感想集 http://togetter.com/li/683198
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終戦70周年記念 ピースフルコンサート2015 《我らに平和を》
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■アルテュール・オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
■オリヴィエ・メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
浦壁信二(pf) + 大井浩明(pf)
チラシpdf
2015年3月13日(金)19時開演(18時半開場)
公園通りクラシックス(東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円 http://k-classics.net/schedule/detail.php?id=4371
【予約・問い合わせ】 tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp (公園通りクラシックス)
※2014年9月ショスタコーヴィチ公演 感想集
オーケストラのような大編成のために書かれた音楽作品をピアノ用に編曲する場合、そこには何らかの意図や目的があるだろうが、ショスタコーヴィチは専ら自作を知らしめるための手段としてこの種の編曲を行った。
当時のソ連では交響曲などの新作は事前に作曲家同盟内で公開演奏に値するかどうかを議論することが通例だったが、その際の“試演”は連弾ないしは2台ピアノで行われた。ごく親しい仲間を自宅に招いて新作のお披露目をする時などは直接総譜を見ながらピアノを弾いたと伝えられるショスタコーヴィチも、そのように作品の運命を左右しかねない場での演奏に際しては、事前に演奏用の楽譜を準備した。ショスタコーヴィチ自身と友人の作曲家ヴァインベルグとの演奏でレコード録音もされた交響曲第10番の2台ピアノ用編曲は、こうした「知らしめる」目的の代表例である。また、昨年9月12日に浦壁と大井が日本初演を行った交響曲第4番の編曲も、初演に至る紆余曲折の中で重要な役割を果たした。
一方、ショスタコーヴィチが様々な楽曲を「知る」目的で行った編曲も、僅かではあるが残されている。その背景には、自身が専門教育を受けた時の原体験がある:
プラウダ批判後、交響曲第5番で名誉を回復した1937年から、ジダーノフ批判を受けて失職した1948年まで、ショスタコーヴィチは母校のレニングラード音楽院などで教鞭を執った。作曲法や管弦楽法の修得にあたってショスタコーヴィチが重視したのは、古今の楽曲に知悉することであった。教職就任の翌年には「作曲家が偉大な先人のことを熟知し、それに学んでこそ、独自の音楽語法、創作スタイルをみつけることができる。(中略)作曲法をどういうふうに教えるのが正しいか。たえずわたしと生徒たちは、『実作する』だけでなく、古典音楽を学ぶようにこころがけている。」(『ショスタコーヴィチ自伝』, pp.88~89)と述べている。
このように楽曲を学ぶ手段として、ショスタコーヴィチはピアノの重要性を強調していた。教職を離れた後の1955年にも、次のように語っている:「作曲家は誰でもピアノに習熟することが必要である。連弾でき、総譜が自由に読めれば、古典音楽、現代音楽の研究ははるかに楽になる。作品を研究するということは、たった一度ひいて、つぎに移るという意味ではない。それは、その作品が気に入ったら何日もひきつづき、くりかえしひいてみるということだ。それは結局、その作曲家の秘密にふれることを意味する。(中略)自分以外の人のすぐれた音楽を研究すればするほど、自分自身の音楽も結局は独創的なものとなる。(中略)若い音楽家の教育のためには、古典音楽の連弾、総譜の読みとりが大きな役に立つ。たとえばシューマンやシューベルトの交響曲は、わが国ではめったに演奏されない。それならばなぜそれらの総譜をみず、それを連弾しようとしないのか。一般に読譜のできない音楽家ほど頼りないものがあろうか」(『ショスタコーヴィチ自伝』, pp.230~231)。
ショスタコーヴィチが手掛けたこの種の編曲で現存するのは、ストラヴィンスキーの詩篇交響曲、オネゲルの交響曲第3番「典礼風」、マーラーの交響曲第10番の3曲だけだが、いずれもその成立背景はほぼ全く明らかではない。ただ、ショスタコーヴィチの最初の弟子の一人であり、一時は愛人関係にもあったウストヴォーリスカヤが「彼は私にマーラーの交響曲(筆者注:これが上述の第10番かどうかは、現時点で未出版のために確認できない)をプレゼントしてくれました。ストラヴィンスキーもよく弾いてくれました。彼がストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』を編曲した音楽を聴いたことがあります。」(ヘーントワ:『驚くべきショスタコーヴィチ』, p.190)と回想していることから、基本的には自身が関心を抱いた作品を学生達と共に勉強する意図で編曲がなされたのではないかと推察される。
1943年以降はモスクワ音楽院で教授職を務めていたショスタコーヴィチがレニングラード音楽院に正式に復職したのは、1947年2月のことだった。同年5月に第1回プラハの春国際音楽コンクールに出席するためにプラハを訪れたショスタコーヴィチは、プラハの春音楽祭にも参加した。「フェスチバルの演奏で興味ぶかかったのは、オネゲルの新作交響曲を指揮したフランスのシャルル・ミュンシ(中略)だった。オネゲルの交響曲は、思想の重要性と情緒の深さとをめざしている点で光っていた」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.167)。ここで言及されている「オネゲルの新作交響曲」というのが、1946年に初演されたばかりの交響曲第3番「典礼風」である。帰国後、自身が感銘を受けたオネゲルの最新作をショスタコーヴィチ自らが4手用に編曲し、最先端の教材として学生に紹介した、というのが、おそらくはこの編曲の成立に至る経緯なのだろう。
オリジナルの総譜がピアノでどのように再現されているかという編曲の技術的な側面に対する興味はもちろんだが、気鋭の作曲家であったショスタコーヴィチと才能豊かな若き学生たちとが集った音楽院の教室のアカデミックな雰囲気に思いを馳せ、20世紀の古典の一つである「典礼風」を、いま一度新鮮な気持ちで聴くのも一興であろう。(工藤庸介)
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「《アーメンの幻影》が初演された当時、パリはドイツ軍による占領下のただ中にあった。演奏会はその間も活発に催されていたが、オペラ座ではカラヤン率いるベルリン国立歌劇場がヴァーグナーのオペラを上演し、演奏会プログラムからはユダヤ系作曲家の作品が排除されるなど、音楽界の様相は次第に戦時色を濃くしていった。こうした状況を受けて1942年に始まったのが、『フランス新評論』や『プレイアッド叢書』の刊行で知られるガリマール社主催によるプレイアッド演奏会シリーズである。同社社長ガストン・ガリマールは、パリの名士たちが集う一種のサロンを作りたいと願っていた。演奏会の運営を担っていたガリマールの友人ドゥニーズ・テュアルは、1942年秋に聖トリニテ教会で偶然耳にしたメシアンの演奏に心を奪われ、プレイアッド演奏会のための作品を彼にぜひ委嘱したいと申し出た。この委嘱を快諾したメシアンは早速作曲に取りかかり、1943年3月中旬に《アーメンの幻影》を完成、4月半ばにはロリオとの練習を開始した。1943年5月10日にシャルパンティエ画廊で行われた初演は、オネゲル、プーランク、ヴァレリー、コクトー、ディオールといった名だたる文化人が見守るなかで行われ、第1ピアノをロリオ、第2ピアノをメシアンが担当した。楽譜は1950年3月にデュラン社から出版されている。
《アーメンの幻影》は、メシアンが独自のピアノ音楽の書法の探究に乗り出すきっかけとなった作品である。1930年代、メシアンは作曲家グループ「ラ・スピラル」および「若きフランス」で自作を含めた同時代音楽の普及に携わり、フランスの新進作曲家のひとりとして名を馳せた。しかし、第2次世界大戦中の1940年、メシアンはドイツ軍の捕虜として拘束され、ドレスデン近郊の収容所で生活を送る。記念碑的作品《時の終わりのための四重奏曲》が作曲されたのはこの時である。1941年パリに戻ったメシアンは、パリ音楽院の和声クラス教授として教育活動に携わる傍ら、自らの音楽語法の解説書『わが音楽技法』を執筆し、自らの語法の体系化を試みる。戦争体験後のこうした再出発の時期にメシアンが出会ったのが、当時パリ音楽院で学んでいたイヴォンヌ・ロリオである。ロリオの高度な音楽的資質に刺戟を受けたメシアンは、それまで主としてオルガン作品で扱ってきた神学的なテーマを演奏会用のピアノ音楽に導入するというアイディアを得る。こうしてメシアンは、14年前の《前奏曲集》以来となるピアノ曲集の作曲に取り組み、続いて大作《神の臨在への3つの小典礼曲》と《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし》を比較的短い間で書き上げたのである。」 (平野貴俊)
浦壁信二 Shinji URAKABE, piano
1969年生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に入会。’81年のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加、ロストロポーヴィッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と自作曲を共演、その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演した。’85年都立芸術高校音楽科(作曲科)に入学。
’87年渡仏しパリ国立高等音楽院に入学、J.リュエフ、B.ド・クレピー、J.ケルネル、M.メルレの各氏に師事。和声・フーガ・伴奏の各科で一等賞、対位法で二等賞を得る。ピアノをT.パラスキヴェスコに師事。その他、V.ゴルノスタエヴァ、J.デームス両氏等のマスタークラスを受講。
’94年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで優勝(日本人初)、同時にブランシュ・セルヴァ特別賞受賞。一躍注目を浴び、ヨーロッパ各地でリサイタルを行う。‘96年2月仏SolsticeレーベルよりCD「スクリャービン ピアノ曲集」をリリース、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック、チューン各誌で絶賛を博す。
‘95~’03年にはヤマハマスタークラスで後進の指導に当たり、数々の国際コンクール入賞・優勝者を輩出。’07年トッパンホールにて「20世紀のスタンダードから」と題してリサイタルを開催。’10年にはEIT(アンサンブル・インタラクティヴ・トキオ)のスロヴェニア、クロアチア公演に参加した。12年4月トッパンホールにてリサイタル「浦壁信二 ラヴェル」を開催。NHK-FMや「名曲アルバム」を始め、TV、ラジオに多数出演。アウローラ・クラシカルよりCD《ストラヴィンスキー作品集》《水の戯れ~ラヴェル:ピアノ作品全集 I》《クープランの墓~ラヴェル:ピアノ作品全集 II》をリリース、「レコード芸術」誌をはじめ高評価を得る。室内楽奏者として、内外のアーティストからの信頼も篤い。
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終戦70周年記念 ピースフルコンサート2015 《我らに平和を》
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"J'ai voulu symboliser la réaction de l'homme moderne contre la marée de barbarie, de stupidité, de souffrance, de machinisme, de bureaucratie qui nous assiège ... J'ai figuré musicalement le combat qui se livre dans son cœur entre l'abandon aux forces aveugles qui l'enserrent et l'instinct du bonheur, l'amour de la paix, le sentiment du refuge divin". -Arthur Honegger
「私がこの曲に表そうとしたのは、もう何年も私たちを取り囲んでいる蛮行、愚行、苦悩、機械化、官僚主義の潮流を前にした現代人の反応なのです。周囲の盲目的な力にさらされる人間の孤独と彼を訪れる幸福感、平和への愛、宗教的な安堵感との間の戦いを、音楽によって表そうとしたのです」 (アルテュール・オネゲル)

I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
■オリヴィエ・メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
浦壁信二(pf) + 大井浩明(pf)
チラシpdf
2015年3月13日(金)19時開演(18時半開場)
公園通りクラシックス(東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円 http://k-classics.net/schedule/detail.php?id=4371
【予約・問い合わせ】 tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp (公園通りクラシックス)
※2014年9月ショスタコーヴィチ公演 感想集

当時のソ連では交響曲などの新作は事前に作曲家同盟内で公開演奏に値するかどうかを議論することが通例だったが、その際の“試演”は連弾ないしは2台ピアノで行われた。ごく親しい仲間を自宅に招いて新作のお披露目をする時などは直接総譜を見ながらピアノを弾いたと伝えられるショスタコーヴィチも、そのように作品の運命を左右しかねない場での演奏に際しては、事前に演奏用の楽譜を準備した。ショスタコーヴィチ自身と友人の作曲家ヴァインベルグとの演奏でレコード録音もされた交響曲第10番の2台ピアノ用編曲は、こうした「知らしめる」目的の代表例である。また、昨年9月12日に浦壁と大井が日本初演を行った交響曲第4番の編曲も、初演に至る紆余曲折の中で重要な役割を果たした。
一方、ショスタコーヴィチが様々な楽曲を「知る」目的で行った編曲も、僅かではあるが残されている。その背景には、自身が専門教育を受けた時の原体験がある:
レニングラード音楽院の卒業試験のさいわたしは、やはり作曲家だった友だちとピアノ連弾用に編曲された楽譜を初見で連弾していた。友だちは何度か間違いをおかした。当時音楽院の院長だったグラズノフが突然その友だちにたずねた。
「君はこれがどんな曲だか知っていますか」
彼は頭を横にふった。
「君は?」
恥ずかしいがわたしも知らなかった。
それはシューベルトの第3交響曲だった。
「なんて君たちは幸せなんだろう」とグラズノフはうらやましげにため息をついた。「どんなにたくさんの満足が将来に残されていることか!」
(『ショスタコーヴィチ自伝』, pp.51~52)

このように楽曲を学ぶ手段として、ショスタコーヴィチはピアノの重要性を強調していた。教職を離れた後の1955年にも、次のように語っている:「作曲家は誰でもピアノに習熟することが必要である。連弾でき、総譜が自由に読めれば、古典音楽、現代音楽の研究ははるかに楽になる。作品を研究するということは、たった一度ひいて、つぎに移るという意味ではない。それは、その作品が気に入ったら何日もひきつづき、くりかえしひいてみるということだ。それは結局、その作曲家の秘密にふれることを意味する。(中略)自分以外の人のすぐれた音楽を研究すればするほど、自分自身の音楽も結局は独創的なものとなる。(中略)若い音楽家の教育のためには、古典音楽の連弾、総譜の読みとりが大きな役に立つ。たとえばシューマンやシューベルトの交響曲は、わが国ではめったに演奏されない。それならばなぜそれらの総譜をみず、それを連弾しようとしないのか。一般に読譜のできない音楽家ほど頼りないものがあろうか」(『ショスタコーヴィチ自伝』, pp.230~231)。

1943年以降はモスクワ音楽院で教授職を務めていたショスタコーヴィチがレニングラード音楽院に正式に復職したのは、1947年2月のことだった。同年5月に第1回プラハの春国際音楽コンクールに出席するためにプラハを訪れたショスタコーヴィチは、プラハの春音楽祭にも参加した。「フェスチバルの演奏で興味ぶかかったのは、オネゲルの新作交響曲を指揮したフランスのシャルル・ミュンシ(中略)だった。オネゲルの交響曲は、思想の重要性と情緒の深さとをめざしている点で光っていた」(『ショスタコーヴィチ自伝』, p.167)。ここで言及されている「オネゲルの新作交響曲」というのが、1946年に初演されたばかりの交響曲第3番「典礼風」である。帰国後、自身が感銘を受けたオネゲルの最新作をショスタコーヴィチ自らが4手用に編曲し、最先端の教材として学生に紹介した、というのが、おそらくはこの編曲の成立に至る経緯なのだろう。
オリジナルの総譜がピアノでどのように再現されているかという編曲の技術的な側面に対する興味はもちろんだが、気鋭の作曲家であったショスタコーヴィチと才能豊かな若き学生たちとが集った音楽院の教室のアカデミックな雰囲気に思いを馳せ、20世紀の古典の一つである「典礼風」を、いま一度新鮮な気持ちで聴くのも一興であろう。(工藤庸介)
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《アーメンの幻影》は、メシアンが独自のピアノ音楽の書法の探究に乗り出すきっかけとなった作品である。1930年代、メシアンは作曲家グループ「ラ・スピラル」および「若きフランス」で自作を含めた同時代音楽の普及に携わり、フランスの新進作曲家のひとりとして名を馳せた。しかし、第2次世界大戦中の1940年、メシアンはドイツ軍の捕虜として拘束され、ドレスデン近郊の収容所で生活を送る。記念碑的作品《時の終わりのための四重奏曲》が作曲されたのはこの時である。1941年パリに戻ったメシアンは、パリ音楽院の和声クラス教授として教育活動に携わる傍ら、自らの音楽語法の解説書『わが音楽技法』を執筆し、自らの語法の体系化を試みる。戦争体験後のこうした再出発の時期にメシアンが出会ったのが、当時パリ音楽院で学んでいたイヴォンヌ・ロリオである。ロリオの高度な音楽的資質に刺戟を受けたメシアンは、それまで主としてオルガン作品で扱ってきた神学的なテーマを演奏会用のピアノ音楽に導入するというアイディアを得る。こうしてメシアンは、14年前の《前奏曲集》以来となるピアノ曲集の作曲に取り組み、続いて大作《神の臨在への3つの小典礼曲》と《幼な子イエスにそそぐ20のまなざし》を比較的短い間で書き上げたのである。」 (平野貴俊)

1969年生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に入会。’81年のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加、ロストロポーヴィッチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と自作曲を共演、その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演した。’85年都立芸術高校音楽科(作曲科)に入学。
’87年渡仏しパリ国立高等音楽院に入学、J.リュエフ、B.ド・クレピー、J.ケルネル、M.メルレの各氏に師事。和声・フーガ・伴奏の各科で一等賞、対位法で二等賞を得る。ピアノをT.パラスキヴェスコに師事。その他、V.ゴルノスタエヴァ、J.デームス両氏等のマスタークラスを受講。
’94年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで優勝(日本人初)、同時にブランシュ・セルヴァ特別賞受賞。一躍注目を浴び、ヨーロッパ各地でリサイタルを行う。‘96年2月仏SolsticeレーベルよりCD「スクリャービン ピアノ曲集」をリリース、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュージック、チューン各誌で絶賛を博す。
‘95~’03年にはヤマハマスタークラスで後進の指導に当たり、数々の国際コンクール入賞・優勝者を輩出。’07年トッパンホールにて「20世紀のスタンダードから」と題してリサイタルを開催。’10年にはEIT(アンサンブル・インタラクティヴ・トキオ)のスロヴェニア、クロアチア公演に参加した。12年4月トッパンホールにてリサイタル「浦壁信二 ラヴェル」を開催。NHK-FMや「名曲アルバム」を始め、TV、ラジオに多数出演。アウローラ・クラシカルよりCD《ストラヴィンスキー作品集》《水の戯れ~ラヴェル:ピアノ作品全集 I》《クープランの墓~ラヴェル:ピアノ作品全集 II》をリリース、「レコード芸術」誌をはじめ高評価を得る。室内楽奏者として、内外のアーティストからの信頼も篤い。