大井浩明リサイタル・シリーズ《時を得たメシアン Meantime Messiaen》
山村サロン(JR芦屋駅前)
2014年7月13日(日)午後6時
トリスタン・ミュライユは、1947年3月11日、仏ル・アーヴル生まれ。1966年、スコラ・カントルムのオンド・マルトノ・クラスに入学し、ジャンヌ・ロリオに師事。その演奏を聴いたメシアンから、作曲クラスの試験を受けることを勧められる。翌年、パリ国立高等音楽院作曲科に入学。1969/70年度は同音楽院オンドマルトノ科(モーリス・マルトノが教えた最終年度)にて第2メダルを、翌70/71年度はジャンヌ・ロリオが着任したクラスで第1メダルを獲得。1971年に作曲科を一等賞で卒業すると同時に、メディチ荘賞(旧・ローマ大賞)を受賞。クセナキス、シェルシ、そして何よりリゲティに私淑していた。音楽と並行して、フランス国立東洋言語文化研究所にて古典アラブ語および北アフリカ系アラブ語を、パリ政治学院にて経済科学も専攻する。1973年、ミカエル・レヴィナス、ロジェ・テシエと共に音楽家集団《旅程(イティネレール)》を設立。1980年よりIRCAM(フランス国立音響音楽研究所)にて研究を始め、1991年~97年は作曲を教えると同時に作曲援用プログラム《Patchwork》の開発にも従事。1997年~2011年、米コロンビア大学音楽学部教授。主な作品に、《大陸移動》(1973)、《マゼランの雲》(1973)、《記憶/侵食》(1975/76)、《ゴンドワナ》(1980)、《崩壊》(1982/83)、《セレンディブ》(1991/92) 、《流体力学》(1990/91)、《水の分断》(1995)、《冬の断章》(2000)、《都市伝説》(2006)、《残酷物語》(2007)、《七つの言葉》(2010)、ピアノ協奏曲《世界の幻滅》(2012)等。
《夢によって吊るされ磨かれた片眼のように》(1967)
1967年パリ音楽院入学試験のために作曲。36年後の2003年に出版、同年3月11日にニューヨーク・ミラー劇場でマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは作曲者の父である詩人、ジェラール・ミュライユ(1925-2010)の詩の一節から採られた。
《河口》(1971/72) ~第1曲「河岸で」 - 第2曲「汽水域で」
1972年出版、1974年5月15日ラジオ・フランスの生放送でマリー=セシル・ミランにより初演。セリエリズムの美学の元に、形容しがたい不定形・不確定さを描こうとした過渡的な試みであり、20世紀の作曲家よりはむしろフランツ・リストの書法に影響されたと云う。
《忘却の領土》(1977)
1977年出版、1978年5月22日ローマの楽友協会(アカデミア・フィラルモニカ)にて、ミカエル・レヴィナスにより献呈初演。ピアノを打楽器ではなく、「共鳴による残響ならびにハンマーの直接のアクションにより振動する弦の集合体」として扱うため、打鍵音は連続体の中に点滅する瘢痕に過ぎず、作品の主眼はあくまで共鳴する響きの変遷にある。《その響きは連続した「領土」を描き、それらは消滅する周波数という「忘却」によって縁どられる》。
《告別の鐘と微笑み~O.メシアンの追憶に》(1992)
1992年4月27日に死去した師メシアンを偲び、ドイチュラント放送(旧ベルリンRIAS)の委嘱によりムジークテクステ誌のメシアン追悼号のために作曲。同年6月出版、7月14日ヴィレヌーヴ・レ・ザヴィニョンにてドミニク・ミーにより初演。作曲者が愛用してきた鐘の響きが、メシアン晩年作品に現れる微笑むような階調に応答された後、メシアンが早世した母を悼んだ前奏曲《苦悩の鐘と告別の涙》の引用で締め括られる。
《マンドラゴラ》(1993)
矢沢朋子とフランス文化省の共同委嘱、1993年出版、同年11月27日東京文化会館で初演。マンドラゴラは中世に魔術・錬金術で用いられた不老不死の薬効を持つ植物で、ホムンクルス(人造人間)の形をした根茎を持つ。罪人が吊るされた絞首台の下に芽吹き、月が満ちた真夜中に摘み取らなければならない。曲はラヴェル《絞首台》を下敷きにしている。漫画「のだめカンタービレ」でパリ留学中の主人公が練習したことで有名になった。
《仕事と日々》(2002)
ハーバード大学・フロム音楽財団の委嘱、2002年出版、2003年3月11日ニューヨーク・ミラー劇場にてマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは、紀元前7世紀のギリシアの吟遊詩人、ヘシオドスの詩篇による。細部で関与し合う9つの断章から成る。《忘却の領土》にも現れたB-Cの9度音程のトレモロを中心に展開されるが、この共鳴を支える低音Fは最後まで登場せず、その結果、あたかも微分音調律を施されたような特殊な効果が発生する。
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メシアンと「スペクトル楽派」について(ミュライユを中心に) ―― 野々村 禎彦
メシアンは、作曲家であるとともに音楽教師でもある。周知の通り、創作のみで生計を立てられる作曲家は現代では極めて稀であり、多くの作曲家は音楽学校の教師を生業としているわけだが、なかでもメシアンは破格の存在だった。作曲家としてのメシアンの同世代には松平頼則(1907-2001) やカーター(1908-2012)、少し上にはダラピッコラ(1904-75) やペトラッシ(1904-2003)、少し下にはケージ(1912-92) やナンカロウ(1912-97) がおり、綺羅星の中のひとつとも言えるが、優れた弟子を輩出したという点で彼に並ぶ教師は見当たらない。人数ではナディア・ブーランジェも凄いが、弟子たちの音楽史的な重要性では彼には及ばない。
まず、戦後前衛第一世代を代表するクセナキス(1922-2001)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007) という、作風も音楽性も全く異なる3人を育てただけで尋常ではない。毒舌とともに秀才ぶりでも知られたブーレーズや、当時の流行書法だった全面的セリー技法を採用し、同じ道の先を行くブーレーズからも指導を受けたシュトックハウゼンはまだしも、他の教師たちから嘲笑され見放された劣等生クセナキスに「君は数学を知っている、なぜそれを作曲に応用しないのか?」と的確に助言し、20世紀でも有数の作曲家に引き上げたのは教師の鑑。この世代の全面的セリー技法の使い手として、ブーレーズ以外にフランスで特筆すべきジョラス(1926-) とバラケ(1928-73)、ミュジック・コンクレートの代名詞アンリ(1927-) と異端の鬼才フェラーリ(1929-2005)、彼らの次世代フランスを代表するマーシュ(1935-)、アミ(1936-)、メファーノ(1937-) もみなメシアンに学んだ。マーシュとアミはサントリーホール国際作曲委嘱シリーズでも取り上げられ、メファーノはアンサンブル2e2mを創設した指揮者としても名高い。
メシアン門下生の系譜はさらに続き、ポスト戦後前衛世代になると今回取り上げる「スペクトル楽派」の作曲家たちジェラール・グリゼー(1946-98)、トリスタン・ミュライユ(1947-)、ミカエル・レヴィナス(1949-) が登場する。ブーレーズらの世代では、メシアンは和声や分析を教える若手改革派であり、ブーランジェやミヨーら大御所教授陣を尻目に彼のクラスに入り浸った作曲家たちにとっては、「革命の同志の兄貴」だった。その輪に溶け込めなかったアンリやフェラーリは、彼らを見返すべく新しい潮流に身を投じ、また期待が失望に変わるとブーレーズのように「売春宿の音楽」と批判に転じることになる。戦後前衛第二世代になると歳の差は親子ほどに広がり、彼の作曲界での評価も高まって、「普通の師弟関係」になる。しかし、ミュライユらの世代になると、彼は教授陣でも古株になり始め、作曲界での地位の確立とともに戦後前衛との距離も明白になって、「時代から超然とした老大家」という位置に変化している。あえてそのような作曲家に師事するのは作風に惚れ込んでいるからであり、今度は師の影響からいかに抜け出すかが大きな課題になる。
1971年にはミュライユ、1972年にはグリゼーがローマ賞(正確にはパリ五月革命で廃止され、メディチ荘留学制度として実質的に復活したもの)を受賞し、2年間のローマ留学の間に現代音楽史の特異点と言えるシェルシ(1905-88) の音楽に出会ったことが、ふたりが師の影から羽ばたく契機になった。ひとつの音を果てしなく繰り返し、倍音構造に没入する即興演奏から素材を得るのがシェルシの「作曲」の特徴だが、師メシアンと同じく反復と音色探求を基調に、東洋趣味の強さまで共通していても、師とは似ても似つかない異様な音楽が生まれることは啓示だった。方法論さえ徹底すれば、感性まで取り替える必要はないはずだ。シェルシの即興をスペクトル分析や音響合成などの科学的アプローチに置き換え、リゲティ、シュトックハウゼン、クセナキスら「分析可能」な先人の書法を参照して「スペクトル楽派」の音楽は生まれた。ブレイクスルーにはシェルシの強烈な音楽が欠かせなかったが、「分析不可能」なので深入りはしない、という姿勢も優等生らしい。実際、楽派確立後の1975年にローマ賞を得たレヴィナスは、もはやシェルシのもとを訪れてはいない。
楽派成立当時の現代音楽の主流とは相当に隔たった音楽であり、スペクトル分析結果を加算合成で再現するためには自然倍音列に基づいた微分音調律も必要になるため、通常の現代音楽アンサンブルは彼らの音楽をなかなか取り上げなかった。そこで彼らは1973年に「アンサンブル・イティネレール」を自ら結成した。アンサンブル設立に関わり、今日でも広く知られているのは上記3人とユグ・デュフール(1943-) であり、彼らがスペクトル楽派の第一世代にあたる。ミュライユの父は詩人、レヴィナスの父はかの哲学者エマニュエル・レヴィナスであり、フランス知識層の人文学的伝統を受け継いでいるのもこの楽派の特徴だ。その中で、やや年長で哲学者でもあるデュフールが、楽派のスポークスマン的役割を担ったのは必然だった。「スペクトル楽派」という呼称も、デュフールが1979年の論文で使い始めたとされる。ただし、楽派の作曲家たちは、この呼称をあまり好んではいない。スペクトル分析の器楽曲への応用は、楽派結成当時でももはや目新しいアプローチではなく(彼らが《涅槃交響曲》(1957-58) など黛敏郎の先駆的作品を知っていたとは思えないが、チャウニングやリセのコンピュータ音楽草創期の試みは意識していたはずだ)、音響合成から視覚的要素の導入まで広がる、楽派の幅広い関心が矮小化されかねない。特にミュライユは、リアルタイム音響合成ソフトウェア「パッチワーク」の開発にも携わった技術者肌の職人なので、この呼称を忌み嫌った。彼の電子音楽へのスタンスは、「我々の世代はシェフェール(1910-95、ミュジック・コンクレートの創始者) よりもピンク・フロイドに多くを負っている」というものだけになおさら。
また、アンサンブル・イティネレールを自ら創設するところからも想像される通り、作曲家=演奏家が少なくないのもこの楽派の特徴である。《忘却の領土》を初演したレヴィナスは、自作や楽派の作品のみならず、古典から現代まで幅広いレペートリーを持ち、フルタイムで活動するピアニストである。ミュライユも、ジャンヌ・ロリオの次世代を代表するオンド・マルトノ奏者であり、この楽器のための作品も多い。メシアン《トゥーランガリーラ交響曲》の録音を眺めると、まずロリオ姉妹、次いでピアノが当時の若手(最初のメシアンコンクールの入賞者たち)に代わり、ラトルやサロネンの世代になるとオンド・マルトノもミュライユに代わっている。野平一郎(1953-) は、スペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりであり、日本人では最初の楽派のメンバーとして、パリ音楽院留学中の1981年にピアニストとしてアンサンブル・イティネレールに入団している。楽派第一世代はメシアン周辺のフランスの作曲家のみだが、第二世代になるとフランスのユレル(1955-)、ルルー(1959-)、ダルバヴィ(1961-) らに加え、イタリアのフェデーレ(1953-)、カスタニョーリ(1958-)、ストロッパ(1959-)、ロミテッリ(1963-2004) ら、フィンランドのサーリアホ(1952-) やリンドベルイ(1958-)、オーストリアのハース(1953-)、スイスのジャレル(1958-)、英国のベンジャミン(1960-)、日本の野平や田中カレン(1961-) と、一挙に国際化した。楽派の研究活動が、ブーレーズが創設した音響・音楽研究所IRCAMのプログラムになったことが変化の大きな要因である。
ここまで表・スペクトル楽派の歴史を眺めてきたが、その第一世代の同世代には、裏・スペクトル楽派と呼ぶべき作曲家たちも活躍し、この潮流をさらに豊かなものにした。まずは、ルーマニア出身のラドゥレスク(1942-2008) とドミトレスク(1944-)。ルーマニア民族音楽やビザンチン宗教音楽の倍音唱法をバックグラウンドに持ち、ラドゥレスクの場合は自然倍音列上の倍音唱法で構成されたシュトックハウゼン《シュティムンク》(1968) との出会い、ドミトレスクの場合はシェルシの音楽との出会いが決定的な契機となり、倍音構造に着目した作曲を始めた。表楽派は自然倍音列の比較的低次をアルペジオに開き、フランスの伝統に則した透明な書法を採るが、ふたりは自然倍音列のはるか高次にあたる、不均等調律された微分音がうごめく異様な音楽に辿り着いた。ラドゥレスクは70年代初頭にメシアンに師事して知遇を得、80年代初頭にはIRCAMのクラスに参加するなど、表楽派に近いところで活動して自らの音楽を広めようとしたが、ドミトレスクは表楽派初期のDIY精神を専ら参照し、1976年にはハイペリオン・アンサンブルを結成して独自路線を邁進した(結局、ラドゥレスクも1983年にルチェロ・アンサンブルを結成して同じ道に踏み込んだ)。ドミトレスクの慧眼はCDも自主制作し、実験的ポピュラー音楽のネットワークに乗せて頒布したことで、現代音楽業界よりもノイズ・ミュージック界隈で強く支持され、20枚を超えるCDで全貌を把握できる。
もうひとつは、ケルンのフィードバック・スタジオを拠点とする作曲家たち。創設者のフリッチュ(1941-2010、ドイツ)は、シュトックハウゼンの即興性の強い作品を演奏する通称ケルン・アンサンブルに草創期からエレクトロニクス奏者として参加し、共同創設者のD.C.ジョンソン(1940-、米国) とゲールハール(1943-、米国) もシュトックハウゼンの助手を経てアンサンブルに参加した。《マントラ》(1970) 以降、シュトックハウゼンの関心の中心が緻密な作曲に回帰したことを受け、エレクトロニクス即興の伝統を守るために彼らはこのスタジオを始めた。アナログ回路による即興で用いられる音響効果は倍音構造のコントロールに他ならず、探求の方向はスペクトル楽派におのずと近づく。マイグアシュカ(1938-、エクアドル) やバーロウ(1945-、インド) ら即興時代のシュトックハウゼンに導かれて集まった作曲家たちは出身国も幅広い。またハーヴェイ(1939-2012、英国) やヴィヴィエ(1948-83、カナダ) がしばしばスペクトル楽派の作曲家として扱われるのは、エレクトロニクス即興への関心や1970年前後にシュトックハウゼンに師事した経歴など、フィードバック・グループとの関連に由来している。表楽派の歴史でシュトックハウゼンの名前が挙がるのは、《グルッペン》《カレ》など「空間音楽」のオーケストレーションを通じてだが、裏楽派におけるシュトックハウゼンは、表楽派でのシェルシ以上に本質的な位置を占めている。
日本人では夏田昌和(1968-)、望月京(1969-) らが参加した、スペクトル楽派のその後を詳述する余裕はないが、ミュライユのその後は簡単にまとめておく。《忘却の領土》《夕暮れの13の諧調》(1978) で彼はひとつの頂点に達し、《崩壊》(1982-83) 以降は情報理論を積極的に取り入れて構造や推移の複雑化を図ったが、全盛期の瑞々しい音世界が無味乾燥な机上の空論に浸食されてゆく様子は痛々しい。そんな彼の転機になったのが、1997年に米国のコロンビア大学に移ったことだった。フェルドマンとケージが相次いで世を去り、新自由主義が広がる中で米国実験主義の基盤は急速に失われていったが、その荒野にはヨーロッパ前衛音楽への関心が静かに広がっていった。ポスト戦後前衛の二大潮流、「新しい複雑性」とスペクトル楽派を代表するファーニホウとミュライユは、米国に落ち着いてかつての輝きを取り戻した。ミュライユの場合、グリゼー追悼音楽《冬の断章》(2000) あたりが分水嶺となり、《仕事と日々》の充実は第二のピークと呼べるだろう。
山村サロン(JR芦屋駅前)
2014年7月13日(日)午後6時
第2回公演 トリスタン・ミュライユ全ピアノ作品
●ミュライユ(1947- ):《夢によって吊るされ磨かれた片眼のように》(1967、日本初演) 約6分
●同:《河口》(1971/72) 約10分
第1曲「河岸で」 - 第2曲「汽水域で」
●同:《忘却の領土》(1977) 約30分
(休憩 15分)
●ミュライユ:《告別の鐘と微笑み~O.メシアンの追憶に》(1992) 約3分
●同:《マンドラゴラ》(1993) 約10分
●同:《仕事と日々》(2002) 約30分
I. - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.
(※プログラムの一部に変更が御座います。)

《夢によって吊るされ磨かれた片眼のように》(1967)
1967年パリ音楽院入学試験のために作曲。36年後の2003年に出版、同年3月11日にニューヨーク・ミラー劇場でマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは作曲者の父である詩人、ジェラール・ミュライユ(1925-2010)の詩の一節から採られた。
《河口》(1971/72) ~第1曲「河岸で」 - 第2曲「汽水域で」
1972年出版、1974年5月15日ラジオ・フランスの生放送でマリー=セシル・ミランにより初演。セリエリズムの美学の元に、形容しがたい不定形・不確定さを描こうとした過渡的な試みであり、20世紀の作曲家よりはむしろフランツ・リストの書法に影響されたと云う。
《忘却の領土》(1977)
1977年出版、1978年5月22日ローマの楽友協会(アカデミア・フィラルモニカ)にて、ミカエル・レヴィナスにより献呈初演。ピアノを打楽器ではなく、「共鳴による残響ならびにハンマーの直接のアクションにより振動する弦の集合体」として扱うため、打鍵音は連続体の中に点滅する瘢痕に過ぎず、作品の主眼はあくまで共鳴する響きの変遷にある。《その響きは連続した「領土」を描き、それらは消滅する周波数という「忘却」によって縁どられる》。

1992年4月27日に死去した師メシアンを偲び、ドイチュラント放送(旧ベルリンRIAS)の委嘱によりムジークテクステ誌のメシアン追悼号のために作曲。同年6月出版、7月14日ヴィレヌーヴ・レ・ザヴィニョンにてドミニク・ミーにより初演。作曲者が愛用してきた鐘の響きが、メシアン晩年作品に現れる微笑むような階調に応答された後、メシアンが早世した母を悼んだ前奏曲《苦悩の鐘と告別の涙》の引用で締め括られる。
《マンドラゴラ》(1993)
矢沢朋子とフランス文化省の共同委嘱、1993年出版、同年11月27日東京文化会館で初演。マンドラゴラは中世に魔術・錬金術で用いられた不老不死の薬効を持つ植物で、ホムンクルス(人造人間)の形をした根茎を持つ。罪人が吊るされた絞首台の下に芽吹き、月が満ちた真夜中に摘み取らなければならない。曲はラヴェル《絞首台》を下敷きにしている。漫画「のだめカンタービレ」でパリ留学中の主人公が練習したことで有名になった。
《仕事と日々》(2002)
ハーバード大学・フロム音楽財団の委嘱、2002年出版、2003年3月11日ニューヨーク・ミラー劇場にてマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは、紀元前7世紀のギリシアの吟遊詩人、ヘシオドスの詩篇による。細部で関与し合う9つの断章から成る。《忘却の領土》にも現れたB-Cの9度音程のトレモロを中心に展開されるが、この共鳴を支える低音Fは最後まで登場せず、その結果、あたかも微分音調律を施されたような特殊な効果が発生する。
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メシアンと「スペクトル楽派」について(ミュライユを中心に) ―― 野々村 禎彦

まず、戦後前衛第一世代を代表するクセナキス(1922-2001)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007) という、作風も音楽性も全く異なる3人を育てただけで尋常ではない。毒舌とともに秀才ぶりでも知られたブーレーズや、当時の流行書法だった全面的セリー技法を採用し、同じ道の先を行くブーレーズからも指導を受けたシュトックハウゼンはまだしも、他の教師たちから嘲笑され見放された劣等生クセナキスに「君は数学を知っている、なぜそれを作曲に応用しないのか?」と的確に助言し、20世紀でも有数の作曲家に引き上げたのは教師の鑑。この世代の全面的セリー技法の使い手として、ブーレーズ以外にフランスで特筆すべきジョラス(1926-) とバラケ(1928-73)、ミュジック・コンクレートの代名詞アンリ(1927-) と異端の鬼才フェラーリ(1929-2005)、彼らの次世代フランスを代表するマーシュ(1935-)、アミ(1936-)、メファーノ(1937-) もみなメシアンに学んだ。マーシュとアミはサントリーホール国際作曲委嘱シリーズでも取り上げられ、メファーノはアンサンブル2e2mを創設した指揮者としても名高い。

1971年にはミュライユ、1972年にはグリゼーがローマ賞(正確にはパリ五月革命で廃止され、メディチ荘留学制度として実質的に復活したもの)を受賞し、2年間のローマ留学の間に現代音楽史の特異点と言えるシェルシ(1905-88) の音楽に出会ったことが、ふたりが師の影から羽ばたく契機になった。ひとつの音を果てしなく繰り返し、倍音構造に没入する即興演奏から素材を得るのがシェルシの「作曲」の特徴だが、師メシアンと同じく反復と音色探求を基調に、東洋趣味の強さまで共通していても、師とは似ても似つかない異様な音楽が生まれることは啓示だった。方法論さえ徹底すれば、感性まで取り替える必要はないはずだ。シェルシの即興をスペクトル分析や音響合成などの科学的アプローチに置き換え、リゲティ、シュトックハウゼン、クセナキスら「分析可能」な先人の書法を参照して「スペクトル楽派」の音楽は生まれた。ブレイクスルーにはシェルシの強烈な音楽が欠かせなかったが、「分析不可能」なので深入りはしない、という姿勢も優等生らしい。実際、楽派確立後の1975年にローマ賞を得たレヴィナスは、もはやシェルシのもとを訪れてはいない。

また、アンサンブル・イティネレールを自ら創設するところからも想像される通り、作曲家=演奏家が少なくないのもこの楽派の特徴である。《忘却の領土》を初演したレヴィナスは、自作や楽派の作品のみならず、古典から現代まで幅広いレペートリーを持ち、フルタイムで活動するピアニストである。ミュライユも、ジャンヌ・ロリオの次世代を代表するオンド・マルトノ奏者であり、この楽器のための作品も多い。メシアン《トゥーランガリーラ交響曲》の録音を眺めると、まずロリオ姉妹、次いでピアノが当時の若手(最初のメシアンコンクールの入賞者たち)に代わり、ラトルやサロネンの世代になるとオンド・マルトノもミュライユに代わっている。野平一郎(1953-) は、スペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりであり、日本人では最初の楽派のメンバーとして、パリ音楽院留学中の1981年にピアニストとしてアンサンブル・イティネレールに入団している。楽派第一世代はメシアン周辺のフランスの作曲家のみだが、第二世代になるとフランスのユレル(1955-)、ルルー(1959-)、ダルバヴィ(1961-) らに加え、イタリアのフェデーレ(1953-)、カスタニョーリ(1958-)、ストロッパ(1959-)、ロミテッリ(1963-2004) ら、フィンランドのサーリアホ(1952-) やリンドベルイ(1958-)、オーストリアのハース(1953-)、スイスのジャレル(1958-)、英国のベンジャミン(1960-)、日本の野平や田中カレン(1961-) と、一挙に国際化した。楽派の研究活動が、ブーレーズが創設した音響・音楽研究所IRCAMのプログラムになったことが変化の大きな要因である。

もうひとつは、ケルンのフィードバック・スタジオを拠点とする作曲家たち。創設者のフリッチュ(1941-2010、ドイツ)は、シュトックハウゼンの即興性の強い作品を演奏する通称ケルン・アンサンブルに草創期からエレクトロニクス奏者として参加し、共同創設者のD.C.ジョンソン(1940-、米国) とゲールハール(1943-、米国) もシュトックハウゼンの助手を経てアンサンブルに参加した。《マントラ》(1970) 以降、シュトックハウゼンの関心の中心が緻密な作曲に回帰したことを受け、エレクトロニクス即興の伝統を守るために彼らはこのスタジオを始めた。アナログ回路による即興で用いられる音響効果は倍音構造のコントロールに他ならず、探求の方向はスペクトル楽派におのずと近づく。マイグアシュカ(1938-、エクアドル) やバーロウ(1945-、インド) ら即興時代のシュトックハウゼンに導かれて集まった作曲家たちは出身国も幅広い。またハーヴェイ(1939-2012、英国) やヴィヴィエ(1948-83、カナダ) がしばしばスペクトル楽派の作曲家として扱われるのは、エレクトロニクス即興への関心や1970年前後にシュトックハウゼンに師事した経歴など、フィードバック・グループとの関連に由来している。表楽派の歴史でシュトックハウゼンの名前が挙がるのは、《グルッペン》《カレ》など「空間音楽」のオーケストレーションを通じてだが、裏楽派におけるシュトックハウゼンは、表楽派でのシェルシ以上に本質的な位置を占めている。
