リーム+西村 感想集 http://togetter.com/li/760105
西村朗 Akira NISHIMURA, composer
1953年9月8日、大阪市に生まれる。1973年~80年、東京藝術大学卒業、同大学院修了。西洋の現代作曲法を学ぶ一方で、在学中よりアジアの伝統音楽、宗教、美学、宇宙観などに強い関心を抱き、そこから導いたヘテロフォニーなどのコンセプトにより、今日まで多数の作品を発表している。
日本音楽コンクール(1974)、エリザベート国際音楽コンクール作曲部門大賞(1977,ブリュッセル)、ルイジ・ダルラピッコラ作曲賞(1977,ミラノ)、尾高賞(1988,1992,1993,2008,2011)、中島健蔵音楽賞(1990)、京都音楽賞「実践部門」(1991)、日本現代芸術振興賞(1994)、エクソンモービル音楽賞(2001)、別宮賞(2002)、サントリー音楽賞(2005)、毎日芸術賞(2005)、ミュージック・ペンクラブ音楽賞(2008)、紫綬褒章(2013)、第51回レコード・アカデミー賞「現代曲部門」等を受賞。1993年~94年、オーケストラ・アンサンブル金沢のコンポーザー・イン・レジデンス。1994年~97年、東京交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス。2010年~、山形交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス。
近年、海外においては、ウルティマ現代音楽祭(オスロ)、「ノルマンディーの10月」現代音楽祭(ルーアン)、アルディッティ弦楽四重奏団、クロノス・カルテット、ELISION、ハノーヴァー現代音楽協会、ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団、ラジオ・フランス等から新作の委嘱を受け、ヴィーン・モデルン音楽祭、「ワルシャワの秋」現代音楽祭、MUSICA・ストラスブール音楽祭、ブリスベン音楽祭等において作品が演奏されている。2002年度にはCD作品集「エイヴィアン」(カメラータ・トウキョウ)が、文化庁芸術祭大賞を受賞した。
現在、東京音楽大学教授。いずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督。2010年より草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督。
オパール光(こう)のソナタ Opalesque Sonata (1998)
ドイツ人ピアニスト、クリスティ・ベッカーの1998年10月22日の誕生日のために作曲、同氏によりルートヴィヒスハーフェンにて献呈初演。10月の誕生石オパールが様々な輝きを放つように、人生もまた様々な光に満ちている。初秋の美しい太陽光のもと、そうしたことを思いつつ作曲した。「様々な光の輝き」というテーマにそって、多様な楽案が一つの人生のようなタペストリーを織りあげる、そういった趣きのピアノ曲にしたいと願い、それを織り成す音色の糸や輝きの光の生地も多彩でありたいと思った。
三つの幻影 [水・炎・祈祷] Three Visions (Aqua/Flame/Invoker) (1994)
高橋アキにより1994年東京で献呈初演。1994年の春、私はインドを旅行し、その際、ガンジス河流域にあるヒンドゥー教の聖地バラナシに数日間滞在した。〈水〉、〈炎〉、〈祈祷〉の三曲より成るこの作品は、その時の体験にインスピレーションを得て作曲したものである。しかしこれはその体験を物語的に描写したものではない。三つの曲はそれぞれに独立した内容を持っており、個々に単独に演奏されることも可能である。
薔薇の変容 Roses Metamorphosis (2005)
2005年5月24日、碇山典子によりCD収録・献呈初演。作曲イメージの発端に薔薇があった。私は薔薇に、女性原理に通じるような、肉体的・精神的な神秘を感じる。その姿は生命を生む官能の海の珊瑚の森のようであり、その香りは珊瑚の森に触れる波の吐息の香気のようである。ピアノの響きと音色のテクスチュアが持つ触感のエロティシズムに感応したいとの思いで作曲した。静かな夜、ひとりピアノに向って音を探っているとき、その「エロティシズム」には、避け難いタナトスの誘惑が秘められていると感じた。
-----
タンゴ Tango (1998)
1998年12月17日、東京・草月ホールにて高橋アキにより委嘱献呈初演。曲の構成はタンゴのリズム・パターンを織り込んだ4つの音楽素材に基づく一種のロンド形式。主調はロ短調だが曲中にはめまぐるしい転調を含んでいる。テンポは一貫してアレグロで、演奏上、やや技巧的なピアノ小品となったとは言えるかもしれない。こうしたタイプの曲を書いたのは初めてで、私にとっては新鮮で楽しい体験となった。
アリラン幻想曲 Arirang Fantasy (2002)
2002年6月14日東京にて寺嶋陸也により初演。作曲家林光さんらが中心になって企画された、東京での「アリラン」を特集した演奏会のために作曲したもの。タイトルが示すとおり、有名なアリランの旋律にもとづく自由な構成の幻想曲。このノスタルジックな東洋的旋律を知ったのがいつだったのかまったく思い出せないが、大阪での少年時代、10歳以前であることは間違いない。子供心にもしみ入る名旋律だと思う。
神秘の鐘 [薄明光/間奏曲/霧の河] Mystic Bells (Twilight glow/Interlude/Misty River) (2006)
2006年5月11日、碇山典子によりCD収録初演。この作曲における「鐘」のイメージは多分に宗教的であるが、仏教やキリスト教等、特定の宗教と結び付いたものではない。さまざまな「鐘音」は時間の流れの輝きの瞬間のようであり、また時空を超えた世界、たとえば異界や死後の世界にまでも届くシグナルのようでもある。さらに言えば、人心の深淵を照らす光のようであり、遠い異界からの光のようでもある。
I. 薄明光 ── 太陽が沈んだ直後、赤き残光はなお上空にとどまり、山の樹々の風に揺らぐ葉や、雪の高き峰を輝かせる。生から死へと向うゾーン、トワイライト・ゾーンの大気を震わせる鐘である。
II. 間奏曲 ── これは重い弔鐘が深々と奏されるインターリュードである。弔鐘に乗って、ゆっくりと歌い奏されるのは一種の「子守歌」。孤独な悲しい歌である。
III. 霧の河 ── 夜の霧の大河にうごめく様々な「存在」の気配。それらはなまめかしい水流の香気と交じり合い解け合って、異界から断続的に出現する不思議なオーロラのような鐘の響きを生みつづける。むろんそれは幻聴。神秘の鐘の音である。
カラヴィンカ Kalavinka (2006)
2006年8月20日ザルツブルクで小菅優により献呈初演。タイトルのカラヴィンカ(kalaviṅka)は、日本では〈迦陵頻伽〉(かりょうびんが)と音写されており、それは仏教の阿弥陀経において、極楽に住むとされる特別な姿の鳥である。この鳥は人間の顔を持ち、体は鳥姿で、美しい声を持っている。カラヴィンカは、その美しい声によって仏陀の言葉を歌い、人々の魂を救済する。この曲は、カラヴィンカのイメージによって発想されたものであり、カラヴィンカの住む極楽のイメージは、京都の東寺に伝わる「胎蔵界マンダラ」から得ている。そのマンダラ宇宙は、母の胎内のようであり、様々な色彩の光や霊妙かつ官能的な香気にあふれている。そしてそこには、桃色の初々しい肌を持つ童児のような大日如来を中心に、やわらかで艶やかな御体の仏たちが集まっている。神秘的で豊満なエロティシズムに満たされた極楽宇宙である。カラヴィンカはそこに舞い、苦の現世に生きるわれわれに歌いかける。


----------------------------------
新ロマン主義とアカデミズム:西村朗を読み解く補助線として ───野々村 禎彦
W.リーム(1952-) が主役の前回は、主にドイツの「新しい単純性」と米国の「新ロマン主義」、及び英語圏での「新しい単純性」の来歴と差異を博物学的に眺めた。この流儀で日本の状況を眺めると、ドイツで過ごした松下眞一(1922-90) と石井眞木(1936-2003) がドイツ的な自国の伝統への回帰の先駆者、水野修孝(1934-) と三枝成彰(1942-) が米国的なポピュラー音楽との折衷の先駆者であり、前者を引き継いだのが今回の主役西村朗(1953-)、後者を引き継いだのが吉松隆(1953-) という図式になる。だが、本質的に作曲家名の列挙に過ぎない記述は繰り返したくない。そこで今回は幾分論理的に、アカデミズムのあり方の差異が各国の新ロマン主義の差異を生んだことを示す。
ナチスドイツでは、「新音楽」は「頽廃音楽」として弾圧され、帝国音楽院の院長R.シュトラウスを頂点とする伝統的書法の作曲家のみが教鞭を執った。ドイツ敗戦後は彼らの戦争責任が追及され、オルフやエックらの作曲活動は大目に見られたが、教育の場からは厳しく排除され、アカデミズム=「新音楽」という例外的状況が成立した。すなわち、新ロマン主義はアンチ戦後前衛というよりは反アカデミズムである。逆に、アカデミズム側からも新ロマン主義は忌むべき存在だ。例えば、日本で機能和声を絶対視する伝統主義の急先鋒だった原博(1933-2002) は主著『無視された聴衆』(ケンロードミュージック, 1996)において、新ロマン主義は妥協ないし未熟さの産物であり、ブーレーズ《主なき槌》やペンデレツキ《広島の犠牲者に捧げる哀歌》の方がまだましと断じている。
戦後ドイツの「新音楽」はほぼセリー主義と同義であり、セリー主義批判で現代音楽界デビューしたリゲティ門下から「新しい単純性」は始まった。ドイツのセリー主義の首領はシュトックハウゼンだが、時代の寵児は教職で生計を立てる必要がなく、お膝元のケルンはエアポケットになった。B.A.ツィンマーマンやカーゲルのようなセリー主義と距離を置いた作曲家が教鞭を執り、「ケルン楽派」と総称されるコンセプチュアルな調性的現代音楽の中心地になった。さらに興味深いことに、1970年に自殺したB.A.ツィンマーマンと入れ替わるように1971年からケルン音楽大学で教え始めたシュトックハウゼンは、むしろこの楽派の推進者のひとりになった。調性的セリーと直観音楽や倍音唱法の探求の間で揺れ動いていた当時の彼は、もはや教条的セリー主義者ではなくなっていた。
戦後前衛の潮流はセリー主義の展開に沿って発展したが、ドイツでは1970年頃から状況が変わり始める。ラッヘンマン(1935-) によってこの時期に確立され、ヘスポス(1938-)、ハイン(1938-)、シュパーリンガー(1944-) らによって各々の手法で拡張され、シュテープラー(1949-)、ヘルツキー(1953-) らポスト戦後前衛世代の作曲家たちにも受け継がれた、噪音を音響効果ではない本質的な素材とする書法(筆者は便宜的に「ドイツ音響作曲」と総称している)が戦後前衛の大勢力のひとつになった。新ロマン主義側のW.リームがそれを参照したのは、奇妙なことではない。
米国の「新音楽」で、戦後前衛時代のヨーロッパで専ら注目されたのはケージらニューヨーク楽派の実験音楽だが、彼らは本国では長らく在野の異端であり、アカデミズムは戦前からの保守派と米国独自のセリー主義(バビット(1916-2011)、ウォーリネン(1938-) ら)が混在していた。双方へのアンチが新ロマン主義ならば、それはポピュラー音楽(ヨーロッパの猿真似ではない、米国独自の伝統ともみなせる)との折衷主義に他ならない。また米国のアカデミズムには、ジャズをアカデミックに分析して伝統書法との折衷を図ったシュラー(1925-) らの「サード・ストリーム」の方向性も含まれ、新ロマン主義が参照するポピュラー音楽は、ロック以降のより大衆的な音楽になる。
この見方に立てば、フランスに新ロマン主義が存在しない理由は明らかである。パリ音楽院の正式名称がコンセルヴァトワール=伝統を保守する場であることからも明らかなように、アカデミズムと戦後前衛が無縁(メシアンは例外的な進歩派だが、戦後前衛との距離は大きい)な国は新ロマン主義とも無縁である。英国もアカデミズムは保守派の巣窟で、戦後前衛第二世代も最後は軒並み転向し、「新しい複雑性」の作曲家たちもみな国外で教鞭を執った。ナッセン(1952-) にせよアデス(1971-) にせよ、保守的書法の「天才少年」としてデビューした人々は新ロマン主義とは別物である。
以上を踏まえて日本の状況を眺めると、戦前のアカデミズムは橋本國彦(1904-49) らドイツ留学組が中心だったが「戦争協力者」として追放され、戦後はフランスに留学した池内友次郎(1906-91) とその門下生が中心になった(POC#15の総説参照)。松平頼則、松下眞一、松平頼曉、篠原眞らセリー主義者は総じて冷遇され、諸井誠も新ロマン主義勃興期には第一線から退いていた。間宮芳生(1929-)、松村禎三(1929-2007)、三善晃(1933-2013) ら戦後前衛第一世代と同年代を中心とする日本のアカデミズムは、少なくとも70年代半ばまでは戦後前衛側に劣らぬ充実を見せていた。
だが、ヨーロッパ戦後前衛とも「実験工房」出身者が中核の「日本の戦後前衛」とも一味違う無調書法がいったん確立してしまうと、アカデミックな硬直化は避けられない。重要なのは書法自体ではなく、そこに至る過程での試行錯誤の経験なのだが、書法を確立し大家として遇されるようになった作曲家たちが作曲賞の審査員に収まり、先人の書法を悩まず受け継いだ後進たちを高く評価し、彼らが教職に就いてその書法を伝えてゆくサイクルには、草創期の熱気はもはや期待できない。「日本の戦後前衛」との尖鋭な対立が続いていれば起爆剤になった可能性もあったが、八村義夫(1938-85)、池辺晋一郎(1943-)、毛利蔵人(1950-97) ら若手有望株を青田買いして助手に採用し、宥和的な関係を作り上げた武満徹の政治的センスのおかげで、その望みも絶たれてしまった。
こうして70年代末には、「硬直した無調アカデミズム」という新ロマン主義の成立条件が日本にも整った。そこで登場したのが吉松隆だった。慶應義塾高校在学時に作曲家を志した彼は独学で作曲を始め同大学工学部に進むが、《シリウスの伴星によせる》(1974) をop.1と定めたのを機に大学を中退し、アルバイトで生計を立てながらプログレバンドで活動し、作品が書き上がるとアカデミックな作曲賞に応募する音楽漬けの生活を送る。その中で松村禎三の門を叩き、音楽プロデュース活動を行う反骨の調律師原田力男(1939-95) を紹介され親交を結ぶ。原田が主催する「プライヴェート・コンサート」シリーズで《忘れっぽい天使I》(1978) が紹介され現代音楽界デビューした。坂本龍一(1952-) や藤枝守(1955-) が同シリーズで紹介された2年後だった。《ドーリアン》(1979) が1980年に交響楽振興財団作曲賞に入選し、初演を聴いた保守派の重鎮別宮貞雄(1922-2012) が「現代の音楽展’81」に推薦した《朱鷺によせる哀歌》(1980) で、その経歴ともども日本における新ロマン主義の新星として注目された。なお別宮はパリ音楽院でミヨーとメシアンに師事した経歴の持ち主ながら、原博とは対照的に新ロマン主義に肯定的であり、私費を投じて「別宮賞」を設立し、あらゆる現代音楽の演奏会に足を運んで自らの美学に適う作品を顕彰する活動を最晩年まで続けた。
他方、西村のキャリアは吉松とは何もかも対照的に始まる。作品表の最初を飾る《耿》(1970) はW.リームのop.1と同じく16歳の作品であり、《ピアノ・ソナタ》(1972) は三善晃に倣った書法。東京藝大大学院に進みピアノ協奏曲第1番《紅蓮》(1977/79) で評価を確立するまで、アカデミズムの階段を順調に昇ったかに見えるが、この過程は日本のアカデミズムが輝きを失っていった過程でもあり、胸中は穏やかならぬものだったはずだ。《弦楽四重奏のためのヘテロフォニー》(1975/87) は、東アジアの民族音楽に想を得た最初の作品であり、日本の民族音楽に想を得て徐々に洗練を重ねていった先達の到達点を受け継ぐのではなく、彼らの試行錯誤のプロセスをよりグローバルな素材に基づいて追体験するという決意表明とみなせる。すなわち、西村の新ロマン主義において回帰すべき伝統とは、戦後日本のアカデミズムが輝いていた時期の精神だった。
大学院を修了した西村は、長いスランプに入る。アカデミックな技術で「書けてしまう音楽」と、《ヘテロフォニー》に垣間見えた「書きたい音楽」のギャップが埋まるまでには十年近くを要した。アカデミズムと無関係な電子音楽《エクスタシスへの雅歌》(1980-81) ではファンタジーを無理なく広げているが。この期間に吉松は飛躍し、《チカプ》(1981) と《鳥たちの時代》(1986) を《朱鷺》に続く「鳥の三部作」として完成し、ギター協奏曲《天馬効果》(1984) でレコードアカデミー賞現代音楽部門を受賞した。なおこのLPのB面は、東京藝大作曲科の若きエースで西村の師でもある野田暉行(1940-) のギター協奏曲(1984) だった。『音楽芸術』誌での音盤時評も『魚座の音楽論』(音楽之友社, 1987) としてまとめられ、音楽著述の仕事も増えてゆく。吉松と西村は親友となり、「現代音楽撲滅」「世紀末抒情主義」を掲げる「世紀末音楽研究所」を1984年に始めた。この時期に西村は佐藤聰明(1947-) とも知り合い、アカデミズム外の人脈の広がりが後の飛躍を生んだ。
1987年の室内楽個展に際して自らの根源を問い直した西村は、探求の対象をヘテロフォニーに絞り、原理的な連作《雅歌I-III》(1986-87) を書き上げた。この勢いを大編成に拡張し、最初の代表作《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》(1987) が生まれた。管弦楽パートは《雅歌》の音色的拡大版だが、休みなくトレモロを奏し続ける2台ピアノパートは、ピアノのトレモロをディレイで堆積した、《リタニア》(1973) に始まる70年代の佐藤作品の影響が色濃い(ただし西村は、使用音域や倍音構成の違いを強調する)。これと対照的な曲想のピアノ曲《星の鏡》(1992) では、今度は佐藤《星の門》(1982) が見え隠れする。東アジアの民族音楽は、ピアノ書法ではアカデミズム脱却の助けにはならず、打楽器書法ではまず《ケチャ》(1979) でガムランを模倣したのと同じプロセスと、より長い時間を要した。ともあれ本作は同年の尾高賞を受賞し、西村は一躍時の人になった。
他方、1987年は吉松の長い停滞の始まりでもある。管弦楽作品の相次ぐ委嘱に音響合成ソフトによるシミュレーションで応えた結果、当時のパソコンレベルの音響に想像力を封じ込めてしまったことが直接的な要因だろう。また文化的背景としては、モノドラマ(ピアノ弾き語り自作自演)第一作《トラウマ氏の一日》(1985) ではタイトルやテキストを参照し、文体やイラストの画風でも多大な影響を受けていたマンガ家・吾妻ひでお(1950-) の失踪に象徴される、おたく文化の衰退が大きい。輝いていた時期の吉松は、《朱鷺》の空間配置やルトスワフスキ流の偶然性、《天馬効果》のクラスターグリッサンドなど、前衛語法を調性の枠内で活用した。このスタンスは、リアルな劇画的表現では露悪的になってしまう性や暴力や生の不条理の描写を、手塚治虫直系の可愛いデフォルメ絵柄で可能にした、吾妻のスタンスに他ならない。このような屈託が豊かさに結びついた重層的文化が、少年ジャンプ的な人気投票至上主義を基調に、露骨な性表現に代表される「反社会性」がマイナー性(価格に直結する)のバーター以上の意味を持たない、身も蓋もない「萌え文化」に取って代わられるにつれ、彼の音楽も単なる保守的折衷主義に変質していった。この間に保守的な「英国音楽」の録音が多い英Chandosレーベルの専属作曲家に選ばれ、7枚の音盤を録音する中で変化は加速した。
西村はその後も着実に歩みを続け、《永遠なる混沌の光の中へ》(1990) と《光の環》(1991) が続けて尾高賞を受賞し、現代音楽界での地位を確立した。ただし、この賞が黛《涅槃交響曲》、諸井《協奏組曲》、松村《前奏曲》、湯浅《クロノプラスティク》、三善《チェロ協奏曲》《響紋》、松平頼曉《オシレーション》のような突出した作品をきちんと顕彰していたのはせいぜい西村《ヘテロフォニー》と細川俊夫《遠景I》(1987) まで、その後は業界評価の固まった作曲家の穏当な作品の中でのたらい回しに過ぎない。西村作品でも、《光のマントラ》(1993) や《蓮華化生》(1997) などの新たな音世界を切り拓いた作品は悉く受賞していない。この2作や弦楽四重奏曲第2番《光の波》(1992)・第3番《鳥》(1997) をアルディッティ四重奏団のために書いた時期が、西村のひとつの頂点だった。アカデミックな書法からの脱却に時間を要したピアノ曲でも、《3つの幻影》(1994) で個性的な表現を見出し、《オパール光のソナタ》(1998) はピーク期の作品に数えられよう。
この時期の彼は、多い年で10作程度と比較的多作だが、濫作期のW.リームのような無茶なペースではなく、殆どの作品が十分に書き込まれ、新しい試みを行った作品は自ずと音楽的密度も高まる、良いバランスで創作が回っていた。だがそれ以降は、作品ごとの密度の差が大きくなった。作曲中に体調を崩し長期入院するほど没頭した交響曲第3番《内なる光》(2003) や弦楽四重奏曲第4番《ヌルシンハ》(2007) はむしろ例外で、軽い作品は終始軽く、旋律的な要素も目立ち、一般的な意味での新ロマン主義音楽に近づいている。この変化はアカデミズムのもうひとつの問題点、音楽学校や音楽業界での地位の高まりとともに雑務も増え、創作に十分な時間を割けなくなることの帰結だ。かつての戦後日本アカデミズムの停滞も事情は変わらない。もちろん彼はこの問題点には自覚的で、還暦を迎えた機会に公務を絞ったと聞く。彼の第2のピークに期待しつつ、本稿はひとまず終えたい。
~~「POC」シリーズの命名者、西村朗氏自選によるピアノ作品個展~~大井浩明 Portraits of Composers [POC]
第19回公演 西村朗 ピアノ曲作品撰集
〔東京公演〕 2014年12月14日(日)18時 両国門天ホール
〔京都公演〕 2015年2月8日(日)15時 カフェ・モンタージュ (トーク:西村朗)
【演奏曲目】
《オパール光のソナタ》(1998) 約10分
《三つの幻影》(1994) 約16分
《薔薇の変容》(2005) 約9分
(休憩 10分)
《タンゴ》(1998) 約4分
《アリラン幻想曲》(2002) 約6分
《神秘の鐘》(2006) 約15分
《カラヴィンカ》(2006) 約10分

1953年9月8日、大阪市に生まれる。1973年~80年、東京藝術大学卒業、同大学院修了。西洋の現代作曲法を学ぶ一方で、在学中よりアジアの伝統音楽、宗教、美学、宇宙観などに強い関心を抱き、そこから導いたヘテロフォニーなどのコンセプトにより、今日まで多数の作品を発表している。
日本音楽コンクール(1974)、エリザベート国際音楽コンクール作曲部門大賞(1977,ブリュッセル)、ルイジ・ダルラピッコラ作曲賞(1977,ミラノ)、尾高賞(1988,1992,1993,2008,2011)、中島健蔵音楽賞(1990)、京都音楽賞「実践部門」(1991)、日本現代芸術振興賞(1994)、エクソンモービル音楽賞(2001)、別宮賞(2002)、サントリー音楽賞(2005)、毎日芸術賞(2005)、ミュージック・ペンクラブ音楽賞(2008)、紫綬褒章(2013)、第51回レコード・アカデミー賞「現代曲部門」等を受賞。1993年~94年、オーケストラ・アンサンブル金沢のコンポーザー・イン・レジデンス。1994年~97年、東京交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス。2010年~、山形交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス。
近年、海外においては、ウルティマ現代音楽祭(オスロ)、「ノルマンディーの10月」現代音楽祭(ルーアン)、アルディッティ弦楽四重奏団、クロノス・カルテット、ELISION、ハノーヴァー現代音楽協会、ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団、ラジオ・フランス等から新作の委嘱を受け、ヴィーン・モデルン音楽祭、「ワルシャワの秋」現代音楽祭、MUSICA・ストラスブール音楽祭、ブリスベン音楽祭等において作品が演奏されている。2002年度にはCD作品集「エイヴィアン」(カメラータ・トウキョウ)が、文化庁芸術祭大賞を受賞した。
現在、東京音楽大学教授。いずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督。2010年より草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督。

ドイツ人ピアニスト、クリスティ・ベッカーの1998年10月22日の誕生日のために作曲、同氏によりルートヴィヒスハーフェンにて献呈初演。10月の誕生石オパールが様々な輝きを放つように、人生もまた様々な光に満ちている。初秋の美しい太陽光のもと、そうしたことを思いつつ作曲した。「様々な光の輝き」というテーマにそって、多様な楽案が一つの人生のようなタペストリーを織りあげる、そういった趣きのピアノ曲にしたいと願い、それを織り成す音色の糸や輝きの光の生地も多彩でありたいと思った。
三つの幻影 [水・炎・祈祷] Three Visions (Aqua/Flame/Invoker) (1994)
高橋アキにより1994年東京で献呈初演。1994年の春、私はインドを旅行し、その際、ガンジス河流域にあるヒンドゥー教の聖地バラナシに数日間滞在した。〈水〉、〈炎〉、〈祈祷〉の三曲より成るこの作品は、その時の体験にインスピレーションを得て作曲したものである。しかしこれはその体験を物語的に描写したものではない。三つの曲はそれぞれに独立した内容を持っており、個々に単独に演奏されることも可能である。

2005年5月24日、碇山典子によりCD収録・献呈初演。作曲イメージの発端に薔薇があった。私は薔薇に、女性原理に通じるような、肉体的・精神的な神秘を感じる。その姿は生命を生む官能の海の珊瑚の森のようであり、その香りは珊瑚の森に触れる波の吐息の香気のようである。ピアノの響きと音色のテクスチュアが持つ触感のエロティシズムに感応したいとの思いで作曲した。静かな夜、ひとりピアノに向って音を探っているとき、その「エロティシズム」には、避け難いタナトスの誘惑が秘められていると感じた。
-----
タンゴ Tango (1998)
1998年12月17日、東京・草月ホールにて高橋アキにより委嘱献呈初演。曲の構成はタンゴのリズム・パターンを織り込んだ4つの音楽素材に基づく一種のロンド形式。主調はロ短調だが曲中にはめまぐるしい転調を含んでいる。テンポは一貫してアレグロで、演奏上、やや技巧的なピアノ小品となったとは言えるかもしれない。こうしたタイプの曲を書いたのは初めてで、私にとっては新鮮で楽しい体験となった。

2002年6月14日東京にて寺嶋陸也により初演。作曲家林光さんらが中心になって企画された、東京での「アリラン」を特集した演奏会のために作曲したもの。タイトルが示すとおり、有名なアリランの旋律にもとづく自由な構成の幻想曲。このノスタルジックな東洋的旋律を知ったのがいつだったのかまったく思い出せないが、大阪での少年時代、10歳以前であることは間違いない。子供心にもしみ入る名旋律だと思う。
神秘の鐘 [薄明光/間奏曲/霧の河] Mystic Bells (Twilight glow/Interlude/Misty River) (2006)
2006年5月11日、碇山典子によりCD収録初演。この作曲における「鐘」のイメージは多分に宗教的であるが、仏教やキリスト教等、特定の宗教と結び付いたものではない。さまざまな「鐘音」は時間の流れの輝きの瞬間のようであり、また時空を超えた世界、たとえば異界や死後の世界にまでも届くシグナルのようでもある。さらに言えば、人心の深淵を照らす光のようであり、遠い異界からの光のようでもある。
I. 薄明光 ── 太陽が沈んだ直後、赤き残光はなお上空にとどまり、山の樹々の風に揺らぐ葉や、雪の高き峰を輝かせる。生から死へと向うゾーン、トワイライト・ゾーンの大気を震わせる鐘である。
II. 間奏曲 ── これは重い弔鐘が深々と奏されるインターリュードである。弔鐘に乗って、ゆっくりと歌い奏されるのは一種の「子守歌」。孤独な悲しい歌である。
III. 霧の河 ── 夜の霧の大河にうごめく様々な「存在」の気配。それらはなまめかしい水流の香気と交じり合い解け合って、異界から断続的に出現する不思議なオーロラのような鐘の響きを生みつづける。むろんそれは幻聴。神秘の鐘の音である。

2006年8月20日ザルツブルクで小菅優により献呈初演。タイトルのカラヴィンカ(kalaviṅka)は、日本では〈迦陵頻伽〉(かりょうびんが)と音写されており、それは仏教の阿弥陀経において、極楽に住むとされる特別な姿の鳥である。この鳥は人間の顔を持ち、体は鳥姿で、美しい声を持っている。カラヴィンカは、その美しい声によって仏陀の言葉を歌い、人々の魂を救済する。この曲は、カラヴィンカのイメージによって発想されたものであり、カラヴィンカの住む極楽のイメージは、京都の東寺に伝わる「胎蔵界マンダラ」から得ている。そのマンダラ宇宙は、母の胎内のようであり、様々な色彩の光や霊妙かつ官能的な香気にあふれている。そしてそこには、桃色の初々しい肌を持つ童児のような大日如来を中心に、やわらかで艶やかな御体の仏たちが集まっている。神秘的で豊満なエロティシズムに満たされた極楽宇宙である。カラヴィンカはそこに舞い、苦の現世に生きるわれわれに歌いかける。


----------------------------------
新ロマン主義とアカデミズム:西村朗を読み解く補助線として ───野々村 禎彦

ナチスドイツでは、「新音楽」は「頽廃音楽」として弾圧され、帝国音楽院の院長R.シュトラウスを頂点とする伝統的書法の作曲家のみが教鞭を執った。ドイツ敗戦後は彼らの戦争責任が追及され、オルフやエックらの作曲活動は大目に見られたが、教育の場からは厳しく排除され、アカデミズム=「新音楽」という例外的状況が成立した。すなわち、新ロマン主義はアンチ戦後前衛というよりは反アカデミズムである。逆に、アカデミズム側からも新ロマン主義は忌むべき存在だ。例えば、日本で機能和声を絶対視する伝統主義の急先鋒だった原博(1933-2002) は主著『無視された聴衆』(ケンロードミュージック, 1996)において、新ロマン主義は妥協ないし未熟さの産物であり、ブーレーズ《主なき槌》やペンデレツキ《広島の犠牲者に捧げる哀歌》の方がまだましと断じている。

戦後前衛の潮流はセリー主義の展開に沿って発展したが、ドイツでは1970年頃から状況が変わり始める。ラッヘンマン(1935-) によってこの時期に確立され、ヘスポス(1938-)、ハイン(1938-)、シュパーリンガー(1944-) らによって各々の手法で拡張され、シュテープラー(1949-)、ヘルツキー(1953-) らポスト戦後前衛世代の作曲家たちにも受け継がれた、噪音を音響効果ではない本質的な素材とする書法(筆者は便宜的に「ドイツ音響作曲」と総称している)が戦後前衛の大勢力のひとつになった。新ロマン主義側のW.リームがそれを参照したのは、奇妙なことではない。

この見方に立てば、フランスに新ロマン主義が存在しない理由は明らかである。パリ音楽院の正式名称がコンセルヴァトワール=伝統を保守する場であることからも明らかなように、アカデミズムと戦後前衛が無縁(メシアンは例外的な進歩派だが、戦後前衛との距離は大きい)な国は新ロマン主義とも無縁である。英国もアカデミズムは保守派の巣窟で、戦後前衛第二世代も最後は軒並み転向し、「新しい複雑性」の作曲家たちもみな国外で教鞭を執った。ナッセン(1952-) にせよアデス(1971-) にせよ、保守的書法の「天才少年」としてデビューした人々は新ロマン主義とは別物である。

だが、ヨーロッパ戦後前衛とも「実験工房」出身者が中核の「日本の戦後前衛」とも一味違う無調書法がいったん確立してしまうと、アカデミックな硬直化は避けられない。重要なのは書法自体ではなく、そこに至る過程での試行錯誤の経験なのだが、書法を確立し大家として遇されるようになった作曲家たちが作曲賞の審査員に収まり、先人の書法を悩まず受け継いだ後進たちを高く評価し、彼らが教職に就いてその書法を伝えてゆくサイクルには、草創期の熱気はもはや期待できない。「日本の戦後前衛」との尖鋭な対立が続いていれば起爆剤になった可能性もあったが、八村義夫(1938-85)、池辺晋一郎(1943-)、毛利蔵人(1950-97) ら若手有望株を青田買いして助手に採用し、宥和的な関係を作り上げた武満徹の政治的センスのおかげで、その望みも絶たれてしまった。

他方、西村のキャリアは吉松とは何もかも対照的に始まる。作品表の最初を飾る《耿》(1970) はW.リームのop.1と同じく16歳の作品であり、《ピアノ・ソナタ》(1972) は三善晃に倣った書法。東京藝大大学院に進みピアノ協奏曲第1番《紅蓮》(1977/79) で評価を確立するまで、アカデミズムの階段を順調に昇ったかに見えるが、この過程は日本のアカデミズムが輝きを失っていった過程でもあり、胸中は穏やかならぬものだったはずだ。《弦楽四重奏のためのヘテロフォニー》(1975/87) は、東アジアの民族音楽に想を得た最初の作品であり、日本の民族音楽に想を得て徐々に洗練を重ねていった先達の到達点を受け継ぐのではなく、彼らの試行錯誤のプロセスをよりグローバルな素材に基づいて追体験するという決意表明とみなせる。すなわち、西村の新ロマン主義において回帰すべき伝統とは、戦後日本のアカデミズムが輝いていた時期の精神だった。

1987年の室内楽個展に際して自らの根源を問い直した西村は、探求の対象をヘテロフォニーに絞り、原理的な連作《雅歌I-III》(1986-87) を書き上げた。この勢いを大編成に拡張し、最初の代表作《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》(1987) が生まれた。管弦楽パートは《雅歌》の音色的拡大版だが、休みなくトレモロを奏し続ける2台ピアノパートは、ピアノのトレモロをディレイで堆積した、《リタニア》(1973) に始まる70年代の佐藤作品の影響が色濃い(ただし西村は、使用音域や倍音構成の違いを強調する)。これと対照的な曲想のピアノ曲《星の鏡》(1992) では、今度は佐藤《星の門》(1982) が見え隠れする。東アジアの民族音楽は、ピアノ書法ではアカデミズム脱却の助けにはならず、打楽器書法ではまず《ケチャ》(1979) でガムランを模倣したのと同じプロセスと、より長い時間を要した。ともあれ本作は同年の尾高賞を受賞し、西村は一躍時の人になった。

西村はその後も着実に歩みを続け、《永遠なる混沌の光の中へ》(1990) と《光の環》(1991) が続けて尾高賞を受賞し、現代音楽界での地位を確立した。ただし、この賞が黛《涅槃交響曲》、諸井《協奏組曲》、松村《前奏曲》、湯浅《クロノプラスティク》、三善《チェロ協奏曲》《響紋》、松平頼曉《オシレーション》のような突出した作品をきちんと顕彰していたのはせいぜい西村《ヘテロフォニー》と細川俊夫《遠景I》(1987) まで、その後は業界評価の固まった作曲家の穏当な作品の中でのたらい回しに過ぎない。西村作品でも、《光のマントラ》(1993) や《蓮華化生》(1997) などの新たな音世界を切り拓いた作品は悉く受賞していない。この2作や弦楽四重奏曲第2番《光の波》(1992)・第3番《鳥》(1997) をアルディッティ四重奏団のために書いた時期が、西村のひとつの頂点だった。アカデミックな書法からの脱却に時間を要したピアノ曲でも、《3つの幻影》(1994) で個性的な表現を見出し、《オパール光のソナタ》(1998) はピーク期の作品に数えられよう。
