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10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会

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ブソッティ《ラーラ・フィルム》 生演奏付き上映会

10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会_c0050810_1958386.jpg2015年10月6日(火)19時開演(18時半開場)
渋谷・公演通りクラシックス (東京都渋谷区宇田川町19-5、東京山手教会B1F) 全自由席3000円
予約・問い合わせ tel. 080-6887-5957 book.k-clscs[at]ezweb.ne.jp http://k-classics.net/

日野原秀彦+大井浩明(二台ピアノ)、薬師寺典子(ソプラノ)、恩地元子(プレトーク)
Hidehiko HINOHARA+Hiroaki OOI, pianos / Noriko YAKUSHIJI, soprano / Motoko ONCHI, introduction

シルヴァーノ・ブソッティ(1931- ):《タブロー・ヴィヴァン(「サドによる受難曲」に先行する活人画) Tableaux vivants avant 'La Passion selon Sade'》(1964)〔約15分〕
 (休憩)
●シルヴァーノ・ブソッティ:《ラーラ(フィルム) - 未公表ミュージック・シーケンスによる新編集版 RARA (film), Nuovo montaggio d’inedite sequenze musicali》(1967-69/2007、日本初演)〔約70分〕

  (※)《ラーラ・フィルム》出演者・・・ Laura Betti, Carlo Cecchi, Romano Amidei (=RARA), Anita Masini, Mario Masini, Pippo Masini, Angelica Ippolito, Tono Ancanaro, Dario Bellezza, Dacia Maraini, Luigi Mezzanotte, Franca Valeri, Daria Nicolodi, Giancarlo Nanni, Maria Monti, Cathy Berberian ed altri.

10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会_c0050810_6524970.jpg  シルヴァーノ・ブソッティ(Sylvano Bussotti)は、1931年フィレンツェ生まれのイタリアの作曲家。フィレンツェの音楽院で学んだあと、パリでM.ドイッチェに作曲をまなび、ブーレーズと親しく交流し、ケージの偶然性の音楽に大きく影響された。ローマでは武満徹とも親しく交流し、武満より日本に招待され初来日したほか、武満はブソッティの誕生日のためにギターの小品を作曲しているほどだ。幼少にはヴァイオリンを弾いたが、現在はピアノをよく弾く。現在はもっぱら作曲が主だが、過去には、クラシックのオペラやバレエの振り付け、演出をよくし、自身のオペラに自ら出演し歌うこともあった。自らの絵の才能を生かした独特の図形楽譜はよく知られていて、オルセー美術館で、ゴッホの傍らに彼の作品が飾られたことを誇りとする。イタリアの左翼系インテリの筆頭だった時期もあり、現代詩人ブライバンティとひとしくゲイ文化を象徴する存在であり、作品には退廃的で甘美な官能性と肉体性があふれている。ヴェネチア・フェニーチェ劇場、トーレ・デル・ラーゴの芸術監督もつとめた。近年再評価が高く、しばしば演奏される機会が増えてきている。


10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会_c0050810_19595733.jpg日野原秀彦 Hidehiko HINOHARA, piano
 1964年熊本生まれ。東京藝術大学作曲科卒業。同大学院在学中、イタリア政府給費留学生としてイタリア・フィレンツェに留学、シルヴァーノ・ブッソッティに師事。1991年、ヴェネチア・ビエンナーレ現代音楽祭でソプラノと8楽器のための《La vecchia del sonno眠りの老婆》を発表、以降イタリアを中心に作曲活動を続けている。ブッキ国際作曲コンクール第1位(ローマ、1993)。トライエットーリエ・ソノーレ国際作曲コンクール第1位(コモ、1995)。2000年、ローマ歌劇場(オペラ座)におけるブソッティのオペラ《ティエステ》世界初演や、2007年ローマにおけるブソッティの室内オペラ《シルヴァーノ・シルヴァーノ》舞台初演等において、独奏ピアニストを務めた。





《ラーラ・フィルム》に関する一文─────

10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会_c0050810_372140.jpg Realizzato negli anni 60, R A R A (film) fu girato prevalentemente a Roma, nelle campagne romane, alle foci del Tevere o in riva al mare, è interpretato oltre che dall'autore compositore-regista dai molti amici frequentati allora, vicini di casa, già protagonisti di eventi teatrali e non, che davano vita alle "avanguardie", destinate a trascendere le cronache verso la storia. L'autore si apriva in quel periodo ad espressioni artistiche trascendenti musica, pittura e letteratura, i suoi abituali campi espressivi. Il cinematografo lo si praticava in tanti a bassissimo costo e non ci fu interprete, tecnico, operatori oppure animali di passaggio, che pretendesse il compenso materiale di qualsivoglia natura, vivendo quella rara festività come il gioco reale dell'amicizia. A loro tutti va la mia gratitudine divertita e profonda. A volte la pellicola presentava vistosi difetti che, in luogo di correggere, l'autore accoglieva con gioia. Intitolato mediante le iniziali di nome e cognome del suo compagno di allora, Romano Amidei, diventò una sigla protratta per lungo tempo in partiture musicali eseguite nel mondo e pubblicate allora da un grande editore internazionale. La predilezione è sempre andata alla proiezione muta di quelle immagini e subito ne ebbero luogo numerose, che, da Roma, si propagavano lungo i continui viaggi dell'autore e dei suoi stretti alleati. Passando da Parigi e altre città, furono raggiunti anche gli Stati Uniti d'America, dove una delle protagoniste, Cathy Berberian, iniziava con il compositore-regista un percorso destinato a divenire ben presto mondiale. Seguirono proiezioni con accompagnamento musicale generalmente interpretato al pianoforte - come avveniva per il cinema muto quasi preistorico - allargandosi a volte ad altre presenze non tanto sonore, ma certamente visive di notevole impatto, un esempio fra tutti: l'intera compagnia del Living Theater, protagonista, questa, della prima parte in bianco e nero. Altre avventure cinematografiche seguiranno e il cinematografo ha sempre rappresentato un classico miraggio, ma la composizione di una vera e propria partitura musicale è avvenuta recentissimamente. Allora la formula inventata per sottolineare l'aspetto di eccezione in quelle serate è stata: guardato al pianoforte dall'Autore. Un accompagnamento sonoro che assommi alcune voci, eventuali piccoli cori, strumenti o registrazioni dominati dal violino, che di Bussotti è stato il primissimo e spesso esclusivo strumento armonioso, nasce dunque a Bologna in occasione della proiezione dentro un teatro avvenuta nel 2007. Ritorno al cinema e desiderio dell'immagine con tutto il suo potere in questo caso davvero evocativo, è un aprire le prospettive teatrali come si spalancherebbe la finestra verso cieli futuri. Tornano in mente Ombre rosse dello scrittore fiorentino Piero Santi oppure i cinematografi estivi, che spalancavano nella bella stagione soffitti allo stellato. Le numerose stelle qui ammirabili furono il molteplice incontro che darebbe ragione alla sua nota sentenza: "la musica è un atto in mezzo a tanti, i corpi sono di più".
Sylvano Bussotti


  1960年代に制作された《ラーラ・フィルム》は、主にローマにおいて撮影された。舞台は、ローマ近郊の田園や、テヴェレ川の河口、そして海岸線。出演者は作者自身、そして当時親交を結んでいた大勢の友人達や隣人達。中には演劇界で既に脚光を浴びている者もいた。皆、慣習を超越し後に歴史を作ることとなる「前衛芸術」に命を捧げていた者ばかりである。
  シルヴァーノ・ブソッティは、当時、音楽・絵画・文学といった彼の馴れ親しんだ表現領域を超越した芸術表現へと向かっていた。
  当時は沢山の人が、本当に少ない予算で映画を作っていた。そこでは出演者であれ、技術者であれ、裏方であれ、また通りすがりの動物ですら、誰一人として物質的報酬を要求するものはいなかった。皆、友情の高尚な戯れとして、この稀に見るお祭り騒ぎを謳歌していたのである。彼ら全員に、私の浮立つ心からの深い感謝の意を表する。
  撮影に使用されたフィルムは、時に明らかな傷や汚れを呈していることがあったが、編集するにあたって、作者は敢えてその傷や汚れをそのまま映像の中に取り入れた。作者の当時のパートナー、ロマーノ・アミデイ(Romano Amidei)の姓と名の頭文字をとってつけられた題名は、その後長きにわたり国際的大出版社によって出版され、世界中で演奏されることとなる音楽作品群の表題となる。
10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会_c0050810_39922.jpg  この映像作品の上映にあたって、ブソッティは無音による上映を好んだ。撮影後すぐ、数々の上映会が催されるが、それはローマから、「マエストロ」や彼の親密な協力者達の絶え間ない旅行と共に拡がっていく。パリそしてヨーロッパ各地を通り、遂にはアメリカ合州国にまで辿り着くこととなる。アメリカでは、この映画の主人公の一人であるキャシー・バーベリアンが、「シルヴァーノ」と共に、或る活動の第一歩をしるしていた。(その活動は、それからすぐに世界的な広がりを持つこととなる。)次いで、往年の無声映画で行われていたように、ピアノの生演奏を伴った上映会が催されるが、時には、そこに他の出演者が加わることもあった。それは、音響的な存在というよりは視覚的に強烈なインパクトを与えるようなものであった。その顕著な例を一つ挙げるならば、白黒で撮られた前半部分の主役であるリビング・シアター全劇団員の生出演であろう。
  この後映像作品への挑戦はまだまだ続くが、映画芸術は言ってみれば常に蜃気楼のようなものであった。一方、本当の意味での楽曲スコアの作曲は、近年になって初めて行われた。かつての上映会において、その特殊性を明示すために提言された上映形式は、「ピアノに座った作者から見た」と表現されていた。数人の歌手、任意の小規模な合唱、複数の楽器、または録音テープ、それら全てを統括するヴァイオリン(ブソッティにとって初めての、そして唯一の調和的楽器)を含む付随音楽が生まれるのは、2007年、ボローニャの劇場で催された上映会のことである。映画への回帰、そして触発し喚起する威力を十全に発揮する映像への希求、それは劇場空間への可能性を全開するということでもあった。大きな窓を未来の空へ向けて開け放つように。夏休み、天気の良い日には、映画館の天井が満天の星空へ向けて開いた記憶が蘇ってくる。
  この映画でその姿を見せる多くのスターたち、彼らはブソッティにとって多様な出会いの集合体であった。それは、まるで彼のよく言う次のようなフレーズを具現しているようでもある。「音楽は数多の行動の中のただ一つである。肉体はもっと存在する。」

 SYLVANO BUSSOTTI (翻訳/日野原秀彦)



【2008年ブソッティ来日時の杉山洋一エッセイ】

2007年11月28日   

10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会_c0050810_201053.jpg拙宅のあるロサルバ・カッリエーラ通り向かいの停留所から、郊外に4駅ほど、ものの3、4分ほど路面電車に乗ったところ目の前の、茶色い目新しい高層アパート最上階に住んでいるのが、1月東京にゆくシルヴァーノ・ブソッティです。メゾネットと呼べばいいのか、エレベータで最上階までゆき、そこから更に階段でもう一階上がったところにシルヴァーノの玄関があります。中に入ると、イタリアらしくとても整頓された部屋に、来客用のソファーと机でできた8畳ほどのスペースがあって、クローゼットで仕切られた向こうに、アップライトピアノと大きな仕事机のある15畳ほどの仕事部屋になっています。窓の代わりに天窓があって、この部屋が大きな屋根裏のスペースを利用したものであることがわかります。1階下に住む連合いロッコ・クヮーイアの部屋とは、玄関脇の螺旋階段でつながっています。

部屋が全体にこざっぱりした印象を与えるのは、シルヴァーノ自身がものすごく几帳面で、彼「神経質なほどの整頓癖」のため、全てきっちりとアルファベット順に整理してあるからだと思います。同じようにいつも整頓されていた薄暗いランブラーテのドナトーニの仕事部屋を思い出します。シルヴァーノの部屋の違うところは、部屋中いたるところに絵や彫刻が飾られていて、それら殆どが男性器か男性の肉体美をモティーフにしたものであることです。ドナトーニは仕事部屋向いの台所の食卓前に、3、4枚ほど、女性の臀部のステッカーをペタペタ貼っていて、これを眺めてフランコは食事を摂るのかと納得すると微笑ましかった記憶がありますが、シルヴァーノの部屋はずいぶん違って、一種耽美的ともいえますが、美術品以外はこざっぱりしているので、すこし違う気もします。

客間のスペースと仕事部屋を分けるつい立て代わりのクローゼットには、彼の楽譜やレコードなどが、それは奇麗にぎっしりと整理されているのですが、木製のクローゼットの表面全体には、無数の男性の裸体の写真の切り抜きが、ぺたぺた貼られていて、その上改めて全体を彩色してあったかもしれません。「ぼくが作ったんだよ。どうだい、ちょっとした美術品だろう」と偉くお気に入りでした。

年代ものの木製の大きな仕事机も、一面に数え切れない裸体や局部の写真がひしめきあっていて、これを見ながら作曲しているのかと思うと、彼の音楽がよくわかるような気もするし、これでよく仕事ができるものだと感心もさせられます。歩いても出かけられる程の近所で気軽に遊びにゆけそうだけれど、結局日々の忙しさにかまけて、なかなか実現できません。ただ1月に日本でやる演奏会のため、シルヴァーノの音楽や楽譜を勉強している時間はかなりあって、いつも彼の部屋が頭に浮かんできます。

10/6(火) ブソッティ《ラーラ・フィルム》生演奏付き上映会_c0050810_20254669.jpgブソッティのマドリガルを東京で演奏するにあたり、歌手の皆さんが各自効率よく勉強できて、譜面を読みやすく合わせ易くするため、結局2曲ほど全部書き直すことにしました。オリジナルの楽譜は、譜表そのものがオブジェか絵のように扱われていて、たとえば「愛の曲がり角」など、まったく実用的ではないのです。自分ですべて書き直すまで、どんな曲なのか見当がつきませんでした。誰がどこを歌い次にどう繋がるのか理解出来なかったのです。正直に告白すれば、果たして楽曲として本当に魅力ある作品なのか、ただ美術品の価値のみの作品なのか、判断しかねていました。

ですから、全て書き直してゆくプロセスは、自分にとって目から鱗が落ちるような経験で、驚きと発見の連続でした。この絵にしか見えない楽譜が、どれだけ精巧に、緻密に計画され組み合わされて、丹念に書き込まれているのか、よく分かったからです。高校のころから慣れ親しんだ「ラーラ・レクイエム」など、イタリアの現代音楽に於いて将来に名を残す傑作中の傑作の一つだと思うし、彼の才能を疑ったことはなかったけれど、でもこれだけの響きのヴァラエティや音色の魅力がこの絵に詰まっているとは、想像もしませんでした。

最も基本的な音の定着は、素朴な12音に従っているようだけれど、それを膨らませるプロセスは、安易な方法論に陥らないし、とびきりのファンタジーと遊び心に満ちていて、その表面を大げさなほど飾り立てながら、元来置かれていた音の意義そのものを全く別な次元へと変容させるかのようです。それが素晴らしいと思いました。
だから、「愛の曲がり角」を例のとれば、幾ら演奏し易くても、どんなに理解し易くても、彼の書いた絵の楽譜の意義は絶対的にあって、演奏者、少なくとも指揮者は、たとえ演奏用スコアを別に作ったとしても、原曲があの美しい楽譜であることは忘れてはならないのでしょう。

これが生産的な芸術かどうか考えるのは、あまり意味があるとは思いません。単純に音楽を理解するため必要とされる煩瑣な手続きを、演奏者が実際喜ぶかどうかも別問題です。ただ、イタリアが連綿と継承してきた「マニエリスム」という言葉を思い出すとき、シルヴァーノに勝る存在はいないと合点が行くし、それだけ意味ある存在なのだと実感させられるのです。挑発的で遊び心に満ちた、でもどこか合理的な奇矯な部屋も、彼の音楽と同じだとに気がつきます。


(つづく)
by ooi_piano | 2015-09-24 19:53 | All'Italiana2015 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


by ooi_piano