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大井浩明 Portraits of Composers [POC] 第16回公演
トリスタン・ミュライユ全鍵盤作品
2014年9月21日(日)18時開演
両国門天ホール (130-0026 東京都墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階)
JR総武線「両国」駅西口から徒歩5分、大江戸線「両国」駅A4・A5出口から徒歩10分
大井浩明(ピアノ+オンド・マルトノ)
長谷綾子(ピアノ+オンド・マルトノ)(※)(助演)
協力 尾茂直之 (ASADEN)
トリスタン・ミュライユは、1947年3月11日、仏ル・アーヴル生まれ。1966年、パリ・スコラ・カントルムのオンド・マルトノ・クラスに入学し、ジャンヌ・ロリオに師事。その演奏を聴いたメシアンから、作曲クラスの試験を受けることを勧められる。翌年、パリ国立高等音楽院作曲科に入学。1969/70年度は同音楽院オンドマルトノ科(モーリス・マルトノが教えた最終年度)にて第2メダルを、翌70/71年度はジャンヌ・ロリオが着任したクラスで第1メダルを獲得。1971年に作曲科を一等賞で卒業すると同時に、メディチ荘賞(旧・ローマ大賞)を受賞。クセナキス、シェルシ、そして何よりリゲティに私淑していた。音楽と並行して、フランス国立東洋言語文化研究所にて古典アラブ語および北アフリカ系アラブ語を、パリ政治学院にて経済科学も専攻する。1973年、ミカエル・レヴィナス、ロジェ・テシエと共に音楽家集団《旅程(イティネレール)》を設立。1980年よりIRCAM(フランス国立音響音楽研究所)にて研究を始め、1991年~97年は作曲を教えると同時に作曲援用プログラム《Patchwork》の開発にも従事。1997年~2011年、米コロンビア大学音楽学部教授。主な作品に、《大陸移動》(1973)、《マゼランの雲》(1973)、《記憶/侵食》(1975/76)、《ゴンドワナ》(1980)、《崩壊》(1982/83)、《セレンディブ》(1991/92) 、《流体力学》(1990/91)、《水の分断》(1995)、《冬の断章》(2000)、《都市伝説》(2006)、《残酷物語》(2007)、《七つの言葉》(2010)、ピアノ協奏曲《世界の幻滅》(2012)等。
●《夢が吊るし磨いた目のように》(1967)
1967年パリ音楽院入学試験のために作曲。36年後の2003年に出版、同年3月11日にニューヨーク・ミラー劇場でマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは作曲者の父である詩人、ジェラール・ミュライユ(1925-2010)の詩の一節から採られた。
○《マッハ2.5》(1971/72) (オンド二重奏)
1971年出版、1972年2月2日パリ・サルコルトーでフランソワーズ・ペリエと作曲者により初演。声やサクソフォンの代用、ハリウッド映画の効果音ではなく、高性能な電子音響の発生器としてのオンドマルトノの可能性を追求するため、メシアン《三つの小典礼》等に頻出する「シロップのような」旋律的リボン奏法は封じられた。衝撃波(Onde de Choc)を生むコンコルド機が1970年11月4日にマッハ2を記録したのに因んだ原題《マッハ2》は、仏著作権協会から登録済み名称として却下されたため、《マッハ2.5》と命名された。ジャンヌ・ロリオ六重奏団のための六台オンド用拡大ヴァージョンも存在する(1975)。
○《展かれし鏡》(1971/73) (オンド+ピアノ)
1975年7月、米タングルウッド音楽祭にて、ジャンヌ・ロリオとイヴォンヌ・ロリオにより初演。作品1にあたる15楽器のための《海の色彩》(1969)の2年後に、共通の素材を使って作曲。父ジェラール・ミュライユの詩集《羅針儀海図》から採られた、「舫(もや)いの喧騒に」「展(ひら)かれし鏡」「満ち来る熱き潮を断ち」の3つの小品から成る。最新の作品リストからは撤回されているようである。
●《河口》(1971/72)
1972年出版、1974年5月15日ラジオ・フランスの生放送でマリー=セシル・ミランにより初演。セリエリズムの美学の元に、形容しがたい不定形・不確定さを描こうとした過渡的な試みであり、20世紀の作曲家よりはむしろフランツ・リストの書法に影響されたと云う。「河岸で」「汽水域で」の2部から成る。
○《ガラスの虎》(1974) (オンド+ピアノ)
1974年出版、同年パリ国立高等音楽院試験曲として学生たちにより初演。タイトルは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの幻想奇譚「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」(『伝奇集』所収)の一節による。棕櫚型(パルム)・スピーカーに張られた共鳴弦を、全曲を支配するA音の倍音列に調律するよう指定されている。
●《忘却の領土》(1977)
1977年出版、1978年5月22日ローマの楽友協会(アカデミア・フィラルモニカ)にて、ミカエル・レヴィナスにより献呈初演。ピアノを打楽器ではなく、「共鳴による残響ならびにハンマーの直接のアクションにより振動する弦の集合体」として扱うため、打鍵音は連続体の中に点滅する瘢痕に過ぎず、作品の主眼はあくまで共鳴する響きの変遷にある。《その響きは連続した「領土」を描き、それらは消滅する周波数という「忘却」によって縁どられる》。
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○《南極征服》(1982) (オンド独奏)
1982年出版、1984年3月2日パリ・シテ・デザールにてフランソワーズ・ペリエにより初演。冒頭の持続低音Disのスペクトル(微分音を含む)の変容がほぼ全曲を覆う。《マッハ2.5》と同様、「シロップ中毒の解毒剤」として、また作曲者によるレクチャー・コンサートやプレトークでの効率的な楽器紹介も念頭に置いて書かれた。タイトルは、オンド・マルトノをはじめとする様々な電子楽器が開発され、R.ドローネー、F.レジェ、R.デュフィら屈託ないモダニズムが花開いた1920年~30年代への諷喩と云う。
●《告別の鐘と微笑み~O.メシアンの追憶に》(1992)
1992年4月27日に死去した師メシアンを偲び、ドイチュラント放送(旧ベルリンRIAS)の委嘱によりムジークテクステ誌のメシアン追悼号のために作曲。同年6月出版、7月14日ヴィレヌーヴ・レ・ザヴィニョンにてドミニク・ミーにより初演。作曲者が愛用してきた鐘の響きが、メシアン晩年作品に現れる微笑むような階調に応答された後、早世した母を悼むメシアンの前奏曲《苦悩の鐘と告別の涙》(1929)の引用で締め括られる。
●《マンドラゴラ》(1993)
矢沢朋子とフランス文化省の共同委嘱、1993年出版、同年11月27日東京文化会館で初演。マンドラゴラは中世に魔術・錬金術で用いられた不老不死の薬効を持つ植物で、ホムンクルス(人造人間)の形をした根茎を持つ。罪人が吊るされた絞首台の下に芽吹き、月が満ちた真夜中に摘み取らなければならない。曲はラヴェル《絞首台》を下敷きにしている。漫画「のだめカンタービレ」でパリ留学中の主人公が練習したことで有名になった。
●《仕事と日々》(2002)
ハーバード大学・フロム音楽財団の委嘱、2002年出版、2003年3月11日ニューヨーク・ミラー劇場にてマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは、紀元前7世紀のギリシアの吟遊詩人、ヘシオドスの詩篇による。細部で関与し合う9つの断章から成る。《忘却の領土》にも現れたB-Cの9度音程のトレモロを中心に展開されるが、この共鳴を支える低音Fは最後まで登場せず、その結果、あたかも微分音調律を施されたような特殊な効果が発生する。
■長谷綾子 Ayako HASE ondes-martenot / piano (助演)
新潟市出身。5歳よりピアノを始める。新潟大学教育学部大学院修了、ロンドン王立音楽院(RAM)で学ぶ。ピアノを佐藤辰夫、フランク・ウィボーに、作曲・音楽理論をロイ・ティード、マシュー・テイラーに、音楽学を横坂康彦に師事。2000年、風呂本佳苗とのピアノドゥオ公演を東京・名古屋・神戸・長岡で開催、翌年、英ジャパン・フェスティヴァルに参加、イギリス4都市にて公演。
1999年、オンド・マルトノに出会い、原田節に師事。2001年よりオンドマルトノ独奏・重奏のほか、ピアノや声、サンプラー、ダンス、朗読等との共演を展開している。2005年、米良美一が武満徹を歌ったアルバム《ノスタルジア》に参加。2006年~2010年、インド・デリーに滞在し、ガザル歌手サティッシュ・バッバルよりインド古典音楽を学ぶ一方、CD《詩人ミルザ・ガーリブへの我が発現》等の作品では協働作業も行った。近年では、岡田千香子(声)や一ノ瀬トニカ(ピアノ)と共演し、一ノ瀬トニカ《PRANA》(2007)、同:《Electric Trail》(2014)等を演奏している。公式サイト:http://ayako-ondes.com
「スペクトル楽派」概観─────野々村 禎彦
作曲家メシアンの位置付けは人によって相当なばらつきがあるが、音楽教師メシアンの重要性は、衆目の一致するところである。戦後前衛第一世代を代表するクセナキス(1922-2001)、ブーレーズ(1925-)、シュトックハウゼン(1928-2007) をはじめ、メシアン門下生の系譜をフランス現代音楽の歴史とみなしても大きな違いはない。この系譜が、シャリーノ(1947-)、近藤譲(1947-) らを輩出したベビーブーム世代まで下ったところで登場するのが「スペクトル楽派」第一世代の作曲家たち、ジェラール・グリゼー(1946-98)、トリスタン・ミュライユ(1947-)、ミカエル・レヴィナス(1949-) である。彼らの世代になると、既にパリ音楽院の教授陣でも古株になり始めたメシアンの位置は「時代から超然とした老大家」に変化している。あえてそのような作曲家に師事するのは作風に惚れ込んでいるからであり、師の影響からいかに抜け出すかが大きな課題になる。
1971年にはミュライユ、1972年にはグリゼーがローマ賞(正確にはパリ五月革命で廃止され、メディチ荘留学制度として実質的に復活したもの)を受賞し、2年間のローマ留学の間に現代音楽史の特異点と言えるシェルシ(1905-88) の音楽に出会ったことが、ふたりが師の影から羽ばたく契機になった。ひとつの音を果てしなく繰り返し、倍音構造に没入する即興演奏から素材を得るのがシェルシの「作曲」の特徴だが、師メシアンと同じく反復と音色探求を基調に、東洋趣味の強さまで共通していても、師とは似ても似つかない異様な音楽が生まれることは啓示だった。方法論さえ徹底すれば、感性まで取り替える必要はないはずだ。シェルシの即興をスペクトル分析や音響合成などの科学的アプローチに置き換え、リゲティ、シュトックハウゼン、クセナキスら「分析可能」な先人の書法を参照して「スペクトル楽派」の音楽は生まれた。ブレイクスルーにはシェルシの強烈な音楽が欠かせなかったが、「分析不可能」なので深入りはしない、という姿勢も優等生らしい。実際、楽派確立後の1975年にローマ賞を得たレヴィナスは、もはやシェルシのもとを訪れてはいない。
楽派成立当時の現代音楽の主流とは相当に隔たった音楽であり、スペクトル分析結果を加算合成で再現するためには自然倍音列に基づいた微分音調律も必要になるため、通常の現代音楽アンサンブルは彼らの音楽をなかなか取り上げなかった。そこで彼らは1973年に「アンサンブル・イティネレール」を自ら結成した。アンサンブル設立に関わり、今日でも広く知られているのは上記3人とユグ・デュフール(1943-) であり、彼らがスペクトル楽派の第一世代にあたる。ミュライユの父は詩人、レヴィナスの父はかの哲学者エマニュエル・レヴィナスであり、フランス知識層の人文学的伝統を受け継いでいるのもこの楽派の特徴だ。その中で、やや年長で哲学者でもあるデュフールが、楽派のスポークスマン的役割を担ったのは必然だった。「スペクトル楽派」という呼称も、デュフールが1979年の論文で使い始めたとされる。ただし、楽派の作曲家たちは、この呼称をあまり好んではいない。スペクトル分析の器楽曲への応用は、楽派結成当時でももはや目新しいアプローチではなく(彼らが《涅槃交響曲》(1957-58) など黛敏郎の先駆的作品を知っていたとは思えないが、チャウニングやリセのコンピュータ音楽草創期の試みは意識していたはずだ)、音響合成から視覚的要素の導入まで広がる、楽派の幅広い関心が矮小化されかねない。特にミュライユは、コンピュータ支援作曲ソフトウェア「パッチワーク」の開発にも携わった技術者肌の職人なので、この呼称を忌み嫌った。彼の電子音楽へのスタンスは、「我々の世代はシェフェール(1910-95、ミュジック・コンクレートの創始者) よりもピンク・フロイドに多くを負っている」というものだけになおさら。
また、アンサンブル・イティネレールを自ら創設するところからも想像される通り、作曲家=演奏家が少なくないのもこの楽派の特徴である。《忘却の領土》を初演したレヴィナスは、自作や楽派の作品のみならず、古典から現代まで幅広いレペートリーを持ち、フルタイムで活動するピアニストである。ミュライユも、ジャンヌ・ロリオの次世代を代表するオンド・マルトノ奏者であり、この楽器のための作品も多い。メシアン《トゥーランガリーラ交響曲》の録音を眺めると、まずロリオ姉妹、次いでピアノが当時の若手(最初のメシアンコンクールの入賞者たち)に代わり、ラトルやサロネンの世代になるとオンド・マルトノもミュライユに代わっている。野平一郎(1953-) は、スペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりであり、日本人では最初の楽派のメンバーとして、パリ音楽院留学中の1981年にピアニストとしてアンサンブル・イティネレールに入団している。楽派第一世代はメシアン周辺のフランスの作曲家のみだが、第二世代になるとフランスのユレル(1955-)、ルルー(1959-)、ダルバヴィ(1961-) らに加え、イタリアのフェデーレ(1953-)、カスタニョーリ(1958-)、ストロッパ(1959-)、ロミテッリ(1963-2004) ら、フィンランドのサーリアホ(1952-) やリンドベルイ(1958-)、オーストリアのハース(1953-)、スイスのジャレル(1958-)、英国のベンジャミン(1960-)、日本の野平や田中カレン(1961-) と、一挙に国際化した。楽派の研究活動が、ブーレーズが創設した音響・音楽研究所IRCAMのプログラムになったことが変化の大きな要因である。
ここまで表・スペクトル楽派の歴史を眺めてきたが、その第一世代の同世代には、裏・スペクトル楽派と呼ぶべき作曲家たちも活躍し、この潮流をさらに豊かなものにした。まずは、ルーマニア出身のラドゥレスク(1942-2008) とドミトレスク(1944-)。ルーマニア民族音楽やビザンチン宗教音楽の倍音唱法をバックグラウンドに持ち、ラドゥレスクの場合は自然倍音列上の倍音唱法で構成されたシュトックハウゼン《シュティムンク》(1968) との出会い、ドミトレスクの場合はシェルシの音楽との出会いが決定的な契機となり、倍音構造に着目した作曲を始めた。表楽派は自然倍音列の比較的低次をアルペジオに開き、フランスの伝統に則した透明な書法を採るが、ふたりは自然倍音列のはるか高次にあたる、不均等調律された微分音がうごめく異様な音楽に辿り着いた。ラドゥレスクは70年代初頭にメシアンに師事して知遇を得、80年代初頭にはIRCAMのクラスに参加するなど、表楽派に近いところで活動して自らの音楽を広めようとしたが、ドミトレスクは表楽派初期のDIY精神を専ら参照し、1976年にはハイペリオン・アンサンブルを結成して独自路線を邁進した(結局、ラドゥレスクも1983年にルチェロ・アンサンブルを結成して同じ道に踏み込んだ)。ドミトレスクの慧眼はCDも自主制作し、実験的ポピュラー音楽のネットワークに乗せて頒布したことで、現代音楽業界よりもノイズ・ミュージック界隈で強く支持され、20枚を超えるCDで全貌を把握できる。
もうひとつは、ケルンのフィードバック・スタジオを拠点とする作曲家たち。創設者のフリッチュ(1941-2010、ドイツ)は、シュトックハウゼンの即興性の強い作品を演奏する通称ケルン・アンサンブルに草創期からエレクトロニクス奏者として参加し、共同創設者のD.C.ジョンソン(1940-、米国) とゲールハール(1943-、米国) もシュトックハウゼンの助手を経てアンサンブルに参加した。《マントラ》(1970) 以降、シュトックハウゼンの関心の中心が緻密な作曲に回帰したことを受け、エレクトロニクス即興の伝統を守るために彼らはこのスタジオを始めた。アナログ回路による即興で用いられる音響効果は倍音構造のコントロールに他ならず、探求の方向はスペクトル楽派におのずと近づく。マイグアシュカ(1938-、エクアドル) やバーロウ(1945-、インド) ら即興時代のシュトックハウゼンに導かれて集まった作曲家たちは出身国も幅広い。またハーヴェイ(1939-2012、英国) やヴィヴィエ(1948-83、カナダ) がしばしばスペクトル楽派の作曲家として扱われるのは、エレクトロニクス即興への関心や1970年前後にシュトックハウゼンに師事した経歴など、フィードバック・グループとの関連に由来している。表楽派の歴史でシュトックハウゼンの名前が挙がるのは、《グルッペン》《カレ》など「空間音楽」のオーケストレーションを通じてだが、裏楽派におけるシュトックハウゼンは、表楽派でのシェルシ以上に本質的な位置を占めている。
裏楽派の音楽は、世代を超えて受け継がれることは殆どなかった。ドミトレスクの弟子を経て妻となり、夫のバックアップコピーのような作品を量産しているアヴラム(1961-) は特異な例外であり、フリッチュ門下からはC.J.ワルター(1964-) のような繊細な音色感覚を持つ作曲家も現れたが、その美学はスペクトル楽派とは程遠い。これに対し、表楽派の音楽は世代を超えて受け継がれたが、その後の展開は芳しいものではなかった。近藤譲も指摘している通り、スペクトル楽派には音楽の時間発展を制御する理論が存在しない。スペクトル音響がまだ珍しかった時期には、絵巻物のような併置で十分だったが(ミュライユの最初のピークにあたる《忘却の領土》や《夕暮れの13の階調》(1978) はまさにそういう音楽だが)、やがてそれでは済まなくなる。《音響空間》シリーズ(1976-85) でいち早く視覚的要素を導入し、《時の渦》(1994-96) ではラヴェルの楽曲をスペクトル分析の素材にする裏技まで用いたグリゼーはこの問題点を意識して克服しようとしていたが、最後の作品《限界を超えるための4つの歌》(1997-98) で採用したのは結局、伝統的な旋律だった。
自然倍音列の低次で現れるのは、最初に平均律から大きく外れる第7倍音以前は長三和音の構成音であり、そもそもスペクトル語法と調性は極めて相性が良い。契機は人それぞれだが(例えばリンドベルイの場合は、急逝したルトスワフスキに代わってサントリーホール国際作曲委嘱シリーズのために1時間近い大曲《Aura》(1994) を数ヶ月で仕上げたこと)、90年代半ばの数年間に表楽派の大半の作曲家は急速に調性的な方向に向かった。元々標題音楽やオペラへの指向が強かったH.デュフールの場合は自然な変化にも見えるが、第一世代でもひときわノイズ指向の強かったレヴィナスですらそうだった。野平のようにアカデミックな風格に向かったのはむしろ幸運な例で、印象派風映画音楽の出来損ないになってしまった者も少なくない(なまじスペクトル語法は保っている意識がある分、歯止めが利かない)。この傾向は年長世代の特徴というわけでもなく、むしろアンダーソン(1967-)、タンギー(1968-) ら世代が下るほど顕著だった。スペクトル楽派第二世代以降の金太郎飴的な傾向を批判し、アンビエントテクノにならった持続を取り入れるなど意欲的な試みを行った望月京(1969-) は例外的存在だ。裏楽派でもラドゥレスクはこの時期に顕著に調性に向かった。ただしこれは、彼の音楽的理想を体現したピアニスト、シュトゥーマーと出会って微分音が自由に出せない楽器のための表現を探求した結果であり、弦楽四重奏などの編成では従来通り微分音の探求を続けた。
ミュライユは、表楽派で調性に向かわなかったほぼ唯一の作曲家だが、これは彼の意識が高かったからではない。彼は《崩壊》(1982-83) 以降情報理論を積極的に取り入れ、コンピュータ支援作曲による時間構造の自動生成に向かったので、悩む必要がなかったからにすぎない。全盛期の瑞々しい音世界が無味乾燥な机上の空論に浸食されてゆく様子は痛々しいが、そのおかげで十数年後のより深刻な危機を回避できたのだから、人間何が幸いするかわからない。そんな彼の転機になったのが、1997年に米国コロンビア大学に移ったことだった。ポスト戦後前衛の二大潮流「新しい複雑性」とスペクトル楽派を代表するファーニホウとミュライユは、米国に落ち着いてかつての輝きを取り戻した。フェルドマンとケージが相次いで世を去り、新自由主義が広がる中で米国実験主義の基盤は急速に失われていったが、その荒野ではヨーロッパ戦後前衛音楽への関心が静かに広がっていた…と書くと何やら詩的だが、「前衛音楽未開の地」米国では「ヨーロッパの二大潮流」という意識はなく、「OpenMusic(パッチワークの後継ソフトウェア)を用いる作曲家」としてファーニホウやマヌリー(1952-、IRCAMの重鎮) と横並びで扱われるのでかえって吹っ切れた、という身も蓋もない見方も可能だ。いずれにせよ、ミュライユの場合はグリゼー追悼音楽《冬の断章》(2000) あたりが分水嶺になっており、《仕事と日々》の充実は第二のピークと呼べそうだ。
「新しい複雑性」を概観したPOC#13のプログラムノートでは、今日におけるこの様式の可能性を米国の若い世代に見たが、スペクトル楽派に関しても同じ結論になりそうだ。スタンフォード大学でファーニホウのもとで学びながら「スペクトル音楽」を探求しているトルコ出身のトゥルグート・エルチェティン Turgut Erçetin (1983-) はその代表である。時間発展の理論を持たないスペクトル楽派の問題点は、新しい複雑性を参照すれば伝統的調性に頼らなくても解決できる。彼の鮮烈な音世界には今のところ、soundcloudやyoutubeで触れることができる。

トリスタン・ミュライユ全鍵盤作品
2014年9月21日(日)18時開演
両国門天ホール (130-0026 東京都墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階)
JR総武線「両国」駅西口から徒歩5分、大江戸線「両国」駅A4・A5出口から徒歩10分
大井浩明(ピアノ+オンド・マルトノ)
長谷綾子(ピアノ+オンド・マルトノ)(※)(助演)
協力 尾茂直之 (ASADEN)
【演奏曲目】
●《夢が吊るし磨いた目のように》(1967) 約6分
○《マッハ2.5》(1971/72) (オンド二重奏) 約9分 (※)
○《展かれし鏡》(1971/73) (オンド+ピアノ) 約9分 (※)
第1曲「舫いの喧騒に」 - 第2曲「展かれし鏡」 - 第3曲「満ち来る熱き潮を断ち」
●《河口》(1971/72) 約10分
第1曲「河岸で」 - 第2曲「汽水域で」
○《ガラスの虎》(1974) (オンド+ピアノ) 約7分 (※)
●《忘却の領土》(1977) 約30分
・・・・・・(休憩 20分)・・・・・・
○《南極征服》(1982) (オンド独奏) 約9分
●《告別の鐘と微笑み ~O.メシアンの追憶に》(1992) 約3分
●《マンドラゴラ》(1993) 約10分
●《仕事と日々》(2002) 約30分
I. - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.

●《夢が吊るし磨いた目のように》(1967)
1967年パリ音楽院入学試験のために作曲。36年後の2003年に出版、同年3月11日にニューヨーク・ミラー劇場でマリリン・ノンケンにより初演。タイトルは作曲者の父である詩人、ジェラール・ミュライユ(1925-2010)の詩の一節から採られた。

1971年出版、1972年2月2日パリ・サルコルトーでフランソワーズ・ペリエと作曲者により初演。声やサクソフォンの代用、ハリウッド映画の効果音ではなく、高性能な電子音響の発生器としてのオンドマルトノの可能性を追求するため、メシアン《三つの小典礼》等に頻出する「シロップのような」旋律的リボン奏法は封じられた。衝撃波(Onde de Choc)を生むコンコルド機が1970年11月4日にマッハ2を記録したのに因んだ原題《マッハ2》は、仏著作権協会から登録済み名称として却下されたため、《マッハ2.5》と命名された。ジャンヌ・ロリオ六重奏団のための六台オンド用拡大ヴァージョンも存在する(1975)。
○《展かれし鏡》(1971/73) (オンド+ピアノ)
1975年7月、米タングルウッド音楽祭にて、ジャンヌ・ロリオとイヴォンヌ・ロリオにより初演。作品1にあたる15楽器のための《海の色彩》(1969)の2年後に、共通の素材を使って作曲。父ジェラール・ミュライユの詩集《羅針儀海図》から採られた、「舫(もや)いの喧騒に」「展(ひら)かれし鏡」「満ち来る熱き潮を断ち」の3つの小品から成る。最新の作品リストからは撤回されているようである。
●《河口》(1971/72)
1972年出版、1974年5月15日ラジオ・フランスの生放送でマリー=セシル・ミランにより初演。セリエリズムの美学の元に、形容しがたい不定形・不確定さを描こうとした過渡的な試みであり、20世紀の作曲家よりはむしろフランツ・リストの書法に影響されたと云う。「河岸で」「汽水域で」の2部から成る。
○《ガラスの虎》(1974) (オンド+ピアノ)

●《忘却の領土》(1977)
1977年出版、1978年5月22日ローマの楽友協会(アカデミア・フィラルモニカ)にて、ミカエル・レヴィナスにより献呈初演。ピアノを打楽器ではなく、「共鳴による残響ならびにハンマーの直接のアクションにより振動する弦の集合体」として扱うため、打鍵音は連続体の中に点滅する瘢痕に過ぎず、作品の主眼はあくまで共鳴する響きの変遷にある。《その響きは連続した「領土」を描き、それらは消滅する周波数という「忘却」によって縁どられる》。
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○《南極征服》(1982) (オンド独奏)

●《告別の鐘と微笑み~O.メシアンの追憶に》(1992)
1992年4月27日に死去した師メシアンを偲び、ドイチュラント放送(旧ベルリンRIAS)の委嘱によりムジークテクステ誌のメシアン追悼号のために作曲。同年6月出版、7月14日ヴィレヌーヴ・レ・ザヴィニョンにてドミニク・ミーにより初演。作曲者が愛用してきた鐘の響きが、メシアン晩年作品に現れる微笑むような階調に応答された後、早世した母を悼むメシアンの前奏曲《苦悩の鐘と告別の涙》(1929)の引用で締め括られる。
●《マンドラゴラ》(1993)

●《仕事と日々》(2002)

■長谷綾子 Ayako HASE ondes-martenot / piano (助演)

1999年、オンド・マルトノに出会い、原田節に師事。2001年よりオンドマルトノ独奏・重奏のほか、ピアノや声、サンプラー、ダンス、朗読等との共演を展開している。2005年、米良美一が武満徹を歌ったアルバム《ノスタルジア》に参加。2006年~2010年、インド・デリーに滞在し、ガザル歌手サティッシュ・バッバルよりインド古典音楽を学ぶ一方、CD《詩人ミルザ・ガーリブへの我が発現》等の作品では協働作業も行った。近年では、岡田千香子(声)や一ノ瀬トニカ(ピアノ)と共演し、一ノ瀬トニカ《PRANA》(2007)、同:《Electric Trail》(2014)等を演奏している。公式サイト:http://ayako-ondes.com
「スペクトル楽派」概観─────野々村 禎彦

1971年にはミュライユ、1972年にはグリゼーがローマ賞(正確にはパリ五月革命で廃止され、メディチ荘留学制度として実質的に復活したもの)を受賞し、2年間のローマ留学の間に現代音楽史の特異点と言えるシェルシ(1905-88) の音楽に出会ったことが、ふたりが師の影から羽ばたく契機になった。ひとつの音を果てしなく繰り返し、倍音構造に没入する即興演奏から素材を得るのがシェルシの「作曲」の特徴だが、師メシアンと同じく反復と音色探求を基調に、東洋趣味の強さまで共通していても、師とは似ても似つかない異様な音楽が生まれることは啓示だった。方法論さえ徹底すれば、感性まで取り替える必要はないはずだ。シェルシの即興をスペクトル分析や音響合成などの科学的アプローチに置き換え、リゲティ、シュトックハウゼン、クセナキスら「分析可能」な先人の書法を参照して「スペクトル楽派」の音楽は生まれた。ブレイクスルーにはシェルシの強烈な音楽が欠かせなかったが、「分析不可能」なので深入りはしない、という姿勢も優等生らしい。実際、楽派確立後の1975年にローマ賞を得たレヴィナスは、もはやシェルシのもとを訪れてはいない。

また、アンサンブル・イティネレールを自ら創設するところからも想像される通り、作曲家=演奏家が少なくないのもこの楽派の特徴である。《忘却の領土》を初演したレヴィナスは、自作や楽派の作品のみならず、古典から現代まで幅広いレペートリーを持ち、フルタイムで活動するピアニストである。ミュライユも、ジャンヌ・ロリオの次世代を代表するオンド・マルトノ奏者であり、この楽器のための作品も多い。メシアン《トゥーランガリーラ交響曲》の録音を眺めると、まずロリオ姉妹、次いでピアノが当時の若手(最初のメシアンコンクールの入賞者たち)に代わり、ラトルやサロネンの世代になるとオンド・マルトノもミュライユに代わっている。野平一郎(1953-) は、スペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりであり、日本人では最初の楽派のメンバーとして、パリ音楽院留学中の1981年にピアニストとしてアンサンブル・イティネレールに入団している。楽派第一世代はメシアン周辺のフランスの作曲家のみだが、第二世代になるとフランスのユレル(1955-)、ルルー(1959-)、ダルバヴィ(1961-) らに加え、イタリアのフェデーレ(1953-)、カスタニョーリ(1958-)、ストロッパ(1959-)、ロミテッリ(1963-2004) ら、フィンランドのサーリアホ(1952-) やリンドベルイ(1958-)、オーストリアのハース(1953-)、スイスのジャレル(1958-)、英国のベンジャミン(1960-)、日本の野平や田中カレン(1961-) と、一挙に国際化した。楽派の研究活動が、ブーレーズが創設した音響・音楽研究所IRCAMのプログラムになったことが変化の大きな要因である。

もうひとつは、ケルンのフィードバック・スタジオを拠点とする作曲家たち。創設者のフリッチュ(1941-2010、ドイツ)は、シュトックハウゼンの即興性の強い作品を演奏する通称ケルン・アンサンブルに草創期からエレクトロニクス奏者として参加し、共同創設者のD.C.ジョンソン(1940-、米国) とゲールハール(1943-、米国) もシュトックハウゼンの助手を経てアンサンブルに参加した。《マントラ》(1970) 以降、シュトックハウゼンの関心の中心が緻密な作曲に回帰したことを受け、エレクトロニクス即興の伝統を守るために彼らはこのスタジオを始めた。アナログ回路による即興で用いられる音響効果は倍音構造のコントロールに他ならず、探求の方向はスペクトル楽派におのずと近づく。マイグアシュカ(1938-、エクアドル) やバーロウ(1945-、インド) ら即興時代のシュトックハウゼンに導かれて集まった作曲家たちは出身国も幅広い。またハーヴェイ(1939-2012、英国) やヴィヴィエ(1948-83、カナダ) がしばしばスペクトル楽派の作曲家として扱われるのは、エレクトロニクス即興への関心や1970年前後にシュトックハウゼンに師事した経歴など、フィードバック・グループとの関連に由来している。表楽派の歴史でシュトックハウゼンの名前が挙がるのは、《グルッペン》《カレ》など「空間音楽」のオーケストレーションを通じてだが、裏楽派におけるシュトックハウゼンは、表楽派でのシェルシ以上に本質的な位置を占めている。

自然倍音列の低次で現れるのは、最初に平均律から大きく外れる第7倍音以前は長三和音の構成音であり、そもそもスペクトル語法と調性は極めて相性が良い。契機は人それぞれだが(例えばリンドベルイの場合は、急逝したルトスワフスキに代わってサントリーホール国際作曲委嘱シリーズのために1時間近い大曲《Aura》(1994) を数ヶ月で仕上げたこと)、90年代半ばの数年間に表楽派の大半の作曲家は急速に調性的な方向に向かった。元々標題音楽やオペラへの指向が強かったH.デュフールの場合は自然な変化にも見えるが、第一世代でもひときわノイズ指向の強かったレヴィナスですらそうだった。野平のようにアカデミックな風格に向かったのはむしろ幸運な例で、印象派風映画音楽の出来損ないになってしまった者も少なくない(なまじスペクトル語法は保っている意識がある分、歯止めが利かない)。この傾向は年長世代の特徴というわけでもなく、むしろアンダーソン(1967-)、タンギー(1968-) ら世代が下るほど顕著だった。スペクトル楽派第二世代以降の金太郎飴的な傾向を批判し、アンビエントテクノにならった持続を取り入れるなど意欲的な試みを行った望月京(1969-) は例外的存在だ。裏楽派でもラドゥレスクはこの時期に顕著に調性に向かった。ただしこれは、彼の音楽的理想を体現したピアニスト、シュトゥーマーと出会って微分音が自由に出せない楽器のための表現を探求した結果であり、弦楽四重奏などの編成では従来通り微分音の探求を続けた。

「新しい複雑性」を概観したPOC#13のプログラムノートでは、今日におけるこの様式の可能性を米国の若い世代に見たが、スペクトル楽派に関しても同じ結論になりそうだ。スタンフォード大学でファーニホウのもとで学びながら「スペクトル音楽」を探求しているトルコ出身のトゥルグート・エルチェティン Turgut Erçetin (1983-) はその代表である。時間発展の理論を持たないスペクトル楽派の問題点は、新しい複雑性を参照すれば伝統的調性に頼らなくても解決できる。彼の鮮烈な音世界には今のところ、soundcloudやyoutubeで触れることができる。