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7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作

7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作_c0050810_20285360.jpg連続ピアノリサイタル≪All'Italiana 2015≫
山村サロン(JR芦屋駅前)
予約/問い合わせ: 山村サロン http://www.y-salon.com/

【第二回公演】 2015年7月24日(金)19時開演(18時半開場)
ジャチント・シェルシ(1905-1988) ピアノ傑作撰 (生誕110周年)

●G.シェルシ: 組曲第8番《ボト=バ》(1952、日本初演) 〔全6楽章〕 (約30分)
 I. Agitato - II. Non troppo sostenuto - III. - IV. Lento - V. Lento - VI. Lento
●G.シェルシ: 《アクション・ミュージック》(1955) (日本初演) 〔全9楽章〕 (約16分)
 I. - II. Iniziando - III. Lento dolce - IV. Martellato - V. Violento - VI. Brillante - VII. Pesante - VIII. Veloce - IX. Con fuoco
●川崎弘二(1970- ):ピアノ独奏のための《木賊》(2015、委嘱新作初演) (約7分)

(休憩15分)

●G.シェルシ: 組曲第11番(1956、日本初演) 〔全9楽章〕 (約35分)
  I. - II. Lento - III. Intenso e animato - IV. Barbaro - V. Velato - VI. Feroce - VII. Sostenuto - VIII. - IX.
●G.シェルシ: 《アイツィ》(1974、日本初演)  (約6分) [エレクトロニクス/円藤正吾(山村サロン)]


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7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作_c0050810_20523931.jpg川崎弘二:ピアノ独奏のための《木賊》(2015、委嘱新作初演) 
  2001年から2003年にかけて、オランダの田舎にある大学にゲストとして滞在していたことがある。昼間は大学でタンパク質の吸着現象を測定し、夜と休日には2006年に刊行されることとなる「日本の電子音楽」という本の原稿を書き進めていたが、どちらもなかなか軌道に乗らず、鬱屈した日々を過ごしていた。数ヶ月経つと、オランダという国はイギリスとドイツとベルギーに囲まれているため、各国のさまざまなビールが手に入りやすいことが分かった。そして、当時のオランダの地ビール協会会長が経営する、フランデレン地域の国歌をもじったDe Vlaamsche Reus(フランデレンの巨人)というすばらしいカフェが近所にあったこともあり、娯楽に乏しい田舎での鬱屈はもっぱらビールで解消することとなっていった。
  その頃、「日本の電子音楽」のために、ある電子音楽の構造を解析していたことがあるのだが、技術的な問題からその解析は途中で放棄してしまっていた。今回、大井浩明さんからピアノ曲のお話しをいただいたとき、咄嗟に思い出したのがこの構造解析のことであった。そこで、音響技師の能美亮士さんの力を借りて14年ぶりに解析を再開し、その結果を転用して楽譜化したのがこの曲である。(川崎弘二)

川崎弘二 Koji KAWASAKI, composer
  1970年大阪生まれ。2006年に「日本の電子音楽」、09年に同書の増補改訂版(以上 愛育社)、11年に「黛敏郎の電子音楽」、12年に「篠原眞の電子音楽」、13年に「日本の電子音楽 続 インタビュー編」(以上 engine books)を上梓。CD「NHK 現代の音楽 アーカイブシリーズ」(ナクソス・ジャパン)における黛敏郎、湯浅譲二、松平頼暁、林光、石井眞木、一柳慧、実験工房の解説をそれぞれ執筆(2011〜13年)。2011年から雑誌「アルテス」にて「武満徹の電子音楽」を連載。2014年にNHK Eテレ「スコラ 坂本龍一 音楽の学校 電子音楽編」に小沼純一、三輪眞弘と出演。 http://kojiks.sakura.ne.jp/



ジャチント・シェルシ覚え書き────野々村 禎彦

7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作_c0050810_2054387.gif 今回のシリーズで取り上げられる作曲家は、イタリア戦後前衛音楽を代表する3人である。前衛の時代にピークを迎え、同時代に高く評価されたルチアーノ・ベリオ(1925-2003)、前衛の時代にピークを迎えたが、ポスト前衛の時代に初めて正当に評価されたジャチント・シェルシ(1905-88)、前衛の時代には本領を発揮できず、ポスト前衛の時代にようやく勘所を掴んで高く評価されたフランコ・ドナトーニ(1927-2000)。イタリアの同世代で、彼らと並ぶ作曲家はあと数人挙げられるが、ブルーノ・マデルナ(1920-73) とルイジ・ノーノ(1924-90) にはピアノ曲は少なく、シルヴァーノ・ブソッティ(1931-) とニコロ・カスティリオーニ(1932-96) の作風は極めて特殊(ピアノ曲に限れば、そうは見えないが)なので、まず彼らが選ばれたのだろう。

 3人にもう少し触れると、ベリオはブーレーズ(1925-) やペンデレツキ(1933-) のような、専ら50年代から60年代初頭のストイックな作品で前衛作曲家として記憶されているタイプではなく、マデルナや武満徹(1930-96) のように、60年代半ばから70年代半ばの豊穣な作品群で記憶されている。シェルシは、あまりに特殊なので突き抜けて普遍性に至った、クセナキス(1922-2001) に比肩する唯一の存在である。ルイジ・ダラピッコラ(1904-75) やゴフレード・ペトラッシ(1904-2003) と同世代の長老に見えるが、絶頂期はベリオと変わらない。ただし、松平頼則(1907-2001) やカーター(1908-2012) のように、ポスト前衛の時代まで旺盛な創作を続けたわけではない。前衛の時代のドナトーニは国内ではある程度知られていたがそれ以上ではなく、作曲を諦めるべきか悩み続けたが、「この年をもって、私は《ドナトーニ》になった」と自認する1977年以降はサルヴァトーレ・シャリーノ(1947-) と並んで長らくイタリア作曲界を牽引し、(作風まで瓜二つの)弟子も多い。

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7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作_c0050810_212458.gif シェルシは北イタリア沿岸の小都市ラ・スペツィアの貴族の家に生まれ、教育は専ら個人教授で身に着けた。一家でローマに移った後、彼はまず文学に興味を持って詩作に没頭し、ヨーロッパ各地を旅してジャン・コクトー、ヴァージニア・ウルフらと親交を結んだ。その後作曲も行うようになり、1930年頃から作品を発表し始める。当初は未来派の影響が強かったが、やがてスクリャービン流の作曲法を学び、30年代半ばから末にかけて、後期スクリャービン風の膨大なピアノ独奏曲を残した。この時期の作品から戦後の独自の作風の萌芽を探すのも興味深いが、本日は時間的制約の関係で取り上げない。これと並行してベルクの弟子から12音技法を学び、イタリア最初のセリー主義者になる。またペトラッシらと共同でドイツ、フランス、ソ連等のモダニズムの最先端を積極的に紹介するが、元々は未来派などの前衛的な音楽を支持していたファシスト政権が、ナチスとの関係を深めるうちにユダヤ系作曲家排斥などを通じて前衛的な音楽を抑圧し始めたため、彼の心はイタリア音楽界から離れ、第二次世界大戦勃発を機にスイスに移住した。

 スイス時代の彼はイギリス人女性と幸福な結婚生活を送ったが、作曲ペースは落ちた。祖国を離れて自らの創作を客観的に眺めると、後期スクリャービン風の即興的な素材に、音列操作で無調の衣をまとわせた程度の曲では満足できなくなったのだろう。ムッソリーニ政権は1943年7月の連合国軍侵攻でたちまち瓦解したが、今度はドイツ軍が侵攻してムッソリーニを奪還し、傀儡政権は北部山岳地帯でヒトラー自殺直前まで抵抗を続けた。ローマは1944年6月に解放され、シェルシも帰国して作曲活動を再開したが、この時彼は貴族の趣味にふさわしい決断を下した。自分ひとりで書き上げる作品に限界があるならば、自ら選ぶのは素材やイメージに留めて緻密な構成はプロに任せればよい。腕利きの演奏家を雇って試演させ、仕上がりを確認して手を入れれば、「代筆」ではなく「共同作曲」だ――このようにして作られた最初の作品が《弦楽四重奏曲第1番》(1944) であり、確かにこの曲から突然、バルトーク1番を無調にしたような密度の高い音楽に変貌している。1947年から作曲アシスタントはヴィエリ・トサッティ(1920-99) に交替し、ふたりの共同作業は20年近く続いた。

7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作_c0050810_20565391.gif これが単なる「趣味の作曲」ならば何の問題もないが、イタリア作曲界を超えて注目される存在になるとそうもいかない。トサッティとの最初の代表作、カンタータ《言葉の誕生》(1948) はISCM大会で初演され、ブーレーズとケージの往復書簡がこの作品への論評で始まるほど、国際的にも注目されていた。ただし彼らの評価は手厳しく、録音を聴いた限りでは筆者も同意見だ。12音技法自体は珍しいものではなく、共同作曲のメリットは乏しい。合唱とオーケストラという大編成になると、試演によるチェックにも限界があり、そもそもトサッティ自身の作風は極めて保守的(Youtube上の音源を聴く限り、マリピエロ(1882-1973) やカゼッラ(1883-1947) の方がまだ進歩的に思えてしまう)である。もちろん共同作曲の事実は公にはされなかったが、イタリア作曲界では既に「公然の秘密」であり、初演を指揮したデゾルミエールが《言葉の誕生》を褒めたことは、業界では嘲笑されていたという。彼はこの初演から程なく、「12音技法と自らの作風が相容れない」ために精神の平衡を崩し、精神病院で療養に入ったとされるが、主な要因はそれよりも、共同作曲に対する業界の態度と、スイス時代の妻がイタリア帰国に同意せず別れたことに由来する心労の方ではないか。

 50年代初頭、療養中のシェルシはピアノのひとつの音を何時間も弾き続け、響きの世界に分け入ることを通じて精神の平衡を取り戻したという。禅やヨガなどの東洋思想に傾倒したのもこの時期で、その影響は音楽の素材にも及んだ。作曲活動復帰第1作が《組曲第8番》(1952) であり、本日のプログラムは病気療養からのリハビリを思わせる執拗な同音反復のシンプルな音楽から始まる。彼のこの時期の「作曲」とは、ピアノの即興演奏を録音し、採譜のプロが細かく譜面に起こし、最後にトサッティがまとめたもの。その後のピアノ独奏曲ではピアニスティックなフレーズが増え、自ら譜面を書いていた30年代を思わせる瞬間もしばしば。即興演奏の記憶に基づいた作曲は鍵盤楽器の歴史とともに始まるが、シェルシ作品の特徴は即興演奏をまず録音し、記憶を介した抽象化では削ぎ落とされてしまうニュアンスまで取り込んだところにある。また膨大な同工異曲を書いた30年代とは違って、ピアノ独奏曲の作曲が安定すると、今度は管楽器弦楽器の独奏曲も同じ方法論で作り始めた。もちろん楽器が違えばピアノの手癖は通用せず、音響特性を踏まえて慎重に素材を準備する必要がある。この変化はピアノ独奏曲にもフィードバックされ、作曲作品らしい構築性が加わってくる。シェルシにとっては自分で手を動かしていないから、トサッティにとっては自分が書きたい音楽とは全く違うからこそ、素材の可能性を引き出すことに集中し、汲み尽くすたびに作曲の難度を上げて新たな可能性に挑んでゆく、客観的でシステマティックなアプローチが実現したのだろう。本日、「シェルシらしいシェルシ」が始まる曲の次に取り上げるのは、断片的でダイナミックな方向性の頂点《アクション・ミュージック》(1955) と、《組曲第8番》以降の総括を意図し、特に旋律的で瞑想的な方向性が光る《組曲第11番》(1956) であり、彼はこの2曲でピアノ独奏曲はひとまず打ち止めにした。

7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作_c0050810_20574282.gif さらにチェロ独奏曲《トリフォーン》(1956)・《ディトーメ》(1957) やピッコロとオーボエのための《リュック・ディ・グック》(1957) などを経て、ピアノ即興を素材とする作曲の可能性は極めたと見ると、彼は即興演奏の楽器をオンディオーラ(微分音を出せる電気オルガン)に切り替えた。《弦楽三重奏曲》(1958)、9金管楽器と打楽器のための《前兆》(1958)、クラリネットと7楽器のための《キャ》(1959) と、1音の微分音的なゆらぎを顕微鏡的に拡大する革新的なコンセプトを編成を拡大しながら深化させてゆく。このコンセプトを純化した、室内オーケストラのための《1音に基づく4つの小品》(1959) の豊かさの前では、同時代に一世を風靡したペンデレツキ、リゲティ、ツェルハらの音群音楽すら、児戯に思えてくる。オネゲルとマルティヌーの網羅的研究の他、スペクトル楽派(特にラドゥレスク、ドゥミトレスクら「裏楽派」)の研究でも名高いベルギーの音楽学者ハリー・ハルブライヒが「現代音楽の歴史はすべて書き直さなければならない:いまや20世紀後半の音楽は、シェルシ抜きでは考えられない」とまで主張したのは、まさにこの時期の作品に由来する。

 特に、後述する平山美智子(1923-) のための声楽曲の作曲が軌道に乗ってから数年間の作品群:《弦楽四重奏曲第3番》(1963)、大オーケストラのための《ヒュムノス》(1963)、ヴァイオリン独奏曲《クノイビス》(1964)、《弦楽四重奏曲第4番》(1964)、女声合唱のための《イリアム》(1964)、チェロ独奏曲《イグール》(1965)、ヴァイオリンと18楽器のための《アナイ》(1965)、4人の独唱、オンド・マルトノ、混声合唱、オーケストラのための《ウアクサクタム》(1966) は、各々20世紀の該当編成を代表する傑作だ。例えば《クノイビス》は、当たり前のように1弦1段の3段譜で書かれ、ある弦の持続音に別な弦が微分音で上下行してまとわりつくような、楽器の常識を超えた難度の場面が続く。しかもそれは技巧のための技巧には終わらず、緊張感に満ちた音空間を生み出す不可欠な要素として鳴り響く。この水準の奏法を全楽器に要求して譜面は最大13段に達する《弦楽四重奏曲第4番》は、彼の特異な弦楽器書法の集大成である。これらに匹敵するヴァイオリン独奏に牽引されたアンサンブルが、彗星の尾のようにゆらめく《アナイ》は、それまでの緊張の塊のような音世界に深い瞑想性も加わった、一段上のステージの作品。また合唱曲は彼にしては比較的穏当な作品が多かったが、《イリアム》はこの時期の作品の中でも見劣りしないラディカルな書法を持つ。

7/24(金)シェルシ公演(全曲日本初演)+川崎弘二新作_c0050810_20582798.gif 以上の要素がすべて注ぎ込まれたのが、彼の終生の代表作《ウアクサクタム》である。《アナイ》のアンサンブル書法と《イリアム》の合唱書法の上でオンド・マルトノが弦楽器ソロの役割を果たす(元々の素材は微分音電気オルガンである)、と図式的にはまとめられるが、マヤ文明の伝説という格好のモティーフのもと、過剰なはずの諸要素のバランスが奇跡的に取れて本作は生まれた。編成的にもモティーフ的にも、ヴァレーズ終生の代表作《エクアトリアル》(1932-34) の現代版という位置付けがふさわしい。シェルシ作品の素材になった即興の録音は、現在はある程度公開されているが、私的録音の限界はあるにせよ、その即興と最終的な作品の密度や情報量の落差は大きい。この録音を渡されてあの編成を思いつくことはまず不可能で、たとえ自分で譜面を書くことはなくても、編成を含む音楽のイメージはシェルシのものに違いない。また、いくら編成やイメージは指定されていたとしても、この素材からあの音響を引き出すことは誰にでもできることではなく、20年近く共同作業を積み重ねたトサッティならではの仕事である。実際、トサッティの作品表を眺めると、シェルシのピークにあたる時期は如実に創作ペースが落ちている(数年かけてコツコツ書く類の大作はあるが、霊感に任せて一気に書き上げる類の作品がパタッと途絶えている)。《ウアクサクタム》の達成は、トサッティにとってもひとつの区切りになり、この曲をもってアシスタントを退任した。(つづく
by ooi_piano | 2015-07-18 20:30 | All'Italiana2015 | Comments(0)

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