ほんの僅かな例外を除いて、このような運指法を使わずにバッハの偉大な鍵盤作品を上手く容易に弾くことは出来ない。
末筆ながら、ドイツ精神から流れ出た最も卓越した芸術作品の一つの演奏法についてのこの記述に、誰か立腹する者がいないよう望まれる。私の説明に半可通や欠落や誤謬を見出した人は、それを率先して誠実に強く批判してくれて構わないが、この素晴らしい芸術作品への愛と暖かさをも兼ね備えたものであって欲しい。正しい演奏法についての真正なるご指導ご教示は誰もが必要とするところのものであり、我々の側としてもそれを心からの感謝をもって受け止める所存である。
1819年4月10日 ブラウンシュヴァイクにて
F.グリーペンケルル
(この項続く)
1.【はじめに】----------

2.【バッハ・タッチの原理】----------
手の仕組みは、つかむ、という動作に向いている。つかむとき、親指を含むすべての指は手の内側へ曲がり、手に潜在する強さと安定性は、この動きで最も発揮される。他のあらゆる種類の指の動きは不自然であるか、あるいは、指を曲げないまま打鍵する動作のように、付随する筋肉の大部分が使われないままである。それゆえつかむという動作に沿って手を動かすあらゆる運動は、手の自然なありように適っているため、容易に、自由に、確実に遂行できるはずである。
いま述べた手の仕組みは、鍵盤楽器の打鍵において最も顕著に活かされる。上鍵と下鍵[注:現在のピアノにおける黒鍵と白鍵]の2列が上下にずらされて並び、それぞれのキーは同じ幅と長さを持っている。しかし、指の長さは同じではない。まずはこの事実により、同一平面上に指先が揃い、各指が互いに等距離となってだいたい一直線上にくる箇所にまで指を曲げることが、必要となる。指先を完全に一直線上に揃えることは大抵の手にとっては無理がかかることであるから、指先の並びを少し円弧状にすることは有益でさえある。なぜなら、親指を例外として、弱い指というのは短い指でもあり、たいていの鍵盤楽器の仕組みでは、[指を曲げて]キーの手前側の端を弾けば、[てこの原理から]最も楽にキーが作用するのであり、[打鍵する場所が]キーの奥になればなるほどより多くの力が要るからである。それに対して、手をどの位置でも内側に曲げていき、各々の指が[キーの底を]を垂直に打鍵するようにし、そして指の根元の関節が決してへこまず常に手首・下腕・肘とともに直線をなすようにすると、この意図された動きには非常に有益であろう。
しかしながら、指によって強さと柔軟さが違うので、指を曲げるだけではない人為的補助が必要である。その補助無しには、たとえ最大限の努力で絶え間なく精勤したとしても、何人も薬指と小指が弱い、という自然の障害に打ち勝てない。J.S.バッハは補助として、手と腕の重みを利用することを考え出した。誰でも[指先に伝わる]腕の重みというものは、同じ強さを保持したり、あるいは全く意のままに難なく増減することが出来る。この重みを支えられないほど、指は弱いものではない。薬指と小指は、各指が本来持つ弾力性を活かしさえすれば、人差し指や中指と同じ強さで重みを支えることも、また同様に重みを鍵盤へ伝えることも出来る。 打鍵時における、手の重みと[指の]弾力性の最も深遠なる結び付きこそが、バッハ芸術における鍵盤演奏法で最も本質的なことである。[この文章が全文で最も強調されて印字されている]。これは以下のやり方で達成出来る。
3.【バッハ・タッチの第一歩】----------

4.【種々の訓練課題】----------
初心者、あるいは熟達した者も、最も効率よくこの動作の練習を開始するには、以下のようにすること。
意図的な加圧や減圧無しに下腕の重みが機能するためには、最初は、肘の関節が全くゆるんでくつろいでなければならない。 このやり方で、各々の手で、様々な隣接する2音の練習を行う。

と

と

まず人差指と中指の2本で始める。ゆっくりとそして素早く移動出来るまで必要なだけじっくりと続ける。そののち、親指と人差指、中指と薬指、薬指と小指の組み合わせで、同じ練習に取り組むが、その時、手のポジションを変えたり、長さの短い上鍵[黒鍵]で親指と小指を避けたりしないこと。ここで、人差指と中指に薬指を加え、以下のような上昇下降パッセージを。

最初はゆっくり始め、それが努力無しに出来るようになれば、徐々に速くしてゆく。このようにして、親指・人差指・中指の組み合わせの他に、中指・薬指・小指も練習すること。指ごとのタッチの違いがもはや区別できなくなり、全てが完全に均等で独立しているように響くまで続ける。今度は薬指が必要な次の課題をさらうこと。

親指・人差指・中指・薬指の組み合わせから始めて、それから人差指・中指・薬指・小指の組み合わせを。 そのあとに全5指のための次のような音型を。

ほぼ全ての鍵盤流派に見られるように、移調も行うこと。長さの短い上鍵[黒鍵]の打鍵は、特別な練習が必要で、そのためには次のような音型を利用すること。

最終的に全ての音階と分散和音で行う。 左手も[右手に]対応した指使いで同じ練習をすること。まず最初は左手だけで、それから右手と一緒に[注8]。
親指を使わず、残りの4本の指で練習しているとき、絶対に親指はキーの下にだらんと垂らしてはならず、キーの上空で打鍵を待機しているべきである。加えて、親指・人差指・中指の3指で練習中に、薬指と小指が空中へ突き上がっていたり、手の内側へ折り畳められたりすべきではない。 このような状況では、薬指と小指は同様にキーの上空に適当な距離をもって静かに待機しているべきである。
ここで述べられた練習を、下腕(肘から手首まで)の自然な重みと、まったく緩んだ肘の関節をもって行ったのちに、肘関節を使って加圧・減圧しながら、この重みを強くしたり弱くしたりすること。 最初は完全に同じ強さで、それから連続する音を徐々にcresc./decresc.する。大きくなり消えてゆく強度(フォルテとピアノ)のコントロールが、余計な努力無しに出来るようになるまで、そして特に指を打ちつけることなくフォルテが出せるようになるまで、これらの練習を続けること。
5.【訓練課題の次のステップ】----------

学習者が、自らに課す音楽的訓練に真摯であり、J.S.バッハの全鍵盤作品について完全なる見識を得ることが不可欠だと思うならば、上級者向けの作品にいきなり取り組む前に、彼はまず初学者向けの傑作の全てを一通り学ぶことを決意すべきである。この初学者向けの作品群に分類されるものとして、なかんづく6つの小前奏曲集があり、その後に15の2声インヴェンション、そして15の3声シンフォニアが挙げられる。これら36曲すべてを同時に修得したものは誰でも、良い鍵盤奏者としての自信がつくだろうし、古今の鍵盤音楽でも歯が立たない曲はわずかだろう。J.S.バッハの4声と5声のフーガについては特別な準備作業を要するが、これにはバッハの4声コラールを入念で精巧にさらうことで切り抜けられる。
6.【メカニックから音楽へ】----------
この段階まででは、これで十分である。さて、我々はバッハ自身の打鍵法について語らねばならぬ。なぜなら精緻な演奏の追い求めるにはそれは欠くことが出来ないものであり、特に半音階的幻想曲とフーガにおいては、それ無しでは十分正確に演奏出来ないからだ。
打鍵法というものは、[言葉を]発音することにこそ比較出来る。美しい音楽的雄弁術のためには、演奏法のメカニズム全体を完全に制御した明晰さ・正確さ・確実性・容易さ以上のものが必要である。バッハの音楽作品の大部分は、あらゆる時代を通じて純粋な芸術的労作であるから、客観的に取り扱われねばならない。その演奏にあたっては、いかなる感傷性や気取り、流行、主観的・個人的なものは、一切行ってはならない。自らの心を芸術作品それ自体によって純粋に導かせる感受性も素養ももたずに、自分の感受性ないしその時代の[流行の]感性や表現法に、これらの作品は引き込む者は、誰でも間違いなく作品をゆがめ損傷するであろう。純粋に客観的な芸術表現は、しかし、なにより極めて難事であり、少数の者のみによって達成されないし理解されない。客観性の欠落は往々にして、美しい芸術作品への没頭から生じる、慎み深い理解と純粋な楽しみのかわりに、あやまった虚飾を発生させる[注11]。これら全ては、特に半音階的幻想曲について当てはまる。 この作品においては、現代のクラヴィア奏者が皆、自分の感覚に疑念を覚えるのも無理は無い。真の演奏の轍(わだち)にしっかり乗り入れるためには、表題ページに示されたとおりの伝統による幾つかの忠言を我慢して聞かねばならない。
7.【半音階的幻想曲のアルペジオ部】----------

幻想曲の最初の2ページ、そして第3ページのアルペッジョ部まで[第1〜第26小節]は、音符が弾き潰れたりしない明瞭さと、揺ぎ無い和声感覚にもとづいて増減する濃淡をもって、一定の急速なテンポで、出来るだけ華麗にそして軽く演奏されなければならない。3連符に分割されたニ短調の和音を経た最初のアルペッジョへ移行する箇所だけはゆっくり開始し、アルペッジョを弾くための速さになるまで徐々に速くしてゆく。 他のアルペジオ部の間の経過句でも、同様である。
白い音符で書かれた和音によって示唆されているアルペッジョは、C.Ph.E.バッハの《正しいクラヴィーア奏法試論》によると、指を打鍵後もそのままにしておいて[=フィンガー・ペダル]、どの和音も2回上へ下へと分散させる、とある。しかしここでは例外的に、1回だけ上下させ、それぞれのアルペッジョの締めくくりの和音は一回上へ弾いて止めるほうが良い。指がキーを押さえ続けることは、レガートという言葉の追加によって示されている。言うまでも無いことだが、タッチは安定して繊細であり、また、速度と強さについては、明確な和声感覚による殆ど感知出来ないほどの漸次的変化を伴っており、そしてなかんづく和音の間は最大限に滑らかに連結されるべきである。和音の移り変わりについては、たいてい、先行する和音の、下から数えて最後から2番目の音から、次に続く和音の最初の音へと導かれるものである。しかしこれは常に必要なわけではない。先入観や軽率さに邪魔されることなく、これらのアルペッジョを学ぶ者なら、上記のようなことは全て、そしてさらに言葉で言い得る以上のことも、おのずと分かってくるものだ。白い音符のあいだに挿入された4分音符を見て、多くの人々は混乱するかもしれない。しかしここの解釈としてありうるのは一つだけであり、それによれば困難は何もないのだ。つまり、小節線は無視してよく、そして、この4分音符は、一つの音が変化した以外、その直前と全く同和音を繰り返すことの、短縮表現にすぎないのである。
8.【半音階的幻想曲のレチタティーヴォ部とコーダ】----------
レチタティーヴォの演奏一般については、周知であろう。ただ、ここでのレチタティーヴォが短音価の音符で記譜されているために、往々にして奏者は速い店舗で弾きがちであるから、ここで付言しておかなければならないが、これらの音符は、音価の合計を4拍の中に収めることのみを目的としているのである。表面的に視覚されるリズムは、ここでは音楽思考の内なるリズムとは全く異なっており、短い音価であっても、隣接した長い音価の音符と同じか、あるいはより遅いテンポでさえ弾くべきである。例えば最初のレチタティーヴォの終わりの64分音符のように。各々のレチタティーヴォ部分の最初の音は、短く示されているが、これはスタッカートにしたり緊迫させたりするのではなく、単に各々の部分が余拍で始まっており、2番目の音符こそにアクセントがあることを示している。レチタティーヴォ部分を分かち、また繋げている一つ一つの和音は、低音から上へとアルペッジョで弾かれるが、これはその箇所ごとの音楽的意味が求めるのに従い、時には強く、時には弱く、時には素早く、時には遅く、均等なタッチで奏すること。残りについては、指示も十分過ぎるほど書き込まているので、芸術的感覚をもって真摯に探求すれば、おのずと明らかであろう。
Senza misuraという言葉から最後までの持続低音(オルゲルプンクト)[第75〜79小節]は、極めて自由に、そして実に即興的な装飾音を伴って奏されるが、 しかしそれは、このような演奏のための作品と流儀に完全に精通している者だけが、敢行してよいものだ。J.S.バッハ自身は、和音間に見られる個々の音型を通じて、このような装飾音を指示した。その上に小さく印刷されている譜例は、参考として、フォルケルがときに自ら演奏し、また教えていたやり方である。両者の例を見れば、可能な装飾音の自由度の限界が知られよう。行間が読めない人々に申し上げたいのは、この結末部分の要諦は、これらの装飾的挿入句ではなく、和音の近くで半音ずつ下がってゆく8分音符であることである。各々の挿入句は、それゆえ8分音符の方へ流れ込んでゆくものであり、それ自身でなにか独立していると考えるべきではない。最後の和音は一番上の音から下へアルペジオし、徐々にリタルダンドする。
9.【半音階的フーガ】----------

末筆ながら、ドイツ精神から流れ出た最も卓越した芸術作品の一つの演奏法についてのこの記述に、誰か立腹する者がいないよう望まれる。私の説明に半可通や欠落や誤謬を見出した人は、それを率先して誠実に強く批判してくれて構わないが、この素晴らしい芸術作品への愛と暖かさをも兼ね備えたものであって欲しい。正しい演奏法についての真正なるご指導ご教示は誰もが必要とするところのものであり、我々の側としてもそれを心からの感謝をもって受け止める所存である。
1819年4月10日 ブラウンシュヴァイクにて
F.グリーペンケルル
(この項続く)