連続ピアノリサイタル≪All'Italiana 2015≫@芦屋
芦屋・山村サロン(JR芦屋駅前・ラポルテ本館3階)
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【第一回公演】 2015年6月14日(日)18時開演(17時半開場)
ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)全ピアノ作品 (生誕90周年)
●《小組曲》(1947)[全5曲] 約10分
~ 前奏曲 - 小エール第1 - ガヴォット - 小エール第2 - ジーグ
●《5つの変奏》(1953/66) 約8分
●《循環(ラウンド)》(1965/67) 約4分
●《水のピアノ》(1965) 約2分
●《続唱(セクエンツァ)第4番》(1966) 約11分
●《土のピアノ - 田園曲》(1969) 約2分
○剣持秀紀(1967- ):ピアノ独奏のための《ピンチェ》(2015、委嘱新作初演)
(休憩 15分)
●《空気のピアノ》(1985) 約3分
●《火のピアノ》(1989) 約3分
●《塵》(1990) 約2分
●《葉》(1990) 約1分
●《ソナタ》(2001) 約25分

《五つの変奏》は1952~53年に作曲、同年ミラノで作曲者自身により初演された後、出版にあたって1966年に大幅に改訂された。被献呈者であるイタリア人作曲家、ルイージ・ダッラピッコラ(1904-1975)のオペラ《囚われ人》(1948)で、看守が囚人に「兄弟よ」と呼びかけ、フェリペ2世に対するフランドル蜂起を伝える3音の動機(F-E-Cis)に基づく、5つの変奏と終結部から成る。後年ルイジ・ノーノも、打楽器アンサンブルとライヴエレクトロニクスのための《ルイジ・ダラピッコラとともに》(1979)で、このモチーフを援用した。

《続唱(セクエンツァ)第4番》は、ワシントン大学(セントルイス)の委嘱で、ブラジル人ピアニスト、ジョシー・デ・オリヴェイラ(カルヴァリョ)のために1965/66年作曲、同年同地で初演。1993年に改訂。《続唱》は独奏/独唱のための技巧的な作品のシリーズであり、全14曲(編曲を含めると19曲)を数える。その幾つかは協奏曲シリーズ《道(シュマン)》(全11曲)へと発展した。

《ソナタ》は、チューリヒ音楽祭委嘱により2001年に作曲、ドイツ人音楽学者ラインホルト・ブリンクマンに献呈。2001年7月22日チューリヒ・トンハレにてアンドレア・ルケシーニにより初演。他界する2年前に書かれた、ベリオ最後にして最長のピアノ曲である。「古今のソナタに見られる二項対立については、統語論的に対手としていない」(ベリオ)。

私は、1996年から1999年にかけて仕事の関係でベルギーの西フランデレン州のPoperinge(ポペリンゲ)という町に滞在したことがある。そこで、音声合成の技術開発を行っていわゆる「音声屋」となり、その時の経験が後のVOCALOID開発につながった。その時のベルギー滞在は出張ベースではあったが、トータルの滞在期間は1年半ほどに及び、定宿にしていた小さなホテルを経営していたご家族とは今でも交流がある。私の結婚式のために来日して下さったほどである。
さて、ベルギーという国は面白い国で、北半分のフランデレン(Vlaanderen、英語だとFlanders)地域ではオランダ語圏、南半分のワロン(Wallonne、英語だとWalloon)地域ではフランス語圏である。建国以来オランダ語系住民とフランス語圏住民は対立が続き、1993年にベルギーはフランデレン地域、ワロン地域、そしてブリュッセル首都圏の区分の連邦制となった。そして、フランデレン地域の「国歌」が "De Vlaamse leeuw”(フランデレンの獅子)である。複符点に特長がある。歌詞と意味は以下の通り。(Wikipediaをもとに修正)
Zij zullen hem niet temmen, de fiere Vlaamse Leeuw,
Al dreigen zij zijn vrijheid met kluisters en geschreeuw.
Zij zullen hem niet temmen, zolang een Vlaming leeft,
Zolang de Leeuw kan klauwen, zolang hij tanden heeft.
誇り高きフランデレンの獅子は何者にも服従しない
たとえ彼の自由が足枷と叫び声で脅されても
フランデレンの獅子が生きている限り何者も彼を飼いならすことは出来ない
獅子が引っ掻く限り、彼が歯を持つ限り
私が滞在していたポペリンゲはフランスの国境まで自転車で20分なのにオランダ語圏であった。どうもオランダ語の中でも「ズーズー弁」の地域らしい。それはさておき、ポペリンゲはホップの産地であり、初秋には収穫期を迎えた見事なホップの蔓があちこちで見られる。3年に一度「ホップ祭り」(Hoppestoet)なるお祭りも開催される。そんなことも思い出しながら作曲してみた。(剣持秀紀)
剣持秀紀 | KENMOCHI Hideki
1967年静岡市清水区(旧清水市)生まれ。1993年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。同年ヤマハ(株)入社。消音装置の開発など音響技術系の事業に従事。1996年エル・アンド・エイチ・ジャパン(株)に出向、音声合成に関する研究を開始。1999年ヤマハ(株)復職。2000年3月、研究チームのリーダーとして「ボーカロイド」の開発を始め、04年に初の製品を発売。12年、同社yamaha+推進室VOCALOIDプロジェクトリーダー。現在、(株)YAMAHA事業開発部ニューバリュー推進室室長。
ルチアーノ・ベリオ覚え書き───────野々村 禎彦

3人にもう少し触れると、ベリオはブーレーズ(1925-) やペンデレツキ(1933-) のような、専ら50年代から60年代初頭のストイックな作品で前衛作曲家として記憶されているタイプではなく、マデルナや武満徹(1930-96) のように、60年代半ばから70年代半ばの豊穣な作品群で記憶されている。シェルシは、あまりに特殊なので突き抜けて普遍性に至った、クセナキス(1922-2001) に比肩する唯一の存在である。ルイジ・ダラピッコラ(1904-75) やゴフレード・ペトラッシ(1904-2003) と同世代の長老に見えるが、絶頂期はベリオと変わらない。ただし、松平頼則(1907-2001) やカーター(1908-2012) のように、ポスト前衛の時代まで旺盛な創作を続けたわけではない。前衛の時代のドナトーニは国内ではある程度知られていたがそれ以上ではなく、作曲を諦めるべきか悩み続けたが、「この年をもって、私は《ドナトーニ》になった」と自認する1977年以降はサルヴァトーレ・シャリーノ(1947-) と並んで長らくイタリア作曲界を牽引し、(作風まで瓜二つの)弟子も多い。
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(1) 元々作曲家志望ではなく職人的な音楽観の持ち主だが、米国移住の刺激で開花
(2) 声楽家キャシー・バーベリアンとの出会いと共同作業が、音楽の核を形成した
(3) 電子音楽制作を通じて、既存素材を加工する技にアイデンティティを見出した
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ヨーロッパ戦後前衛の中心地ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加したベリオは、最新の流行を貪欲に吸収してゆく。全面的セリー技法と管理された偶然性という戦後前衛の基本的な語法に加え、マデルナとイタリア国営放送(RAI)電子音楽スタジオを1955年に設立し、アンサンブルの空間配置なども試みた。5楽器群のための《アレルヤII》(1957-58) に至る作品群によって、彼は戦後前衛を代表する作曲家のひとりとみなされるようになったが、彼が示したのはブーレーズやシュトックハウゼン(1928-2007) のような開拓者精神ではなく、誕生間もない語法ですら職人的洗練の対象として扱えることだった。なお、バーベリアンは活動初期から現代音楽に積極的に取り組んでいたわけではなく、ジョイスの詩によるベリオ《室内楽》(1953) の初演後数年は育児に専念した。

ベリオの電子音楽のもうひとつの代表作《顔》(1960-61) も、バーベリアンの声が素材である。シュトックハウゼンや湯浅譲二(1929-) のように、正弦波発振音やホワイトノイズから未知の音響を作り出す志向は彼は持っておらず、既存の素材の精緻な加工が、彼にとっての電子音楽制作だった。この作品では特定のテキストを用いずに彼女の声のニュアンスを活かそうとした。それに応えて狂気の淵まで降りた彼女の表現は凄まじく、さすがのベリオも収録中に耐えられなくなってスタジオから逃げ出したというが、この時期の作品中でもインパクトの強さは飛び抜けている。ただし、声の魔力に目覚めてしまった彼女は、私生活のパートナーとしては強烈すぎる存在になっていた。

彼が自ら手を動かして電子音楽制作に打ち込んだのはRAIスタジオ時代までだが、むしろスタジオを離れたことで、その経験は創作全体に広がった。《セクエンツァ》シリーズでは、《サークルス》と一緒に最初のソロアルバム(WERGO, 1967) に収録された I (1958) / III (1965-66) / V (1966) が特に有名だが、各々ニコレ/バーベリアン/グロボカールが録音したことも手伝って、超絶技巧がテーマだと思われがちだ。だが、真の狙いは持続音の和声の精妙な制御にあり、テープ上で音色と残響を加工する操作の器楽曲への応用に他ならない。ソステヌート・ペダルを駆使したIV (1965-66) の実演は、それを体感する良い機会になるだろう。また、IIIのその意味での本質を伝えるのは、実は初音ミクによるリアリゼーションである。なお、和声や対位法の拡張とコンテクストの置換を通じて小編成旧作を大編成に拡大する「注釈技法」は、《セクエンツァ》シリーズを《シュマン》シリーズに発展させるところから始まったが、これもテープ加工操作の器楽曲への応用とみなせる。

1965年からジュリアード音楽院で教え始めたベリオは教育にも力を入れ、翌年にジュリアード・アンサンブルを結成した。ミルズ・カレッジではスティーヴ・ライヒ(1936-) やフィル・レッシュ(1940-, グレイトフル・デッドのベーシスト)、同時期に欧州ではルイ・アンドリーセン(1939-) らを教えた。すなわち彼は、ある意味では「ミニマル音楽の父」にあたる。また、1972年の帰国後の代表作である、《2台ピアノのための協奏曲》(1972-73) や《見出される曲線上の点》を特徴付ける反復書法は、米国でのミニマル音楽の記憶の反映とみなせる。彼はイタリア帰国の理由を、国際的な委嘱で忙殺されホテル暮らしが常態になった中で、祖国での日常生活への郷愁が芽生えたと説明するが、その前年にはジュリアード音楽院を辞してオヤマとも別れており、米国移住時と同様のパターンと推察される。その中で1974年からはIRCAM電子音響部門ディレクターに就任し、ホテル暮らしは続いたが、1977年の最後の結婚を機にシエナ近郊の農村ラディコンドリに居を構えた。

その後の歩みで特筆すべきは、IRCAMディレクター時代の探求を引き継いだ、実用性を重視した音響合成システムを開発する研究所「テンポ・レアール」を1987年にフィレンツェに設立し、自作にも積極的に応用し始めたことだが、肝心の音楽の魂が抜けた状態で、オーケストラのリアルタイム音像移動を行っても… 彼の「注釈技法」は、多作な作曲家の生産性を支える秘訣としてW.リームらにも参照されたが、この時期になると《見出される曲線上の点》のオーケストラ版《協奏曲II:谺する曲線》(1988-89)、《主の顕現》のオーケストラ版《エピファニーズ》(1991-92) など、アンサンブルの代表曲まで再加工の対象にした。だがそれらは、弦楽四重奏の魅力が弦楽合奏に編曲した途端に失われる、クラシック音楽でも馴染み深い失敗の再生産にすぎなかった。なおこの時期には、シューベルトのニ長調交響曲の補筆完成版《修復》(1989-90) など、クラシック音楽の創造的編曲にも取り組んだ。戦後前衛とは一線を画した音楽職人にふさわしい終の住処だった。