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ヴォルフガング・ミヒャエル・リームは1952年、独カールスルーエ生まれ。11歳で作曲を始める。68年~72年、カールスルーエ音大でE.W.フェルテに作曲を師事、同大を卒業。72年~73年ケルンでK.シュトックハウゼンに、73年~76年にフライブルク音大でK.フーバー(作曲)とH.H.エッゲブレヒト(音楽学)に学ぶ。74年ドナウエシンゲン音楽週間で発表した管弦楽曲《モルフォニー - 4部》で一躍名を知られる。78年ダルムシュタット夏季講習会でクラーニッヒ・シュタイン賞。84/85年と97年、ベルリン高等研究所フェロー。1985年、師フェルテを襲い母校の作曲教授に就任、数多くの門下生を輩出。84年~89年、「メロス」誌共同編集者。84年~90年、ベルリン・ドイツ・オペラ音楽顧問。91年ベルリン芸術アカデミーならびにバイエルン芸術アカデミー会員。96年ドイツ文学アカデミー会員。97年ベルリン・フィルならびにルツェルン音楽祭レジデント作曲家。98年ベルリン自由大学名誉博士。2000年ザルツブルク音楽祭レジデント作曲家。2001年仏芸術文化オフィシエ勲章。2014年ドイツ連邦共和国大功労十字星章。代表作に13曲の弦楽四重奏曲(1970-2011)、オペラ《ハムレットマシーン》(1983/86、ハイナー・ミュラーによる)、オペラ《メキシコ征服》(1987/91、アントナン・アルトーによる)、《ルカ受難曲》(1999/2000)、《大河交響曲へ向って》(1992/2000)等。
幾つかの初期習作の後、F.ヘルダーリン、S.ゲオルゲ、R.M.リルケ等による《歌曲集 作品1》(1968/71)や、弦楽オーケストラとピアノのための《ファンタジア 作品4》(1969/70)と同時期に書かれたのが、《ピアノ曲》第1番~第3番(作品8a/8b/8c)である。
《ピアノ曲第1番》は1970年9月9日~11月15日作曲、初演データ不詳(1985年出版)、「愛するアンドレア」に献呈。自由な展開形式を開拓するために、挿入・反復・外延の偏在が工夫された。
《ピアノ曲第2番》は、71年3月28日完成、同年12月10日にカールスルーエでグンター・ハウアーにより初演。第1番の終結部を受け継ぐように開始し、4つの大きなセクションが続く。ルチアーノ・オルティス(ブレーメン音大作曲教授)に献呈。
4手連弾のための《ピアノ曲第3番》は71年11月~72年1月12日作曲、同年7月17日カールスルーエでグンター・ハウアーとシュテファン・アンマーにより初演(99年改訂)。通常奏法による前半部と、ピアノの外部と内部に分かれて「真剣なマルクス兄弟」を演じる後半部からなる。
《ピアノ曲第4番》は1974年4月作曲、同年ダルムシュタットでクリスティアン・ペトレスクにより初演。管弦楽のための《Dis-Kontur (輪郭線無しに/嬰ニ音の輪郭で)》と同様、リズム・持続・旋律・和声・形式が5:7:2:9の比率に基づいている。後半を占める第4部は主題と2つの変奏からなる。
《ピアノ曲第5番「墓」》 はリヴァ・サン・ヴィタレ(スイス)で75年9月26日完成、翌76年5月28日シュトゥットガルトでヘルベルト・ヘンクにより献呈初演。導入部と終結部を伴う長大なシャコンヌである。《弦楽四重奏曲第3番「深奥」》(1976)と関連付けられ、後期ヤナーチェク的な衝動性を発露する。
《ピアノ曲第6番「バガテル集」》は1978年6月20日完成、同年10月12日グラーツでケーテ・ヴィトリヒにより初演。《交響曲第3番》(1976/77)、《ヘルダーリン断章》(1976/77)、室内オペラ《ヤーコプ・レンツ》(1977/78)と云った当時ありあわせの自作素材から、「地震計のように」即興された。オーストリア人画家クルト・コッハーシャイト(1943-1992)の絵画「ピアノ海岸 その3、ヴォルフガング・リームのための」(1975)に感謝を込め、同氏に献呈。
《ピアノ曲第7番》は1980年2月26日にローマで完成、同年8月4日ダルムシュタットでベルンハルト・ヴァムバッハにより初演。極度に対比付けられたユニゾン音型が、縦横無尽に全曲を支配する。
《再習作(ナッハシュトゥディー)》(1992/94)は、リーム最大のピアノ曲である。94年7月26日ダルムシュタットでジークフリート・マウザーにより献呈初演。管弦楽曲《未決の・・》(1990)とアンサンブル曲《そして今》(1992)の素材をピアノ協奏曲《領域》(1994)へと鋳直し、その独奏部を改作したがこの《ナッハシュトゥディー》であり、さらに6奏者のための《習作による領域》(1994/2002)、ならびに11奏者のための《領域による領域》(1992/2003)へと重ね塗りされた。
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「新ロマン主義」の曖昧さとW.リームの特殊性について──野々村 禎彦
「新ロマン主義」という用語は、音楽に限らずさまざまな芸術分野でさまざまな時代のさまざまな対象に対して用いられ、大きな混乱を生んできた。音楽においては主に英語圏で用いられ、今回の主役であるヴォルフガング・リーム(1952-) を含む音楽的傾向に限るのであれば、ドイツ語の「新しい単純性 Neue Einfachheit」の方が適切である。しかし、これはこれで問題の多い用語であり、また日本では「新ロマン主義」が広く用いられているため、本稿はこちらに基づいて進める。
まず、クラシック音楽の「新ロマン主義」は Neoromanticism であり、New Romanticism ではない(後者では80年代英国ニューウェーブの一派、デュラン・デュランやカルチャー・クラブの話になってしまう)。これは、新古典主義 Neoclassism の対立概念として米国で提唱されたことに由来し、コルンゴルトやバーバーの音楽を指していた。他方、文学における「新ロマン主義」は、ロマン主義を批判して生まれた自然主義の対立概念として、英語圏に限らず用いられ、それと同時代の音楽にも後付けで流用された。ただし、19世紀の音楽に自然主義に相当するものが存在したわけではなく、むしろ後期ロマン派とそれ以前のロマン派の違いを強調するための用語である。
ドイツにおける「新しい単純性」概念は、文芸オペラや歌曲の作曲家=ピアニストとして知られるライマン(1936-) が1979年の論文で最初に示したとされ、シュトランツ(1946-2004)、トロヤーン(1949-)、ダーデルセン(1949-)、W.リーム(1952-)、シュヴァイニッツ(1953-)、ボーゼ(1953-)、ミュラー=ジーメンス(1957-) の7人の作曲家を、方法論にこだわらず聴衆に歩み寄った若手として好意的に紹介した。調性感・伝統的な形式や編成等で特徴付けられる主観的な選択に過ぎず、明確な定義も線引きもないが、従来は「保守反動」の一言で切り捨てられていた傾向を積極的に「潮流」と捉えたことに意味がある。このうちトロヤーン、ダーデルセン、シュヴァイニッツ、ミュラー=ジーメンスはリゲティに学んでおり、この潮流へのリゲティの隠然たる影響を示唆している。
そもそも、「前衛語法=複雑、調性=単純」という認識自体が戦後前衛に毒されている。近藤譲が『線の音楽』で論じたように、聴覚情報としては機能和声音楽の方がはるかに複雑であり、耳の慣れと単純さを混同すべきではない。また、ドイツ圏の調性的な現代音楽で真に「単純」と呼べるのは、HKグルーバー(1943-) やP.M.ハメル(1947-) のように意図的に平明(ないし通俗的)な語法を選んだ作曲家たちであり、ライマンが挙げた「新しい単純性」の作曲家たちはむしろ難渋な部類である。この時期の彼らの作品は、調性的な素材を表現主義的な不協和音で暴力的に彩る「ポスト・ベルク」的な方向性を示している。同時代の現代美術において、ドイツ表現主義をリスペクトし暴力的な具象表現で反ミニマルアート/反コンセプチュアルアートを明確に打ち出した、パゼリッツやキーファーらの傾向を指す「新表現主義」という呼称の方が適切なように思われるが、音楽史における表現主義の代表は新ウィーン楽派で戦後前衛に直結するため、この呼称は忌避されたのだろう。
20世紀後半の音楽に対し、混乱を誘うことは承知の上で「新ロマン主義」という呼称がリバイバルされたのは、ロックバーグ(1918-2005)、デル=トレディチ(1937-)、ツヴィリチ(1939-) という米国ローカルな、この呼称がぴったりな保守的な作曲家たちを歴史化するためだったと筆者は考えている。「新しい単純性」の作曲家たちはダシに使われたわけだ。また、英語における「新しい単純性 New Simplicity」は、デンマークで「新しい単純性」を名乗るクリスチャンセン(1932-2008)、グドムンセン=ホルムグレン(1932-)、アブラームセン(1952-) や「ケルン楽派」の作曲家たち(クプコヴィッツ(1936-)、マクガイア(1942-)、W.ツィンマーマン(1949-)、ヴォランズ(1949-)、バリー(1952-) ら)など、ポストミニマルないしコンセプチュアルな調性的現代音楽を広く含む。
ドイツの「新しい単純性」は、70-80年代で収束した短命な流行だとされている。ただしこれは、ポスト戦後前衛の諸潮流が再び現代音楽の主流になった、という単純な話ではない。90年代にヨーロッパで起こったのはポスト戦後前衛の諸潮流の調性化であり、「新しい単純性」の美学が業界全体に拡散したので先駆者は歴史的役割を終えた、とみなす方が実情に即している。「新しい単純性」の作曲家たちの多くはその後も作風を変えておらず、後述するようにW.リームは時代の変化に対応した方である。ただしシュヴァイニッツはさらに極端で、90年代に入ると純正律の探求を実験主義的なスタンスで行うようになり(ヴァンデルヴァイザー楽派と直接の接点はないが、時代的な背景は共有している)、2007年からは故テニーの後任としてカリフォルニア芸術大学で教鞭を執っている。
なお本稿では、通常の「新ロマン主義」の包括的な記述では大きな割合を占める、70年代以降の戦後前衛世代の調性化にはあえて触れなかった。大衆文化や近代西洋音楽の伝統の記号として調性を用いたカーゲルや、音楽的記憶を探求するために調性的素材の憶えやすさを利用したフェルドマンのように、目的を明確にして慎重に用いない限りは特筆すべき成果は得られていないという美学的判断に加え、ポスト戦後前衛の諸潮流が90年代に入ってから急速に調性化したことで、ある前衛語法の賞味期限は20年程度であり、戦後前衛世代の転向をオイルショックやベトナム戦争終結などの社会的要因とことさらに結び付ける必要はないとわかったからである。
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W.リームは早熟な作曲家だ。作品番号付きで出版されている初期作品、交響曲第1番(1969-70) や弦楽四重奏曲第1番(1970)・第2番(1970) の作曲年代からも明らかだが、高校に通いながらカールスルーエ音楽大学で作曲を学び、表現主義時代の新ウィーン楽派の音楽に強い影響を受けていた。当時からダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に通い、高校卒業後まずシュトックハウゼン、次いでK.フーバー(当時の助手はファーニホウ)に師事という戦後前衛エリートコースを歩み、1974年のドナウエッシンゲン音楽祭で《モルフォニー》(1972-73) が初演され現代音楽界デビューした。初演直後のブーイングの嵐はむしろ勲章だろう。この年のダルムシュタットでは、ミュラー=ジーメンスがクラーニヒシュタイン音楽賞作曲部門を17歳(今日に至る最年少記録)で受賞し、若い世代の「新しい単純性」の傾向自体は業界で肯定的に受け止められていた。だがW.リームの音楽には、現代音楽を聴き慣れた聴衆をも苛立たせる何かがあった。無名より悪名! なお彼は1978年に同賞を代表作のひとつ《3挺の弦楽器のための音楽》(1977) で受賞し、委嘱過多に拍車がかかる。
日本でのW.リーム受容は、ピアノ曲第5番《墓》(1975)、《ヘルダーリン断章》(1976-77)、室内オペラ《ヤコブ・レンツ》(1977-78) など、彼の中でも特にポスト・ベルク的な作品で始まった。《ピアノ曲》シリーズを全曲聴けば、彼が一筋縄では行かない作風の持ち主なのは明らかだが、「新ロマン主義」のパブリックイメージによく合った曲が選ばれ、そのイメージが一層強化された。これが80年代前半、ライマンが挙げた作曲家の代表として彼の名前が取り沙汰されるようになり、武満徹や石井眞木も「新ロマン主義」を公言し始めた時期である。80年代後半に入ると武満が監修するサントリーホール国際作曲委嘱シリーズが始まり、彼は1987年に戦後生まれ世代ではいち早く登場した(次は1993年のタン・ドゥン)。この時期の彼は《ハムレットマシーン》(1983-86)、《オイディプス》(1986-87) の音楽劇2作を書きながら、オーケストラ曲もほぼ月1曲ペースで発表していた。いくら速筆でも、これではゴミの山になるのは必然。委嘱された《無題II》(1987) も例外ではない。リアルタイム世代ほど彼への評価が微妙なのは、この不幸な出会いのせいでもある。
しかしこの濫作の時期の作品でも、ピアノ三重奏曲《見えない風景》(1982-84) は荒削りなエネルギーにあふれ、弦楽四重奏曲第6番《青い本》(1984) も40分を超える大作だが、凝縮された緊張感すら感じさせる傑作だ。このような作品間の著しい質の差の一端は、彼のベートーヴェンへの傾倒から理解できる。「現代のベートーヴェン」と看做されることを望んでいる以上は、その得意分野で下手な曲は書けない。彼は初期から今日に至るまで、ピアノ独奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲には常に全力を投入してきた。また、普通の作曲家にとってオーケストラ曲の委嘱は滅多にない機会だが、彼には日常的な出来事なので、スタンスはおのずと異なる。オーケストラ曲の委嘱の大半は、普段は現代音楽に積極的に取り組んでいるわけでもない団体が、「意欲的な活動」という評価を得るために行う儀式に過ぎず、往々にしてリハーサルも不十分で再演も期待できない(新作委嘱ほど文化活動として評価されないため)。現代音楽演奏に熱心な個人または常設団体が、レパートリーとして繰り返し演奏するために委嘱する小編成器楽曲に注力する方がはるかに有意義だ。
創作の全時期をカバーする弦楽四重奏曲は、作風の変遷を眺めるにも都合が良い。6番までは頻出していた調性的フレーズは7番(1985) から影を潜め、代わりにラッヘンマンを思わせる噪音が使われ始める。思えば《無題II》初演時に彼が組んだプログラムには、ベートーヴェン《運命》と並んでラッヘンマン《ファサード》(1973) も選ばれていた。ただし《音の記述》(1982-87) あたりまではのっぺりした持続の方が目立ち、作風転換の成果が現れるのは、後期ノーノにならった沈黙や静謐な持続が板に付いてきた弦楽四重奏曲第8番(1987-88) 以降である。6番や8番など、特に重要な弦楽四重奏曲はアルディッティ四重奏団のために書かれており、彼と「前衛音楽演奏のチャンピオン」の縁は深い。この新しい方向性の頂点に位置するのが、音楽劇《メキシコ征服》(1987-91) である。沈黙と噪音が中心の書法と音楽劇をいかに両立させるかは後期ノーノやラッヘンマンも苦労したが、W.リームのこの作品では、従来の調性的な持続が背景を埋めるのにぴったりだったのも成功の要因だろう。ピアノ独奏曲では《ナッハシュトゥディー》(1992-94) がこの時期の作風を伝える。
その後は大きな様式変化はない。《大河交響曲に向かって》シリーズ(1992-95/1997-2000) は昔に戻ったかのような書法だが、弦楽四重奏曲第10番(1993-97) は従来以上に噪音に傾いており、《狩りと形式》(1995-2001/2007-08) は両者を使い分けて表現に幅を持たせている。その反面、ダイナミクスの振幅は穏やかになり、彼ですら「晩年様式」に移行したのかと驚かされる。2012年のヘンツェ追悼記事で彼は「作曲家としての最初のモデルはヘンツェだった」と語っており、出発点は他の「新しい単純性」の作曲家たちと共通していた。調性の探求を始めた頃のシュトックハウゼンに接したことを契機に飛躍し(唯我独尊タイプ同士の師弟関係は長続きしなかったが)、やがて後期ノーノを参照して表現のパレットを広げた。W.リームの音楽は、「アンチ戦後前衛」の文脈で語られがちな新ロマン主義の一般的なイメージとは全く異質であり、POCシリーズにこそふさわしい。
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■法貴彩子 Sayako HOKI (ピアノ、助演)
京都市立音楽高校(現京都市立京都堀川音楽高校)卒業、パリ国立高等音楽院ピアノ科、同室内楽科卒業。リヨン国立高等音楽院大学院課程(第3課程)修了。パリエコールノルマル音楽院を審査員満場一致の最優秀で卒業。 ピアノをジョルジュ・プルデルマシェ、クレール・デゼール、アンリ・バルダ他に、室内楽をブルーノ・パスキエ他に師事。エピナル国際コンクール(フランス)入賞。フォーラム・ド・ノルマンディーにて現代曲賞受賞。パリ(サル・コルトー)やリヨン等でリサイタルを行う他、オリヴィエ・メシアン生誕100年記念年にはリヨン国立高等音楽院オーケストラとメシアン《異国の鳥たち》を共演、またブルガリア・ソフィアフィルハーモニーに招聘されベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、ならびにバルトーク:ピアノ協奏曲第3番を共演。第20回ABC新人コンサート最優秀音楽賞受賞、大阪フィルハーモニー交響楽団とラヴェルのピアノ協奏曲を共演。第23回宝塚ベガ音楽コンクール第1位、兵庫県知事賞受賞。今年1月に東京トッパンホールで行った、全曲現代作品によるリサイタルは大きな話題となった。
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【次回予告】
〈ポック[POC]#19〉 西村朗ピアノ作品撰集 2014年12月14日(日)18時
〈ポック[POC]#20〉 細川俊夫/三輪眞弘全ピアノ曲 2015年1月25日(日)18時
〈ポック[POC]#21〉 南聡「ピアノソナタ」全曲 2015年2月22日(日)18時
【関連公演】
2014年12月1日(月)18時半 日仏会館ホール(恵比寿) (レクチャー/片山杜秀)
メシアン:《シャロットの姫君》(1917)、《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》(1944)より「その方によって万物はつくられた」・「喜びの聖霊のまなざし」、《4つのリズム・エチュード集》(1949/50)、《庭虫喰》(1970)
大井浩明 Portraits of Composers [POC]
第18回公演 ヴォルフガング・リーム《ピアノ曲》全曲
2014年11月22日(土)18時
両国門天ホール (130-0026 東京都墨田区両国1-3-9 ムラサワビル1-1階)
JR総武線「両国」駅西口から徒歩5分、大江戸線「両国」駅A4・A5出口から徒歩10分
大井浩明(ピアノ)+法貴彩子(ピアノ、助演) [※]
【演奏曲目】
■ピアノ曲第1番Op.8a(1970) 約13分
■ピアノ曲第2番Op.8b(1971、日本初演) 約15分
■ピアノ曲第3番Op.8c[ピアノ連弾](1971/99、日本初演) [※] 約10分
■ピアノ曲第4番(1974、日本初演) 約13分
■ピアノ曲第5番《墓》(1975) 約13分
(休憩 15分)
■ピアノ曲第6番《バガテル集》(1977/78) 約15分
■ピアノ曲第7番(1980) 約10分
■《再習作(ナッハシュトゥディー)》(1992/94、日本初演) 約25分


《ピアノ曲第1番》は1970年9月9日~11月15日作曲、初演データ不詳(1985年出版)、「愛するアンドレア」に献呈。自由な展開形式を開拓するために、挿入・反復・外延の偏在が工夫された。
《ピアノ曲第2番》は、71年3月28日完成、同年12月10日にカールスルーエでグンター・ハウアーにより初演。第1番の終結部を受け継ぐように開始し、4つの大きなセクションが続く。ルチアーノ・オルティス(ブレーメン音大作曲教授)に献呈。
4手連弾のための《ピアノ曲第3番》は71年11月~72年1月12日作曲、同年7月17日カールスルーエでグンター・ハウアーとシュテファン・アンマーにより初演(99年改訂)。通常奏法による前半部と、ピアノの外部と内部に分かれて「真剣なマルクス兄弟」を演じる後半部からなる。
《ピアノ曲第4番》は1974年4月作曲、同年ダルムシュタットでクリスティアン・ペトレスクにより初演。管弦楽のための《Dis-Kontur (輪郭線無しに/嬰ニ音の輪郭で)》と同様、リズム・持続・旋律・和声・形式が5:7:2:9の比率に基づいている。後半を占める第4部は主題と2つの変奏からなる。
《ピアノ曲第5番「墓」》 はリヴァ・サン・ヴィタレ(スイス)で75年9月26日完成、翌76年5月28日シュトゥットガルトでヘルベルト・ヘンクにより献呈初演。導入部と終結部を伴う長大なシャコンヌである。《弦楽四重奏曲第3番「深奥」》(1976)と関連付けられ、後期ヤナーチェク的な衝動性を発露する。

《ピアノ曲第7番》は1980年2月26日にローマで完成、同年8月4日ダルムシュタットでベルンハルト・ヴァムバッハにより初演。極度に対比付けられたユニゾン音型が、縦横無尽に全曲を支配する。
《再習作(ナッハシュトゥディー)》(1992/94)は、リーム最大のピアノ曲である。94年7月26日ダルムシュタットでジークフリート・マウザーにより献呈初演。管弦楽曲《未決の・・》(1990)とアンサンブル曲《そして今》(1992)の素材をピアノ協奏曲《領域》(1994)へと鋳直し、その独奏部を改作したがこの《ナッハシュトゥディー》であり、さらに6奏者のための《習作による領域》(1994/2002)、ならびに11奏者のための《領域による領域》(1992/2003)へと重ね塗りされた。
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「新ロマン主義」の曖昧さとW.リームの特殊性について──野々村 禎彦

まず、クラシック音楽の「新ロマン主義」は Neoromanticism であり、New Romanticism ではない(後者では80年代英国ニューウェーブの一派、デュラン・デュランやカルチャー・クラブの話になってしまう)。これは、新古典主義 Neoclassism の対立概念として米国で提唱されたことに由来し、コルンゴルトやバーバーの音楽を指していた。他方、文学における「新ロマン主義」は、ロマン主義を批判して生まれた自然主義の対立概念として、英語圏に限らず用いられ、それと同時代の音楽にも後付けで流用された。ただし、19世紀の音楽に自然主義に相当するものが存在したわけではなく、むしろ後期ロマン派とそれ以前のロマン派の違いを強調するための用語である。

そもそも、「前衛語法=複雑、調性=単純」という認識自体が戦後前衛に毒されている。近藤譲が『線の音楽』で論じたように、聴覚情報としては機能和声音楽の方がはるかに複雑であり、耳の慣れと単純さを混同すべきではない。また、ドイツ圏の調性的な現代音楽で真に「単純」と呼べるのは、HKグルーバー(1943-) やP.M.ハメル(1947-) のように意図的に平明(ないし通俗的)な語法を選んだ作曲家たちであり、ライマンが挙げた「新しい単純性」の作曲家たちはむしろ難渋な部類である。この時期の彼らの作品は、調性的な素材を表現主義的な不協和音で暴力的に彩る「ポスト・ベルク」的な方向性を示している。同時代の現代美術において、ドイツ表現主義をリスペクトし暴力的な具象表現で反ミニマルアート/反コンセプチュアルアートを明確に打ち出した、パゼリッツやキーファーらの傾向を指す「新表現主義」という呼称の方が適切なように思われるが、音楽史における表現主義の代表は新ウィーン楽派で戦後前衛に直結するため、この呼称は忌避されたのだろう。

ドイツの「新しい単純性」は、70-80年代で収束した短命な流行だとされている。ただしこれは、ポスト戦後前衛の諸潮流が再び現代音楽の主流になった、という単純な話ではない。90年代にヨーロッパで起こったのはポスト戦後前衛の諸潮流の調性化であり、「新しい単純性」の美学が業界全体に拡散したので先駆者は歴史的役割を終えた、とみなす方が実情に即している。「新しい単純性」の作曲家たちの多くはその後も作風を変えておらず、後述するようにW.リームは時代の変化に対応した方である。ただしシュヴァイニッツはさらに極端で、90年代に入ると純正律の探求を実験主義的なスタンスで行うようになり(ヴァンデルヴァイザー楽派と直接の接点はないが、時代的な背景は共有している)、2007年からは故テニーの後任としてカリフォルニア芸術大学で教鞭を執っている。
なお本稿では、通常の「新ロマン主義」の包括的な記述では大きな割合を占める、70年代以降の戦後前衛世代の調性化にはあえて触れなかった。大衆文化や近代西洋音楽の伝統の記号として調性を用いたカーゲルや、音楽的記憶を探求するために調性的素材の憶えやすさを利用したフェルドマンのように、目的を明確にして慎重に用いない限りは特筆すべき成果は得られていないという美学的判断に加え、ポスト戦後前衛の諸潮流が90年代に入ってから急速に調性化したことで、ある前衛語法の賞味期限は20年程度であり、戦後前衛世代の転向をオイルショックやベトナム戦争終結などの社会的要因とことさらに結び付ける必要はないとわかったからである。
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日本でのW.リーム受容は、ピアノ曲第5番《墓》(1975)、《ヘルダーリン断章》(1976-77)、室内オペラ《ヤコブ・レンツ》(1977-78) など、彼の中でも特にポスト・ベルク的な作品で始まった。《ピアノ曲》シリーズを全曲聴けば、彼が一筋縄では行かない作風の持ち主なのは明らかだが、「新ロマン主義」のパブリックイメージによく合った曲が選ばれ、そのイメージが一層強化された。これが80年代前半、ライマンが挙げた作曲家の代表として彼の名前が取り沙汰されるようになり、武満徹や石井眞木も「新ロマン主義」を公言し始めた時期である。80年代後半に入ると武満が監修するサントリーホール国際作曲委嘱シリーズが始まり、彼は1987年に戦後生まれ世代ではいち早く登場した(次は1993年のタン・ドゥン)。この時期の彼は《ハムレットマシーン》(1983-86)、《オイディプス》(1986-87) の音楽劇2作を書きながら、オーケストラ曲もほぼ月1曲ペースで発表していた。いくら速筆でも、これではゴミの山になるのは必然。委嘱された《無題II》(1987) も例外ではない。リアルタイム世代ほど彼への評価が微妙なのは、この不幸な出会いのせいでもある。

創作の全時期をカバーする弦楽四重奏曲は、作風の変遷を眺めるにも都合が良い。6番までは頻出していた調性的フレーズは7番(1985) から影を潜め、代わりにラッヘンマンを思わせる噪音が使われ始める。思えば《無題II》初演時に彼が組んだプログラムには、ベートーヴェン《運命》と並んでラッヘンマン《ファサード》(1973) も選ばれていた。ただし《音の記述》(1982-87) あたりまではのっぺりした持続の方が目立ち、作風転換の成果が現れるのは、後期ノーノにならった沈黙や静謐な持続が板に付いてきた弦楽四重奏曲第8番(1987-88) 以降である。6番や8番など、特に重要な弦楽四重奏曲はアルディッティ四重奏団のために書かれており、彼と「前衛音楽演奏のチャンピオン」の縁は深い。この新しい方向性の頂点に位置するのが、音楽劇《メキシコ征服》(1987-91) である。沈黙と噪音が中心の書法と音楽劇をいかに両立させるかは後期ノーノやラッヘンマンも苦労したが、W.リームのこの作品では、従来の調性的な持続が背景を埋めるのにぴったりだったのも成功の要因だろう。ピアノ独奏曲では《ナッハシュトゥディー》(1992-94) がこの時期の作風を伝える。

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京都市立音楽高校(現京都市立京都堀川音楽高校)卒業、パリ国立高等音楽院ピアノ科、同室内楽科卒業。リヨン国立高等音楽院大学院課程(第3課程)修了。パリエコールノルマル音楽院を審査員満場一致の最優秀で卒業。 ピアノをジョルジュ・プルデルマシェ、クレール・デゼール、アンリ・バルダ他に、室内楽をブルーノ・パスキエ他に師事。エピナル国際コンクール(フランス)入賞。フォーラム・ド・ノルマンディーにて現代曲賞受賞。パリ(サル・コルトー)やリヨン等でリサイタルを行う他、オリヴィエ・メシアン生誕100年記念年にはリヨン国立高等音楽院オーケストラとメシアン《異国の鳥たち》を共演、またブルガリア・ソフィアフィルハーモニーに招聘されベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、ならびにバルトーク:ピアノ協奏曲第3番を共演。第20回ABC新人コンサート最優秀音楽賞受賞、大阪フィルハーモニー交響楽団とラヴェルのピアノ協奏曲を共演。第23回宝塚ベガ音楽コンクール第1位、兵庫県知事賞受賞。今年1月に東京トッパンホールで行った、全曲現代作品によるリサイタルは大きな話題となった。
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〈ポック[POC]#19〉 西村朗ピアノ作品撰集 2014年12月14日(日)18時
〈ポック[POC]#20〉 細川俊夫/三輪眞弘全ピアノ曲 2015年1月25日(日)18時
〈ポック[POC]#21〉 南聡「ピアノソナタ」全曲 2015年2月22日(日)18時
【関連公演】
2014年12月1日(月)18時半 日仏会館ホール(恵比寿) (レクチャー/片山杜秀)
メシアン:《シャロットの姫君》(1917)、《幼な子イエスに注ぐ20のまなざし》(1944)より「その方によって万物はつくられた」・「喜びの聖霊のまなざし」、《4つのリズム・エチュード集》(1949/50)、《庭虫喰》(1970)