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Hiroaki OOI - "Bach, ripieno di Pianoforte"
リサイタル・シリーズ 《ピアノで弾くバッハ》第8回(最終回)公演
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2015年1月17日(土)15時開演 (14時半開場)
タカギクラヴィア松濤サロン (東京都渋谷区松濤1-26-4 Tel. 03-3770-9611)
最寄駅/JR・東横線・地下鉄「渋谷駅」より徒歩10分、京王井の頭線「神泉駅」より徒歩3分
全席自由 前売3500円/当日4000円
使用楽器:NYスタインウェイ
●J.S.バッハ:《音楽の捧げ物》 BWV1079 (1747) より
《王の主題によるカノン的労作》 ~ 無窮カノン - 二声のカノン〈求めよ、さらば与えられん〉 - 四声のためのカノン - 二声の蟹行カノン - 二声の反行カノン - 二声の拡大・反行カノン〈音価が増す如く王の幸いもいや増さんことを〉 - 二声の螺旋カノン - 二声の同度カノン - 上五度のカノン的フーガ
●J.S.バッハ:《フーガの技法》 BWV1080 (1742/50) より
コントラープンクトゥス・プリームス(対位第一) - コントラープンクトゥス・セクンドゥス(対位第二) - コントラープンクトゥス・テルティウス(対位第三) - コントラープンクトゥス・クァールトゥス(対位第四) - コントラープンクトゥス・クィーントゥス(対位第五) - コントラープンクトゥス・セクゥストゥス ア・クヮットロ イン・スティーロ・フランチェーゼ(対位第六、四声、フランス風) - コントラープンクトゥス・セプティムス ア・クヮットロ ペル・アウグメンターティオーネム・エト・ディーミヌーティオーネム(対位第七、四声、拡大と縮小による) - コントラープンクトゥス・オクターウス ア・トレ(対位第八、三声) - コントラープンクトゥス・ノーヌス ア・クヮットロ アッラ・デゥオデキマ(対位第九、四声、12度による) - コントラープンクトゥス・デキムス ア・クヮットロ アッラ・デキマ(対位第十、四声、10度による) - コントラープンクトゥス・ウンデキムス ア・クヮットロ(対位第十一、四声)
○杉山洋一:《間奏曲第IX番「スーペル・パッサカリア」》
~ウェーベルン:管弦楽のための《パッサカリア(主題と23の変奏) ニ短調》作品1に基づく/大井浩明に献呈 (1908/2013、委嘱作品・東京初演)
(休憩15分)
●J.S.バッハ:《音楽の捧げ物》 BWV1079 (1747) より
《三声のリチェルカーレ》+《六声のリチェルカーレ》
●J.S.バッハ:《フーガの技法》 BWV 1080 (1742/50) より
コントラープンクトゥス・インウェルスス・ドゥオデキムス ア・クヮットロ フォールマ・インウェルサ(転回対位第十二、四声、倒立形)~フォールマ・レクタ(同、正立形) - コントラープンクトゥス・インウェルスス ア・トレ フォールマ・レクタ(転回対位、三声、正立形)~フォールマ・インウェルサ(同、倒立形) - カノーネ・ペル・アウグメンターティオーネム・イン・コントラーリオー・モートゥー(拡大反行のカノン) - カノーネ・アッラ・オッターヴァ(8度のカノン) - カノーネ・アッラ・デキマ イン・コントラプント・アッラ・テルツァ(10度のカノン、3度の対位による) - カノーネ・アッラ・デゥオデキマ イン・コントラプント・アッラ・クィンタ(12度のカノン、5度の対位による) - フガ・ア・トレ・ソッジェッティ(三主題のフーガ)
お問い合わせ/(株)オカムラ&カンパニー tel 03-6804-7490(10:00~18:00 土日祝休)
info@okamura-co.com http://okamura-co.com/ja/events/piano-axis/
※タカギクラヴィアに直接チケットを申し込むと、隣接のカフェ
(http://www.cafetakagiklavier.com/cafe_f.html)のドリンク券がつきます。
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■リサイタル・シリーズ 《ピアノで弾くバッハ Bach, ripieno di Pianoforte》
第一回 2012年4月21日(土)平均律クラヴィア曲集第1巻(全24曲)
第二回 2012年7月28日(土)平均律クラヴィア曲集第2巻(全24曲)
番外編 2012年11月3日(土)シュトックハウゼン:自然の持続時間(全24曲、東京初演)
第三回 2013年4月20日(土)パルティータ全6曲
第四回 2013年7月27日(土)ゴルトベルク変奏曲、フランス序曲、イタリア協奏曲
第五回 2014年1月25日(土)イギリス組曲全6曲
第六回 2014月4月19日(土)フランス組曲全6曲
第七回 2014月7月19日(土)インヴェンションとシンフォニア(全曲)、最愛の兄へのカプリッチョ、半音階的幻想曲とフーガ、4つのデュエット他
第八回 2015年1月17日(土)フーガの技法(全曲)、音楽の捧げ物

A. まずは、チェンバロのフタの中に頭を突っ込んで、超至近距離で聞いてみましょう。勿論、そこそこ上手い奏者にお願いしなければなりません。
演奏者数の裾野が比較にならないほど広いぶん、「面白げな演奏する人がいる」ことでは、ピアノがチェンバロに圧勝するのは当然です。もしかして、チェンバロ界から超絶イケメンの天才的スターが2~3人輩出したら、一気に膾炙が進むかもしれません。
表現力・・に関しては、なにせ聴き手が21世紀の人なので、水掛け論になります。敢えて公平に言うならば、「チェンバロによる平均律の演奏は、ピアノによる平均律の演奏と同じ程度につまらない」(それぞれ理由が違う)。ピアノによるバッハ演奏を聞く気が起こらない主な理由は、「ピアニストが弾いてるから」です。ピアノが弾ける古楽器奏者の演奏なら、聞く気は多少起こるかもしれません。
インヴェンションとコラール・パルティータ(BWV 767)をモダンピアノで弾いてみて、前者は平気なのに後者では吐きそうな嫌悪感を覚えました。これは、「ピアノによるインヴェンションの演奏」をたまたま聞き慣れていたためであり、一方コラール・パルティータはオルガンでしか弾いた(聴いた)ことが無かったからだと、あとで気付きました。慣れとは恐ろしい。
「危うく淘汰されかかった」名曲は枚挙にいとまが無いので(例:マタイ受難曲)、淘汰されたから駄目、という話ではありませんね。

A. 私が尊敬するモダン楽器奏者(や指揮者)でも、古楽器に手を出さない(あるいは否定的な)方は一定数おられますので、これは音楽的才能の多寡とは関係ありません。例えばブーレーズ。
古楽奏者側にちらほら訊いてみると、自分たちの「センス」をモダン側に誇示する気も無いし批判しようとも思わない、ただ、揚げ足取りをされたり政治的圧力をじんわりかけてくるのが面倒臭い、という程度の無関心のようです。
ピアノに対するチェンバロの音色の絶対的優位を私が確信したのは、チェンバロに本腰を入れてから5年後でした。これは、クセナキスの真っ黒な譜面を平気で練習し続けられるようになるのに要した期間とほぼ同じです。いきなりそれらが出来る方々もいらっしゃいますが、私には無理でした。あたらしもん好きの直感が肉体的生理と結びつくのに、それくらいの時間がかかる場合もある、という事です。

A. モダン奏法と古楽奏法の音楽作りの手立ては80%くらいは重なっています。モダン奏法でも「第1拍が最も重要」という原則は共有されている筈ですが、これを徹底するのが古楽奏法の第一歩です。モダン奏法の中でも、「ロシアの人たちはクレッシェンドをデクレッシェンドに、デクレッシェンドをクレッシェンドにしたがるからねえw」、と云った、下衆な演出法への揶揄は存在します。
全否定・・というのは、クラシック音楽の故郷であるバッハとモーツァルトを古楽側が占領しかけているからでしょう。曰く、「あたくしはあたくしのバッハを弾きますから!」。そうは言っても、古楽器側だって「どうしてもグールドのテンポで弾きたい」とゴルトベルクで自爆する事もあるわけですから、お互い様ですね。

A. もしロラン・バルトがあと3年ほど長生きして、「グレン・グールドは死んだ、古楽器万歳!」なる短文でも遺していれば、このような「耳を疑う」言説は前世紀のうちに消尽していた事でしょう。近代批判をしたいんだったら、まずモダンピアノを弾くのをやめましょう。
300年前どころか、つい50年前のことさえ「修正」は余儀なく起こるものです。シュトックハウゼン曰く、「私の作業部屋には古いグロトリアン・シュタインヴェーク(Grotrian-Steinweg)のグランドピアノがありました。その楽器のサウンドには莫大な共鳴音が、特に高音域にありました。たまに私は頭を弦の上にとても近づけて、そしてグランドピアノの内側で聴いたものを幾つかの作品に作曲しました。後に、そのような作品が普通のスタインウェイ(Steinway)のグランドでコンサート・ホールで演奏されたとき、私が作曲しながら聴いていたものはもはや少しも聴こえませんでした。私の聴いた信じられないほどに美しい倍音は、古いシュタインヴェークよりも弦がきっちりと締められたコンサート・スタインウェイからはもう出てこないのです。現在のグランドピアノは大ホールのために造られているため、アタックが硬くて、高音域での共鳴音が充分に長くはありません」。 (http://www001.upp.so-net.ne.jp/kst-info/linerNotes/CD42/Klaviermusik1992.html)

A. 所沢市民文化センターミューズの市民向けオルガン教室(http://www.muse-tokorozawa.or.jp/news/boshu/museschoo/)のような場がもっと広がれば良いなと思います。
お近くのチェンバロ工房を検索して、レンタル楽器を問い合わせてみましょう。都内の工房でも、全国に出張することもあるようです。ヨーロッパの音大ならタダで弾き放題・習い放題ですが、日本だとある程度の出費と時間を覚悟しなければなりません。あと10年ほど生きる予定があり、バッハとモーツァルトが好きならば、まずはクラヴィコードをお勧めします。調律はスマホのアプリで十分です。
チェンバロの響きに少し親しんだあと、最終的にピアノに戻る、ということなら、YAMAHAクラヴィノーヴァのチェンバロ(やオルガン)の音色でも、何がしかを学べると思います。電子チェンバロでさえ、タッチで明瞭に「音色」は変えられます。電子楽器だと、調律法も簡単に色々試せるのは捨て難い長所です。
Q. チェンバロを始めるなら、ピアノには2年間触るなと言われた。やってらんない。
A. バッハの時代でも、非常に重い鍵盤のパイプオルガンの練習を、非常に軽い鍵盤のクラヴィコードで行っていたわけですから、必ずしもピアノを中断する必要はありません。

A. 18世紀音楽の奏法に関する三大教科書は、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ《正しいクラヴィーア奏法》、レオポルト・モーツァルト《バイオリン奏法》、ならびにヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ《フルート奏法試論》(それぞれ邦訳あり)ですが、これらを熟読しても、そうすんなりと実践へは移せません。ギーゼキングやコルトーの奏法本を眺めただけでは、ピアノがすらすら弾けるようにはならないのと同様です。こういったテクストは数百年前から存在し不易であるにもかかわらず、古楽演奏の現場ではおおよそ五年毎のヴァージョンアップ(試行錯誤)が重ねられています。
現代日本の特にモダン楽器奏者にとって、様々な文献の記述を項目別に整理した橋本英二「バロックから初期古典派までの音楽の奏法」(音楽之友社)(http://www.amazon.co.jp/dp/4276140307)は、入門書として最適でしょう。これを少しずつ読み進めながら、チェンバロやオルガンで目の前で実演してもらうのを盗むのが、一番手っ取り早いアプローチ法だと思います。幾つかのスタイル(試行例)に慣れたら、あとは自分で自由に開拓してゆけば宜しい。
古楽といえば、作品の成立経緯や使用楽器・エディション、調律法といったトピックに興味が集まりがちですけれども、バロック以降のすべての音楽に刺身包丁として利用出来るのが、いわゆる音楽修辞学(Rhetorik)です。トラヴェルソ奏者・有田正広氏のDVD「17~18世紀のついて音楽演奏法について」(全10巻、(株)村松楽器販売)(http://www.muramatsuflute.com/news/201008arita.html)は語り口も洒脱で、ピアニストが見ても全く飽きません。

A. 声に出して歌ってみて確認、というのが原則です。跳躍があるなら自然と少し切れるし、順次進行ならつながる。我々が口でしゃべっているリズムは等速のようにみえて不規則な緩急があるし、声の大きさも微妙に変化しています。完全にべたべたのレガートや、全部ばらばらのスタッカートでしゃべる人がいないように、その中間の「ノン・レガート」には無限の階梯がある。それを鍵盤上で真似てみる事。スタッカート(点)とレガート(棒)のみの順列はモールス信号です。上記の音楽修辞学から導かれる、当時のお約束パターンも活用出来ます。

A. 本シリーズ全8回でバッハ主要作品は一通りチェックしましたが、ペダルが無いと弾けない箇所はありませんでした。
ペダルについては、幾つかの複合的な要因が絡み合っています。まず、上記アーティキュレーション法に慣れ親しむと、「レガートの指使い」は不必要であり、よってフレーズ毎に連続親指あるいは連続小指等などを頻用しても問題ない事に気付きます。これが第一段階(音楽上の問題)。指使いはシンプルになり、よって弾き易くなりますが、モダンピアノではついつい重い鍵盤を上から押さえ込んでしまい、ポジション移動時などに「鍵盤から指を引っぺがす」ために、不用意なアクセントが付きがちです。これが第二段階(技術上の問題)。打鍵と離鍵の相即相容については、チェンバロやクラヴィコードのような軽い鍵盤である程度慣れてからでないと、やりにくいかもしれません。
べったりペダルを使ってバッハを弾く若者に、「流石に21世紀でそこまでべったりな人っているかなあ?」と恐る恐る訊いたところ、ポリーニ、と即答されて絶句しました。ポリーニ様は果たして、イタリア語では余程ざあます調のモルト・レガートでしゃべるのだろうか。あれほど素晴らしいピアニシモのコントロールが出来る天才が、ザルツブルクでチェンバロを3台も破壊したのはなにゆえか。
Q. トリルは上から?
A. 上からもさることながら、寸詰まりの痙攣になるくらいなら、装飾は全部カットしても構いません。「電気的に速く弾くな、色々変えろ」、とはモダンピアノの教本でも見かけましたよ。

A. チェンバロと違ってクラヴィコードでは音量が変えられる、と言っても、モダンピアノに比べればその幅は微々たるものです。要するに音数と音量が比例しているわけです(cf.BWV867)。また、チェンバロ・クラヴィコードともに、高音域にくらべて低音域は豊かな音色と音量を誇ります。
テーマは「そこにある」事が頭で分かっていれば、ことさらに音量差をつけなくても聴き手には伝わると思います。モダンピアノ奏者ながら、私のイタリア人師匠は「全ての声部が聞こえる事」が好きでした。低音を薄く弾かないと上手いと思ってもらえない、という呪縛は、彼と無縁でした。曰く、「マウリツィオのバッハはソプラノ声部しか聞こえてませんでしたよ」。
減衰の早いチェンバロやクラヴィコードでは、全体の風景がすっきりと見渡しやすいのに対し、中音域で込み入った複音楽(平均律など)はピアノには不向きでしょう。先だって久々に聴いたマラ5自作自演のピアノロールで、「バッハ好き」を標榜するカペルマイスター氏が、少なくともピアノ演奏中は3声さえ聞き分けられていないのには愕然としました。
強弱表現、という点では、バッハの譜面をやたらと「管弦楽化」したがる(=退屈さを恐れている)のも、蛇を画きて足を添うが如し。例えばゴルトベルク変奏曲で、「1段鍵盤で」「2段鍵盤で」「1段あるいは2段鍵盤で」という注釈と、各々の曲想はどう連関しているか。

A. ありません。
「アルゲリッチのシューマン《幻想曲》のテンポルバートの良さを理解して真似してる俺って凄くね?」というアマチュア大学生に、プロなら鼻白むでしょうが、世のバッハ演奏はそのたぐいのグールド劣化コピー版あるいはレオンハルト物真似版が多過ぎる。
21世紀の「意識の高い」ピアニストが大昔のレオンハルトの録音を真似する奇態はさておき、若手チェンバリストまでが下駄の雪に甘んじているのは如何なものか。パルティータ4番のアルマンドやらコントラプンクトゥス第10番をやたら遅く弾く奴がいるのはレオンハルトの録音由来、とは、レオンハルト弟子から教えてもらいました。レオンハルト自身は日々進歩を続けたのに、師事した弟子、あるいは録音をお手本にする若手は、ある時点で凝固したままであると。
ついでながら、先駆者としての氏には満腔の尊崇を捧げるものですが、個人的にはチェンバロでもオルガンでも氏の演奏を面白いと思ったことは一度もありません。恐惶謹言。
Q. 最後に何か一言・・
A. 短調で音符の少ないパッセージを、おセンチにめろめろ葬式みたいに弾いてる御前! ああ感受性豊かね、って褒めて欲しいか~?(遠藤ミチロウ)
