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6/23(火) 《悲劇的》+《夜の歌》ピアノ連弾版


6/23(火) 《悲劇的》+《夜の歌》ピアノ連弾版_c0050810_3211497.jpgピアノによるマーラー交響曲集
Mahlers Sinfonien am Klavier vorgetragen


【第三回公演】
2015年6月23日(火)18時半開演(18時開場)
 法貴彩子+大井浩明/ピアノ四手連弾

公園通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1F)
全自由席 3,000円  http://k-classics.net/
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp


■G.マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》(1903/04) [全4楽章]  約80分
 A.v.ツェムリンスキー(1871-1942)による四手連弾版(1906) (東京初演)
第1楽章 Allegro energico, ma non troppo. Heftig, aber markig
第2楽章 Scherzo: Wuchtig
第3楽章 Andante moderato
第4楽章 Finale: Sostenuto - Allegro moderato - Allegro energico

(休憩10分)

■G.マーラー:交響曲第7番ホ短調《夜の歌》(1904/06) [全5楽章]  約80分
 A.カゼッラ(1883-1947)による四手連弾版(1910) (東京初演)
第1楽章 Langsam (Adagio) – Allegro risoluto, ma non troppo
第2楽章 Nachtmusik I. Allegro moderato
第3楽章 Scherzo. Schattenhaft
第4楽章 Nachtmusik II. Andante amoroso
第5楽章 Rondo-Finale. Allegro ordinario



6/23(火) 《悲劇的》+《夜の歌》ピアノ連弾版_c0050810_3222667.jpg  作曲家としても、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督としても、また私生活においても充実した幸福な時期にグスタフ・マーラー(1860-1911)は『交響曲第6番イ短調』と『交響曲第7番』を作曲した。『第6番』は1903年と1904年との夏休暇中に、『第7番』は『第6番』の第四楽章に続いて1904年の夏に第二楽章と第四楽章を書き、残りを1905年の夏に作曲した。マーラーは普段は歌劇場の仕事や指揮者としての活動に忙しく、創作活動はもっぱら夏休暇中にマイアーニヒにある作曲小屋で行っていた。足かけ3年のうち実際作曲にあてた時間合わせて半年余りで、これらの大作2曲を書き上げたことになる。

  『交響曲第6番イ短調』はスコアには書かれていないが、「悲劇的 (Tragische)」という副題付で呼ばれることがある。1907年のウィーン初演時にはプログラムに記載され、作曲家本人もそう呼んでいたとワルターが回想しているが、マーラーが付けたものかどうかは不明である。マーラーの妻アルマは第四楽章における3回のハンマーの打撃が、作曲家を襲うその後の不幸な人生(娘の死、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督の辞任そして自身の心臓病の発覚)を暗示していたと述懐している。ハンマーの回数は作曲中から増減変遷を経ており、最終的には2回となったため、アルマの話は後付けの解釈としてそのまますべて受け入れることはできないが、この曲には「悲劇的」もしくはそれを超えるカタストロフィーを感じさせるものがあることは間違いない。マーラーはこの交響曲について「これまでの5曲の交響曲を受け止め理解した世代の人々だけが解くことのできる可能性のある謎であり続けるだろう」と手紙に残している。精緻なオーケストレーションで大編成の管弦楽を用い、伝統的な四楽章構成やイ短調で始まりイ短調で終わるという調性の一貫性がありながら、一つひとつの楽章は大規模に拡大されており、その構成や純器楽様式の扱いと内容とにおいて、これまでの総決算的な野心作品といえるだろう。

6/23(火) 《悲劇的》+《夜の歌》ピアノ連弾版_c0050810_3232756.jpg  マーラー『交響曲第6番イ短調』をピアノ連弾版に編曲したアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1872-1942)はウィーン生まれの作曲家・指揮者である。『抒情交響曲』や交響詩『人魚姫』、オペラ『フィレンツェの悲劇』『小人』などが代表作として挙げられる。マーラーの妻となるアルマ・シントラーやのちに義理の弟になるアルノルト・シェーンベルクらの音楽教師でもあった。アルマとは、彼女が画家グスタフ・クリムトと別れてからは、教師以上の非常に親しい仲に発展した。当初は互いの気持ちは同じだったようだが、アルマは親を含め周囲から交際を反対され、結局1902年にマーラーと結婚する。ツェムリンスキーはマーラーの死後1920年ごろに『幸福な王子』や『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』で有名なオスカー・ワイルドの童話集『ザクロの家』より『スペイン王女の誕生日』を題材とするオペラ『小人』を作曲している。そのストーリーは自分の醜い姿を知らずに、王女にひたすら媚び、王女に愛されているとさえ信じる小人が、あるとき鏡に映る自分の姿を見て、真実を知り絶望死するというものである。

  1904年にツェムリンスキーはシェーンベルクとともに「創造的音楽芸術家協会」を設立し、その名誉会長にマーラーの就任を依頼した。ツェムリンスキーと面識があり、すでにシェーンベルクの『浄夜』を聴いて高く才能を評価していたマーラーはこの要請を快く受けた。マーラーは自分より若い世代の音楽家たちに共感を寄せており、さまざまな面で彼らを支援していくことになる。ツェムリンスキーとシェーンベルクはしばしばマーラーの家を訪ね、熱く音楽について語り合った。ときに意見の行き違いでマーラーを激昂させることもあったが、マーラーは彼らの訪問を楽しみにしていたようだ。

6/23(火) 《悲劇的》+《夜の歌》ピアノ連弾版_c0050810_3242675.png  『第6番』は中間楽章の順番、つまり第二楽章にアンダンテ、第三楽章にスケルツォとするか、その逆にするかという問題を孕む。1903年の夏に第一楽章から第三楽章を、翌年の夏に第四楽章を作曲している。1906年初演に先立ってスコアが出版され、そこでは第二楽章スケルツォ、第三楽章アンダンテの順番になっているが、初演ではアンダンテ-スケルツォの順で演奏された。作曲中にも迷った跡が見受けられるが、初演後の改訂版スコアでは初演時の並びが採用され、以後その順序でほぼ定着していた。1960年代に国際マーラー協会によるクリティカル・エディションの出版が始まり、その中で『第6番』に対しては、アルマの「証言」を根拠に第二楽章スケルツォ、第三楽章アンダンテの順が作曲家の考えとして採用された。2003年に同協会は旧エディションの見解を翻し、マーラーの実際の演奏順であるアンダンテ―スケルツォこそが最終的な判断とした。最新版ではアンダンテ―スケルツォで出版されている。

  ツェムリンスキーがピアノ連弾版を編曲したのは初版が出てすぐあとである。実際には『交響曲第6番』のオーケストラ譜が出版されたのは1906年3月か4月に出版され、オーケストラ初演は5月27日である。ツェムリンスキーが初版をもとに編曲し、シェーンベルクとともにマーラー宅を訪れて、マーラーとの連弾で演奏したのが4月17日であった。当然、このピアノ連弾編曲版の中間楽章の順番は初版と同じ第二楽章スケルツォ、第三楽章アンダンテである。オーケストラとのリハーサルを通して、この交響曲の理想的な形をギリギリまで模索していたマーラーにとって、ツェムリンスキーの連弾編曲は、喜びとともに、よい判断材料となったであろう。楽章の順序を逡巡したのはなにもマーラーだけにかぎらない。ベートーヴェンも大作『ハンマークラヴィアソナタ』においてロンドン初版では中間楽章の順序が入れ替わっており、第二楽章に長大なアンダンテが位置していた。変わったところではブルックナーの交響曲第8番の初版を準備した弟子ヨーゼフ・シャルクがピアノ連弾版を編曲した時には中間楽章の順番をアンダンテ―スケルツォと、オーケストラ版とは逆の配置にしている。なお、本日はツェムリンスキーのスコア通り、スケルツォ―アンダンテの順で演奏される。

6/23(火) 《悲劇的》+《夜の歌》ピアノ連弾版_c0050810_3252596.jpg  『交響曲第7番』はアウトラインを決めてから作曲するマーラーには珍しく、まず「夜の音楽Nachtmusik」と題された第二楽章と第四楽章とができあがった。その残りの楽章を早く作曲したいと休暇を待ち望んでいたが、いざ作曲小屋のあるマイアーニヒについてみると、筆が進まぬまま数日が過ぎた。気分転換に小旅行に行き、それでも曲想が思い浮かばず、あきらめて帰ろうと、湖でボートを漕ぎ始めようとしたとき、第一楽章の導入部の主題(リズムと形式)が閃いたという。そのあと4週間で第一、三、五楽章を矢継ぎ早に完成させた。インスピレーションを得て、その昂揚感のまま一気に作品を完成させるのは、次の大作『交響曲第8番変ホ長調』も同様であり、マーラーの創作の神秘に触れるエピソードである。第三楽章スケルツォを中心とする対称的な5楽章構成で、内容的にも調性や声部の扱いに心を砕いており、前作『第6番』で印象的に使われたカウベルをはじめとする多種の打楽器やそれに加えてギターやマンドリン、テナーホルンが使用され、内容と音響ともにさらなる充実が図られている。ペータース社主宛てにこの作品について「明るく、ユーモラスな内容」という旨の手紙を書いているが、実際は明暗複雑な曲想が絡み合っており、突如としてハッピーエンドとして現れるフィナーレを思想家のテオドール・W・アドルノが確信犯的な「失敗作」と論じたり、指揮者のサイモン・ラトルが「もっとも悲劇的なハ長調の音楽」と評したりと、いまなお議論が尽きない。

  アルフレード・カゼッラ(1883-1947)はイタリア・トリノ出身の作曲家・ピアニストで、20世紀前半のイタリア楽壇を牽引した。チェリストを父に、ピアニストを母にもち、祖父がパガニーニと友人であったという音楽一族に生まれた彼は、1896年にパリ音楽院に入学、ピアノをルイ・ディエメ、作曲をガブリエル・フォーレに学んだ。パリ滞在中にはラヴェルやドビュッシー、ストラヴィンスキーやデ・ファリャらと知遇を得た。第一次世界大戦中にイタリアに帰国し、1917年にレスピーギやピツェッティらとともに「国民音楽協会」を設立、ヨーロッパ各地の最新の音楽情報の紹介とイタリア民族的・近代的な音楽の刷新に尽力した。作風は後期ロマン派、無調音楽、新古典主義と変遷し、それまでのイタリアの作曲家と違ってオペラではなく器楽曲に作品が集中している。ピアノの腕に長け、パリではコルトーのアシスタントを務めた。後年、ベートーヴェンのピアノソナタ全集をはじめとする多数の校訂を行っている。またアントニオ・ヴィヴァルディの音楽の再興にも尽力し、現在のヴィヴァルディ受容の嚆矢となった。

6/23(火) 《悲劇的》+《夜の歌》ピアノ連弾版_c0050810_3264374.jpg  マーラーは『第7番』初演翌年の1909年、『交響曲第2番《復活》』の公演のためにパリを訪れた際、カゼッラと出会った。カゼッラがマーラーの『交響曲第7番』のピアノ連弾版を編曲した明確な動機はわかっていない。直接会った頃やその後の手紙でも、作曲家や出版社と相談した形跡は見られず、改訂されたオーケストラ総譜に基づいて独自に編曲を行ったようだ。この連弾用編曲はスコアをできるだけ忠実に再現したものであり、マーラー交響曲の編曲のなかでも内声部の充実性や音響効果が高い。シェーンベルクが主宰する「私的音楽協会」で繰り返し演奏され、当時から多くの専門家や愛好家から賞賛を得ている。

  シェーンベルクは「私的音楽協会」のシリーズで、マーラーの『交響曲第6番イ短調』『交響曲第7番』のピアノ連弾編曲を繰り返し取り上げた。エドゥアルト・シュトイアーマンとアーンスト・バーハリヒとをピアニストに迎え、30回に及ぶ入念なリハーサルに付き合ったと云う。マーラー死去の2年後、プラハで行った講演でシェーンベルクは、マーラーの音楽に対して以前は批判的だったことを、使徒パウロがまだキリスト教の迫害者だったころのサウルという名前を引き合いに出し自省し、いまではマーラー最大の理解者となったと告白している。(小畑祐介)
by ooi_piano | 2015-06-19 03:17 | コンサート情報 | Comments(0)

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