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大井浩明 連続ピアノリサイタル≪All'Italiana 2015≫
山村サロン(JR芦屋駅前)
予約/問い合わせ: 山村サロン http://www.y-salon.com/
【第三回公演】 2015年8月28日(金)19時開演(18時半開場)
フランコ・ドナトーニ ピアノ作品集 (歿後15周年)
ドナトーニ(1927-2000):《3つの即興 Tre improvvisazioni》(1957)(日本初演) 約20分
同:《抜刷 Estratto》(1969) 約2分
同:《韻~2つの小品 Rima》(1983) 約10分
湊真一(1965- ):ピアノ独奏のための《六花(りっか)のトッカータ 第1024番 [Toccata ricca No.1024] 》(2015、委嘱新作初演) 約5分
(休憩15分)
ドナトーニ:《フランソワーズへ A Françoise》(1983)(日本初演) 約1分
同:《フランソワーズ変奏曲(1~49) Françoise Variationen》(1983/96)(日本初演) 約40分
湊真一 Shin-ichi MINATO, composer

湊真一《六花(りっか)のトッカータ 第1024番》(2015、委嘱新作初演)

さて、今回初演される《六花のトッカータ 第1024番》は、私が以前に監修した日本科学未来館のYouTube動画「フカシギの数え方」(再生回数167万回)と深い関わりがある。この動画は、おねえさんが子供たちに「同じところを2度通らない経路の数」を教えようとして25万年の時が流れてしまうという、想像を絶する物語である。
3つの音素を組み合わせる最も基本的な和音として、長三和音と短三和音およびそれぞれの転回形を考えると、例えばCを基音とした和音はCEG/CEA/CEsG/CEsAs/CFAs/CFAの6通り存在するので、12平均律で計72通りの三和音を作ることが出来る。ここで、3つの音のうち1音だけをずらして別の和音に移動できるとき、それらの和音は隣接していると呼ぶことにする。72個の和音の隣接関係を図にすると、六角形の雪の結晶(六花とも呼ばれる)に似た美しい幾何学模様が構成される。
この図の中で、白鍵だけの和音049(CEA)と047(CEG)を、それぞれスタートとゴールに決めたとき、同じところを2度通らない経路(和音のシーケンス)は157億0282万1337通り存在する。さらに72個の和音すべてをちょうど1回ずつ通る経路が可能かどうか調べたところ、20464通りだけ存在することがわかった。(これらの計算には最先端のアルゴリズム技術を要する。)その中の1つ、1024番目の解を使って構成したのが《六花のトッカータ 第1024番》である。ひたすらに経路を数える「フカシギおねえさん」の執念を感じていただければ幸いである。初演を楽しみにしている。(湊真一)

ドナトーニ歿後15周年に寄せて───杉山洋一

その音楽家界隈の中心を東西に延びるのがヴェルディ通りで、一本南を短いポンキュエルリ通りが並走する。こう書くとどんなに美しい界隈を想像するか知れないが、実際は薄茶色か黄土色に塗られた5、6階建てのありきたりのマンションが並ぶ、変哲も色味もない郊外の新興住宅地の一つに過ぎない。こうした住宅地にはしばしば子供たちが遊ぶための緑地帯があって、ベンチが数台、水のみ場とパステルカラーの小さな滑り台やら、ゴム製のブランコなどが人口芝の上に味気なく置いてある。
ヴェルディ通りとポンキュエルリ通りの間にあるこの典型的な緑地帯が、ヴェローナ市によって「フランコ・ドナトーニ遊園 Parco Giochi Franco Donatoni」と名付けられたのは、2年前の秋2013年11月のことだった。興味があればグーグルマップでVia Amilcare Ponchielli 12, Veronaと検索してみると良い。アスファルト敷きの駐車場の傍らに「ドナトーニ遊園」がささやかに眺められる筈だ。この余りにありふれた緑地帯がドナトーニらしい。わざわざ小雨のなか、関係者を集めて命名式まで執り行われ、次男のレナートが謝辞を述べた。

生前ドナトーニはさも愉快そうに、没後2年程の間にかつて無いほど演奏されるのは有名だった証拠、没後5年で回顧展なら先ず先ず、没後10年で未だ演奏されるなら本物、没後20年で演奏されれば天才、没後50年で演奏されれば天才中の天才、没後100年で演奏されれば神掛かり、と繰返していたから、没後15年の遠く離れた日本で彼のピアノの回顧展に、満足げに北叟笑んでいるに違いない。昨年ミラノでは彼の室内楽を半年かけ相当数演奏する試みが行われたし、パルマ国立音楽院でドナトーニの大規模な学会が催されたりと、没後10年の声を聞いて彼の作品の再評価に繋がった感がある。平板な言い草だが、先入観や固定概念抜きで漸く音楽を素直に受け入れる土壌が生まれたのだろうか。

淡々とバランスや誤りに気をつけながら音を並べる。丁寧に縦を揃えて書くのは、几帳面に整頓された彼の仕事部屋や、服装に頓着しないドナトーニが髪だけは毎朝丁寧に撫で付けていたのに似ている。ルーティンは本来否定的に用いられる言葉だが、自らの存在否定によってのみ人生を肯定できる人間にとって、それは否定的な意味にはなり得ない。
そうして身嗜みを整え颯爽と愛車のトヨタを走らせると、方向感覚がなくて路頭に迷った。最近は「ワルキューレの騎行」をかけながら作曲するのが好き、と笑っていたと思えば、数分後には助手席の私に地図を見て欲しいと懇願することも屡だったが、そんな出来事すら作曲の授業に於いては、所定の路程を走らせ時間通りに着くのと、道に迷いつつ面白い発見や美食に舌鼓を打ち、何時しか目的地に到着するのではどちらが良いか、といった薀蓄に昇華された。生徒たちは当然ながら道に迷って発見と美食を嗜みたいと応えるので、彼は何時まで経ってもあの音楽院への道を覚えなかった。当時携帯電話もカーナビもなかったけれど、開始がいつも少し遅れる以外別段問題にはならなかった。

ドナトーニが長年住んだミラーニ通りの小さなアパートは、陽が差さない裏通りに面した部屋が仕事部屋で、いつも薄いカーテンが掛かっていたから昼間でも薄暗く、書架には無数の哲学書が整理され並んでいた。小さな廊下を跨いで反対側、表通りに面して小さなダイニングキッチンがあって、窓が大きかった為かそこはいつも明るかった。小さく質素な食卓脇には見事な臀部を晒した妙齢のピンナップが4、5枚壁に留めてあって、何時も彼女たちに目をやりつつ一緒にコーヒーを飲んだ。当時、そんな生活の一端一つ一つが内包する、途轍もない渇きや不条理観など分かるはずもなく、振り返ってこちらに微笑む、麦藁帽子の妙齢の背中を眺めていただけだった。
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自己否定を受容する際の虚無感と孤独は、音楽を信じられぬ程強固に、凶暴とすら呼べる程までの高みに引き上げる。恐ろしくもあったが、そこには人間の感情を異様に掻き乱す魅力がある。それについて彼に何か説明を求めても、ドナトーニ自身には、特に何の特別の感情もなく、何かを受容れ淡々と書いているに過ぎないので、書いてしまった音に対して、通り一遍の技法の説明以外は何も語る事はなかった。それを霊感と呼ぶべきものかどうかもよく解らない。
没後15年経って見えてきたのは、正にその部分だ。ドナトーニの書法が彼の音楽の魅力だという偏見は、流石に淘汰されつつある。謂うまでもなく、彼の書法はそのものは実に単純で、その部分のみを説明するのは、近代西洋言語の多くがSVOと並んでいると説明するに等しく、ほぼ意味を成さない。

「ファウストの死」の最後でファウストが天に召される壮大な舞台、天使たちの歌声、悪魔が口笛を吹いて去ってゆく姿など、どんな子供にとっても心躍る、圧巻で魅惑に満ちた体験に違いない。ただ、ドナトーニ少年が熱狂した厳めしいオーケストレーションや、どこか押し殺したような旋律、悪魔の視点から眺めた無常観に支配された舞台といい、後年のドナトーニの音楽に通じる気がする。ボーイトはワーグナーの音楽に強く影響を受けた作曲家で、ドナトーニがワルキューレをかけながら作曲していると聞いたから尚更なのだろう。ドナトーニ少年の家族は寧ろプッチーニやヴェルディを好んだ。
指揮のポマーリコとドナトーニの音楽について話した際、演奏不可能な程早い速度指定の「In Cauda II」のテンポ設定について、ポマーリコはディオニュソス的狂気が聴こえてこなければならないから、多少の犠牲を払っても極限まで早く弾くべきだと主張し、私は全ての音が明確に聴こえなければ、恐ろしさが伝わらないと応えた。彼は初めから終わりまで駆り立てられて鬩ぎつつ演奏すべきだと云い、私は少しずつ饗宴は高潮してゆき、遂には狂気に呑み込まれるべきだと応えた。メフィストーフェレとワルキューレが、ディオニュソスとは正格には対応しないだろうが、その辺りにドナトーニの音楽の本質が浮かび上るのは確かだろう。明らかに破綻した何か。自らから引き剥がされ、理知的ではない何某かが作用した結果もたらされる、原始的で直截な音。

再構成を試みた当時は、その音符一つ一つを徒に検証し、如何に論理的な解決点を見出せるかしか考えていなかった。それは間違っていなかったかも知れないが、当時自分が探して求めていたものは、音楽の本質ではなかった。
各音符はアルファベットに過ぎず、因って文章を組立てるためには一定の規則に則りそれらを並べる必要はある。アルファベットで書かれた文章を理解するなら、当然文字配列の分析で終る筈ばなく、その先の深い考察が必要だった。「プロム」の楽譜を受け取った当時20代最後の年で、その重圧に耐えるだけで精一杯だった。藁にもすがる思いで、各音符を読み取るべく躍起になるばかりで、その傍らで彼の音楽に巣食う大きな闇がぽっかりと口を空けている様など、想像も及ばなかった。
彼は生前、繰り返し書いているうちに手が規則を覚え、手が規則になると語ったけれど、今となってはそれが少し解る。自動書記的な彼の作法は、ある時から規則ではなく、古代の預言者たちが発した言葉を、誰か第三者が書き留めるような姿に変化していた。端から見れば、何も以前と何も違わないように見えただろうけれども、ここで彼の音楽の本質は自己欠如そのものであって、彼の音楽の強靭で超人間的な響きは、文字通りのディオニュソスであった。

ドナトーニが没してから我々が少しずつ理解してきたのは、そんな彼と音楽との絶望的な距離感ではなかったか。皮肉なことに、その距離感こそが彼の音楽を際立たせ、虚無の音符の裏側に、無限に広がる果てしない宇宙を映し出す。
彼の音に気持ちを込めてはならない。彼はそれを望んでいなかった。彼は目の前で音楽が紡がれてゆくのを、預言者のように無条件に受容れ、じっと観察していたに過ぎない。そして我々は、誰にも帰属しない音符の持つ恐ろしい程の意志の強さを、等しく受け留めなければならぬ。彼は確かに音楽に「明快な声を与える」ことに成功し、それを書き残すことに成功した。
時間には僅かな重さがあって、目に見えぬほど少しずつ、ただ永遠に積り続ける。
(2015年7月25日ミラノ 杉山洋一)
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