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●細川俊夫 Toshio HOSOKAWA, composer
1955年広島生まれ。1976年渡独、ベルリン芸術大学で尹伊桑に、フライブルク音楽大学でクラウス・フーバーに師事。日本を代表する作曲家として、欧米の主要なオーケストラ、音楽祭、オペラ劇場等から次々と委嘱を受け、国際的に高い評価を得ている。2004年エクサンプロヴァンス音楽祭の委嘱による2作目のオペラ《班女》(演出=A.T.d.ケースマイケル)、2005年ザルツブルク音楽祭委嘱のオーケストラ作品《循環する海》(世界初演=ウィーン・フィル)、ベルリン・フィルとバービカン・センター、コンセルトヘボウの共同委嘱による《ホルン協奏曲─開花の時─》といった作品は、大野和士、V.ゲルギエフ、F.ウェルザー=メスト、S.ラトルなど、世界一流の指揮者たちによって演奏されている。2001年ベルリン芸術アカデミー会員に、2012年バイエルン芸術アカデミーの会員に選出。現在、武生国際音楽祭音楽監督、東京音楽大学およびエリザベト音楽大学客員教授。
《メロディア II》(1977/78)は、ベルリン芸大時代に尹伊桑クラスで、調性的な要素を用いる、という課題の元に作曲された初期の習作。1977年同大学生コンサートで発表され、翌年に改訂、フランクフルトのアルテ・オパーにおけるゲオルク・フリードリッヒ・シェンクのリサイタルで1979年4月20日に初演。
《夜の響き》(1994/96)は、師クラウス・フーバーの70歳を記念して、彩の国さいたま芸術劇場委嘱により同劇場オープニング公演のための作曲。1994年10月15日野平一郎により初演。1996年に改訂、同年4月13日に同じく野平により初演。「曲は、短い俳句のような部分が6つ、連句のように連ねられている。ヴェーベルンの歌曲(作品17の第Ⅱ番)の音列を基礎として、それを独自の方法で変奏させた。本歌のなかのひとつの要素を、次の歌の構成要素として、展開し変奏させていく。私は、音が響き聴こえてくる世界と共に、聴こえない、余白の世界(間の部分)をほんの少しでも変化させたいと思う」。
《ピエール・ブーレーズのための俳句 ―75歳の誕生日に―》(2000/03)は、ロンドン・サウスバンク・センターでおこなわれた、ブーレーズ生誕75周年記念コンサートのために作曲され、ベリオ《インテルリネア》・カーター《ルトゥルヴァイユ》・リンドベルイ《ジュビリー》・陳銀淑《粒子》等とともに、2000年3月26日ロルフ・ハインドにより初演。2003年改訂、同年4月11日ルツェルンにて、ピエール=ロラン・エマールにより初演。
《舞い》(2012)は、ショット出版社社長ペーター・ハンザー=シュトレッカー博士の70歳を記念して、26ヶ国・70人の所属作曲家に「我々の時代の舞曲」をテーマに新作ピアノ曲を委嘱した、《ペトルーシュカ・プロジェクト》の一環として作曲。「日本の古代の舞楽(ダンス)音楽、『青海波』(せいがいは)は、源氏物語の中でも描写される名曲で、波のうねりを表現するシンプルなメロディーと、その背景に最初から最後まで同じリズムの伴奏が、時のサイクルの象徴のように繰り返される。まるでミニマルミュージックのような単調な繰り返しが特徴的な舞いの音楽である。このピアノ曲は、左手の伴奏に打楽器のリズムを模倣したリズムパターンが刻まれ、右手は、装飾音の多い雅楽的なメロディーが反復される」。
《エチュードI -2つの線-》(2011/12)は、エルンスト・フォン・ジーメンス音楽財団の助成により、ブゾーニ国際ピアノコンクール(伊ボルツァーノ)の本選課題曲として作曲、2011年8月27日及び28日にファイナリスト達によって初演された。翌年最終部を補作、2012年4月29日伊藤恵により東京にて献呈初演。「《2つの線》という題名は、私の音楽の特徴である音の書道(カリグラフィー)をピアノの旋律のラインで描こうとしたことに由来する。右手と左手の2つの線は、陰と陽(影と光、女性原理と男性原理)のように、互いに補完しあいながら、独自の音の宇宙を形成していく」。
《エチュードII -点と線-》(2012)は、中電不動産株式会社の委嘱、2013年2月8日名古屋にて小菅優により献呈初演。「本来線的な形態を持ったもの、二つの線(メロディー)を解体して、それを点として提示する。その点は、装飾音を持ちながら、あたかも線香花火が一つの中心から静かにその周辺に破裂して点滅するように、音のコスモスが形成される。その点の元々の線は、自由なカノンのように、時間を様々にずらして重層されていく。そうした点的な部分と、線的なメロディーが静かに余韻として重なり合い、ハーモニーを形成していく部分が、交互に提示される。夜の闇に静かに破裂する線香花火のような孤独な音たち。」「IIはIと対となって、演奏されることが望ましい」。
《エチュード第III番~第VI番》(2013)は、ルツェルン音楽祭・東京オペラシティ文化財団・ウィグモアホール(スイス・ホフマン財団助成)による共同委嘱で書かれ、2013年11月23日にルツェルン音楽祭で、児玉桃により献呈初演。
《エチュードIII -書(カリグラフィー)、俳句、1つの線-》:「強い和音の断続音によって空間と時間を断ち切り、その後、1つの音がエコーとして引き延ばされる。常に時間を垂直的に切っていき、そこに影のように残るエコー音を聴こうとする音楽。短く簡潔に、しかしその背後には大きな世界が響いてくるように」。
《エチュードIV -あやとり、2つの手による魔法(呪術)、3つの線-》: 「2つの手が、1つの紐から様々な形態を生み出しては、再び1つの紐に還っていく。小さな2つの手が、思いもかけない複雑な形を生み出していく手の魔術(呪術)。この曲では、2つの手が、最初は2つの絡み合う線を描き、それが、やがて3つの線となり、その線たちが激しく絡み合い、力強い世界を生み出していく」。
《エチュードV -怒り-》:「誰かへの、何かへの具体的な対象への『怒り』ではなく、人間のここにあることへの根源的な怒りのような感情を表現してみたかった。低音部は、常に鍵盤を音を出さずに押していく奏法で(サイレントキー)、その弦が共鳴されてエコーが生まれていく」。
《エチュードVI -歌、リート-》:「優しさ、愛情のうた。世界への愛情に満ちた眼差しのうた。メロディーが、和音、単音と様々な距離感を持って、歌われる」。
○三輪眞弘 Masahiro MIWA, composer
1958年東京に生まれる。1974年東京都立国立高校入学以来、友人と共に結成したロックバンドを中心に音楽活動を始め、1978年渡独。ベルリン芸術大学で尹伊桑に、ロベルト・シューマン音楽大学(デュッセルドルフ)でギュンター・ベッカーに師事。1980年代後半からコンピュータを用いた作曲の可能性を探求し、特にアルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる手法で数多くの作品を発表。1989年第10回入野賞第1位、2004年芥川作曲賞、2007年プリ・アルスエレクトロニカでグランプリ(ゴールデン・ニカ)、2010年芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。近著「三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八ー二〇一〇」出版、2012年9月にリリースされた新譜CD「村松ギヤ(春の祭典)」などをはじめ、活動は多岐にわたる。旧「方法主義」同人。「フォルマント兄弟」の兄。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授。
《3つの小品》(1976)
高校時代、ロックバンドで様々な曲をコピーしている間に自分達のオリジナル作品を作りたいという欲求が高まり、また、音楽以外に人生でやりたいことは何もないと思い詰めてぼくは音楽理論やピアノなどを個人的に習うようになった。その頃、あるピアノ教室の発表会が開かれることになり、そこで自作品を書いて発表することを勧められて作ったのがこの曲である。ぼくにとっては一応記譜された、そして(課題ではなく)自由に作曲した人生初めての作品で、当時は音楽の知識もそれほどなかったので「どうやって作曲したらいいんだ?」などと考え込むこともあまりなく、耳で探りながら音を楽譜に移していった。ただし、自分で演奏しなくてはならなかったため、ぼく自身の演奏能力の限界が作品にも大きく影響している・・だけでなく、それでも発表会では演奏を間違えてしまい、本来の形でこの曲が演奏されるのは39年を経た今回が初めてとなる。
全音音階をベースに、ディープパープルからコピーしたキメの不協和音(おそらく“Strange kind of Woman”)を取り入れ、さらに今回の新作同様、ポップスではお馴染みでも、クラシック音楽ではまず考えられない手動フェードアウトで終わる第一楽章。第二楽章は、どうしていいかわからなくて最後まで楽譜ができず、いくつかの和音やモチーフを手がかりに即興で弾いたが、当然その結果に自分でも満足できず、また楽譜も残っていない。ピアノ演奏に「手拍子」という特殊奏法を取り入れ、最後はピアニスト自身が楽譜に書かれているとおりに拍手する第三楽章・・という構成で「三つ子の魂百まで」という言葉が脳裏をよぎる。(三輪眞弘)
《レット・イット・ビー アジア旅行》(1990)
高橋アキにより委嘱録音初演。CD「ハイパー・ビートルズ」シリーズのために世界中の名だたる作曲家に並んで依頼を受け、緊張しながら作曲(編曲)した作品である。個人的妄想では「コンサート・ツアーでアジア諸国をまわっていたビートルズのジョンとポールが次第に5音音階音楽の魅力に冒されていく様子」を描いたものである。当時ぼくは柴田南雄氏の「音楽の骸骨のはなし」という著作に魅了され、その理論に基づく独自の5音音階アルゴリズム開発に腐心しており、この曲もまた氏の提唱する「骸骨図」に基づく「転調」によって、オリジナルの白鍵のみのハ長調から始まり黒鍵のみの5音音階で終わる。また、そのアルゴリズムの集大成として、1992年に高橋アキさんに委嘱初演された、2台のピアノとひとりのピアニストのための《東の唄》は生まれた。(三輪眞弘)
《虹機械第2番「七つの照射」》(2008)
2009年10月17日、東京ワンダーサイト本郷にて田中翼により初演。三輪は2008年より「新調性主義」というコンセプトを提唱しており、今回の曲はそのコンセプトの下での第2作目である。ピアノソロのための単旋律という形式をとっており、変ホ短調の「調性」をもつ。演奏者による「さっ」という7回の掛け声で隔てられた8つの部分からなる。「新調性主義」とは無調音楽でも既存の三和音に基づく調性音楽でもない、独自の調性音楽の理論体系を構築し、音楽生成アルゴリズムとして表現しようという試みである。この曲のアルゴリズムは、五度サークル上の音の移動の仕方を規定するものであり、中心音への引力(調性音楽の力学)が表現されている。16分音符12個が一小節をなし、この一小節のそれぞれの音の高さが決まると、次の一小節が規則から一意的に導かれる(ただし同音が続いた場合発音されない)。これを次々と反復して音楽が生成される。つまり、最初の一小節(初期値)が決まれば自動的に全体が決まる。この反復は、数学的には離散力学系となっている。一般に力学系はどのような初期値から始めても、アトラクタと呼ばれる集合へと引き込まれていくのだが、三輪はこの数学的な運動を、調性音楽の「中心音への引力」として解釈することで「調性」というものを形式化しているのである。7回の「さっ」という掛け声は、アトラクタに引き込まれて音楽がもはや進行しなくなった瞬間に、16分音符が一つ人為的にずらされ、力学系の軌道がそれるという合図である。ここから音楽の新たな進行が始まる。あたかも宇宙線の照射(radiation)によって遺伝子の突然変異が起こり、生物種の停滞が打ち破られるかのように。(田中翼)
《虹機械 公案-001(コウアンマイナスゼロゼロイチ)》(2015、委嘱新作初演)
「虹機械」というタイトルの作品は2008年に、甲斐史子(vn)+大須賀かおり(pf)のユニット、ROSCOに演奏を依頼した3部からなる「ふたりの奏者のための単旋律」、かつての四谷アート・ステュディウムでぼくが担当していた授業で知り合った田中翼さんの要望に応えて書かれた第二番「7つの照射」がある。今回の「公案-001」もまた両作品と同様の意気込み(概説を参照)とアルゴリズムで書かれた3作目であるが、それはこの題名で作品をシリーズ化することを意図したわけではなく、前2作のどちらにも作品としていろいろな意味でまだ何か「もの足りない」ところを感じていたからだ。つまり今回、大井浩明さんに演奏してもらえるという前提のもとでぼくは「虹機械」という2008年のアイデアを十全に「成就」させるべく再度挑戦したのである。
また今回は前作の第二番「7つの照射」も再演されるので、新作がそれととてもよく似ていることがわかるだろう。どちらもアルゴリズムによって自動生成される単旋律が(おそらく)調性の明瞭度などに影響されながら刻々と音楽的「気分」を変えていく。しかしその「気分」の起源が、変化を続ける音型パターンに鋭敏に、そして「機械のように」反応するしかないぼくたち人間の方にあることは言うまでもない。(三輪眞弘)
「虹機械」概説 ─── 三輪眞弘
今回、ぼくは伝統的な西洋音楽の楽譜や演奏会形式などを全面的に踏襲することにした。しかし、見かけは100年前とそっくりでも本質的な違いがある。
それは何より、100年前からまったく変わらなかった近・現代人の音楽に対する「信仰」の問題である。音楽とは「作家個人の内面(精神世界)を描いたものである」という信仰、要するに音楽は作家の思想を媒介するメディアなのだという暗黙の了解である。この信仰はまた「現代音楽」のみならず「時間的商品」であるポップスなど他の音楽ジャンルにおいてもまったく変わるところがない。しかし、グレゴリア聖歌どころか、例えばJ.S.バッハでさえ、心の内面を吐露すべく作曲したわけではないことをぼくらは知っているのだ。そうであるにも拘わらず「現代音楽」が調性や楽音をはじめとするあらゆる音楽の前提を放棄してもまだ、この信仰だけは疑うことがなかったし、まさにそうだったからこそ西洋音楽は「思弁の音響化」という風変わりなジャンルに変質していかざるを得なかったのだろうとぼくは考えている。
ならば、作家の精神性なるものを一切排除したところで作曲/音楽はどうしたら可能なのか?・・ぼくの答えは、コンピュータによってアルゴリズムを定義し、作家自身が直接個々の「音符」を選ばない「作曲」法だった。別の言い方をすれば、予測のつかない数列を生成するアルゴリズムを考え、その結果を作家自身が事後的に受け入れる、ということだ。(もちろん、実際は受け入れがたい結果が生まれることがほとんどなのだが)そこで重要なのは、ある意図した結果を得るためにアルゴリズムが決められたのではなく、アルゴリズム自体が自己目的化している点だろう。なぜなら、もしある目的のために作家がアルゴリズムを決めたとすれば、それは再び作者の意図の下に置かれ、「道具化」してしまうからである。逆に「それそのものとして」アルゴリズムを扱うということは、論理学的宇宙に向き合うということなである。アルゴリズムにはひとつの偶然や気まぐれもあり得ず、それが論理的である限り、なんらかの数学的な構造があり、生成される数列はしかるべき「ふるまい」を生み出し、「アルゴリズムとその初期値を定義した人」としての「作者」は存在する一方で、奏でられるすべての音の根拠は、作家の個性とは無縁な、この論理学的宇宙に属するものになるだろう。
しかし、アルゴリズムという「自動機械」によって選ばれた音の集まりは一体、音楽と呼べるのか?・・そう問うよりも、ぼくは逆に「音楽とは規則に従って選ばれた音を人間の身体を使って発音することである」と新たに定義しようと考える。それはアルゴリズム、即ち論理機械であるコンピュータに書き込まれたプログラム・コードの、人力によるリアライゼーションであり、演奏家は音符というフォーマットに変換されたデジタルな演算結果を読み取り、アナログ次元(現実空間)で発音する「D/A変換器」ということになる・・・「それではまるで人間が機械の奴隷ではないか?」、そう感じる人がいるかもしれないが、まず何より人間の演奏家が従っているのはコンピュータという物体ではなく、コンピュータを使って「発見」された、人間の理性でしか感知できない論理学的宇宙での出来事なのである。また、もともと楽譜というもの自体が「命令」としての暴力的な本質を持っているわけだが、その権威は、J.S.バッハの時代までは神が、そしてロマン派からは(神になった?)人間/作曲家が保証してきたのだろう。しかし人間が従うに値するのは人間ではなく、人間を越えた何かであり、ぼくにとってそれはいまのところこの論理学的宇宙以外にはない。何より人間が、自由ではなく、人間の都合ではどうにもならない「途方もないもの」に徹底的に従うところに、音楽/芸術は成立してきたのだ。ただし、徹底的に従うのは演奏家だけではない。作曲家もまた、無限にあり得るアルゴリズムから手探りでそのいくつかを選び取り、組合せ、プログラムし、(その結果は人間には予測不可能だから)検証する作業をいつ終わるという保証もなく繰り返し続けることになる。もちろん作曲家はアルゴリズムをいくらでも書き直すことができるが、その(計算)結果に対しては徹頭徹尾受け身でしかなく、作曲家は奇跡のようなアルゴリズムや初期値との出会いを求め続ける修行者のような存在となる。それはまるで、アボリジニの通過儀礼のように少年が自分の歌を探しにひとりで旅に出るのと似ている・・というのはあまりに「ロマンチック」だろうか?
12平均律における協和音程の原理を内包したアルゴリズムによって、脳の拡張としてのコンピュータが選び出した音符を、身体の拡張としての楽器が響かせるその瞬間こそ、現代のテクノロジーが伝統的な技芸/身体にはじめて「接続」されたときであり、それがアジア地域において実現し、「ロマン主義の亡霊」が消え去るまでには100年の歳月が必要だったと考えてみてはどうだろう。そして、他のどの民族文化においてもあり得ない、そのような挑戦がまだ「西洋音楽」には可能なはずだとぼくは信じている。 (「洪水」2009年冬号、特集「三輪眞弘の方法」”「虹機械」作曲ノート”より抜粋改訂)
大井浩明 Portraits of Composers [POC]
第20回公演 細川俊夫/三輪眞弘 ピアノ作品集
2015年1月25日(日)18時開演(17時半開場)
両国門天ホール
【演奏曲目】
○三輪眞弘:《3つの小品》 (1976、世界初演)
●細川俊夫:《メロディアII》(1977/78)
○三輪眞弘:《レット・イット・ビー アジア旅行》(1990)
●細川俊夫:《夜の響き》(1994/96)
●細川俊夫:《ピエール・ブーレーズのための俳句》(2000/03)
○三輪眞弘:《虹機械第2番「七つの照射」》(2008)
──休憩(15分)──
●細川俊夫:《舞い》(2012)
●細川俊夫:《エチュード集》(2011/13)
○三輪眞弘:《虹機械 公案-001》(2015、委嘱新作・世界初演)
※曲目の一部に変更が御座います。ご了承下さい。
●細川俊夫 Toshio HOSOKAWA, composer
1955年広島生まれ。1976年渡独、ベルリン芸術大学で尹伊桑に、フライブルク音楽大学でクラウス・フーバーに師事。日本を代表する作曲家として、欧米の主要なオーケストラ、音楽祭、オペラ劇場等から次々と委嘱を受け、国際的に高い評価を得ている。2004年エクサンプロヴァンス音楽祭の委嘱による2作目のオペラ《班女》(演出=A.T.d.ケースマイケル)、2005年ザルツブルク音楽祭委嘱のオーケストラ作品《循環する海》(世界初演=ウィーン・フィル)、ベルリン・フィルとバービカン・センター、コンセルトヘボウの共同委嘱による《ホルン協奏曲─開花の時─》といった作品は、大野和士、V.ゲルギエフ、F.ウェルザー=メスト、S.ラトルなど、世界一流の指揮者たちによって演奏されている。2001年ベルリン芸術アカデミー会員に、2012年バイエルン芸術アカデミーの会員に選出。現在、武生国際音楽祭音楽監督、東京音楽大学およびエリザベト音楽大学客員教授。
《メロディア II》(1977/78)は、ベルリン芸大時代に尹伊桑クラスで、調性的な要素を用いる、という課題の元に作曲された初期の習作。1977年同大学生コンサートで発表され、翌年に改訂、フランクフルトのアルテ・オパーにおけるゲオルク・フリードリッヒ・シェンクのリサイタルで1979年4月20日に初演。
《夜の響き》(1994/96)は、師クラウス・フーバーの70歳を記念して、彩の国さいたま芸術劇場委嘱により同劇場オープニング公演のための作曲。1994年10月15日野平一郎により初演。1996年に改訂、同年4月13日に同じく野平により初演。「曲は、短い俳句のような部分が6つ、連句のように連ねられている。ヴェーベルンの歌曲(作品17の第Ⅱ番)の音列を基礎として、それを独自の方法で変奏させた。本歌のなかのひとつの要素を、次の歌の構成要素として、展開し変奏させていく。私は、音が響き聴こえてくる世界と共に、聴こえない、余白の世界(間の部分)をほんの少しでも変化させたいと思う」。
《ピエール・ブーレーズのための俳句 ―75歳の誕生日に―》(2000/03)は、ロンドン・サウスバンク・センターでおこなわれた、ブーレーズ生誕75周年記念コンサートのために作曲され、ベリオ《インテルリネア》・カーター《ルトゥルヴァイユ》・リンドベルイ《ジュビリー》・陳銀淑《粒子》等とともに、2000年3月26日ロルフ・ハインドにより初演。2003年改訂、同年4月11日ルツェルンにて、ピエール=ロラン・エマールにより初演。
《舞い》(2012)は、ショット出版社社長ペーター・ハンザー=シュトレッカー博士の70歳を記念して、26ヶ国・70人の所属作曲家に「我々の時代の舞曲」をテーマに新作ピアノ曲を委嘱した、《ペトルーシュカ・プロジェクト》の一環として作曲。「日本の古代の舞楽(ダンス)音楽、『青海波』(せいがいは)は、源氏物語の中でも描写される名曲で、波のうねりを表現するシンプルなメロディーと、その背景に最初から最後まで同じリズムの伴奏が、時のサイクルの象徴のように繰り返される。まるでミニマルミュージックのような単調な繰り返しが特徴的な舞いの音楽である。このピアノ曲は、左手の伴奏に打楽器のリズムを模倣したリズムパターンが刻まれ、右手は、装飾音の多い雅楽的なメロディーが反復される」。
《エチュードI -2つの線-》(2011/12)は、エルンスト・フォン・ジーメンス音楽財団の助成により、ブゾーニ国際ピアノコンクール(伊ボルツァーノ)の本選課題曲として作曲、2011年8月27日及び28日にファイナリスト達によって初演された。翌年最終部を補作、2012年4月29日伊藤恵により東京にて献呈初演。「《2つの線》という題名は、私の音楽の特徴である音の書道(カリグラフィー)をピアノの旋律のラインで描こうとしたことに由来する。右手と左手の2つの線は、陰と陽(影と光、女性原理と男性原理)のように、互いに補完しあいながら、独自の音の宇宙を形成していく」。
《エチュードII -点と線-》(2012)は、中電不動産株式会社の委嘱、2013年2月8日名古屋にて小菅優により献呈初演。「本来線的な形態を持ったもの、二つの線(メロディー)を解体して、それを点として提示する。その点は、装飾音を持ちながら、あたかも線香花火が一つの中心から静かにその周辺に破裂して点滅するように、音のコスモスが形成される。その点の元々の線は、自由なカノンのように、時間を様々にずらして重層されていく。そうした点的な部分と、線的なメロディーが静かに余韻として重なり合い、ハーモニーを形成していく部分が、交互に提示される。夜の闇に静かに破裂する線香花火のような孤独な音たち。」「IIはIと対となって、演奏されることが望ましい」。
《エチュード第III番~第VI番》(2013)は、ルツェルン音楽祭・東京オペラシティ文化財団・ウィグモアホール(スイス・ホフマン財団助成)による共同委嘱で書かれ、2013年11月23日にルツェルン音楽祭で、児玉桃により献呈初演。
《エチュードIII -書(カリグラフィー)、俳句、1つの線-》:「強い和音の断続音によって空間と時間を断ち切り、その後、1つの音がエコーとして引き延ばされる。常に時間を垂直的に切っていき、そこに影のように残るエコー音を聴こうとする音楽。短く簡潔に、しかしその背後には大きな世界が響いてくるように」。
《エチュードIV -あやとり、2つの手による魔法(呪術)、3つの線-》: 「2つの手が、1つの紐から様々な形態を生み出しては、再び1つの紐に還っていく。小さな2つの手が、思いもかけない複雑な形を生み出していく手の魔術(呪術)。この曲では、2つの手が、最初は2つの絡み合う線を描き、それが、やがて3つの線となり、その線たちが激しく絡み合い、力強い世界を生み出していく」。
《エチュードV -怒り-》:「誰かへの、何かへの具体的な対象への『怒り』ではなく、人間のここにあることへの根源的な怒りのような感情を表現してみたかった。低音部は、常に鍵盤を音を出さずに押していく奏法で(サイレントキー)、その弦が共鳴されてエコーが生まれていく」。
《エチュードVI -歌、リート-》:「優しさ、愛情のうた。世界への愛情に満ちた眼差しのうた。メロディーが、和音、単音と様々な距離感を持って、歌われる」。
○三輪眞弘 Masahiro MIWA, composer
1958年東京に生まれる。1974年東京都立国立高校入学以来、友人と共に結成したロックバンドを中心に音楽活動を始め、1978年渡独。ベルリン芸術大学で尹伊桑に、ロベルト・シューマン音楽大学(デュッセルドルフ)でギュンター・ベッカーに師事。1980年代後半からコンピュータを用いた作曲の可能性を探求し、特にアルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる手法で数多くの作品を発表。1989年第10回入野賞第1位、2004年芥川作曲賞、2007年プリ・アルスエレクトロニカでグランプリ(ゴールデン・ニカ)、2010年芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。近著「三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八ー二〇一〇」出版、2012年9月にリリースされた新譜CD「村松ギヤ(春の祭典)」などをはじめ、活動は多岐にわたる。旧「方法主義」同人。「フォルマント兄弟」の兄。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授。
《3つの小品》(1976)
高校時代、ロックバンドで様々な曲をコピーしている間に自分達のオリジナル作品を作りたいという欲求が高まり、また、音楽以外に人生でやりたいことは何もないと思い詰めてぼくは音楽理論やピアノなどを個人的に習うようになった。その頃、あるピアノ教室の発表会が開かれることになり、そこで自作品を書いて発表することを勧められて作ったのがこの曲である。ぼくにとっては一応記譜された、そして(課題ではなく)自由に作曲した人生初めての作品で、当時は音楽の知識もそれほどなかったので「どうやって作曲したらいいんだ?」などと考え込むこともあまりなく、耳で探りながら音を楽譜に移していった。ただし、自分で演奏しなくてはならなかったため、ぼく自身の演奏能力の限界が作品にも大きく影響している・・だけでなく、それでも発表会では演奏を間違えてしまい、本来の形でこの曲が演奏されるのは39年を経た今回が初めてとなる。
全音音階をベースに、ディープパープルからコピーしたキメの不協和音(おそらく“Strange kind of Woman”)を取り入れ、さらに今回の新作同様、ポップスではお馴染みでも、クラシック音楽ではまず考えられない手動フェードアウトで終わる第一楽章。第二楽章は、どうしていいかわからなくて最後まで楽譜ができず、いくつかの和音やモチーフを手がかりに即興で弾いたが、当然その結果に自分でも満足できず、また楽譜も残っていない。ピアノ演奏に「手拍子」という特殊奏法を取り入れ、最後はピアニスト自身が楽譜に書かれているとおりに拍手する第三楽章・・という構成で「三つ子の魂百まで」という言葉が脳裏をよぎる。(三輪眞弘)
《レット・イット・ビー アジア旅行》(1990)
高橋アキにより委嘱録音初演。CD「ハイパー・ビートルズ」シリーズのために世界中の名だたる作曲家に並んで依頼を受け、緊張しながら作曲(編曲)した作品である。個人的妄想では「コンサート・ツアーでアジア諸国をまわっていたビートルズのジョンとポールが次第に5音音階音楽の魅力に冒されていく様子」を描いたものである。当時ぼくは柴田南雄氏の「音楽の骸骨のはなし」という著作に魅了され、その理論に基づく独自の5音音階アルゴリズム開発に腐心しており、この曲もまた氏の提唱する「骸骨図」に基づく「転調」によって、オリジナルの白鍵のみのハ長調から始まり黒鍵のみの5音音階で終わる。また、そのアルゴリズムの集大成として、1992年に高橋アキさんに委嘱初演された、2台のピアノとひとりのピアニストのための《東の唄》は生まれた。(三輪眞弘)
《虹機械第2番「七つの照射」》(2008)
2009年10月17日、東京ワンダーサイト本郷にて田中翼により初演。三輪は2008年より「新調性主義」というコンセプトを提唱しており、今回の曲はそのコンセプトの下での第2作目である。ピアノソロのための単旋律という形式をとっており、変ホ短調の「調性」をもつ。演奏者による「さっ」という7回の掛け声で隔てられた8つの部分からなる。「新調性主義」とは無調音楽でも既存の三和音に基づく調性音楽でもない、独自の調性音楽の理論体系を構築し、音楽生成アルゴリズムとして表現しようという試みである。この曲のアルゴリズムは、五度サークル上の音の移動の仕方を規定するものであり、中心音への引力(調性音楽の力学)が表現されている。16分音符12個が一小節をなし、この一小節のそれぞれの音の高さが決まると、次の一小節が規則から一意的に導かれる(ただし同音が続いた場合発音されない)。これを次々と反復して音楽が生成される。つまり、最初の一小節(初期値)が決まれば自動的に全体が決まる。この反復は、数学的には離散力学系となっている。一般に力学系はどのような初期値から始めても、アトラクタと呼ばれる集合へと引き込まれていくのだが、三輪はこの数学的な運動を、調性音楽の「中心音への引力」として解釈することで「調性」というものを形式化しているのである。7回の「さっ」という掛け声は、アトラクタに引き込まれて音楽がもはや進行しなくなった瞬間に、16分音符が一つ人為的にずらされ、力学系の軌道がそれるという合図である。ここから音楽の新たな進行が始まる。あたかも宇宙線の照射(radiation)によって遺伝子の突然変異が起こり、生物種の停滞が打ち破られるかのように。(田中翼)
《虹機械 公案-001(コウアンマイナスゼロゼロイチ)》(2015、委嘱新作初演)
「虹機械」というタイトルの作品は2008年に、甲斐史子(vn)+大須賀かおり(pf)のユニット、ROSCOに演奏を依頼した3部からなる「ふたりの奏者のための単旋律」、かつての四谷アート・ステュディウムでぼくが担当していた授業で知り合った田中翼さんの要望に応えて書かれた第二番「7つの照射」がある。今回の「公案-001」もまた両作品と同様の意気込み(概説を参照)とアルゴリズムで書かれた3作目であるが、それはこの題名で作品をシリーズ化することを意図したわけではなく、前2作のどちらにも作品としていろいろな意味でまだ何か「もの足りない」ところを感じていたからだ。つまり今回、大井浩明さんに演奏してもらえるという前提のもとでぼくは「虹機械」という2008年のアイデアを十全に「成就」させるべく再度挑戦したのである。
また今回は前作の第二番「7つの照射」も再演されるので、新作がそれととてもよく似ていることがわかるだろう。どちらもアルゴリズムによって自動生成される単旋律が(おそらく)調性の明瞭度などに影響されながら刻々と音楽的「気分」を変えていく。しかしその「気分」の起源が、変化を続ける音型パターンに鋭敏に、そして「機械のように」反応するしかないぼくたち人間の方にあることは言うまでもない。(三輪眞弘)
「虹機械」概説 ─── 三輪眞弘
今回、ぼくは伝統的な西洋音楽の楽譜や演奏会形式などを全面的に踏襲することにした。しかし、見かけは100年前とそっくりでも本質的な違いがある。
それは何より、100年前からまったく変わらなかった近・現代人の音楽に対する「信仰」の問題である。音楽とは「作家個人の内面(精神世界)を描いたものである」という信仰、要するに音楽は作家の思想を媒介するメディアなのだという暗黙の了解である。この信仰はまた「現代音楽」のみならず「時間的商品」であるポップスなど他の音楽ジャンルにおいてもまったく変わるところがない。しかし、グレゴリア聖歌どころか、例えばJ.S.バッハでさえ、心の内面を吐露すべく作曲したわけではないことをぼくらは知っているのだ。そうであるにも拘わらず「現代音楽」が調性や楽音をはじめとするあらゆる音楽の前提を放棄してもまだ、この信仰だけは疑うことがなかったし、まさにそうだったからこそ西洋音楽は「思弁の音響化」という風変わりなジャンルに変質していかざるを得なかったのだろうとぼくは考えている。
ならば、作家の精神性なるものを一切排除したところで作曲/音楽はどうしたら可能なのか?・・ぼくの答えは、コンピュータによってアルゴリズムを定義し、作家自身が直接個々の「音符」を選ばない「作曲」法だった。別の言い方をすれば、予測のつかない数列を生成するアルゴリズムを考え、その結果を作家自身が事後的に受け入れる、ということだ。(もちろん、実際は受け入れがたい結果が生まれることがほとんどなのだが)そこで重要なのは、ある意図した結果を得るためにアルゴリズムが決められたのではなく、アルゴリズム自体が自己目的化している点だろう。なぜなら、もしある目的のために作家がアルゴリズムを決めたとすれば、それは再び作者の意図の下に置かれ、「道具化」してしまうからである。逆に「それそのものとして」アルゴリズムを扱うということは、論理学的宇宙に向き合うということなである。アルゴリズムにはひとつの偶然や気まぐれもあり得ず、それが論理的である限り、なんらかの数学的な構造があり、生成される数列はしかるべき「ふるまい」を生み出し、「アルゴリズムとその初期値を定義した人」としての「作者」は存在する一方で、奏でられるすべての音の根拠は、作家の個性とは無縁な、この論理学的宇宙に属するものになるだろう。
しかし、アルゴリズムという「自動機械」によって選ばれた音の集まりは一体、音楽と呼べるのか?・・そう問うよりも、ぼくは逆に「音楽とは規則に従って選ばれた音を人間の身体を使って発音することである」と新たに定義しようと考える。それはアルゴリズム、即ち論理機械であるコンピュータに書き込まれたプログラム・コードの、人力によるリアライゼーションであり、演奏家は音符というフォーマットに変換されたデジタルな演算結果を読み取り、アナログ次元(現実空間)で発音する「D/A変換器」ということになる・・・「それではまるで人間が機械の奴隷ではないか?」、そう感じる人がいるかもしれないが、まず何より人間の演奏家が従っているのはコンピュータという物体ではなく、コンピュータを使って「発見」された、人間の理性でしか感知できない論理学的宇宙での出来事なのである。また、もともと楽譜というもの自体が「命令」としての暴力的な本質を持っているわけだが、その権威は、J.S.バッハの時代までは神が、そしてロマン派からは(神になった?)人間/作曲家が保証してきたのだろう。しかし人間が従うに値するのは人間ではなく、人間を越えた何かであり、ぼくにとってそれはいまのところこの論理学的宇宙以外にはない。何より人間が、自由ではなく、人間の都合ではどうにもならない「途方もないもの」に徹底的に従うところに、音楽/芸術は成立してきたのだ。ただし、徹底的に従うのは演奏家だけではない。作曲家もまた、無限にあり得るアルゴリズムから手探りでそのいくつかを選び取り、組合せ、プログラムし、(その結果は人間には予測不可能だから)検証する作業をいつ終わるという保証もなく繰り返し続けることになる。もちろん作曲家はアルゴリズムをいくらでも書き直すことができるが、その(計算)結果に対しては徹頭徹尾受け身でしかなく、作曲家は奇跡のようなアルゴリズムや初期値との出会いを求め続ける修行者のような存在となる。それはまるで、アボリジニの通過儀礼のように少年が自分の歌を探しにひとりで旅に出るのと似ている・・というのはあまりに「ロマンチック」だろうか?
12平均律における協和音程の原理を内包したアルゴリズムによって、脳の拡張としてのコンピュータが選び出した音符を、身体の拡張としての楽器が響かせるその瞬間こそ、現代のテクノロジーが伝統的な技芸/身体にはじめて「接続」されたときであり、それがアジア地域において実現し、「ロマン主義の亡霊」が消え去るまでには100年の歳月が必要だったと考えてみてはどうだろう。そして、他のどの民族文化においてもあり得ない、そのような挑戦がまだ「西洋音楽」には可能なはずだとぼくは信じている。 (「洪水」2009年冬号、特集「三輪眞弘の方法」”「虹機械」作曲ノート”より抜粋改訂)