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5/22(金) マーラー《復活》2台ピアノ版+B.A.ツィマーマン《モノローグ》

5/22(金) マーラー《復活》2台ピアノ版+B.A.ツィマーマン《モノローグ》_c0050810_10451861.jpgピアノによるマーラー交響曲集
Mahlers Sinfonien am Klavier vorgetragen


【第二回公演】 2015年5月22日(金)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明/二台ピアノ

公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://k-classics.net/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp

B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.

  (休憩10分)

■G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分)
 H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend


5/22(金) マーラー《復活》2台ピアノ版+B.A.ツィマーマン《モノローグ》_c0050810_10461176.jpg  ケン・ラッセルの映画『マーラー』に、ユダヤ教徒であったマーラーがカトリックに改宗し、意気揚々と帰宅したところ弟オットーが(恐らく改宗した兄グスタフへの非難の意を込めて)自殺していた、というシーンがある。ラッセルの映画はもとより史実に忠実では無く、題材となった人物をもとにしたファンタジーという側面が強いが、弟オットーの自殺は1895年、マーラーのカトリックへの改宗は1897年であり、この二つを重ね合わせるのは完全にフィクションである。マーラーは改宗のしばらく後、ウィーンの宮廷科劇場の音楽監督に就任する。ウィーンは反ユダヤ的感情が強い保守的な街だった。カトリックへの改宗が、マーラーがウィーンの音楽界の頂点に上り詰めるための大いなる助けになったことは否めないだろう。ではマーラーは、ただ栄光の座を掴むために改宗したのだろうか。そのキリスト教信仰は、偽りのものだったのだろうか。

  《復活》終楽章には合唱が入っているが、マーラーがこの交響曲に合唱を使おうと思ったきっかけは、彼自身が手紙の中で述べた次のようなエピソードで広く知られている。1894年3月29日、ハンブルクにおいて行われた指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀にマーラーが参列した際、そこで歌われたクロプシュトックの詩によるコラールを耳にして強い衝撃を受け、これを作曲中の交響曲の締めくくりに使用することを瞬時に思いつく。マーラー自身はこの瞬間のことを、芸術家が待ち望む「聖なる受胎」であると表現している。マーラーの初期の交響曲は、最初は別の曲のために構想された音楽がほぼそのまま転用されて交響曲の一部分になったり、作曲していくうちにどんどん構想が膨れ上がっていくなど、パッチワークされて出来上がった要素が強い。交響曲第2番は特にその傾向が顕著に現れているが、こうして膨れ上がった音楽をどう落としどころに持っていくか、マーラーは考えあぐねていた。一方、マーラーはこの交響曲をなんらかの宗教的なテキストによって締めくくろうという構想を早いうちから持っていたらしい。第1楽章は《葬礼》というタイトルで一つの独立した交響詩として構想されていた時期もあったのだが、このタイトルからして宗教的なヴィジョンや死生観といったものを想起させるし、それ以前に音楽それ自体が既に死や闇といったものを強く感じさせる。そこにビューローの葬儀で耳にしたクロプシュトックの詩が絶妙に適合したのである。

5/22(金) マーラー《復活》2台ピアノ版+B.A.ツィマーマン《モノローグ》_c0050810_1047517.jpg  もっとも、マーラーがクロプシュトックの詩をそのまま使用したかといえば、そうではない。詞の最初こそはクロプシュトックから取られたものだが、歌詞の半分以上は、実はマーラー自身によるものである。クロプシュトックの詩だけでは、マーラーはこの交響曲を十全に締めくくることが出来なかった。マーラーはクロプシュトックの詩を補うために古今東西の様々な文学作品に目を通したが、マーラーを満足させるものはそこには無かった。マーラーは、クロプシュトックの詩そのものにも、細部に手を加えている。結局、交響曲で歌われる歌詞は全編にわたってマーラー自身の思いが強く出たものになっており、マーラーは自分で歌詞をつけた合唱、としていた。あくまでクロプシュトックの詩は最初のきっかけとしてあり、マーラーは音楽だけではなく言葉においても自由に想像力を羽ばたかせたのである。

   してみると、全曲の終わり近くで合唱によって力強く歌われる加筆部分、 ”Sterben werd’ ich, um zu leben!”「生きるためにこそ私は死ぬのだ!」こそが、マーラー自身の叫びに他ならないだろうと考えられる。逆説的な生命への希求であり、しかし単純な死への恐怖ではない。死という観念に捕われることの多かったマーラーだったが、ここでは死に立ち向かうことによって死を乗り越えることを選んだのである。第5楽章、合唱が登場するのは終盤であり、そこに至るまでは壮絶な闘争の音楽となっている。それは「最後の審判」であり、黙示録の世界であった。合唱が登場する直前、天上から天使のラッパが轟く。フルートとピッコロによる鳥のさえずり。その直後、厳かに合唱が歌いだす。そこから音楽は終結に向かってドラマティックに盛り上がっていく。合唱が力の限り歌い上げ、鐘が打ち鳴らされた後、全曲は力強く終結する。

5/22(金) マーラー《復活》2台ピアノ版+B.A.ツィマーマン《モノローグ》_c0050810_10474310.jpg  管弦楽作品をピアノ連弾で演奏することは、19世紀前半には家庭の楽しみとして広く行われていた。ワーグナー以降は幾つものパートに分かれて巨大で複雑なものとなったオーケストラ全体の譜面から、音楽の骨格だけを抽出しそれを露にする、という、作品のパブリシティならびに新技法の研究用へと主眼が移っていった。マーラー自身、ブルックナーの交響曲第3番のピアノ編曲を手がけているが、これはウィーン大学でマーラーがブルックナーの和声学の講義を受け、その交流の中で生み出されたものだった。ヘルマン・ベーンはハンブルクの法律家であり、ブルックナーやラインベルガーに師事した作曲家・ピアニストである。マーラーとも親交を結び、この《復活》2台ピアノ版は、マーラーとベーンが二人でピアノを弾いて楽しんだこともあった、と伝えられている。ベーン自身の作品として後世に残るものは無いが、同時代の作品をピアノ用に編曲したものは、現在でもネット上で幾つか見ることが出来る。この《復活》ピアノ連弾版の楽譜の出版は1895年。オーケストラ全体のスコアの出版が1897年なので、それよりも早く世に出たことになる。《復活》全ての楽章のオーケストラによる初演は、1895年12月、マーラー自身の指揮によって行われた。

  ベーンによる《復活》の編曲譜には、原曲と同様に独唱と合唱パートも併記されている。もともとベーンの《復活》は、コンサートで演奏されることを前提にした編曲ではなく「音楽の骨格を露にする」こと(とベーン自身の楽しみのために)編曲された作品なので、特に音符の改変といったものはない。マーラーの原曲は大人数のオーケストラと合唱と二人の独唱者を必要とする、まずは音の質量で聴衆を圧倒するような作品であった。また、舞台上の演奏者とは別に舞台裏の演奏者を多く必要とする作品でもあり、「黙示録」の場面では、マーラー自身の指示によって、最後の審判を告げるラッパは舞台から遠く離れたところから鳴り響く。ベーンの《復活》は、舞台上のオーケストラはもちろん、そういった舞台裏のオーケストラもすべて二台のピアノでやらせている。本日の演奏は、独唱も合唱も無しで二台ピアノだけの演奏となる。原曲では合唱が登場するのは第5楽章の終盤部分で、交響曲全体からするとほんの一部分である。しかしその存在感は強烈で聞く者に強い印象を残す。前述した通り《復活》はパッチワークのような経緯で完成した作品だが、そうした経緯は楽章と楽章との間の関連が希薄であるという点に如実に現れている。マーラーの時代、交響曲というものは全体に一貫した関連が必要と考えられており、そのことはマーラーも強く意識していた。マーラー自身、完成した《復活》について、一つの交響曲にするのだったら楽章ごとの関連をもっと持たせておくべきだった、という意味のことを述べていた。しかし、最後の合唱はそういった「欠点」を覆い隠す効果を持っていて、いわば「終わり良ければすべて良し」に近いカタルシスを聞く者にもたらす。無論、そのような「力技」を可能にしたのはマーラーの天才に他ならないのだが、独唱も合唱も入らない2台ピアノのみの演奏は、それらのマーラーによる「力技」を全てはぎ取り、まさに「音楽の骨格を露にする」ものとなる。剥ぎ取られたものと残ったもの、どちらがより心に残るか。編曲という行為の危うさと醍醐味、それは背中合わせにあると言えるだろう。

5/22(金) マーラー《復活》2台ピアノ版+B.A.ツィマーマン《モノローグ》_c0050810_1048308.jpg  マーラーは神無き時代に神を求めた人間だった。作品に使われたテキストからも、マーラーがキリスト教の世界観に馴染み、これを身近なものと感じていたことは明らかであろう。マーラーの音楽に色濃く現れる「愛」「生と死」といったものは、キリスト教的なヴィジョンに基づくものであった。単に地位のためにマーラーの改宗が行われたと考えることは、少なからず無理がある。マーラーは複雑な人間で、また文学的な素養も極めて豊富に持っていた。マーラーはキリスト教的な種々のテキストを一字一句文字通りに受け取ることはしなかったが、それでも彼は極めてキリスト教的な人間であったと言って良い。(マーラーの同僚でかつライバルでもあったリヒャルト・シュトラウスは、キリスト教に強い反感を持ち、その作品からキリスト教的な要素は感じにくい。)

  B.A.ツィンマーマンもまた、神無き時代に神を求めた人間だった。ただ、マーラーの時代とマーラー自身は芸術という神をまだ信じることが出来たのだが、ツィンマーマンはそうでは無かったように思える。1918年生まれのツィンマーマンは、ナチスドイツや第二次世界大戦の災厄が直撃した世代に属する。第二次世界大戦後のドイツの芸術家は、「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」というテーゼに否応無く直面させられることとなった。この時代、かって芸術が纏っていた神聖さというベールは剥ぎ取られ、芸術という神もまた、死んだ。安易に人の人生を比較することは慎まなければならないが、しかし筆者はそれでも、マーラーよりもツィンマーマンの方が遥かに困難な人生を歩んだと言いたい欲求にかられる。そしてその分、神を求める心もより強く痛切なものだったのでは、と思えてならない。

5/22(金) マーラー《復活》2台ピアノ版+B.A.ツィマーマン《モノローグ》_c0050810_1049190.jpg  ツィンマーマン《モノローグ》では、グレゴリオ聖歌《来たれ、創造主なる聖霊よ》、バッハ《目覚めよと呼ぶ声が聞こえ》《天にましますわれらの父よ》、メシアン《天国を希求する魂の穏やかなアレルヤ》《父のみもとへ昇るキリストの祈り》等が次々と引用された後、終始線の傍らに「O.A.M.D.G.」という言葉が書き込まれている。「すべてをより大いなる神の栄光のために」。1970年8月、ツィンマーマンは自ら命を絶った。死を選ぶ前にその精神は既に病んでいたというが、死を選んだ真の理由は謎に包まれている。神の栄光を讃えたツィンマーマンに、神は祝福を与えたことはあっただろうか。そしてマーラー。マーラーがカトリックに改宗したのは1897年2月のこと。その改宗は、ビューローの葬儀が営まれたハンブルクの教会で行われた。弟オットーは2年前に自ら命を絶っており、帰宅したところでオットーの死体が待っている訳ではない。しかし、その弟の幻影は一生マーラーに纏わり付くこととなる。《復活》では死を語ることにより逆説的に生を歌い上げたマーラーだったが、《復活》以降、死はマーラーの音楽に取ってより重要な要素となっていく。愛、生と死、信仰、そして、神。マーラーとツィンマーマンも、人間に取って極めて根源的なそれらのものに向き合い、対決し、そしてその痕跡を自らの作品の中に残した芸術家だった。(中田れな)
by ooi_piano | 2015-05-20 10:42 | コンサート情報 | Comments(0)